水郷柳川には、かつて秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と言われ称賛された立花宗茂の柳川城がありました。明治5年まで五重の天守がありましたが火災で焼失。今は本丸跡に立つ石碑とわずかな石垣が残るのみで大部分が学校の敷地になっていたので少し残念でした。しかし、本丸跡に立ち、かつてここを鍋島勝茂の軍勢が取り囲み、その外側を加藤清正と黒田官兵衛の軍勢が取り囲んでいた光景はいったいどんな風だったのだろうか?(その時の宗茂の胸の内はいかばかりか?) などとちょっとだけ想像してきました。
城下は無数の堀割(堀川)が存在し、その街並みはとてもよく保存されており、その堀を下る「川下り」は観光の目玉になっています。訪れた日は、ちょうど「さげもん祭り」が行われていました。(さげもんとは、初節句の女子の無病息災を願うこの地方のお祭りです)。
城跡から徒歩7分の所に、立花家別邸御花(おはな)や立花家資料館があります。立花家に代々伝わる貴重な資料が展示されており、特に金兜(実物)は必見オススメです。
【余談:あまり知られていない関ケ原でのお話】
金兜をまとった西軍最強の精鋭部隊「立花軍3千」と久留米の毛利秀包を含めた1万5千の軍勢は、京極高次の裏切りにより大津で足止めされ、何とわずか1日の差で関ケ原の本戦に間に合いませんでした。かつて朝鮮での活躍を小早川隆景が「立花の3千は1万に匹敵する」と評していた事を知っている家康は、実は立花軍の到着を最も恐れていたと言う説もあり、急に深夜に赤坂から関ケ原へ移動したのは、この1万5千が到着する前に雌雄を決したかったのではないかという説もあるほどです。その後、宗茂は大坂城に行き、毛利輝元に徹底抗戦を進言するも受け入れられず、失意の内に帰途へ。すると敵中突破を果たし(島津の退き口)同じく薩摩へ逃げ帰る途中の島津義弘と船上で偶然ばったり、お互いの無事をたたえ合い別れます。
柳川に戻ると、これまた寝返った鍋島軍が城を包囲、もはやこれまでと切腹を覚悟したその時、清正が仲介し家康に助命嘆願して切腹を免れます。(清正にとって宗茂は蔚山(ウルサン)での命の恩人、ここで死なせるわけにはいきません!)。その後、宗茂は改易・浪人となるも、忠勝の進言で、陸奥棚倉1万石を与えられて秀忠や家光の御伽衆(おとぎしゅう)に抜擢されます。そして大坂の陣や島原の乱で敵の動きを見事的中、その功績を認められ再び旧領柳川へ復帰します。関ケ原の敗将で旧領に復帰したのは立花宗茂ただ1人だけです。波乱万丈の人生を歩みながらも、決して最後まであきらめなかった宗茂の物語が大河ドラマになればいいなと思いました。
最後に、柳川名物「うなぎのせいろ蒸し」食べて帰りました(とても美味しかったです☺)。
【柳川城へのアクセス】西鉄天神大牟田線「柳川駅」から西鉄バス[6]番系統「柳川高校前」下車すぐ前。
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