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カズサン

【駿河・佐野美術館】静岡県三島市 名槍「蜻蛉切」鑑賞 (2023/02/08 訪問)

 日本三名槍の一つ、本多忠勝所持の名槍「蜻蛉切」が展示されているとTVで放映され展示期限も迫って居り新東名を飛ばして出掛け鑑賞して来ました。

 展示美術館:静岡県三島市中田町1-43 佐野美術館
 展示期間:令和5年1月7日~2月12日
 展示名:乱世を駆け抜けた名刀ー戦国の動乱から徳川の時代へー
 展示名物:Ⅰ 徳川四天王の一人、本多忠勝所持、日本三名槍の「蜻蛉切」穂先が鋭く細く確かに蜻蛉が止まったら切れ落ちそう!
      Ⅱ 織田信長が長篠合戦の褒美として奥平信昌に与えた「長篠一文字」国宝の大刀
      Ⅲ 豊臣秀吉から藤堂高虎に与え、藤堂家から徳川将軍家へ献上した名物の刀「大兼光」
 展示内容: 大刀、刀、脇差、短刀、戦国の武将名が並び豪華な展示でした、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、毛利家、蜂須賀正勝、黒田官兵衛、池田輝政、前田家伝来、片桐家伝来、刀剣以外に書画、茶器、能面等約60数点以上の展示でした。
 
 久しぶりの刀剣展示会で展示物を一つ一つ順番に観て回り、観客が多く順番数珠つなぎ状態での鑑賞でした、一番の目的が名槍「蜻蛉切」鑑賞、日本三名槍は他に「日本号」「御手杵」と言われて居ます。
 鑑賞に約2時間ちょっと過ぎ、昼を過ぎましたので館内敷地にある回遊式庭園を見学し、敷地内のお食事処「松韻」で沼津港も近く海鮮も名物であり。お任せ握り寿司セットを家内と頂きました。

 写真は展示物撮影禁止の為、佐野美術館正面玄関わきに展示されて居た今回の展示大パネルを投稿し、写ってる三名槍「蜻蛉切」をご確認ください。
 佐野美術館外観、回遊式庭園の寸景、お食事処「松韻」玄関の紅白の梅盆栽を合わせて投稿します。

 この後西に拾数km程に在る興国寺城を8年振りに訪ねました。
 
 

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イタさん

佐倉千葉氏の居城 3/3 (2023/02/02 訪問)

 本佐倉城の外郭に寄ってみました。内郭の奥ノ山から南に下り、妙見神社前から向根小谷の根小谷の館に向かう。上に浅間神社があり、踏み跡程度の道があると、案内の人が言っていたが、車道を先に行き左折すれば神明大神社入り口に着く。
 入口の先に馬出の土橋、両側に堀跡が確認され、内側には土塁が残る。先には郭内への土橋・堀があり、左側には高い土塁がある。神社周囲以外は馬出同様に農地になっている。北端は崖となり台地なのが分かる。
 車道に出て吉祥寺前から根小屋の台地に上がり、細い道を北へ行くと畑地の先に森が見え出す。森に見えた場所は空堀で、横矢を掛けられる出っ張りにあたるが、木々が多く目視でやっと分かる程度。私有地・畑地の為、自由に動き回らなかったが、堀向かいの荒上地区側は行けるのだろうか。

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イタさん

佐倉千葉氏の居城 2/3 (2023/02/02 訪問)

 内郭の残り、セッテイ山西の堀・セッテイ虎口・セッテイ山・倉跡境の堀・南奥虎口・東光寺ビョウ・東山を散策。

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イタさん

佐倉千葉氏の居城 1/3 (2023/02/02 訪問)

 国史跡・本佐倉城跡案内所で戴いたパンフレットが冊子仕立で立派でした。5人程ご年配の方が案内をされていた。幾つか質問したが、的確に答えてくださった。例として「東光寺ビョウ」の名の由来は。パンフレットに記載通り、ビョウとは「突出した」と言う意味があると。東光寺がここにあった記録はなく、近くにもなく、匝瑳市(言っていたと思う)にあるが全く関係がないとのこと、等々。

 城跡はあまりにも広大で、投稿も3回に分けました。まずは、東山・東山馬場・Ⅳ郭・倉跡・奥ノ山・城山

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イタさん

並木城(千葉県香取郡多古町) (2023/02/04 訪問)

 多古城郭保存活用会さん等のHPを参考にさせて戴くと、千葉氏の家臣、飯田氏により築かれ、要衝の地であるため何度となく戦が行われたと伝わり、建武3年(1336)の千葉一族の内乱は、千田氏が籠城したが千葉胤貞により落城、康正元年(1455)の享徳の乱では志摩城に籠城した千葉氏の自害とともに落城。その後数度の戦があったが、武将名などは分からないようだ。

 城域の東、台地下に光明寺がある。案内板などの設置場所を考えると、北からの散策路が一般的なのかも知れない。西側の入口から散策を開始する。城域の大方は畑になっているが、主郭部の二重堀・土塁・虎口などが良好に残り、会の方々がよく整備されている。

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カズサン

中根氏発祥の城 (2023/02/04 訪問)

 徳川家臣として二俣城城主を務めた中根氏累代発祥の地に立つ箱柳城。

 駐車場:伊賀川に架かる日陰橋東たもとに砂利舗装であります(34°58'09"N 137°12'18"E)
 城石碑:同駐車場の西側に在ります。
 情報ガイドは古城盛衰記さんに依ります。

 登城は駐車場から南、伊賀川日陰橋を渡り集落へ直ぐに案内指示板あり、従って行くと要所に指示板、約200m程歩くと山手竹やぶ手前に箱柳城の案内指示板70m、道なりに登って行くと巨石の有る段横の登城路を通り上に、石垣の段と石が崩れた段が現れるが各段曲輪とも竹が密集林立、竹が朽ちて倒れ交錯している、道も歩きにくい、三段目位の石垣に箱柳城の案内板、更にその上が箱柳城の史跡マークですが、道まで竹の乱雑で登る気も無くなり箱柳城跡立看板の所で下城、帰りはもう一つ東の橋を渡り道に出て箱柳城山容を眺める、道を西行し道沿いの聖徳寺へ、此処に中根氏祖代々之墓の案内看板と中根氏由来解説板がある、その上の中根氏祖代々の墓にお参りする。

 歴史は、平清盛叔父忠正の七男七郎正持(2才)保元の乱(1156年)後、母に俱われて中根村に遁れ成人して額田郡箱柳村に住し、世話になった中根村を姓にした桓武平氏流れです、以来忠良まで14代400年、堂根筋6郷を治め近郷に広がりこの地方の中根姓の祖であり箱柳は中根姓の発祥の地(中根氏祖代々之墓の由来案内による)
 箱柳城跡石碑文では、正長年中(1428~1429年)中根平左衛門盛清が築城、初代盛清から8代忠良まで城主名が記されている、8代忠良の次男正照の功績が記されて、徳川の家臣として二俣城の城主となり、三方ヶ原の合戦に出陣、合戦し壮烈な死を遂げたと記されて居ます。
 この年の元亀3年10月(1572年)二俣城城主は中根正照と青木又四郎が二俣城城主一覧記されて居ます、12月には二俣城は武田氏領と成り天正3年12月(1575年)大久保忠世でまた徳川領に成ります。
 
 此処は中根氏の発祥の地!
 

 

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イタさん

千葉氏発祥とされる城跡 (2023/02/04 訪問)

 諸解説によれば、平安中期に平忠常が築き、常胤の時に千葉氏を名乗り、永く千葉氏が居城したとされる。15世紀中頃には酒井氏の勢力圏になり、特徴から16世紀中頃に土気酒井氏が改修したのではないか。天正18年(1590年)、小田原征伐により酒井氏は滅び廃城となったとされる。

 説明板のある北から入り、二の郭と三の郭を仕切る堀切にでる道が一般的なのだろうが、駐車場所を探せなかった為、城跡の南にあるお寺に駐車をお願いする。北側を歩かなかったのが心残りではある。住職さんの話では、千葉氏の時に城域から現在地に移転してきたとのこと。
 町内集会所横から切り通し道を上り、要害台に出ると西側に散策路がある。四の郭の南東下は城跡の雰囲気がある。三の郭と四の郭の間の堀は土橋に横矢がかかる。先で二の郭と三の郭の間の堀に出る。北側に虎口跡か、先は細い尾根を一気に下っている。西へ行くと南が開け先に帯郭があり、やや上がれば一の郭と二の郭の間の堀・一の郭虎口になる。虎口先は笹・杉などが多く、郭の西端に向かう道以外は踏み込めない。西端には部分的だが土塁跡らしき高まりがある。

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まーやん

城と言うか… (2023/01/29 訪問)

中世武士の居館でして、名前のまんま土居の内に囲まれている。
土塁と堀跡がはっきり残っている。
雪が積もって美しいではありませんか✨

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イタさん

主郭は福祉施設の敷地となっている。 (2023/01/31 訪問)

 説明板によれば、平安時代に東北の蝦夷に対する軍事拠点として築いたとされる。その後長享2年(1488年)、中野城主であった酒井定隆が修復入城し、以後5代・100年間に亘り上総の地に君臨した。天正18年(1580)の小田原攻めの際に、房総攻めで敗れ廃城になった、とある。
 大堀切にも思えるクラン坂は切り通しで、外房線を越えると三叉路になる。所々で小さな横穴が散見できる。どなたかの資料に横穴式墓では、と載っていた記憶がある。三叉路を上金谷へ少し入ると、単に下と台地を繋ぐ道だろうが、土橋・堀を思わせる地形がある。
 台地に出ると周囲は本丸・二の丸の大部分は福祉施設の敷地になっている。東はテニスコートになる。三の丸も畑になっているが、土橋・堀跡・土塁は確認出来る。土塁の上には貴船神社が建っている。土橋の先は民家が多く、分からなかったが馬出的な郭だったようだ。

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赤い城

気持ちいい堀底道周回 (2023/01/29 訪問)

氏家駅から徒歩で30分、勝山公園として整備されています。
さくら市ミュージアムが建つところが二の丸東郭。
その先に本丸部分が公園となっています。
まずは本丸を囲む堀底道を周回。
冬で草もなく快適に歩けます。
土塁を見上げるとかなりの深さを掘っていることがわかります。
西側には鬼怒川が流れ、天然の堀となります。
川越しに望む山々も雪をかぶり綺麗でした。
南西側には搦手の虎口があります。
土塁が食い違いになっていて良い感じでした。
二の丸南郭に登って三の丸方面にも行ってみました。
三の丸は住宅と畑になっていて間には土塁と堀が残っています。
ここの堀は藪ですが。
本丸に戻り、大手虎口を見学、と東側の空堀も歩きこれで一周。
家族連れの姿もあり、地域でも愛される公園でもありました。

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)3日目:浦添城 (2023/02/05 訪問)

沖縄の100名城と続100名城はすでに攻城済なので、今回のツアーに参加したのは未攻城のグスク攻城が目的です。
その目的のひとつ浦添城に「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で行って来ました。

浦添城は首里城以前の中山王の本城として知られており、14世紀頃に瓦葺きの正殿を中心に、堀や石積城壁で囲まれた巨大なグスクだったそうです。
しかし、沖縄戦のときに日本軍の陣地が置かれたため、米軍による攻撃にされされ壊滅的な打撃を受け、戦後はさらに石や岩盤が削り取られたそうです。
米軍による攻撃をかろうじて免れた現存城壁は修復中でした。
攻城時間は45分くらいでした。今回のツアーはここが最後で自宅に戻ります。

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)3日目:玉城城 (2023/02/05 訪問)

沖縄の100名城と続100名城はすでに攻城済なので、今回のツアーに参加したのは未攻城のグスク攻城が目的です。
その目的のひとつ玉城城に「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で行って来ました。

築城年代や歴代の城主は不明のようですが、琉球の開闢神とされるアマミキヨが築き、その子孫である天孫氏の城であったとの伝承があります。

主郭には石積があり、東側にはアーチになったハート型の石門が残っています。
城跡は本来、一の郭、二の郭、三の郭の3つ郭からなる段階状の山城だったそうです。
城壁は一の郭のみ原型をとどめており、二の郭と三の郭の城壁は、戦後に米軍が建築用の資材として搬出し破壊されたそうです。
昔は石の階段を登ったようですが、現在は木の階段がつくられています。
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)3日目:垣花城 (2023/02/05 訪問)

沖縄の100名城と続100名城はすでに攻城済なので、今回のツアーに参加したのは未攻城のグスク攻城が目的です。
その目的のひとつ垣花城に「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で行って来ました。

詳細は不明のようです。

2つの郭から形成されており、野面積の石垣が熱帯樹の中にとりまいています。
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

202302沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)3日目:知念城 (2023/02/05 訪問)

沖縄の100名城と続100名城はすでに攻城済なので、今回のツアーに参加したのは未攻城のグスク攻城が目的です。
その目的のひとつ知念城に「沖縄に残る13のグスクめぐり(クラブツーリズム)ツアー」で行って来ました。

詳細は不明のようですが、知念按司の居城であると伝えられ、17世紀松に改築された後に番所(役所)として使われたようです。
知念グスクはクーグスク(古城)とミーグスク(新城)からなっており、クーグスクはアマミキヨの頃、ミーグスクは内間大親によって築かれたと云われています。

東側にクーグスク(古城)、西側にミーグスク(新城)があり、新城のほうが石塁にアーチ型の門があり整備されています。
クーグスク(古城)はうっそうとした森の中で足を踏み入れることはできません。
北側には遙拝所、西へ進んだ先にある崖下には知念按司の墓があるようですが今回は行っていません。
知念城の駐車場は城址入口付近にあるのですが、ツアーのバスは坂の上に駐車した為、それなりにキツイ思いをしました。
攻城時間は25分くらいでした。

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POYO58

武者走り (2023/01/29 訪問)

浜松城は三の丸、二の丸、本丸、天守曲輪で構成されています。天守曲輪と本丸の間には石垣と土塁を設け、段差を作っています。その際に、攻撃手段となったのが武者走りですね。天守曲輪には南側に武者走りが設けられています。天守曲輪からは少し土手が持ってあるだけでわかりづらいですが、帯曲輪にいくと結構わかりやすいです。帯曲輪から武者走りを見てみると、先程申した通り、土塁と石垣が見えてきます。10メートルほど長い石垣と土塁でさらに2箇所ほど飛び出ているので帯曲輪に来た敵を狙うのが容易ですね。

たぶん浜松城は武者走りを見ないと特徴を掴むのが難しいと思います。とはいえ、僕も武者走りというものを本格的に見たのが初めてだったので結構印象に残ってます。浜松城に訪れたら武者走りを見るのを忘れずに。

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ぴーかる

天神山城編 (2023/01/23 訪問)

【天神山城】
<駐車場他>和気美しい森に駐車しました。登山口は北西の池のある田土口<34.849844, 134.129766>(2台駐車可能)・侍屋敷跡から1300m・北西方向河本登山口(ここはよく分かりません)あります。

<見所>巨石・石垣・堀切・曲輪
<感想>太鼓丸城からのつづき。天神山城は先の投稿通り、兄の浦上政宗と対立した浦上宗景が太鼓丸城に入城し、1554年頃から北西に位置する天神山城の普請を開始し完成までに長い年月を要します。浦上宗景は兄政宗の勢力を駆逐して浦上氏の覇権を握り、浦上氏最大勢力を広げます。家臣にとりたてた宇喜多直家が次第に勢力を拡大し、兄政宗の孫を奉じて宗家復興の大義名分で浦上宗景に反旗を翻して天神山城を攻め(天神山城の戦い)落城します。
 太鼓丸城の主郭北西隅から道なりに下って行きます。上の石門、下の石門という巨石が並んだ石門を通過し天神山城の南東端の大堀切に着きます。大堀切からまず水の手の案内(田土)の北東方向に下って行きました。途中路は切通しになっていて随所に石垣や大石がゴロゴロ落ちています。田土口の先の池から馬で水を運んでいたそうで馬越と呼ばれていたそうです。田土口近くには竈門跡か炭焼きの石積みも(当時の物かは分かりません)数か所あります。白旗城に雰囲気が似ていて私好みで興奮しました。池近くには堀のような切通し跡も見受けられます。往復1000mありますが見る価値あります。城跡はおおむね北西方向に伸びる連郭式で飛騨の丸という曲輪の段に石垣、二の丸と長屋の段、桜の馬場の曲輪壁には比較的多く石垣が残っていて探すのが楽しいです。そこから百貫井戸という井戸への道標がありますが、道は腰曲輪までで、そこから道が無くなっていて1時間探しましたが見つからずでした。城跡から吉井川方向の麓へ侍屋敷跡がありますが1300mあるので今回は行きませんでした。1時間ロスしたものの太鼓丸城と合わせてトータル4時間かかりました。見応えたっぷりの凄い城跡、百・続百名城に負けていない城跡です。

<満足度>◆◆◆

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チェブ

番外編『畠山 重忠公終焉の地』の巻き。 (2022/12/25 訪問)

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が終わってしまった翌週の事です。
横須賀市にある「衣笠城」に向かう途中の信号待ちで『畠山 重忠公終焉の地』を見つけました。
すぐに近くのコインパーキングに車を停めて散策しました。

北条 時政さんと、奥さんの牧の方(ドラマでは、りく)の娘婿と、畠山 重忠さんの嫡男 重保さんが口論になった事から謀反の疑いをかけられます。
冤罪ですが、重保さんは鎌倉で討たれてしまいました。
重忠さんは、この辺りで北条 義時さんの軍に討たれました。

交通量の多い交差点、写真⑥は信号待ちした時に写しました。
神奈川県 横浜市 旭区 鶴ヶ峰です。
交差点より一段下がった所に石碑と『さかさ矢竹』の説明板があります。
この辺は他にも、畠山 重忠公ゆかりの地があるようです。
お城Expoの時、いかがでしょうか?ちょっと遠いかな?

「我が心、正しかれば この矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」
と、矢を刺したんだそうです。
茂ってます。、、、一端、消滅したそうですが。
確かに、茂ってます。重忠さんは正しかったです。

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太田道灌の伝承 (2023/02/09 訪問)

 太田道灌が築いて、後に松平和泉守信光が修理して子の光親に守らしめたという記述が「松平町誌」にあるようです。いくらなんでも太田道灌はないでしょうと思いますが、なぜ別名太田城かなという疑問はあります。
 「松平山城そのまんま公園」から登城しました。道は、それなりに整備されていて歩きやすかった。巨岩を過ぎるとすぐに最初の堀切が現れ城域に入ります。城址は堀切、土塁、横堀、虎口、石積みなどが残っていています。桝形虎口のような地形もありました。思っていたより城域は広く遺構もそれなりに残っていて愛知県内の山城では見ごたえのある城址だと思います。城址を先まで行くと林道と思われる場所に抜けました。他にも登城口はあるのだと思います。

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侍ホリタン

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねて、高島城 (2022/07/17 訪問)

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねる旅、1日目は高島城です。諏訪湖のほとりにある高島城は、江戸期に干拓が行われるまでは湖上に突き出た形で築かれていた為「諏訪の浮城」と呼ばれ、日本三大湖城に数えられています。秀吉公の家臣日根野高吉公によって1592年から7年の歳月を掛けて築城されました。関ヶ原の戦い後は旧領に戻った諏訪氏10代の居城として明治まで続きます。
駐車場は天守西側(諏訪湖方面側)近くに10台程停めれる専用の無料駐車場あります。ここは終日開放されているようでした。運が良ければ天守展望台より富士山が見えるようです。

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カズサン

二度目で辿り着けました (2023/02/04 訪問)

 岩略寺城、長沢城と周辺、登屋ヶ根城を終えて、昨年12月11日豊川IC経由、県道334号線ルートで向かったのですが台風豪雨被害で復旧工事道路閉鎖と有り断念しましたが、今回は音羽蒲郡IC近くの県道332号線経由、ナビに雨山合戦跡石碑辺りに合わせ無事到着。

 駐車場:在りませんが石碑から東へ約150m程に雨山ダム小公園の駐車場有、トイレ完備
 登城口:石碑から西へ約60mの所に城石碑、案内指示板、雨山歩きマップ、手作りの周辺地図などが掲示されて居ます。

 車は石碑近くへ路駐し、石碑の撮影、登城口、および案内看板、マップ、周辺を撮影、丁度降りてこられたご夫妻に情報を聞き約1時間と、既に岩略寺城と周辺の探訪約4時間踏査で足の裏は傷み山頂への登城は断念、既にじゅんじんさんが一昨年の12月登城で写真投稿されて居ますのでその写真で十分満足、地元の方々による整備がされて山頂の整備、森林伐採、景観整備等が一昨年にはされて居るようです。
 時間があったら朝一発目の時間で雨山城山頂を目指したい、あちこち回っての山城登城はキツイ。
 この後雨山ダムに寄りトイレ休憩とダム堤より眺望見学。
 今回探訪のガイドと情報は古城盛衰記さんグーグルマップに依ります。
 
 

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