いのうえじょう

井上城

長野県須坂市

別名 : 井上氏城、小口山城
旧国名 : 信濃

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大城
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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:井上城 (2023/04/21 訪問)

井上氏居館(城びと未登録 長野県須坂市)から転戦。浄運寺駐車場(36.629740、138.284387)に駐車し、東の墓地の登城口(36.628307、138.284911)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、井上氏によって築かれたと云われています。
井上氏は鎌倉時代に清和源氏頼信の子頼季がこの地に来住して井上氏を称したのが始まりとされています。
鎌倉時代から南北朝時代にかけての活動は詳らかではないようです。
室町時代に入ると井上十六郷の井上政家、小柳・亘理の井上政満、長池郷の井上為信などが登場します。
戦国時代には井上氏は衰退しており、綿内井上氏が須田信正に属していたといわれています。

東西二つの峰に「大城」、「小城」と呼ばれる曲輪群があり、その二つを総称して井上城と呼ばれています。
東の峰にあるのが大城で、こちらが主郭となります。小城には時間の都合で行っていません。
路上路は急な登り坂です。設置されたロープを使って登っていきます。
設置ロープが使わなければ、下りは確実に滑って転びます。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=竹ノ城に向かいました。

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井上氏居館跡その他 (2023/04/20 訪問)

 井上城の北には井上氏の居館跡があります。この館を囲むように井上城と竹ノ城があります。
井上城の登城口にもなっている浄運寺の案内板を見ると「本堂裏手には井上氏本城の大城直下から竪堀が降っており、中世この寺地にはなんらかの曲輪があったものと考える」との記載がありました。ただ時間の都合で本堂裏手には行っていません。
少し前に竹ノ城へ行ったときに、同じ日に井上城も登城したかったのですが時間の都合で別の日に登城することになりました。山城ですが両方とも40分くらいで主郭まで行けるので2城登城しても、よかったかなと思っています。

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井上氏の詰城 (2023/04/20 訪問)

 清和源氏源頼信の子、頼季の子孫である井上氏の城です。尾根を利用した城で大城と小城からなっています。その間には三重の堀切があります。大城、小城周囲には腰曲輪もあり、一部石積みがあったかと思わせるような所もありました。大城の東西には堀切があり、竪堀も見ることができます。大城から南東には、先に述べたものも含め3ヶ所堀切がありました。

 北西部にある「井上の枕状溶岩」近くにある登城口より登城しました。尾根を登って行くので、それほど厳しい傾斜でもなく道も整備されていて比較的歩きやすいと思います。小城を経由して大城へ行くことができます。帰りは浄蓮寺へ下りましたが、こちらは急傾斜の所がありトラロープを頼りにして下りました。かなりな急坂で、こちらから登城しなくてよかったと思いました。

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トーダイ

大城と小城(曲輪群)で構成されてます (2017/09/20 訪問)

井上城は、妙徳山の麓に館、山頂に詰めの城(大城と小城)を持つ、
信濃の豪族・井上氏の城です。戦国時代、井上達満は上杉氏に味方し、
武田氏に味方した同族の須田信頼らと争い、この地を追われますが、
天正10年(1582)上杉景勝が川中島を領有して、旧領に復帰します。
慶長3年(1598)上杉景勝が会津に移封されると、達満も会津に移住、
廃城となりました。

浄運寺駐車場を利用、道標が無い登城口<36.628326,138.284703>奥
約100mの道標を右へ進むと、その後は要所に道標がある登城路で
大城→小城→浄運寺境内裏へ一周できます。堀切・竪堀・土塁跡などの
遺構が確認できます。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 井上氏
築城年 室町時代
主な城主 井上氏
遺構 曲輪、堀切、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(井上氏城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 長野県須坂市井上御堀2474他
問い合わせ先 須坂市市民共創部生涯学習スポーツ課
問い合わせ先電話番号 026-245-1400