やまだじょう

山田城

奈良県天理市

別名 : 岩掛城
旧国名 : 大和

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本郭背後の大堀切
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要らん直登で、斜面の急峻さを体感した (2024/02/11 訪問)

城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。Googleマップに麓から城域へのアクセスも点線で示されています。ぴーかるさんの投稿の「砂防ダム」も頭に入れて出撃🏍️
Googleマップの目的地に着くと、山田城の説明板あり、山麓を流れる川に砂防ダムも。なんか砂防ダムが小さいなあ、と違和感持ちつつも、状況が三点揃った上に、登城を誘う階段も。しかし、すぐに道はなくなり、熊笹をつかんでの直登に。それでも滑るし。花崗岩の山体を布目川が侵食した急峻斜面を体感できました。東の郭の下に出ました。
先人のレポート通り、本郭周囲の造りは凄いです。本郭への道はないし、直登も場所を選ばないと無理です。
砂防ダム脇を通って下山しました。麓の説明板位置は、大物の城主だった山田道安の石碑の下に立てられてたのですなあ。先人の投稿の写真もちゃんと見とくべし、そして、Googleマップは参考程度に。

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キンヤ

山田道安の城と伝わり、主郭背後の堀切が鋭くて高く見応えある城 (2023/03/19 訪問)

山田氏の居城で、戦国時代に山田道安(道安という名は初代の順貞から三代続いたとの説あり)が城主の時に、馬場城を本城として移し、山田城は支城になったとされます。
山田道安は、1569年に松永久秀と三好三人衆の戦いで焼かれた東大寺大仏の修復に尽力したと伝わります。

東郭群と西側の主郭に分かれ、その中央は大きな堀切で仕切られています。
東郭の東側には、遺構かどうか分かりませんが、笹薮の中に石積のような箇所がいくつか見られます。
東郭の南側には6条位の畝状竪堀がありますが、笹薮で見辛いです。
主郭も笹藪ですが、背後西側の堀切は鋭くて切岸が高く見応えがあり、1番の見所でした。堀切の北西側は横堀状になっています。

城は拡張の途中で山田氏が没落して未完に終わったともされます。
その拡張途中だったかもしれない西側の尾根の上に西遺構の堀切が2ヶ所見られました。

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ぴーかる

山田岩掛城 (2022/03/20 訪問)

【山田城】
<駐車場他>砂防ダム前登城口駐車場/山田公民館駐車場<34.626934, 135.937912>
<交通手段>車

<見所>切岸・堀切
<感想>山田岩掛城の築城は室町時代に興福寺の衆徒でありこの地の豪族である山田氏によって築城された。山田氏は古市氏に属し、戦国時代末には山田道安を輩出している。道安は松永久秀が東大寺を焼き討ちしたのち大仏殿再建に尽力している。道安の時代に東隣にある馬場城を築城し本城を移し山田岩掛城は支城とした。
 砂防ダム前に駐車スペースがありますが、泥っぽい駐車場でタイヤ等の汚れを気にするならば公民館駐車場がお勧めです。先達の方々の登城後に整備されたようで、砂防ダムを正面に見て右手に登城口・案内板がありすぐわかります。砂防ダムの上方を通って城跡の主郭とその下段の曲輪の堀切に入ります。下段の曲輪は整備されていますが主郭は未整備で入るのに苦労します。主郭の西側背後の堀切とそこから北と南に回し込んだ堀は深く見応えあります。主郭切岸も高く急です。主郭・背後の堀切に入るのにストック要です。

<満足度>◆◆◇

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中川藤兵衛尉

山田城 (2020/10/05 訪問)

山田氏が元々拠点としていた、福住氏領と接した城。砂防ダムの左上にあり、正規の登城路は草で埋もれています。主郭南東の曲輪群の切岸をよじ登ってみましたが、主郭自体が足を踏み入れることが出来ませんでした

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 山田氏
築城年 室町時代
主な城主 山田氏
遺構 曲輪、土塁、堀切
再建造物 説明板(岩掛城跡)
住所 奈良県天理市山田町下山田