みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

にのまる

36見附めぐり㉕(番外)~西桔橋門~

西桔橋門は36見附には含まれていないのですが、北桔橋門とともに本丸を守る重要な門で、吹上から本丸の天守台後方に通じています。
一般人がこの門(橋)を通れるのは「乾通り一般公開」の時で、坂下門から入り、乾門と西桔橋門のどちらかから退出となります。(城外に出る人は乾門へ、東御苑の散策をする人は西桔橋門へ。)
西桔橋門から本丸までの通路は古城感溢れる雅な雰囲気の坂道で、石垣には矢穴&刻印石もたくさんあります。江戸城最古の石積みとされる野面積みも見られます。
一般公開は令和元年秋以来行われていないので西桔橋もしばらく見られないと思っていたのですが、北桔橋門から乾門に向かって通りを歩いているときに小さく見えるのを発見し、きゅん♡となってしまいました。

「一般公開」「一般参賀」は中止が続いていますが、「一般参観」という宮内庁プレゼンツの楽しいイベントが継続開催されており、身分証明書があれば当日現地で申し込みできます。(開催日は宮内庁のHPで確認してね♪)一般参観で見られる門は『36見附めぐり㉗~㉚』で投稿します。
江戸城の素晴らしいところは、入場もイベント参加も全部タダ!というところです(^^♪

+ 続きを読む

ぴーかる

高砂や~♪ (2022/01/15 訪問)

【高砂城】
<駐車場他>神社前に駐車スペースあり。
<交通手段>車

<感想>加古川の河口西側に位置する現在の高砂城跡のあったと思われる高砂神社を含む一帯は近世に池田輝政が築城し一国一城令で廃城となったものです。室町時代に築城された場所は定かではないようです。境内に城跡の一部と思われる巨石が置かれていて石材も神社に使われているようです。能楽「高砂」で有名な地、相生の松や能舞台も立派なものがあって境内を一回りして終了した。縁結びや長寿のパワースポットになっていて若いカップルや女性の方が訪れていました。城跡としての満足度は低いが歴史的場所としての見所は良い所です。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

新潟城城下 古町通5番町~故・水島新司さんを偲んで~ (2022/02/09 訪問)

新潟城のシンボル・白山神社の鳥居から,日本海方向へと続くアーケード通りが「古町通(ふるまちどおり)」です。白山神社側から1番町となっており,萬代橋~新潟駅へと続く柾谷小路との交差点は,6番町と7番町との間となります。
5番町には「日本アニメ・マンガ専門学校」があり,この通りだけは「マンガストリート」と呼称されています。
新潟市出身のマンガ家で有名な方では,水島新司さん,高橋留美子さん。東京都出身で長岡市(旧・越路町)育ちでは,和月伸宏さんがおり,新潟はマンガの聖地と呼ばれてた時期もありました(←今はあまり聞かない)。
さて,この「マンガストリート」では,故・水島新司さんゆかりのキャラクターに出会うことができます。
他とは違った城下の楽しみ方を紹介します。
あらためて,謹んでお悔やみ申し上げます。

ヒロケンさん,コロナお見舞い申し上げます。
すでに,誰が感染してもおかしくない状況ですので,引け目を感じることはないですョ!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

鷲羽山と瀬戸内海、眺望良好の城郭 (2011/04/09 訪問)

 鷲羽山の瀬戸内海に挟まれた丘陵に築かれた城で眺望は素晴らしい、北には鷲羽山ハイランドの遊戯施設が見上げられ、南は瀬戸内海、瀬戸大橋、海を隔てて讃岐富士は見通せます、海側は下津井港まで崖で落ち込んで居ます、瀬戸内海を監視できる軍港、流通の港として活用も出来、絶好の城郭、選定地です。

 車は城郭北側の麓に瀬戸大橋架橋記念公園駐車場が有ります。そこを利用して遊歩道を登って西の丸跡、馬場広場に着きます。

 時期は桜満開、晴天で絶好のタイミング西の丸跡の大岩辺りから瀬戸内海が一望、瀬戸大橋の架橋、つり橋支柱塔が連なり、香川県讃岐富士も靄ってましたが確認出来ました。
 
 探訪ルート:西の丸跡、本丸間の土橋、本丸西石垣(案内の縄張図では二の丸からの大手筋に掛かる石垣とも?)、石段を登って本丸跡、北隅に天守跡石垣、石段を降りて二の丸跡、四阿と縄張図付案内板在り、三の丸跡、三の丸跡を降りて南側の細い帯曲輪上に入ると三の丸、二の丸南下に石垣が連なって伸びています、壮観です、二の丸南下は駐車場に成っています、更に西に石垣も破壊跡はあるが連なるり自動車道に出る、自動車道を東に進み、掘割へ(三の丸と中の丸間)、掘割を登り土橋へ、中の丸跡細長い、案内縄張図には東出丸が中の丸から離れて描かれて居ましたが遊歩道も無く探訪断念。
 最近の投稿写真を拝見しますと曲輪の木々が伐採され石垣など見やすく成り、景観も見通せて瀬戸内海方面も良く見える様子が窺えますが当時11年前の平成23年4月上旬は樹木が茂り景観整備まだまだでした。

 石垣編を続き投稿します。

 中の丸から各曲輪を通って西の丸へ。再度満開の桜、瀬戸内海、鷲羽山を眺めて用事の有る京都へ移動しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

寅年の信貴山詣 ~雌岳と雄嶽~ (2022/01/15 訪問)

南北朝期に楠木正成が築いたとも言われますが、史料上は室町期に畠山氏の内紛や細川氏との抗争の中、畠山氏が籠城した記録があります。戦国中期には木沢長政が恒久的な城として築き権勢をふるいましたが、太平寺の戦いでの敗死に伴って落城。その後、松永久秀が現在見られる姿に改修して多聞山城と並ぶ拠点とし、筒井氏や三好三人衆との攻防戦が繰り広げられましたが、織田信長に反旗を翻したことにより織田信忠に攻められ、久秀は天主に火を放って自刃。そのまま廃城となりました。

生駒山地南端の信貴山に位置し、雄嶽山頂を中心に南の雌岳と北半分に扇状に広がる支尾根に多数の曲輪群を配した巨大山城で、南に大和川を望み、大和国と河内国を結ぶ交通の要衝です。なお、南麓には聖徳太子創建と伝わる朝護孫子寺がありますが、往時は朝護孫子寺も城内に含まれていたようです。

寅年にちなんで、張り子の大寅で知られる朝護孫子寺にお参りがてら信貴山城に登城しようと計画していましたが、新年早々は混雑しそうなので避けて、さすがに15日なら大丈夫だろうと思っていたんですが……甘すぎました。朝護孫子寺の手前から駐車場の空き待ちの車の列が続き、何とか30分ほどで駐めることができましたが、駐車場の人の話ではこれでも三連休だった前週末よりは随分ましなんだとか。寅年の朝護孫子寺恐るべし…。

気を取り直して開運橋から信貴山城を仰いで登城開始。予定より遅れてしまったので、朝護孫子寺は下山後にお参りすることにして、大寅を横目に境内を抜けて山頂を目指します。山頂までは空鉢護法堂への参道になっていて、急坂ではあるものの舗装されて歩きやすい道が続いています。10分ほど登ると雄嶽と雌岳の鞍部に信貴山城の説明板が建てられており、まずは雌岳へ。雌岳の頂部は細長い曲輪が南にのび、南端部には虎口が設けられています。雌岳の切岸は急峻で石積みも見られるようですが、見落としてしまいました…。

鞍部に戻って今度は雄嶽へ。雄嶽の山頂が信貴山城の主郭で、松永期には天主があったとされますが、現在は信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)に由来する空鉢護法堂が建てられており、痕跡は見られません。主郭東下の曲輪には城址石碑と説明板があり、もう一段下の曲輪からは奈良盆地の視界が開けています。主郭の周囲は数段の腰曲輪や帯曲輪が取り巻いており、切り立った切岸が見られます。山頂から北に続く林道を下って行くと、信貴山城最大の見どころの松永屋敷です(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

飫肥杉の香りに包まれ 満開の紅梅と河津桜に癒された城 (2021/02/11 訪問)

飫肥杉の香りに包まれる中で、紅梅と河津桜が同時に満開に咲いている姿には、とても癒されました。

飫肥城は、飫肥藩5万石:伊東氏の居城です。
城下の街並みを抜け、ゆるやかな坂を上り(写真3)、復元された大手門(写真4)をくぐって城内に入ります。雁木のある土塀に囲まれた見事な内桝形(写真5)をぬけると、うっそうとした飫肥杉の木立に囲まれます。何とも言えない静寂な雰囲気(少し不気味)でしたが、しばらくすると杉のいい香りがとても心地よく感じられてきました。中にはパワースポットもありました(写真6)。それから本丸の飫肥城歴史資料館まで歩いて行くと、そこには満開の紅梅と河津桜が咲いていました。梅と桜が同時に咲いている姿を初めて見たので、驚くと同時に何とも言いようのない癒された気分になりました(写真1、2)。

城下に出ると、ここは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、古い町並みが実によく残っています。藩主が移り住んだ「豫章館」(写真7)、藩校「振徳堂」、「小村寿太郎の生家」(写真8)などがありました。水路には鯉も泳いでいました(写真9)。散策するにはとてもよい所です(写真10)。
日南地方は河津桜が名物のようで、他にもあちこちで咲いていました。また沿線はプロ野球各球団のキャンプで賑わっていました。

[飫肥城へのアクセス]:JR日南線飫肥駅から徒歩15分です。

【ここからは余談ですが】
薩摩の島津氏と日向の伊東氏は、1480年頃から約100年もの間、争いを続けてきました。しかし、だんだんと島津氏の勢力が勝るようになり、伊東氏は日向を追われ豊後に身を寄せます。そんな伊東氏のために日向を奪還しようと豊後の大友宗麟は、1578年約3万5千の大軍をもって出陣しました。しかし、「耳川(高城川)の合戦」で大敗し、これをきっかけに大友氏は没落し滅亡してしまいます。
一方、その後の伊東氏は、さらに逃げ延びて豊臣秀吉の家臣となり、九州征伐では道案内(先導)した恩賞で飫肥の地を取り戻し、また九州の関ケ原では最初は西軍でしたが途中から黒田官兵衛の仲介で東軍に寝返るなど、上手に世渡りして、江戸時代には徳川秀忠より本領を安堵され、飫肥の地で幕末までの280年間生き残る事ができました。
今回、落ち着いたたたずまいの飫肥城と、繁栄したであろう城下町を見て、大友ファンの私としては、あの出陣はいったい何だったのだろうか? 何とも言えない両者の皮肉な運命の違いを感じさせられた飫肥の城旅でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

36見附めぐり㉔~北桔橋(きたはねばし)門~

北桔橋門は天守台の真裏にある門です。本丸御殿側からは天守台に隠れて見えないのですが、東御苑への入り口のひとつなので城外からお濠を渡ってくると高麗門の真正面に天守台が迫り、ちょっとびっくりな光景です。本来は左折れの枡形門でその先さらに五十三間櫓などが設けられていたそうです。
桔橋はいざという時には“桔ねる”橋で、高麗門の上部に吊り金具が残っています。扉の上部の空間もはね上げのためのような感じです。

江戸城内郭で高石垣がいちばんかっこよくみえるのはこのあたりではないかと思います。こじんまりとしていながら風情のある桔橋と高麗門、両脇に続く土塀が高石垣をよりかっこよく見せてくれています。天守があったのは江戸時代初期の50年ほどですが、この場所から見上げるとさぞかし荘厳で威圧感もあっただろうと思いました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

比企城館群の一つ (2022/01/30 訪問)

東上線の東松山駅から徒歩で25分。
吉見百穴の隣にあります。
登城口から登って行くと笹曲輪があり、その上に本曲輪が位置しています。
今回は兵糧庫から岩室観音堂上の竪堀を経て怱曲輪へと歩きました。
怱曲輪には岩盤を削った二重の竪堀があります。
この時季は藪も枯れていて歩きやすいです。
曲輪4の外側にも堀切、三ノ曲輪、ニノ曲輪へと進みました。
それぞれの曲輪の間には深い堀があり、縄張りは結構複雑。
扇谷上杉氏と北条氏が戦った城は見応えのある城です。
一部藪になっているのでやっぱりこの時季に行くべきかと。
比企には他にも魅力的な城が沢山あるのでお勧めのエリアです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カルビン

[鎌倉殿の13人]関連史跡 石橋山古戦場と佐奈田霊社 (2016/10/23 訪問)

源頼朝が平清盛に反旗を翻したと思われる最初の戦いの場が石橋山古戦場となります。

およそ10倍の敵になすすべも無く敗れた頼朝はここから一旦南のしとどの窟に隠れ、この後東京湾を渡って千葉県へ無事難をのがれた
(ちっw←実は日本史上個人的に三本指に入る嫌いな人w)
訳ですが、ここで日本三大与一の一人?とされる弓の名手・佐奈田与一も戦死してしまいます。

現地には古戦場の碑、解説の他に霊堂や佐奈田与一討死の標柱、そしてその与一を祀った佐奈田霊社があります。
丁度JR根府川駅と早川駅の間にあるのでどちらからでも時間は変わらないかと。
(一応佐奈田霊社の駐車場があるので車でも訪問出来るかと)

この辺までが鎌倉殿の13人で放送された場所で、次回は房総半島に逃げた頼朝のエピソードになるのでは?と思ってます。


大河を追いかけるように投稿するつもり・・・とか書いておいて、実際のところ他には次回放送すると思われる周辺のネタしか無いんですけどね(苦笑)
頼朝落馬乙の地もまだ訪問していないので、放送前にはコロナ収縮して行けるといいな~(汗)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

刑部

平将門の城? (2022/01/30 訪問)

通りの入口に平将門の城と案内されているが本人に関係あるのか不明ですね?
ここは、公園なので子供連れで楽しんでる人が多いですね。
でも奥の方は遺構がかなり整備されて見やすくなっています、所々に案内板がありわかりやすい。障子堀もあったらしいですが今は普通に堀切になっていました。この城は連郭式の城かな?水系に囲まれた半島の先が本丸でした。今は畑や公園でわかりませんが・・・。結構見所ある城址でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

埋門横の濃ミツバツツジ今は無く (2011/03/29 訪問)

 天守曲輪埋門横の石垣上端に濃い目のミツバツツジが植わって居ました、そのミツバツツジと八幡台下の染井吉野桜と天守閣南西角を狙ってミツバツツジが咲いてる時、染井吉野桜が咲いてる時を上手く合わせながらワンショットを撮るのを長年やって居ましたが、ミツバツツジと染井吉野桜の開花の時期が少し違いますので中々撮れますん。
 私の城びとプロフィールのアイコンはこのショットを使っています、11年前の平成23年3月下旬染井吉野桜開花が遅く、濃い目のミツバツツジ、日本庭園の枝垂れ桜、これは早咲きで満開、日本庭園も開園が昭和末期でしたから樹勢が弱り咲く枝垂れの姿が変形気味。
 これらの写真を投稿します。
 
 現在埋門横石垣上のミツバツツジは平成28、29年頃の本丸曲輪内の発掘調査時に撤去されたようで無くなって仕舞いました、この発掘調査では南東角に二重櫓跡の発見と言う大きな成果も有りました。
 この成果で駐車場から浜松城中心に進む途中に浜松城解説案内板があり、堀尾期の浜松城想像図の天守曲輪南東角に二重櫓が描かれています、ご参考までに。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

モト

続百名城だけあって (2021/05/06 訪問)

比較的整備されて歩きやすくなっている城跡でした。
それでもさすがは続百名城、雰囲気がありました。
本丸跡に碑が建っていたり、登って行く際にいくつかの門跡などもあります。

登る道は二通りくらいありましたが、登った道とは別の道の途中にあった石垣跡にテンションがあがりました。
崩れたり土に埋もれてか残った範囲も限られたりとかなり目立たなくなったその石垣になにか往時のことを想像しながら眺めて帰りました。

近くの小学校には移築門があるようです。
ぜひ次はそこも行きたいと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

半分だけでも (2022/01/15 訪問)

室町期に在地土豪の椿井氏が居城として築いたとされ、松永氏のもと信貴山城の出城となったとも、松永氏滅亡後には嶋左近の居城となったとも言われますが、詳細は不明です。

矢田丘陵南端の南北ふたつのピークを中心に連郭式に曲輪群を配した山城で、北郭群が主城と考えられますが、北郭群は遺構保護のため見学路が整備されるまで進入禁止になっています。

道の駅の第二駐車場に駐めさせてもらって登城開始。東側に聳える山並みが椿井城のようです。登城口までは10分ほど歩きますが、あちこちに案内標識があって迷う心配はありませんでした。登城口は、地名の由来であり聖徳太子ゆかりの椿井井戸側と椿井春日神社側の二つあり、北郭群と南郭群の間の鞍部に続く椿井春日神社側が大手道にあたります。なお、椿井春日神社境内の西隣には宮山塚古墳と呼ばれる円墳がありますが、墳丘から大手口まで土塁が築かれ、墳丘は削平加工されて、大手口の防衛施設となっていたようです。

大手口から登ること約10分で鞍部に到着。北郭群側には進入禁止の案内表示と柵が設けられていますが、笹藪と化していて整備している様子は窺えません。鞍部から南に数段の曲輪を抜けると南郭群の主郭です。主郭には椿井城ののぼり旗がはためき、西側には平群谷と生駒山地の眺望が開けています。説明板によると主郭東下には石積と竪堀があるようですが、笹藪の中でよくわかりませんでした。主郭の南端には土塁があり、土塁の脇から下りて行くと副郭との間を隔てる深い堀切が設けられています。副郭には新しい説明板(2020年12月)とのぼり旗が建てられ、南端の浅い土塁の先には堀切と土橋があります。遺構保護のためか滑り止めか、土橋に人工芝が敷かれているのは残念ですが、土橋は細く両側は鋭く落ち込んでいて怖いほどでした。南郭群はここまで。土橋を渡って登城道を下って行くと山麓に宮裏山古墳があり、そのすぐ下が椿井井戸登城口です。

何年か前から北郭群の整備が済んだら訪れようと様子を見計らっていましたが、なかなか進展が見られないので、しびれを切らして来てしまいました。南郭群だけでは規模的に少々物足りなくはあるものの、眺望は良く、堀切は深く鋭く見応えがありました。説明板によれば発掘調査は済んでいるようなので、これからいよいよ北郭群の整備が進められるんでしょうけど、以前は登城道すらない藪の中の城だったのがここまで整備されたんですから、気長に待つことにします。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ばばよ

建物復元しないかな (2021/07/11 訪問)

石垣のない近世城郭。馬出し空濠有名ですね。
資料館は規模は小さいですが、復元模型や古写真が充実。
天守は古河城三回櫓建地割図を基に作られたのではないかとか。
公園自体は空濠や本丸の土塁に城跡をどうにか見出せる程度ですが、資料は多いので色々復元できそうな雰囲気はありました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

2021年の城納め・手打麓(鹿児島県薩摩川内市下甑島) (2021/12/29 訪問)

予定では里港周辺を徒歩散策するだけの予定でしたが、急遽レンタカーを借りて下甑島を目指すことにしました。2020年8月に鹿児島県で一番長い橋甑大橋が開通していました。甑島が1つにつながったおかげで日本遺産「薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~」の構成資産・手打麓まで脚を伸ばすことが出来て満足です。此処が2021年の城納めとなりました。

津口番所跡はパスしてしまったので、いつか、甑島は再訪したいと思います。やはり、断崖絶壁の絶景は青空の下で楽しみたいですし、ナポレオン岩も見てみたいですので。今回、かごしまらくめぐりキャンペーンで甑島にて2つのスタンプをゲットし、レンタカー料金が2000円引きとなりラッキーでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

Ohmi_jin

昔の写真

初めて車で行った記念すべき城です。

+ 続きを読む

赤い城

整備されて堀底道が歩けた (2022/01/30 訪問)

東武東上線の森林公園駅から徒歩で25分。
まずはラブホテルの背後に空堀と土塁がありました。
古ぼけた標柱も立っているもののこの時季でも藪でした。
ここは再訪なのですが前回は夏で結構な藪でした。
今回はこの時季だからというか結構整備されていて深い堀底道を歩くことができました。
郭内は畑で高い土塁が囲んでいます。
扇谷上杉氏がここに陣を置いたとの記録もあるようです。


+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しらさぎ

三方の馬出が特徴 (2021/09/19 訪問)

主郭の石垣以外にも東馬出や南馬出が残っております。
南馬出は未整備状態ですが高土塁が確認できますし、大手馬出も名残は確認できます。
周辺には武家屋敷通りも残っており、何件か内部も見学できますので飽きることはないかと。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ばばよ

竹林と空堀と (2021/05/22 訪問)

竹林の立派な山城。
規模は大きくなく、回れる場所も限られてはいますが、急峻で空堀もしっかりした衛りの城でした。
訪問した日も整備されてる方がいらっしゃいました。感謝。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

藪を抜けた先には… (2022/01/15 訪問)

富雄川西岸の尾根の先端に位置する丘城で、詳細は不明ながら、室町期に筒井氏の傘下にあった小和田氏が築いたとされます。

北麓の大和田集落のため池近くの道幅が広くなったあたりに路駐して登城開始。先人の投稿を参考に北西側からアプローチするも防獣柵の扉を見つけられなかったので、縄張図であたりをつけて倉庫の背後の藪に突入。藪を抜けると北西部の池が広がっていました。

池の東側には主郭北辺の横堀が東西にのび、東端で折れて南(東辺)に続いています。横堀は幅も深さもあり、なかなかのものです。主郭北辺の土塁はかなりの厚みがあって、土塁上の北辺をさらに低い土塁がめぐり、中央部は櫓台状になっています。主郭西辺にも土塁がのび、土塁の外は西尾根を遮断する堀切になっていて、土塁が途切れたあたりに土橋が見られます。ここが虎口だったようです。

土橋を越えて西尾根を進むと廃屋があり、その先の防獣柵の扉から出ようとしましたが、内側から探してもやはり扉は見つけられず、やむなく主郭まで戻って藪を抜けて城を出ました。全く整備されていませんが、その分遺構は状態良く遺っていて、諦めずに藪を突破した甲斐がありました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ595