とことん飯盛城(千畳敷郭周辺)
(2023/02/11 訪問)
南北朝期に四条畷の戦いの陣城となっていますが、本格的な城郭としては戦国中期に木沢長政による築城が始まりで、太平寺の戦いで木沢長政が討たれると安見宗房が城主となり、戦国後期には安見宗房を敗走させた三好長慶が芥川山城から居城を移して現在見られる形に改修しました。三好長慶の病没後、織田信長の上洛によって三好氏から畠山秋高の城となるも、信長の河内平定に伴って廃城となったようです。
河内・大和国境となる生駒山地北西部の飯盛山頂部に位置する城で、発掘調査により多数の石垣だけでなく瓦や礎石建物の存在が確認されており、天下人・三好長慶の居城に相応しい先進的な城だったと考えられます。西麓には東高野街道が走り、大和川水運にも接続する水陸交通の要衝でもあります。
さて、この前週に輪中の城めぐりをしていますが、ほとんどが明瞭な遺構の見られない城だったこともあり、今度は見応えのある城に行きたい! ということで、続100名城の飯盛城にやって来ました。当初は野崎観音側から野崎城を経由して歩いて登るつもりでしたが、下調べで山頂手前に登城者用の無料駐車場が設けられていることを知り、登城道沿いに特に遺構がないのなら…と車で行くことに。阪奈道路を生駒側から向かったため分岐を行き過ぎてから折り返す必要があったり、分岐の先も対向困難な細道だったりはしたものの、キャンピィだいとうの少し先の駐車場から登城開始です。
駐車場からしばらく舗装道を進み、途中から山道に入っていくつかの削平地を抜けると虎口に行き当たります。虎口の両脇は石垣で固められ、東下には数条の巨大な竪堀が落ちていました。虎口の西上には南北三段の南丸があり、虎口に至る登城道を見下ろす東辺に土塁が設けられています。南丸の南西麓には畝状空堀群がある…はずですが、笹藪に沈んでいてよくわかりませんでした。
南丸の北側の広い曲輪を抜けると千畳敷郭に至ります。千畳敷郭は南北二段の城内最大の曲輪で、発掘調査で礎石建物や土師皿が出土しており、居住空間だったと考えられています。上段にはNHKやFM局の送信所が建てられており、北側は整備用の舗装道により改変されているものの虎口らしきものも見られ、南西辺には土塁が続き、南西下の尾根道は土橋を設けた堀切で遮断しています(ずいぶん笹藪に覆われていますが)。千畳敷郭北下の鞍部は高櫓郭との間を分かつ堀切となっていて、道路の改変は受けつつも東西両側に竪堀の痕跡が見られます。
なお、千畳敷郭の東下には馬場と呼ばれる曲輪があり、現在は楠公寺の敷地になっています。馬場北西の舗装道東下にはわずかに石垣が見られました。
(続く)
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