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イタさん

関東管領上杉氏の関連が多い地区 (2023/01/12 訪問)

説明板の概要は「永享10年(1438)の永享の乱に際し、関東管領山内上杉憲実が、長尾忠房に命じ築城させた説と、応仁元年(1467)に上杉顕定が築城したとされる説がある。天文21年(1552)、後北条氏に攻められ落城するまで、関東管領山内上杉氏が居城としていた。
 構造は「庚申堀」と称される堀をめぐらし、西平井の村落を取り込んだ「惣構」と呼ばれる構造で、城域の南端部の鮎川左岸の崖の上に、土塁・堀によって区画された通称本丸(主郭)があり、西側に二の丸・笹曲輪(副郭)が配されている。
 平井城の背後には有事の際の「詰の城」として金山城を配し、周辺は国人・配下の武将が築いた御嶽城(金鑚神社近く)・東日野金井城・一郷山城・東平井の砦・飛石の砦などの多くの城や砦により守られていた。」と記されている。

 道路に面して土塁が見えれば、その周辺が城域になる。説明板に拠れば、道路は本丸と二の丸を隔てる堀跡だったようだ。土塁の内側が主郭(本丸)だが、豚舎など私有地が多く改変されている。駐車場西側に、御影石の「堀跡」・「土塁跡」の標柱がある。単に数メートル離れ並んであるので、位置関係がよく分からない。
土塁は復元整備されたもので、本丸東に小さな郭があり、境に堀と木橋が復元整備されている。郭内に竪堀と表記をするコの字型の石積があるが不自然さを覚えるが。北には溝程度の堀跡などがある。
 車道を歩いていると幟や案内板があり、三の丸と総郭の境、総郭跡などを標示しているが、遺構はほぼ無く民家や畑地になっている。二の丸北の堀跡と思える狭い道を西へ行くと、南に続く溝があり二の丸西の堀跡と言われる。

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カズサン

【遠江・引馬城】静岡県浜松市 浜松城古城 (2023/01/12 訪問)

 浜松城に令和5年初の登城をして浜松城古城引馬城に東照宮がありますのでここにも初詣と寄りました。
 引間城は浜松城公園駐車場から国道152号線を越えて東に樹木が茂った小高い所が浜松城古城引馬城跡です、引馬城は曳馬城、引間城とも呼称されて居ます。
 
 引馬城は今川氏時代飯尾氏が治めており、現在の5月浜松凧合戦祭りは飯尾氏の長男誕生を祝う凧揚げが発祥と伝わって居ます、城域の構造は三方ヶ原台地の南側先端の北東に突き出した丘陵に田の字のように曲輪を4ヶ所設けて堀で夫々囲み、特に東側の堀が大きかったようです。(古地図絵図を見ると)
 虎口で有名所は引馬城の北口に当たる玄黙口(元目口)です、ここは三方ヶ原合戦で家康が命からがら逃げ込んできた虎口として有名です、その前には北東約500m程の所に在る八幡神社楠の木のむろに潜み難を逃れ、更にその前には敗戦を心配し駆け付けた夏目次郎左衛門が家康の身代りと成り、現在布橋犀ヶ崖資料館の近くに夏目次郎左衛門の石碑が立って居ます、尚夏目次郎左衛門は明治の文豪夏目漱石の先祖との事。
 もう一つの虎口は引馬城の東口に当たる霜垂口(下垂口)食違い虎口と成って居り、浜松城に取り込まれたましたが江戸期以降も東口の一つとして下垂口として残りました。

 現在は四曲輪の内北西に当たる曲輪(本丸)に明治期に元城町東照宮が勧進されて居ます、元城町集会所、解説板、城名石碑も設置されて居り、平成26年頃発掘調査もされて、周辺の土塁、家康時代の遺物も発見されても居ります、その後同地に二公像(若き日の家康、松下家に仕えた時代の秀吉)が据えられています。出世の街浜松の宣伝かも像の間に入り写真を撮って居るようです。出世を願う方はどうぞお越しいただき写真撮影を!
 堀は道と成り他の曲輪は住宅と成り開発されて居ます。

 元城町東照宮初詣で久しぶりに引馬城跡を散策しましたので撮った写真を投稿します。
  

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橋吉

40分間の登り (2023/01/06 訪問)

本郷生涯学習センターで、新高山城や高山城,小早川氏に関するパンフレットと続日本100名城を得ることが出来ます。

生涯学習センターから2km、登山口近くに無料駐車場があります。

新高山が目前にそびえます。
川を挟んで向かいには高山が見えます。

鐘の段→番所跡→匡真寺跡→中の丸→本丸→詰の丸へ→釣井の段→ライゲンガ丸→(再度)中の丸→石弓の段→北の丸
とまわりました。
中の丸までは40分間の登り、それ以降は尾根部分にあるので移動は楽でした。

所要時間:1時間45分

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todo94

城びと登録の山梨の城コンプに立直 (2022/12/17 訪問)

日帰り山梨ドライブを企図した理由は、石和WINSにて毎年購入しているJRAカレンダーを購入するためです。競馬歴は2023年で30年になりますが、その間、全く値上げされず今でも1000円のままのカレンダーは卵以上に物価の優等生と言えるでしょう。折角、山梨に赴くのだから、この機会に城びと登録の山梨県の城をコンプリートしてしまうことにしました。上野原城は、中央道によって主郭が大きくえぐられてしまっています。稲荷神社に説明板があります。中央道の対岸にも削り取られた主郭の残骸が残っているようでした。

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トク

⑨【関ケ原の26人 】(4)織田秀信 (織田秀信と岐阜城) (2022/11/30 訪問)

(4人目)は「織田秀信」です。
関ケ原当時の居城「岐阜城」を訪れてきました。

岐阜城と言うと、織田信長や斎藤道三の名前が浮かぶ方が多いと思いますが、私はあえて織田秀信の気持ちで登城してきました。

織田秀信と言えば?・・・そうです! 幼名「三法師」、あの清州会議で担ぎ出された織田信忠の忘れ形見です。この時20才になり岐阜城主となって美濃を治めていました。家臣領民からの評判もよく、さすが信長の嫡孫と言われていたそうです。

1600年8月23日、福島正則・池田輝政による岐阜城攻めが行われました。西軍についた秀信は善戦むなしく岐阜城はわずか1日で陥落してしまいます。特に輝政は以前岐阜城主だった事もあるため、岐阜城の弱点は知り尽くしており、落とすのは容易だったようです。

そして正則や輝政は勝利するも、さすがに偉大なる元主君(織田信長)の孫である秀信を殺すことはできず、家康に助命嘆願し高野山へ送られたそうです。しかし高野山は祖父信長に迫害を受けた事を当時いまだに恨んでおり、今度は逆に秀信は迫害を受け、耐えかねて下山するもそれが原因か病となり麓の寺で生涯を閉じたそうです(享年26)。織田家嫡流の血はこれで絶えてしまいました。

私は岐阜城の天守に立ち、大垣や関ケ原方向を眺めてみました(写真⑦⑧⑨)。織田秀信はこの戦に勝てば、美濃・尾張二か国(父信忠と同じ50万石)を石田三成から約束されていたため、これにより織田家の再興を夢見ていました。しかし、頼みとしていた三成の大垣城からの援軍も来ず、どんな思いでこの岐阜城から大垣城を眺め、そして敗れていったのでしょうか? そして高野山では、偉大な祖父信長の孫であったために迫害を受けた自分をどのように思い、そして亡くなっていったのでしょうか?


【余談】信長どて丼
展望レストランがあったので大垣・関ケ原方向を眺めながらゆっくり食事をとりました。「信長どて丼」なるものがあり食べてみました(味噌味のもつ煮込み丼でした)。ビールによく合い、とても美味しかったです😊(写真⑩)。

次は(5人目)へ続きます。
 

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侍ホリタン

浅井三姉妹誕生の名城を訪ねて (2022/05/02 訪問)

登山道は戦国ガイドステーション近くの「出丸入口」もしくは小谷城戦国歴史資料館近くの「追手道入口」が一般的です。いずれも番所跡で合流します。駐車場は前述のガイドステーション、歴史資料館に無料駐車場あります。それと番所跡に数台停めれる駐車場ありますが、GW中、9月の指定日、11月の指定日は駅から番所跡までのシャトルバスが運行されるので一般車両は入れません。 山王丸から大嶽城跡に行かれる方は、一旦下って上る形になり傾斜がきついので体力に自信のある方にオススメです。御城印、スタンプは歴史資料館内にあります。

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赤い城

高沢城 茨城県常陸大宮市 (2022/12/30 訪問)

国道293号線沿いに駐車場と説明板があり、すぐ近くの案内板から脇道に入っていくと赤い鳥居があります。
そこから直登気味に登って行きました。
登ると曲輪があり、尾根道を更に登って行きます。
主郭手前に堀切があり、両サイドは竪堀となり落ちています。
その先が主郭。
主郭の周りを帯曲輪が囲んでいました。
帯曲輪の西側には空堀があり、竪堀が何条か落ちていました。
見どころは何と言っても北西側の二重堀切。
主郭側の一条にはクランクが入っています。
この城も那須氏に対しての最前線の城だったようです。
高沢向館と続いていますが時間の都合でこの日は断念。
常陸といえば堀底道ですがこの辺りの城は一味違うテイストも入っていました。

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にのまる

城碑がかわいい😀 (2022/12/30 訪問)

黒崎から直方までは筑豊電鉄でも行けますが18きっぷを持っていたのでJRで行きました。

◇雲心寺
直方陣屋跡である多賀公園に向かう途中、雲心寺の看板に「直方藩主黒田家塔所」とあったので寄ってみました。
直方藩(東蓮寺藩)初代藩主黒田高政(黒田長政の4男)、之勝、長清と、高政に殉死した四名が祀られていました。遠く江戸で亡くなり遺髪を当地に埋葬……切ない🥲
二代・之勝の正室二人(中津藩主の息女で姉妹)の五輪塔もありました。

◇多賀公園
「直方城址」の城碑がありました。手書き風でカワ(・∀・)イイ!!
城びと登録名は「直方陣屋」で、現地説明板は「直方藩主館跡」。←これがわかりやすくていいです。
山頂というほどの山ではないですが、てっぺんの平場は公園(多賀児童遊園地)で、誰もいないと思ったら猫が一匹いました。
筑豊といえば炭田。年末で休館でしたが、隣接する石炭記念館に行ってみたくなりました( ..)φメモ

◇西徳寺
直方駅の正面のお寺です。
藩主館の門を移築したと伝わる山門と福岡城の梵鐘があるとのことでしたので、帰りに見に行きました。駅舎を見下ろす薬医門は修復が施され現役続行。大関魁皇像とともに駅前のシンボルのようにも感じました。梵鐘は吊るされていない方が福岡城のもの。鮮明に写せませんでしたが、“筑州福岡城楼鐘”の文字が見えます。貝原益軒の銘文だそうです。

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ぴーかる

今田氏館 (2022/12/11 訪問)

【今田氏館】
<駐車場他>館跡石垣前に専用駐車場<34.666559, 132.503593>あり。
<交通手段>車

<感想>1泊2日萩・浜田の旅、ラスト5城目。現地案内板によると今田氏館は背後の山城の山麓居館で山県一族今田氏の拠点であったが、戦国初期に今田氏が没落すると吉川経高が継承しました。吉川元春が吉川氏を相続してからは日山城の支城の役割を担ったそうです。
 到着時間が日没前だったので山城の登城は断念し居館跡のみにしました。石垣の残る郭の上部は田んぼになっており民家もそばにあるのであまり入り込むことも出来ず正面の石垣のみ拝見した。石垣前に廃棄物がいくつか放置されていて環境があまりよくなかった。石垣の残る郭の北側に「こぶしの名水」という湧き水がありそこから山城に登城できます。そこの道路を挟んだ場所にも駐車場があります。寸志を払って湧き水をいただきました。非常にいい水でした。一つ納得できないのがここは山城も山麓居館も両方城びと登録されている、これまで巡った山城には城びと登録してもよい程いい山麓居館跡がいくつもあったのに、ここだけ何故?って思いました。
 今回の旅は2日目は朝一に浜田城、残り時間にこの山県郡の城びとの城集中ゾーンをいくつか攻略しようと思っていましたが、午前中の雨で浜田城⇒アクアス(水族館)⇒山県郡の居館跡巡りで終わってしまいました。近いうちにこのゾーンの山城攻略を行ないたい楽しみを残し終了した。走行距離1050㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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todo94

奈良の城めぐり⑪(西宮城)⑫(下垣内城) (2022/12/11 訪問)

平群中央公園が下垣内城ということで、細い道を進んで公園の駐車場にたどり着きましたが、この駐車場や冒険広場、古墳のあたりは西宮城というのだそうです。大規模な堀切の先のグランドや小高い丘の四阿あたりが下垣内城。四阿の中にとても読みにくい銅板の説明板がありました。本当は近くの椿井城に転戦するべきだとは思ったのですが、折角近くまで来たので19年ぶりの法隆寺を優先してしまいました。1500円は高いと感じる方も居るかもしれませんが、ディズニーランドよりよっぽど楽しめる国宝のテーマパークですので私は破格の安さだと思います。8時台の法隆寺は観光客が少なくとても快適でした。隣の中宮寺が法隆寺拝観での割引料金で500円はちょっと高いかもしれません。というか、鹿苑寺の値上げのニュースが最近ありましたが、鹿苑寺金閣が400円というのが破格すぎるのだと思います。法起寺、中宮寺跡、吉田寺と斑鳩を満喫してから、奈良マラソンの交通規制を避け、帰路につきました。

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にのまる

黒田六端城めぐり② (2022/12/30 訪問)

若松城最寄りの戸畑駅から4駅10分で黒崎駅に到着。
近いのはありがたいけれど、18きっぷの元がとれたかどうか…^^;
黒崎城は「城山緑地公園」となっていますが、駅に降り立つとすぐに“あの山にちがいない!”という小山を見つけることができました。
ただ、改札口の反対側だったので、線路の向こう側に行くのに少し迷いました。

城山の麓の広場には黒崎本陣跡の説明板やいくつかの石碑があり、城石村開作成就の碑について江戸時代の堤防工事の際に城山の石垣を運び出したことなどが記されていました。江戸時代は資源リサイクルがあたりまえの時代。廃城後の石垣にも新たな役割が与えられ、活用されたということなのだと理解しました。

ここから石段と坂道を上って、黒崎城址入口に到着です。
しかしそこにあったのは「樹木剪定のため立入禁止」のバリケード。
城址を目の前にして撤退せざるを得ないのは残念な気持ちもありましたがメンテナンスしてくださるのはありがたいこと。ギリギリのところから撮れるだけ写真を撮り、次回のお楽しみとしました。
そして長崎街道黒崎宿の名残のある通りなどを歩きつつ駅に戻りました。東構口のあたりは城の南側の堀を埋め、城下町から宿場町として整備されたとありましたので、堀跡のようです。

黒田六端城めぐりと銘打ってみましたが今回はここまでで、あっという間に中断です(・_・;
次回の帰省時に時間が取れれば黒崎城再訪から続けようかと思います。

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赤い城

檜沢城 茨城県常陸大宮市 (2022/12/30 訪問)

駐車場から川を渡って少し登っていくと登城口の案内板があります。
まずは畑になっている居館跡、ここから登って行きます。
さらに登っていくと曲輪群や堀切が残っています。
主郭には説明板があり、まずは南側に進んで行きました。
下っていくと竪堀が4条、素敵です。
主郭の下を進んで行くと見どころの二重堀切です。
下から見上げるのは圧巻です。
ずっとみていられる感じ。
堀切を直登し、上からも見下ろします。
ここから古城に尾根道を登っていくと結構な急坂でした。
山頂部には小さな曲輪があり、北西に降りると堀切。
南側に伸びる尾根にも堀切が三条切られていました。
この城、発見されたのは結構最近らしいです。
これだけの城が長い間眠っていたなんて驚きでした。

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イタさん

小規模ながら時間をかけて探索したい (2023/01/10 訪問)

 案内板説明を抜粋すると、「城跡は高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域、南は市野川流域を一望でき、近くに鎌倉街道上道が走る。戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあり、交通の要衝を押さえていた。
 細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本郭と、北に連なる三つの主要な郭により構成され、土塁と堀切により画されている。
 文明12年(1470)の太田道灌書状写「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころ城が整備された可能性がある。長享2年(1488)山内・扇谷両上杉氏の高見原合戦は、この麓の高見・今市付近で行われたと考えられている。
 また江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えている。「関八州古戦録」によると、天正18年(1590)の秀吉の関東平定の際に、鉢形城主北条氏邦の家人が籠もったが、戦わずして鉢形城へ逃げたと言う。」

 四ツ山(四津山)の東麓に参道があり、入口横に駐車場がある。しばらく行くと石段となり、石段手前を左に行けば犬走り・腰郭方面の標識がある。石段を上れば右に折れ、その先に小さな郭状の平地があり、石製の不動明王尊像が奉られている。案内の図に腰郭と載る。奥に続く道は女道と標識がある。
 再度石段があり途中の右手に狭い平地がある。上り終えると本郭で西隅に社殿が建っている。社殿右手から奥にかけて土塁が残り、土塁には欠けた部分があり虎口跡と思える。
 虎口跡から北へ行くと大分埋まっているが堀切が現れる。先に小さな郭、さらに掘があり二の郭へ。二の郭から南を見ると小さな郭のため二重堀切のように見える。右下から道が来ているが、下れば女道分岐に出るようだ。二の郭西側に土塁跡がかすかに残る。土橋を渡り三の郭へ。三の郭は低い段があり、奥に行くにつれ高くなる。最奥が一番高く、地形図では本郭よりやや高い。三の郭先に堀切表示があるが、見落としてしまった。

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朝田 辰兵衛

雨男を襲う,負のスパイラル… (2022/12/17 訪問)

今にも雨が降りそうな曇り空…まるで越後のよう。この日の予定は,静岡側(JR足柄駅)から足柄城。そして,JR国府津駅~JR御殿場駅間の御殿場線沿線を攻めようと予定しておりました。18きっぷ初日です。
JR国府津駅手前でアナウンスがあり,JR松田駅付近の橋脚にトラックが衝突して,JR国府津駅~JR御殿場駅間の御殿場線の運転を見合わせているとのこと。OMG!
それでも,18きっぷの元は取りたいので,東海道線を下り続けました。富士山は影も形も見えず,足柄峠は中腹から頂上にかけてモヤがかかってました。『だめだ,こりゃ』。久能山に行ってもイイ眺望は期待できないだろうと判断。
JR沼津駅から御殿場線に入り,JR長泉なめり駅へ。長久保城のチョイスに至りました。この日の補欠の補欠ぐらいにしか考えていなかったのでガックリ。この後は,JR茅ヶ崎駅から相模線沿線を攻めました。

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POYO58

本丸探訪 (2023/01/02 訪問)

遺構★★☆☆☆ 石垣、土塁、虎口?
見どころは大手門だけではありません。鳥羽山城も二俣城と同じく本丸が土塁で囲まれています。また本丸がかなり広いので、御殿などの建物があったことは想像できます。本丸の土塁を周ってみると、一部木橋がかかっているのが分かります。木橋は石垣が支えておりました。観察してみると石垣が野面積みで積んであり、当時は虎口の役割を果たしていたのではないかと考えています。土塁の上には遊具が置いてありました。こんなところに置くなら広い本丸の中に置けばいいのにこれじゃ子供が遊具があることに気づかなくね?なんて思ってました。
また搦手門跡も見どころです。一応石垣がちゃんと残っています。おそらくですが、鳥羽山城の腰巻石垣を見て行くならたぶん搦手門方面に向かう道がいいと思います。大手道からは行けません。
その後、帰ろうとしたのですが、大手道を下ったあとどうやら違うところに出て来てしまい駐車場へ向かおうと思ったら俳句の石碑が残っていたのでちょっと見に行こうと思ったら、なんとその先に腰巻石垣が続いていました。結構分かりづらいですが、標注が置かれてあったので、よく観察しておきました。ってかたぶんよくみないとわからないかもしれないです。

二俣城も鳥羽山城も100名城に負けないお城だと思いました。なんならなんでメルマガの日本100名城、続日本100名城に負けない城にのってないの?続々日本100名城なら絶対入れると思います。

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ぴーかる

吉川元春妻の仮住まい所 (2022/12/11 訪問)

【松本屋敷】
<駐車場他>駐車できそうなところはありません。吉川元春館跡から徒歩でいくのが良い。
<交通手段>車

<感想>1泊2日萩・浜田の旅、4城目。松本屋敷は吉川元春の妻である新庄局が日下城から吉川元春館に移るまで住んでいた所と考えられます。新庄局について調べました。熊谷信直の次女で名は芳珪(よしけい)といい醜女だったそうですが吉川元春(当時は未だ毛利)が願って夫婦になった(政略結婚ですが吉川元春は側室を持たなかった)そうです。勝気な性格で義姉の五龍局と険悪な仲だったそうですが、家内では良妻賢母だったそうです。
 先達方の投稿の屋敷跡の犬小屋には犬は居なかったので助かりましたが、家の方に居て前を通っただけで凄く吠えられました。触発されて近所中の犬達が大合唱となってしまい、ばつが悪い感じとなりました。
 屋敷跡の方は全面の石垣が残り、上面は田んぼになっていますので直線の石垣のみが見られます。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

今年も初登城は浜松城 (2023/01/12 訪問)

 明けましておめでとうございます。
 昨日今年の初登城で浜松城へ出掛けました、丁度浜松駅前の遠鉄百貨店えんてつホールで静岡新聞社主催、小和田哲男静大名誉教授講演「おしえて!家康」が有り拝聴しました。
 1時間半の講演後、五社神社を初詣し浜松城へ、先投稿しましたが綺麗にリニューアルし西日に輝いて居ました、人出はそこそこ、天守曲輪の裾西側南側に土盛整備、NHK大河ドラマ「どうする家康」による周辺整備として本丸東側通路、北側通路の改修整備が完了し、1月22日から公開されるドラマ館のプレオープンを待つばかりといった様子です。
 期間中は北側の駐車場、特に土日祝日は一般車駐車禁止と成るとの事、車でのお出かけにはご注意を!
 初詣を五社神社に参拝しましたので近くの古城跡引馬城に鎮座する元城町東照宮初詣しました。

 今年の大河ドラマ「どうする家康」も8日から放映開始されて、当日は静岡、浜松、岡崎と家康に関わりのある三都市で松本潤はじめ出演者が順次来訪されて出陣式成るものが行われたようです、応募抽選でしたので出れませんでしたが、これから賑わって呉れる事でしょう。

 20年間撮りためてた写真デジタルデーターが昨年の末、弘前城松前城五稜郭投稿で終りました、やっと20年分のデジタル写真が整理できいつでも取り出せる様になりました。
 今後の投稿は今後の登城投稿と過去のデーターを構成した企画投稿と成るでしょう?、今後はボチボチと未踏、再登城の城廻りを致し投稿しますので本年も宜しくお願い致します。
 

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トク

⑧【関ケ原の26人 】(3)福島正則 (福島正則陣跡) (2022/10/28 訪問)

(3人目)「福島正則」の続きです。
関ケ原の「福島正則の陣跡」を訪れてきました。
畑に囲まれてひっそりと立つ小さな神社(春日神社)の中にありました。樹齢800年という杉の樹があったので、当時の正則はどのようであったかと問いかけると突然後光が・・・!(写真①②)

福島正則6,000の軍勢は東軍の先鋒を任されます。そして西軍の先鋒で最大勢力の「宇喜多秀家」17,000の軍勢と対峙し、宇喜多軍を壊滅させました。この功績は高く評価され、清州24万石から安芸備後49万石に加増転封され広島城に入ります。正則は、領地の整備や年貢に対しても良心的な措置をとるなど、戦場でのイメージとは違い領民には大変親しまれた大名だったようです。しかし、彼の順風満帆はここまで😯!

その後、名古屋城など各地の天下普請に駆り出された後の1615年、大坂の陣では出陣叶わず江戸にて幽閉されます。いつ豊臣に寝返るかわからない(間違えなく秀頼につくであろう)危険人物と見なされていたようです。そして1619年、洪水で壊れた広島城の石垣修理を届け出たにもかかわらず、不十分として武家諸法度違反をとがめられ、越後魚沼と信濃高山合わせて4万5千石への大減封。そしてその後、正則は高山村にて死去します(享年64)。死後福島家は取り潰しとなったようです。

私はこの陣跡に立って考えてみました。結局彼は徳川からいいように利用されたあげくに捨てられただけなのではないでしょうか? 福島正則にとって、ここ関ケ原での活躍はいったい何だったのでしょうか? でもこれだけではあまりにも可哀そうなので、せめて私はこの福島正則に「敢闘賞」をあげたいと思います😊。

次は(4人目)へ続きます。

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【余談】福島正則と「黒田節」

皆さんは福岡藩黒田家に伝わるこの唄を御存知でしょうか?

酒は飲め飲め 飲むならば ~♪
日の本―の 此の槍を ~♪
飲み取る程に 飲むならば ~♪
これぞ真の 黒田武士(節)~♬

これは黒田官兵衛の重臣「母里太兵衛(友信)」(もりたへえ)(写真④)が使者として福島正則の屋敷を訪れた時、正則は太兵衛が黒田家一の酒豪と聞き、飲み比べようと挑発したそうです。太兵衛は拒否するも、黒田武士は腰抜けか? わしに勝てば何でも欲しい物を授けよう、と再度挑発します。 受けて立った太兵衛は、何とこの飲み比べに勝ち、正則が豊臣秀吉から賜った日本三大槍「日本号」を所望し勝ち取ったそうです。その時の様子がこの唄になりました。そしてその「日本号」は福岡市博物館に展示されています。この様子は、大河ドラマ「軍師官兵衛」で母里太兵衛役の「速水もこみち」さんが、見事に演じられていたのを思い出しました😊。
 

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シェル

神社と思いきや、立派な石垣が残るお城 (2020/03/18 訪問)

東武佐野線 田沼駅側から車で登城しました。
城の駐車場までは、かなり急なカーブの山道になっています。
駐車場から登城口へ向かうと、いきなり石垣づくりの枡形虎口を見ることができます。虎口から城の大手道を通り、唐沢山神社の拝殿前の階段の手前にある社務所のほうでスタンプを押印。(インクは薄いです)
神社を参拝後、二の丸へ 
二の丸から見る本丸南西の高石垣は、一見の価値があります!!

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モト

各郭にある石積みの段々が素敵です (2023/01/12 訪問)

登城道は周辺の城ではそんなに珍しい事ではありませんが、なかなか険し目の登山といったところです。
本郭へ向かう途中は竪堀、二重堀切りなどを見る事ができて、およそ20分前後のやや険しい登城道を飽きさせません。
いよいよ本郭に近づくと石積みがお出迎えしてくれます。
その石積みも素晴らしい物ですが、ここの他とちょっと違う魅力的なポイントは各郭にある石積みを見る事ができる点です。
段々になった郭に石積みがあり、段々になった石積みを見る事ができる事です。
これを見た時にはそこまでの登城道の疲れが一瞬で吹き飛びました。
本郭を囲んだ石積みもかなり素晴らしい物でした。
一見の価値ありだと思います。

駐車場がないため獣よけフェンスの手前に路駐しました。
獣よけのフェンスを開けて中に入ってすぐ右の登城道があります。
皆様の投稿にもありましたが気が付かない可能性ありです。
まっすぐは舗装された道路になってますが進んでも城跡へは行けませんのでお気をつけてください。

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