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WEST

五稜郭探訪 (2023/05/18 訪問)

五稜郭を訪問しました。
近くの「五稜郭観光駐車場」に自動車を止めて行きました。
まず、五稜郭タワーです。五稜郭の全貌を把握するために最初に行きたいところですね。
(ガイドブック情報では、逆光となるため午後に行くのがベストとのことでした)
実際に見ると五つの稜堡と一つの半月堡が良く分かりました。また、内部では五稜郭の歴史が学べるように系統立てて展示がしてあり、良かったと思います。
五稜郭タワーを後にして、五稜郭を散策。ぐるりと回りながら稜堡と半月堡を実感してきました。
また、橋を渡り、表門を過ぎたところに紫と白の藤がきれいに咲いており、関東との季節の差を感じました。

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WEST

四稜郭探訪 (2023/05/18 訪問)

四稜郭があると聞き、五稜郭訪問の前に行きました。
駐車場、トイレ等が整備されていて訪問し易い史跡かと思います。
駐車場横には芝桜の花壇がありましたが、官民協働でのイメージアップ事業とのことのようです
みどころは四隅の稜堡ですが、土塁の上を一周することで実感できました。

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カズサン

復元大手門辺りと満開のサツキ (2023/05/24 訪問)

 天守閣がリニューアルされ4月1日より公開されいますがまだ登閣して無く、掛川城を訪ねました、車は有料大手門駐車場を利用して平成7年跡地より北に50m程の地に復元された大手門を潜り周辺を探訪、門前のサツキが満開で彩り鮮やか、大手門の欅の鏡柱、冠木、大梁、大柱は巨大で見応えあり、移築現存の大手門番所、一豊が秀吉の伏見桃山城手伝いの折り勧進した伏見稲荷を後醍醐天皇の故事にならい三光稲荷社を鎮座、まだ登っていませんが大手門の階段、掛川城の城主歴代が家紋と姓名の名札が掲示されて、大手門辺りでも探訪を楽しくさせてくれます。
 

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WEST

志苔館探訪 (2023/05/18 訪問)

志苔館を訪問しました。
自動車での訪問のため、駐車場は先に訪問された方のインターネット情報で「志海苔ふれあい公園駐車場」の止めました。その駐車場から数分で着けます。
最初に見えてきたのが、和人、アイヌ方の慰霊碑です。ここが北海道ということが改めて認識できました。
みどころは堀、土塁でしょう。史跡としてきれいに整備され、四方に土塁が築かれた館跡が見て取れます。土塁外側下に降りて見上げるとその土塁高さを実感できました。
土塁に上ると、残念ながら下北半島は見えませんでしたが、津軽海峡を見ることができます。

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イオ

とことん飯盛城(千畳敷郭周辺) (2023/02/11 訪問)

南北朝期に四条畷の戦いの陣城となっていますが、本格的な城郭としては戦国中期に木沢長政による築城が始まりで、太平寺の戦いで木沢長政が討たれると安見宗房が城主となり、戦国後期には安見宗房を敗走させた三好長慶が芥川山城から居城を移して現在見られる形に改修しました。三好長慶の病没後、織田信長の上洛によって三好氏から畠山秋高の城となるも、信長の河内平定に伴って廃城となったようです。

河内・大和国境となる生駒山地北西部の飯盛山頂部に位置する城で、発掘調査により多数の石垣だけでなく瓦や礎石建物の存在が確認されており、天下人・三好長慶の居城に相応しい先進的な城だったと考えられます。西麓には東高野街道が走り、大和川水運にも接続する水陸交通の要衝でもあります。

さて、この前週に輪中の城めぐりをしていますが、ほとんどが明瞭な遺構の見られない城だったこともあり、今度は見応えのある城に行きたい! ということで、続100名城の飯盛城にやって来ました。当初は野崎観音側から野崎城を経由して歩いて登るつもりでしたが、下調べで山頂手前に登城者用の無料駐車場が設けられていることを知り、登城道沿いに特に遺構がないのなら…と車で行くことに。阪奈道路を生駒側から向かったため分岐を行き過ぎてから折り返す必要があったり、分岐の先も対向困難な細道だったりはしたものの、キャンピィだいとうの少し先の駐車場から登城開始です。

駐車場からしばらく舗装道を進み、途中から山道に入っていくつかの削平地を抜けると虎口に行き当たります。虎口の両脇は石垣で固められ、東下には数条の巨大な竪堀が落ちていました。虎口の西上には南北三段の南丸があり、虎口に至る登城道を見下ろす東辺に土塁が設けられています。南丸の南西麓には畝状空堀群がある…はずですが、笹藪に沈んでいてよくわかりませんでした。

南丸の北側の広い曲輪を抜けると千畳敷郭に至ります。千畳敷郭は南北二段の城内最大の曲輪で、発掘調査で礎石建物や土師皿が出土しており、居住空間だったと考えられています。上段にはNHKやFM局の送信所が建てられており、北側は整備用の舗装道により改変されているものの虎口らしきものも見られ、南西辺には土塁が続き、南西下の尾根道は土橋を設けた堀切で遮断しています(ずいぶん笹藪に覆われていますが)。千畳敷郭北下の鞍部は高櫓郭との間を分かつ堀切となっていて、道路の改変は受けつつも東西両側に竪堀の痕跡が見られます。

なお、千畳敷郭の東下には馬場と呼ばれる曲輪があり、現在は楠公寺の敷地になっています。馬場北西の舗装道東下にはわずかに石垣が見られました。

(続く)
 

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todo94

柏崎の城① (2023/04/16 訪問)

柏崎のホテルに泊をとり、朝食をとってからの朝駆けです。柏崎といえば高崎市出身の私にとっては小学校の時の臨海学校で海のイメージがとても強いのですが、こんなに素晴らしい山城があるとは思いませんでした。表示板がしっかりと整えられていて楽しく散策できます。専称寺から登って搦手の普広寺に下りましたが、搦手の登城路は倒木がたくさんあって非常に難渋しました。通行止にしておいてもらえるとよいのかなと思います。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:小島城 (2023/04/25 訪問)

増島城からの転戦です。ゲート入口(36.254443、137.186812)から進入し、分岐点(36.250926、137.182915)を狭い道へ入れば、主郭近くの駐車場(36.251819、137.174862)に着きます。
なお、駐車場のGPS座標(あくまでも目安として)を入力しても辿りつけませんので、ゲート入口➡分岐点のGPSを入力して進んでください。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に姉小路氏によって築かれたと云われています。
姉小路氏は公家で三条実房の子公宣が京の姉小路に住んで、姉小路氏を名乗った事に始まるそうです。
飛騨の姉小路氏は姉小路家綱が建武新政の際に飛騨国司となり、信包城(向小島城と推定されている)を居城としたことに始まるそうです。
姉小路家綱は南朝方によって国司に任命されたことから、おもに南朝方として戦っていました。その後、姉小路氏は小島氏・古川氏・向氏の三家にわかれます。
戦国時代になると京極氏の被官であった三木氏が台頭し、小島氏はそれに属していましたが、1585年(天正13年)羽柴秀吉の命によって飛騨国に侵攻した越前国大野城の金森長近によって攻められ、小島城は落城しました。

主郭の背後に櫓台があり、西側に東屋があります。
東屋の西側下には算木積の石垣があり、そこから急斜面を降りて行くとNHKのアンテナ施設のようです。
帰りにこの急斜面を登るのがイヤなので、自分は行っていません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=小鷹利城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:増島城 (2023/04/25 訪問)

鍋山城からの転戦です。公共無料駐車場(36.236201、137.191170)に駐車しました。

金森長近は1585年(天正13年)に三木氏の治めていた飛騨国を攻略して領国とし、本城の高山城および支城の萩原諏訪城、増島城を築きました。
増島城の建設は1586年(天正14年)であり、完成すると長近の養子・金森可重が古川城から移って城主となりました。
長近が1608年(慶長13年)に没して後継者の可重が高山城に入ると、その長子・金森重近が増島城主となりました。
可重の死後はその三男である金森重頼が跡を継ぎ、重近は出家して京都に去りました。
その後は家臣が入ったと思われますが、1619年(元和元年)の一国一城令にともない廃城となって古川旅館と改称し、萩原諏訪城跡の萩原旅館や下原旅館と同様に金森氏の陣屋となりました。
1692年(元禄5年)に金森氏は出羽国上山藩へ移封され、1695年(元禄8年)に高山城とともに破却されました。

城跡には、わずかに増島小学校の南東側に櫓台と内堀が残っており、櫓台のうえには増島天満宮が鎮座しています。
円光寺に移築された城門があります。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=小島城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:鍋山城 (2023/04/25 訪問)

三仏寺城からの転戦です。ゲート手前(36.147969、137.294123)の四天王神社前に駐車しました。

天文年間(1532年 - 1555年)に平野豊後守安室(鍋山安室)によって築かれたといわれています。安室が鍋山に築城し、鍋山氏を名乗りました。
鍋山安室は三木姉小路氏の臣下となり、養子に三木顕綱を迎えますが、顕綱は安室を毒殺し、養母小峯の方と左近大夫を追放し、鍋山城を乗っ取りました。
追放された左近大夫は越前国大野城の金森長近を頼って落ちました。
顕綱は、八日町の戦いの3か月後に謀反の嫌疑(羽柴秀吉への内通)により、兄である姉小路頼綱(三木自綱)により鍋山城内で妻と共に暗殺されました。
その後、鍋山城は頼綱の次男・姉小路秀綱が城主となり、家督を譲られた後、本城の松倉城へ移動し、三男の李綱が鍋山氏を継ぎ鍋山城主となりました。
1585年(天正13年)追放された左近大夫は羽柴秀吉の命によって飛騨国へ侵攻した金森長近に加わって三木氏を攻め、再び飛騨へ復帰することとなりました。
しかし金森氏の飛騨入封後、その処遇に不満があり広瀬氏・江馬氏などと呼応して一揆を起こすが、金森可重によって鎮圧されました。
飛騨国を制圧した金森長近はこの鍋山城へ入って政務を行っていましたが、高山城を築いて居城を移し廃城となりました。

城の築かれている鍋山は北と南に頂部を持つ山で、北側の山頂に主郭部を構え、南の頂部に出丸を構えているようです。
登城口から山道を進んで行くと林道と合流します。さの先に進むと「屋敷跡」の石碑が見えてきます。
さらに進んでいくと出丸と本丸の分岐点に着きます。今回は時間の都合で出丸は諦め、本丸を目指します。
本丸東側に石垣が残っています。
本丸を越えて西へ向かうと尾根先に二の丸がありますが、行っていません。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=増島城に向かう前に、一旦ホテルに戻り朝食をとりました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:三仏寺城 (2023/04/25 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、三仏寺城等を攻城しました。歓喜寺駐車場(36.152791、137.266369)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、平安時代末期に築かれたと云われています。 1141年(永治元年)頃には平時輔が飛騨守として在城し、平景高まで五代の居城であったそうです。
1181年(治承5年)木曽義仲に攻められ落城。城主平景綱は息子とともに京へのぼっており不在でした。
弘安年間(1278~1288年)頃は、藤原朝高、畑六郎左衛門、藤原安高が居城していました。
大永年間(1521年〜1527年)頃に、畑安高は三仏寺城を三木直頼に明け渡して江名子の畑館に移りました。
1547年(天文16年)三木氏の家臣平野右衛門尉が城主となり、その子平野安室の時に鍋山城を築いて移り、三木直弘が城主となりました。
しかし、1564年(永禄7年)武田信玄が飛騨へ侵攻すると直弘は城に火をけて桜洞城へ退き、後に廃城となったそうです。

城は歓喜寺の北東にある山に築かれています。
本丸には標柱があり、切岸や畝状竪堀群が確認できます。
早朝5時の攻城、外気温ー2℃、とても寒いです。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=鍋山城に向かいました。

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美夢

【かるた】萩城の読み札

海と山 好いとこ取りの 萩城跡

萩城から 松下村塾 夏柑香

指月山 登りて見るは 萩城下

萩城は 東萩駅 最寄り駅

萩城から 津和野城まで バス一本


読み札のみの投稿です

一句目
平城であり、平山城であり、山城であり、海城でもある萩城
お城好きであれば、見所いっぱい、魅力いっぱいです

二句目
萩城から城下町を歩き松下村塾(松陰神社)まで歩くと
沢山の夏みかんを見ることが出来ます
収穫を忘れられた物はポテポテと道に落ちている程でした

三句目
萩城は、萩城跡指月公園という名前ですし
指月山の名前も入れて詠んでみました

四句目
アクセス情報です(笑)
萩城という名前から、萩駅が最寄りかと思ったら
調べると意外と遠く&無人駅で、びっくり!
東萩駅の方が近く、頑張れば歩けますし
バスもタクシーもレンタサイクルもあり
栄えてもいるのでお勧めです

五句目
ちょっとおふざけで二城を詠み込みました
萩バスセンター(又は東萩駅や松陰神社)から
バス一本で、県をまたいで津和野へ行くことが出来ます
JRでも乗換一回です
このルートを発見したとき、ちょっと感動したので詠んでみました

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土丸のこおどり (2023/05/25 訪問)

 雨山城から登城しました。道が分かれている所がありますと、よく見ると地面に案内標識がありました。途中の尾根にも曲輪と思われる削平地がありました。雨山城とは一体の城(一城別郭)と考えられています。主郭と周囲の曲輪、堀切等を見ることができます。イオさんが記載されていた土塁には今も倒木があり見づらい状況です。後で皆さんの投稿を見ると錆びた案内板があるとのことでしたが、全く気が付きませんでした。写真を見直すと神社の鳥居の下にそれらしきものが写っていました。
 土丸バス停方面へ下山しましたが、岩場も多く歩きにくく、思っていた以上に急峻でした。雨山城から登城してよかったと思いました。

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雨山踊り (2023/05/25 訪問)

 紀伊と和泉を結ぶ粉河街道、河内へ抜ける水間道、大木道などの主要街道の結節部に位置する城で土丸城とは一体の城(一城別郭)とされています。堀切、井戸等が残っていて曲輪と思われる削平地もいくつかありました。馬場跡や主郭からは関空や淡路島を見ることができます。土丸城へ向かいましたが、やはりいくつかの曲輪と思われる削平地がありました。下山後、土丸バス停付近の縄張り図を発見しました。それを見ると土丸城との間にもいくつか曲輪があったものと思われます。
 日根野駅からバスに乗り土丸バス停で下車。土丸城の登城口の方が近いのですが、雨山城からの登城路の方が歩きやすいという情報もあったので15分くらい歩いて阪和自動車道の下から登城しました。ハイキングコースとなっていて歩きやすい道です。

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WEST

上ノ国勝山館探訪 (2023/05/16 訪問)

上ノ国勝山館を訪問しました。
ます、勝山館跡ガイダンス施設に立ち寄りパンフレットを入手するとともに、模型やパネルにて概要を確認しました。
見学は散策おすすめコースに従い、夷王山山頂から勝山館跡中心部と回りました。幸い天気が良く山頂からの眺めは良かったです。
また、館跡中心部では、全面で下草がきれいに刈ってあり、よく整備されていました。歩き易いし、建物跡の様子が分かり易かっと思います。空堀跡等も復元されており、イメージが掴めました。
散策後は、麓の旧笹浪家住宅、上之國八幡宮、上國寺に立ち寄りました。旧笹浪家住宅に付属する建物で円空仏を見ることができました。時間があれば見学することをお勧めします。

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WEST

松前城(福山城)探訪 (2023/05/16 訪問)

5月の北海道お城探訪の最初に松前城を訪れました。
既に桜の季節が終わり、来訪者も少ないのでしょう。その分、ゆっくりと見学ができました。
天守は戦争で焼失してしまいましたが、それまでは国宝に指定されていたとのこと 残念ですね。
しかし、今の天守は戦後の復元天守ですが、本丸御門と並ぶと絵になると思います。
城内には唯一建物が残る表御殿の玄関があります。木の陰で気づきにくいですので、もう少しスポットライトを当たると良いですね。
別名「福山城」とのこと 散策中に城碑を見つけました。
お城の後は、松前神社、松前藩屋敷を訪問し、松前を後にしました。

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モト

住宅の横にある城跡の碑に目がハート (2023/01/29 訪問)

住宅の横に城跡の碑が建っておりました。
周辺の公園に土塁などが僅かに残っています。
冒頭の碑ですが、結構な勾配のある丘の上にあります。
徒歩で向かったのですが坂は登るのになかなか疲れました。
碑は住宅の敷地という感じの所にひっそりと建っているのですが、自分の家にこんな碑が建っていたらと考えると、城好きとしては羨ましいなと思ってしまう私でした。

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美夢

【かるた】二条城の読み札

二の丸の 豪華絢爛 二条城

「時代」という 大きな転換 二条城


読み札のみの投稿です
寛永から現存する二の丸御殿と
大政奉還という時代の転換を詠んでみました

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:百足城(城びと未登録 岐阜県飛騨市) (2023/04/24 訪問)

古川城からの転戦です。高野公園入口(36.230442、137.179432)に路駐しました。

詳細は不明のようですが、谷を挟んで南方に古川城があり、その北方を守る出城と考えられているようです。
姉小路高綱の隠居城とも云われています。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りはここがラストで宿泊先のホテルに向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:古川城 (2023/04/24 訪問)

広瀬城からの転戦です。県道路肩(36.223366、137.185788)に路駐し、登城口(36.222565、137.183540)に向かいました。

築城年代は定かではないようです。
応永年間(1394年~1428年)末期に藤原師言が築いたとの伝承もあるようですが、天文年間(1532~1555年)に古川二郎による築城とも云われます。
1564年(永禄7年)に武田家重臣山県昌景から逃れた上杉家家臣・塩屋秋貞が入りました。
しかし、秋貞は謙信死後に織田信長に仕え、信長死後の1583年(天正11年)に討死しました。その後は一時三木氏の勢力にありました。
1585年(天正13年)第二代金森家当主金森可重は、養父である金森家初代金森長近と共に飛騨平定戦で活躍し、戦国大名姉小路(三木)氏を滅ぼすと古川城に入ります。
1586年(天正14年)に宮川対岸の平城である増島城が完成すると、可重は古川城から移って城主となったため、古川城は廃城となりました。
この城は「蛤城(はまぐりじょう)」とも呼ばれていますが、これは飛騨へ入国した金森氏がこの城へきたとき、城内に蛤石があったため、以後蛤城と呼ばれるようになったそうです。

主郭は西端が一段高くなっています。主郭の東西に曲輪があり、南側には帯曲輪があります。
主郭の西面と東側から登る虎口付近に石積みの残石があります。
蛤城の由来となった蛤石は三郭に存在し、ちょうどそこに標柱も立っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=百足城(城びと未登録 岐阜県飛騨市)に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:広瀬城 (2023/04/24 訪問)

広瀬氏居館(城びと未登録 岐阜県高山市)からの転戦です。文化財保護センター飛騨駐在事務所(36.201915、137.217233)を左折し200m行くとフェンス手前のカーブに駐車可能です。

築城年代は定かではないようですが、広瀬氏によって築かれたと云われています。 広瀬氏の家臣田中与左衛門が城主であったそうです。
広瀬氏ははじめ三木氏に協力していましたが、後に武田氏に通じて三木氏と対立するようになりました。
1582年(天正10年)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、翌1583年(天正11年)三木自綱が広瀬氏を攻め高堂城と広瀬城は落城し、城主広瀬宗城は討死しました。
広瀬宗城の子で広瀬兵庫頭宗直は、飛騨を脱して越前国大野城主の金森長近の元に身を寄せました。
その後、三木自綱は家督を二男秀綱に譲り、隠居して高堂城と広瀬城を居城としました。 この三木自綱の時代に城は大きく改修されたそうです。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の命により金森長近が飛騨へ侵攻するとその先導役として活躍し、高堂城・広瀬城に籠もった三木自綱を降伏させています。

広瀬氏の居城高堂城とは尾根続きに位置します。(中間あたりに城びと未登録の寺洞砦があります)
本丸から堀切を越えて西へ向かうと三の丸になります。 三の丸周辺で畝掘り見れます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=古川城に向かいます。

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