説明板の概要は「永享10年(1438)の永享の乱に際し、関東管領山内上杉憲実が、長尾忠房に命じ築城させた説と、応仁元年(1467)に上杉顕定が築城したとされる説がある。天文21年(1552)、後北条氏に攻められ落城するまで、関東管領山内上杉氏が居城としていた。
構造は「庚申堀」と称される堀をめぐらし、西平井の村落を取り込んだ「惣構」と呼ばれる構造で、城域の南端部の鮎川左岸の崖の上に、土塁・堀によって区画された通称本丸(主郭)があり、西側に二の丸・笹曲輪(副郭)が配されている。
平井城の背後には有事の際の「詰の城」として金山城を配し、周辺は国人・配下の武将が築いた御嶽城(金鑚神社近く)・東日野金井城・一郷山城・東平井の砦・飛石の砦などの多くの城や砦により守られていた。」と記されている。
道路に面して土塁が見えれば、その周辺が城域になる。説明板に拠れば、道路は本丸と二の丸を隔てる堀跡だったようだ。土塁の内側が主郭(本丸)だが、豚舎など私有地が多く改変されている。駐車場西側に、御影石の「堀跡」・「土塁跡」の標柱がある。単に数メートル離れ並んであるので、位置関係がよく分からない。
土塁は復元整備されたもので、本丸東に小さな郭があり、境に堀と木橋が復元整備されている。郭内に竪堀と表記をするコの字型の石積があるが不自然さを覚えるが。北には溝程度の堀跡などがある。
車道を歩いていると幟や案内板があり、三の丸と総郭の境、総郭跡などを標示しているが、遺構はほぼ無く民家や畑地になっている。二の丸北の堀跡と思える狭い道を西へ行くと、南に続く溝があり二の丸西の堀跡と言われる。
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