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POYO58

本丸探訪 (2023/01/02 訪問)

遺構★★☆☆☆ 石垣、土塁、虎口?
見どころは大手門だけではありません。鳥羽山城も二俣城と同じく本丸が土塁で囲まれています。また本丸がかなり広いので、御殿などの建物があったことは想像できます。本丸の土塁を周ってみると、一部木橋がかかっているのが分かります。木橋は石垣が支えておりました。観察してみると石垣が野面積みで積んであり、当時は虎口の役割を果たしていたのではないかと考えています。土塁の上には遊具が置いてありました。こんなところに置くなら広い本丸の中に置けばいいのにこれじゃ子供が遊具があることに気づかなくね?なんて思ってました。
また搦手門跡も見どころです。一応石垣がちゃんと残っています。おそらくですが、鳥羽山城の腰巻石垣を見て行くならたぶん搦手門方面に向かう道がいいと思います。大手道からは行けません。
その後、帰ろうとしたのですが、大手道を下ったあとどうやら違うところに出て来てしまい駐車場へ向かおうと思ったら俳句の石碑が残っていたのでちょっと見に行こうと思ったら、なんとその先に腰巻石垣が続いていました。結構分かりづらいですが、標注が置かれてあったので、よく観察しておきました。ってかたぶんよくみないとわからないかもしれないです。

二俣城も鳥羽山城も100名城に負けないお城だと思いました。なんならなんでメルマガの日本100名城、続日本100名城に負けない城にのってないの?続々日本100名城なら絶対入れると思います。

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ぴーかる

吉川元春妻の仮住まい所 (2022/12/11 訪問)

【松本屋敷】
<駐車場他>駐車できそうなところはありません。吉川元春館跡から徒歩でいくのが良い。
<交通手段>車

<感想>1泊2日萩・浜田の旅、4城目。松本屋敷は吉川元春の妻である新庄局が日下城から吉川元春館に移るまで住んでいた所と考えられます。新庄局について調べました。熊谷信直の次女で名は芳珪(よしけい)といい醜女だったそうですが吉川元春(当時は未だ毛利)が願って夫婦になった(政略結婚ですが吉川元春は側室を持たなかった)そうです。勝気な性格で義姉の五龍局と険悪な仲だったそうですが、家内では良妻賢母だったそうです。
 先達方の投稿の屋敷跡の犬小屋には犬は居なかったので助かりましたが、家の方に居て前を通っただけで凄く吠えられました。触発されて近所中の犬達が大合唱となってしまい、ばつが悪い感じとなりました。
 屋敷跡の方は全面の石垣が残り、上面は田んぼになっていますので直線の石垣のみが見られます。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

今年も初登城は浜松城 (2023/01/12 訪問)

 明けましておめでとうございます。
 昨日今年の初登城で浜松城へ出掛けました、丁度浜松駅前の遠鉄百貨店えんてつホールで静岡新聞社主催、小和田哲男静大名誉教授講演「おしえて!家康」が有り拝聴しました。
 1時間半の講演後、五社神社を初詣し浜松城へ、先投稿しましたが綺麗にリニューアルし西日に輝いて居ました、人出はそこそこ、天守曲輪の裾西側南側に土盛整備、NHK大河ドラマ「どうする家康」による周辺整備として本丸東側通路、北側通路の改修整備が完了し、1月22日から公開されるドラマ館のプレオープンを待つばかりといった様子です。
 期間中は北側の駐車場、特に土日祝日は一般車駐車禁止と成るとの事、車でのお出かけにはご注意を!
 初詣を五社神社に参拝しましたので近くの古城跡引馬城に鎮座する元城町東照宮初詣しました。

 今年の大河ドラマ「どうする家康」も8日から放映開始されて、当日は静岡、浜松、岡崎と家康に関わりのある三都市で松本潤はじめ出演者が順次来訪されて出陣式成るものが行われたようです、応募抽選でしたので出れませんでしたが、これから賑わって呉れる事でしょう。

 20年間撮りためてた写真デジタルデーターが昨年の末、弘前城松前城五稜郭投稿で終りました、やっと20年分のデジタル写真が整理できいつでも取り出せる様になりました。
 今後の投稿は今後の登城投稿と過去のデーターを構成した企画投稿と成るでしょう?、今後はボチボチと未踏、再登城の城廻りを致し投稿しますので本年も宜しくお願い致します。
 

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トク

⑧【関ケ原の26人 】(3)福島正則 (福島正則陣跡) (2022/10/28 訪問)

(3人目)「福島正則」の続きです。
関ケ原の「福島正則の陣跡」を訪れてきました。
畑に囲まれてひっそりと立つ小さな神社(春日神社)の中にありました。樹齢800年という杉の樹があったので、当時の正則はどのようであったかと問いかけると突然後光が・・・!(写真①②)

福島正則6,000の軍勢は東軍の先鋒を任されます。そして西軍の先鋒で最大勢力の「宇喜多秀家」17,000の軍勢と対峙し、宇喜多軍を壊滅させました。この功績は高く評価され、清州24万石から安芸備後49万石に加増転封され広島城に入ります。正則は、領地の整備や年貢に対しても良心的な措置をとるなど、戦場でのイメージとは違い領民には大変親しまれた大名だったようです。しかし、彼の順風満帆はここまで😯!

その後、名古屋城など各地の天下普請に駆り出された後の1615年、大坂の陣では出陣叶わず江戸にて幽閉されます。いつ豊臣に寝返るかわからない(間違えなく秀頼につくであろう)危険人物と見なされていたようです。そして1619年、洪水で壊れた広島城の石垣修理を届け出たにもかかわらず、不十分として武家諸法度違反をとがめられ、越後魚沼と信濃高山合わせて4万5千石への大減封。そしてその後、正則は高山村にて死去します(享年64)。死後福島家は取り潰しとなったようです。

私はこの陣跡に立って考えてみました。結局彼は徳川からいいように利用されたあげくに捨てられただけなのではないでしょうか? 福島正則にとって、ここ関ケ原での活躍はいったい何だったのでしょうか? でもこれだけではあまりにも可哀そうなので、せめて私はこの福島正則に「敢闘賞」をあげたいと思います😊。

次は(4人目)へ続きます。

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【余談】福島正則と「黒田節」

皆さんは福岡藩黒田家に伝わるこの唄を御存知でしょうか?

酒は飲め飲め 飲むならば ~♪
日の本―の 此の槍を ~♪
飲み取る程に 飲むならば ~♪
これぞ真の 黒田武士(節)~♬

これは黒田官兵衛の重臣「母里太兵衛(友信)」(もりたへえ)(写真④)が使者として福島正則の屋敷を訪れた時、正則は太兵衛が黒田家一の酒豪と聞き、飲み比べようと挑発したそうです。太兵衛は拒否するも、黒田武士は腰抜けか? わしに勝てば何でも欲しい物を授けよう、と再度挑発します。 受けて立った太兵衛は、何とこの飲み比べに勝ち、正則が豊臣秀吉から賜った日本三大槍「日本号」を所望し勝ち取ったそうです。その時の様子がこの唄になりました。そしてその「日本号」は福岡市博物館に展示されています。この様子は、大河ドラマ「軍師官兵衛」で母里太兵衛役の「速水もこみち」さんが、見事に演じられていたのを思い出しました😊。
 

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シェル

神社と思いきや、立派な石垣が残るお城 (2020/03/18 訪問)

東武佐野線 田沼駅側から車で登城しました。
城の駐車場までは、かなり急なカーブの山道になっています。
駐車場から登城口へ向かうと、いきなり石垣づくりの枡形虎口を見ることができます。虎口から城の大手道を通り、唐沢山神社の拝殿前の階段の手前にある社務所のほうでスタンプを押印。(インクは薄いです)
神社を参拝後、二の丸へ 
二の丸から見る本丸南西の高石垣は、一見の価値があります!!

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モト

各郭にある石積みの段々が素敵です (2023/01/12 訪問)

登城道は周辺の城ではそんなに珍しい事ではありませんが、なかなか険し目の登山といったところです。
本郭へ向かう途中は竪堀、二重堀切りなどを見る事ができて、およそ20分前後のやや険しい登城道を飽きさせません。
いよいよ本郭に近づくと石積みがお出迎えしてくれます。
その石積みも素晴らしい物ですが、ここの他とちょっと違う魅力的なポイントは各郭にある石積みを見る事ができる点です。
段々になった郭に石積みがあり、段々になった石積みを見る事ができる事です。
これを見た時にはそこまでの登城道の疲れが一瞬で吹き飛びました。
本郭を囲んだ石積みもかなり素晴らしい物でした。
一見の価値ありだと思います。

駐車場がないため獣よけフェンスの手前に路駐しました。
獣よけのフェンスを開けて中に入ってすぐ右の登城道があります。
皆様の投稿にもありましたが気が付かない可能性ありです。
まっすぐは舗装された道路になってますが進んでも城跡へは行けませんのでお気をつけてください。

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todo94

奈良の城めぐり⑩ (2022/12/11 訪問)

奈良市内で献血したのに、奈良市内のホテルを押さえることが出来ず、王子に泊をとりました。原因は12月11日に開催された奈良マラソンのようです。王子のホテルにもマラソン参加者が多数、宿泊していました。私はホテルの無料朝食を頂いて城めぐり。立野城は城山第2公園、墓地のあたりとのこと。墓地は遠目には、城門が復元された城のようにも見えました。

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AJ

戦国インフルエンサー (2022/12/27 訪問)

「滝山城なう。2万で攻めてもまだ落ちない。てか、こっち兵力10倍なんですけど。この城マジやばくね」。例えば信玄がこんなつぶやきを残していたら、、、。

関東の山城を歩くと、ある程度定型化された枕詞を耳にします。曰く「武田の猛攻に耐えた」、「謙信が落とせなかった」、「道灌が絶賛した」などなど。中には誇張表現もあるため、耳にするたびに「またか」との思いがもたげますが、実際に木々に分け入り、空堀に降り立ち、枡形で横矢を浴び(妄想)、小ぶりでも丁寧に保存された馬出を目の当たりにしたりすると、多くの場合、それなりに満足して家路につけます。彼ら戦国インフルエンサーの“お墨付き”は評価基準になり得るものと考えます。

というわけで、滝山城(東京都八王子市)。枕詞をそのまま借りると、北条が「武田を撃退した堅城」。1569年、信玄は2万の軍勢を率いて関東に侵攻。このとき城には北条氏照率いる2千の兵が籠もり、辛うじて落城を免れたといいます。

多摩川が形成した河岸段丘上に位置し、高さは約80メートル。大小の曲輪群を横堀が取り巻くTHE北条流と呼べる城でした。氏照は二の丸をメインに改修し、3カ所の虎口それぞれの前面に角馬出を設けます。どうやら武田軍はここを抜けなかったようです。加えて、迷路のような縄張と、高低差を活かした防御システムは今でも十分堪能できます。

その後、氏照はさらなる要害堅固の地を求めて八王子城(同市)に居城を移します。関東屈指の山城ですが、秀吉の小田原攻めに際し、主力不在で陥落。見せしめで婦女子の血が多く流れたと伝わる悲劇の城でもあります。

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赤い城

高部向館 茨城県常陸大宮市 (2020/12/30 訪問)

2022年城納め2城目は高部館の出城とされる高部向館。
高部館から緖川を挟んだ場所にあり、高部館の駐車場から歩いて行けます。
緩やかな登城路もありますが途中の竪堀が見たかったので神社の裏手を直登しました。
結構急な上に土も柔らかく苦労します。
やっと見つけた竪堀はかなり浅いものでした。
帯曲輪群を経て主郭に。
主郭には小さな神社がありました。
神社の側に虎口も残っています。
主郭から南側に伸びる尾根には4つの堀切が施されていました。
主郭に近い二条は深く、竪堀となって落ちます。
帰りはおとなしく緩やかな道で降りましたが、途中の虎口もユニークな造りで良い感じでした。
高部館だけでなくこちらもセットで見て欲しいと思える城でした。

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小城小次郎

ふたつの生実城 (2022/08/07 訪問)

かつては時代差があるとされていたふたつの小弓城は並存していたことがほぼ確実となってきた。規模的にも生実藩の藩庁としてのその後を見ても北小弓城の方が本城なのだろうか。

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加藤城乃助

太田道灌ゆかりのお城 (2023/01/05 訪問)

赤羽駅から程近い高台の上の静勝寺が城跡です。
太田道灌が築城したと伝わります。寺内の道灌堂に太田道灌の木造坐像があり、命日の7月26日にちなみ毎月26日に見られるそうですが、今回は日にちが合わず見られませんでした。
赤羽駅は路線数も多く、駅周辺は大変賑やかですが、この辺りは閑静な住宅地といった感じでとても静かです。お寺の両サイドに坂道がありますが、もしかしたらかつての堀の跡かも?

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ぴーかる

吉川元春館 (2022/12/11 訪問)

【吉川元春館】
<駐車場他>戦国の庭歴史館駐車場
<交通手段>車

<見所>館跡・堀・石垣・吉川元春・元長墓地
<感想>1泊2日萩・浜田の旅、3城目。吉川元春館は1582年に嫡子元長に家督を譲った後、1583年に隠居所として築造を開始しましたが築造途中のまま元春はここに入ります。1586年に九州遠征の時に元春が死去し、翌年元長も病死し吉川広家の時に完成したが1591年に月山富田城に移ると廃墟化していったようです。
 まず戦国の庭歴史館(有料)に寄りました。館跡からの出土品等が展示しています。館跡は南側が正面になっており真っすぐの正面大石垣が見事です。内部は礎石建物跡、庭園跡があり復元建物もあります。北側の奥に吉川元春・元長墓地があります。

<満足度>◆◆◇

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POYO58

石垣を探すの巻 (2023/01/02 訪問)

遺構★★☆☆☆ 石垣
二俣城を終えて、隣の山まで車でいき、鳥羽山城に行きました。鳥羽山城は二俣城を家康が攻める際に詰城として築いたお城です。こちらも堀尾吉晴によって改修され、ここには屋敷が立っていたようです。
鳥羽山公園の駐車場に車を停めて、約 5分ほど登って行きます。今は石段が整備されています。両サイドには何やら石垣の一部でしょうか?石の列が連なっています。階段を登り終えると、正面に大きな石垣が立ちはだかります。たぶんここが一番良好に残ってる。荒々しい野面積みでした。また石垣も低くはないので何かしら役割が果たせていたと思います。石垣を横切って左から進んで右に曲がると大手門跡が見えてきます。大手門跡には暗渠が残っています。これには結構驚きました。なんなら鳥羽山城で見どころはこれかもしれないです。また大手門跡には当時の石垣や石段も残ってるので結構貴重ですよ。

では本丸周辺を散策。続く

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ヒヨッピー

富士山が素敵 (2023/01/11 訪問)

私は、富士山大好きです。たまたま、足柄峠を通過していると、足柄城を発見!
階段を上ると、ほんまにそこはお城でした。
廓の跡が散見出来て、堀切も確認出来てGOODでした。
更には、富士山が鎮座されてるではありませんか。
ここから見える富士山は、最高です!

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侍ホリタン

生駒親正公が改築した讃岐の名城を訪ねて (2023/01/09 訪問)

駐車場は登山道入口付近、トイレもあり、パンフレットは登山道入口にあります。北二の丸の石垣は規模が大きく迫力ありますが、上段の石垣は崩落の危険があるのでシートを被せてありました。本丸、化粧池にもはっきりとした石垣が残っています。本丸からの引田の町並みの眺めは美しいです。御城印とスタンプは讃州井筒屋敷内にあります。

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侍ホリタン

村上海賊の居城を訪ねて (2023/01/08 訪問)

城跡がある能島へはガイド付きのツアーを事前予約しての上陸になります。令和4年4月から令和5年3月までの土日祝の運行で1日2便から3便です。私が利用したのは13時45分の便で約30名ぐらい、2班に別れての見学でした。乗船場所は能島水軍レストランの裏手、駐車場はレストラン前と向かいの村上海賊ミュージアムにもあります。高さ31mの本丸跡からの伯方・大島大橋と瀬戸内海の眺めは美しいです。豪雨による遊歩道の崩落により矢びつ、東南出丸は立入禁止となっているので注意が必要です。御城印とスタンプは村上海賊ミュージアム内にあります。

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いんげん丸虫

真名城 千葉県茂原市 (2022/12/31 訪問)

真名城(まんな)
土塁、曲輪、堀切など遺構が点在しています。
北条早雲が三浦氏を滅ぼし、晩年に出兵したと
される城跡です。
丘陵の平場、多方面に広がる尾根等、広大な城
郭ですが竹藪が凄くて遺構の確認は少し難しい
かもしれません。
八幡社が中央にあり、そこまでの参道はありま
す。付近に広い場所があるので路駐は可能だと
思います。

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細野城 (2023/01/12 訪問)

 中の城との分岐から標識に従って西の城へ進みます。途中、藪化しているところもありますが、道は明瞭で歩いて行くと西の城に行くことができます。藪がひどく見学が困難との情報がありましたが、整備されたのか、季節がよかったのか、主要な場所は木が切ってあり草も刈ってありました。「ちえぞー!城行こまい」さんのHPでは「主要部の南西尾根に二重堀切があり、その西に分厚い土塁をもつ郭があります」と記載されていましたが、よくわかりませんでした。帰りはぴーかるさんが登城された墓を経由する道を通って降りてきました。西の城へだけ来るなら、こちらの道の方が断然歩きやすいと思います。

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細野城 (2023/01/12 訪問)

 東の城から標識に従って歩いて行くと中の城と西の城の分岐点に出ます。すぐに中の城の城域となります。倒木はありますが、比較的歩きやすく主郭に行くことができました。途中に2カ所の堀切があります。主郭には土塁もあり、南の方は段々となった削平地があります。ただ、このあたりの削平地は後世の耕作などによる改変もあったようで、どこまでが当時のものかわかりません。

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細野城 (2023/01/12 訪問)

 津駅から三重交通バスに乗り長野東バス停下車。降りたところから少し戻ると案内板があり登城口となっています。谷筋を歩いて行くと東の城と中の城、西の城の分岐点があり標識が立っています。谷筋には石垣がありますが、当時のものではないかもしれません。東の城の標識に従っていくと、すぐに堀切を認めます。よく見ると石垣があります。手にした縄張り図には、この堀切はなく戸惑ってしまいました。道は整備され歩きやすく主郭へ行くことができます。帯曲輪等もありました。南東部にも曲輪があると思われますが、竹藪となっていて、倒れた竹で行く手が阻まれていました。強行突破はすることなく戻りました。

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