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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:広瀬氏居館(城びと未登録 岐阜県高山市) (2023/04/24 訪問)

高堂城からの転戦です。城碑前(36.192202、137.207749)に路駐しました。

高堂城を詰城とした広瀬氏の居館です。

辺りは宅地や田畑となっていて遺構らしきものはなく、石碑があるだけです。
一応ここからも高堂城に登れます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=広瀬城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:高堂城 (2023/04/24 訪問)

松倉城からの転戦です。城碑説明板前(36.195048、137.212278)から林道へ、ゲートを開けて進んで、林道終点に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)に広瀬左近将監利治によって築かれたとも云われますが、それ以前の寛正3年(1462年)頃とも考えられていまする。
広瀬氏累代の居城であったが、1583年(天正11年)広瀬山城守宗城のとき、三木自綱によって攻められ落城、宗城は討死しました。
広瀬宗城の子で広瀬兵庫頭宗直は、飛騨を脱して越前国大野城主の金森長近の元に身を寄せました。
その後、三木自綱は家督を二男秀綱に譲り、隠居して高堂城と広瀬城を居城としました。 この三木自綱の時代に城は大きく改修されたそうです。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の命により金森長近が飛騨へ侵攻するとその先導役として活躍し、高堂城・広瀬城に籠もった三木自綱を降伏させ、その後、高堂城も廃城となったようです。

麓の公民館左の城碑・説明板前から主郭まで約2Kmくらいだと思います。
距離はありますが「馬止場」から主郭までの最後200mを除いて比較的歩き易いです。
主郭は山頂にあり、主郭部付近には土塁や堀切などはありませんが、高い切岸はあります。
麓の外気温9℃でしたが、山頂の主郭は風があり、体感で5~6℃。とにかく寒かった。
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=広瀬氏居館(城びと未登録 岐阜県高山市)に向かいます。

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赤い城

茨木小学校 (2023/05/19 訪問)

帰りの新幹線まで少し時間があったので高槻から茨木に移動。
阪急茨木市駅から徒歩で10分くらい、住宅地の中にある茨木小学校が城跡です。
小学校には模擬門があり、その後ろ側に石碑があるはず。
明らかに不審者の挙動、中を覗くと職員の方?がいらしたので声を掛けて入れてもらいました。
「城好きの人は門は見向きもせず石碑の写真を撮りに来るね」と快く。
無事に石碑の写真を撮り、移築搦手門のある茨木神社へ向かいました。
移築門の他、この神社の石垣には城の石垣が移築されたものもあるのだとか。
後で知りました。

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にのまる

【かるた】高松城の読み札

・内堀に おさかなスイスイ 高松城

・天守台 唐造待つ 高松城

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にのまる

この城とこの地の歴史を伝えたいと願う方々の思いが伝わってきます。 (2023/04/08 訪問)

18きっぷ最後の一日は中央本線で長野へ。
久しぶりに降り立った茅野駅は……寒い(*_*)
諏訪大社上社前宮までは徒歩約30分。
道標をいくつも設置してくださっているので迷うことも不安になることもなく山登り。(そんなに高くないです。)
登りきると空堀の左手に三郭・四郭。右手に二郭・一郭。それだけでなく、帯郭がいくつも巡っていて、美しいとさえ思ってしまいました。

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カズサン

新緑に浮かぶ掛川城とカサブランカ (2023/05/24 訪問)

 天守閣がリニューアルオープンする前に、掛川桜の時期、染井吉野桜の時期には桜と土佐漆喰新たになった天守閣は遠くより眺めていたのですがリニューアルオープン前で天守閣には登閣出来ていませんでしたので雨上がり晴天の本日、掛川城に出かけました。
 駐車場は大手門駐車場(有料)を利用。

 大手門を潜って大手橋から天守閣を眺めると新緑に浮かぶように復元天守閣、現存太鼓櫓、復元四足門が輝いて居る、外堀代わりの逆川の土手法面には百合の仲間「カサブランカ」が植栽されてちらほら咲き、6月1日から「ゆり祭り」が開催される様です、少し時期は早すぎましたが咲いてるものも有り、写真投稿致します。
 天守閣登閣前の情景です。

 

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なお

山城の特徴がてんこ盛りです。 (2023/05/12 訪問)

畝状竪堀群、空堀、土塁、堀切・・・と山城の特徴が
てんこ盛りの城でした。
本丸近くは急勾配なので、きちんとした靴で行くのがベストです。

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ryu

築山跡探訪 (2023/05/20 訪問)

午前中に高嶺城、山口城訪城後、訪問。西側に土塁が残る。

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ryu

大内氏館跡探訪 (2023/05/20 訪問)

午前中に鴻ノ峰に登り、高嶺城を探訪した後、昼食後、訪問。
大内氏館跡の龍福寺に参拝、資料館を拝観する。境内もきれいで、大内氏館跡も土塁、庭園などよく復元整備されているが、土曜日というのに観光客は少なかった。

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ryu

高嶺城から山口城へ (2023/05/20 訪問)

高嶺城から下山後、訪城。旧山口藩庁門の背後に高嶺城がある鴻ノ峰がそびえている。

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なお

観桜会の夜桜 (2023/04/03 訪問)

夜の高田城は初めてでしたが、夜桜と高田城三重櫓の風景を眺めながら
散歩するのは最高でした。

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ryu

高嶺城(鴻ノ峰)に登る (2023/05/20 訪問)

JR山口駅前でレンタサイクルを借り、山口市歴史民俗資料館に立ち寄り、資料をもらう。資料館の方は山口大神宮からの登山道は分かりづらくイノシシも出るからと木戸神社から車道伝いのコースを勧められたが、当初計画どおり山口大神宮から登る。
急な登りだが、テープを頼りにメインの踏み跡をたどれば迷うことはない。
電波塔までの急登の後は、尾根伝いに主郭のある山頂まで曲輪跡や石垣が連続して見応えがある。

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ぴーかる

直登してしまったばっかりに‥‥ (2023/04/08 訪問)

【与谷城】
<駐車場他>駐車場はなし。赤い橋を渡った左手<34.685981, 132.492369>に駐車した方が良い。
<交通手段>車

<見所>堀切・眺望
<感想>第2弾安芸高田・北広島の山城攻めの旅5城目。初投稿いただきます。与谷城の築城は定かではありませんが、現地説明板を要約すると、1336年毛利元就の祖毛利親衡が反足利の旗をこの城にて挙げ、1350年寺原時規はこの城に拠り吉野朝(南朝)に味方した。1532年からは吉川氏の家臣粟屋氏が3代続いて3代目の1600年栗屋元信の時移封とされています。
 今年の第1弾の2月に来た時には途中まで進みましたが雪がすごくて断念しました。今回は登城は出来ましたので初投稿詳細に、といきたいところですが、タイトル通り直登したので登城路を通っていません。一応途中まで案内を。上記ポイントの赤い橋の脇に城跡の説明板があります。個人サイトの方に車で行ける所まで行けるように掲載されていますが現在は道は途中で悪路になっているので上記の場所に駐車した方が良いです。赤い橋から進むと分かれ道はありますが道なりにずっと直進していくと川を右手にして進むようになります。倒木があったりしてかなり進みにくいです。丸太橋がある場所の右手の山頂が主郭になります。私はこの場所から直登して主郭に一騎攻めしました。登城路は丸太橋から更に川を遡って十二段滝まで行って過ぎたあたりに方向の案内版があるようです。登城路はどんな感じになっているかは分かりません。
 城跡はなかなか荒れていて入り込めない曲輪があったりして明瞭ではありません。最南に主郭があり三方が超急斜面になっています。大堀切があり北方向に尾根曲輪が伸びています。主郭から東方向にだけ眺望がひらけている箇所があり絶景です。城跡説明板には色々な遺構曲輪が書かれてありましたがよく分かりませんでした。
 ここから直登話で、とりあえずこの直登は禁止で。直登してしまったばっかりに、登りは這いつくばって、降りはほぼ尻もちと転がりながらなんとか降りれた状態でした。カメラは一部壊れるわ、ストックの石突ゴムはなくなるわ、ズボンは泥だらけになるわでえらい目にあいました。いい事が1つだけ。斜面の中間に巨石がバランスよく落ちそうで落ちない状態のを発見できました。

<満足度>◆◆◇

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健吾

出張先で朝一小田原城 (2023/05/16 訪問)

出張で神奈川にいき、朝時間がありましたので小田原城を訪問しました。

馬出門、銅門、常盤木門。
天守閣より少し手前あたりにサルがいます。
天守の高さは全国第7位
最上階には摩利支天が祀られています。
城主は稲葉氏と大久保氏
ここを本拠地としたのは小田原北条氏

総構(そうがまえ)といわれる堅固な守りを誇っていた小田原城であったが、豊臣秀吉軍の圧倒的な数に耐えきれず陥落した

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todo94

天気予報通り (2023/04/15 訪問)

ついつい、「いみじの」と言ってしまう私にとっては高レベルの難読地名、「いじみの」城、かなり昔から狙っていた城ですが、ついに攻略にこぎつけました。中学校に隣接する小山の頂上に立派な城址碑が建っていました。天気予報通り、雨が落ちてきましたが、サクッと攻城できる城で事なきを得ました。この日の城めぐりはこれにて終了。予約時刻にはかなり早くなってしまいますが、献血ルームばんだいゆとりろへと向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:松倉城 (2023/04/24 訪問)

高山城からの転戦です。シンボル広場(36.126489、137.231168)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1579年(天正7年)頃に三木自綱によって築かれたとも、永禄年間(1558年〜1570年)に自綱の父良頼の頃に築かれたとも云われています。
三木氏は1411年(応永18年)京極高員の代官として三木正頼が益田郡竹原郷に下向したことに始まると云われています。四代三木直頼のときに益田郡の大半を横領して桜洞城を築いて居城としました。
五代良頼の時代になると大野郡へ進出して飛騨国司の姉小路家を滅ぼし、六代自綱のときには高原諏訪城主の江馬氏などを降して飛騨大半を平定しました。
1585年(天正13年)三木氏は秀吉と対立する越中の佐々成政と結んだことから、秀吉の命を受けた越前国大野城主金森長近の侵攻を受けました。
このとき自綱は広瀬城におり、松倉城には秀綱が籠城して金森軍と戦ったが内応者が現れ落城し、秀綱は城を脱して信濃へ逃れる途中に土民に襲われ死んだそうです。
三木氏の後に飛騨に入封した金森氏は高山城を居城として築き、松倉城は廃城となったと云われています。
現在残る主郭部の石垣などの遺構は、他の三木氏に関係する城から高石垣などの遺構が確認できないこともあり、金森氏など織豊系の武将によって改修されたものとも考えられているそうです。

城址に向かう途中に堀切がありますが、ほとんど埋まっています。
石垣が素晴らしいです。一部ブルーシートがかかっています。
北アルプスが見える眺望は絶景です。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=高堂城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:高山城 (2023/04/24 訪問)

高山陣屋からの転戦です。城山公園駐車場(36.139798、137.263359)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504〜1521年)に高山外記によって築かれた天神山城が前身だそうです。高山氏は飛騨国守護京極氏の家臣で守護代をつとめた多賀出雲守の一族だそうです。
1558年(永禄元年)桜洞城主三木自綱と高堂城主広瀬宗城によって高山氏は滅ぼされると、自綱は叔父の三木久綱を天神山城主とし、1575年(天正7年)松倉城を築いて居城としました。
1585年(天正13年)三木自綱は越中の佐々成政と結んで羽柴秀吉と対立すると、羽柴秀吉の命によって越前国大野城主金森長近が飛騨国へ侵攻し、自綱は高堂城と広瀬城が落城すると降伏、最後に残った三木秀綱の籠る松倉城も落城して三木氏は没落しました。
飛騨へ入部した金森長近ははじめ鍋山城を居城としていたが、1588年(天正16年)天神山城を改修して高山城と改称し居城としました。
1692年(元禄5年)金森氏六代金森頼時は出羽国上山へ転封となり、以後飛騨国は江戸幕府直轄領となって高山陣屋によって治められ、高山城は廃城となりました。

現在は城山公園として整備されています。
高山城は山頂の本丸、北山腹に二ノ丸、北麓の護国神社の所が三ノ丸のようです。
本丸にある使者之間の石垣は復元されたものだそうで、本丸周辺には所々石垣が残っています。
二ノ丸は公園となっており金森長近像があります。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=松倉城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:高山陣屋 (2023/04/24 訪問)

桜洞城からの転戦です。プラザ陣屋駐車場(36.139162、137.257336)に駐車しました。

高山陣屋の前身は金森氏の下屋敷であったといわれています。
1692年(永禄5年)高山城主金森頼時は出羽国上山へ転封となり、飛騨は江戸幕府直轄領となりました。
関東郡代伊奈忠篤が飛騨代官の兼任を命ぜられ、1695年(永禄8年)金森氏の下屋敷を代官所と定めたのが高山陣屋の始まりとされています。
飛騨が幕府の天領となったことで、高山城は廃城となり、三の丸の米蔵等が高山陣屋へ移築され、これは今も現存しています。

全国で唯一現存している代官所で、古い町並みとともに飛騨を代表する観光名所です。
たくさんの観光客がいました。外国の方も多かったです。
高山陣屋内部の撮影もOKでした。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=高山城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)7日目:桜洞城 (2023/04/24 訪問)

萩原諏訪城からの転戦です。桜谷公園入口(35.881730、137.211201)から進入し、先にある駐車場に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)に三木直頼によって築かれたと云われています。一説には直頼の祖父久頼によって築かれたとも云われています。
三木氏は1411年(応永18年)姉小路尹綱の乱を鎮圧した功によって、京極高員(高数)が足利幕府より飛騨国竹原郷を得ると、三木正頼が京極氏の代官として竹原郷に入部したことにはじまります。
二代三木久頼の代に主家の没落に乗じて竹原郷を横領し、四代三木直頼は三木氏中興の祖といわれ、北飛騨の江馬氏や姉小路氏などと接触して三木氏の勢力を拡張します。
六代三木自綱の代に全盛を極め、1579年(天正7年)に松倉城を築城して居城を移すまでの間、三木家の居城でしたが、それ以後は松倉城の支城となって自綱の子信綱が城主となります。
なお、三木自綱は夏を松倉城、冬を桜洞城に居城とするようになり、それぞれ夏城、冬城と呼ばれたそうです。
1582年(天正10年)江馬輝盛が南飛騨へ侵攻すると、吉城郡荒城川で迎え撃ち大将江馬輝盛を討ち取って江馬氏の本城高原諏訪城を落とし、飛騨の大半を支配下に置きましたが、 信長死後、越中の佐々成政に与して羽柴秀吉と対立することとなります。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の命によって飛騨に侵攻した越前国大野城主金森長近を自綱は高堂城、広瀬城で迎え撃ったが敗れ降伏しました。
自綱の次男秀綱の籠る松倉城も落城して三木氏は没落し、萩原諏訪城が築かれると桜洞城は廃城になりました。

桜谷公園にある地図(一番はじめの橋の近く)を確認すると桜洞城への道が書いてあり、そこの橋を渡って右側奥に階段があり、それを登って西へ進むと城址です。
現在高台の上は畑として開墾され、荒廃しています。
高台の西側に桜洞城の標柱が建ち、土塁・空堀・石積の遺構がわずかに確認できる程度です。
攻城時間は25分くらいでした。
次の攻城先=牛臥山城(城びと未登録 岐阜県高山市)、山下城居館(城びと未登録 岐阜県高山市)、飯山城(城びと未登録 岐阜県高山市)を経由して高山陣屋に向かう予定でしたが、予定時間の遅れにより、直接、高山陣屋に向かいます。

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赤い城

民家の前の石碑 (2023/05/19 訪問)

高槻駅から徒歩で10分ちょっと。
この日は高槻城から歩きました。
JTの大きな工場の前の道を進み、スイミングスクールのとなりの道に入ると皆さんの投稿にもある民家に。
綺麗に手入れされた植栽の中に石碑が立っていました。
前の道は堀跡かなぁ?なんて思いながら周辺を歩いてみましたがやはり遺構はなさそうです。
石碑だけですがあること自体が有り難いです。

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