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小城小次郎

綺麗にクリーニングされていた (2021/10/23 訪問)

数年ぶりに訪ねた周山城は一部の石垣が綺麗にクリーニングされていた。「天守台」について現地で考えていたのだがこれはもしや天守台ではなくて二つ並んだ神社だったりしやしないかと思ってしまった。根拠はないが。

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カズサン

幕末築城の龍岡城は五稜郭 (2010/09/26 訪問)

 日本で海から遠い地信州佐久の田野口へ幕末、三河大給松平奥殿藩が飛地への本領移転を願い出て、洋式稜保の五稜郭龍岡城を築城、設計は藩主松平乗謨自ら行い、その形状から龍岡五稜郭と呼ばれてる。

 龍岡城へはまだ登城して無く12年前平成22年9月下旬、車を飛ばして日帰り初登城。
 車は表門の近くに「五稜郭であいの館」が有り、同駐車場を利用。

 表門橋、表門跡から周囲の星形に成ってる水堀と腰巻石垣をぐるっと廻る、通用門跡、通用門より現存建物台所櫓が見える、校庭を通って観察撮影、裏埋め門跡、水堀と空堀の境界、水堀の水位調整箇所、一ヶ所砲台の跡が有る情報を得て居たのですが小学校内ですので余り詮索出来ず確認せず、黒門跡、黒門から空堀から水堀に代わり表門まで続く。
 五稜郭であいの館で展示資料を閲覧、一部撮影、帰り北方向約300~400mの所に龍岡城大手門桝形跡が石垣と案内板、城名石碑が道沿いに在り観察見学、車は路駐。

 幕末の慌ただしい中、欧米の圧迫感を感じ、三河の奥殿から信州奥に本領築城し、現在もう一つの五稜郭として現物遺跡を見る事が出来るのは大変ありがたい事です。
 東側の山稜に田口城が在り田口城からの眺望で龍岡城の五稜郭形状を確認出来るそうですが当時山城に登るという選択肢がなく城郭放浪記さんなどの写真館の写真を眺めて居りました。

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イオ

安宅勝山城(和歌山県西牟婁郡白浜町塩野) (2022/02/06 訪問)

(続き)

安宅勝山城の主郭は四方を土塁で囲み、北辺の土塁上からは安宅荘と日置川を一望することができます。ここからだと安宅本城と支城群の位置関係が一目で把握でき、昨年に安宅氏城館群をめぐっているだけに実に見応えがありました。主郭から東下の帯曲輪(東辺に石積みあり)に下り、安宅勝山城最大の見どころの東尾根の五重堀切に向かうと……なんじゃこりゃあ! 岩盤を開削した堀切だというのは承知していましたが、その際に出た石が堀切の内外に積まれていて、さながら総石垣の堀切が連続しています。東尾根は両側が急斜面の細尾根で、一番内側の堀切は深さも幅もあり、東尾根に対する徹底的な防御意識が感じられました。

南尾根の巨大な三重堀切に始まり、武者隠しの土塁と畝状空堀群、副郭の土塁に施された石積みと雁木、主郭からの眺望…。これらだけでも十分に満足でしたが、この石積みされた五重堀切はこれまでに見たことのない圧巻の光景で、直登と藪漕ぎの苦労が何倍にもなって報われました。

さて、五重堀切を越えて東尾根の先の古武之森城を訪れ、また戻ってきて南尾根から下山します。来る時に見掛けた案内表示から西斜面に降りて行くと、整備された登城道が続き、あっという間に山麓の梅園の北東最上部に着きました。直登するしかない思い込んでいたので登るときは登城道を探そうともしませんでしたが、国史跡の追加指定を目指して近年に整備されたのかな? などと、のんきなことを考えていられたのもここまで。梅園から下は道が無くなり、目印のピンクリボンはあちこちに見られるものの、とても踏み込めないような藪の中だったりで、どちらに進むべきか途方に暮れてしまいました。それでも斜面を直降しつつ、最後は倒竹を踏み砕きながら竹藪の立体迷路を突破して何とか下山しましたが、精も根も尽き果てました。やれやれ…。

…ということで、安宅勝山城の遺構は本当に素晴らしく山城好きなら間違いなく満足できると思いますが、登城道が中腹からしか整備されておらず直登・直降と藪漕ぎの覚悟が必要なため、なかなか安易にはおすすめしづらい、もったいない城でもあります。梅園の北東最上部までたどり着ければ後は問題ないんですが、どう行くのが正解なんでしょうね。あるいは国史跡に追加指定されたら登城道も整備されるのかなぁ…。
 

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ばばよ

山であり城、城であり山 (2021/10/31 訪問)

地形的にはがっつり山ですが、空堀や虎口、曲輪は明確に城の構造をを呈しています。
地形を利用しつつ計画的に城を作ったことがよく伝わってきます。

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todo94

物見櫓跡 (2022/01/02 訪問)

物見櫓跡にたつ説明板をチェックしたのみです。国済寺の土塁、いつか確認したいと思います。

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赤い城

雷神社の背後に (2022/02/13 訪問)

雷神社の拝殿前にパンフレットが置いてあります。
駐車場も神社のものを利用し、案内板に従って進むとまずは大きな空堀があります。
この堀は未整備ですが大きく深いことはわかります。
そのすぐ先に鳥居があり、登ると主郭に。
土塁が囲んでいて土塁上に石碑が建っています。
主郭は細長くなっていてその先一段下がると二郭に。
二郭には物見台も設置されています。
二郭の先から下ると門のような感じの遺構が残ります。
さらに降りると民家の敷地っぽいので引き返しました。
島田氏の居城でしたが正木氏の攻撃により落城しました。
規模は大きくないのですが地元の方により整備されて歩きやすくなっていました。

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カズサン

黄金色下見板張天守が良いですね! (2010/09/20 訪問)

 昭和45年に古写真そっくりに鉄筋コンクリート造り復興天守閣が建てられました、諏訪に出張、社内旅行、プライベート旅行と良く訪ねて居る所ですがデジタルデーターでの写真は撮って無く12年前の平成22年9月、諏訪市高島城へ日帰り登城しました。行きは東名、東海環状、中央道。帰りはナビの指示で中央道、甲府から地道の身延街道、清水から東名のワンループ走行でした。

 車は天守閣東直下の無料駐車場を利用。諏訪市役所も西近ですので利用可能。

 先ずは写真撮り映えのする水堀側へ、天守閣、土塀、隅櫓、冠木門の下見板張りの色が黄金色と言うかブラウン系で遠目で見ると黄金色に見えて他の城郭に無い景観です、杉板の真新しい感じでしょうか?
 本丸周囲を廻り、内部に入り隅櫓、土塀の副柱側の支柱が入った部分を観察、天守台、小天守台、天守閣に登閣、立体模型を観察、最上階より周囲を俯瞰、諏訪湖も見渡せます、往時は湖が天守台近くまで来ていたそうで浮城とも呼ばれていた。
 降りて城下を散策、三の丸跡の看板、当時は三の丸全て家老屋敷だったそうです。

 近世城郭としては日根野高吉が築城貢献し、高吉が関ヶ原の年に病没、子の吉明が若年により転封、代わりに諏訪氏が故郷の諏訪に入封し高島藩として10代続き明治を迎える。

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トク

(謎) 福岡城には天守があった? (2022/02/20 訪問)

福岡城にはこれまで天守はなかったとされてきましたが、近年の資料で1620年に細川忠興が息子の忠利にあてた手紙に「長政公は天守を壊すと語った」と書いてありました。
もしこれが本当だとすれば、福岡城には天守が建っていたという事になります。気になってさっそく福岡城天守台を見に行ってきました。

これに関して、これまで有識者の方などから様々な意見があり、失礼とは思いますが私の意見想像を少し。
福岡城は1601年に築城開始、1607年にほぼ完成しました。1646年の正保の絵図には、大中小の天守台はありますが天守は描かれていません。(小中天守には矢蔵跡の記述あり)
もし大天守があったとしたら、天守台の大きさからして五重六階ほどのものが建つそうです(確かにデカイ天守台です)。

【ここからは私の想像ですが】
その頃、豊臣とその恩顧の大名に次々と悲劇が起こります。加藤清正は、名古屋城普請や家康と秀頼の会見を成功させた直後の1611年に謎の病死(徳川からの毒殺説あり)。1615年には大坂の陣で豊臣秀頼が滅ぼされます。1619年には福島正則は広島城の石垣修理を届け出たにもかかわらず、謀反の疑いをかけられ改易。 長政からすれば、次は間違えなく自分が狙われる番だと思ったでしょう。そこで、当時まだ大天守はなかったが、小中天守の矢蔵を取り壊し、その廃材を1620年から始まった徳川大坂城の普請に差し出し、天守は建てないと表明して徳川幕府に忠誠心を見せる事で、黒田家の安泰を図ったのではないかと思います。(そして安堵したのでしょうか、その直後の1623年長政はこの世を去ります)

しかし、私としては大天守があったという夢は持ち続けたいので、これからも密かにそうしたいと思います。(以上、大変失礼しました)

[福岡城へのアクセス]:JR博多駅より、市営地下鉄で赤坂門または大濠公園下車徒歩5分または西鉄バス3番系統福岡城鴻臚館前下車徒歩1分です。

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やなぎぶそん

ポテンシャルの高いお城 (2021/12/29 訪問)

石垣が結構崩れているので原型が分かりにくいですが、総石垣でさすが国史跡のお城。見応えのあるお城です。
また、麓にある瓜生羅漢石仏はとても良い雰囲気で、お城と共に周ることをおすすめします。

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イオ

安宅勝山城(和歌山県西牟婁郡白浜町塩野) (2022/02/06 訪問)

# 安宅勝山城(城びと未登録)は安宅本城の支城にあたるため、安宅本城で投稿します。

江戸期の軍記物「安宅一乱記」によれば、安宅勝山城は戦国中期の安宅氏の跡目争いにおいて安宅安次丸が籠った城とされますが、詳細は不明です。

安宅勝山城は安宅荘の南に聳える勝山の頂部に位置し、平地の居館である安宅本城の防衛のために築かれた支城群のひとつで、南北二段の曲輪を土塁で囲み、東西両斜面に帯曲輪を配し、南、西、東の尾根を堀切で遮断した縄張であり、国史跡「安宅氏城館跡」には含まれていませんが、現在、追加指定を目指して活動されているようです。

和歌山県にもまん延防止等重点措置が出されたため、県外への移動は控え、この日は昨年に安宅荘を訪れた際に時間切れで行けずにいた安宅勝山城(と古武之森城と大向出城)に行くことに。キンヤさんの投稿を拝見して以来、行きたい気持ちを募らせていましたが、一年越しでようやく叶えることができました。

塩野集落の日生神社(勝山城の説明板あり)の駐車場に車を駐めて登城開始。下調べでは登城道はなく急斜面を直登とのことでしたが、集落の入り口から随所に案内表示が設けられており、登城口とされる廃園となった梅園の麓までは迷うことなくたどり着けました。しかし……どこから登れと? 梅園は1mほどの高さの石垣の上にあり、すっかりシダの藪と化していて足を踏み入れられそうな隙間も見当たりません。それでも石垣をよじ登り梅園の南側に迂回して、防獣柵のセンサーから発せられる電子音(銃声やサイレン音)に追い立てられながら、直登すること30分あまりで南尾根の稜線に到着。ところどころにあるシダの藪を避けるため、ずいぶんと南に回り込んだ感覚はありましたが、尾根道を北に進んでもなかなか三重堀切に着かず、不安になりだした頃に麓で見たのと同じ勝山城の案内表示を見付けてほっと一息。そこから少し登って行くと南尾根の三重堀切に着きました。

南尾根の三重堀切は幅も深さもあり三日月状にカーブしながら竪堀として落ち込んでいて、南尾根を完全に遮断しています。三重堀切の北東上(副郭の南東下)には周囲を武者隠し状の土塁で囲んだ腰曲輪があり、三重堀切側の土塁の下には畝状空堀群が設けられています。副郭の北辺は主郭の切岸、残る三方は分厚い土塁で囲み、西部には平入虎口が、東部には土塁に上るための雁木状の石段が見られます。また、安宅氏の城の特徴として他の支城にも見られますが、安宅勝山城でも土塁内側には石積みが施されていました。西部の虎口を出ると西下には帯曲輪が広がり、北端で竪堀を西下に落としています。竪堀を越えると、主郭の西斜面に数段の腰曲輪があり、最下段は浅い土塁が取り巻いています。腰曲輪の下では浅くなった堀切が西尾根に続く尾根道を断ち切っていました。

さて、西尾根は堀切までで引き返して、いよいよ主郭に向かいます(続く)。
 

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ばばよ

東京駅からはバスが便利 (2021/10/07 訪問)

小湊鉄道にこだわらないのであれば、東京駅からは京成系のバスが速くて便利です。
東京湾アクアラインを経由して1時間半かかりません。
バス停からは電車より歩く必要がありますが。
自分は東京駅でJRバスと乗り場を間違え、一本やりすごしました。

天守は模擬と割切り、中の資料館を楽しみましょう。
遠くから眺める天守や城下の街並みは風情があります。
とんかつのお店、おいしかったです。

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ぎりょう

地震被害の復旧工事始まる (2022/02/20 訪問)

昨年2月の地震で被害のあった白石城の修復工事が始まったとのニュースを聞き白石市を訪問した。現在は大手一ノ門、ニノ門に足場が組まれ工事に取り掛かっている。工事は今後、三階櫓(天守閣)へと移り、今年9月まで休館となる予定だが、4月上旬以降は工事の無い土曜・日曜には見学会を実施の予定という。
城址訪問後は城下町歩き。旧白石城の門が移築されている延命寺、当信寺、片倉家中武家屋敷(旧小関家)、片倉家御廟所へ。
またその昔、紙問屋(白石和紙)、太物屋などを営んだ豪商の屋敷「壽丸屋敷」(すまるやしき)を訪問。ちょうど「ほっこりおひなさま展」が開催されており、幅8mの雛壇に飾られた明治・大正・昭和中期までのお雛様を見学することができた。開催期間は3月13日(日)までという。

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赤い城

坂東三十三観音の廿七番目、飯沼観音。 (2022/02/13 訪問)

飯沼観音の圓福寺が城跡です。
圓福寺の駐車場がありますが月極の駐車場も隣接していて注意が必要です。
訪問時、仁王門は改修中でした。
本堂の前に銚子大仏が鎮座し、五重塔も建っています。
千葉氏一族の海上氏の城ですが遺構は残っていません。

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ヒロケン

望楼型天守が恰好い~ (2014/08/15 訪問)

高知城は高知県高知市の標高約44mの大高坂山に築かれた梯郭式平山城で、長宗我部元親公が築いた河内山城の跡地に遠江掛川から土佐24万石を得た山内一豊公が築いた城です。
高知城の天守は四重・六階望楼型天守で現存天守12城の一つで、山内一豊公の前任地である掛川城天守を模して造られたといわれています。
現在の高知城は、天守・御殿・櫓・蔵・門・塀など15棟が重要文化財に指定され、天守をはじめ、本丸の建物がほぼ完全に残る城であり多くの遺構が残されており、お城ファンのみならず観光地として多くの方の目を楽しませています。

普通天守は、石垣等で造られた天守台の上に築かれるものであるが、この高知城は天守台の無い天守で、懐徳館とも呼ばれる小型の御殿と繋がっている珍しい天守です。

この高知城は、現存天守をはじめ多くの建物が残り、重要文化財に指定されるなど建物が有名ですが、穴太衆が積み上げたとされる石垣も見事なもので高知城へ行かれた際は、二の丸・三の丸の石垣を見られることをお勧めします。

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小城小次郎

「壊されなかった」ことの持つ意味 (2021/10/23 訪問)

史跡指定箇所だけでも9か所を数え、残っていないようで案外残る。「総構え」に留まらず洛中洛外の境界線、防火・防水堤防などいろんな目的と役割を担っていたようで、だからこそ秀吉の世が終わっても壊されなかったのだろう。

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やなぎぶそん

THE TAKEDA CASTLE (2022/01/22 訪問)

石垣を使わない土のお城で、丸馬出、三日月堀と武田氏らしいお城でした。お堀、土塁、枡形虎口など見所満載の素晴らしいお城です。大手門は工事中なのかショベルカーが居座っていました。駐車場から新府城へ行く際、県道を渡らないといけないのですが、県道を走る車は結構スピードが出ており、交通量も比較的多く、横断歩道もないので、渡るときは注意が必要です。

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チェブ

番外編 加藤塚・加藤神社の巻 (2022/02/11 訪問)

先日、投稿した「上野原城」を調べていると、城主の加藤 信景さんが主君の武田 勝頼さんを救援する為、駆けつけようとするが、武蔵国 箱根ケ崎で北条氏に討たれて滅亡。と、ありました。

???、何で?

勝頼さんが逃れようとしていた「岩殿山城」は「上野原城」から徒歩で5時間弱の距離。
一方、加藤氏が討たれた 箱根ケ崎から「岩殿山城」は徒歩で10時間ちょっとと、離れてます。

「上野原城」から助ければ、いいのに。主君の一大事に何でわざわざ北条領にいたの?と、疑問。

加藤氏が討たれた、東京都 西多摩郡 箱根ケ崎の「加藤塚」は我が家から徒歩で30分。
一見は百聞にしかず。
いざっ「加藤塚」!です。

「加藤塚」は新青梅街道から166号へ入れば、すぐ小さな お社が見えます。
説明板を発見。
『加藤 丹後守 景忠は妻子及び家臣を連れて当地まで逃れて来た』、、、!武田氏を見限ったのか。
ここで討たれてたのも納得です。
「加藤塚」には、お花が手向けてありました。当時、塚をお祀りしたのも箱根ケ崎の村民なんだとか。

この日の前日。東京は積雪予報に、あたふたしました。
それでも、加藤神社の梅は、健気に咲いてます。
村民たちは、敵国の武将に対しても健気です。

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T-Shionoya

緑色片岩石垣の徳島城 (2021/11/27 訪問)

昨年11月の旅行で寄った城の最後は徳島城。

徳島県吉野川の河口部は、河川が網化したデルタ地帯。
平時は水運の交通網、戦時は天然の水堀となったことでしょう。

そんな三角州の1つにポツンと小さな渭山があり、そこは元々中世の渭山城があった場所。
秀吉が四国を平定した戦国時代末期、蜂須賀小六正勝の嫡男家政がこの地形を活かして徳島城を築城。
以後、江戸の終わりまで蜂須賀氏の居城となりました。

現在は徳島中央公園となっており、南の寺島川は埋没したものの、北の助任川は残存。
訪問時はまず鷲の門など平地部をまわり、続いて東坂口から東二の丸と広々した本丸へ。味のある石垣は地元の緑色片岩が積まれており、江戸期の東二の丸には2代目天守の御三階櫓が建っていたとのこと。
そして本丸西側の虎口から下って行くと、右に左にカクカク曲がる石垣の通路が戦略的で魅力的。

家政が"徳島"と改名した三角州の城が、私の城巡りの116城目となりました。

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POYO58

本多忠勝の城! (2022/02/19 訪問)

桑名城は本多忠勝が築城しました。今は石垣と堀だけが残されています。桑名城の駐車場には本多忠勝の像があります。桑名城跡は今公園になっています。本丸にはかつて天守があったとされています。しかし今は石碑がそこにあります。桑名城の本丸から駐車場を横切って行くと、復元された蟠龍櫓があります。この櫓を支えている石垣はおそらく現存です。またその目の前には七里の渡跡があり、これは伊勢国一の鳥居です。蟠龍櫓の近くの川には船がたくさん止まっていて、そこにはなんと石垣が奥まで続いていました。見に行こうと思ったら親に時間がないと言われ引き返しました泣。おそらくその石垣がこの城の見どころだと思います。また公園の端には辰巳櫓がありましたが、明治維新の新政府軍によって焼かれました。今はそこに大砲が置かれています。復元をしてほしかったです。

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ばばよ

関東の石・岩の城 (2021/08/19 訪問)

関東にしては石、岩の存在感が強いです。
鏡石の存在感よいです。
いい石がとれるのでしょうか。
そして城としての特異点はやはり猫でしょうか。

さのラーメンは青竹打ちのちぢれ麺が特徴です。
さのまるはゆるキャラグランプリ2013年王者です。
ゆるキャラとしては完成度高いですね。
北関東は古くは群馬県のぐんまちゃん、埼玉県深谷市のふっかちゃんと充実しています。

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