川湊と推測される石敷遺構の上に露出展示すべく建設された「あさみゅー」一乗谷朝倉氏遺跡博物館!
いいですよ。
大・小・小・小・小と連なった三角屋根がカッコイイ!
内藤廣建築設計事務所さんとセンボー建築事務所さんJVの設計だそうです。
あいにくの天気(1月なのに雪ではなくすごい雨)でしたが、復元町並みも見てきました。
山の上の一乗谷城へは、とても無~理~。またいいお天気の時にチャレンジしてみます。
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2023/01/10 11:58
素晴らしいミュージアムができました。 (2023/01/09 訪問)
川湊と推測される石敷遺構の上に露出展示すべく建設された「あさみゅー」一乗谷朝倉氏遺跡博物館!
いいですよ。
大・小・小・小・小と連なった三角屋根がカッコイイ!
内藤廣建築設計事務所さんとセンボー建築事務所さんJVの設計だそうです。
あいにくの天気(1月なのに雪ではなくすごい雨)でしたが、復元町並みも見てきました。
山の上の一乗谷城へは、とても無~理~。またいいお天気の時にチャレンジしてみます。
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2023/01/10 11:15
1/21(土) 岡崎城リニューアルオープン!
2023年1月21日(土)9:00、岡崎城はリニューアルオープンいたします。
リニューアル後の岡崎城では、岡崎城の成り立ちから城下町の賑わいの様子などを模型・ジオラマやAR(拡張現実)を用いて紹介し、映像と音で江戸時代にタイムスリップするような気分を体感いただけるシアタールームを完備しました。
過去にご来城いただいた方にも、新鮮な気持ちでお楽しみいただけると思います。
新しく生まれ変わった岡崎城に、ぜひお越しください。
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2023/01/10 09:42
対長曾我部のための築城とする誤った認識について (2021/08/10 訪問)
〇築城時の長曾我部ばまだ脅威ではなかった
天正3年はいまだ長曾我部は土佐を出るか出ないかの頃で、翌三年には土佐中村の一条との戦いも起きており讃岐の瀬戸内海側の将が長曾我部を意識して築城したとするのは不自然。むしろ後述の通り三好や毛利とこの前後で戦っており、長曾我部ではなくそれらの近くの敵勢との絡みからの築城と考えるのが自然。
〇前年に三好に居城を落とされている。
天正2年に阿波の三好長治の軍勢が香西氏と香川氏攻めをしており、三好勢は勝賀山城まで攻め込んでいる。その際に麓にあった居城の佐料城は三好勢に落とされている可能性が高い。築城はそれまでの居城の佐料城が落とされたので新しく居城を築く必要があったと考えるべき。実際に後の長宗我部との戦いで佐料城は使われていない。
〇三好との敵対関係
三好氏の讃岐への侵攻は頻繁でこの藤尾城の築城開始の年と言われる天正3年にも寒川氏の昼寝城攻めが行われているなど、前年に攻められた際に和議を結んだとはいえ三好との関係は緊張のなかにあった。この年に香川氏と共に三好に付いた金倉氏を攻めているあたりからも敵とも味方とも言えない微妙な関係であることが伺える。
〇毛利の讃岐侵攻
三好に攻められた3年後の天正5年には善通寺周辺で毛利勢と三好勢の合戦が起きている。
この時に讃岐衆は三好に付いたとあるがこの讃岐衆のなかに香西の名があることから時には三好の敵となり、時には三好の味方となりながら毛利とも敵となったり味方になったりしていたと考えられる。
永禄の児島攻めは毛利側として戦い、その時は三好は毛利の敵の浦上に味方して戦っている等関係は本当に複雑。
<まとめ>
以上の事から讃岐に於いては香西氏や香川氏を中心に三好、毛利との激しい外交戦があり、ここに織田信長や足利義昭とのやりとりもあり非常に混沌としている。
そもそもが天正2年に三好が香西を攻めた理由などももっと深く考察すべきなのだが、なぜかこの頃にはまだ土佐あたりをウロウロしていた長宗我部への対策で城を築いたなどと専門家までもが誤って発信しているのでその考察も進まない。
面白いのは天正2年に香西攻めの帰途に三好氏は大窪寺を燃やしたのだが、寺はこれも長曾我部が焼いたと伝え、増補三代物語でも「天正2年に長曾我部が焼いた」と記している。
いまだ土佐か阿南かあたりにしかいないはずなのに大窪寺を焼くとはどんな能力なのかと思う
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2023/01/10 06:49
奈良の城めぐり⑦ (2022/12/10 訪問)
事前リサーチをしっかりしていなかったので町役場に乗り付けてしまいました。役場は藩士の屋敷跡とのことです。町民ホールのあたりが陣屋跡とのことでこちらに説明板もあります。説明板の前も駐車場になっています。
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2023/01/10 06:33
高校と中学校が城址 (2023/01/05 訪問)
学校の門から入らないと城址の石碑や案内板が見られません。遺構も学校の中をうろうろしないといけなかったので気が引けました。
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2023/01/09 22:57
2023/01/09 22:07
お寺になった城址 (2023/01/05 訪問)
お寺の周りに土塁がありました。入り口の前に駐車スペースがあります。
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2023/01/09 21:51
遺構多いが謎の山城 (2023/01/08 訪問)
瓜生東バス停から15分ほどで山麓登城口に到着、整備されたつづら折りの階段を登ると物見岩という磐座にたどり着いた。ここで一休みしようとすると「感状山城登城口」の標識が!。ここからきつい山登りかと思いきや、結果的にはそれほどでもなかった。曲輪には礎石と思われる石がたくさん残っており、崩れているが石垣も残っている。復原図にあるように多くの建物が建っていたことは明らかだが、詳しいことは史料が無くはっきりしないとのこと。現地へ行って想像力を働かせるのが楽しい城です。
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2023/01/09 21:31
一乗谷城朝倉氏遺跡と朝倉氏歴史資料館へ (2023/01/07 訪問)
青春18切符が余っていたので、長年行きたかった一乗谷へ向かう。
電車の時間の関係上、一乗谷城まで散策することはできず、朝倉氏遺跡と朝倉氏歴史資料館へ。
朝倉氏遺跡は、最寄の一乗谷駅から徒歩で30分程度。
朝倉氏遺跡に行く途中の踏切を過ぎてから少しすると遊歩道があり、当時の街並みの遺構をみながら向かうことができるので退屈はなし。
一乗谷復原町並を見た後に朝倉氏館跡へ。
高台からの景色は素晴らしかった。現代の建物が少なく、当時もこんな感じだったのかな~と思わせてくれる風景だった。
散策時間は40分程度。
朝倉氏館跡に行った後歴史資料館へ。
偶然に資料館の無料ガイドが始まる時間だったので、参加。
ガイドの人が言っていたが、資料館は県がかなり力を入れて作ったようで朝倉氏館の一部を原寸大で再現されているなど見る価値は十二分にあり。
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2023/01/09 21:16
真鶴半島めぐりと鎌倉大河ドラマ館 (2022/12/24 訪問)
湯河原の土肥城に行ったときに知った<もうひとつのしとどの窟>。
18きっぷの2回目を使い、周辺の関連地と合わせて行ってきました。
①しとどの窟
真鶴駅から徒歩20分くらい。
箱根の山中や湯河原のしとどの窟などを経て真鶴にたどり着いた頼朝が最後に身を隠したと伝わる窟で、かの時代には130mの奥行きがあったと言われているそうです。今は僅か数メートルの洞穴が残るばかりですが、岩盤や断崖からかつての姿を想像することは難くありません。
品川台場礎石の碑と大石も同じ場所にありました。開発によって台場の遺跡が失われることを危惧し礎石を採掘場であるこの地に移したのだそうです。
②番場浦海岸
真鶴半島は数時間で一周できるくらいの小さな半島です。江戸城石切場跡の残る番場浦海岸まで歩いてみました。観光地化されていない静かな海岸で、冬の海がとてもきれいでした。ただ波が高く、採石ポイントまでは近づけなかったので、機会があれば夏にもう一度行ってみたいです。
③源頼朝船出の浜
番場海岸から来た道を戻りつつ、土肥実平が頼朝の無事を祝い再起を願ってうたい踊ったと伝わる謡坂を通り、岩海岸へ向かいました。
岩海岸は安房を目ざした頼朝一行が船出した海岸です。石碑がふたつ、背中合わせに建てられていました。房総半島は見えなかったけれど、弁天島や真鶴ブルーラインの岩大橋を眺めながらの砂浜散歩は気持ちよかったです。
④大河ドラマ館
最後に鶴岡八幡宮の大河ドラマ館に行きました。予約をしていなかったのですが当日券で16時ちょうどに入館できました。最終回を終えて間もない訪問でしたが、既にいろいろ懐かしかったです。大河ドラマ館の楽しみは実際に使用された衣装や小道具を見ること。ガラスケース越しに貪り見てしまいました。
八幡宮本宮から若宮大路の向こうに見える夕焼けがきれいでした。
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2023/01/09 20:11
萩城 (2022/12/10 訪問)
【百名城63城目】
<駐車場他>城跡:指月第一駐車場無料/萩藩船蔵:浜崎伝建地区無料駐車場/武家屋敷・菊ヶ浜土塁:菊ヶ浜無料駐車場
<交通手段>車
<見所>武家屋敷・枡形虎口・二の丸土塀石垣・天守台・指月山要害
<感想>1泊2日萩・浜田の旅1城目。萩市に到着後まず吉田松陰生誕地・墓地を訪れ⇒萩藩船蔵⇒松下村塾⇒萩城⇒要害⇒菊ヶ浜⇒現存武家屋敷数件⇒北総門・外堀⇒城下町⇒菊ヶ浜土塁の順でたっぷり1日を使い1城攻めで巡った。
お城の方は現存の建築物は残っていないものの、武家屋敷の長屋門等は沢山残されていて、お城の枡形の石垣虎口、櫓台、長大な雁木、天守台の扇の勾配や菊ヶ浜から見える二の丸東面土塀・石垣は美しい。指月山山頂に残る要害は毛利輝元が幼少に過ごした吉田郡山城の想いを残し築造した詰城だけあって山城好きにはたまらない、平城と山城両方楽しめる見応えがあります。
江戸時代には藩主が参勤交代で初入国した時や幕府の国目付来藩の際には天守と要害でそれぞれ登陟儀式が執り行われたそうです。要害主郭のど真ん中に残る矢穴跡の残る超巨岩もすごくいい。総構え町全体を含めて大好きな城跡がまた1つ増えました。これにて山口県の百・続百名城制覇。
<満足度>★★★★★
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2023/01/09 17:51
お城探訪 (2023/01/08 訪問)
小さな小山しか残ってませんが、大小の石碑が二つに立て看板もあり上には立派な神社があります。
跡形もなくなった城跡よりは良い。
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2023/01/09 17:22
城址は亘理神社 (2023/01/05 訪問)
主郭部に神社として残されて後は学校に変わっていました。
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2023/01/09 15:06
西門以外にも魅力がある鬼ノ城 (2022/12/17 訪問)
岡山駅から車で鬼ノ城へ。あいにくの雨模様。
一番近い駐車場は広く10台以上止めることができるが、それまでの道中は狭い道が多く運転が不慣れは人は注意が必要。
見どころは西門だけだと思って行ってみたが、実際は山全体を楽しむことができる。山全体をハイキングできるようになっていて、それほどアップダウンがない。
西門ほどではないが、各場所に門の遺構があり、特に東門から南門にかけて景色も楽しむことができる。
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2023/01/09 14:37
リニューアルした岡山城へ (2022/12/18 訪問)
昨年11月にリニューアルした岡山城へ。
天守閣の中は6Fまであり、各階に見どころあり。
体験コーナーや城主となった戦国武将の歴史がわかりやすく書かれていて、興味がなかった人や子供が見にいっても十分に楽しめるようになっていたと思う。ただ最上階からの眺めは見える面積が少なく少し残念。
天守閣以外にも築城当時の石垣を見ることができたり、不明門なども魅力。またどの方向から見ても天守の形が違うように見ることができるのも魅力のひとつ。時間があれば後楽園側に橋を渡って、川を挟んで城を楽しむのもあり。
1時間~1時間半あれば十分楽しめると思います。
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2023/01/09 13:25
神武山公園 (2023/01/03 訪問)
但馬の中心都市豊岡にかつてあった城跡。神武山公園として整備されており、比高も然程なく曲輪跡が見られる。
山麓には往時を偲ばせる門や町並みが残る。かつては円山川の水運を意識した城下町が形成されていたと思われる。
この円山川沿い(多分間違いない)に植えられた柳で柳行李(ヤナギゴオリ)を作り全国に売り歩いていた名残から今も鞄の一大産地となっている。
付近にはコウノトリの郷や玄武洞、城崎温泉に出石など観光地がてんこ盛りである。
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2023/01/09 13:22
酒井氏5代の居城で酒井忠次誕生の地 (2023/01/08 訪問)
徳川四天王の一人である酒井忠次の誕生地と云われます。
酒井左衛門尉家の氏忠から忠次まで5代の居城とされ、忠次は1564年に吉田城主となり居城を移したとされます。
岡崎城と松平家菩提寺の大樹寺を結ぶ直線上の位置にあり、今は城山公園となっていて、西側から見ると少し高台である事が分かります。
公園化で改変されていると思われますが、方形の曲輪跡や切岸状が見られました。
公園内の西側に城址碑があり、北側の城山稲荷は土壇状に建てられています。
井田城の北東側辺りは井田野古戦場で、松平氏4代親忠の応仁の乱の時から9代元康の桶狭間の戦い後まで何度も激しい戦場となり、井田城を守る将兵も勇戦奮闘したそうです。
西光寺の南西側に千人塚があり、井田野合戦での戦死者を敵味方の区別なく埋葬した塚と云われます。
西光寺の裏手にある大衆塚は、桶狭間の戦い後、大樹寺に逃げ込んだ松平元康を守り、追手の織田軍と戦って亡くなった僧兵を埋葬した塚で、その上に阿弥陀如来石像があります。
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2023/01/09 13:01
2023/01/09 11:35
⑥【関ケ原の26人 】(2)吉川広家 (吉川広家陣跡と南宮山) (2022/11/30 訪問)
(2人目)「吉川広家」の続きです。
関ケ原の南宮山の麓にある、「吉川広家陣跡」を訪れてきました。
広家は、南宮山の麓(現在の不破高校の付近)に陣を張っていまいた(写真①②③)。その東550mの所に南宮大社があり、大社の奥には「安国寺恵瓊」の陣があり、背後の南宮山頂上には「毛利秀元」の陣がありました。南宮山にはこの南宮大社から登れるようなので、秀元が山頂からどう見えていたのかその景色が見たいと思っていたのですが、あいにく雨だったので登山は断念しました(写真⑤⑥⑦)。しかしこの南宮山に毛利秀元14,000の軍勢がいたかと思うと、きっとこの山全体に隙間もないくらいにぎっしり兵がいたのではないかと思いました。しかし近年の研究では、山に大きな曲輪の跡がないので、実は麓の南宮大社のあたりにいたのではないかという説もあるようです(写真④:吉川広家陣から見た南宮山)。
秀元はやる気満々でしたが、広家が動かないため山を下りる(または前に進む)事ができません。本当に戦の最中に弁当を食べていたのでしょうか? 空弁当というくらいだから、食べてはいないと思いますが・・そもそもそんなもの用意する暇なんてないですよね(笑)。恵瓊から動くよう催促されると「くそぼうずに戦の何が分かる!」と口論になったようです(笑)。広家と恵瓊は実は仲が悪かったようです。
もし、秀元と広家が動き家康の背後を攻めていれば、少なくとも家康は前へ出る事はできず、桃配山に釘付けになっていた事でしょう(あるいは挟み撃ちになり、もしかして家康の首も・・?😲 家康ファンの方にはいつもすいません)。でもよく見ると、すぐそばに池田輝政の陣がありました。広家が動かぬよう輝政が監視し、背後から家康を守っていたのがよく想像できました。しかし、数に勝る秀元が本気で動けば、輝政といえどひとたまりもなかったかも?しれません。でも自分は養子であったため年上の広家に気を使っていたのでしょうか? などとあれこれ気が付けば1時間くらいこの陣跡で空想してしまいました(笑)。
ここからは、桃配山が視界をさえぎって、関ケ原は全く見えません(写真⑨)。ここに居ては合戦の状況は全くわからないでしょう。広家は長政からの再三の寝返りの誘いに最後まで悩んでいました(秀元や恵瓊はこの事を知らず)。そして決戦前日、輝元が秀頼を奉じて大坂からまだ動かぬ事を確信すると、長政の誘いを受け入れる事を決意、前夜に目の前を家康の東軍大軍勢が通るのを黙って見つめます。そして決戦当日も動きませんでした。もし西軍諸将が討ち取られている様子が実際に見えていたならば、広家はどんな行動をとったのでしょうか?(じっとしていられたでしょうか?) などとまたこの場所から考えてしまいました。🤔
結局、小早川秀秋と吉川広家の二人(毛利の両川)が、関ケ原の勝敗を決めるキーマンになったようです。
次は(3人目)に続きます。
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2023/01/09 11:31
現在は武道館 (2022/12/24 訪問)
イブの日のダラダラ平城探し。最後は山田城。
武道館建設にあたり発掘調査で環濠の平城であることが分かった模様。遺構は全くないが、琵琶湖岸は重要な地域として様々な時代に史跡があるものだと実感した。
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