(19人目)藤堂高虎の続きです。
高虎の最後の居城となった「津城」を訪れてきました。
名鉄「津新町」駅から歩いて15分程です。
ここにも藤堂高虎の像がありました。ここは今治城と違って、鎧兜(よろいかぶと)姿の勇ましい高虎でした(写真①②)。城の横には高虎を祀る高山神社があります。スタンプ場所の社務所には高虎の肖像画があり、願札がほほ笑ましかったです(写真⑥-⑩)。
高虎が今治城を築城開始してからわずか6年後の事、もう少しで天守が完成という時に伊予から伊勢へ国替となったのが、私には何故かとても不自然に思い気になっていました(普通なら断るはず)。この時大坂では不穏な動きがあり、表向きは豊臣と万が一戦になった時、要衝地の伊勢や背後の名古屋城を守るため、また大坂方の(豊臣諸将にも信頼されている)調略上手の高虎なら周辺諸将を徳川方に寝返らせる事ができるのではないか? などといった理由もあったようです。しかし私は本当の理由は、伊予隣国の加藤嘉明との不仲が表にあらわれ、一発触発状態になったため、それを避けるためにあわてて国替えしたのではないかと思っています。記録にはないのであくまで私の勝手な推測ですが、高虎の方から嘉明との争いを避けるために自ら国替えを申し出たのではないかと思いました(その時たまたま伊勢の領主を募集していた)。
嘉明とは、朝鮮出兵での論功行賞でのいざこざが始まりで、伊予でも国境を巡り常に争いが絶えず、家臣たちの間で騒動(拝志騒動)まで起きてしまい、もはや一発触発状態だったようです。よってその影響もあり、高虎は悩んだあげく自ら身を引いたのではないかと思います。何故か私には高虎という男がそういう人物だったような気がしてなりません🤔。
そして、その20年後の1627年、会津40万石の蒲生忠郷に嫡子が無く、代わりに徳川秀忠から高虎に加増転封を打診されました。しかし高虎はそれを断り、代わりに何と!・・・加藤嘉明を推挙したとの事です。 嘉明は自分を推挙したのが高虎だと知り、松山から会津への途中に高虎を訪ね、推挙のお礼に今までの事を全て詫びたそうです。何か美しい話だな~と思いました。そして津藩は、そのまま幕末まで藤堂家が治める事となりました。
また関ケ原の4日後の事、捕らえられた石田三成は大津城の門に縛られていました。福島正則らが罵声を浴びせる中、高虎はわざわざ馬から下り「貴殿の隊は大変強かった。貴殿から見た私の隊はいかがであったか?」と尋ねたそうです。すると三成は鉄砲隊に優秀な指揮官がいなかったため命中率が低かった事を指摘したようです。この言葉に高虎は大変感謝したとか・・・
高刑の意思を引き継いで大谷吉継の墓を建てて菩提を弔い、そして石田三成には見事に戦った武将として最後まで敬意を払い、また加藤嘉明との揉め事も最後は広い心で丸く収めたこの藤堂高虎に対し、私は「好プレー賞」をあげたいと思います!!!😊
次は、(20人目)へ続きます。
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