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ヒヨッピー

富士山が素敵 (2023/01/11 訪問)

私は、富士山大好きです。たまたま、足柄峠を通過していると、足柄城を発見!
階段を上ると、ほんまにそこはお城でした。
廓の跡が散見出来て、堀切も確認出来てGOODでした。
更には、富士山が鎮座されてるではありませんか。
ここから見える富士山は、最高です!

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侍ホリタン

生駒親正公が改築した讃岐の名城を訪ねて (2023/01/09 訪問)

駐車場は登山道入口付近、トイレもあり、パンフレットは登山道入口にあります。北二の丸の石垣は規模が大きく迫力ありますが、上段の石垣は崩落の危険があるのでシートを被せてありました。本丸、化粧池にもはっきりとした石垣が残っています。本丸からの引田の町並みの眺めは美しいです。御城印とスタンプは讃州井筒屋敷内にあります。

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侍ホリタン

村上海賊の居城を訪ねて (2023/01/08 訪問)

城跡がある能島へはガイド付きのツアーを事前予約しての上陸になります。令和4年4月から令和5年3月までの土日祝の運行で1日2便から3便です。私が利用したのは13時45分の便で約30名ぐらい、2班に別れての見学でした。乗船場所は能島水軍レストランの裏手、駐車場はレストラン前と向かいの村上海賊ミュージアムにもあります。高さ31mの本丸跡からの伯方・大島大橋と瀬戸内海の眺めは美しいです。豪雨による遊歩道の崩落により矢びつ、東南出丸は立入禁止となっているので注意が必要です。御城印とスタンプは村上海賊ミュージアム内にあります。

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いんげん丸虫

真名城 千葉県茂原市 (2022/12/31 訪問)

真名城(まんな)
土塁、曲輪、堀切など遺構が点在しています。
北条早雲が三浦氏を滅ぼし、晩年に出兵したと
される城跡です。
丘陵の平場、多方面に広がる尾根等、広大な城
郭ですが竹藪が凄くて遺構の確認は少し難しい
かもしれません。
八幡社が中央にあり、そこまでの参道はありま
す。付近に広い場所があるので路駐は可能だと
思います。

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細野城 (2023/01/12 訪問)

 中の城との分岐から標識に従って西の城へ進みます。途中、藪化しているところもありますが、道は明瞭で歩いて行くと西の城に行くことができます。藪がひどく見学が困難との情報がありましたが、整備されたのか、季節がよかったのか、主要な場所は木が切ってあり草も刈ってありました。「ちえぞー!城行こまい」さんのHPでは「主要部の南西尾根に二重堀切があり、その西に分厚い土塁をもつ郭があります」と記載されていましたが、よくわかりませんでした。帰りはぴーかるさんが登城された墓を経由する道を通って降りてきました。西の城へだけ来るなら、こちらの道の方が断然歩きやすいと思います。

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細野城 (2023/01/12 訪問)

 東の城から標識に従って歩いて行くと中の城と西の城の分岐点に出ます。すぐに中の城の城域となります。倒木はありますが、比較的歩きやすく主郭に行くことができました。途中に2カ所の堀切があります。主郭には土塁もあり、南の方は段々となった削平地があります。ただ、このあたりの削平地は後世の耕作などによる改変もあったようで、どこまでが当時のものかわかりません。

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細野城 (2023/01/12 訪問)

 津駅から三重交通バスに乗り長野東バス停下車。降りたところから少し戻ると案内板があり登城口となっています。谷筋を歩いて行くと東の城と中の城、西の城の分岐点があり標識が立っています。谷筋には石垣がありますが、当時のものではないかもしれません。東の城の標識に従っていくと、すぐに堀切を認めます。よく見ると石垣があります。手にした縄張り図には、この堀切はなく戸惑ってしまいました。道は整備され歩きやすく主郭へ行くことができます。帯曲輪等もありました。南東部にも曲輪があると思われますが、竹藪となっていて、倒れた竹で行く手が阻まれていました。強行突破はすることなく戻りました。

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todo94

奈良の城めぐり⑨ (2022/12/10 訪問)

献血前最後の攻城が窪之庄城でした。現在は八坂神社になっています。神社の下の方には空堀などの遺構が残っているようですが、境内の散策だけで済ませてしまいました。献血ルームに赴く前に、近くの帯解寺には立ち寄っていきました。独身者には余り縁のない寺のようですけれども。

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橋吉

湿地帯の城 (2023/01/06 訪問)

高松城跡は、高松城址公園となっています。
駐車場は本丸脇と三の丸脇の2か所あります。

高松城址公園資料館で続日本100名城スタンプを押すことができます。

三の丸西の駐車場から徒歩1分のところにある高松山妙玄寺の境内に、清水宗治自刃址があります。
清水宗治は、敵味方両軍が見まもる中、舟上で見事切腹を果たしたそうです。さらにその近くに宗治が切腹する船を追って、家臣が刺し違えて殉死したといわれているこうやぶ遺跡があります。

高松城址公園より2km、クルマで約4分のところに蛙が鼻築堤跡があります。
高松城といえば、1582(天正10)年黒田官兵衛が豊臣秀吉に進言したの水攻めの主戦場となったことで有名です。
その際につくられた堤は、ほとんど後世に崩されてしまいましたが、ここだけ残されています。

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にのまる

黒田六端城めぐり① (2022/12/30 訪問)

18きっぷ3回目は実家スタートで北九州を少しまわってきました。

戸畑駅北口に降り立つと目に飛び込んでくる真紅の橋、若戸大橋は若松区と戸畑区を結ぶ歴史のある橋で、2022年に国の重要文化財に指定されています。
この橋の真下にあった「中の島」に築かれていたのが若松城で、福岡城を本城とする黒田長政の筑前六端城のうち、いちばん北に位置しています。

中の島は時代の流れの中で海中に姿を消し、若松城も二度と見ることのできない幻の城となってしまいました。しかし、現地に立ち(立てないけど)、“ここにあったんだ”と感じられただけで充分で、寧ろ、城の行く末を見届けた気持ちになりました。

海中に埋没してしまった城ですが、島の痕跡すべてが消滅してしまったわけではありませんでした。
「河白斗【白へんに斗】嶋(かばしま)記念石」と刻まれた石が戸畑図書館前に展示されています。島の住人たちが島を離れる際に運び出した石なのだそうです。石は黙したまま何も語らないけれどたくさんの歴史を見てきたはずで、若松城の形見でもあるのだなぁと思いました。

前々回投稿の真鶴の品川台場の礎石と、この中の島の石。
どちらも消滅寸前の城跡から運び出された、城の存在の証しとなる石で、城めぐりをする中での石との出会いの楽しさを感じると同時に、歴史の伝達を石に託した人たちの思いを真摯に受け止めたいと思いました。

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POYO58

南の丸探訪 (2023/01/02 訪問)

遺構★★★☆☆ 堀切、土塁、石垣、虎口?
二の丸を終えて南の丸へ急ぎました。すると何やらまた石垣の虎口が、形の成り立っていない野面積みになっていました。そこから南の丸に行くと結構大きな堀切がありました。どうやら二の丸と南の丸に仕切りをつけるためのもののようです。南の丸にも虎口らしきものがあり、一部石垣になっていました。南の丸に入ると奥の方に石垣が。石垣の上には土塁が立っていたので鉢巻石垣かな?あと、積み方が他の場所の石垣とは異なっていて石材も違うようですが、これは家康の石垣なのかな?よく分かりません。またなんでこんなところに石垣があるのだろう?

100名城には指定されていないものの、遺構がよく残っているお城だと思いました。。天守台も堀も石垣も残っていますが、国指定史跡だけはちょっと厳しくないでしょうか?

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ぴーかる

浜田城 (2022/12/11 訪問)

【続百名城55城目】
<駐車場他>浜田城山公園駐車場
<交通手段>車

<見所>中ノ門跡・主要部高石垣
<感想>1泊2日萩・浜田の旅。浜田で宿泊し2日目、到着早々に降雨。硝煙蔵曲輪⇒井戸⇒中ノ門跡⇒県庁門のある大手道を通って本丸まで行った。算木前段階ながら三の丸の高石垣はすごい迫力で圧巻です。二の門枡形虎口も見応えあります。本丸内の三重櫓跡は櫓台はなく、低い基壇が直置きだったようです。本丸が吹きっさらしで暴風雨で眺望が見えづらかったが、外ノ浦の湾や岩崖の外海が見えて良かった。最後に資料館を見学し終了した。これにて島根県の百・続百名城制覇。

<満足度>★★☆

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加藤城乃助

2023年城初め (2023/01/02 訪問)

今年初の城攻めは荒川区の石浜城に行きました。
南千住駅から徒歩で10分ちょっと。白鬚橋のすぐ横です。
石浜城の場所ははっきりとは分からないそうで、現在の石濱神社の場が有力だそうです。
参拝後、御朱印と御城印を頂いて帰りました。

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三浦の晃ちゃん

赤門 (2023/01/10 訪問)

昔から、位置が変わっていないそうです。小学校と県の合同庁舎の間にあります。

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トク

⑦【関ケ原の26人 】(3)福島正則 (福島正則と清州城) (2022/11/30 訪問)

(3人目)は「福島正則」です。
関ケ原当時の居城、「清州城」を訪れてきました。

清州城と言えば、織田信長を思い浮かべる方が多いと思いますが、関ケ原当時は福島正則の居城でしたので、正則の気持ちになり登城してきました。

実は、この清州城から対峙する、石田三成が籠る大垣城やその後攻める岐阜城が正則にはどう見えたのかが気になって、天守に登り眺めてみました。もっと近くに見えるのかと思っていたのですが、意外と遠く感じました(岐阜愛知に来たのは初めてですが・・・いや~濃尾平野は広い!)。大垣城はビルに囲まれ見えませんでした(当時はかすかに見えたと思いますが・・)。岐阜城も山の上に小さく点のようにしか見えませんでした。(写真⑩)

正則は秀吉とは姻戚関係にあったため(正則の母は大政所の妹とも)、縁者であるがゆえ武功で認められたい気持ちが人一倍強かったようです。しかし、縁者でも武功もない三成が自分より秀吉にかわいがられ、石高も多かった事にかなり嫉妬していたのかもしれません。

小山評定では黒田長政におだてられ、「三成を討つべし!」と一番に声を上げ皆を鼓舞します(しかし家康からは信用されず😩~)。清州城では徳川家康から忠誠の証を求められ、真っ先に岐阜城攻めに向かいます(しかし池田輝政に先を越される😩~)。関ケ原でも先鋒1番槍を務めます(しかし井伊直政に抜け駆けされる😩~)。何でも1番が好きな人だったようです。何が彼をそこまでかきたてていたのでしょうか? そしてこの清州城天守から、どのような気持ちで三成のいる大垣城を見つめていたのでしょうか?

次は「福島正則陣跡」を歩きます。
 

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todo94

奈良の城めぐり⑧ (2022/12/10 訪問)

この日攻城した城の中では、続100名城の大和郡山城を除いて、最も魅力を感じることの出来た城でした。国史跡の黒塚古墳が城郭として活用されていたのです。黒塚古墳展示館には城郭にかかわる展示は見当たりませんでしたが、前方後円墳の前方部と後円部の接続部分あたりの足下に落ち葉に埋もれて、城郭に利用された跡という説明板を見つけることが出来ました。黒塚古墳展示館には万城目学の「鹿男あをによし」に出てくる「サンカク」がたくさん展示されていてちょっと萌えてしまいました。

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赤い城

高部館 茨城県常陸大宮市 (2022/12/30 訪問)

2022年の城納めとして常陸大宮市の美和地区周辺の城を廻りました。
いずれも未登録ですが近年、地元の方により整備され、駐車場も設けられていました。
最初は高部館、佐竹氏が那須氏や白河結城氏に備えて築いた城です。
駐車場から少し登っていくと堀切があり、その先に「寿コース」と「若武者コース」の案内板。
迷わず・・・寿コースを選択しました。
すぐに堀切とそこから落ちる竪堀に出会えます。
さらに進み、段になった曲輪を登っていくと主郭です。
結構広さもあります。
二郭との間に堀切があり、進んでいくと大子へ向かう街道が見渡せます。
二郭の先にも曲輪が、三日月形の六郭、さらに囲むように七郭で周りを堀が囲んでいます。
東側は竪堀となって落ち、西側には堀底道が続き、こちらも竪堀へ続いていました。
西の大堀を戻り、最初の竪堀と堀切のところまで戻り、今度は若武者コースから下って行きました。
六郭の三日月状の曲輪周辺が一番の見どころでしょうか。
曲線が美しいと感じました。
おすすめです。

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にのまる

徳川家康府中御殿(東京都府中市本町1-14)

国史跡武蔵国府跡国司館地区-国司館と家康御殿史跡広場-

前投稿まで続いた『頼朝』から『家康』にシフトします。
JR線府中本町駅に隣接する史跡広場は、今から1300年前の武蔵国府・国司館と、430年前に徳川家康が鷹狩りの際に宿泊・休息した府中御殿の二つの遺跡が重なる史跡です。京王線だと府中駅から大國魂神社(東側に国衙地区再現広場あり)を通って来られます。

発掘調査によって発見された井戸跡から江戸時代前期の三葉葵紋鬼瓦が出土したことから府中御殿跡だと判明したそうですが、家康、秀忠、家光の三代にわたって鷹狩りの宿所等として利用されたほか、家康の霊柩を久能山から日光山に移送する際に一行が滞在し法要を営んだ場所でもあるようです。(府中市発行パンフレットより)

復元模型と説明板を読むだけでもイメージが膨らんできますが、管理事務所で「武蔵国府スコープ」を借りてVR映像を見てみたらさらにおもしろかったです。
国府全体を俯瞰した様子、主殿のCG復元、蹴鞠の再現のほか、家康御殿時代のイメージ映像として鷹狩りに行くシーンや、発掘された宝を発見するゲームなども。

商業施設や高層マンションに囲まれた広場ですが、芝生広場にはベンチもあり、休憩したり遊んだり自由なようで、他の地域の官衙遺跡とはまた違った趣向の史跡でした。

写真①〜⑧国司館と家康御殿史跡広場
  ⑨〜⑩武蔵国衙跡

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なんちゃん

壮麗!大多喜城 (2023/01/10 訪問)

壮麗で素敵なお城でした!🏯
豊臣秀吉の小田原平定後に本多忠勝が大改修して築いた城でした。打込みはぎの石垣もとても素晴らしかったです!
城下町もまさに「房総の小江戸」の名に相応しい趣がありました。
※令和3年~入城できなくなっていましたが、資料館があり見応えがありました。
スタンプ設置場所は、いすみ鉄道大多喜駅の向かいにある「観光本陣」入って正面にありました。土日祝は、お城の専用駐車場にめ設置されるそうです。

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POYO58

北の丸、本丸、二の丸探訪 (2023/01/02 訪問)

遺構★★★☆☆ 石垣、土塁、虎口、堀切
二俣城に行きました。本当は諏訪原城に行く予定でしたが、御城印がある場所を選択することに。しかし、結局二俣城の御城印も店が営業しておらず買えませんでした。年中無休って書いてあるのに。

まあそんなことは置いといて。二俣城は徳川家康と武田勝頼が取り合った城です。なんなら激戦地…。また家康の息子信康の自刃した悲劇でも有名です。織田信長に信康と築山殿は武田氏と内通しているのではないかと疑われ家康に殺すよう命じます。家康は困惑した末、築山殿をやむをえず浜松城で殺し、信康もこの二俣城で自刃することとなります。その後、家康が関東に移ると秀吉の重臣、堀尾吉晴が大改修して現在に至りました。

駐車場は山中にあります。

まず北の丸を探訪、北の丸には大きな堀切が残っています。北の丸を過ぎると、本丸へと続く石垣の虎口が見られます。喰い違い虎口かな?虎口を通ると本丸に入り、天守台が見えてきます。今の二俣城の石垣は天守台を含めてほとんどが堀尾吉晴によるものです。天守台には石段も残っており、登ることができます。本丸は土塁で囲まれています。

本丸を終えて二の丸へ。二の丸には土塁と石垣が残っています。石垣は野面積みで崩れているところもありますが、綺麗に残っています。二の丸と本丸の境にある虎口と土塁は重要な役割を果たしています。二の丸の虎口も石垣によるものです。また二の丸も土塁で囲まれているのですが、本丸のものより高いものです。

では蔵屋敷跡へと向かいます。

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