南北朝期に上神高直が石山に築いた城がはじまりと伝わりますが、戦国期には金光氏の居城となっており、宇喜多直家が金光宗高を謀殺すると城下町を築いて居城を移し、宇喜多秀家が本丸を石山から岡山に移して四重六階の天守を築き、城と城下町を大改修しました。関ケ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が改易されると小早川秀秋が入って惣構の外堀を築き、秀秋の急死により小早川氏が断絶すると池田氏が入って城下町をさらに拡張、西川を整備して城下町の西端の防備としました。池田氏のもとで明治を迎えた岡山城は、廃城令により天守、月見櫓、西之丸西手櫓、石山門を除く建物が取り壊され、岡山大空襲では天守と石山門が焼失しましたが、戦後に天守や不明門、廊下門などが再建されて現在に至ります。
旭川河口部にある3つの丘陵のうち、岡山を本丸、石山を二之丸に取り込み、天神山を出丸とした平山城で、本丸を三重の内堀、中堀、外堀で囲み、西端は西川で画し、旭川を付け替えて後背(北側から東側)の天然の堀とした梯郭式縄張です。本丸は、天守を擁する最高所の本段、本段の西側一段下に表書院が置かれた中の段、本段と中の段を囲むように配された下の段からなっています。
子どもの頃から行ってみたいと思っていた城でしたが、ようやく念願を果たすことができました。令和の大改修を終えた天守に加えて「夏の烏城灯源郷」とニッポン城めぐりのイベントを目的に、青春18きっぷで岡山へ。真夏の猛烈な日差しが照りつける中、岡山駅から岡電沿いに歩いて行くと西川が南北に流れています。ここからが城内です。
岡電が南に曲がるあたりが内堀の一番広い場所(最大幅100m!)で、内堀の説明板が立てられています。内堀跡を少し南に行くと、東側の駐車場の奥に西之丸の西辺石垣があり、その上に西丸西手櫓が建っています。ビルの谷間にありながらも存在感では負けていません。さすがは国重文の貴重な現存櫓ですね。西手櫓の南から堀跡の路地を東に入ると、西之丸の南辺石垣が続いています。石垣沿いに東に進んだ先が石山門です。富山城の大手門を移築したと伝わる櫓門で旧国宝にも指定されていましたが、岡山大空襲で焼失。石垣に残る焼け跡が空襲の激しさを物語っています…。石山門を抜けて烏城みちを北に進むと、西側の小学校跡地が西之丸です。池田光政が隠居所としてより歴代藩主の隠居所として御殿や庭園が設けられました。西手櫓と庭園の小池が遺っていて、門も開いていましたが、学校地に勝手に入るのはためらわれたので、門前から眺めるに留めました。
西之丸の東側が宇喜多直家期に本丸が置かれていた石山で、駐車場の奥に池田期に設けられた池田家祖廟の石垣が遺っています。西側からは石山頂部に行けないようなので、いったん旭川沿いに出て東側に回り込み、石山の城(前岡山城)の説明板のあたりから坂道を上っていきましたが、石山頂部は駐車場になっていて西辺から南辺の石垣以外に遺構は見当たりませんでした。南麓の駐車場(堀跡)に下りて池田家祖廟の石垣を見上げてから、桜門(説明板あり)を抜けると、対面所跡に建つ林原美術館の前に長屋門があり、石碑の説明板によると岡山藩支藩の生坂藩岡山屋敷の長屋門が移築されたもののようです。林原美術館から烏城みちを東に進むと眼前に内堀が広がります。いよいよ本丸です(続く)。
+ 続きを読む










