関ヶ原の合戦の疑問① 合戦の前日9月14日に毛利輝元と徳川家康の間に和睦は成ったのか?
可能性は有ると思います。でも100%そうかと言われると、そうとは言い切れないんですね。個人的にいくつか腑に落ちない点はあります。
総大将が敵に通じるというのが倫理的にアウトだというのも有りますが、合戦で西軍が壊滅状態になれば、毛利は無傷でも毛利領の周囲は東軍の武将たちに囲まれてしまいます。毛利包囲網が完成してしまったら、仮にも西軍の総大将だった輝元の身は危ないんじゃないでしょうか? 家康からすれば決戦に勝利して毛利を大阪城から退去させ、秀頼の身柄さえ確保すれば、あとは舌先三寸でどうにでもなると思います。(実際そうなった)
また秀元に知らせず、広家主体で講和を進めさせるというのも危険です。輝元の名代はあくまで秀元で、秀元の預かり知らぬところで広家が東軍と通じれば、秀元が広家の身柄を拘束するか、殺害するかもしれません。最悪の場合、同族の軍で同士討ちになる可能性もあると思います。この時代の若者は決して甘くはないと思います。
合戦の前日、井伊直政・本多忠勝の起請文が吉川広家・福原広俊に送られ、福島正則・黒田長政の起請文も提出されています。
輝元の同意なしに広家が独断で起請文を要求したとすれば、どのようなメリットがあったのか。これらの起請文を秀元に提示して、輝元の同意の上で和睦が成ったと説明すれば、秀元は東軍を攻撃できなくなると思います。早馬を出して輝元の真意を確認しようにも、その時間はありません。秀元の動きを封じたいのであれば、この方が確実だと思います。
であるとすれば南宮山の配置も、もっと自由に考察できるのではないでしょうか? 話がややこしくなるので専門家はあえてつっこまない所ですが、私は何のしがらみも無いので‥。関ヶ原の布陣図は江戸時代と明治に考察されたもので、その内容には否定的、肯定的なさまざまな意見が有るようです。
可能性は低いですが家康が窮地に陥った場合は、即座に東軍を攻撃する必要が出てくるので秀元・広家はその備えをしていた可能性もあると思います。南宮山にどれだけの兵を駐留できるのかの確認もしたかったので朝倉山から尾根伝いに南宮山に向かいました。
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