これで「ささのくま」と読むのですね。知らなければ読めませんよね。静修小学校側の尾根を攻め上りました。途中、笹が生い茂っている部分で若干の藪漕ぎ、その先の岩場を越えると山城遺構が次々と現れます。ただ、何の表示もなかったのは少し寂しい気分。帰路は今回の但馬城攻めで初めて迷ってしまいました。麓の道場城辺りに出たのかなと思います。常光寺から攻めるのが正解のようですね。
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2023/12/07 07:19
難読城名 (2023/11/23 訪問)
これで「ささのくま」と読むのですね。知らなければ読めませんよね。静修小学校側の尾根を攻め上りました。途中、笹が生い茂っている部分で若干の藪漕ぎ、その先の岩場を越えると山城遺構が次々と現れます。ただ、何の表示もなかったのは少し寂しい気分。帰路は今回の但馬城攻めで初めて迷ってしまいました。麓の道場城辺りに出たのかなと思います。常光寺から攻めるのが正解のようですね。
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2023/12/07 00:34
本丸石垣と三の丸テラス。森可成や明智光秀の眺めた絶景が広がる。 (2023/12/03 訪問)
宇佐山城は織田信長が家臣の森可成に命じて築かせた城で本丸には見事な石垣が残り、三の丸からは琵琶湖やその周辺一帯が一望できます。浅井・朝倉連合軍の侵攻を受け森可成が坂本で戦死した際には駆け付けた信長が入城したと考えられています。その後、明智光秀が守将となり延暦寺攻略を行ったとされています。
宇佐八幡宮から登城道が続いていて地元の小学生が設置した案内に従って城を目指します。小さい子供を連れた親子もおり、地元では眺望の良い山として結構人気があるようです。木の根道を登っていくと途中に尾根を利用した大きな竪堀が有ります。明らかに人為的なものでこの城を死守しようとする森可成の本気が伝わってきます。本丸には見事な石垣が残り、その上にはNHKの施設が鎮座しています。南には二郭があり本丸の北側には空堀が配され土橋がかかっています。その先が三の丸ですが見事な眺望で琵琶湖と滋賀の街並みが一望できます。
自分にとってはこの城は森可成のイメージが強いので「これが森可成の眺めた景色か」と思うと感慨深いです。もちろん織田信長や明智光秀もこの眺望を見ているはずなので感慨もひとしおと言ったところです。
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2023/12/07 00:14
シンプルな中世山城 (2020/12/13 訪問)
紀宝町ふるさと歴史館の駐車場に車を駐車し登城開始。
城址は熊野灘をのぞむ小高い山、ふるさと歴史公園にあり、津波避難場所に指定されている。山の頂上に周囲をぐるりと土塁で囲まれた曲輪がひとつ。展望台からは熊野川河口と熊野灘を一望。
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2023/12/06 22:47
山崎氏のお城でいいんじゃないかな (2023/04/16 訪問)
在地領主の山崎氏のお城と思って発掘したら思いのほか立派な石垣が出てきたので織田政権が直接作ったのではとも考えられているが冷静に考えるとこの程度の石垣は近江には沢山あるので山崎氏の城でもよいのではとも思う。
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2023/12/06 22:46
ほぼ単郭だが見事な石垣が残る。 (2023/12/02 訪問)
佐生日吉城は瓜生川の南にある丘陵上に築かれています。東端の墓地の脇から登城道が続いていてなだらかな坂道をしばらく進むとやがて石垣を備えた主郭にたどり着きます。主郭以外には登城道の途中に会った扁平地ぐらいしか郭が見当たりませんが、主郭の南側から東西に幅広く高石垣が残っています。一部は風化していますが見事な石垣で特に南西部は算木積の石垣がしっかり残っています。
観音寺城の支城とされ、主郭には後藤但馬守城址の石碑が建っています。
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2023/12/06 22:21
朽木氏岩神館・名勝旧秀隣寺庭園 滋賀県高島市朽木岩瀬 (2023/12/03 訪問)
朽木城とされているのは陣屋のあたりなのですが、朽木氏と言えば興聖寺こと朽木氏岩神館を外すわけにはいかないでしょう。
陣屋からほど遠くない場所にあり、かつて足利将軍を慰めるために作った庭園は旧秀隣寺庭園として国の名勝に指定されています。
佐々木信綱によって承久年間に築かれたとされ、その流れを汲む朽木氏を頼って室町幕府将軍がたびたびこの地にやってきたそうです。12代将軍足利義晴が朽木稙綱を頼ってきた際に稙綱は大納言宣下を受け、管領細川高国の力によって浅井亮政・朝倉孝景の助力を受けて蓮池池泉観賞(回遊式)庭園を作庭したとのことです。庭園は往時の姿を保っているといわれ住職の話では庭園周辺の最も高い木が当時から残っているとのことです。墓地の背後から南側にかけて土塁が残っており、その外側に堀跡らしき跡が続いています。
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2023/12/06 22:15
巨大迷路南九州型シラス台地の山城
詳細不明ながら築城は南北朝期以前と推定される。およそ400年で救仁院氏、楡井氏、畠山氏、新納氏、肝付氏、島津氏と城主は変遷。また志布志城は、内城、松尾城、高城、新城の総称。見学コースのある内城を歩いたが、南北600m東西300m、大きく分けて6つの曲輪があり広大でとりとめのない大城郭だった。南九州型の切岸の鋭い堀。そんな堀底を歩き薮に覆われた曲輪を眺める。本丸だけは木々や草が伐採されてた。迷わないための配慮か案内板(位置図)が多く設置されていた。
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2023/12/06 22:12
薩摩・大隅・日向、三国の交通の要衝を押さえた
保元3年(1158)太秦元衡によって築城された。時は移り、城主菱刈氏(北薩に勢力をはった国人)時代を経て、島津氏重臣新納忠元が入城、島津氏の外城として機能した。大口小学校が行政所としての御仮屋、その裏山が城。大手口から主郭へと道があり登れる。曲輪、土塁、切岸が見られる。まだ整備中なのか部分的な遺構で全体の縄張はよくわからない。素朴な簡素な丘城に感じた。
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2023/12/06 21:43
南に最上川、広大な尾根上に城が築かれている。 (2021/05/02 訪問)
左沢楯山城は南に最上川が湾曲して流れる丘陵の尾根上に築かれています。尾根が湾曲してつながっているので、ひとしきり訪問することが出来るようです。南側の尾根が主要な部分らしく城山公園となっており、駐車場を備え南に最上川が良く見えます。
東端の千畳敷のあたりが二の丸のようで堀切を隔て西に三の丸、さらに西に駐車場があり、西端に八幡平があります。そのまま尾根沿いに北から東に広大な城域が広がっており中心に位置する八幡座が本丸とされています。北の郭群からは南尾根を見渡すことが出来ます。
国の史跡に登録されており、古くは大江氏の庶流・左沢氏の城とされ戦国期には最上氏に従いますが、最上氏が改易の後は左沢藩主・酒井直次が小漆川に城を築くまで入ったとのことです。
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2023/12/06 21:09
2023/12/06 20:51
遺構は少しわかりにくいが一通り残っている。 (2023/12/02 訪問)
和田山城は標高180mの和田山の山頂に築かれ、比高は約80mです。築城は佐々木義弼によるもので守将は田中治部太夫とのことですが詳細は不明です。永禄11年(1568)織田信長の近江侵攻の際、箕作城が落城した時に和田山城の守備勢は戦わずして甲賀に敗走したそうです。麓の天満宮から和田山登山道が続いていて道標もしっかりしており、スイスイ上まで行けますが道は城址の南側を西に迂回していくので適当なところで城址にダイブしました。道なりに西北まで回り込んでいくと虎口から主郭に入り込んでいくことが出来るようです。
主郭内に空堀があり土橋がかかっています。東が高所になっており櫓台の可能性もあるようです。東側には扁平地が続きますが城址ではないようで、北側に浅いですが空堀が幾つか配されています。主郭の西側には謎の張り出しがあり、小型の馬出しのようになっているようでした。
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2023/12/06 20:24
天守台は小林さん状態。 (2023/12/03 訪問)
大溝城は織田信澄(信長の甥で同母弟の信行の長男)によって築かれたとされています。琵琶湖に面した水城でしたが本丸の天守台以外遺構は残っておらず二の丸と三の丸は病院の駐車場と老人ホームになっています。一応市の史跡なのですが天守台の荒れ具合がひどい。何本木が生えているかわからないほどです。せっかくの文化財が破壊されてしまうのは忍びないので、正しい方法で保全に努めていただきたい。
東側にはかつての堀代わりの内湖・乙女ケ池がありますが橋は破損がひどくて渡れません。派手さはありませんが、せっかくの歴史のある城址なので合わせて整備していただけると有り難いですね。古い方の案内板によると信長の甥・信行は明智光秀の娘を妻にしていたので織田信孝と丹羽長重が謀って大阪城二の丸千貫櫓を攻めたて自害に追い込んだそうです。ホンマかいな‥酷い話だなあ。
織田氏も源氏と同じく同族同士の争いで弱体化していったということですか。滅亡しなかっただけ良かったということですね。
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2023/12/06 19:56
土塁が残っていた (2023/12/02 訪問)
近くまで寄ったのでまた肥田城に行ってきました。前回大きな方の城址碑と土塁を見損ねてしまったので、もう一度行かねばと思っていたのです。肥田城の土塁跡は石碑の南東約250mあたりにある住吉神社の近くにありグーグルマップにも記載されています。
最近城びとの城がグーグルマップに出ていることが多く助かるのですが、グーグル関係にマニアでもいるのでしょうか。肥田城の土塁なんてよほどのマニアじゃないと興味はないはずですが‥。肥田城は六角氏の命により高野瀬隆重が築いたとされています。
高野瀬氏は秀隆の代に浅野氏に通じて六角氏に攻められますが浅野氏の援軍によってこれを打ち破っています。一度目は永禄2年(1559)の「肥田城の水攻め」で二回目は永禄3年の「野良田表の合戦」になります。(by現地案内板)
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2023/12/06 19:40
2023/12/06 12:40
本郭は住宅地 (2023/10/06 訪問)
JR常磐線(各駅停車) 北小金駅側から登城。
北小金駅から県道280号沿いに進むと小金大谷口城跡の碑と説明板があります。碑の前にある花壇のお花の成長が著しく、城址碑は少し見づらかったです。この周辺に本郭があったようですが、現在はマンションや住宅地に変貌しています。
そこから北の道を下ると、大谷口歴史公園があります。公園内にはトイレが北側の麓にあります。公園の西側の階段を昇ると旧金杉口。金杉口には虎口門がありました。小規模な公園でしたが、土塁や障子堀跡、畝堀跡など見どころ盛りだくさんでした。
お昼の時間帯に訪問しましたが、午前中に除草作業が行われていたようで、除草したばかりの畝堀を見学することができました。
大谷口歴史公園を出て、南東へ進むと、達磨口の跡があります。ここには石碑や説明板も設置されており、階段を登ると、かなり高い土塁が残存していました。
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2023/12/06 11:37
河岸段丘の崖城 (2023/11/13 訪問)
9月中旬宮城県福島県未踏の城廻り3日目福島を終わって栃木県那須塩原市の未踏の城を攻めようと企画して居ましたが、土砂降りの雨、雷で探訪中止した真木城を2ヶ月振りで初登城しました。
駐車場:無し、無理やり県道30号線から灯籠間の参道に路駐(36°55'07"N 139°54'11"E)、県道30号線は交通量が多く且つ近くに路肩の広い所が有りませんでした、行ったり来たりし3度目に無理やり突っ込んだ形です。
参考資料:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップに依ります。
箒根神社参道から石段を登る、左脇に城名石碑と案内板がある、東に比高約20m程の崖、切岸を登り、本丸には箒根神社が鎮座、北奥、西奥に土塁が有る、北西角に虎口、西側に二の曲輪、その間に浅い堀が有る、一部墓場に成っている、その堀の北側に本丸北下に降りる坂道が有る、余湖図コレクションさんは本来の大手筋か?と記していましたが。本丸、二の曲輪の北側には広い大堀切が有るが樹林で良くは判らない。
本丸、二の曲輪の連郭式、南に野沢川、北は大堀切で崖、切岸で孤島状態の要害です、野沢側は北から流れる箒川に合流している。
真木城は野沢城とも称されて、歴史は案内板によると、塩谷氏の居城の川崎城の支城として、寛正2年(1461年)大舘弾正義則が築城したと伝わる。天正12年(1584年)大舘義行の代に大田原綱清に攻められ落城した。
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2023/12/06 08:16
とことん岡山城(下の段東部~北部~西部) (2023/08/13 訪問)
(続き)
旭川河畔から下の段に戻り、反時計回りに下の段を一周します。本段南東部の宇喜多期の高石垣も南西部と同じく隅部が岩盤の上に築かれています。本段東辺の石垣沿いに北に進むと、宇喜多期の石垣に小早川期に継ぎ足された石垣の継ぎ目がありました。継ぎ目だけでなく積み方の違いもはっきりしていて面白いですね。さらに進むと、本段北東部の石垣下部にはばき石垣が設けられていました。はばき石垣で西に折れた先には六十一雁木下門の石垣が遺り、かつて61段あったとされる石段(雁木)の上には六十一雁木上門が再建されています(通行不可)。
六十一雁木下門の北側では本段の石垣が鈍角に折れています。岡山城の見どころのひとつ、不等辺五角形の天守台です。天守台の下から天守を見上げつつ、開祖宇喜多氏顕彰之碑をすぎると搦手にあたる廊下門があります。櫓門の上屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下として使用されていたことから廊下門と呼ばれ、現在の門は昭和に再建されたものです。廊下門の西側から横矢を掛ける小納戸櫓跡の石垣には石樋や刻印石が見られます。中の段の北西隅に現存する月見櫓は、石落としを備えた出格子窓を鉄板で覆っており、下の段から見上げるとなかなかの迫力です。そして中の段の西辺石垣を月見櫓~数寄方櫓~伊部櫓とたどって大納戸櫓で下の段一周です。また、内堀側には油櫓~修覆櫓~太鼓櫓を結ぶ石垣と櫓台が遺っています。
続いては中の段へ。供腰掛の脇から石段を上って鉄門に向かいます(続く)。
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2023/12/06 07:10
2023/12/05 22:54
伊東48城の一つ、別名鶴丸城
須木城は松尾城、荒神城、肥田木城と呼ばれる三つの曲輪群の総称。群郭式山城。築城年は不明だが南北朝期には既に存在していた。肝付氏のあと米良氏の居城で伊東方に属していたが、島津氏に寝返り、宮原氏が城主となった。元和元年(1615)一国一城令により廃城した。
城山公園すきむらんどとして整備されている。もっとも城というより緑地広場の体で標柱はあるものの城跡としての案内はない。本丸に相当する松尾城の虎口と石垣を伴った曲輪はかなり広く、歩きでがあった。
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2023/12/05 22:52
石垣が残る相良家歴代の居城、国史跡
もとは平氏の代官がいた城だが、相良長頼が地頭として建久9年(1198)入城、以後35代670年の長きにわたり相良氏が領した。球磨川南岸に位置する梯郭式平山城。石垣造りの近世城として整備されるのは、天正17年(1589)から寛永16年(1639)。何度も中断しながら完成させた。天守はなく2階建ての護摩堂があった。特徴のある幕末導入された槹出工法での武者返しの石垣が水の手門近くにある。令和2年(2000)の豪雨による浸水被害ため一部立入禁止、人吉城歴史館は休館中。早い復旧を期待している。
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