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POYO58

結構広い平城 評価★★★☆☆ (2022/11/03 訪問)

竹田城の訪問を終えたあと、車で1時間くらいかけて篠山城に行ってきました。車の中では結構寝てました。かなり寝不足だったので。詳しくは竹田城の投稿をご覧ください。
篠山城の駐車場は篠山城のすぐ前にありますが、意外と混んでましたね。部活をしている学生さんたちが結構いたのと、バイクが結構止められてました。
篠山城は徳川家康が藤堂高虎に命令して築城されました。なのでこの城はまっすぐとした石垣が多いですね。加藤清正とは違って斜面が直線になっています。
早速城へ向かいますが、もう初めっからすごかったですね。やっぱり家康さんのお城は最初っから恐ろしいものを見せてきますね。表門跡からいくのですが、城自体が水堀に囲まれていて、高石垣が立ちはだかっていました。そこを通ると枡形虎口になっていて、中之門跡に続いていました。その後は復元大書院の中に入って、御城印とスタンプを押して見学させて頂きました。中では資料映像や模型甲冑が結構置いてありました。やはり丹波なので明智光秀の情報も結構載ってました。
大書院を終えたあと、二の丸に行きました。二の丸にはかつて御殿が広がっていたようです。二の丸には荒々しい石垣が多かったです。二の丸には寺もあってお参りしました。

さあ次は天守台へ向かいます。

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刑部

鷲之巣城 (2023/11/04 訪問)

駐車場とトイレ完備で整備された城址。近くにコスモス畑があり丁度満開でした、ここから遠目で久野城が見えます! ここは遠州グルメなら鰻!

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トク

87【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (島津義弘と福昌寺) (2023/10/11 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑯です。最後に義弘の墓所「福昌寺」を訪ねてきました(写真①)。

鹿児島中央駅前から南国交通バスに乗り「玉龍高校前」で下車(写真⑨)、高校の校舎の裏にひっそりとありました。島津義弘は加治木の館で死去した後、父の貴久・兄の義久・弟の歳久が眠る鹿児島市内の内城にほど近いここ福昌寺の墓地に同じく埋葬されました。島津義弘は今でもここに眠っています(写真④貴久⑤義久⑥義弘の墓)。

福昌寺はかつては1500人もの僧がいた大寺院だったようです(写真②③)。江戸時代の島津斉彬や島津久光など歴代藩主の墓も隣接する敷地にありました(写真⑦の中)。明治に入り廃仏毀釈で廃寺となり、現在は墓のみが桜島の灰の中でひっそりと無残に残っていました。足首まで灰がある所があるので白い靴で来るのはやめた方がよさそうです(ここの高校生はよく平気なものだ🤔)。壁には弾痕跡もあり、西南戦争で明治政府に反旗を翻した、旧薩摩藩士や島津家に対する圧力があった事をここでも感じました(写真⑧)。

【義弘辞世の句】
 春秋の
 花も紅葉もとどまらず
 人も空しき
 関路なりけり

私は義弘の墓の前に立ちこの辞世の句を読みながら考えてみました。義弘はどんな思いで、加治木での晩年を過ごしていたのでしょうか? 義弘にとっては生涯忘れる事ができぬ、心の痛みとなって残っていた出来事があります。それは、若くして自分の身代わりとなり死んでいった甥の島津豊久、同じく捨て奸で自分の身代わりとなって死んでいった家老の長寿院盛淳、そして自分を逃がすために犠牲となった1500人の家臣たち・・・ この辞世の句には、春の花や紅葉のように人もはかなく散っていく、「関路」とは「関ケ原での退き口」を指しているのではないかと思いました。この時に自分の身代わりとなり、はかなく散ったこの二人と多くの家臣、これらの多くの犠牲のおかげで、本当なら関ケ原で死んでいたはずの自分が、今日まで長生きできた事を、最後に一番感謝して、この句に込めたのではないでしょうか・・・

島津義弘(享年85才)
薩摩で最も慕われ、そして薩摩に伝説を残した男でした。

私はこの島津義弘に、「MIP賞」(最も印象に残った武将賞)をあげたいと思います。

帰りの九州新幹線の中で、義弘を偲びつつ、鹿児島名物「黒豚の駅弁」を食べながら帰りました(写真⑩)。あ~これおいしい・・・

次は(25人目)に続きます。
 

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しんちゃん

土岐氏庶流・揖斐氏の山城。非常に散策しやすい。 (2019/11/10 訪問)

揖斐城は揖斐川の北に位置する城台山に築かれており濃尾平野を眼下に収めることが出来ます。一心寺から登城道が続いていて南の丸から本丸にたどり着きます。本丸の北東部に枡形を残し大きな竪堀が目を引きます。尾根上に沿って郭が続き、折れ曲がりながら北東に続きます。曲輪→二の丸→三の丸→太鼓曲輪・出丸→北の丸→搦手曲輪→堀切と尾根上を進むだけで次々と遺構を見ることが出来、気が付いたら最後の堀切まで来ていました。
土岐頼清の子・揖斐出羽守頼雄による築城とされ後に斎藤道三に攻められ消失し廃城となったようです。

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HKISD

勝山城跡散策 (2023/12/25 訪問)

茶色の石垣が見事でした。
又、整備もキチンとされており良い散策でした。

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しんちゃん

武田氏に改修された駿河の本格的山城 (2019/05/11 訪問)

丸子城は今川氏に属する斎藤氏歴代の居城とされ駿府の支城として位置づけられていたようです。武田の侵略後は山県昌景が入り永禄13年(1570)諸賀兵部大輔・関甚五兵衛が在番として入り今の形に増築が行われたようです。
主郭は時代によって異なり北の主郭・南の千畳敷はともに標高136mの高所にあり、現地の立札は南の郭を本丸としています。南の郭は馬出郭・枡形虎口を備えており少なくとも武田期にはここが本丸の役割を果たしていたものと思われます。

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赤い城

鷺森神社 (2023/12/15 訪問)

国道196号線から少し入ったところの鷺森神社が城趾です。
鳥居の脇に石碑が立っています。
河野氏が家臣の桑原氏に命じて築かせた城ですが豊臣秀吉の四国攻めで小早川隆景により落城しました。
境内が主郭で周囲を土塁と水堀が囲んでいたようです。
神社裏手には微かに残る土塁、その外側には水堀があります。
鳥居前、北側の堀は瀬戸内海につながっていて航路としての役割もあったようです。
今でも小舟が係留されています。
出張の際にちょっとだけ、と立ち寄りました。

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しんちゃん

キリストの里 青森県三戸郡新郷村 (2021/05/08 訪問)

最近は邪馬台国論争に四国の徳島まで参戦してきて、ちょっとした話題になっています。四国かあ‥たしかに淡路には国造り神話にまつわる神社やらいろいろあるけど狗奴国とかどこになるんだろう。
九州、近畿につづいて四国とにぎやかになってきました。本州の北端・青森県には邪馬台国の伝承はありませんがイエス様にまつわる伝承があります。伝承によるとイエスはゴルゴダの丘で死なず(弟のイスキリが身代わりになった)みちのくの山村に渡って106歳まで生きたそうです。イスキリ‥誰ですか?。いろいろな”?”が浮かんできますがキリストとイスキリの墓が向かい合って立っています。近くには伝承館もあってキリスト渡来の伝承を説明してくれます。イスラエル国家の公認のようですね。
今の状況からは想像もつかないですが、このときはイスラエルも余裕があったようです。ウクライナ・パレスチナ・イスラエルに早く平穏が訪れることを願います。ちなみに近くにある売店はキリストっぷというらしいですよ。それではみなさんメリークリスマス

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くうくう

江戸期代官屋敷の格式を伝える長屋門

永禄年間(1558-69)に黒田義則が移り住んだ。義則は8代目で、現在も黒田家当主は小笠町(2005年菊川市へ)町長をするなど健在で22代目を数える。中世居館の雰囲気ある水堀が囲み、主屋や長屋門が現存する。主屋は安政東海地震(1854)後に再建、長屋門はそれ以前の18世紀中頃築と考えられている。代官として約2千石を治めていた。

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シェル

太田道灌の陣城と勝海舟邸の長屋門 (2023/10/10 訪問)

 石神井城跡から南に進み、徒歩15分ほどで到着。
 石神井川のほとりにある早稲田高等学院が愛宕山砦の跡みたいです。太田道灌が石神井城を攻める際に築いたとされており、そのため石神井城にかなり近い場所に立地しています。
 砦の遺構は残念ながら残っていないようです。
 石神井城から愛宕山砦の道中には、徳川家光の狩猟の際に休憩所だった三宝寺があります。
 境内には、家光ゆかりの御成門や勝海舟邸の屋敷門であった長屋門が移築されているので、登城の際はセットで巡るのがおすすめです!!

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POYO58

江戸城2 (2023/08/13 訪問)

天守台を満喫した後は富士見櫓を見に行きましたが、富士見櫓を写真に取っているときに大雨が降ってきました。本丸まで歩いただけで靴下がびちょぬれになってしまいました。ただまだあまり見ていないと思ったので、大変でしたが外堀を廻ってみました。大手門から出て、桜田を通って、北桔梗門を通ってから、車に戻りました。大変でしたが、とりあえず有名な二重橋と桜田門は見れたのでよかったです。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「上野城」 (2023/10/30 訪問)

「小幡陣屋」から車で5分位の所に「上野城」があります。
場所は、群馬県 甘楽郡 甘楽町 上野 233です。
歴史は古く鎌倉時代に築城したようです。
江戸幕府の直轄地として代官のお屋敷がありました。

到着し、高い土塁と濠跡がお出迎えしてくれました。標柱を発見しましたが、ん?
「吉田家の土塁、濠跡」とあります。
「上野城」、現在の土地の所有者が吉田さんのようです。標柱のある所は虎口に見えましたが、土塁を削ってしまったようです。
道路沿いが水濠跡だったら縄張り、おかしいか?
平成24年の甘楽町のメールマガジンのバッグナンバーを読むまでは、虎口だと思ってました。
土塁は2m以上ありました。
立派なお屋敷を守っていたに 違いありません。

現在は水濠は長葱畑になっていて、行く手を阻みます。
半分はよく耕してあり、小動物の足跡が残ってました。
もう「吉田家屋敷」だな。と思った「上野城」攻めでした。

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初芽

登りやすく景色も綺麗! (2023/12/24 訪問)


滞在時間:1時間ほど

ハイキングツアーにて登城。
寒かったけど天気が良く、本丸跡から大阪の街並みが一望できてとても綺麗でした。
台風の影響で一部石垣が崩れてしまったとガイドさんからお聞きしましたが、それでもしっかり見られて良かったです。
石垣以外の遺構(堀とか土塁とか)も多分これかな〜?と思うものがあったのですが、倒木や枯れ草で隠れていて自信なく。
先に遺構の位置が書かれたマップを入手しておけばよかったと反省しました。

登りやすい城跡でしたが過去にはマダニが出たとのことで服装対策等はしっかりと!

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T-Shionoya

筑前国の重要拠点 立花山城 (2023/10/12 訪問)

10月の福岡旅行で訪れた2つ目の城が福岡県の福岡市や新宮町などに跨る立花山城。

福岡平野の北東、古から海陸交通のランドマークであった標高367mの立花山一帯を要塞化した城。
最高峰の井楼山を本城とし、他のピークや尾根に出城や砦などを配置。
貿易港博多の監視が可能なポイントで、筑前国を統治する重要拠点の1つとして争奪戦が繰り返された模様。

南北朝時代に豊後国の大友氏の一族が築いたと伝わり、立花姓を名乗っていたが16世紀後半に滅亡。
1571年に大友重臣の戸次鑑連が入城し立花道雪の名で知られ、養子の立花宗茂が城主を継承。
その後、筑前国の大名となった小早川の時代は名島城の支城となり、黒田時代に廃城となりました。

現在は登山道が整備され、福岡で気軽に楽しめるメジャーな登山スポットの1つ。
山頂からの博多湾と福岡市街地の眺望は絶景。

訪問時、立花口からスタートすると途中でルートが分岐し、立花山ルートで山頂の本城へ。
古井戸は埋没していたものの、山頂部に到着すると本丸は石垣と虎口らしき遺構が残る曲輪。
山頂から北西に石垣ルートで下山すると、所々で削平地が見られ、点在する石垣は徐々にレベルアップ。

予定していた松尾山は断念し、秋山谷から小つぶらを駆け足で巡り滞在時間3時間越え。
時間不足でやや消化不良ながら、立花道雪・宗茂への興味が増した私の城郭巡りの161城目でした。

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しんちゃん

姉帯一族奮戦す。 (2021/05/08 訪問)

姉帯城は馬渕川の北に位置する丘陵上に築かれており南は絶壁になっています。九戸南部氏の一族の姉帯氏の城で九戸政実の乱の際には城主・姉帯大学兼興・五郎兼信兄弟ら一族郎党が豊臣軍と戦いましたが大半が討死したと伝わります。現地案内板には大学の妻で長刀の名手小滝の前や棒術の名手である小屋野(性別不明・女性では?)らも一緒に戦ったようですが生死を含めて詳細が不明です。
城址は主に二つの郭で構成されていて西にある二の郭の方が整備が行き届いています。かなりの規模を誇る大堀切を渡って主郭にたどり着きますが藪化が進んでいます。主郭東側にも堀切があり城址を外部と遮断しています。

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くうくう

その後の高知城のモデルになった一豊の掛川天守

今川氏の遠江進出の拠点として朝比奈氏が掛川古城を築城し、永正10年(1513)頃この地に移った。徳川氏との攻防で永禄12年(1569)開城、今川氏滅亡。その後山内一豊が入城し、拡張、近世城として天守など整えた。天守は倒壊していたが平成6年(1994)日本初の木造復元された。白漆喰壁、黒い廻縁高欄、付櫓があり三層四階で青銅製の鯱があがる。他に大手門も翌平成7年(1995)に木造復元された。二ノ丸御殿は日本に4ヶ所しかない現存御殿建造物。珍しい銀杏型石垣が見られる。本丸には三ノ丸から移築された太鼓櫓が現存する。

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しんちゃん

源義経の北行伝説の舞台でもある。 (2021/05/08 訪問)

八戸城は馬渕側の南側の河岸段丘の北端に築かれていて太平洋とも3kmほどの近さにあります。元々は根城南部氏が支城として築き「中館」と呼称し城主は中館氏を名乗ったそうです。寛永4年(1627)に国替えにより三戸南部氏の直轄になり寛文4年(1664)南部重直が没すると幕府の采配により遺領10万石のうち2万石を重直の弟・重房に与え八戸藩が成立しました。八戸城の整備はこの時に行われたようです。
現状公園になっていて遺構は残っているようには見えませんが、本丸中心部にある三八城神社境内には本丸跡の石碑が建っていて南東の南部会館には角御殿表門が残っています。源義経の北行伝説の舞台の一つで、三八城神社境内に弁慶石があり、東にある「おがみ神社」には義経の正室・京の久我大臣が自害したという伝説があり、その霊を祀っているそうです。

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小城小次郎

織豊以前の石垣の城なのだ (2023/04/16 訪問)

在地土豪から六角氏の有力被官へと大きく成長した永原氏のお城だが永原氏は織田信長の勧告に応じず近江を去ったため信長近江入り前(つまり織豊系城郭誕生以前)の石垣造りの城としてこの城の価値はとんでもなく高い。

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赤い城

道後公園 (2023/12/05 訪問)

松山に出張があり、少し時間がとれたので立ち寄りました。
駐車場に着いた途端に雨が。
駆け足での登城になってしまいました。
搦手から入り土塁に沿って歩きました。
資料館はまた今度ゆっくり。

途中土塁の断面も展示されています。
土塁には裾石が施された部分もあります。
内堀には遮蔽土塁も施されます。
主郭部からは松山城を望むことも出来ました。

時間もなかったのでこの辺で退却しました。
ちょっと濡れたけど満足、さっ、仕事仕事。

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チェブ

長いものに巻かれると、静かな時間。 (2023/10/30 訪問)

「小幡陣屋」を検索すると、『織田 信長の次男 信雄の庭園』など、信長さんの七光的です。
織田 信雄さんを検索すれば、『迷走する愚将』など、お父さんが信長さんのわりに~のダメダメ評価。

でも、『名勝 楽山園』を見学すれば 信雄さんのポイントは上がるはずです。
入城料は300円だったと思います。お城関係のパンフレットやチケットを入れる箱の中から見つけられませんでした(;´д`)
復元された中門をくぐれば枡形虎口。もう、「小幡陣屋」を忘れて庭園へ向かってました。
広い庭園に池があり、鯉が集まってきます。エサも無いのに鯉と遊び、疲れたので梅の茶屋へ。
畳が敷いてある茶屋で、上がって良いとの事です。もう、ゴロンとしたくなる感じです。
弓道場が見えて、タイムスリップしたような錯覚。
遠くの山々が綺麗で、春の緑や冬の雪も素敵な眺めになることでしょう。

庭園を終えて「小幡陣屋」へ。
井戸跡や、建物はありませんが、何の間だったかのパネルがあり識別してあり解りやすかったです。
それから、土塁の向こうに長屋が復元されてました。
中は展示物があります。こちらに鯉のエサも売ってます。

信雄さんを検索し、よく最後まで読むと戦国の世を器用に渡り歩いた、とか織田家の血筋を絶やさず繋いだ等、誉めてます。
不器用だけど、一生懸命な信雄さんと、しておきます。
「小幡陣屋」には、織田 信長さんのカラーマンホールがありました。
『信雄さんのだったら写真に写したのに』と、無視しました。
今更ながら信長さんマンホールの写真、写しておけば良かったと後悔する「小幡陣屋」攻めでした。

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