撰要寺由来と余湖図コレクションさんの撰要寺砦によると大須賀康高が家康の命により武田勢の高天神城を攻略で横須賀城を築城完成するまで撰要寺に布陣して陣城としていた様子、横須賀城は天正6年(1578年)築城開始し天正8年(1580年)に完成し移り初代城主へ、2年程陣城として使用していたのか?。
住所:静岡県掛川市山崎1302-1
駐車場:横須賀城西の丸西下駐車場、トイレ完備、徒歩で西行300~400m程北行100程で山門、山門下西の歩道に広い所があり1台路駐可?。
南西面の2段丸石垣と参道と参道石垣、山門は城構え其の物である、山門下に横須賀城不開門の標柱が在る、山門は横須賀城不開門を移築したもの立派な松材で門扉は透かし扉。
撰要寺は天正9年(1581年)大須賀康高による創建で菩提寺、歴代城主菩提寺とし厚く敬われていた。
大須賀康高、忠政の墓は立派な宝篋印塔墓で石柱列と石扉で囲まれて並び立っている。
由来板には、「観光の寺ではありません、皆さん手を合わせお参り致しましょう」と注意書きされて居ましたので、奥には踏み込みを遠慮して手前と歴代住職の墓、墓場を遠望するのみにしました。西側の墓場は多段曲輪だったかもしれない?
西側の田圃はその当時入り江に成っており、磐田今之浦から馬伏塚城、岡崎城の兵站基地経由して潟湖の水運を経て撰要寺砦で兵糧の集積し高天神城攻防の要に成っていた。
撰要寺砦の北に水堀が残って居る、しかし矢竹が茂り、樹木も茂り見学しにくいですが確認する事は出来る、西側の堀は埋められて道路に成っている、入江は宝永の地震(1707年)で隆起し消滅した。
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