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しんちゃん

江戸城でやらかした後からのリバイバル・ストーリー (2023/07/02 訪問)

羽城は大浜陣屋ともいい、家康の母方の実家である水野家の陣屋です。
享保10年(1725)水野忠恒が江戸城内で刀傷沙汰をやらかし、松本7万石→佐久郡7000石に
所領を減らされます。
その後、水野忠友は明和5年(1758)西三河領6000石の加増を受けます。
大浜陣屋はこのころに築かれたのだと思います。忠友・忠成の二代で勝手掛老中の役を務め
加増を受け天保元年(1830)には5万石の大名にまで復帰しています。
羽城(大浜陣屋)は道沿いに陣屋跡公園として整備され非常に訪問しやすいのですが
駐車場がありません。‥と思ったら目の前にド〇ーがあるじゃないですか。
駐車場を使わしてもらいましょう。
陣屋跡を見学し終えたら、そのまま帰る‥じゃなくてド〇ーに寄って
何か買って帰るとします。駐車場の義理は返して帰ります。

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しんちゃん

東条城なう。憎きはシロアリか世知辛い世の中か。でも今でも素敵だ東条城。 (2023/07/02 訪問)

東条城なうです。
かつてあった櫓も楼門もありません。地元の方いわく、シロアリにやられてしまって
撤去してしまったとのことです。
そのあと櫓の再建の費用を行政側が出してくれなかったとのこと‥。
それぞれ事情があるとは思いますが‥。西尾城の二の丸には櫓が新たに再建されて
整備も進んでいるというのに。(しかも建築基準法の問題で入ることが出来ないそうです)
それでも吉良氏発祥の由緒正しい城であることに変わりはありません。
史跡認定されていなくても、城好きにとって重要な城だと思います。
東側の登城口を登ると帯曲輪を経て三の丸に至ります。
そこから左手に折れ、神社になっている二の丸の現存土塁を確認したあと
虎口を経て本丸に到達します。
かつて徳川家康の父、松平広忠が岡崎を追放された際に東条城の吉良持広が保護して
伊勢に逃がしたといいます。
後に吉良義昭が三河の一向一揆と結託して東条城で松平家康と戦います。
東条城は広忠、家康と親子二代にわたって縁があったようです。
‥‥いずれ城内にあるトイレもなくなってしまうようですが、
地元の方が花見の場所に重宝しているようなので、なんとか残してほしいと思います。
行政のかたも宜しくお願いします。

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しんちゃん

在りし日の東条城。櫓も楼門も今となっては懐かしい。 (2013/07/20 訪問)

東条城は承久3年(1221)足利尊氏の祖、足利義氏が築き、三男の足利吉継を入れました。
それ以降、東条吉良氏の居城となります。
このたび掲載した写真は約10年前のものになります。
私、城歴は10年になりますが最初の2年で百名城や今でいう続百名城は7割がた回ってしまいました。
そのあと、その他の名城や、無名な城などを回って今に至ります。
名だたる城は最初の2年でほぼ回ってしまっているのですが
いかんせん写真が古い!しかも比較的マイナーな城に至っては写真がイマイチな上に
記憶がほぼ残ってない。
というわけで比較的近場の城に至っては、もう一度訪問して写真を撮ってきています。
いろいろ新しい発見が会ってよいのですが、中にはちょっと残念なふうに変わってしまった
城もあったりします。
諸行無常と言いますか‥考えてみれば戦国の土の城の土塁や堀など
なんとか残っているだけでも奇跡のようなものなのかもしれません。
東条城もかつては櫓や楼門があって、なかなかよい雰囲気を出していたのですが‥。

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朝田 辰兵衛

最寄りバス停は「たたら」です。 (2023/05/05 訪問)

長野駅前7番乗り場から。駅前のロータリーからは外れています。戸隠中社(とがくしちゅうしゃ)行の73番系統で。
土休日は6往復しか運行しておりませんでした。ご注意ください。
最寄りバス停は「たたら」です。漢字で書くと「鑪」。ほとんどひらがな表記されてますのでご心配なく。料金は,片道470円。
バス停周辺は三差路となっており,バスは左へ。葛山城へは直進となり,山へ登っていく感覚となります。
帰りのバス時間を意識せねばならなかったですが,要所要所は散策できました。

さて,にのまるさんクイズ④についてですが…
松本城を西側から眺望しています。写真は残っていないのですが,松本市内在住の友人から連れてってもらったことがあります。
桜の名所です。ズバリ「犬甘城(いぬかいじょう)」。
たしか,カルビンさんが以前,投稿されていたかと思います。
いかがでしょうか…?

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にのまる

ありがとうございます(・∀・)/

ぴーかるさん、お忙しい中ご返答くださりありがとうございます。
簡単すぎましたか(;'∀')
離れて眺めると、やっぱり天守っていいなぁと思います!(見つけやすいし💦)

写真④の松本城を見ているお城、解答を引き続き募集します!
どなたかおねがいします……🥺

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にのまる

江戸末期の原型ほぼ完存の国史跡 (2023/04/22 訪問)

米子城訪問を終え、米子駅(ねずみ男駅)から鳥取行きの山陰本線に1時間揺られて到着した由良駅はコナン駅。
(「時計じかけの摩天楼」「天国へのカウントダウン」「業火の向日葵」はよく見ていました(・∀・)/)
コナン君たちの出迎えにホクホクしながら歩き、途中、由良藩倉跡に寄ってから由良台場へ。
幕末に築造されたフランス式砲台は藩の財政難のため、資金も労働力も民間に頼っていたそうで、日本の隅々まで時代の大きなうねりの中にあったことを思います。
きれいな緑の芝の敷かれた台場跡は「市民の憩いの場」(←城郭用語!?)
「八角形を二つに割った」「長方形の2隅を落とした」と表現される六角形の稜堡式城郭は4門の砲座跡が海に向かっており、近づいてみるとその大きさに圧倒されてしまいました。
さまざまな時代を経て今があることを思いながら土塁の上をひとまわりしました。
初めて訪れた土地の土塁の上で沈む夕日を眺める贅沢なひとときを持てたことに感謝。

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トク

51【関ケ原の26人】 (20) 山内一豊 (山内一豊と高知城) (2023/06/10 訪問)

(20人目)「山内一豊」の続きです。
一豊が築城した「高知城」を訪れてきました。
高知駅前から「とさでん」に乗り(写真⑦)「はりまや橋」(写真⑧)で運賃200円を払い乗り換え券をもらって乗り換え「高知城前」で下車すると高知城が見えてきます。

高知城の登城口である追手門(写真③)の向側には「高知城歴史博物館」があります(写真⑨)。ここには土佐藩の歴史や山内家の資料などが展示されています。高知城を見学する前に、博物館を先に見学される事をオススメします(天守とのセット券もあります)。また3階からは高知城を眺められる場所とレストランがありました。私は高知城を眺めながらそこでゆっくりと遅めの朝食をとり、それから登城しました(写真⑩:3Fから見た景色)。

追手門の入口では一豊の銅像が出迎えてくれます。(写真①②:一豊様~!)何とも勇ましい顔です。

そして門をくぐり、板垣退助の銅像前を過ぎると、階段と高石垣がありその上に天守がそびえる、この下から見上げた姿に、私はすでに圧倒されてしまいました(写真④)。攻め入る気持ちで入りましたが、天守まで辿り着く前にここで戦意喪失してしまいました(笑)(さすが一豊様!お見事です)。

一豊は、すぐに掛川から土佐へ入国する事ができませんでした。「一領具足」と呼ばれる長宗我部の残党が一揆を起こし、入国を阻止しようとしたからです(浦戸一揆)。この一揆は、井伊直政の援護を受け、首謀者273名を斬首し鎮静化。やっとの思いで一豊は入国する事ができました。

浦戸城に入ってから3年後、本丸と二の丸が完成し1604年一豊は高知城へ移ります。いつ命を狙われるかわからず、5人も影武者を用意していたようです。だから高知城はこのような強固な作りにしたのかもしれません。しかしその翌1605年、一豊は天守が完成する直前に突然没してしまいました(享年61)。死因は不明とも、何とも皮肉なものです。

一豊はどんな思いで完成した天守を見る事なく、亡くなっていったのでしょうか? 私は高知城の天守に立ち考えてみました(写真⑥)・・・

本当は、この天守が完成したら、そこから高知の町を眺めながら、これまで支えてくれた千代に、一番感謝の気持ちを伝えようとしていたのではないでしょうか?・・・

次は、(山内一豊の妻(千代)の物語)に続きます。
 

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赤い城

相賀城 茨城県行方市 (2023/07/02 訪問)

群書類従に出てくるアウカ殿、相賀氏の城です。
相賀氏も南方三十三館誅殺事件により滅亡しました。
龍翔寺の駐車場に車を置かせてもらい、隣接する八幡神社へ。
石段を登ると城域となり、竪堀や堀底道に出会えます。
八幡神社が主郭ですがまずは堀底道を歩いて行きます。
主郭周りをぐるりと歩き、北に伸びる曲輪を歩きます。
途中堀切や土橋もいい感じでした。
三郭には神社が建っています。
三郭の先にも堀切があり、さらに曲輪がありましたが、藪で断念。
この先に説明板があるようです。
遺構もよく残り、この時季でも比較的歩きやすい城でした。

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todo94

14年ぶりの攻城 (2023/05/04 訪問)

14年ぶりの再訪です。初めて訪れた時には千畳敷を囲む環状の横堀が吉野ケ里遺跡のようにモルタルで突き固められていたことに幻滅してしまったものですが、歴史のある、そして見どころの多いいい城だなと思えるようになりました。初めての時にはスルーしてしまった三城にも足を伸ばすことができて満足です。

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ぴーかる

コンプクイズの回答2

にのまるさん、赤い城さん祝辞ありがとうございます。
赤い城さん、後日に大阪府のマイベスト投稿を致しますので宜しければご参考にして下さいませ。
さて、にのまるさんクイズですが全部は分かりませんでした。

写真1枚目:石垣山城から見た小田原城 ここは私も昨年行ったので分かります。井戸曲輪辺りから撮影した感じです。
写真2枚目:向羽黒山城から見た会津若松城 ここは行ったことはありませんが天守を見て分かりました。
写真3枚目:湯築城から見た松山城 大天守しか写ってないけど周囲の櫓群で判明できた。ここも行ったので分かった。
写真4枚目:松本城が写っているようなのですが‥‥オーン(岡田監督風に)ギブアップです(>_<)ムズい!

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赤い城

林城 茨城県鹿嶋市 (2023/07/02 訪問)

まずはぴーかるさん、大阪府コンプリートおめでとうございます。
大阪は歴史的にも興味深い城が多いのでいつかコンプしたいです!

さて、この日は南方三十三館の城をいくつか訪問しました。
南方三十三誅殺事件として有名です(関東だけかも)。
鹿行エリアは大掾氏一族が支配していましたが、佐竹氏が城主を太田城に呼び出し、誅殺した事件です。
我々の世代だと体育館裏で・・・?

『群書類従』第645-647「常陸国田島村伝燈山和光院[4]過去帳」には、「天正十九季辛卯二月九日 於佐竹太田ニ生害ノ衆、鹿島殿父子、カミ、島崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、武田殿、已上十六人(以上十六人)」
との記載があります。
この内、鹿島城、島崎城、小高城、中居城は城びと登録城で訪問済。
その他武田氏の木崎城も訪問済でした。

この中にありませんが林氏の林城。
遺構もよく残り、整備もされているとのことで登城。

駐車場はありませんが路駐には充分な感じでした。

登城路を登って行くと右手に「二の丸」の案内板があります。
虎口を経て二の丸へ。
土塁が残り、広いスペースになっています。
隣接する本丸にも高い土塁が残ります。
本丸と二の丸から堀を挟んだ広い曲輪が三の丸のようです。
ここにも土塁がついていて外側の空堀に進んで行くと、ガサガサッと。
明らかにイノシシでした!

深入りは自重し退散しました。

近くの林中城が居館のようですが外城の方が整備され歩きやすいようです。

堀底道や高い土塁が残る素敵な城でした。

林氏も佐竹から太田城に呼び出されましたが途中で家臣により殺害されたとのこと。

南方三十三館誅殺事件、興味深いです。

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カズサン

初登城中野陣屋 (2023/06/19 訪問)

 飯山城再訪問し整備の進捗を確認し、西曲輪の整備、桜井戸の整備と徐々に進んでいる、まだまだこれからでしょうが、本丸城門、本丸二重櫓の復元整備を願いつつ下城して、まだ探訪していなかった中野陣屋を目指しました。
 中野陣屋は飯山城から直線で約13km程、千曲川沿いの国道117号線を南下、謙信公軍勢が越後の山々を越えて北信濃飯山から川中島へ進軍する姿を妄想して安全運転。

 駐車場:中野陣屋前広場公園の専用駐車場無料、トイレあり、県道358号線中町通りの西側に在ります。(36°44'43"N 138°22'19"E h=380m)

 駐車場南に大立看板が有り「中野陣屋・県庁所在地記念館入口」と、柳の通りを通って中野陣屋跡・中野県庁跡正面に到着、前には堀と石垣、橋、水路がある、敷地の堀沿いに中野陣屋・中野県庁跡の白い標柱と案内板、唐破風玄関横には中野陣屋旧跡石碑、旧中野県庁跡の石碑が有り、記念館は入場料無料、案内パンフレットを頂く、資料展示が有り天領中野陣屋の説明、中野県庁の説明、明治初めの中野騒動の説明と充実しています。
 二階は馬・馬具のコレクションと成って居ました。

 家に帰って振り返り、皆さんの投稿にある陣屋井戸、陣屋稲荷を見学して無いことに気付きました、案内板、パンフレット、皆さんの投稿に陣屋石垣、陣屋井戸、陣屋稲荷が遺構と載って居ましたのに、上面しか見てないのですね⁉
 

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にのまる

おめでとうございます🎉

ぴーかるさん、大阪府制覇おめでとうございます。
茶臼山陣城でしたか!
大阪城、惜しかった!?


朝田さんからバトンをいただきました、おめでとうクイズは全4問です。
画像が粗くて申し訳ありませんが、写真①~④はそれぞれあるお城から撮った100名城です。
それぞれ『何城から見た何城でしょう?』

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ヒカミ

本日登城致しました (2023/07/02 訪問)

豊橋に行ってまいりました。
吉田城&ビール電車ツアーなり

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POYO58

石垣が素敵 (2023/04/02 訪問)

最初に言っておきたいのですが、写真の石垣の番号ですが、パンフレットに書いてあったのを書いたつもりですが、あくまで僕の記憶なので間違ってると思います。申し訳ありません。
さて飯盛城ですが、安土城に先立って築かれた石垣のお城です。ほとんど発掘調査で見つかったものですが、小規模なものから大規模なものまでたくさんあります。
駐車場からだいたい15分歩いて登城口到着です。そこまで車でいけるそうです。これに関しては狭い道と感じる人もいるのでお任せします。
まず最初に辿り着くのは三好長慶の銅像、桜とマッチして綺麗です。でそこがどうやら高櫓跡のようです。また土橋も近くにはっきり残っています。
そこから山を下っていくとあちこちに石垣があります。石垣3からまずいき、その後、17,18をいきました。基本的全部野面積みです。
石垣1をいくと、その下に一番大きい石垣19かあるようですが、これは危険なので見れないです。僕はなんとかギリギリまで行って写真を撮って引き返しました。
電車で行くのは結構大変そうです。車の探訪をおすすめします。

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朝田 辰兵衛

高山城散策 2/2(二の丸~北の丸,イワオ丸~西の丸)を。 (2023/06/10 訪問)

ぴーかるさん,瞬殺ありがとうございます!
高山城イワオ丸の画像で間違いありません。
この瞬間は逆光でもなく,イイ感じで風が吹いており,幟も元気になびいておりました。
車を利用し,南・北コース登城の書き込みが多いと感じましたので,JR本郷駅から徒歩の「塔の岡コース」の案内をさせていただきます。
まず,JR本郷駅のコインロッカーは,旧500円玉1枚となります。てっきり100円玉を用意していた私は,改札まで戻り,両替をしていただきました。キャリーバッグと傘を収納でき,大きめで良かったですが,全4つしかありません。100円玉を入れて使用不可になっているところがあり,実質稼働していたのは3つでした。すでに2つ使用中でしたので,ギリ安堵でした。
住宅街から公園前を通過し,墓地エリアを抜けたところが登城口でした。冬場はチェーンをかけているように思えました。
分岐点が2つ。一般コースを無事に抜けると犬の丸と南の丸の間に到着します。
城域は,佐渡島の形に似てると思いました。越後人なら間違いなく連想するでしょう。
扇の丸が両津港だな…とか,西の丸が小木港だな…とか。

ということで,次はにのまるさん,お願いします。

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朝田 辰兵衛

高山城散策 1/2(塔の岡コース登城口→本丸)を。 (2023/06/10 訪問)

ぴーかるさん,瞬殺ありがとうございます!
高山城イワオ丸の画像で間違いありません。
この瞬間は逆光でもなく,イイ感じで風が吹いており,幟も元気になびいておりました。
車を利用し,南・北コース登城の書き込みが多いと感じましたので,JR本郷駅から徒歩の「塔の岡コース」の案内をさせていただきます。
まず,JR本郷駅のコインロッカーは,旧500円玉1枚となります。てっきり100円玉を用意していた私は,改札まで戻り,両替をしていただきました。キャリーバッグと傘を収納でき,大きめで良かったですが,全4つしかありません。100円玉を入れて使用不可になっているところがあり,実質稼働していたのは3つでした。すでに2つ使用中でしたので,ギリ安堵でした。
住宅街から公園前を通過し,墓地エリアを抜けたところが登城口でした。冬場はチェーンをかけているように思えました。
分岐点が2つ。一般コースを無事に抜けると犬の丸と南の丸の間に到着します。
城域は,佐渡島の形に似てると思いました。越後人なら間違いなく連想するでしょう。
扇の丸が両津港だな…とか,西の丸が小木港だな…とか。

ということで,次はにのまるさん,お願いします。

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ぴーかる

コンプクイズの回答

朝田辰兵衛さん祝辞ありがとうございます。
勿論瞬殺です。クイズの回答は、
【広島県高山城】のイワオ丸ですね。私も約3年半前に登城した大好きな山城の一つです。今だに強烈なインパクトで鮮明に記憶が残っている城跡です。似たような写真添付します。

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小豆坂古戦場 (2023/07/02 訪問)

 織田信長や徳川家康関連の本を読んでいるとメジャーな戦いではありませんが、「小豆坂の戦い」がよく出てきます。場所は愛知県岡崎市です。有名なのは織田信秀と今川義元の戦いで通説では2回あったとされています。
第1次合戦 天文11年(1542年)
 このときに「小豆坂の七本槍」の活躍で織田方が勝利したと伝わっています。ただこの合戦はなかったのではないかともいわれています。
第2次合戦 天文17年(1548年)
 このときの今川方の大将は太源雪斎であったといわれています。このときは今川方が勝利しています。
織田対今川の小豆坂の合戦について不明なことも多く、合戦は1度だけだった、松平広忠は第2次合戦のときは織田方であったなど諸説ありわかっていないことも多いようです。
小豆坂の七本槍とは 織田信光、織田信房、岡田重能、佐々政次、佐々孫介、中野一安、下方貞清の織田方の7人といわれています。織田信光は信秀の弟、つまり信長の叔父で守山城主、佐々政次、孫助は佐々成政の兄であったことはわかりますが、不勉強で他の武将は知りませんでした。7名の兵が休息時に各々の槍を立てた松が、この場所にあったと言われ槍立松の碑が立てられています。

 またここは永禄7年、徳川家康が三河一向一揆と戦った地と伝わっています。

 岡崎城の最寄り駅である名鉄「東岡崎駅」の隣の駅である「男川駅」から南へ徒歩約10分の場所に小豆坂古戦場の石碑等が立てられています。

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生田城 (2023/07/02 訪問)

 愛知県岡崎市にあり、「しょうだじょう」と読むようです。城びとには未登録の城です。名鉄美合駅で降りて西へ歩いて行くと田んぼの中に石碑があります。近くに「明和年間生田四郎重勝が徳川家康公の姫御前が豊前の国中津藩に御輿入れになった際に附添武士として栄任され時の庄屋本間幾右衛門重勝に其の後始末を一任され廃城となった」と彫られた石の説明板があります。この姫御前というのは亀姫との説もありますが、年代が合わずよくわかっていないようです。城史の詳細も不明のようです。

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