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イオ

とことん岡山城(城下町~西之丸) (2023/08/13 訪問)

南北朝期に上神高直が石山に築いた城がはじまりと伝わりますが、戦国期には金光氏の居城となっており、宇喜多直家が金光宗高を謀殺すると城下町を築いて居城を移し、宇喜多秀家が本丸を石山から岡山に移して四重六階の天守を築き、城と城下町を大改修しました。関ケ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が改易されると小早川秀秋が入って惣構の外堀を築き、秀秋の急死により小早川氏が断絶すると池田氏が入って城下町をさらに拡張、西川を整備して城下町の西端の防備としました。池田氏のもとで明治を迎えた岡山城は、廃城令により天守、月見櫓、西之丸西手櫓、石山門を除く建物が取り壊され、岡山大空襲では天守と石山門が焼失しましたが、戦後に天守や不明門、廊下門などが再建されて現在に至ります。

旭川河口部にある3つの丘陵のうち、岡山を本丸、石山を二之丸に取り込み、天神山を出丸とした平山城で、本丸を三重の内堀、中堀、外堀で囲み、西端は西川で画し、旭川を付け替えて後背(北側から東側)の天然の堀とした梯郭式縄張です。本丸は、天守を擁する最高所の本段、本段の西側一段下に表書院が置かれた中の段、本段と中の段を囲むように配された下の段からなっています。

子どもの頃から行ってみたいと思っていた城でしたが、ようやく念願を果たすことができました。令和の大改修を終えた天守に加えて「夏の烏城灯源郷」とニッポン城めぐりのイベントを目的に、青春18きっぷで岡山へ。真夏の猛烈な日差しが照りつける中、岡山駅から岡電沿いに歩いて行くと西川が南北に流れています。ここからが城内です。

岡電が南に曲がるあたりが内堀の一番広い場所(最大幅100m!)で、内堀の説明板が立てられています。内堀跡を少し南に行くと、東側の駐車場の奥に西之丸の西辺石垣があり、その上に西丸西手櫓が建っています。ビルの谷間にありながらも存在感では負けていません。さすがは国重文の貴重な現存櫓ですね。西手櫓の南から堀跡の路地を東に入ると、西之丸の南辺石垣が続いています。石垣沿いに東に進んだ先が石山門です。富山城の大手門を移築したと伝わる櫓門で旧国宝にも指定されていましたが、岡山大空襲で焼失。石垣に残る焼け跡が空襲の激しさを物語っています…。石山門を抜けて烏城みちを北に進むと、西側の小学校跡地が西之丸です。池田光政が隠居所としてより歴代藩主の隠居所として御殿や庭園が設けられました。西手櫓と庭園の小池が遺っていて、門も開いていましたが、学校地に勝手に入るのはためらわれたので、門前から眺めるに留めました。

西之丸の東側が宇喜多直家期に本丸が置かれていた石山で、駐車場の奥に池田期に設けられた池田家祖廟の石垣が遺っています。西側からは石山頂部に行けないようなので、いったん旭川沿いに出て東側に回り込み、石山の城(前岡山城)の説明板のあたりから坂道を上っていきましたが、石山頂部は駐車場になっていて西辺から南辺の石垣以外に遺構は見当たりませんでした。南麓の駐車場(堀跡)に下りて池田家祖廟の石垣を見上げてから、桜門(説明板あり)を抜けると、対面所跡に建つ林原美術館の前に長屋門があり、石碑の説明板によると岡山藩支藩の生坂藩岡山屋敷の長屋門が移築されたもののようです。林原美術館から烏城みちを東に進むと眼前に内堀が広がります。いよいよ本丸です(続く)。
 

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けむん

立派な石垣群に圧倒されました (2023/11/24 訪問)

行きづらいの城なので、ツアーで訪問しました。流石に日本三大山城だけあって、立派な石垣群に圧倒されました。櫓部分が残っていれば壮麗だったと思います。司馬遼の「おお、大砲」おすすめですね。

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けむん

石垣が見事でした (2023/11/25 訪問)

豊臣秀長時代、浅野氏時代、紀州徳川家時代の石垣が楽しめて良かったです。ツアーなので、サクッと見ただけですので、また来たいと思います。

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けむん

混んでました (2023/11/25 訪問)

12時過ぎでしたけど、土曜日のせいか外国人さんたくさんいて、混んでました。入場口まで30分くらいで、その後エレベーターの並びでしたが、エレベーター使わず階段で。各階とも混んでましたので、落ち着いて見学はできませんでした。平日か朝一で再訪ですね。

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えの

眺望がすばらしいお城 (2023/11/25 訪問)

角牟礼城の続百名城スタンプをいただいた史料館でこのお城の存在を知り、急遽行くことに。
係の方からは角牟礼城みたいな石垣は残っていなし、城としての見どころは無いよ~なんて言われてしまいましたが、そんなことは無い。土の城でも充分楽しめますよ

この山は大きなクスノキを切り倒したときの切り株だという伝説が残っているように、山頂部分がとても広いです。
パラグライダーやブランコなど、アクティビティを楽しめる山となっており、子ども連れをよく見かけました。  

お城の説明看板は立っているので、どこに土塁が残っているか確認できます。
第3土塁は割と分かりやすいものだったかな?と思います
今回見られなかった他の土塁や竪堀、堀切もいつか見てみたいですね。

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えの

日本でここだけの櫓 (2023/11/26 訪問)

暘谷駅から徒歩数分のお城です。

現在、中心部には小学校や中学校が建っていますが、石垣はよく残っています。
ここの学校の生徒さんたちは毎日この石垣に触れながら過ごせると思うと羨ましく感じますね。

日出城の特徴は、変わった形の鬼門櫓です。名前の通り城内の鬼門の方角に建てられましたが、櫓の北東部の角がとれたような造りになっています。櫓内を見学していた最中、近くの資料館の方に建物と石垣の角の両方が同じように取れた造りになっているのはこの日出城だけだと教えていただきました。

二の丸館では手荷物預かり、お土産・御城印販売をしていますので、立ち寄ることをおすすめします

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たぬぬ

藪化しています。 (2023/11/30 訪問)

城址にある案内板の後方が曲輪跡ですが、藪の状態がひどくてよくわかりませんでした。

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T-Shionoya

挙母城のつくりを再確認 (2023/09/30 訪問)

愛知県豊田市の挙母城。
前回は曇り空&短時間だったため、大手門周辺を含めてじっくり19年振りに再訪問。

河岸段丘の縁に築かれた城ですが、改めて訪れると本丸一体は幅広の谷で隔離された独立丘。
城下町&大手門エリアからは本丸エリアが遠くに見える印象。

さて、江戸期の町並みを残す城下町から大手門跡を抜けると、左に絵図の土橋の道が存在。
更に本丸への道筋を進むと、美術館通用口駐車場から広場へ上がる小路が嘗てのルートの痕跡でしょうか。
本丸に建つ美術館の敷地は2段になっており、ここも石垣と多門長屋の名残?

意外と城の姿を残している挙母城でした。

※写真2枚目は2004年のもの

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しろおと

高知城 (2014/01/17 訪問)

四国って現存天守の宝庫なんですよね
高知城は天守だけでなく本丸御殿も残っている唯一のお城
高知県高知市にあるお城で高知県庁のバックにあります

石垣が野面積みで6階建の縦長なお城です

内助の功で有名な山内一豊の建てたお城で
その主役の妻・千代の像がありました
大河ドラマ『功名が辻』で上川隆也と仲間由紀恵が演じてましたね
高知といえば幕末志士の出身地で板垣退助の像もありました

本丸御殿も残っており黒潮をイメージした欄間などがあり
意外にも今時なデザインでした
煌びやかというより、シンプルで質実剛健な感じで
本当に暮らせそう。縁側が素敵でした

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mae

大堀切 (2023/12/03 訪問)

入口は藪ですが、尾根に入れば、比較的歩き易くなりました。圧巻の土木量でした。

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くうくう

国史跡、別名鶴丸城と呼ばれる島津氏の館城

慶長6年(1601)島津家久が築城、約10年で完成させた。平城。77万石にしては天守や櫓のないシンプルな城郭であるが、外城をおよそ100もっていた。
加工しやすい溶結凝灰岩を利用した石垣は加工整形(切石はつり)が多く亀甲積や石材の縁に漆喰を塗った金場取残積など見所が多い。また鬼門除けの隅欠(すみおとし)や西南戦争時の弾痕もある。
擬宝珠つきの石橋は遺構。明治6年(1873)焼失した御楼門は令和2年(2020)復元完成した。二重二階造木造本瓦葺で屋根に鯱を上げた高さ20m国内最大級の城門、大手櫓門。

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くうくう

内堀に映える白漆喰仕上げ黒漆塗下見板の大天守

国宝現存天守。5重6階複合連結式層塔型で、現存12天守の中では唯一の平城。永正年間(1504-20)信濃守護小笠原氏が築城したのが始まり。文禄年間(1592-96)石川数正とその子康長が天守など城郭整備を行う。傾きが目立つようになった天守は昭和25年(1950)文部省直轄国宝保存事業第一号として解体修理が行われた。天守には蕪懸魚が多用され小天守には華頭窓もある。また、黒門・太鼓門の復元、西総堀土塁などの土塁遺構や総堀を復元する計画もあり、城の魅力を高めている。

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とばつびしゃもん

名張藤堂家の屋敷 (2018/10/08 訪問)

藤堂高虎の養子、高吉を祖とする名張藤堂家の屋敷。江戸期の屋敷の一部が現存。
屋敷内の部屋や展示された文化財資料を見てまわる。こぢんまりとした枯山水の庭を見てのんびりした気分に。

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李牧

北側からの登城路 (2023/12/03 訪問)

R477沿いの駐車スペースからの登城路は藪で覆われ通行不可。少し北に歩き、Pみちくさの奥の小径に行くと、切通の脇から簡単に登れます。

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李牧

登城路通行不可 (2023/12/03 訪問)

電気柵を越えたところで改めて防護柵があります。ロープでがんじがらめに施錠されており通行できません。

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晩秋の二ツ山城跡で落ち葉歩き (2023/12/01 訪問)

12月になり紅葉も終わりを迎えている二ツ山城跡。
本丸から西の丸へ、落ち葉歩きをながら撮影を楽しみました。
登山道は歩きやすく、落ち葉を踏む音が心地良く、癒されました。

*駐車場に二ツ山城跡の案内パンフレットがありますので、二ツ山城跡歩きの参考にしてください。
*トイレはないので、車で5分以内の場所にある道の駅で済ませましょう。

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とばつびしゃもん

破城の痕跡 (2018/08/26 訪問)

戦国山城ミュージアムで続日本100名城スタンプポン。
ミュージアムから車で10分ほど、出丸にある駐車場に駐車し登城開始。三の丸、二の丸と進み、大手桝形虎口を通って本丸へ。各所で見られる石垣がきれいに残っていないのは、1601年に破城した時のまま残っているからで、城の壊され方がわかるとか。本丸からは美しい夕日が見られるらしいが時間が早すぎて見られなかった。

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鎌倉たっちさん

和歌山城石垣 (2023/11/23 訪問)

岡口門を入って南の丸側に古そうな石垣があった。紀州青石の石垣が面白い。

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AJ

江戸ある記 〜 正雪は奇なり

由井(比)正雪はよくわからない人物で、徳川幕府史上最大のクーデター事件(未遂)と言われる「慶安の変」(1651)の首謀者とされながら、検挙時に行動を共にしていたのはわずか十数人。江戸、駿府、京、大坂での同時多発テロ計画だったわりに心もとない。

そこで指摘されるのが、本来の計画は駿府(久能山)での蜂起どまりで、それ以上は話が盛られた可能性が高いというもの。そもそも本人の遺書に幕府転覆の意図はない旨書かれているというのだから、いよいよ腑に落ちません。

3代家光までの武断政治を批判する。そこは基本路線としてあったのかもしれません。ただ、それを超えてくる部分となると、むしろ家光死後の舵取りに万全を期そうと綱紀粛正を図った幕閣にうまく利用されたように見えなくもありません。

天神町(東京都新宿区)一帯の敷地に五千人の門下を抱えた軍学者となれば、嫌でも治安当局の目に入りそうなもの。今日、当時の様子を伝える史跡は見当たらず、古地図の類にも関連の記載は見つけづらい状況。というわけで、未解決(?)事件がここにもひとつ。

ちなみに、近くの済松寺は家光が祖心尼(春日局の姪)のために建立した大禅院。大奥関係者が多く眠っています。

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AJ

江戸ある記 〜 保存と開発と

現在の街並みに溶け込んだ遺構を訪ねたり、ばったり出くわすのも城歩きの醍醐味ですね。江戸のような大城郭は、その外郭部の市街地化が顕著ですが、点在する見附や堀の跡を意識して周ることで、自分の頭の中に大雑把でも俯瞰図を作ることができます。

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