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チェブ

どんぐり礫。 (2023/10/30 訪問)

群馬県 富岡市の「富岡城」、BUCK-TICKの曲を聴きながらドライブです。群馬県が誇る3B。
「富岡城」はBUCK-TICKの、亡くなった今井さんが過ごした藤岡市から30分位離れてます。

「富岡城」は『城山公園』になってます。入口から、結構な登り坂です。
石碑や説明板はありません。
駐車場の入口に『城山公園』の停留所(バスではなく乗合いタクシー)がありますので、「富岡城」だと認識。
城びとの、お城を探すにマークされてなければ、見逃してしまいそうです。

上まで登らず駐車場にいたら、頭に何やら当たりました。
どんぐり。
丸っこちい、大きめサイズの どんぐりが侵入を拒みます。

この日は、上着のいらない暖かな日。夏が長く季節がいつだか勘違いしそうです。
でも どんぐりは、きちんと秋が来たと教えてくれました。

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カズサン

西美濃未踏の城廻Ⅰ北方城 (2023/10/21 訪問)

 西美濃奥に藤橋城(杉原砦)の模擬天守閣が在り以前より訪ねたいと願って居ましたが美濃の奥に成り何かの序でに寄ると言う訳にも行かず、今回思い切って西美濃未踏の城廻りを企画し、藤橋城模擬天守閣登城の前に初登城しました。

 駐車場:揖斐北方城(北方城)主郭下のロータリー駐車場、数台可能
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。

 国道303号線から北方小学校西の集落に入り林道を200~300m程北へ進み峠辺りに逆向き方向に登る林道が有る、そこに案内板があり「城山街道 城山公園まで1,050m」と掲示、道なりに登りロータリー駐車場へ。
 駐車場周辺には、管理小屋、大きな北方城址城名石碑、平坦地にトイレ和式で古い、別の平坦地に透明とたん屋根東屋、揖斐川への景観は樹木が茂り悪い、駐車場から主郭への登城路を登り主郭へ、草刈されて居るが少し経っており伸びてる草も有る、主郭には東屋、小さな城名石碑、案内解説板は無い、揖斐川へ西に張り出した城郭で切り立っている、遺構らしきものは良く分かりませんでした。
 
 案内板が無いので、歴史は古城盛衰記さんによると、「建武・延元年間頃に吉田休三入道によって築かれたという。吉田入道は南朝方として北朝方の土岐氏と戦ったと云われる。」と有りました。
 

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BUGTI

小早川秀秋陣跡 (2023/11/23 訪問)

ドラマの効果で山城にしては多くの人で賑わっていました。主郭以外は誰もいませんが。主郭の周りに土塁がしっかり残っています。また、主郭の南には枡形虎口がはっきり残っていました。そのほか東の曲輪や、主郭の西の曲輪にも土塁が残っていて、とても臨時の城とは思えない造りです。戦が長く続くことを想定していたのでしょうか。

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tp.etsu

早朝散歩 (2023/11/25 訪問)

朝に時間があったので、行ってみました。
スマホの調子が悪く、写真が撮れなくて残念。
とても景色がよく、見渡せるので、ここに城を置いたのも納得!
上から降りてくるときには、雲海も出て、本当に綺麗な景色でした。
もう一度、写真撮りに行きたい。

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くうくう

曲輪と堀が展開する本土と同じ土の城

標高約100m笠利湾を望む丘陵地にある山城。発掘調査により、12世紀に築かれ、17世紀まで使用が確認された。国史跡。主郭までの道は確保されていたが、周辺は薮になっていた。案内板によると曲輪堀切が見られ、本土と同じような中世山城であったことがわかる。ハブが怖い。南の主郭周辺を散策し撤退した。

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くうくう

大原の町を見下ろす山城

葛西七騎の一つ大原千葉氏の居城で、高さ80m東西400m南北200m丘陵に築かれた東磐井地方を代表する中世山城。別名大原城。
訪城時はすっかり夏草に覆われていたが、広い主郭2郭など明瞭で、秀吉奥州仕置に落城後、石田三成が整備したという戦国末期の様相が見て取れる。

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小城小次郎

信長生誕の城なのだ (2023/04/15 訪問)

織田信長の祖父・信定が築いたとされ、信長が生まれた頃に信長の父・信秀がここにいたことがほぼ確定して信長生誕の地としてほぼ認定されたが中心部分は河川掘削で消滅。ただ現地の勝幡城愛はすばらしく至る所に道案内がある。

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宗春

丹波・但馬・播磨の名城を攻めてきました その②竹田城【但馬】 (2023/11/24 訪問)

11/24(金)に休暇を取って4連休にし、友人と名古屋から車で攻城しました。

初日(11/23)の午後に竹田城近くに到着。まずは立雲峡に登って竹田城の見え方を確認したのですが、これが大変でした。加齢と運動不足により大汗をかき行きも絶え絶えで「立雲峡テラス 光の道天望所」まで辿り着いたのですが、もう翌日も同じ事をする気力が無くなりました。
と言うわけで、11/24(金)は朝5時にホテルを出て竹田城へ。雲海は見られませんでしたが、未明から早朝の城跡は幻想的で良かったです。

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宗春

丹波・但馬・播磨の名城を攻めてきました その①篠山城【丹波】 (2023/11/23 訪問)

11/24(金)に休暇を取って4連休にし、友人と名古屋から車で攻城しました。

篠山城は想像していたより街中にあって驚きました。その街では何かのお祭りをやっていたらしく、人が大勢出ていました。丹波ですので、栗のソフトクリームと黒豆のパンを買って食べました。

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くうくう

江戸期文献にある戦国山城杭城が昭和48年発見された

標高256m杭城山山頂を中心とし細長い丘陵尾根に展開している。詳細は不明ながら、文献により須藤刑部を城主としている。
私は東側の川が合流している地点からアタックした。そこから比高は100mほどなのだが、川岸は崖に近く、陽当たりの良い林道は薮に埋もれ予想外に難渋した。全体に荒れており充分な縄張り観察はできなかったが、それでも主郭やその東側の2郭など、土塁・空堀・土橋・切岸が明瞭で感動した。尚付近はクマ出没の危険地帯でもある。登城される方は十分気を付けてほしい。

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三浦の晃ちゃん

遊園地 (2023/11/23 訪問)

浜名湖パルパルという遊園地の中にあります。一番高いところには、観覧車があります。

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三浦の晃ちゃん

跡形もない (2023/11/23 訪問)

田沼意次公の居城で、知られているお城です。石碑と銅像があります。隣には、史料館があります。地元では、名君のようです。ただ、遺構は見当たりませんでした。

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三浦の晃ちゃん

三重堀 (2023/11/23 訪問)

建物は、平成になってからの建築物のようです。敷地は、武田家と徳川家が、争ったお城のようです。三重堀は、当時のもののようで、見事なものです。私が兵だったら、攻め込めないなと思いました。

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三浦の晃ちゃん

見事な石垣 (2023/11/23 訪問)

一万石の大名の陣屋ですが、石垣が見事です。特に門の枡形の、石垣は、いい状態で残っています。数万石の、大名の居城のようです。移築された建物が、敷地内に復元整備されるようで、工事の真っ最中です。来年の後半に訪れたら、整備は終わっているのかなと思います。

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しんちゃん

広大な堀切が各郭の間にあり、橋で松尾城とつながっている。 (2023/11/11 訪問)

鈴岡城は信濃守護小笠原氏から分かれた(本家とも)鈴岡小笠原氏の居城で北側に毛賀沢川を挟んで隣接する松尾城の松尾小笠原氏とは対立関係にあったようです。そんな犬猿の仲の鈴岡城と松尾城ですが今ではハイキングコースにかかる橋で繋がっていて、一度に両方見ることも可能ですが、両城ともなかなかの広さで二城いっぺんに見ると中規模以上の山城を攻めたのと同じくらいの疲労感があります。鈴岡城は公園として整備されていて駐車場からすぐに二の郭の堀切にアクセスできます。主郭と二郭の間と、主郭と北の出丸の間にも堀切がありますが、いずれも広大な堀切で、これだけの堀切にはなかなかお目にかかることはできません。出丸の北側には竪堀群があり、そこからさらに降ると毛賀沢川にかかる橋があって松尾城に行くことが出来ます。

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くうくう

源頼朝家人葛西清重(奥州総奉行)の居城

奥州合戦(鎌倉政権と奥州藤原氏との戦い)の恩賞として葛西重清が牡鹿郡等の所領を得て石巻日和山に居城を築いたという伝承があり、また昭和58年の発掘調査で大規模な中世城館の存在がここに確認された。それが石巻城だという。立派な石碑が建っていた。遺構はないが、一段高いところには鹿島御児神社があり、城との関係はわからないものの削平地(曲輪跡)や切岸があるようにも思えた。海への眺望が素晴らしい。

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直球勝負に感謝

天守石垣 (2023/11/23 訪問)

講師の方がこの黄色い石は平城京の礎石と言われていました
歴史を感じます。

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刑部

南部藩の陣屋 (2023/10/09 訪問)

堀と土塁がしっかり残っていました。
そして、ここでのグルメはやはりカレーラーメンと焼鳥。美味かった!

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カズサン

令和5年霜月紅葉の頃 (2023/11/23 訪問)

 二俣城を終えて、鳥羽山城の紅葉も確認と車で鳥羽山城南の丸Ⅰ駐車場へ、既に車は14、15台位の混みよう、11時過ぎでお昼のピクニックお弁当での家族ずれも多く見受けられました、旗日勤労感謝の日です。
 
 南の丸Ⅰから見上げる本丸方向には楓が赤く紅葉し少し東のイチョウは黄色く色付いて見頃です。
 大手道から入り幅広の大手道には楓が植わってトンネルの様に成っていますが、まだ紅葉前12月に入ってからでしょうか?、大手門跡は紅葉初めの様子、大手門跡、東側の虎口方向も一部紅葉の木も有り、本丸は西の土塁側に楓が真っ赤に紅葉、東門辺りはまだまだ紅葉前、陽当たりの違いでしょうか?、搦手跡、旧笹の丸西の丸Ⅰは紅葉無し、天竜川の見通しは樹木が茂り今一、西の丸Ⅱは紅葉の楓多し、長い滑り台で子供たちが遊んでいます。
 本丸西側外の鉢巻石垣辺りは紅葉の木が少なく、紅葉の木と鉢巻石垣を狙って撮影、また下り腰巻石垣も遠くの紅葉をれらって撮影、本格的な紅葉は12月に成ってからでしょうか?
 1時間弱散策し紅葉前を楽しみました、チョット早かった。
 
 

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トク

81【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と松尾城(栗野城)) (2023/10/17 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑩です。
根白坂の戦いに敗れ豊臣秀吉に降伏した義弘は、1590年日向の飯野城からここ大隅の松尾城(栗野城)に居を移します。そして秀吉に臣下の礼をとり、ここから秀吉の命により朝鮮へ出兵します(文禄の役)。

前々回の「えびの駅」からJR吉都線・肥薩線直通の隼人行に乗り「栗野駅」(くりの)で下車しました。駅から徒歩で20分の所に松尾城(栗野城)はあります。川内川を天然の要害とする標高249mに築かれた山城です(写真①)。町の名前は湧水町。歩いていると名の如く、あちこちからきれいな地下水が湧き出ていて、町民の方々は当たり前のように水を汲みに来ていました。ここに住みこの水を毎日飲めば何だか長生きできそうな・・・🤔

復元された大手門(写真②)をくぐると、城壁には朝鮮出兵の様子が描かれていました(写真③)。義弘は初めて海外へ行く事に不安がっている兵士たちを鼓舞するためのお祭り(出陣式)を開き、その様子を描いたもののようです。

そこから階段を登った所が本丸です(写真⑤)。城跡碑と説明板があり当時の様子を伝えていました(写真④⑥)。ここは江戸期以前の島津の城にしては珍しく、本丸には石垣がありました(写真⑦)。本丸以外はシラスの土造りなので、石垣とシラスを併用した島津の城は、おそらくここだけかもしれません。

秀吉に臣下の礼を尽し朝鮮へ出兵する義弘に対し、兄の義久はこの出兵に非協力的で、名護屋で再三要望するも、船を用意しようとしません。これで義弘は朝鮮に渡海できず遅参するという大失態を演じ、義弘は露骨に兄義久への不満をぶちまけ、兄弟の間に一時溝ができてしまいます。義久はなぜ船を送れなかったのでしょうか? 薩摩ではこの時いったい何が起きていたのでしょうか? (この理由は25人目で)

そして義弘は、朝鮮から帰国後、ここから南の帖佐に館を建て移り住みます。そして秀吉から信頼され薩摩17代当主に任ぜられます。しかし表向きは受けるも、実際は義久が当主のままだったようです(でも義久もこれには怒ったはず)。そしていよいよこの兄弟の溝が埋まらぬまま関ケ原を迎えてしまいます。この先の関ケ原でも、義久はやはり軍勢を送りません。義弘はこのまま兄から見捨てられてしまうのでしょうか?

私は、本丸から城下や川内川を眺め考えてみました(写真⑧)。兄の援護がないままわずかな手勢で朝鮮へ出兵し、それなりの戦果を上げる事はできました(文禄の役)。しかし最愛の長男久保(ひさやす)が朝鮮にて病死してしまいます。兄との溝ができ、長男も失い、孤立してしまった義弘はどんな思いでこの城下や川を眺め、そして帖佐へ移る決断をしたのでしょうか? しかしその帖佐から再び義弘は朝鮮へ渡る事になります(慶長の役)。

次は、関ケ原当時の居城(帖佐館)を訪れます。


【余談】西郷隆盛と栗野
この栗野駅からほど近い所にある栗野岳温泉は、西郷隆盛が西南戦争が始まる一年前に過ごしていた場所だそうです。毎日野山を駆けまわったりして、とてもよい場所だと友人に語るほど、大変気に入っていたとか。しかし明治9年、廃藩置県と廃刀令により不平不満の士族があふれ、これを何とか静めるため、ここから鹿児島城へ向かう事になります。ここ栗野は西郷隆盛が人生を最後に楽しんだ場所だったのかもしれません(写真⑩)。
 

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