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織田晃司

8:25だと… (2023/05/03 訪問)

早すぎて入ることはできませんでした。外観のみ見学(開館は9:00から)

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織田晃司

南側の (2023/05/03 訪問)

空堀は良好な形で残ってます。下草刈りがしてあればもっと深さがわかると思います。

現在遺構は主郭のみですが土塁の高さはけっこうな高さがあります。土塁に登って歩いてみるのもいいでしょう。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:竹ノ城 (2023/04/21 訪問)

井上城から転戦。登城口付近(36.632838、138.290350)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、井上氏によって築かれたと云われています。
井上氏の詰城である井上城の出城とされるようです。

登城口付近は長時間駐車しずらい場所でした。
風も強く寒くなった為、今回は登城口で引き返しました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=須坂陣屋(城びと未登録 長野県須坂市)に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:井上城 (2023/04/21 訪問)

井上氏居館(城びと未登録 長野県須坂市)から転戦。浄運寺駐車場(36.629740、138.284387)に駐車し、東の墓地の登城口(36.628307、138.284911)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、井上氏によって築かれたと云われています。
井上氏は鎌倉時代に清和源氏頼信の子頼季がこの地に来住して井上氏を称したのが始まりとされています。
鎌倉時代から南北朝時代にかけての活動は詳らかではないようです。
室町時代に入ると井上十六郷の井上政家、小柳・亘理の井上政満、長池郷の井上為信などが登場します。
戦国時代には井上氏は衰退しており、綿内井上氏が須田信正に属していたといわれています。

東西二つの峰に「大城」、「小城」と呼ばれる曲輪群があり、その二つを総称して井上城と呼ばれています。
東の峰にあるのが大城で、こちらが主郭となります。小城には時間の都合で行っていません。
路上路は急な登り坂です。設置されたロープを使って登っていきます。
設置ロープが使わなければ、下りは確実に滑って転びます。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=竹ノ城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:井上氏居館(城びと未登録 長野県須坂市) (2023/04/21 訪問)

長沼城から転戦。説明板前(36.632487、138.283113)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、井上氏によって築かれたと云われています。
井上氏は鎌倉時代に清和源氏頼信の子頼季がこの地に来住して井上氏を称したのが始まりとされています。
鎌倉時代から南北朝時代にかけての活動は詳らかではないようです。
室町時代に入ると井上十六郷の井上政家、小柳・亘理の井上政満、長池郷の井上為信などが登場します。
戦国時代には井上氏は衰退しており、綿内井上氏が須田信正に属していたといわれています。

井上氏居館は小坂神社の北西にあり、南背後には詰城とされる井上城があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=井上城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:長沼城 (2023/04/21 訪問)

手子塚城から転戦。①長沼公民館体育館駐車場➡②桜づつみ解説板前➡③貞心寺墓地駐車場の順番で巡る予定でしたが、桜づつみ解説板方向は工事中で進入禁止の為、行けませんでした。
 ①長沼公民館体育館駐車場(36.686527、138.274732)
 ②桜づつみ解説板前(36.683332、138.273802)
 ③貞心寺墓地駐車場(36.682309、138.272262)

築城年代は定かではないようですが、島津氏によって築かれたと云われています。 島津氏は戦国大名として著名な薩摩の島津氏と同族で、長沼郷の地頭職であったそうです。
戦国時代には上杉氏に従っていましたが、弘治年間(1555年〜1558年)頃には武田氏に従うようになりました。1568年(永禄11年)武田氏は長沼城を改修し、海津城とともに北信の拠点の一つとなりました。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると北信四郡には織田信長の部将森可長が入り海津城を居城とする。
これに対して若宮城主の芋川氏らが上杉氏の支援を受けて一揆を起こし、長沼城や飯山城を攻めましたが、森氏によって鎮圧されています。
織田信長が本能寺の変で倒れると森長可は信濃から撤退、北信四郡は上杉領となり、長沼城へは島津忠直が入りました。
1598年(慶長3年)上杉景勝が会津へ転封となると島津氏もこれに従って移りました。
その後は豊臣秀吉の蔵入地となって代官関一政が入り、関ヶ原合戦の後は松平忠輝が川中島を領し、山田長門守が長沼城へ入りました。
1616年(元和2年)大坂の陣の戦功などによって川中島や近江国高島など18,000石を領した佐久間勝之が長沼城に入って長沼藩となりました。佐久間勝之は織田氏の部将佐久間盛次の四男です。
1688年(元禄元年)四代藩主佐久間勝茲は五代将軍徳川綱吉の側小姓を命ぜられますが、病気と称してこれを辞退、後に仮病とわかって綱吉の怒りを買い、長沼藩は改易、勝茲は陸奥国二本松藩丹羽家にお預けとなったそうです。

長沼城は千曲川に面した平地に築かれていたそうです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=井上氏居館(城びと未登録 長野県須坂市)に向かいました。

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にのまる

祝☆国史跡 (2023/03/21 訪問)

一週間前に18きっぷを忘れて行き先変更したのでリスタートです。
8:09新宿発の湘南新宿ラインに乗車。宇都宮に10:00着。10:33発の烏山線に乗り換え、11:22に烏山駅到着。
烏山線は今年度で全線開業100年だそうです。本数が少なく利用者もあまり多くはないようですが、そこに烏山城があるかぎり!なくてはならない路線なので存続してほしいです。

烏山城に向かう途中の「山あげ会館」内の那須烏山市観光協会事務所で「那須烏山ガイドブック」をいただきました。三か所ある登城口の目印やざっくりとですが遊歩道の地図が載っています。

市役所を右折するとすぐに烏山城(毘沙門山・城山入口)の案内がありました。「山あげ会館」に寄らなければおそらくここから登っていたと思いますが、いちばん楽な「七曲り口」は南病院の信号のところと聞いていたのでそのまま進んでみると写真①の案内板が見えてきました。ここが七曲り口で、この奥の寿亀山神社周辺が三の丸。境内をぐるっとまわってみました。

神社左手からスタートする七曲り口は当時も使われていた道だそうです。いちばん楽な登城口とはいえ、その名の示すとおりつづら折れの山道。昔のままという雰囲気に楽しさと若干の不安を抱きながら登城開始しました。
しばらく登ると八雲神社からのハイキングコースとの合流点につきあたりました。鼓楼跡(多分)あたりにいた時に、後方から人の気配が!八雲神社口から毘沙門山経由で登ってこられた方でした。
そして何とそのままご一緒することに!!

車のついた引き橋があったとされる車橋跡。常盤門跡に上がるとうっすら矢穴の残る石。そして見えてきた正門跡の石垣。内枡形の虎口を入ると礎石や土塁も現れ、いったいこの先どんな光景が待ち受けているのやら、という感じです。縄張り図と現地案内板を見ながら本丸→古本丸→中城→北城→大野曲輪と歩きました。大野曲輪から西城までは少し距離がありそうでしたがそこに待ち構えていたのが“撃たれるぞー!”感満載の深くカーブした空堀。虎口がわかりにくかった西城は三段構えで、広々した若狭曲輪には武器庫があった模様。本丸に戻り、まだ見ていない井戸や石垣をさがしました。これはとてもひとりでは見つけられなかったし、西城や若狭曲輪まで行くのも躊躇したかもしれません。
ご一緒してくださった方は全国のお城に詳しい方で情報もたくさん持っていらっしゃいました。何よりマニアックな話題を好きなだけ喋れて盛り上がれるというのがこれまでにない経験で、城めぐりというとひとりで黙々と歩きまわるか同僚とプチ女子旅するかが主で(それはそれで楽しいのですが)、それもこの3年間はあまりできなかったので、とても楽しい時間が過ごせてうれしかったです。この場をお借りしてお礼申し上げます。(読んでいらっしゃるかどうかわかりませんが。)

その方に伺った情報により、八雲神社に下るのはきつそうだったので、塩倉、厩跡、桜門跡を見て、帰りは十二曲りから下りました。何回曲がったか数えてはいませんが、さすがに七曲りよりもくねくねしていました。
私が登った七曲り口と三の丸をご案内しようと思ったら、何と私が三の丸だと思った寿亀山神社の手前にホンモノの三の丸がありました(;^ω^)やっぱりひとりだと完全スルーするところでした。

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bono

ようやく行ってきました。

近場でありながらなかなか行く機会がなく、ようやく行ってきました。未完成のまま終わった城ということですが、完成していたらきっと立派なお城だったんだろうなと思いながら石垣や鉄櫓の中の資料館を観てきました。奇祭、ちょっと観てみたいです。

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東風

きれいですね‼️ (2023/04/20 訪問)

4月20日夕方小雨🌂時々曇り
寒いですね😅
整備されているから歩きやすいですね☺️
カモシカと会いましたよ‼️
熊でなくてよこったですよ‼️

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織田晃司

武田氏築城術を (2023/05/03 訪問)

ふんだんに利用した城作り。
築城後間もなく破壊してしまったという城。
新府城からは富士山と南アルプス連山の両方見ることができます。

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赤い城

中和田城 神奈川県横浜市 (2023/05/03 訪問)

相鉄のいずみ中央駅から徒歩で5分くらい。
泉中央公園が城跡です。
この日は富士塚城からの転戦で徒歩30分弱でした。
信濃国を本拠地とする御家人・泉親衡の関東での居館と伝わっています。
縁の須賀神社や長福寺が隣接しています。
長福寺から公園に入る部分が城の西側にあたり、泉小次郎馬洗の池があります。
切岸は当時のものでしょうか。
公園南側には二重の空堀が残っています。
かなり浅くはなっていますが横浜市内で遺構が残っていること自体が貴重です。
この二重堀には土橋もかかっています。
東側には最近まで土塁が残っていたようですが今は花壇になっていました。
重ね重ねですが横浜市内で少しですが遺構が残る。
近くに行った際には立ち寄って下さい。

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じゅんじん

桜のころ (2023/04/01 訪問)

静岡まつりでした。よきです。

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じゅんじん

公園 (2023/03/21 訪問)

堀や土塁がわかります。のどかな公園でした。

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じゅんじん

土のお城 (2023/03/21 訪問)

堀が深い!
小幡には届かないがよいお城です。
小学校近くに城址碑が土塁とともにあります。2つあるよ。

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カズサン

塩川に突出た断崖城 (2023/05/04 訪問)

 日帰り甲州路城探訪の2城目、湯村山城をゆっくり探訪し北西に約11~12kmの日ノ出城を目指す、国道141号線を進行し。能見堂交差点を右折し県道616号線へ、塩川を渡る橋より断崖が見える、次に行く新府城の七里岩断崖を彷彿させる、この上に中央道に分断された日ノ出城(砦)が在る。

 駐車場は県道616号線を登り中央道の架橋を潜り300m程の所に神明神社があり、境内へのチェーンが降ろされて居たので境内に駐車させて頂いた。(35°44'09"N 138°27'31"E H=430m)

 神明神社境内から集落へ入り「日之出城跡」の案内指示板がありそれに従い西方向に登りブドウ畑に出ると、案内指示板があるが薄くなり見ずらい、農道の3交差点の南側を通り、神社より約400mで高速道沿いの道、南に目をやると皆さんの写真で見たような石碑の有るエリアが見える、初登城到着です。

 石碑の有る小公園には黒御影石の「日之出城跡碑」、日之出城跡想像略図、アルミ製の薄く消えかけた日ノ出城案内板と日ノ出城跡?標柱がある。現地では日之出城跡と日ノ出城跡の名称併用の様子。
 中央道に架かる橋には「砦橋」の名板が付き、渡って南エリアへ、富士山がよく見える、南端には土盛りがあり想像略図の南望楼の跡かな?、西に南アルプスの山並みが見える。

 歴史は韮崎市教育委員会設置の文字が薄くなった案内板をよくよく見ると。
 室町時代の初め応永・永享年間(1394~1433年)に武田信長に日一揆が属し武田氏再興の拠点とし活躍、逸見・跡部両氏に輪宝一揆が与し抗争を繰り返し、永享5年(1433年)荒川原で両者激戦し、武田氏側は大敗総崩れ、以来廃城に本能寺の変後、北条氏が甲斐に侵攻により徳川氏が備えとして城跡を修築し新府城の南の砦とした。
 天正壬午の乱以後には廃城と成った模様。

 石碑、案内板以外はブドウ畑、畑、中央道に分断されて遺構らしきものは見当たらない、塩川に架かる橋辺りから日ノ出城跡の南断崖を撮影したかったのですが前後に路駐するエリアが無く、惜しくも断念しました。

 情報とガイドは、古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、皆さんの投稿、グーグルマップに依ります。
 
 

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トク

㊲【関ケ原の26人】(16)黒田長政 (黒田長政陣跡) (2022/10/31 訪問)

(16人目)「黒田長政」の続きです。
関ケ原の「黒田長政陣跡」を訪れてきました。

黒田長政は5,000の兵で岡山にて陣を張り開戦の烽火を上げます。この陣からは全体がよく見渡せました。そして、正面には石田三成の陣があり、長政と三成の対決がこの関ケ原での最大の激戦となりました。

まず戦の前に吉川広家を調略しようとしますがなかなかうまく行きません。広家も半信半疑、輝元の動向を見ながら迷っていたようです。しかし前日に最後の書状が、広家殿が動かなければ毛利120万石は安堵すると家康様は申されていると手紙(密書)を書きます。輝元が秀頼を奉じて来ぬと分かった広家はこれに応じ、調略は見事成功! 小早川軍の重臣なども調略したこの功績は非常に大きかったですね~🤔。家康の大軍は、前夜に広家の目の前を悠々と行軍し関ケ原へ入ります。

そして決戦当日、黒田長政の隊は石田三成の隊に正面からぶつかります。現在の決戦地の碑の立っているあたりで最大の激戦が行われました。三成隊も島左近を先頭に譲らず、一進一退の攻防を繰り広げます。そこで、長政は鉄砲隊を側面(山側)迂回させ、島左近を狙撃させました。そして傷を負った左近が治療している間の隙をつき一気に攻め込みます。 左近も復帰しますが、隊の勢い既に無く左近はここで討死してしまいました。これにより細川忠興の隊とともに最後は怒涛のように攻め寄せ、石田三成の隊を壊滅させました。

黒田長政はこの功績により、豊前12万石から筑前52万石へ大幅加増されます。私はこの見事な調略と、島左近を討ち取り石田三成隊を壊滅させたという、この大きな功績に対して、長政には「殊勲賞」をあげたいと思います!😊

次は、(17人目)へ続きます。
 

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刑部

「末森合戦」の舞台 (2023/05/05 訪問)

駐車場から主郭部まで約20分程度、遺構が現れてくるとワクワクしながら登りました。ここもかなり見所があります山城好きは是非訪れてください!

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:手子塚城 (2023/04/21 訪問)

内堀館から転戦。手子塚城碑付近(36.726698、138.306351)に駐車しました。

手子塚城は千曲川の西側に勢力を保っていた信濃島津氏が対岸の高梨氏に備えて構築した出城だと伝えられています。
武田信玄による信濃経略の煽りを受けて島津氏が北へと前線後退していく際にも利用されたそうです。

手子塚城には現在、諏訪神社が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=長沼城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:内堀館 (2023/04/21 訪問)

替佐城から転戦。長屋門土塁前(36.749932、138.318579)路駐しました。

詳細は不明です。

内堀館は方形単郭の居館とみられ、水堀と土塁が現存しています。
現在は個人宅となっており、路駐した道も狭く、早めに撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=手子塚城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:替佐城 (2023/04/21 訪問)

飯山城から転戦。城址公園駐車場(36.770386、138.314822)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1564年(永禄7年)頃に武田氏によって築かれたと云われています。
替佐城は対岸の壁田城とともに飯山方面の上杉氏に対する備えとして、武田氏が築城あるいは改修したものいわれ、城将は小幡上総介信貞と伝えられています。

替佐城は千曲川の西岸にあり、替佐駅の西、温泉公園の北の山頂に築かれており、現在は公園として整備されています。
替佐城は西の山頂に本丸を配し、そこから南東に伸びる尾根に二の丸、三の丸と堀切で区画して連ねています。
本丸には土塁はなく削平地のみで、一段下がって周囲に帯曲輪を設けています。
きつねに遭遇しました。ビビって早めに撤退しました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=内堀館に向かいました。

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