訪れてみるまで越前朝倉氏発祥の地であることを知らずにいました。技巧的な遺構が見られるわけではありませんが、土の城の美しさを感じることはできました。高知の朝倉城より自分の好みです。主郭からの眺望も素晴らしいものでした。
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2023/12/13 06:52
2023/12/13 00:43
カモちゃん・in・安宅の関 (2023/12/09 訪問)
安宅の関の続きです。安宅の森を歩いていると指名手配犯みたいな張り紙が目に入ってきます。カモシカがいますって…マジですか?
顔を前に向けるとすぐ近くにカモシカが!マジですか?‥タイミング良すぎる。さすがにすぐには信じられないのでジーっと見ていたら、動いた!本物のカモシカだ! しばらくそっぽを向いていたのですが、やがて悠々と去っていきました。
写真を何枚か撮ったものの、まだ少し信じられないでいます。地元の人に聞くとしばらく前からこの森にすみついているらしいです。
人の言葉がわかるらしく、「そっちは危ないから、こっちに来なさい」というと道路から戻って来るそうです。何頭いるのかは解りませんが地元の方はカモシカのことをカモちゃんと読んでいたので、さっきのカモシカ君は自分の中ではカモちゃんで決定です。
朝早く公園に来るとカモちゃんに会えるみたいで、地元の人たちが実にうらやましい。これからも不慮の事故が無いように皆さんで暖かく見守っていっていただきたいと思います。ちなみに小さい犬を連れて散歩しているとすぐ後ろに近づいて来たりするそうです。その方はびっくりしたかもしれませんがカモシカも寂しいんじゃないかと思います。
野生動物の上に天然記念物だから人とのなれ合いがNGなので、それがちょっと残念ですね。
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2023/12/12 23:54
安宅の関・勧進帳 石川県小松市安宅町タ140-4 (2023/12/09 訪問)
勧進帳で有名な安宅の関は石川県小松市にある安宅住吉神社の背後に広がる森のあたりになります。そこから海岸に向かって道が続いていて進んでいくと冠木門が有り、その先に義経主従と関守の富樫の銅像が建っています。像の背後には雄大な日本海が広がり、地元の人の絶好の散歩コースになっているようですね。銅像は‥というとちょうど三人が小芝居をやっているところなのですが、この義経なにか表情が硬いですね。弁慶が馬鹿力で本気で打つので少し腹が立っているのでしょうか?表情が怖いです。弁慶のほうは、ちょっと気まずそうに見えますね。「やべ、義経怒ってる?関所を通るためなんだから仕方ないじゃん」とでもいいたげな表情ですが二人を見ている富樫の冷ややかな眼差しがいい味だしています。
実はこの森、まだ秘密があるんですね。‥次に続きます。
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2023/12/12 23:02
戌山城と並んで大野城築城前の主要な城郭。 (2023/12/08 訪問)
亥山城は山王日吉神社周辺に築かれていたとされ堀が一部残っています。延元4年(1339)に南朝方の堀口氏政が亥山城を構えていたと「太平記」に記載があるようで、大山咋神が城の守護神として祭られていたのが日吉神社の始まりでもあるようです。城郭大系を参考にさせていただくと「大野郡誌」に記載があり、斯波氏が越前国を領したとき持種の子、義敏が亥山城を居館としていたようです。
義敏は本家の武衛家を継ぐにあたり家臣の千福中務大輔に殺害され、中務大輔は戌山城を占拠したようです。足利義政の遣わした朝倉敏景によって中務大輔は討たれ、後の朝倉景鏡の時代に再び亥山城を居城としたそうです。
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2023/12/12 22:31
藩校・成器堂の遺構を巡る (2023/12/08 訪問)
勝山城は初め柴田勝成(勝安)によってこの地に築かれたとされています。柴田氏が滅亡後、成田重政・長谷川秀一が居城し、結城家が入国した後はその支配下に入り、元禄4年(1691)小笠原貞信が2万3千石で入り勝山藩が成立しました。築城は宝永6年(1709)より修築という名目で行われ、現在市役所や市民会館のある場所が本丸で、かつて天守台があった位置に立派な城址碑が建てられています。周囲には堀が巡らされ、二の丸・三の丸が配され、南東には大手門が配され、その先に南馬出が築かれおり小規模ながらも十分に城郭としての体裁を保っていたようです。かつての勝山城の外追手筋に建てられた藩校・成器堂の遺構が市内各所に移築されていて神明神社に移築された講堂の瓦には小笠原家の家門である「三階菱」があり、往時の姿を保っています。
成器堂講堂‥神明神社に移築・勝山市元町1
成器堂演武尞‥集会所に移築・勝山市荒土町布市
成器堂門および土蔵‥宅地に移築・勝山市群町
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2023/12/12 21:58
そんな真田に魅せられて (2016/06/07 訪問)
真田(さ・な・だ)ーー。その響きだけでご飯三杯はイケるという方、少なくないのでは。武田を支えた骨太な家柄、「表裏比興」な父、「日本一の兵」な息子、そして史実を飛び越えてくる忍術使い。規格外の要素が絡み合って、そのネームバリューを押し上げているように思います。
一方、その歴史を紐解いてみると、一族の中には必ずしもキラキラしてない真田さんもいらっしゃったようで、、。
沼田城(群馬県沼田市)。続100名城のひとつですが、城域はかなり改変されていて、堀や土塁の跡は限られています。上田城(長野県上田市)と並んで、同家生き残りの礎となった城ですが、同時にその影響力を削ぐきっかけともなった土地であります。
利根川流域にお手本のような河岸段丘。中心街は駅から70メートルほど持ち上がった高さに広がっています。城域が最大規模になるのは、真田昌幸の孫で、信繁(幸村)の甥にあたる信吉の城主時代。本丸北東隅に四重天守、南東に三重櫓が建てられ、各郭はそれぞれ幅20m以上の空堀で区切られたほか、計6棟もの櫓門が築かれたといいます。実高3万石(諸説あり)の領主でありながら、その格式の高さは10万石級だと指摘する向きもあります。
1622年、真田氏が上田から松代(長野市)に国替えとなった後も沼田は飛地として存続しますが、信吉の次男・信利が本家の相続問題を機に独立。このあたりから雲行きが怪しくなります。
正式に沼田藩を立藩した信利はその後、松代への対抗心と財政難から拡大検地に手を染め、所領を過大申告。重税で領民を苦しめた挙句、江戸における幕命工事の負担を果たせなかったとして改易され、廃藩。城は取り壊されたといいます。
これにより沼田は天領(幕府直轄地)として扱われますが、下総から入った本多氏が藩を再興。ただ、天守や櫓は再建されず、石垣や土塁の整備にとどまります。今日、遺構に物足りなさが残る背景にはこういった事情があるようです。とはいえ、そこはあくまで真田の地。彼らのちょっと残念な部分さえも抱きしめたい、、、そんなマニアックなあなたにおすすめの攻城先かもしれません。
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2023/12/12 21:11
石垣も 苔むす時代の 長閑さ (2021/04/03 訪問)
高取城は日本三大山城の一つとも言われ、標高の高い総石垣の山城としては別格に広い城域を持っています。もともとは越智氏の築いた南朝方の城だったそうですが、戦国末期には越智氏を滅ぼした筒居氏の城となり本格的な城塞として改修を受けたようです。天正13年に豊臣秀長が大和国に入ると重臣の脇坂安治、続いて本多利久が入りました。この本多氏の時代に今の高取城のような壮大な縄張りを持つ城になったようです。城下町から登城道が続いていますが、自分は車道でズルして壷坂口門あたりから二の丸を経由して本丸に入りました。でもやっぱり全部の遺構が見たくて猿石のある所まで下って、また石段を登って元来た道を戻りました。
雰囲気を味わうのであれば城下町から登るのが一番でしょう。自分は三度目なので、はしょりましたけど。
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2023/12/12 21:11
北条氏照さんから手紙が…
先月の八王子でのイベント「日本遺産 Festival in 桑都・八王子」で実施した,スタンプラリーのコンプリート景品が届きました。
「東京たま未来メッセ」,「八王子博物館」,「まちなか休憩所 八王子宿」の3ヶ所のラリー。完成後,「高尾山 天狗」,「北条氏照」,「絹の妖精 シルク」のいずれかをチョイスして投函すると,返事が届くとのこと。私は「北条氏照」をチョイスしました。
しかけは,北条氏照さんからの手紙を,八王子市教育委員会生涯学習スポーツ部文化財課の担当の方が,転送して発送しているという概要です。
手が込んでおりますが,果たして何通発送したのか気になるところです。
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2023/12/12 21:04
今は展望塔の建つ丹羽氏4代62年の居城
詳細不明ながら享禄年間(1528-31)織田信秀により築城されたという。松平氏との攻防の間に本郷城から移った丹羽氏が居城とした。天正12年(1584)小牧長久手の戦い時に、いわゆる三河中入の池田恒興の進軍を妨害したことで名高い。落城し多くの犠牲を出したが、徳川家康からの信頼を得た。後に大名に取り立てられている。
曲輪、空堀、櫓台、土塁、などの遺構が見られ平山城だった様子が髣髴される。公園化され、模擬天守である展望塔岩崎城が建っている。同じく主郭には岩崎城歴史記念館があり、討死した丹羽氏重の像をはじめ岩崎城を学ぶことができる。
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2023/12/12 20:00
田圃の中にポツンと本丸跡踏込躊躇! (2023/11/27 訪問)
明石藩舞子台場を小雨に降られて駆け足探訪後、山陽電鉄舞子公園駅から明石駅の西一つ目の山陽電鉄西新町駅下車し船上城を初登城。
最寄駅:山陽電鉄西新町駅、徒歩約600m程。
参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップ、城びと投稿記事、船上西公園の船上城跡解説板。
山陽電鉄西新町駅から徒歩で約600m程、駅より南下し県道718号線を西へ明石警察署の1本西の通りを南下し、船上西公園へ至る、公園に船上城跡解説絵図が在る、現在と往時の対比で解説されている。西を覗くと水路が堀の如く流れてる、城びと投稿者の写真で見る、松が聳えてる本丸跡が見えるが進入する道が見つからない、周囲の住宅街を公道沿いに廻り、見通しの良い所、進入路は?と廻ると西に2ヶ所あり、見通しのみの所、人一人通れるコンクリ壁に挟まれた畦道、畦道から進入できそうなのですが、山城廻りの長靴安全靴で無く町歩き用の靴で、畦道、続く微高地の人踏道もハッキリせず進入を諦めました。
「あ」さん直近の投稿写真は早苗の頃で田圃に水が入りさも水堀の様です、当日は田圃は耕されて土がむき出し、微高地は島のようで本丸跡で字古城の地番字だそうです。
西の道を北へ、県道718号線に出て東へ、本丸への進入路、撮影地を探査するが適当なところは無く、西の北の畦道が唯一の進入路かも?
西新町駅より明石駅に移動し、船上城移築長屋門が明石城外堀西に織田家長屋門として現存し探訪撮影する。
歴史は絵図入り船上城跡解説板によると、三木城の別所氏一族の林ノ城が始まりで、天正13年(1585年)秀吉の国替えで高山右近が6万石で入封し整備拡大し船上城を築く、天正15年(1587年)秀吉のバテレン追放令で領地没収のうえ明石船上城を追放され、明石船上城は秀吉の直轄領へ、関ケ原の戦い後、播磨は池田輝政領に明石船上城は一族の池田由之の治める所と成り、元和元年の一国一城令により、城構えから櫓や堀などの無い屋敷構えに改造され、元和3年(1617年)信濃国松本の小笠原忠政が入封し、秀忠より明石に新城の築城を命ぜられ元和6年(1620年)明石新城の完成により船上城は廃城と成った。
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2023/12/12 20:00
二見城 (2023/11/19 訪問)
【二見城】
<駐車場他>駐車場はなし。妙住寺前の道路脇に停車しました。
<交通手段>車
<感想>現地説明板によると二見城は中世この地域に勢力を持っていた二見氏の館を前身とし、慶長十三年(1608年)五條二見藩1万石余の城主として入封した松倉重政が改築したものである。松倉重政は大坂の陣の功績によって肥前国島原に転封となり程なく二見城は廃城となります。
現地に遺構は残っておらず、妙住寺のある平坦地が当時の主要部分でありましたので、主郭であったろうと思われる場所を撮影しました。また旧街道沿いに松倉豊後守重政之碑があるのでそこにも寄ってみました。
<満足度>◆◇◇
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2023/12/12 13:39
竹やぶのⅢ〜Ⅴ郭に進入 (2023/11/23 訪問)
鈴鹿市、津市の城巡り。鈴鹿山脈から離れた伊勢湾よりの城は、急峻な斜面を持った丘陵を利用したものが多いです。
お市の方の三姉妹が、賤ヶ岳の戦い後、ここ伊勢上野城で信長の弟の信包の庇護のもとに暮らしたと。信長の弟が入城しただけあって、造りが大きいです。Ⅰ郭、Ⅱ郭は、模擬天守が建ったり、駐車場、グラウンドだったりで、開けてますが、北東の浅い谷を挟んだ、Ⅲ〜Ⅴ郭は、竹やぶになっています。城びと先人のレポートには、竹やぶに進入したとの記載がなく、一方、「三重の山城 ベスト50を歩く」には、「この付近は竹が生い茂り見学は困難であるが、曲輪Ⅲ・Ⅳ間の土橋と両側の堀は規模も大きく、この城の見所の一つである」とあったので、突入して参りました。竹やぶは、3次元迷路まではいっておらず、土橋に至れました。郭縁の土塁と堀も乗り越えて行きます。郭の前面を除く三方に土塁を持つ形態の城は、付近の有力者、長野氏 の領域に分布しているのですと。
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2023/12/12 09:51
2023/12/12 07:39
勝海舟建議砲台の一つ・明石藩舞子台場(舞子砲台) (2023/11/27 訪問)
西宮砲台を終えて夙川オアシスロードの桜もみじトンネルを楽しみ、阪神電鉄香瓐園駅から山陽電鉄舞子公園駅下車し、明石藩舞子台場を初登城。
最寄駅:山陽電鉄舞子公園駅下車。JR舞子駅は南隣接。
参考資料:城郭放浪記さん、ウィキペディア、城びと
舞子公園駅下車、ストア校内を通って舞子デッキを使いR2号線を渡る、明石大橋と淡路島が近く気に成る、隣接の公園は工事関係資材の置き場と成り進入禁止、R2号線を約150m程西行、明石藩舞子台場の標識が出て居り、海岸に出ると案内板と石碑があり場所を特定できる、ミニ砲が椅子代わり2基設置、天端の石敷き屋外展示、海岸の護岸に成ってるのが台場の残存石垣なのでしょうか?、淡路島が手に取るように近い。舞子デッキ辺りから小雨が降り始め急ぎ足で探訪し早々に切り上げた。
舞子台場も海軍奉行勝海舟の建議による大阪湾砲台群の一つ、西宮砲台、和田岬砲台、今津砲台が同時期の文久3年(1863年)建設開始、対岸の淡路島徳島藩松帆砲台と連携構想だったのでしょうか?
この後は播磨船上城に向かいます。
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2023/12/12 07:10
2023/12/11 21:11
南ヤマシロ最大級の山城 (2023/12/09 訪問)
それほど名が知られている城ではないが、行ってみたら遺構の残り具合は良いし、城域も広くて驚きました。大手道から登ると数本の竪堀がはっきりと残り、各尾根には段になった曲輪がたくさん作られています。主郭の東西それぞれには櫓台と呼ばれる土塁の高まりが残り、堀切や土橋といった山城の遺構もみごとです。畝状竪堀もあちこちに残っており、見どころは十分です。なによりも地元の「守る会」の皆さんの活動により、城址が整備されていることがありがたいです。本当に感謝しかありません。
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2023/12/11 19:50
岩盤を掘り切った二重堀切など見応えある遺構が満載
天正16年(1588)新宮城主堀内氏善により築城された。北山一揆に対応したものらしいが、詳細はよくわからない。標高は74mしかないが急登坂で落差感のある曲輪配置に感じられた。まさに別名でいうような要害山だ。主郭は30m四方で、主郭北西尾根に岩盤を掘り切った二重堀切、竪石塁、そして畝状竪堀。東の先端にも畝状竪堀。3郭の北側をはじめ要所要所には石積がみられる。
以前訪れた時は薮に覆われ大した城ではない印象を持っていたが、木々の伐採や草刈りがされた情報を聞き再訪した。見違えるようだ。是非縄張図を持って遺構を味わってほしい。
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2023/12/11 19:45
山城人気に沸く魅力的な石垣の山城
豊臣秀長家臣藤堂高虎が北山一揆鎮圧の拠点として天正17年(1589)頃築城した。三方尾根に曲輪が伸びる中世山城的(北郭の奥には土の城の堀切がある)な縄張に野面ではあるが高石垣や桝形虎口がある総石垣的な造りは見応えがある。中世から近世への過渡期の城だろう。元和元年(1615)一国一城令により廃城。大都市から離れた交通が不便な山間のためか遺構がよく残っている。国史跡。
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2023/12/11 16:25
2023/12/11 16:04
アクセス (2023/12/11 訪問)
高山公民館向かいの道に入る→道なりに進むと西方寺→その脇の道(画像)を少し行くと路肩に高山城跡の案内板が見られます。
なお少し先の高山右近生誕地の石碑下に1台分ぐらいですが駐車スペースあり。
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