2度目の攻城。 弘前駅からレンタサイクルで道の駅ねぶた村に。 ここから堀に沿って追手門から城内へ。 石垣工事現場と移転中の天守を見学しました。
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2023/09/06 07:53
呟き (2017/04/08 訪問)
2度目の攻城。 弘前駅からレンタサイクルで道の駅ねぶた村に。 ここから堀に沿って追手門から城内へ。 石垣工事現場と移転中の天守を見学しました。
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2023/09/06 07:41
呟き
葛西駅より徒歩15分。長島町交差点バス停より徒歩12分。
東京都道10号東京浦安線東葛西五丁目北交差点を北に
清光寺墓地の交差点東まわりの正門前に案内板があります。また、墓地の交差点を左折しての香取神社に長島高城の記述がある長島之碑があります。
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2023/09/06 07:04
帰省時の攻城② (2023/08/14 訪問)
中条氏館からの転戦です。此処の前の道は一方通行になっていますのでお気を付けください。城址碑と標柱が建つのみで遺構はありませんが、成田氏ゆかりの地ですので、忍城に行く前に立ち寄れたのはよかったなと思っています。
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2023/09/06 06:40
知波夜比古神社 (2023/08/15 訪問)
実家から高松に戻る途中で立ち寄りました。
この日は台風が接近してましたが影響は少なかったです。
城趾には知波夜比古神社が建っています。
神社の駐車場から鳥居の方に周り、入城。
入口の脇に土塁が残っています。
まずは外周、ということで土塁に沿って進みます。
土塁は主郭を囲み、よく残っていました。
北側から東側にかけては土塁の外側に堀も残っています。
駐車場前の道路も恐らく堀跡なのでしょう。
安芸武田氏の一族、祝氏の居城。
単郭の城のように見えますが、城域はもう少し広かったともされています。
この後無事に帰陣できましたが風の影響を受ける瀬戸大橋での運転は少し怖かったです。
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2023/09/05 23:47
四半世紀におよぶ佐竹氏の居城。 (2023/05/05 訪問)
太田城は本丸は太田小学校、二の丸は若宮八幡宮になっているようです。
城址碑は本丸跡にあり、近くにいた人にお断りをして写真をとらせて
いただきました。ここはヒット&アウェイ方式で若宮八幡宮に移動です。
二の丸は神社ですのでゆっくり散策できます。城址全体が丘地の上に
築かれていて、二の丸周辺からの眺めはなかなかのものです。
この地に最初に館を築いたのは秀郷流藤原家の通延で天仁年間と
されています。後に佐竹氏の居城となり、源頼朝の攻撃を受けた際には
金砂山城に籠城しています。室町時代から永正元年(1504)まで
役100年に及び、主家佐竹氏と有力家臣山入氏との対立が続き、
一時期、山入氏が太田城を占拠しますが、佐竹義舜は岩城氏の支援を
受け、太田城を奪還、逃走した山入氏義を高部でとらえ処刑しました。
太田城は関ヶ原合戦後の佐竹義宣の出羽秋田転封に伴い廃城になったとのことです。
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2023/09/05 22:57
本丸と二の丸の間の大堀切が凄い。 (2023/05/05 訪問)
額田城は小川に面した広い低湿地に面した丘陵の南側の
先端部周辺に築かれていて、主郭の北に二の郭、三の郭と
続き、西の阿弥陀寺周辺もかつては阿弥陀寺の郭として
城域を形成していました。三の丸は宅地化していますが、
本丸、二の丸はかつての遺構を残しており、本丸と二の郭の間の
大堀切は最大の見せ場でもあります。
遊歩道が続いており本丸から二の丸に渡って、城域を散策することが
可能です。案内板は二の郭にありました。
建長年間(1249~1256)佐竹氏5代義重の次男義直が、この地に城を
築き、額田氏を称したとあります。
10代義亮の時に佐竹宗家と対立、応永30年(1423)佐竹13代
義人に攻められ落城。額田氏は滅んだとあります。
その後、佐竹氏家臣小野崎氏が城主となりますが、天正19年(1591)
七代照通の時代に野心ありとされ、佐竹義宣に攻められ落城したとされています。
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2023/09/05 22:33
呟き (2023/07/18 訪問)
青森駅にてバスに乗車、羽黒平バス停にて下車、徒歩15分。西館から内館、猿楽館、東館、北館と散策しました。さすがによく整備されており、板塀による建物跡や土塁跡などが素晴らしく残っていました。案内所が敷設されてるので、休憩等も出来ます。発掘品等がある青森市中世の館は些か離れてるから、先に立ち寄った方が良かったです。
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2023/09/05 22:00
オバQが出るんだって? そんなの関係ねえのオッパッピーですわ。 (2023/05/05 訪問)
多良崎城です。なんか後から調べたら、有名な心霊スポットらしいですね。
地縛霊がいっぱいいるらしいけど。
私はそういった予備知識ゼロで訪城しているので、
なーんも感じなかったですよ。むしろ空気がすがすがしくて余計に
気持ちが良かったくらい。そもそも熊のウン〇が3個も落ちている城に
突っ込んでいくくらいだから霊感なんぞ無いに等しい‥。
熊や幽霊が怖くて城めぐりはできないでしょう。 ‥いや熊は怖いな‥
山城めぐりに備えて熊対策をしておかねば‥。
多良崎城は遺構も良く残っている素晴らしい城です。一の木戸跡、
二の木戸跡を越えると大手門跡があり、本丸に到達します。
本郭の周囲には土塁が残り、北側には二の郭があります。遺構は二の郭
三の郭の方が良く残っており、状態の良い土塁を拝見することができます。
いやあ実に良い城だ。こんな良い城を見れるのならオバQの
一つや二つ‥ でも、ご城主の多良崎殿の御霊がいるのであれば
お話してみたいですね。大霊界どうなってるんでしょうね。(古いな~)
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2023/09/05 20:27
台地上周辺には他にも、いくつかの城郭があり。 (2023/05/05 訪問)
小野崎城は周囲を河川に囲まれた楔状台地の先端部に築かれています。
城跡は瑞竜中学校の敷地内になっていて、中には城址碑があります。
GWの最中ですが家族連れが何組かきているので、お断りをいれて
城址碑を撮影させていただいてます。
昭和44年の調査では単郭の館様式の城郭らしいとのことですが
特に遺構はみあたりません。
台地上周辺には他にもいくつか城郭が存在していたようで
南西側近くの白鷲神社は今宮館として土塁などの遺構が残っています。
他にも八百岐館(現状は竹藪)小野館(瑞竜小学校?)などの館跡が
あるようです。城郭放浪記さん余湖コレクションさんの情報を参考に
させていただき訪問させていただきました。ありがとうございます。
いずれの城も小野崎城と何らかのかかわりがあるようで、一体となって
防衛ラインを築いているように見えます。
小野崎城は秀郷流藤原通延の孫、通盛が久安年間に小野崎に進出して
館を築き小野崎新太夫と称し、これが小野崎氏の始まりとされています。
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2023/09/05 20:05
片原一色城 (2023/07/22 訪問)
【片原一色城】
<駐車場他>駐車場他はなし。近辺は空き地が多く道路脇に停車できる。
<交通手段>車
<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾12城目。片原一色城は応永年間(1394~1427年)にこの地の土豪である橋本宣都寺によって築城されたとされます。以降一国一城令で廃城になるまで8代にわたり橋本氏はこの地を支配していました。戦国時代は織田氏に仕えたようで、5代目の橋本一巴は織田信長の鉄砲の師匠となっています。
現在は遺構は残っておらず、城びとポイントにひっそりと古い城跡碑が残るのみです。近くにある神明社(ここが城跡地とも)には大楠木があり、橋本氏は楠木正成の子孫ともいわれていて所縁があったように感じました。
<満足度>◆◇◇
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2023/09/05 17:28
お犬様の落し物は飼い主の責任。 (2022/05/04 訪問)
鷲城は小山氏の城で中城が本丸にあたり、思川を北の守りとし
南に土塁と虎口を設けその外側に外城を配し、さらにその外側に
土塁と虎口を設けていたようです。
中城の中心部に鷲神社が残り今でも土塁と虎口の遺構が残っています。
現地案内板によれば、康暦2年(1380)~永徳元年(1382)小山十代義政は
3次にわたり、関東公方足利氏満の軍勢に攻められ康暦3年には鷲城に籠って
戦ったが敗れ、翌年粕尾で自害したと有ります。
境内にはお犬様の落し物に対する注意を促す立札があります。
飼い主の皆さん。持って帰りましょう。
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2023/09/05 16:54
土塁、堀切の遺構は健在 (2023/05/04 訪問)
久下田城はかつて五行川の流れを防御に利用した断崖上に
築かれていたとされています。本丸に鎮座していた稲荷神社は
すでに荒廃していますが、本丸周囲の土塁と堀は健在です。
本丸の周囲を郭が囲み、それが二の丸ではないかと思います。
天文18年から永禄8年の間に、下館城主の水谷正村(蟠龍斎)が
築いたとされています。水谷氏は結城氏に従っており、関東管領と
結城氏との抗争の際に、功績をあげ水谷氏初代伊勢守勝氏は
下館城を築きました。久下田城は戦国期に下館城の支城として
機能していたとのことです。
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2023/09/05 16:52
久々の訪問 (2023/09/05 訪問)
宿泊先の上田市からの訪問。今回も真田宝物館(火曜休館)には行けなかった
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2023/09/05 11:30
南北朝モグラ合戦。 (2023/05/04 訪問)
関城は糸操川とその支流に挟まれた台地上に築かれています。
本丸らしきところに案内板が立ち、西側と北側に土塁が残って
いるようです。北東には坑道跡がありますが崩落の危険が
あるとのことで立ち入り禁止になっています。
関城は結城家二代朝広の四男朝泰が関荘を相続して築城したのが
始まりとされています。これが関氏の始まりで、関城は南北朝の
時代に南朝方勢力の中心になったとされています。
かつては東西南の三方は大宝沼に囲まれ、北側に土塁が築かれていたとのこと。
足利勢が関城を攻めた際に掘った坑道が今でも残りますが、
関城側もそれを察知してトンネルを掘り応戦。北朝方のトンネルをつぶし
人工は圧死。高度な地中線が行われていた模様です。 おそろしや‥。
結局、籠城側もジリ貧になり北畠親房が脱出した後、落城したとのことです。
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2023/09/05 11:14
岩崎城歴史講座のお知らせ
第3回歴史講座 「東美濃の攻防 岩崎城主丹羽氏、妻木城へ援軍送る」
天下分け目の合戦として知られる関ヶ原の戦いは、
徳川家康と石田三成が激突した本戦だけでなく、全国各地で両陣営に分かれて争いました。
東美濃(岐阜県東部)でも両軍の激しい攻防が繰り広げられました。
東軍に組した土着の妻木氏と、これを助けた丹羽氏の動向を中心に紹介します。
ぜひお気軽にご参加ください!
※講座は一回ごとに募集いたしますので、お好きな講座にのみご参加いただけます。
募集期間等はその都度こちらでご案内します。
募集期間:9月30日(土)9:00~
開催日時:10月15日(日)13:30~15:00
場所 :岩崎城歴史記念館2F 多目的ホール
対象:どなたでも(日進市内在住・在勤・在学の方を優先)
講師 :黒田 正直(妻木八幡神社宮司)
定員 :30名(先着順)
参加費:無料
申込方法:期日までに当館へお電話にて申し込みください。
お問い合わせ 岩崎城歴史記念館
〒470-0131 日進市岩崎町市場67番地
Tel 0561-73-8825
HP http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/
開館時間 9:00~17:00 休館日/月曜日(祝日の場合は開館)、12月28日から1月4日
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2023/09/05 08:03
児童遊園地 (2023/07/15 訪問)
詳細は不明ながら鎌倉中期に山内義重が築いたとされ、山内氏代々の居城となりましたが、戦国前期に細川高国に攻められて落城し、山内氏は伊予国に落ちのびたと云われます。
天神川南岸の丘陵に築かれた城で、城跡は住宅地となっていて遺構は見られません。発掘調査では溝跡や建物跡が確認されたようですが、現在は住宅地内の児童遊園地に城跡碑と説明板が見られるくらいです。なお、児童遊園地には不自然な盛土がありますが、さすがに遺構ではなさそうに思います。じゃあ何なのかはわかりませんが…。駐車場はないので、近くの道路脇に路駐してちゃちゃっと登城しました。
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2023/09/05 07:19
2023/09/05 05:50
呟き (2023/07/17 訪問)
三戸駅下車、徒歩40分程。発掘と整備が行われていて、建物跡や土塁が確認できます。近隣の聖寿寺に発掘品や南部利康霊屋があり、充実した攻城となりました。
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2023/09/05 05:44
呟き (2023/07/18 訪問)
弘前駅下車、観光案内所より自転車をレンタル、約35分。県道17号から弘前城を左回りに県道3号を西4.5キロで右折、城址の津軽中学校を目指せば、城址碑と案内板が見えてきます。主郭、二郭は学校敷地なので注意。裏手の西郭なら堀跡が見受けられます。
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