柴崎城は安東氏の城で福島城の支城とされています。嘉吉3年(1443)安東盛季が南部氏の攻撃から逃れこの城に入ったとあります。現在は神明宮がひっそりとたたずんでいて、かつての面影はさほど残っていないようです。
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2023/12/23 21:04
2023/12/23 20:52
吉野城 奈良県吉野郡吉野町 (2021/04/02 訪問)
桜の名所、吉野山はかつて山城としての機能も持っていました。鎌倉時代に幕府に対して挙兵した後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王が拠点とし金峰山城の蔵王堂のあたりが中心であったようです。鎌倉幕府の大軍が押し寄せた際、大塔宮は蔵王堂にこもりましたが村上義光が身代わりとなり大塔宮を救ったそうです。村上義光の墓は蔵王堂の南、県道257号沿いにあります。
建武3年(1336)後醍醐天皇が吉野に逃れ皇居を置き南朝を興しますが3年後に没します。この後、北朝方の武将・高師直が吉野に攻め入り寺院・伽藍は消失したそうです。吉野山には源義経の伝説も残り義経が逃避行の途中、この吉野山に身を隠し、愛妾の静御前と別れたとの言い伝えがあります。金峯神社の近くには義経のかくれ塔がひっそりと佇んでいます。
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2023/12/23 19:55
86【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (島津義弘と加治木城) (2023/10/10 訪問)
(24人目)島津義弘の続き⑮です。義弘が晩年を過ごした「加治木城」を訪れようと思いましたが・・・
JR日豊本線「加治木駅」で下車、しかし加治木城はここからまだ徒歩50分のところにある山城です。しかしここで改札口を見ると、本日最終19:20発の特急「きりしま」が、何とトラブルで運休との貼り紙が😱~! 今夜は宮崎市に宿をとっていたので、加治木城を訪れた後、今日中に宮崎市まで行く予定でしたが、その前は16:43発、これが本日の最終となりもうあと90分しかない。せっかくここまで来たがこれではもう無理。よって登城は断念しました(すいません)。
でも(ん?待てよ🤔)しかしここで駅の観光案内板をよーく見ると、義弘は山上の加治木城に住んでいたのではなく、どうやらここから西へ徒歩10分の所の平地に館を構えて住んでいたようです。何とこれはラッキ~! 10分なら行ける、またもや義弘様のお導きか!
関ケ原から7年後の1607年、義弘は帖佐からここ加治木の地を与えられ、加治木へ居を移します。しかし、山城は不便なため、麓に館を構えていました。現在その館跡は加治木高校の敷地の一角にあり(写真⑤)、護国神社になっていました(写真①②)。島津義弘は晩年をここで過ごし、そしてここで亡くなったそうです(写真③義弘死去の碑)。ここで亡くなったのか~と思うと、ちょっと感慨深くなってしまいました。また神社の中には、西南戦争で亡くなった別府隊の碑もありました(写真④)。隊長の別府晋介といえば、城山で自刃した西郷隆盛を介錯した男です。ここ加治木の出身だったようですね。
また駅に戻り再度観光案内板を再度見ていると、加治木駅から反対の東へ徒歩10分の所にある精矛神社(くわしほこじんじゃ)には、義弘が祀られていると書いてあり、まだ時間があるので、そこまで行ってみました(写真⑥⑦)。義弘が朝鮮から持ち帰った石臼(写真⑧)や、大河ドラマ「西郷どん」の撮影がここであったらしく、その時の写真などがありました(写真⑩)。そしてここに来て初めて知ったのですが、この神社の宮司(島津義秀さん)は、なな何と・・・義弘の直系の末裔だそうです😯!
最後に義弘の墓所(福昌寺)を訪れます。
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2023/12/23 19:03
搦手はしばらくの間工事中。 (2023/12/03 訪問)
天霧城のあとクールダウンで登城しました。
資料館の無料駐車場に車を停めます。
まずは内堀と土塁を見ながら修復工事中の高石垣を見学。
痛々しいです。
復旧資料館を経て搦手へ。
搦手は栃丿木門から上は工事中につき立入禁止でした。
一番の見どころっぽいんですが暫しの間我慢ですね。
一周し見返り坂から生駒坂、本丸に向かいました。
ちょうど夕刻で夕日を望むことも出来ました。
城友さんたちと城談義しながらの散策、楽しかったです。
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2023/12/23 10:13
奥平 信昌さんのモミアゲ。 (2023/10/30 訪問)
奥平氏と言ったら「長篠城」を思い出し、鳥居 強右衛門さんの勇気ある行動や、長篠の戦いの鉄砲戦術、と言う具合に頭に浮かんできます。
「奥平城」は鎌倉時代頃に甘楽郡司になった赤松氏が奥平氏を名乗り築城されたようです。
8代目が、三河の作手に移り歴史を動かしました。
家康さんが関東に入ると、奥平氏も甘楽郡に戻りました。
「奥平城」は里山を想わせる畑の所にポツンと説明板がありました。
駐車場はありません。路駐して登城口へ行き、またもやパチリ。少し登ると畑があります。
路駐と私有地?との心配で退陣しました。
近くの『奥平氏発祥の地』を目指しました。
写真⑤、集落に入る道端に石碑があります。Googleで指した所は民家の奥でした。
奥平氏のルーツ探しにしては、諦めの早い退陣です。
2023年大河ドラマ『どうする家康』での奥平 信昌さん、格好良かったですね。
ドラマの本編とは別に、あの『モミアゲ』が肖像画と同じで、違う意味で感激しました。
里山風景の中に、あのモミアゲを思い出した「奥平城」攻めでした。
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2023/12/23 06:27
高宮城(滋賀県彦根市高宮町) (2023/09/09 訪問)
近江高島駅から琵琶湖を半周して彦根駅へ。佐和山城は昨年に登城しているので、彦根駅構内のQRコードを読み込んでポチ制覇のみに留め、近江鉄道に乗り換えます。青春18きっぷは当然使えないのでイコカで行こか…と思ったらイコカ非対応!? イコカどころか切符も券売機でなく窓口販売、しかも有人改札で硬券に鋏を入れてもらう…ときたもんだ。昭和かよ(笑) ここ30年ほどは経験のない昭和体験にわくわくしながら電車に乗り、車窓に掲示された瓶割山城のQRコードを読み込みます(ポチは後日)。そういえば、この車両も何か見覚えがあるような…と思っていたら、近江鉄道は西武グループであり、西武を引退した車両が使われているんですね。学生時代は西武沿線に住んでいましたので、道理で馴染みがあるわけだ。そんなこんなで高宮駅に着き、電車が出発したらホームから線路に下りて出口側のホームに渡ります。これまた久しぶりの経験。たった3駅ながらいろいろと昔が思い出されて楽しい近江鉄道でした。
さて、鉄道ネタはこれくらいにして、高宮駅から高宮城に向かいます(徒歩6分)。
高宮城(城びと未登録)は、室町中期に高宮の地を与えられた六角氏頼の三男・信高が高宮氏を名乗り築いた城で、高宮氏(南殿)代々の居城となりました。高宮氏は戦国期には六角氏を離れて浅井氏に従いましたが、織田信長により小谷城が落城すると、高宮城に火を放って一族は離散しました。
高宮小学校から高宮幼稚園にかけてが城跡とされ、小学校での発掘調査では土塁や堀、井戸が確認されていますが、地表面には遺構は見られず、小学校の北隅に高宮城跡の石碑と説明板が立てられているのみです。
城跡碑から西に徒歩3分の高宮寺は高宮氏の菩提寺で、高宮氏代々の墓所には五輪塔が立ち並んでいます。高宮寺から西に4分ほど歩くと中山道高宮宿の本陣跡や脇本陣跡があり、本陣向かいの円照寺には明治天皇ゆかりの止鑾松や徳川家康が大坂夏の陣の帰路に腰掛けたと伝わる家康腰懸石がありました。中山道沿いに北に向かうと松尾芭蕉ゆかりの紙子塚、多賀大社一の鳥居や常夜燈、御神燈があり、
高宮氏が崇敬し高宮氏の家紋「丸に二つ遠雁」が伝わる高宮神社にお参りして高宮宿を後にしました。
その後、南彦根駅から三雲駅に向かい、駅構内のQRコードを読み込んで三雲城をポチ制覇(登城はまたいずれ)して、帰途につきました。大垣城に行けなくなって余った分の青春18きっぷを消化するための鉄道利用での城(イベントスポット)めぐりでしたが、運転しないでいいのは楽な上に移動中に本を読んだり寝たりできるので、駅近の城めぐりでは鉄道利用もいいな、と実感した一日でした。
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2023/12/22 21:19
2023/12/22 20:23
小笠原氏城跡 (2023/11/23 訪問)
【林大城】
<駐車場他>南の谷の集落からの入口が分からなかったので城跡内を縦断する松本市道3165号線で主要部手前まで車で行きました。4台程度駐車でき仮設トイレもありますが、東の橋倉地区から行くと駐車場手前から凸凹が大きく、木々もはみ出しているので途中の鉄塔のある所<36.225762, 138.013454>にスペースがあります。
<交通手段>車
<見所>曲輪群・堀切・主要部分・石段
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅初日3城目。林小城からの連闘「日本100名城、続日本100名城に負けない名城 第19回小笠原氏城跡①」で取り上げられた林大城に行きました。上記の橋倉地区から車で行くと橋倉地区の方が市道を整備しておられて車で行けるか伺うと倒木で上まで行けないとのこと。途中の鉄塔のあるスペースに駐車していいとのことでしたので、駐車して昼食を食べているとあと20分程で整備が終わるから待つなら待ってというので待ちながら橋倉地区の方とお話しました。城跡の情報は:①城跡には松木が沢山生えているのですが、近年どんどん枯れていっているそうです。確かに曲輪内に枯木を切った丸太が沢山積んでありました。②林大城は水の出が悪いので西にある水番城(城名もその由来から)から大林城の東麓まで水路を敷いていたそうで、確かに主郭下方に井戸跡はありましたが、とても小さいものでした。
城跡主要部は大きい曲輪の連郭で駐車場から虎口に石段の残る副郭、堀切を挟んで主郭、主郭は土塁囲み(石垣が残り当時は石垣囲みのよう)で虎口に石段、主郭背後と北側に腰曲輪があります。主要部から北東方向に伸びる尾根曲輪の数が先達方の記述の通り凄い数で、大手道の両サイドにずーっと極小の曲輪が延々と連なっているので当時はどんな感じになっていたかと想像が膨らみます。真ん中ら辺の堀切で引き返しました。
整備が行き届いて素敵な城跡でした。山の尾根全体を使った大城跡でしたが、私的にはわくわくする探索感があまりなかったです。100名城に負けない名城ということで期待が大きすぎたのかも。
<満足度>◆◆◇
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2023/12/22 17:11
2023/12/22 11:40
令和5年暮れ行く浜松城 (2023/12/20 訪問)
どうする家康大河ドラマも17日の先の日曜日に放映終了しドラマ館の様子は如何かなと訪ねましたので、遅まきながら日本庭園の紅葉の様子も気になり、日本庭園を先に訪ねましたが紅葉は既に終わり遅きに失した状態、でも残ってる紅葉、落ち葉紅葉に美しさを見つけてグルーと一周、天守曲輪には埋門の西から入り、手前の本丸屛風折れ石垣と下の山吹の黄色い花をツーショットで撮影、中々いいショットです、埋門の北側石垣の上部と手前は草が刈られて良く観える状態です、天守曲輪に入り何時ものショットを撮影し、東面より富士山が確認できたので撮影するが目では見えてもカメラでは薄くて鮮明に写りません、天守閣に登り展望回廊東面より撮影するが鮮明では有りません。
天守閣にもドラマ館で天守閣入場共通券を900円で売って居ましたので、共通券を購入して天守にも足を運ばれたのでしょう、大勢の人が入場されて居りました。共通券を購入すると100円お得です。ただし70歳以上は天守閣入場無料ですので年齢を考えて御購入ください。
日の出が見える城郭として浜松城も城びとの情報に載っておりましたが、寒い中朝早く出掛ける体力も有りませんので、皆さんの投稿を楽しみに待っております。
寒くなり城廻の季節としては草も枯れて良い条件ですが車はノーマルタイヤ、チーェンを付けての走行も不慣れでしばらくは冬ごもり、温かい日に雪の無い近くを探訪する程度で投稿出来たらなと、考えて居ります。
1年間拙い投稿をご覧いただきありがとうございました。
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2023/12/22 10:53
浜松大河ドラマ館は令和6年1月14日で終了です (2023/12/20 訪問)
浜松大河ドラマ館をNHKの「どうする家康」が先の日曜日17日で最終回で1年の放映が終了しましたので、3回目のドラマ館入場と12月暮が迫る浜松城へ出かけました。
ドラマ館は松潤家康は大御所の衣装で入口のパネル、出口でも大御所の衣装でお見送り、瀬名と直政は当初のまま、茶々が新しく加わって居ました。
ドラマ終了しましたがまだまだそこそこの人で賑わっていました、17日にパブリックビューイングの仮設テントが広場に残っており、クリスマスイブには同施設を利用するそうで残ったままでした。
二の丸の今後の開発整備計画がどうなるのか?楽しみに待っています。
後1ヶ月弱ですが、1年にわたり浜松城、二の丸ドラマ館にお越しいただきありがとうございました。
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2023/12/22 07:10
山名氏城跡 (2023/11/24 訪問)
山名氏城跡として有子山城とセットで国史跡に指定されています。出石城を加えた3点セットで御城印とリーフレットも用意されているようですね。先達の皆さん同様、学習館の裏手からの登城です。いずし古代学習館は、木曜日が休館日なのですが、木曜が祝日の勤労感謝の日ということで翌日が休館となっていました。城内の案内表示のおかげで主郭まで迷うことなくたどり着くことができました。
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2023/12/21 21:58
福島城・北の郭 青森県五所川原市相内 (2021/05/06 訪問)
十三湊安東氏の本拠(推測)福島城は内郭の北側、国道339号線の北側にも郭や堀切などの遺構が残っています。一見、かわいらしいイチゴのような形状をしている三角形の城域は周囲を丘陵に囲まれており安東氏にとっても古代の人々にとっても格好の防御能力を備えた拠点だったようです。
それにしても10世紀ごろにこの地に住んでいた人々はどのような人たちだったのでしょう。推測ですが、彼らはこの地で争わず平和に暮らしたかっただけなのかもしれません。彼らにとっては中央から武器を携えて集団でや現れる人々は非常に好戦的に見えたのかも知れません。全ては時代の流れの一環なのですが、戦国時代の野性味あふれる強烈なエゴイスト達(武将)に、どうしようもなく惹かれてしまう私は困ったやつなのでしょうか。非道な時代ですが村上海賊や伊賀忍者などが一番輝いていたのも戦国の時代なんですね。
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2023/12/21 21:19
安東氏発祥の地。そして林の中に古代のロマンが潜む。 (2021/05/06 訪問)
福島城は青森・十三湖の北に位置する三角形の台地状に築かれた平城です。城門の築かれた内郭の南に広大な城域が広がっていて面積は62.5万平方mもあるそうです。10世紀後半ごろから築かれていたらしく当時この地域にいた人達に築かれた防御性を備えた古代集落だったようです。内郭は14~15世紀ごろの遺構と見られ安東氏の発祥の地でもある十三湊が近いことから安藤(安東)氏の居城ではないかと考えられています。
まず城門から内郭に入りますが、なんとも広い。これでもまだ全体のほんの一部です。頭のなかで誰かが囁きます。「まだ始まったばかりじゃないか」‥マジすか、「バキ」の世界じゃないんだから。
でも南側にある古代集落の遺構は見たい。そうまだ始まったばかりじゃないか!外郭は藪化が進んで堀切は見えづらいですが問題なく進めます。そして三日月掘りに囲まれた古代の集落跡を発見!まさに古代のロマンです。荒くれ武者たちとは異なる古代の人々の息吹を感じます。さらに南の城域の先端にも古代の集落はあったようですが、このあたりは開墾されて畑地になっているようです。タイムスリップ終了‥現代に戻ったので引き上げるとしました。
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2023/12/21 21:18
新潟はお菓子の街💞
新潟から外に出ると,スーパーなどのお菓子売り場がとてもショボく感じます。福祉関連で新宿に行った時,「お菓子売り場ってどこですか?」と聞いて,「ここですよ」と。「えっ!」と絶句したのを思い出します。
新潟のスーパーでは,米菓で1列,チョコやキャンディで1列,和菓子やつまみ系で1列がだいたい定番です。
新潟に本社を置くお菓子メーカーですが,亀田製菓は全国に知れ渡っているところです。あまり知られていないのがブルボンかも…。
今回,にのまるさんがご購入された「サラダホープ」は上手なチョイスです。というのも,数年前から販売エリアを新潟県内だけにとどめたからです。最近,めっきり「エビ味」を見なくなりました。コレはやみつきになります。
私が県外の方をガイドして「職場にはどんなお土産がいいでしょうか?」と尋ねられた時も,「サラダホープ」をおすすめしてます。重くないし,簡単に手に取って食べられるので。しかも,販売は新潟県内限定なので。
では,新潟の代表的なお菓子を5つほど画像アップしますね。話に上がった「サラダホープ」から。
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2023/12/21 20:31
竜飛岬 階段国道・津軽半島最果ての地 (2021/05/06 訪問)
ご覧あれが竜飛岬北のはずれと~ ある超有名曲でその名を知られる竜飛岬。津軽半島の最北端です。日本で唯一の階段国道から歩いていくことが出来ますが、車で灯台のすぐ近くまで行けます。本当の本州最北端は下北半島の大間岬ですが、竜飛岬のほうが最果て感があります。景色は実に雄大で強風が吹き荒波が絶壁に打ちつけています。津軽海峡を眺めていると春なのに例の曲が頭の中に流れてきます。
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2023/12/21 19:59
ジャングリアン王国 (2021/05/06 訪問)
唐川城は福島城の支城で標高160m比高140mの山頂にきずかれていますが近くまで車で行くことが出来ます。嘉永3年(1443)には福島城の安東盛季が南部氏の攻撃を受け、この城に逃れています。
南に展望所があり、周囲がよく見えますが、とにかく城に行かねば‥どこから見ても立派なジャングルで進入路が無いので2か所の堀跡から入っていきます。縄張りを参考にさせていただくと最高所を主郭に周囲に郭が配され、北と南に堀切があり北郭と南郭から一段下がった所に井戸があるようです。
まずは南の堀切から侵入して南側を攻めますが酷いヤブ地獄で木々が密集しています。お世辞にもスマートとは言えない私ですが木々の隙間を無理やり進んでいきます。木々の隙間から南側の眺望が見えますが、正直井戸どころじゃないです。
一度もどり北の堀切から攻めますが、今度はもっと酷い‥クソジャングルです。もうやだ帰る! ‥気を取り直して次に向かいました。
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2023/12/21 19:24
土塁こそ 板東武者の 誇りなり 「かるた?」 (2021/05/05 訪問)
久保田城は旭川の東、標高40mの丘陵(神明山)に築かれています。現在は千秋公園となっており本丸の土塁が残り、模擬天守代用の御隅櫓が立っています。二の丸跡は庭園になっていて彌高神社が鎮座しています。慶長8年(1603)佐竹義宣が湊城から移転を決定した時に築かれました。近世城郭ですが石垣はほとんど使用しておらず、良い意味で板東武者の心意気を感じ取ることができます。この日は二回目の百名城のスタンプを集めに来たので写真の数はそれなりになっています。
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2023/12/21 08:03
大溝陣屋 (2023/09/09 訪問)
大溝陣屋は、江戸初期に入封した分部光信が大溝城の三の丸跡に構えた陣屋で、城下町を整備し、明治まで分部氏が11代続きました。
三の丸跡に設けられた藩庁と藩主住居の御殿跡には、初代藩主・分部光信公を祀った分部神社が明治に創建されています。市街化により陣屋の遺構のほとんどが失われるも、武家屋敷地と町人地の境にあたる総門が現存しており、現在ではまち並み案内処として活用されている…ようですが、訪問時は工事中でフェンス越しに眺めるだけでした。残念。
総門の南西側は武家屋敷地跡で、JR湖西線の高架をくぐった先には笠井家の武家屋敷が現存している…にはいるんですが、いつ倒壊しても不思議はないような痛ましい状態でした。貴重な武家屋敷だけに行政の関与で何とか保全できないものでしょうか…。武家屋敷地の西端には藩校脩身堂跡の石碑があり、中央部の「殿さんの水」と呼ばれる古式水道の溜桝(タチアガリ)からは城下町の人々の生活用水となっていた水が現在もこんこんとあふれ出ていました。また、武家屋敷地の西門を出た先の山麓には分部家菩提寺の圓光禪寺があり、分部家の墓所が設けられているようです。
総門の北側には町人地が広がり、生活用水、防火用水として通りの中央に整備された町割り水路が遺っています。町人地は町割り水路以外に目立った遺構は見られませんが、旧町名の石碑はあちこちに建てられていて、ぶらぶら歩いただけでも長刀町、船入町、江戸屋町、蝋燭町、十四軒町の石碑に遭遇しました(まだまだあるようです)。
大溝城のついで程度のつもりでしたが、案外に見るところもあって楽しませていただきました。次の機会には打下城のついでに総門を見学したいと思っています。
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2023/12/21 07:15
無謀な下城 (2023/11/24 訪問)
2013年から5年ごとに訪れていて今回が3度目の攻城です。日々の鍛錬の賜物か、回数を重ねるにしたがって登城が楽に感じられます。登城口の城址碑から主郭迄、20分丁度の所要でした。今回は石取場の矢穴と北西尾根の第7~第10曲輪を初めて拝むことができました。北西尾根の曲輪の先の堀切はなかなかの深さでした。登城路からかなり下っていたので登るのが億劫になり、そのまま下ってしまって大失敗。懐の深い山中をかなり彷徨する羽目になってしまいました。おかげでその後、昼食にいただいた皿そばがよりおいしく感じられたように思います。
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