出雲平田城を終えて、山陰道、無料松江道、中国道を経由して備後三次の高杉城へ、無料の松江道は大変ありがたい、更に無料尾道道で山陽道に繋がって大変便利になっています。
赤い城さんが今年8月登城9月投稿の記事を拝見し、中国道往来城廻の途中にでも登城しようとチェックを入れていましたが、今回こんなに早く廻って来るとは、中学卒業60年合同同級会と故郷檀家寺行事の間4日間城廻の広島県北部未踏の城探訪の一つに入れました、当初は3日目の終わりに入れていましたが、出雲平田城が早めに終わり、松江道が意外に早く走行出来て陽も高く、三次のホテルチェックイン前に初登城しました。
駐車場:高杉城跡(知波夜比古神社)の西側通り沿い(34°46'38"N 132°53'55"E)、鳥居前に案内図あり、参考にした古城盛衰記さん情報による。
参考資料:古城盛衰記さん、城びと投稿者、グーグルマップに依ります。
高杉城は方形の城館跡で現在知波夜比古神社が鎮座してる、周囲は土塁と堀が廻り、北側、東側は明確にわかる、西は土塁が有りますが堀は道に成っている、南は虎口で土塁あり、堀は埋まっています、南東部は住宅で消滅してる模様。
案内板が鳥居の南約60m程の用水路の南に建っています平成28年でまだ新しい、鳥居を潜った西横に城名石碑と高杉城跡案内板が設置されています。
先ずは鎮座してる備後国二之宮知波夜比古神社を参拝、境内東側に虎口が在り土橋と東側の土塁と堀を確認、境内より北東部の土塁、虎口を確認、続く北側土塁の確認、西虎口を出て北側の堀と土塁、北東部から東の堀と土塁を確認する、西側の土塁、南西角、南側の土塁確認、堀は道または埋まっている。
歴史的には、中世の国人領主江田氏と関係の深い知波夜比古神社の祝(ハフリ)氏が拠った所で江田氏の支城、祝氏の関係から観応年間(1350年~52年)頃築城されたと考えられる。
尼子方の高杉城は天文21年(1552年)に毛利氏との戦いにより攻め落とされ、祝甲斐守父子は滅ぼされています。その後弘治2年(1556年)毛利元就、隆元父子によって本殿が再建されています。(案内板抜粋)
落城後本殿が直ぐに再建されて高杉城の城館跡周囲の土塁、堀が神社保護で良く残ったのでしょう。
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