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のんちん♪

今回はお城として訪問 (2023/04/20 訪問)

御朱印巡りとしての武田神社は過去に訪れていたのですが、今回は武田の城(居城跡)として眺めてみようと尋ねました

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カズサン

穴山駅頭より能見城壁字が眼前に! (2023/05/04 訪問)

 日帰り甲州路城探訪の3城目新府城を終えて七里岩ラインを約1km程北上すると4城目の能見城に着きます。
 車は城びと会員の皆さんの情報で穴山駅の上り線側に穴山さくら公園が在り専用無料駐車場(35°45'01"N 138°24'54"E H=530m)を利用しました。

 穴山駅東駅頭には「中世の豪族穴山氏紹介」案内板、「穴山氏史蹟略図」「穴山町周辺の観光マップ」などの案内板が設置されています。
 穴山駅から徒歩で少し七里岩ラインを南側に戻り山側に舗装路を登ると逆方向に登る砂利道が有り登って行くと道なりに頂上に着きます、砂利道は轍が付き中央は草がぼうぼう、登る途中に曲輪が樹林間、竹林間に覗き見れます、本丸頂上には給水関連施設と「能見城址」看板、守屋一族の碑と祠、少し下がった南側に草に覆われた長靖寺が見えます、入口は草が茂り最近人の出入りは無い模様。
 頂上本丸跡北側下には樹林に覆われていますが曲輪の様な平地確認、後は下城しましたが遺構は良く分かりません、帰って投稿するときにグーグルマップを再見し、北側に能見城防塁跡、西側山麓に能見長塁西枡形虎口跡の史跡マークが有り、新府城の七里岩防衛ライン上に在る能見城の出城の位置付けが裏付けられるようです?

 穴山と言うと穴山梅雪を思い出しますが?近くに穴山氏居館跡が在りますが寄っていません。

 次は5城目先達城、甲州ではありませんが信州との国境の城、近いので寄ってみます。
 

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びーこ

完成形が楽しみな多賀城 (2023/05/02 訪問)

多賀城創建1300年記念事業の一貫で、大工事の真っ最中である。南門自体の復元は終わってるようだが、周りはまだ工事中。この後、門に追随して塀が作られるのだろうか?

多賀城碑を横目に道路を渡った先には、政庁跡に繋がる広大な道が!壮観である!紫禁城みたい(ちょっと大袈裟でした・・)でも、こんな壮観な眺めは、今まで観てきた城にはなかったものである。さすが100名城である。

南門以外の復元も進んでいるので、全ての工事が終わったら是非とも再訪して、多賀城の全貌を拝みたいものである。

GW東北巡りはこれで終了。最後の締めのグルメは牛たん!!もう説明はいらない。美味しいに決まってる〜

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肉球

よく整備されています (2023/05/04 訪問)

連休中よりによって仕事で観光地付近に行くことになり渋滞を避け早出。
6時には長坂ICに到着。時間があるので谷戸城へ初めて訪れました。
甲斐源氏逸見氏のお城。
堀や土塁がしっかりと保存され
古いですが説明板も設置されています。
これからの時期は草が伸び見にくくなるでしょうが一見の価値ありです。
駐車場も北と南にありますが南の駐車場から登るのはキツイかと思います。

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イオ

【かるた】安土城の読み札と絵札

信長に 思いをはせる 安土城

天守台では、440年あまりの年月を隔てて、あの信長と同じ場所に立っているんだなぁ、と何とも言えない思いになりました。
 

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:中野陣屋 (2023/04/21 訪問)

高梨氏館から転戦。中野陣屋県庁記念館西側駐車場(36.744801、138.372594)に駐車しました。

1616年(元和2年)江戸幕府によって築かれました。 1724年(享保9年)には周辺の陣屋も中野陣屋の管轄に統合されました。
1868年(慶応4年)には大政奉還により陣屋は廃止され尾張藩取締所管轄となりました。
その後、中野県庁となるも暴動によって1870年(明治3年)に焼失し、県庁は長野町へ移り長野県となりあした。

中野陣屋跡には現在「中野陣屋県庁記念館」が建てられており、天領陣屋に関する展示場と一般の展示場を兼ねた施設で、無料で公開されているようですが、中に入ってません。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りはここがラストで宿泊先のホテルに向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:高梨氏館 (2023/04/21 訪問)

福島正則館から転戦。館跡南駐車場(36.743978、138.376529)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、高梨氏によって築かれたと云われています。
高梨氏は清和源氏井上氏流の後裔を称していますが、古代東北の阿部氏の出とする説もあるようです。須坂市にある高梨氏館が発祥之地とされます。
永正年間(1504年〜1521年)の高梨政盛の頃に中野氏を降して中野に入部したとみられ、この政盛によって中野小館と詰め城である鴨ヶ嶽城が築かれたとみられています。
武田信玄が北信濃に兵を向けると、高梨氏は上杉謙信と連携してこれに対応しましたが、永禄年間(1558年〜1570年)初期頃には高梨氏は飯山城に逃れていました。
1561年(永禄4年)上杉謙信が関東に出陣して小田原北条氏を攻めていたとき、高梨氏は上杉氏の居城の越後国春日山城の留守大将を務めています。
同年に謙信の帰国後、川中島で武田氏と激突した際には高梨氏は上杉勢の先陣を務めています。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡し、織田信長も本能寺の変で倒れると上杉景勝は川中島一帯を所領としました。
このとき高梨頼親は安源寺周辺の2,000千貫の地を安堵され、再び中野小館に帰ることができました。
1598年(慶長3年)上杉景勝が会津へ転封となると高梨氏もまた会津へ移り廃城となりました。

高梨氏館(中野小館)は鴨ヶ嶽城を詰め城とした方形単郭の居館です。周囲は土塁と空堀が巡っています。
現在は高梨館跡公園として整備されており、発掘調査で検出された門跡一棟、礎石建物跡五棟、掘立柱建物跡七棟、枯山水の庭園跡などが確認され展示されています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=中野陣屋に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:福島正則館 (2023/04/21 訪問)

須坂陣屋(城びと未登録 長野県須坂市)から転戦。高井寺入口(36.665752、138.348519)から進入し境内に駐車しました。
そこから説明板&門(36.665957、138.348004)➡堀之内御利屋前(36.665818、138.349085)と巡りました。

築城年代は定かではないようですが、江戸時代初期に福島正則によって築かれました。
安芸国広島藩主福島正則は、1619年(元和5年)洪水で破損した広島藩の石垣の無断改修を咎められて改易となりました。
その後、改めて信濃国高井郡に20,000石と越後国魚沼郡に25,000石、あわせて45,000石の捨て扶持が与えられ、高井野藩となります。
これにあわせて正則は家督を嫡子福島忠勝に譲っていますが、翌1620年(元和6年)に忠勝は早世しました。
1624年(寛永元年)福島正則が没すると幕府の検使団の到着する前に荼毘に付し、またも法令違反を起こしたとして高野井藩は改易となりました。

福島正則館は現在の高井寺の境内付近に築かれていたようですが、 現在はわずかに本堂の裏手に土塁を残っているだけです。
周囲の石垣は寺の建立のときに築かれたものだそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=高梨氏館に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:須坂陣屋(城びと未登録 長野県須坂市) (2023/04/21 訪問)

竹ノ城から転戦。市立須坂図書館駐車場(36.653882、138.316745)に駐車しました。
そこから石垣付近(36.653785、138.316233)➡鐘楼(36.653333、138.316078)と巡りました。

1617年(元和3年)堀直升によって築かれました。
藩祖堀直重は越後国三条藩主堀直政の三男で後に飯山藩主堀直寄の弟です。はやくより徳川家康に人質として江戸に送られ、徳川秀忠に仕えていました。
1601年(慶長6年)下総国香取郡矢作に2,000石の所領を得て、1610年(慶長15年)に信濃国高井郡内に6,000石を加増、1615年(元和元年)大坂夏の陣の功により、4,000石余りの加増を受け、12,053石を領して諸侯に列しました。
翌1616年(元和2年)堀直重が没して嫡子直升が家督を継ぐと、下総国矢作領2,000石を直昭に1,000石、直久と直房にそれぞれ500石と三人の弟に分知し、10,053石となりました。
1617年(元和3年)に堀直升がはじめて須坂に入部し、陣屋が完成するまでの間は普願寺に仮住まいを設けていました。その後、代々堀氏が続いて明治に至るそうです。

須坂陣屋は現在の須坂小学校と奥田神社の境内付近に築かれていました。
小学校の北側の道路に面した石垣が陣屋の遺構のようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福島正則館に向かいました。

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朝田 辰兵衛

仁王像はアンパンマン! (2023/04/16 訪問)

城碑と熊野神社のほぼ中間地点に,城山幼稚園があります。ここのアンパンマン像が仁王像と思ったら,ほっこりとしました。にわか雨のせいか,空堀画像が撮れていませんでした…<泣>。

にのまるさんへ。
烏山城の投稿で気づきましたが,登城口まではGoogleマップを使用し,登城口から先は「国土地理院 地理院地図」の利用をお勧めします。
烏山城周辺では,山道が点線で表示されていますョ。
https://maps.gsi.go.jp/#5/36.104611/140.084556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
ウェブ化されていますが,現場で調べるより事前に検索して,手頃な大きさに拡大した地図として印刷し,スマホのバッテリーの消耗を抑制したほうが良いと思います。
ちなみに私は,Googleマップも地理院地図も事前に印刷し,ルートを蛍光ペンでなぞったモノを携帯しています。スマホは常時カメラ起動状態です。
地理院地図は,送電線と送電鉄塔がプロットされているので,とても助かっています。「送電線の下を通過したら,頂上まであと少しだ」とか,さびしい山の中では大きな情報源になります。ルートが複数ある場合,こっちは傾斜がキツイな…とかいう情報も事前に入手できます。
ただし,過信は禁物です。山中ということで,自然災害で通行止めになっていたりとか,雨で山道が崩落してしまっていたりとかします。そういう場合は運が悪かったと思って,勇気ある撤退をお勧めします。
登城ルートがそのまま下山ルートになる場合,要所要所で振り返って「下山時の景色」を頭に入れておくのも必須です。何気に分岐点を通り過ぎるということが,下山時に迷ってしまう原因になり得るからです。
参考になさってください。

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美夢

【かるた】足利氏館の読み札

大銀杏 出迎え国宝 足利氏館

足利氏館の堀の 巨大鯉


読み札のみの投稿です
一句目
行くと出迎えてくれる
樹齢約650年と言われている大銀杏は圧巻で
特に秋の紅葉はとても見事です


二句目
水堀には色とりどりの鯉がいますが
中にはとても大きな鯉がいます
太鼓橋からのんびりと見てしまいます
エサをあげる事も出来ます

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T-Shionoya

千福城で初めての畝状竪堀群 (2023/02/05 訪問)

引越前の近所の城巡り。その1つとして訪ねた静岡県裾野市の千福城。

愛鷹山東麓の、葛山氏が拠点とした東西に細長い扇状地の入口。その南側の尾根先から飛び出た比高40mほどの丘陵に築かれた城で、東から南に掛けては平山川、西は佐野川が天然の要害。
拠点を守るだけでなく、足柄道(矢倉沢往還)の監視も兼ねていたでしょうか。

築城時期は不明ですが戦国期の城で、城主は葛山氏と、その家臣の御宿氏。
御宿政友は大阪の陣で豊臣方につき、家康が警戒したほどの武将だったとのこと。

現在は居館跡と伝わる場所に普明寺が建ち、高速道路で損失した一部以外は、竪堀などの遺構が残り遊歩道が整備されている城跡。
訪問時は普明寺本堂の左から入城し、北曲輪から東南方面へ。(案内図の遊歩道位置は一部相違あり)
城びと未登録のため期待していませんでしたが、最初から立派な竪堀のお出迎え。更に北曲輪は3条の畝状竪堀群を備え、それは静岡東部、もしかすると神奈川を含めてもNo.1クラスでは?
竪堀以外は特に魅力的な仕掛けはないものの、土塁のような曲輪に囲まれた本曲輪は興国寺城タイプかなとか、帯曲輪は横堀があったのではないかと勝手に想像しつつ、滞在時間は2時間越え。

初めての畝状竪堀群に気持ちが高まった千福城が、私の城郭巡りの146城目でした。

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ろっし

お城探訪 (2023/05/13 訪問)

昔は島だったんですね⁉️
守りは良くても、水や食料に困りそうな小さい城跡。
みなさんが言うように土塁は分かりませんでした。

眺めは良かったです。

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ろっし

お城探訪 (2023/05/13 訪問)

曲輪跡らしき場所はあるけど、薮化している。
入っていきたいけど、神社の敷地だし…参拝して帰りました。

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ろっし

お城探訪 (2023/05/13 訪問)

石碑のある道路は道が狭いうえに住宅地なので長居はできません。
写真を撮って早々に退散

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赤い城

野庭中央公園 (2023/05/14 訪問)

ブルーラインの上永谷駅から徒歩で約20分。
野庭中央公園が城跡となります。
鎌倉殿の13人の和田義盛の築城とされています。
公園の北西部に少し小高い削平地があり、ここが主郭と思われます。
が、明確な遺構はありません。
公園のグラウンド部分で雨上がりの悪コンディションの中、子供達がサッカーの練習を。
地域では重要な公園のようです。

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小荷駄

名胡桃城跡 (2023/04/14 訪問)

般若曲輪跡が大きな駐車場になっています。案内所にはトイレ、続100名城スタンプ、資料や模型や甲冑等の展示品がありました。スタッフの方も大変親切に対応して頂きました。あまり大きくはないですが整備もされていて案内板もたくさんあって解りやすく散策もしやすく楽しく見学させて頂きました。

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織田晃司

比企城館跡群のひとつ (2023/05/03 訪問)

「鎌倉殿の13人」にも登場した畠山重忠の館跡とされている。
尚、17:15には駐車場は閉鎖されるので、訪れる時間には余裕をもって早い時間に…

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ぴーかる

守山城 (2023/04/02 訪問)

【守山城】
<駐車場他>城山駐車場20台程可能
<交通手段>車

<見所>石垣跡・眺望
<感想>1泊2日北陸山城攻めの旅2日目ラスト10城目。越中三大山城の1つでこれにて制覇しました。現地説明板によると守山城は築城年・築城主は定かではないが、南北朝時代末期にはその時の越中国守護斯波氏と南党の守護大名桃井氏と城の奪い合いの抗争を繰り返していたそうです。守護職が畠山氏になると守護代の神保氏がこの城を支配します。16世紀後半から神保氏張が城主となり織田家⇒上杉氏⇒織田家と臣従を乗換えますが、佐々成政が越中国に赴任すると一門衆となります。佐々成政の秀吉への反乱時にはそれに従ったために前田利家軍に攻められ守山城は落城します。落城後に秀吉は前田利家の嫡子利長に守山城を与えますが家督を相続し金沢に移ります。城代に前田長種を置きますが城下の寺院や商工業者は急速に富山に引き上げ寂れていったそうです。
 現地は公園化して改変されているようですが、主郭や並行する南側下段の曲輪、主郭の南側に2段ある舌状連郭などは曲輪の形状のまま残されているように見受けられました。主郭の帯曲輪から西側に回り込むと主郭西側曲輪壁に僅かに石垣が残っており、帯曲輪に多く転落石があります。主郭南側曲輪壁は草がボウボウでよく分かりませんが所々金網が張ってるのでもしかしたら草の奥に当時の石垣があるのかも。また主郭南側の舌状連郭の法面にも石垣跡があります。高岡市教育委員会の「守山城跡詳細調査概報」によると舌状連郭の2段目の東屋のある曲輪が二の丸、森化していますがその南西側を三の丸としています。二上山万葉ラインの西側はほぼ大手道を拡張改変したようで森化していますが侍屋敷や曲輪群が麓まで広がっていたようで城域は広大だったようです。
 前述の行政の調査が平成25年に初めて本格的に行われており、それまでに公園化されてしまっていることから主要部のいい遺構はもはや無くなっているか土中に内包しているか、後者を期待したい城跡でした。
 これにてこの旅終了。1日目に予定していた森寺城は道路工事中のため通行止め登城不可などありましたが充実した山城巡りができました。走行距離864㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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koyuki

城内にて期間限定展示 (2023/04/02 訪問)

高橋宏斗投手のサインボールと大谷翔平選手サイン入り切り株が西の丸で展示されたときのものです。(切り株はこのあと西の丸御蔵城宝館、本丸御殿でも展示されました)

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