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小松寺山砦(小牧長久手古戦場散歩 小牧の巻) (2023/09/09 訪問)

 三好秀次、丹羽長秀などが守備していた砦です。城びとには未登録の砦跡です。久保山砦の説明板にも丹羽長秀の名前がありましたね。詳細はわかりません。小松寺が跡地です。説明板と石碑があります。

 名鉄味岡駅から徒歩約10分です。

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久保山城(小牧長久手古戦場散歩 小牧の巻) (2023/09/09 訪問)

 丹羽長秀が守備していた砦と説明板には書かれています。日本城郭大系では蜂屋頼隆、金森長近らが守将であったと記載されていました。城びとには未登録の砦跡です。羽柴秀吉自ら楽田城から、ここへ来て指揮をとったともされ太閤山ともいわれています。熊野神社となっていて遺構はないと思われます。説明板と石碑がありました。

名鉄田県神社前より徒歩10分くらいです。

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岩崎山砦(小牧長久手古戦場散歩 小牧の巻) (2023/09/09 訪問)

 小牧長久手の戦いのときに稲葉一鉄が守っていたとされる砦です。城びとには未登録の砦跡です。名前は似ていますが長久手の戦いに出てくる岩崎城とは異なります。標高は55m程で、今は熊野神社となっています。遺構はありませんが、小牧山城がよく見えます。

 小牧長久手の戦いとは関係ありませんが、この山は天然の良質の石が産出された様です。その跡が山頂付近にも見られます。織田信長は小牧山城の石垣を築くためにここから石を運び、後に名古屋城が築かれた時もここの石が石垣に使われました。麓には石垣がありますが、岩崎山前土地区画整理事業、市道拡張工事に伴い発掘された石を使って作ったとのことです。

 名鉄味岡駅より徒歩15分くらいで行くことができます。

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天守閣の起源 (2023/09/09 訪問)

 小牧長久手の戦いでは羽柴秀吉の本陣がおかれたこともある城址です。石碑だけの城址に再訪することはほとんどありませんが、門跡の石碑などを確認していなかったため行って来ました。
常福寺にあった移築門がなくなっていることをキンヤさんの投稿で知りました。残念です。
 永禄元年ごろにあった櫓が天守閣の起源といわれています。


名鉄楽田駅から徒歩にて散策しました。

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しんちゃん

主郭は案外小さい。周囲にも城域が広がっていたのかも。 (2021/11/19 訪問)

蓮沼城の跡地には現在石碑が立てられています。
周囲は田畑や宅地になっており、かつての城跡をうかがわせる
遺構らしきものは見当たりません。
城域は東西26間、南北36間、堀の幅は5間と記録が残ります。
1間=1.82mとすると、およそ東西47m、南北65mということに
なります。堀の幅は9mくらいですか。城域はそれほどでもないのですが
堀の幅は結構ありますね。宝暦14年(1764)の書状申帳によるものなので
かつては周囲に郭などの遺構があったのではないでしょうか。
蓮沼城は永享年間(1429~1441)遊佐氏が築いたのが始まりとされます。
遊佐氏が一向一揆の圧力に屈して亡命し、その後は一向一揆の勢力下に置かれたものと
考えられますが、一向一揆と敵対す康る石黒氏の支配下にあった時期もあるようです。
永禄12年(1569)以降、椎名康胤が入城したとされますが、天正4年(1569)上杉謙信に
攻められ落城し、康胤は敗死したとされます。
謙信死後は佐々成政の支配下に置かれますが、前田利家に攻められ落城したようです。

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しんちゃん

歴史は古く、廃城まで多くの者達に使われている。 (2021/11/19 訪問)

津幡城はかつての津幡小学校跡に建てられていて、周囲の建造物や
グラウンド一帯を含む丘地の上全体が城跡だったと思われます。
中央にある石碑のある小岡は物見台のようにも見え、その下側が
駐車場になっています。朝駆けで訪問しているので、城跡に建てられた
津幡ふるさと歴史館「れきしる」は訪れていません。
城域内には為広塚や清水八幡神社があり、八幡神社の階段を下りて
下から見上げると高低差によって城址の雰囲気を感じ取ることが出来ます。
津幡城の歴史は古く、平維盛が寿永2年(1183)倶利伽羅峠の戦いに際して
この地に砦を設けたことに始まるそうです。
天正4年には一向一揆が立てこもって戦いましたが、天正9年(1581)柴田勝家に
攻められ落城したと有ります。
天正12年(1584)前田利家が築城し直して、弟の前田秀継に守らせたとあります。
9月に、末森城が佐々軍に包囲されると、それを救出するための軍議が
ここで開かれたとされています。

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しんちゃん

越中一向一揆の拠点。 (2021/11/19 訪問)

安養寺城は安養寺御坊として渋江川の南の
台地城に築かれていました。周囲は田畑となっており
現在、石碑が建っているあたりが、かつての中心部だったようです。
周囲には土塁が築かれていたようで、畑地の周囲は切岸のように
なっており、南西の八幡宮には土塁が残ります。
元は蓮如上人の次男蓮乗が築いた土山御坊が前身で、高木場移転を経て、
永正16年(1519)三代実玄によって、この地に移転したとあります。
かつての寺領は十数万石におよび、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の
中心として機能していたようです。

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yoda 1253

2つの櫓が現存 (2023/09/08 訪問)

坤櫓と巽櫓が見所です。帯曲輪からのアングルが二つの櫓が撮れておすすめです

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yoda 1253

赤穂浪士のゆかりの城 (2023/09/08 訪問)

本丸門の石垣は整備されていて見応えありますが発掘調査もこれからという感じ

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yoda 1253

堅牢な石垣に感激 (2023/09/09 訪問)

多くの刻印があった為大掛かりな築城と思われます。大阪城に睨みを聞かせる為でしたが天守は許可されませんでした。藤堂高虎は無念だったでしょうね。

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yoda 1253

100名城を目指すきっかけになった城 (2023/09/09 訪問)

壮大な石垣は観るものを感動させます。穴太衆の技術が詰まっています。行きにくいですが行く価値あります。とにかく行ってみてください。

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しんちゃん

整備が進めば、非常に魅力的な城になるはず。 (2021/11/19 訪問)

今石動城は佐々成政と前田利家が交戦状態にあった時に、前田利家が
築き、前田秀継。利秀親子に守らせたとされています。
親子の死後、廃城になりますが、利秀の従臣篠島織部清了が奉行として
代々居住したとされています。今石動城、これが初投稿になるようですね。
では、一番槍取らせていただきます。
林道で三の丸付近まで行くと駐車スペースがあるので、そこから
城に入ります。藪化が進んでいるので、散策路にそって本丸まで進みます。
本丸部分が扁平地になっていて周囲に段々に郭を配し、南側と東側の
尾根伝いに城域が開けています。北側の尾根は二股に分かれ、
刺股状に尾根が伸び郭が配されています。非常に魅力的な縄張りなのですが
いかんせん整備が追い付いておらず。本丸と周辺の郭しか確認できませんでした。
なんか面白くないので北東の尾根からよじ登ってみましたが、やはり
ひどい藪でした。整備が進んで散策しやすくなれば、非常に見ごたえの
ある城になると思います。

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しんちゃん

洲崎灯台  千葉県館山市洲崎1043 (2014/02/01 訪問)

洲崎灯台は南房総国立公園内にある灯台で
野島崎灯台の北西に位置し、近くには洲崎神社もあります。
コンクリート造りで大正8年(1919)に建造されています。
大正になると、もう工法は現在とそれほど変わりません。
外観は美しく、眺望にも優れ、コンクリート造りの初期の遺構と
して、国の有形文化財に登録されています。
基本的に見学が可能なようですが、時期によって異なるようです。
ご見学の際には、ご確認願います。

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しんちゃん

野島崎灯台  南房総区艇公園野島崎 (2014/02/01 訪問)

野島崎灯台は房総半島最南端、南房総区艇公園野島崎にあります。
近くには厳島神社や源頼朝が雨宿りをしたと伝わる
伝説の岩屋があり、海の神である大タコの絵があり、皿の中に賽銭が
入ると願いがかなうと伝えられています。
野島崎の先端には房総半島最南端の碑があり、つまりは関東(板東)で
最南端ということだと思います。
野島崎灯台は仏人技師ヴェルニーの設計で明治二年に竣工したレンガ作りの
者でしたが、大正12年(1923)の関東大震災にて倒壊し、大正14年(1925)に
改築されたとあります。
今でも内部の見学が可能で、展望台まで登れるそうなので、次は
営業時間内に訪れることが出来ればと思います。

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能登守利信

呟き (2023/09/09 訪問)

千頭駅を代行バスにて下車、徒歩25分。川根大橋から徳谷神社を目指し、5号堀から鳥居をくぐり三の丸、二の丸、本丸に至ります。城址標柱、案内板、土塁、井戸を確認すると、本丸のある神社裏手に一号から三号堀、付属曲輪があり、コンパクトながら散策に機能的な城址を堪能出来ました。

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能登守利信

呟き (2023/09/09 訪問)

千頭駅を代行バスにて下車、徒歩25分。川根大橋から徳谷神社を目指し、5号空堀から鳥居をくぐり三の丸、二の丸、本丸に至ります。城址標柱、案内板、土塁、井戸を確認すると、本丸のある神社裏手に一号から三号空堀、付属曲輪があり、コンパクトながら散策に機能的な城址を堪能出来ました。

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赤い城

復元された高石垣 (2023/08/27 訪問)

観光地でもある屋島にある古代山城です。
山頂に観光駐車場があります(300円)。
まずは八十四番札所でもある屋島寺に参拝し、復元された城門を目指します。
道は整備されており、城門への案内板もいくつか設置されています。
城門に着くとまずは眺望です。
高松市内を見下ろすことが出来ました。
石垣は復元されたものですが高く迫力がありました。
こんな石垣が大和朝廷の時代に築かれていたなんて想像できません!
石垣に感心したあとは屋島山頂にも行きましたが特に何もありませんでした。
源平合戦の舞台にもなった屋島、またじっくり回ってみたいです。

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しんちゃん

主郭背後の高土塁が見事。 (2023/05/06 訪問)

真里谷城周辺は木更津市立少年自然の家キャンプ場になっています。
鶴舞馬来田(下)戦(県道168号)を北上し、脇道を左に入り、
さらにキャンプ場の方向に車を進めると駐車場にたどり着きます。
時期によって封鎖されているようですが、幸い管理人が
いらしたので、問題なく散策することが出来ました。
城山神社のすぐ近くに駐車場があり、北側に主郭が隣接しています。
主郭は自由広場になっており、西側背後にかなり高い土塁が
そびえ立っています。土塁の上まで遊歩道が続いており、上部は
帯廓のように兵を駐屯できるほどのスペースがあります。
主郭周囲にも郭が配され、南東側の二の丸を見た後は、
林道を南下して三の丸周辺を散策しました。
キャンプ場になっていますが、多くの遺構が残る、すばらしい
山城です。主要部をかいつまんで見るようなかたちになりましたが
十分、山城の遺構を堪能できたと思います。
真里谷城は武田氏の築いた城で、三代信興のころから真里谷氏を名乗ったそうです。
四代信勝は足利成氏の孫の義明を擁立し、義明は里見氏、真里谷氏の援護で
小弓城の原氏を破り、小弓御所と呼ばれるようになり、信勝は房総管領に
任じられ、これが真里谷氏の全盛期とされています。
天文21年(1552ごろ)椎津城にいた真里谷信政は里見氏に城を攻め落とされ
このころから真里谷氏は衰退していったものと思われます。

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しんちゃん

本多忠勝の改修した堅城。意外と城づくり名人なようです。 (2023/05/06 訪問)

大多喜城は縄張りに本丸・二の丸・三の丸の記載が見られ
堀切などの遺構が残り、本丸跡には模擬天守が建ち、東側は断崖に
なっているようです。その先には二の丸跡と御殿跡があり大多喜高の
敷地になっているため、散策は憚られますが、再建された薬医門と
本丸跡附井戸を見学することが可能です。
やはり高校の敷地内ですので一声かけてからの方が良いでしょう。
さらに東側が三の丸跡になりますが、宅地化が進んでいるようです。
模擬天守は改修工事中で現在見学することはできません。
改修後はエレベーター付きの天守に生まれ変わるとのこと。
大多喜城の前身は根古谷城で徳川家康の関東移封に際して
本多忠勝が10万石で入城し改修したとあります。
周囲を囲む山々を天然の防壁とし、夷隅川を東南の守りとし、
川に沿って25の寺院を複雑に配し、城の守りを強化したとのことです。
戦巧者の本多忠勝らしい実践的な縄張りだったようです。
本丸には三重の天守を備え、全体で九棟の櫓を備え、それらは見張りから
攻撃まで使えるようになっており、25を超える大小様々な井戸を備えた
堂々たる堅城だったようです。二の丸の大井戸は
「本丸跡附井戸」と案内板が建ち「底知らずの井戸」として
数々の伝説を持っているそうです。

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AJ

鳴くまで待とう (2016/09/01 訪問)

家康の我慢強さのようなものは、その人材活用術にも見てとれる気がします。伊奈忠次(1550-1610)。2度の背信を許され、最後は代官頭として水運を中心に関東一円の土木工事に尽力し、江戸の基盤整備を担った人物。

三河で一向一揆側に付き、追放。さらに家康の長男・信康の自刃に憤り、出奔。と波乱の人生を送りつつも、本能寺の変発生時に堺にいたことから家康の伊賀越えを助け、信頼を得たとされます。“本多正信型”ですかね。

小田原で秀吉から関東移封を伝えられた家康は、直後に忠次を江戸での情報収集に当たらせたといいます。埼玉や茨城には忠次の官名を冠した水利インフラ「備前堀」が残っています(写真の像は茨城県水戸市)。

伊賀越えで功のあった臣下に対する家康の厚遇は分かりやすいですね。それほどのピンチだったということの証左なのかもしれません。

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