1561(永禄4)年9月10日の第4回川中島合戦は,上杉軍優勢で始まり,次第に武田軍が盛り返す展開に。謙信は越後に引き返す判断をしました。飯山・安田の渡し(現在は綱切橋となっている。飯山城の南側約800m付近)にさしかかった時,謙信に従う者は弥太郎ただ一騎だったという。千曲川を渡り,追っ手をさえぎるために渡し綱を切って落とす。北へ向かい,市ノ口から小佐原にさしかかるも,弥太郎は深傷に堪えかね,主君の無事を祈り割腹して果てました。
鬼小島弥太郎最期の地は,鬼が峯と呼ばれるようになりました。弥太郎の墓は,鬼が峯と数100m隔てた英岩寺墓地に,1595(文禄4)年,弥太郎ゆかりの者に建てられたという。
なお,新潟県長岡市栃尾大野町3-4-2(デイサービスセンターおおの苑)地内にて,鬼小島弥太郎戦死の地と呼ばれる碑とパネルが存在します。ここには「鬼小島弥太郎貞弘は背丈6尺2寸(186㎝)で,その力は三十人力であったといわれ,その豪勇の故に鬼の一字が付けられたといわれています。弥太郎17歳の時,見出されて景虎の家来となり,槍の名手として活躍しました。永禄3年正月の刈谷田川合戦の折には,三条方の広瀬十郎と一騎打ちを行い,これを討ち,味方を大勝に導きました。しかし,帰陣の途中ここ天神橋で広瀬十郎の子二人の不意打ちにあい,おどりかかる広瀬兄弟を斬り伏せたものの,深傷のため割腹して果てました」とあります。
この記述が真実だとすると,1561(永禄4)年9月10日の第4回川中島合戦には参陣することは不可能。その後の逸話もあり得ないこととなります。私はこの栃尾説の後半部分は後世に盛った話と判断します。
大人の自由研究を終わります📖
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