たかじょう

高城

宮崎県児湯郡

別名 : 新納院高城、高城城
旧国名 : 日向

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①	高城(島津方:山田有信の城)
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トク

【大友宗麟】(10)高城川の戦い(決戦!大友VS島津) (2026/01/24 訪問)

大友宗麟、大友館からの続き(10)です。

大友家没落の原因となった地「高城」、ここはかつて、大友全軍と島津全軍が激突した場所でした。

1578年、島津に追われた日向の伊東義祐が宗麟に助けを求めに来ると、宗麟は娘が嫁ぐ伊東氏を助け日向の国(宮崎県)を奪還するため、臼杵から豊後全軍5万をもって出陣します。しかし宗麟は延岡まで来たところで、何故か日向の国を(ヒムカ)と名付け、全国からキリシタンを集めたキリストの理想郷(ムジカ)の国をこの地に作ろうと、進軍を止め神社仏閣を壊し、その建設に没頭し始めたのです(それが宗麟の真の目的だったのでしょうか?)。

しかし主力軍4万はそのまま南下し、山田有信と島津家久が籠る高城を取り囲みます(写真①②③)。ここで3カ月経っても宗麟からの攻撃命令は出ません。それどころか宗麟はムジカの建設にますます没頭して行きました。宗麟は理想郷が完成するまで島津に邪魔されないよう牽制するだけで、本気で戦をする気はなかったのかもしれません。そんな主君に家臣たちはいらだち、総大将を任された田原紹忍(宗麟の正妻奈多夫人の兄)と、血気に逸る田北鎮周や佐伯宗天などの重臣との間で、口論が陣中で始まってしまいました。もはや大友軍はまとまりがなくなったようです。

その時です! 有信を助けるべく当主の島津義久を総大将とする島津主力軍3万が根白坂に到着します。そして島津軍は坂を下りこの高城川の近くまで攻めて来ました。ここで大友軍が応戦するため松山之陣を下りると(写真⑥)、島津軍はなぜかUターン、一斉に逃げるように引いて行きます。「島津軍など恐れるに足らず!」。そしてこの時、田北鎮周や佐伯宗天らは、薩摩の当主義久の旗印を発見します。その旗印を見たとたん「敵の総大将じゃ~! 今が義久の首を獲る千載一遇のチャンス!」とばかりに暴走、島津軍を追撃し深追いしました(これが罠です!)。すると両側に潜んでいた島津義弘と島津以久に取り囲まれます。危ないと思った後詰の田原紹忍は彼らを助けに行きますが、今度は高城にいた山田有信と島津家久が城を出て、紹忍の背後を囲みました。これが島津得意の「釣り野伏せ」です。四方を完全に囲まれ、見事に罠にかかった大友軍は大敗。田北鎮周や佐伯宗天はこの切原川の河原で戦死したそうです(写真④⑤)。

戦が終わると、松山之陣の後方の丘に、山田有信により大友軍と島津軍の戦死者を供養したとされる供養塔が立てられました。そしてその地は、「宗麟原」と名付けられていました(写真⑦⑧⑨⑩)。

この後、大友軍は豊後に逃げ帰ろうと北へ敗走します。対する島津軍は耳川で追いつきます。そこで大友軍は、さらに大量の戦死者を出してしまいます。次は、大友軍がとどめを刺された耳川と、宗麟の本陣があった無鹿を訪れます。
 

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トク

豊臣秀長 最後の陣所(松山之陣と根白坂の戦い) (2026/01/24 訪問)

私が高城を訪れたのは今回で3度目ですが、今回の目的は高城ではなく、直線距離で東に1kmの所にある、豊臣秀長が最後に陣を敷いたとされる「松山(松山之陣跡)」です。

また高鍋駅から木城行のバスに乗り30分、終点「木城温泉館湯らら」で下車すると目の前に松山が見えました(写真①の左の山)。標高は100mくらいです。な~んだ楽勝じゃないか😊と思いきや・・・?

この一帯は大きな戦いが2度あった場所である事は、みなさん御存知と思います。2度とも高城に籠る薩摩の山田有信を攻めた戦いです。1度目は1578年に大友軍が攻め、救援に来た島津全軍と決戦した「高城川の戦い(耳川の戦い)」です。大友軍はこの松山に陣を敷きますが、眼下の高城川にて致命的な大敗を喫してしまいます。

2度目は1587年、九州征伐で東ルートを任された豊臣秀長が15万の大軍で出陣し、この松山に陣を敷き高城に籠る山田有信を攻めます。そして有信を救援に来た島津全軍と対決した「根白坂の戦い」です。ここで島津軍は致命的な大敗を喫し、島津義久は豊臣秀吉に泰平寺にて降伏します。

目の前なのに、どうやらこの温泉館から直接登れる道は無く、山の東側からぐるりと8の字に遠回りして登り、絶景橋を渡れば上まで行けるようです(図④)。結局遠回りして歩き続け1時間もかかってしまいました(往復2時間)。車の方は宗麟原に駐車場があります。TVを見ると各地寒波による大雪で大変な映像が流れていましたが、ここ宮崎県は別世界。快晴で気温12度、川には菜の花が咲き、頂上に着く頃には汗が流れ出し、本当に今は1月なのかと疑いたくなる程の暖かさでした(写真②③)。雪国の方にはすいません。

そして橋を渡って宗麟原入口に着くと説明板がありました(写真⑦⑧)。そこから左側の松山へ入ります(写真⑨)。入った先は竹藪だらけで全く整備されておらず眺望もなく、藪をかき分けて行ける所まで進みました。するとちょうど切堀の跡を見つける事ができました(写真⑩)。写真⑧の図の南北の曲輪と曲輪を遮断している切堀と思われます。しかしそこから先は藪がひどくて前へ進めず、結局ここで断念してしまいました。もう少し整備してほしいものです。

それから絶景橋へ戻り、全体を見渡して見ました(写真⑥)。実際の決戦は、ここから遠くに見える「根白坂」で行われました。秀長はどんな思いで、この松山之陣から根白坂の戦況を見つめていたのでしょうか?

私は前回、がんばって高城から往復5時間かけてあそこに見える根白坂まで歩き、そして「なぜ島津は豊臣に敗れたのか?」を追いました。その時の様子は(お城を探す→高城)から検索して、(関ケ原の26人)の78・79・80話で詳しくレポートしていますので、もし興味のある方はそちらを読み返していただければと思います。

根白坂の戦いで勝利し大和郡山城へ戻った秀長は、その後に病で倒れます。それゆえ小田原征伐には参陣できませんでした。そして3年後、そのまま大和郡山城にて生涯を閉じてしまいます。

つまりこの場所は、豊臣秀長が最後に出陣し戦をした場所だという事になります。大河ドラマ『豊臣兄弟』では、この根白坂の戦いがどのように描かれるのか?🤔 そして終盤のクライマックスとなるのか?(😱~)。私は今から密かに楽しみにしています!😊
 

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たか

凄い竪堀 (2025/12/08 訪問)

とにかくチャンスがあれば行ってほしい。
竪堀の深さや本丸跡のメロディ時計台。
丁度メロディが流れていて素敵でした。
手前ではベンチでランチをされてる方もいてほのぼのしました。

山田有信が大友の5万の兵、豊臣秀長の15万の兵を凌いだという。
7つの見事な竪堀を是非とも!

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HKISD

高城散策 (2025/07/18 訪問)

城に登っての見晴らしが良かったです。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 新納時久
築城年 建武2年(1335)
主な城主 新納氏、富山氏、土持氏、野村蔵人佐(伊東氏家臣)、山田有信(島津氏家臣)
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀、井戸
再建造物 模擬櫓、石碑、説明板
住所 宮崎県児湯郡木城町高城
問い合わせ先 木城町役場教育課
問い合わせ先電話番号 0983-32-4731