たかじょう

高城

宮崎県児湯郡

別名 : 新納院高城、高城城
旧国名 : 日向

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①	宮部継潤陣跡と思われる場所
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トク

80【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (根白坂(2/2) なぜ島津は豊臣に敗れたのか?) (2023/11/05 訪問)

根白坂の続き(2/2)です。なぜ島津は豊臣に敗れてしまったのでしょうか?
その理由を探しに、根白坂の頂上から今度は南へ下ります。

飫肥城に残っていたというわずかな資料である布陣図と照らし合わせながら歩きました。すると🤔? このあたりが宮部継潤が陣を敷いていた場所ではないかと思いました(写真①)。これはあくまで私の直感による推測です。人工的に造られたと思われる段々に削られた場所、そこに転がる石(石垣の跡か?)。黒田官兵衛の指南を受け、かなり強固な陣を作っていたようです。ならば島津軍はこの下(南)から攻めた事になります。ではここからさらに南に下ってみます。

南に下った先に見える山、布陣図からしてあの山に島津義久と義弘は陣を敷いていたと思われます(写真②)。ならばここで振り返って先程の宮部の陣を下から見上げてみました(写真④)。普通に見れば、一見ただの段々畑のように見えます。でも私にはなぜかここが宮部が人工的にこのように削り柵を立てて待ち構えていた場所ではないかと思いました。つまり、まさにここで激戦が行われたのではないかと直感しました!(詳しい資料が何もないのであくまで全て私の推測です)。

先ほどの案内板にこんな記述がありました。柵は高さ1.8m深さ1.8m。かなり高くそしてかなり深い柵です。そしてその前には深さ幅5.5mの堀と土塁で固めていたようです(写真③)。その時の様子を想像し写真④を元にちょっとまた遊び心で想像図を作ってみました。ここはこんな雰囲気だったのではないでしょうか?(イラスト写真⑤:下手ですいません😩)

島津軍は全軍で得意の夜襲を決行します。鉄砲を撃ちかけ、敵がひるんだ隙に柵を越えようとします。しかし堀や土塁がじゃまをしかつ柵が高いのでなかなか登れません。ならばロープをひっかけ柵を倒そうとします。しかしなかなか倒れません。それもそのはず1.8mも地中に埋まっているからです。そうしているうちに逆に宮部の鉄砲隊に狙われバタバタと倒れていきました。がそのうち弾薬が尽きるであろうと突撃を繰り返します。しかし尽きるどころか宮部軍は撃ち続けます。島津軍はここまでを想定しておらず被害がだんだんと大きくなっていきました。それでも死を恐れぬ島津軍はさらに執拗に攻撃を繰り返します。義弘もついに先陣に立って陣頭指揮を取り、果敢に攻め込んで行きました。するとついに徐々に柵を越えられ、土塁や堀も突破され、もはや宮部軍も夜半には持ちこたえる事ができなくなりました。

その時、軍鑑の尾藤智宣は秀長に、夜戦はやはり不利、宮部は見捨て夜が明けて全軍で総攻撃を行う事を進言します。秀長は納得しますが、それに反対したのが藤堂高虎・戸川通達です。彼らは尾藤の反対を押し切り助けに行きました(このまま継潤を見捨てる事はできぬ!)。そして黒田官兵衛・小早川隆景らもこれに続きました。そして彼ら援軍の鉄砲が怒涛のように火を噴き、島津軍は夜明けまでに大勢の犠牲を出し、ついに坂を越えられず致命的な大敗北を喫してしまいました。

島津軍は、鉄砲戦術や夜襲では自分たちの方が当然に上であろう、豊臣軍は寄せ集めの集団にすぎないと豊後での戸次川の勝利からあなどっていたのかもしれません。ゆえに宮部軍ごときは簡単に突破できるであろうとの油断、また想定を上回る豊臣軍の大量の鉄砲の数と弾薬の量、そして完璧なまでに深くて高い柵と堅牢な陣。夜襲でここを簡単に突破した後、夜明けとともに秀長本陣まで攻めては高城川まで引いて秀長を河原へ誘い出し、大友軍の時と同じように、そこで釣り野伏せを仕掛ければ敵は大軍といえども勝てるという作戦だったのかもしれません。しかし豊臣軍のすべてが島津軍の想定をはるかに上回っていたようです。

そして私は背後にあった島津の陣や帰りに再び坂の途中から高城を眺め考えてみました。初めて経験した大敗北に、義弘はどんな思いでここから撤退して行ったのでしょうか・・・(有信すまぬ! 豊臣軍恐るべし!)


【余談】山田有信と有栄(父子)
高城を最後まで守り抜いた山田有信ですが、島津本隊が敗北して撤退し、そして義久が泰平寺にて降伏したため、自らも子の有栄(ありなが)を人質に差し出し降伏します。しかし、結局この二人も秀吉は許しました。その後父の有信は義久の家老として、生涯義久を支えます。そして有栄は、義弘とともに朝鮮へ出兵して活躍し、関ケ原では、何と島津の退け口で最後まで義弘を守り抜き、無事薩摩まで帰還させるという大仕事をやってのけたのでした!

次は、義弘朝鮮出兵時の居城(松尾城)に向かいます。
 

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トク

79【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (根白坂(1/2) 島津VS豊臣:決戦の地) (2023/11/05 訪問)

高城から念願の根白坂まで歩きます(いざ出陣!)。

高城川(現:小丸川)を渡り坂の入口に着きました。このあたりが高城川合戦の地で、島津の釣り野伏せにあった大友軍の将兵が多く討死した場所です。その供養でしょうか? 無名の塚や神社がありました(写真①②③)。

ここから坂を登ります。意外とトラックが突然来るので、注意して登ります。坂というよりここははっきり言って山ですね。標高差は麓から200m以上はありそうです(写真④)。傾斜も急で結構きついです。当時は今のような舗装された道などないので、昔の人は獣道や崖を鎧を着て槍や鉄砲をかついだまま、よくまあ登ったものだと感心します。

途中で急に開けた場所がありました。ここからさっきまでいた高城が見えました(写真⑤)。わかりにくいと思うので拡大した望遠写真です(写真⑥)。畝状竪堀や温泉館や秀長陣跡も見えました。左には小早川隆景の陣もあり、写真には映っていませんが右側手前には黒田官兵衛や藤堂高虎の陣もありました。総勢8万の軍勢が高城を取り囲んでいる姿は、いったいどんな光景だったのでしょうか? そして義弘には、助けに行こうとしている山田有信が守るあの高城がここから見えたのでしょうか?

そしていよいよ根白坂の頂上へ着きました。ここまで高城から2時間もかかりました(ああ汗が止まらない、登り坂はきつくだんだんと足にくる)。ここには根白坂に関する看板が立っていました(フムフム・・なるほど🤔)。なぜ島津は豊臣に敗れてしまったのでしょうか? ここでヒントが少し見えてきました(写真⑦⑧)。

実際に合戦が行われたのは、ここから反対側の南へ下った場所です。では今から、その理由を探りに、今度は南へ下ります。( (2/2)へ続く)
 

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トク

78【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (高城・温泉・勝負めし) (2023/11/05 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑨です。
高城にやってきました。高城へは2度目の訪問です。

JR日豊本線「高鍋駅」から木城温泉館行のバスに乗り30分、終点「木城温泉館湯らら」で下車すると目の前の小高い山が高城です。徒歩10分程の軽い登りで本丸に着きます。バスは1日4本くらいしかありませんので御注意を!(写真⑦)。

現在の本丸には物見櫓を模した時計台があります。ここからは高城川の合戦場から遠く根白坂まで一望できます(写真①②③)。畝状竪堀もよく残っており、前回来た時は草木がかなり生えていましたが、今回はよく刈られていてじっくり観察できました(写真④)。麓にはちょうど満開のコスモスが咲いていてとてもきれいでした。温泉館をはさんで反対側すぐ横には豊臣秀長が本陣を敷いたという山もありました(写真⑤⑥)。

ここでは過去大きな戦が2度ありました。2度とも島津家臣の山田有信がわずか1500程の兵で守るこの高城を救援しに来た(総大将)島津義久が自ら率いる島津本隊と戦って雌雄を決するといった内容です(2度とも守りきった有信は木城町のヒーローのようです🤔写真⑧)。

1度目の相手は大友軍でした。なぜ島津は大友に勝つ事ができたのか? この詳細は前回訪問時の私の投稿をよければ御覧下さい(上の「高城」をクリックして検索して下さい)。

2度目の相手は豊臣軍でした。大友宗麟の要請により九州征伐で南下した豊臣秀長率いる8万の軍勢がこの高城を取り囲みます。そして島津軍本隊が南から来るであろう事を予測し、根白坂に秀長の命で宮部継潤らが陣を築き迎え撃つ準備をします。そして島津義久・義弘率いる本隊2万が予想どうり来襲! そして根白坂で島津軍は全軍をもって夜襲を決行するも陣を突破できず、無残にも致命的な大敗北を喫してしまいました。

なぜ島津は敗れたのか? これからはるか向こうに見える根白坂(写真③)の合戦場まで歩き、その理由を探ってみようと思います(ちょっと遠いなー🤔? けどがんばって歩いてきま~す)。


【余談】木城温泉館と勝負めし
根白坂までは写真で見た感じより実際はかなり遠く、登り坂も急勾配で、合戦場はさらに坂の向こう側なので、高城から合戦場までは片道2時間もかかり、探索時間も合わせたら合計結局5時間も歩いてしまいました。この日は11月なのに気温は28度と夏日、汗だらだらでタオルや服は汗でびっしょり、戻ると足はパンパンに腫れあがってもう痛くて痛くてしょうがない😩。そして次のバスまではまだ2時間もあり、見ると入浴料600円と書いてあったので、それまで温泉に入る事にしました。いや~ジャグジや広い露天風呂もあり、ここはとてもきれいで気持ちのいい温泉でした。おかげで疲れや痛みもとれました(極楽😊極楽!)。風呂から上がると急にお腹が空いたので中のお食事処へ。2度も落ちなかった城にあやかり、勝負めし「試験にカツ丼」なるものがあったので食べてみました(写真⑨)。うわ~😲これめちゃ美味しかったです(ビールもうまい、あー生き返った~)。店のおばちゃんが「がんばってね💛」とおまけの金の五角(合格)鉛筆をくれました(写真⑩)何にがんばればいいんだろう・・・🤔?。

ここは「高城と温泉と勝負めし」のセットがオススメです!
 

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しんちゃん

二度にわたる大軍による包囲にも持ちこたえた城。 (2023/01/08 訪問)

天正6年(1578)、大友宗麟が6万の兵で山田有信の守る高城を包囲しました。
有信はわずかな手勢で大友軍を足止めし、その後の高城川の戦いでの島津軍の
勝利に貢献しました。
この時の城兵の数ですが、wikiでも高城の項目と山田有信の項目では
1500~3000と開きがありますが、いずれにしろ大友の大軍を引き留めた
功績は大きいでしょう。
高城は尾根上に空堀が6つ設けられていて、中でも第一の空堀は
そのまま主郭の下に通じる通路となっています。
主郭はなかなか広く南側に櫓を模した展望台があり
かつて戦場となった高城川を望めます。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 新納時久
築城年 建武2年(1335)
主な城主 新納氏、富山氏、土持氏、野村蔵人佐(伊東氏家臣)、山田有信(島津氏家臣)
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀、井戸
再建造物 模擬櫓、石碑、説明板
住所 宮崎県児湯郡木城町高城
問い合わせ先 木城町役場教育課
問い合わせ先電話番号 0983-32-4731