根白坂の続き(2/2)です。なぜ島津は豊臣に敗れてしまったのでしょうか?
その理由を探しに、根白坂の頂上から今度は南へ下ります。
飫肥城に残っていたというわずかな資料である布陣図と照らし合わせながら歩きました。すると🤔? このあたりが宮部継潤が陣を敷いていた場所ではないかと思いました(写真①)。これはあくまで私の直感による推測です。人工的に造られたと思われる段々に削られた場所、そこに転がる石(石垣の跡か?)。黒田官兵衛の指南を受け、かなり強固な陣を作っていたようです。ならば島津軍はこの下(南)から攻めた事になります。ではここからさらに南に下ってみます。
南に下った先に見える山、布陣図からしてあの山に島津義久と義弘は陣を敷いていたと思われます(写真②)。ならばここで振り返って先程の宮部の陣を下から見上げてみました(写真④)。普通に見れば、一見ただの段々畑のように見えます。でも私にはなぜかここが宮部が人工的にこのように削り柵を立てて待ち構えていた場所ではないかと思いました。つまり、まさにここで激戦が行われたのではないかと直感しました!(詳しい資料が何もないのであくまで全て私の推測です)。
先ほどの案内板にこんな記述がありました。柵は高さ1.8m深さ1.8m。かなり高くそしてかなり深い柵です。そしてその前には深さ幅5.5mの堀と土塁で固めていたようです(写真③)。その時の様子を想像し写真④を元にちょっとまた遊び心で想像図を作ってみました。ここはこんな雰囲気だったのではないでしょうか?(イラスト写真⑤:下手ですいません😩)
島津軍は全軍で得意の夜襲を決行します。鉄砲を撃ちかけ、敵がひるんだ隙に柵を越えようとします。しかし堀や土塁がじゃまをしかつ柵が高いのでなかなか登れません。ならばロープをひっかけ柵を倒そうとします。しかしなかなか倒れません。それもそのはず1.8mも地中に埋まっているからです。そうしているうちに逆に宮部の鉄砲隊に狙われバタバタと倒れていきました。がそのうち弾薬が尽きるであろうと突撃を繰り返します。しかし尽きるどころか宮部軍は撃ち続けます。島津軍はここまでを想定しておらず被害がだんだんと大きくなっていきました。それでも死を恐れぬ島津軍はさらに執拗に攻撃を繰り返します。義弘もついに先陣に立って陣頭指揮を取り、果敢に攻め込んで行きました。するとついに徐々に柵を越えられ、土塁や堀も突破され、もはや宮部軍も夜半には持ちこたえる事ができなくなりました。
その時、軍鑑の尾藤智宣は秀長に、夜戦はやはり不利、宮部は見捨て夜が明けて全軍で総攻撃を行う事を進言します。秀長は納得しますが、それに反対したのが藤堂高虎・戸川通達です。彼らは尾藤の反対を押し切り助けに行きました(このまま継潤を見捨てる事はできぬ!)。そして黒田官兵衛・小早川隆景らもこれに続きました。そして彼ら援軍の鉄砲が怒涛のように火を噴き、島津軍は夜明けまでに大勢の犠牲を出し、ついに坂を越えられず致命的な大敗北を喫してしまいました。
島津軍は、鉄砲戦術や夜襲では自分たちの方が当然に上であろう、豊臣軍は寄せ集めの集団にすぎないと豊後での戸次川の勝利からあなどっていたのかもしれません。ゆえに宮部軍ごときは簡単に突破できるであろうとの油断、また想定を上回る豊臣軍の大量の鉄砲の数と弾薬の量、そして完璧なまでに深くて高い柵と堅牢な陣。夜襲でここを簡単に突破した後、夜明けとともに秀長本陣まで攻めては高城川まで引いて秀長を河原へ誘い出し、大友軍の時と同じように、そこで釣り野伏せを仕掛ければ敵は大軍といえども勝てるという作戦だったのかもしれません。しかし豊臣軍のすべてが島津軍の想定をはるかに上回っていたようです。
そして私は背後にあった島津の陣や帰りに再び坂の途中から高城を眺め考えてみました。初めて経験した大敗北に、義弘はどんな思いでここから撤退して行ったのでしょうか・・・(有信すまぬ! 豊臣軍恐るべし!)
【余談】山田有信と有栄(父子)
高城を最後まで守り抜いた山田有信ですが、島津本隊が敗北して撤退し、そして義久が泰平寺にて降伏したため、自らも子の有栄(ありなが)を人質に差し出し降伏します。しかし、結局この二人も秀吉は許しました。その後父の有信は義久の家老として、生涯義久を支えます。そして有栄は、義弘とともに朝鮮へ出兵して活躍し、関ケ原では、何と島津の退け口で最後まで義弘を守り抜き、無事薩摩まで帰還させるという大仕事をやってのけたのでした!
次は、義弘朝鮮出兵時の居城(松尾城)に向かいます。
+ 続きを読む