たかじょう

高城

宮崎県児湯郡

別名 : 新納院高城、高城城
旧国名 : 日向

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①	温泉館バス停から見た松山(左の山)
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トク

豊臣秀長 最後の陣所(松山之陣と根白坂の戦い) (2026/01/24 訪問)

私が高城を訪れたのは今回で3度目ですが、今回の目的は高城ではなく、直線距離で東に1kmの所にある、豊臣秀長が最後に陣を敷いたとされる「松山(松山之陣跡)」です。

また高鍋駅から木城行のバスに乗り30分、終点「木城温泉館湯らら」で下車すると目の前に松山が見えました(写真①の左の山)。標高は100mくらいです。な~んだ楽勝じゃないか😊と思いきや・・・?

この一帯は大きな戦いが2度あった場所である事は、みなさん御存知と思います。2度とも高城に籠る薩摩の山田有信を攻めた戦いです。1度目は1578年に大友軍が攻め、救援に来た島津全軍と決戦した「高城川の戦い(耳川の戦い)」です。大友軍はこの松山に陣を敷きますが、眼下の高城川にて致命的な大敗を喫してしまいます。

2度目は1587年、九州征伐で東ルートを任された豊臣秀長が15万の大軍で出陣し、この松山に陣を敷き高城に籠る山田有信を攻めます。そして有信を救援に来た島津全軍と対決した「根白坂の戦い」です。ここで島津軍は致命的な大敗を喫し、島津義久は豊臣秀吉に泰平寺にて降伏します。

目の前なのに、どうやらこの温泉館から直接登れる道は無く、山の東側からぐるりと8の字に遠回りして登り、絶景橋を渡れば上まで行けるようです(図④)。結局遠回りして歩き続け1時間もかかってしまいました(往復2時間)。車の方は宗麟原に駐車場があります。TVを見ると各地寒波による大雪で大変な映像が流れていましたが、ここ宮崎県は別世界。快晴で気温12度、川には菜の花が咲き、頂上に着く頃には汗が流れ出し、本当に今は1月なのかと疑いたくなる程の暖かさでした(写真②③)。雪国の方にはすいません。

そして橋を渡って宗麟原入口に着くと説明板がありました(写真⑦⑧)。そこから左側の松山へ入ります(写真⑨)。入った先は竹藪だらけで全く整備されておらず眺望もなく、藪をかき分けて行ける所まで進みました。するとちょうど切堀の跡を見つける事ができました(写真⑩)。写真⑧の図の南北の曲輪と曲輪を遮断している切堀と思われます。しかしそこから先は藪がひどくて前へ進めず、結局ここで断念してしまいました。もう少し整備してほしいものです。

それから絶景橋へ戻り、全体を見渡して見ました(写真⑥)。実際の決戦は、ここから遠くに見える「根白坂」で行われました。秀長はどんな思いで、この松山之陣から根白坂の戦況を見つめていたのでしょうか?

私は前回、がんばって高城から往復5時間かけてあそこに見える根白坂まで歩き、そして「なぜ島津は豊臣に敗れたのか?」を追いました。その時の様子は(お城を探す→高城)から検索して、(関ケ原の26人)の78・79・80話で詳しくレポートしていますので、もし興味のある方はそちらを読み返していただければと思います。

根白坂の戦いで勝利し大和郡山城へ戻った秀長は、その後に病で倒れます。それゆえ小田原征伐には参陣できませんでした。そして3年後、そのまま大和郡山城にて生涯を閉じてしまいます。

つまりこの場所は、豊臣秀長が最後に出陣し戦をした場所だという事になります。大河ドラマ『豊臣兄弟』では、この根白坂の戦いがどのように描かれるのか?🤔 そして終盤のクライマックスとなるのか?(😱~)。私は今から密かに楽しみにしています!😊
 

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たか

凄い竪堀 (2025/12/08 訪問)

とにかくチャンスがあれば行ってほしい。
竪堀の深さや本丸跡のメロディ時計台。
丁度メロディが流れていて素敵でした。
手前ではベンチでランチをされてる方もいてほのぼのしました。

山田有信が大友の5万の兵、豊臣秀長の15万の兵を凌いだという。
7つの見事な竪堀を是非とも!

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HKISD

高城散策 (2025/07/18 訪問)

城に登っての見晴らしが良かったです。

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トク

80【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (根白坂(2/2) なぜ島津は豊臣に敗れたのか?) (2023/11/05 訪問)

根白坂の続き(2/2)です。なぜ島津は豊臣に敗れてしまったのでしょうか?
その理由を探しに、根白坂の頂上から今度は南へ下ります。

飫肥城に残っていたというわずかな資料である布陣図と照らし合わせながら歩きました。すると🤔? このあたりが宮部継潤が陣を敷いていた場所ではないかと思いました(写真①)。これはあくまで私の直感による推測です。人工的に造られたと思われる段々に削られた場所、そこに転がる石(石垣の跡か?)。黒田官兵衛の指南を受け、かなり強固な陣を作っていたようです。ならば島津軍はこの下(南)から攻めた事になります。ではここからさらに南に下ってみます。

南に下った先に見える山、布陣図からしてあの山に島津義久と義弘は陣を敷いていたと思われます(写真②)。ならばここで振り返って先程の宮部の陣を下から見上げてみました(写真④)。普通に見れば、一見ただの段々畑のように見えます。でも私にはなぜかここが宮部が人工的にこのように削り柵を立てて待ち構えていた場所ではないかと思いました。つまり、まさにここで激戦が行われたのではないかと直感しました!(詳しい資料が何もないのであくまで全て私の推測です)。

先ほどの案内板にこんな記述がありました。柵は高さ1.8m深さ1.8m。かなり高くそしてかなり深い柵です。そしてその前には深さ幅5.5mの堀と土塁で固めていたようです(写真③)。その時の様子を想像し写真④を元にちょっとまた遊び心で想像図を作ってみました。ここはこんな雰囲気だったのではないでしょうか?(イラスト写真⑤:下手ですいません😩)

島津軍は全軍で得意の夜襲を決行します。鉄砲を撃ちかけ、敵がひるんだ隙に柵を越えようとします。しかし堀や土塁がじゃまをしかつ柵が高いのでなかなか登れません。ならばロープをひっかけ柵を倒そうとします。しかしなかなか倒れません。それもそのはず1.8mも地中に埋まっているからです。そうしているうちに逆に宮部の鉄砲隊に狙われバタバタと倒れていきました。がそのうち弾薬が尽きるであろうと突撃を繰り返します。しかし尽きるどころか宮部軍は撃ち続けます。島津軍はここまでを想定しておらず被害がだんだんと大きくなっていきました。それでも死を恐れぬ島津軍はさらに執拗に攻撃を繰り返します。義弘もついに先陣に立って陣頭指揮を取り、果敢に攻め込んで行きました。するとついに徐々に柵を越えられ、土塁や堀も突破され、もはや宮部軍も夜半には持ちこたえる事ができなくなりました。

その時、軍鑑の尾藤智宣は秀長に、夜戦はやはり不利、宮部は見捨て夜が明けて全軍で総攻撃を行う事を進言します。秀長は納得しますが、それに反対したのが藤堂高虎・戸川通達です。彼らは尾藤の反対を押し切り助けに行きました(このまま継潤を見捨てる事はできぬ!)。そして黒田官兵衛・小早川隆景らもこれに続きました。そして彼ら援軍の鉄砲が怒涛のように火を噴き、島津軍は夜明けまでに大勢の犠牲を出し、ついに坂を越えられず致命的な大敗北を喫してしまいました。

島津軍は、鉄砲戦術や夜襲では自分たちの方が当然に上であろう、豊臣軍は寄せ集めの集団にすぎないと豊後での戸次川の勝利からあなどっていたのかもしれません。ゆえに宮部軍ごときは簡単に突破できるであろうとの油断、また想定を上回る豊臣軍の大量の鉄砲の数と弾薬の量、そして完璧なまでに深くて高い柵と堅牢な陣。夜襲でここを簡単に突破した後、夜明けとともに秀長本陣まで攻めては高城川まで引いて秀長を河原へ誘い出し、大友軍の時と同じように、そこで釣り野伏せを仕掛ければ敵は大軍といえども勝てるという作戦だったのかもしれません。しかし豊臣軍のすべてが島津軍の想定をはるかに上回っていたようです。

そして私は背後にあった島津の陣や帰りに再び坂の途中から高城を眺め考えてみました。初めて経験した大敗北に、義弘はどんな思いでここから撤退して行ったのでしょうか・・・(有信すまぬ! 豊臣軍恐るべし!)


【余談】山田有信と有栄(父子)
高城を最後まで守り抜いた山田有信ですが、島津本隊が敗北して撤退し、そして義久が泰平寺にて降伏したため、自らも子の有栄(ありなが)を人質に差し出し降伏します。しかし、結局この二人も秀吉は許しました。その後父の有信は義久の家老として、生涯義久を支えます。そして有栄は、義弘とともに朝鮮へ出兵して活躍し、関ケ原では、何と島津の退け口で最後まで義弘を守り抜き、無事薩摩まで帰還させるという大仕事をやってのけたのでした!

次は、義弘朝鮮出兵時の居城(松尾城)に向かいます。
 

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 新納時久
築城年 建武2年(1335)
主な城主 新納氏、富山氏、土持氏、野村蔵人佐(伊東氏家臣)、山田有信(島津氏家臣)
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀、井戸
再建造物 模擬櫓、石碑、説明板
住所 宮崎県児湯郡木城町高城
問い合わせ先 木城町役場教育課
問い合わせ先電話番号 0983-32-4731