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関ケ原周辺散歩(陣跡等めぐり) (2023/10/28 訪問)

 南宮山へ行った帰りに各武将の陣跡などを散歩しました。笹尾山方面は行ったことがあるので南側の陣跡などを適当に散歩しました。

吉川広家陣跡 
 南宮山の登城口である南宮大社から徒歩約5分の所にありました。南宮山の麓で毛利勢を戦に参加しないように陣を張ったことがわかります。

池田輝政陣跡
 吉川広家の陣地跡から北へ向かって歩いていると南宮山の毛利勢を抑えるように布陣した池田輝政の陣地跡があります。
同じ場所に室町時代に足利義教の命により殺された足利持氏の遺児春王、安王の墓があります。

藤堂高虎京極高知陣跡
  関ケ原中学校の敷地内にありますが、行きやすいようになっています。

福島正則陣跡
 藤堂高虎京極高知陣跡から西に徒歩約5分、不破関近くにあります。

西首塚
 関ケ原の戦いで戦死した人たちを竹中重門が徳川家康の命で葬ったとされる場所です。
JR関ケ原駅より西へ徒歩10分くらいで行くことができます。ちなみに東首塚は駅のすぐ近くにあります。

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じゅんじん

龍潭寺 (2023/10/07 訪問)

井伊家の菩提寺です。お庭が有名。大河の主人公だった直虎のお墓もあります。

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南宮山(関ケ原周辺散歩) (2023/10/28 訪問)

 関ケ原古戦場は笹尾山周辺や松尾山は行ったことがありましたが、南宮山は行ったことがなくいつか行ってみたいと思っていました。何となく思い立って行ってきました。城びとには未登録の陣城です。
南宮大社の裏からハイキングコースとなっていて南宮山に行くことができます。安国寺恵瓊陣跡から東コースと西コースに分かれますが、東コースを選択しました。比較的歩きやすい山道で多くの方がハイキングを楽しんでみえました。ハイキングコースは毛利秀元陣跡が最終地点となっています。陣城となっていて手前には堀切、土橋、竪堀、土塁を見ることができます。それなりに陣城として楽しめました。実際の南宮山の頂上はもう少し先ですが、「注意 これより先はハイキングコースではありません。立入をご遠慮下さい。垂井町」と書かれた看板が立っていました。看板近くから先を除いてみると削平が続いていて、縄張り図からも、もう少し陣城があることがわかります。堀切などがあるようです。眺望はすばらしく、この日は靄がかかっていてよくわかりませんでしたが、名古屋城から犬山城まで見られるようです。反対方向には関ケ原古戦場が見えるはずですが樹木で全く見えません。

 それにしても安国寺恵瓊陣跡から展望台(毛利秀元陣跡)まで1時間の標識があります。実際に1時間近くかかりました。こんな所に陣を構えて戦に参加する気は最初からなかったのではないかと思える所です(実際に参加していませんが)。景色のいいところで弁当(あるいは空弁当)を食べるためだけに登ってきたのではないのかと思いたくなります。今回は行っていませんが、長束正家や長曾我部盛親の陣地跡は主戦場から見て南宮山の裏側にあります。実際の思惑はわかりませんが、戦に参加する気が最初からなかったのではないかと思ってしまいます。現地に来てみるといろいろと考えますね。

JR垂井駅から徒歩で登城口の南宮大社まで約15分です。

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じゅんじん

井伊家 (2023/10/07 訪問)

引佐は井伊の故郷です。

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じゅんじん

道の駅上 (2023/09/30 訪問)

道の駅から歩いて行けます。かなり整備がされています。

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ヒロケン

高い土塁・広い堀 (2023/10/07 訪問)

高田城は高田平野の中央よりやや西に寄った地に築かれ、本丸の周囲を二の丸・北の丸に囲まれ南側に三の丸を配した輪郭式平城で、上杉景勝公・前田利常公・伊達政宗公ら13の大名によって、天下普請で築かれました。竣工からわずか4か月で完成させたといわれています。(所説あるそうですが)この城の特徴として、近世城郭でありながら、天守は建てられず、石垣も使われておりません。

城主は、徳川家康公の六男、松平忠輝公で越後福島60万石・信濃川中島12万石合わせて72万石の大大名です。

この城の見所は、何と言っても高い土塁と広い堀です(*^▽^*)土塁の高さは10m程で、総長は1kmにも及び、横矢掛りなどが見られます。
堀は外堀の広い所で100m程もあり、内堀の幅も40m~50m程もあります(*^▽^*)。また、絵図や古文書、発掘調査などで再建された三重櫓、木造で復元された極楽橋などがあります。

現在の高田城は、高田公園として二の丸・三の丸周辺は、陸上競技場やテニスコートのどの施設となっており、周辺には駐車場・公衆トイレが完備され困ることはありません。また、外堀には蓮の花・公園内には桜の木は植樹され、四季折々の花々が咲き誇るそうです。
続・100名城のスタンプは、上越市立歴史博物館と三重櫓前休憩所の建物内にあります。

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三浦の晃ちゃん

有馬氏一万石 (2023/10/29 訪問)

今は、五井駅になっています。周りを少し歩いたのですが、遺構や案内板は、見つかりませんでした。主としては、暴れん坊将軍の御側御用取次だった、有馬氏倫が有名ですね。ドラマでは、すまけいさんや名古屋章さんが演じていたようです。

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しんちゃん

キリシタン大名の城。石垣や階段遺構が見所。 (2020/01/02 訪問)

日野江城は標高60mの丘陵上に築かれていて、本丸を中心に東に二の丸、南西方向に
三の丸が広がり、北西方向にも郭が広がっており、かなりの城域を持っている城です。
本丸の周辺や二の丸の下段に石垣が残され、特に二の丸の下段の郭のあたりからは
階段遺構と呼ばれる東側の大手口からつながる直線的な階段が発掘されています。
いまは埋め戻されているようですが雰囲気は感じとることができます。
城主有馬義直は先にキリシタンとなった弟の大村純忠の勧めで晩年に洗礼を受けて
キリシタンになっています。あとを継いだ晴信も洗礼を受け、大友宗麟や
大村純忠とともに少年使節をローマへ派遣したとあり、キリスト教とかかわりの
深かった土地柄のようです。

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シェル

偕楽園公園の一角にあるお城 (2023/09/25 訪問)

水戸駅北口からバスに乗車し、千波山のバス停で下車。
バス停から好文橋通りを西に10分ほど進むと、見川城跡が見えてきます。(好文橋通り沿いに駐車場とトイレがあります。)
見川城周辺も偕楽園事務所の看板があるため、偕楽園公園の一部になっているようです。
好文橋を渡り、左側に見川城跡の碑があります。
城跡の碑に見川城の説明が記されています。
城跡の碑から近くの遊歩道を途中まで進むと、遊歩道から土塁と思われるものを遠望できました。
遊歩道を出て、南に進むと荒人神社があります。
神社境内から、城跡の方を見ると、かなり藪っていましたが、土塁と空堀が肉眼では確認できました。

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しんちゃん

大手に配された複雑な構造の石垣が敵の勢いをそぐ。 (2020/10/02 訪問)

玖島城は近世大村氏の居城で慶長3年に築かれ、幕末まで大村氏の居城であったとされて
います。現在は石の門をくぐって大手から本丸に向かいますが、石垣や塀が複雑に
配置され、折れ曲がりの箇所が多く枡形のような役割を成しているようです。南の
台所門や西の虎口門も侵入角度に対し門が直角に配置されるなどの(くふう)がしてある
ようです。本丸は大森神社になっていて、西の二の丸には堀が残ります。大手外側の
南掘沿いの高石垣の西側に板敷櫓があり、玖島城のシンボル的な存在になっている
ようです。
※以前このサイトで(ひじかた)と書いたら不適切な内容としてエラーが出ました。
今回は(くふう)と書いてもエラーが出ます。どうにかしてくださいよ‥。

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小城小次郎

今川の幟に涙する (2023/04/01 訪問)

永禄13年、武田信玄の駿河侵攻時に最後まで抵抗したのが徳之一色城(田中城)とこの花沢城。武田・徳川が深い爪痕を残す駿河にあって今川の香りを残す数少ないお城に本当に今川の幟が立っていたのはちょっと感動した(泣いた)。

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トク

75【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (道の駅えびのと加久藤城?) (2023/10/16 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑥です。
以前お伝えした、九州新幹線「新八代駅」から宮崎駅行の高速バスB&S号に乗り、人吉ICの次の「えびのIC」で下車しました。そこから5分程歩くと「道の駅えびの」があります。何とここにもありました😯~義弘様の銅像が!(写真①②)。

この写真①の銅像の背後右の山の中腹に小さく見えるのが有名な加久藤ループ橋です。高速バスもあの山を越えループ橋とトンネルを通ってここへ着きます。つまりあの山の向こう側が熊本県の人吉です。

そして写真③の銅像の背後の低い山に加久藤城(かくとうじょう)があります。ここ道の駅から小林駅行のバスに乗り10分、えびの文化センター前で下車しました。このあたりに加久藤城があるはずですが・・・?

バスを降りると、あれ?何か立派な城がある! でも加久藤城は山城だったはず🤔?? と思いながら見学していたら、何とここは建築会社の事務所でした(だまされた~😩加久藤城の前にまぎらわしい物を作るなー!)。結局、加久藤城はこの向こう200mくらい奥にあり、今から行っていたら次のバスに間に合わなくなりそうなので登城は断念しました(すいません)。皆さんもくれぐれもだまされないよう御注意を!(写真⑥)

義弘は、加久藤城を飯野城の出城とし、正室の広瀬夫人を住まわせていたようです。とはいえ義弘は側室を持たなかったので、なぜ別居していたのか?(そこまではよくわかりません🤔・・・)。でもこんなことをすると外敵から狙われるのではないか? と思っていたら案の定、日向の伊東氏は飯野城をスルーしてここ加久藤城を攻めたようです。その加久藤城を助けるべく義弘は出陣します。そして中間の木崎原で両者は激突、あの有名な義弘の名を天下にとどろかせた「木崎原の戦い」が始まります。

次は、気をとりなおし飯野城と木崎原古戦場を目指します。
 

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しんちゃん

めがね橋  長崎県諫早市高城町 (2020/01/02 訪問)

めがね橋は諌早公園の中の池にかけられています。石橋としては日本で初めて重要文化財
に指定されました。天保10年(1839)佐賀藩重臣の諌早家により本明川にかけられまし
たが、1957年の諌早大水害でめがね橋がせき止めた流木やがれきが水の流れを変え、
被害が拡大したという指摘がでて、様々な過程を経て、諌早公園に移設されたとの
ことです。

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POYO58

予定変更で (2023/10/22 訪問)

ほんとはこの日伊賀上野城に友達と行く予定だったのですが、伊賀上野〜柘植間が落石で運転見回せになってしまい引き返すこととなってしまいました。
亀山から関西本線で柘植に取り残されてしまったのでとりあえず福地城という松尾芭蕉の誕生日だけ行って、そのまま津に向かいました。
津城は2度目の攻城です。
やっぱり石垣と幅の広い水堀がなんとも美しかったです。
津城は枡形虎口や埋門も残っていて、当時の堅固さも伝えてくれています。
また再建された櫓はとても大きく、石垣の上に建っています。中には入れません。
それから三浦の晃ちゃんさんにも会いました。ご挨拶はできませんでしたが、これからもよろしくお願いします。

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しんちゃん

隅櫓跡と搦手門跡、三の丸周辺に石垣が良く残っている。 (2020/01/04 訪問)

角牟礼城には天正15年(1587)島津の軍6000人の攻撃を防いだというエピソードが
あります。島津の軍は三の丸まで押し寄せたが宿利外記という弓の名手がよく
防ぎ、島津征伐の秀吉軍が来たので引き上げたそうです。林道が三の丸付近まで
続いていて、三の丸が駐車場になっています。三の丸周辺と搦手門跡の周辺に石垣が
良く残っています。そのまま西北側に二の丸があり、その北側に枡形を備えた大手が
付いているようです。道は湾曲して本丸まで続きますが、気づかずに壁面を直登して
登って行ってしまいました。続百名城に登録された城で登城道の無い城はほぼ無い
はずなのですが悪いクセが出たようです。本丸北側には隅櫓跡があり、一部は崩れて
しまっていますが石垣が良く残っています。

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ぴーかる

黒崎城 (2023/09/09 訪問)

【黒崎城】
<駐車場他>黒崎城跡駐車場10台分ほどあり。
<交通手段>車

<見所>石垣跡
<感想>1泊2日北九州・豊前中津の旅8城目。黒崎城は黒田六端城の1つでそれほど比高の高くない小山の道伯山頂に築かれました。城主に黒田二十四騎の1人である井上之房を1万6千石で置きます。この城も一国一城令により廃城となります。
 現在は公園化されており三の丸跡が駐車場になっています。駐車場から南に二の丸跡、広い本丸跡があります。二の丸北側の曲輪壁、舗装道路側に多く石垣跡が見られます。主郭南西側、大きい城跡碑がある裏側に土塁、曲輪壁にも石垣跡が見られます。当時は全面石垣で取り巻いていたと思われますがかなり崩落しています。豊前小倉藩の細川氏を牽制する城にしては、残る石垣跡は古風な中世の野面積みです。国境最前線の黒田六端城のわりには本丸の広さから山頂居館だったことも感じさせ、それもまた古風な印象を受けました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

門司港レトロ 福岡県北九州市門司区港町 (2019/12/31 訪問)

門司港レトロは福岡県北九州市門司区ににある観光スポットで、周囲を眺望できる
展望室があります。旧門司三井倶楽部は大正10年(1921)の建造で、1991年にこの地
に移されました。内部にはアインシュタインが宿泊した部屋を当時のまま展示して
あります。旧門司税関庁舎は明治45年(1912)の建築で現地にて修復・再建されており
今でもレンガ作りの内部を楽しめるように公開されています。寅さんシリーズで有名な
バナナの叩き売り発祥の地でもあり、門司港駅の前に石碑が建っています。

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しんちゃん

各郭の間を堀切で遮断し、北と西の尾根上に長大な堀と土塁を備えている。 (2023/10/22 訪問)

室原城は永禄8年(1565)に可児六郎左衛門秀行によって築城されたと現地にある
石板に記載があります。登城ルートは少しわかりづらいですが、西側の尾根から登る
ルートが手堅いでしょう。北側の尾根からも登れますが、山岳用のGPSや国土地理院
のアプリなどがないと解りづらいと思います。登城道のしっかりしてない城で案内も
無いので、何らかの備えは必要だと思います。西側の尾根から登る場合は登城口の
近くの沼のわき道をすぐに左折せず、そのまま直進し尾根側にとりつくように回り
込んでいきます。西尾根ルートは尾根がそのまま登城道のようになっているので
比較的わかりやすいです。両側が土塁の高まりになっていて、その間の堀のような道
を登っていくと郭のようなエリアに入り、土橋のかかった堀切を渡ると、食い違い
虎口を経て南の郭にたどり着きます。この北側に堀切と土橋があり、その先に北の郭が
あります。北の郭の東にも一段下がって郭があり、北、東の郭の周辺が主要部なので
はないかと思います。ここで南の郭に戻ってさらに尾根を南に進むと、また土橋の
かかった堀切があってその先は尾根上に土塁が続きます。あとは北上して北の郭の
先の遺構を確認しに行くと、堀切があってその先は尾根上に土塁と堀が尾根を伝って
下方に続いています。私はこのまま下山しましたが北側の尾根は西に比べて急で
ルートは自分でアプリを見ながら確認する必要があります。主要部の遺構は少し
わかりづらいですが、各郭の間を土橋を備えた堀切で遮断し、北と西の尾根の高低差を
利用して堀と土塁でしっかりガードしているようでした。

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ぎりょう

白鳥城 山形県村山市白鳥字土海在家 (2023/10/22 訪問)

この日午後の北村山市地域史研究会による楯岡城攻城前に、近場でもう一ケ所と考え白鳥城を目指しました。ここは大永年間(1521~29)にこの地に入部した白鳥氏の城と伝わります。天正12年(1584)に最上義光に謀殺された白鳥十郎長久は名高いですね。
戸沢中学校の裏山にあたる比高60mの最高所に東西40m、南北30mほどの主曲輪をおき、その東側・南側は腰曲輪と帯曲輪、西側は堀切、北側は細長い曲輪で防御する構造です。ニノ曲輪から主曲輪までは遊歩道があります。事前の情報では西側の堀切と帯曲輪の切岸が見事との情報でしたが、時節柄草が伸びており確認が困難でしたが、主曲輪から見下ろす景色は素敵でした。
長引くコロナ禍と各地の熊出没情報で山城探訪を控えており、久々の攻城に息も絶え絶えでしたが、よい汗を流しました。
ニノ曲輪に駐車場(3台分)が設置されてはいますが、途中の道が細い坂道のためスリップで路外逸脱の危険があります。車での訪問の際は土海在家自治公民館の駐車場利用をおすすめします。

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雲海を眺めに早朝登山 (2023/10/26 訪問)

雲海シーズンには必ず登り、雲海を眺めながらサーモボトルのお湯でドリップしたコーヒーを楽しみます。
本丸からは、紅葉越しの雲海を眺め、西の丸からは眼下に広がる雲海を楽しみます。

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