福光城は福光館とも呼ばれ、「福満」という書き方もしたようです。周辺の交通の
要衝でもあり、平安末期の石黒光弘の時代に築かれたものと考えられています。
「越中古城記」には東西27間、南北16間とされているので、49m×29mほどの広さになり
当時はまだ土塁が残っていたそうです。付近に「殿館」「高土井」「馬場」などの地名が
残っているらしく、城址の一角に栖霞園が残り、案内板が建っています。おそらく
上記の広さは主要な部分で、周囲にも城域が広がっていたのでは無いでしょうか。
文明13年(1481)石黒氏は井波瑞泉寺の一向宗徒との争いで敗れ、城址は荒れ放題に
なっていたそうです。慶応年間(1865~68)前村礼蔵、波多易直らが学問奨励のため
漢学者菽園と弟の半仏を招き明治2年(1869)に郷学所を建て栖霞塾と称したそうです。
でも明治には政府が学校をあちこちに建て始めるので、時代が追い付いてきちゃってますね。
微妙なタイミングですね。
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