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しんちゃん

廃れた後は学び舎として復活。‥できたのだろうか? (2021/11/18 訪問)

福光城は福光館とも呼ばれ、「福満」という書き方もしたようです。周辺の交通の
要衝でもあり、平安末期の石黒光弘の時代に築かれたものと考えられています。
「越中古城記」には東西27間、南北16間とされているので、49m×29mほどの広さになり
当時はまだ土塁が残っていたそうです。付近に「殿館」「高土井」「馬場」などの地名が
残っているらしく、城址の一角に栖霞園が残り、案内板が建っています。おそらく
上記の広さは主要な部分で、周囲にも城域が広がっていたのでは無いでしょうか。
文明13年(1481)石黒氏は井波瑞泉寺の一向宗徒との争いで敗れ、城址は荒れ放題に
なっていたそうです。慶応年間(1865~68)前村礼蔵、波多易直らが学問奨励のため
漢学者菽園と弟の半仏を招き明治2年(1869)に郷学所を建て栖霞塾と称したそうです。
でも明治には政府が学校をあちこちに建て始めるので、時代が追い付いてきちゃってますね。
微妙なタイミングですね。

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しんちゃん

様々な勢力が使った城。立地が良いのだろう。 (2021/11/18 訪問)

富崎城は山田川の南に接する丘陵に築かれています。周囲は田原で、東側の虎口周辺に
案内板が立てられていて、そこから主郭に侵入します。主郭内には城址碑、井戸があり
内掘を経て二郭に侵入します。城の周囲は外堀で覆われています。案内板を見ると
主郭と二郭の間に小さな郭があり馬出しの役目をしているようです。もともとは
越中の有力武将、神保氏の支城だったらしいのですが、神保長職の時代に上杉謙信に
攻められ、下ったとも討死したともあります。元亀2年(1571)には長職の旧臣水越氏が
一向一揆とともに籠ったため、9月に謙信に攻められ城は焼き払われたと有ります。
その後もさまざまな勢力に使われましたが、佐々の支城の時代に佐々が秀吉に降伏した
前後に廃城になったと思われます。

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しんちゃん

出てこなかった小判千両 (2021/11/18 訪問)

上見城は北側の主郭と南側の副郭の二郭が確認でき、二郭の周辺には土塁が残り、
東側の虎口から侵入し、北側の虎口から主郭に向かいます。主郭の西側あたりにも
土塁が残っているようです。上見城には天正年間(1573~1591)に篠原太左衛門が
居城したとされています。「越中古城記」によると城域は東西17間、南北40間と
有ります。換算すると東西31m、南北73mとなります。城郭大系には落城らしき
記述があり井戸に小判千両を入れた箱を沈めた言い伝えがありますが、調査では
錆びた薬研と刃物しか出てこなかったようです。今では石で塞がれていますが
調査員(?)のちょっと残念そうな顔が浮かんできますね。

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しんちゃん

井口城 +蛇喰館(オマケ) (2021/11/18 訪問)

井口城は14世紀初めに井口氏が居住したとされる城で今は田畑となり
墓地の一角に石碑が建っています。
主郭の東に二ノ郭が会ったようで周囲は大きな堀で囲まれていたようです。
東南部の堀は二重だったらしいと案内板には記載されているのですが、今では遺構は
すっかり埋まっているようです。
南側の近くに蛇喰館があったので、一緒に写真を掲載します。現状、水田ですが
台地状に張り出しており、あぜが土塁や切岸を思わせます。城郭放浪記さんに
よると一辺70m規模の方型居館と見られ、堀跡、掘立柱建物跡、井戸などが検出されたとのこと。

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しんちゃん

白川郷  (2021/11/18 訪問)

北陸遠征の前にちょっと白川郷に寄り道をしました。夜通し走ってきたので、まだ明け方くらいで、
人はほとんどいません。当然店も閉まっているので(空いてる店もありました)
ゆっくり郷内を散歩します。
早起きの地元のおじいさんと同じような状況です。
それでも十分楽しめます。であい橋を渡って郷内を散策した後は、展望所付近までいって撮影。
展望所はこの時間、閉まっていたと思います。
ライトアップなどの特別なイベントの際は人がいっぱい集まって大変だとか。
今考えると贅沢な寄り道でした。

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能登守利信

呟き (2023/09/09 訪問)

家山駅下車、徒歩20分の川根文化センターにて電動自転車をレンタル、約80分(省エネモードでもバッテリーギリギリ)。登福寺駐車場奥にある大頭龍神社が登城口。山頂が主郭で土塁、虎口、堀切(神社裏手)に確認できます

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赤い城

町のシンボル模擬天守 (2023/09/03 訪問)

公園となっていて山頂部にも駐車場がありますが、最近歩いていないことに気づき麓の駐車場から徒歩で登城しました。
少し登ると模擬の石垣が見えてきます。
その上に模擬の涼櫓も置かれています。
海側には落城時の悲話が残る姫ケ嶽の説明板があります。
草が茂っていて崖感は少ないですが眺望は良かったです。
その先に駐車場があり下側が三の丸、特に遺構もありません。
涼櫓がある二の丸から模擬門を経て本丸へ。
時間が早く中には入れませんでしたが存在感はありました。
史実には無いのですがすっかり町に溶け込んでいるようです。
本丸の石垣には一部当時のものもある、という話もありますが定かではありません。
まぁこれはこれで良いのかもしれませんね。

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ヒロケン

豊後の名城 (2023/08/15 訪問)

日出城は日出港を望む独立した低い台地上に築かれた平山城です。別府湾に面した海城でもあります。本丸を中心に二の丸・三の丸・外郭で囲み、各曲輪を堀でめぐらせています。二の丸・三の丸には、武家屋敷、外郭には商家も配されました。
この日出城は豊臣秀吉公の正室、ねねの甥にあたる木下延俊公が、義兄でにあたる細川忠興公の多大な支援を受けて築いた城郭です。関ヶ原の合戦を経て豊後国日出3万石を拝領し、1601年から2年かけ築城しています。城の設計は細川忠興公、石垣の構築は家臣の穴太理右衛門が、自然石をそのまま積み上げていく野面積みで築いています。

前日14日別府温泉に宿泊し、観光しながら城巡りを行うのに時間が足りず、早起きしての朝駆けで日出城を訪れました。8年ぶり2度目の訪問で、宿泊したホテルから30分弱で到着し、到着時間は5時半、曇り空で時折雨が降る天候です。朝早かったので、駐車場はロープで閉ざされ駐車することが出来なかったので、仕方なく釣鐘のある堀横に駐車させて頂きました。m(__)m

この城の見所は、別府湾に面した海側の石垣だと思います(私見)。野面積みで積まれた石垣が何ともかっこ良く見惚れてしまいます。(*^▽^*)1時間半程の攻城でしたが、満足した時間でした。

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しんちゃん

西の切岸はかなり険しい。 (2021/11/18 訪問)

城端城は城端別院善徳寺が建っている場所に築かれて
いたとされ、善徳寺は戦国期に瑞泉寺、勝興寺と並んで、
加賀一向一揆の中心となりました。
現在の善徳寺は左を山田川、右を池川に挟まれた△形の
台地上に築かれています。寺の西側はかなりけわだった切岸に
なっていて、かつての城塞としての防御力は健在です。
永禄2年(1559)か元亀3年(1572)にかつての城主、荒木大膳が
善徳寺に城の敷地、城門を寄進したと有ります。

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しんちゃん

兼六園 ライトアップ (2021/11/18 訪問)

2021年11月 北陸へ行ってきたのですが、この時期
コロナも沈静化してきており、各地の観光地にもお客さんが
戻ってきているようでした。
わたしも2020年は城めぐりを自粛していたのですが、この年から
城めぐりを再開しています。
この日は、兼六園のライトアップを見てきたのですが、昼間とは
また違った雰囲気で楽しませていただきました。
帰りは近くの城山亭で治部煮をいただいたのですが、なかなか
おいしくいただけました。個人的に好きな味なので、自分でも
何回か作ってみたりしています。
なぜ金沢で治部少輔なのか?という疑問はありますが、じぶじぶ煮る
から、じぶ煮をいう説もあるようです。でも治部少輔の名が
こういった形で残っているのも少しうれしかったりします。

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しんちゃん

葵塚・巴塚  富山県小矢部市 (2021/11/19 訪問)

葵塚・巴塚古墳群は倶利伽羅峠に向かう道中にあります。
いずれも源義仲の愛妾で、他の武将たち同様、鎧を身に着け
戦場で活躍したそうです。すごいですね、義仲ファミリー。
ジェンダーフリーの先駆けともいえそうですが、
何かが違うような気がします。
葵御前は倶利伽羅峠の戦いで戦死し、ここ葵塚に葬られたとあります。
巴塚は供養塔ではないでしょうか。
巴御前は有名ですが、ここを訪問するまで葵御前のことは
全く知りませんでした。個人的には好きな武将なので
大河ドラマになったら、そのあたりも見てみたいです。
出来れば脚本のしっかりした方で。

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しんちゃん

倶利伽羅峠③ 地獄谷のぞき (2021/11/19 訪問)

倶利伽羅峠を縦断する道は倶利伽羅不動尊へと続いています。
ですので、倶利伽羅峠へのアクセスは簡単です。
一般的なイメージに対してハードルが意外と低いんです。
倶利伽羅不動尊はかつての源平の合戦で焼失しましたが
源頼朝が再建しています。アフターフォローは大事ですね。
周辺をひとしきり散策したので山中に入って地獄谷を目指します。
といっても、正式なルートなど見あたらないので
それらしい道を進んでいきます。進んでいくと土塁らしき遺構が
ちらほら散見できます。この周辺は長い間、砦としていろいろな
人物が利用していたので、その遺構が残っているのかもしれません。
地獄谷まで到達はしていないのですが、だいぶ近くまで行けました。
まだまだこの周辺には人知れない遺構が残っているのかも
しれません。

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しんちゃん

倶利伽羅峠②  石川県河北郡津幡町 / 富山県小矢部市 (2019/11/19 訪問)

倶利伽羅峠最高部には猿ケ馬場が広がり、その南側に
展望台が設置されています。かつての平氏の本陣が置かれていたあたりで、
倶利伽羅権現のあたりにも布陣していたと思われます。
倶利伽羅権現は周囲より高所にあり、見張りに適している
箇所になります。展望台のやや西側、源平供養塔の裏手に平為盛塚があります。
平為盛は清盛の異母弟、平頼盛の次男で倶利伽羅峠の戦いに参陣しています。
寿永2年(1183)5月11日に火牛の計に敗れるも、
12日未明に50騎を率い源氏を襲撃しますが
義仲の配下の樋口兼光に首をはねられたとされています。

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POYO58

北の丸、本丸

西の丸の後は北の丸に向かいました。向かう道に沿って大きな空堀が続いていました。おそらく本丸へ行かせない戦法。北の丸に着くと周りは低土塁に囲まれていました。本丸へは復元された木橋がかかっており大空堀を見ることができます。その後は天主櫓跡に行きましたが、礎石らしきものはなく天主があったかどうかも不明なようです。本丸には西の丸と同じで二の丸方向に障子堀が立ちはだかっていました。こちらも見応え抜群!
最後は二の丸で締めます。

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しんちゃん

倶利伽羅峠 (2021/11/19 訪問)

倶利伽羅山付近の山塊は古来より、北陸道の通る
要衝の地で、寿永2年5月、平維盛率いる平氏軍が木曽義仲の
西上を阻止するため陣を敷いたとあります。
それ以降も南北朝の時代には富樫氏が南朝方の桃井直常に備え
陣を敷き、長享2年(1488)には越智伯耆を首魁とする一向一揆軍、
天正12年には佐々成政も前田氏に対して砦を築いています。
今では倶利伽羅峠古戦場として整備が進み、数々の遺構が残ります。
写真では、芭蕉句碑、平氏が追い落とされた地獄谷(上から)
古戦場碑、芭蕉塚、平家本陣、ウシ を紹介させていただきました。

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蟹清水砦(小牧長久手古戦場散歩 小牧の巻) (2023/09/09 訪問)

 織田信長が居城を小牧山に移したときには丹羽長秀の屋敷があったようです。小牧長久手の戦いの時に織田信雄、徳川家康連合軍が修復して砦としました。遺構はりませんが、石碑と説明板があります。城びとには未登録の砦です。

 近くに江戸時代は小牧宿がありました。民家が残っていて説明板等があります。

名鉄小牧駅より徒歩約15分です。

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しんちゃん

埴生八幡宮   富山県小矢部市埴生2992 (2021/11/19 訪問)

埴生八幡宮の創建は伝承によると養老2年(718)とされています。
木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いに際して、戦勝祈願をしたと
伝えられ、ここに陣を敷いたとされています。
前田利長や佐々成政らの崇敬も厚く、社領を寄進されています。
遊佐慶親の寄進による石段があるようです。
境内には木曽義仲の騎馬像があり、社殿の東側に基檀状の遺構が残り
かつてここに義仲が陣を敷いた際に騎馬や兵たちが、ずらりと
並んだ姿を想像したりします。

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二重堀砦(小牧長久手古戦場散歩 小牧の巻) (2023/09/09 訪問)

 羽柴方の砦で日根野弘就と、弟の盛就が守っていたと伝わっています。「ふたえぼり」と読むそうです。城びとには未登録の砦跡です。遺構はありません。細い道を入った道路沿いに、「日根野備中守弘就砦跡」の石碑がありました。

 名鉄小牧原駅から徒歩15分くらいです。

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田中砦(小牧長久手古戦場散歩 小牧の巻) (2023/09/09 訪問)

 蒲生氏郷、堀秀政、加藤光泰らが守備した砦です。城びとには未登録の砦跡です。もともと三ツ山古墳があり、古墳を利用した砦であったようです。遺構はありません。説明板と石碑があります。

 名鉄小牧原駅より徒歩約5分です。

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小松寺山砦(小牧長久手古戦場散歩 小牧の巻) (2023/09/09 訪問)

 三好秀次、丹羽長秀などが守備していた砦です。城びとには未登録の砦跡です。久保山砦の説明板にも丹羽長秀の名前がありましたね。詳細はわかりません。小松寺が跡地です。説明板と石碑があります。

 名鉄味岡駅から徒歩約10分です。

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