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イオ

神体山の城 (2022/05/21 訪問)

築城者・築城時期など詳細は不明であり、柳本氏の城とも内藤氏の出城ともされます。明智光秀の丹波攻めの際には、国衆が籠って抵抗するも落城したと伝わります。

御影山頂部に築かれた城で、ネット情報によれば階段状の曲輪群に土塁や石積、二重堀切を備えているようですが、山麓にある出雲大神宮は御影山を神体山とし、山頂部は禁足地とされているため、通常は遺構を目にすることはできません。

出雲大神宮ではあちこちに見られる巨岩を磐座とし、御蔭の滝には竜神乃神を祀るなど御影山が御神体であることが窺えます。社務所で受付をすれば中腹の神の磐座までは行けるようですが、あ さんの投稿にあるように、受付をしても遺構のある山頂までは行けないのならもういいか(参拝目的でないのに許可をもらうのも気が引けますし)ということで、神域の手前で探索終了としました。

ところで、出雲大神宮は一般に出雲大社からの分霊とされますが、社伝では逆にこの地から出雲に遷座したとされ「元出雲」とも呼ばれるんだとか。すぐ近くには「元愛宕」もありますし、事実はどうあれ、古くからの由緒のある地ということなんでしょうね。
 

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カズサン

チョイ寄り土浦城 (2022/05/29 訪問)

 小坂城、東林寺城を十二分に探訪堪能し、今回の城廻り3日目の宿泊先土浦に国道6号線を約16~17km程北上、国道354号線に入りナビに土浦城が入ってくる、これは寄らなくてはと市立博物館の専用駐車場に車を駐めて、12年振りの登城と成りました。
 
 登城ルートは、博物館横から水堀を渡り本丸へ西櫓を眺め、櫓門太鼓門を裏から、東櫓を裏から眺め、霞門を潜って桝形霞橋を渡り、東櫓を水堀越しに眺め二の丸へ、移築された旧前川口門も眺め、櫓門太鼓門を表から潜って裏から、東櫓に続いてる白土塀を裏から武者走り土塁を眺めて、北東側の土塁の雁木、土塁上から眺めて本丸を駐車場へ。
 夕方17時から約30分の探訪でした、駐車場は入った時は満車状態で空きの2,3台に駐め、帰りは半分位の空き状態、何時でも城探訪は楽しい。

 

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赤い城

城の後には深大寺そば。 (2022/05/28 訪問)

京王線の布田駅から徒歩で30分弱。
調布駅からバス便もあります。
神代水生植物園の一角にあります。
まん防の頃来たのですが閉鎖中だったので再訪です。
二の丸の入口には蕎麦畑があり、その先の二の丸は結構広いです。
建物跡の礎石や土塁が整備されています。
二の丸と主郭の間には空堀があり、土橋がかかります。
主郭も土塁が囲んでいます。
郭は3つあり、三の丸はテニスコートになっていました。
北条氏に備えるため扇谷上杉氏が入った城です。
城の後はもちろん深大寺そばをいただき、深大寺にもお参りしました。
都内への通勤圏内に遺構が良く残る貴重な城でした。

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第8回:最終回】西教寺(明智光秀・煕子の墓)  (2022/05/09 訪問)

(第7回「光秀の最期」からの続きです)

最後にもう一度坂本に行き、西教寺を訪れてきました。

西教寺は、比叡山焼き討ちの際にいっしょに焼き払われたため、光秀が再建に尽力したお寺です。総門は、その時坂本城にあったものを光秀が移築寄進したと伝わっています(写真①②)。また妻の煕子(ひろこ)が死んだ時も、その当時の武士は、妻が先に死んだ場合、夫は葬儀には立ち会わないのが習わしだったようですが、光秀は自ら喪主を務め、この西教寺にて盛大に執り行ったそうです。いかに愛妻家であったかがわかります。

境内には、光秀と煕子の墓が並んで建っていました。何かほほ笑ましいというか、少しほっとした気持ちにさせられてしまいました😊(写真③④⑤)。 よく見ると、二人のお墓はともに生まれ故郷の美濃の方角(東)を向いていました。二人ともあの世で生まれ故郷の美濃に帰りきっと仲良く暮らしているのではないでしょうか?

光秀の墓には、他の明智一族も含まれていました。たぶん坂本で亡くなった甥の秀満(左馬助)と妻の岸(光秀の長女)、甥の光忠(次右衛門)とその妻(光秀の次女)、子の光慶(光秀の嫡男)ではないかと思われます。五人は坂本城で光秀を待つも途中で亡くなったと聞き、その後秀吉の軍勢(堀秀政ら)に囲まれたため、自ら共に自害して果てたそうです(諸説あり)。煕子の墓の横には妻木(煕子の実家)の墓もありました。きっと今頃は、あの世では皆でにぎやかにやっている事でしょう。


墓の一段下にある唐門には「麒麟」が彫られていました(写真⑦)。
そういえば結局、光秀の前に麒麟は現れたのでしょうか?
いや、きっと光秀自身が麒麟になって天に昇って行ったのかもしれませんね😊。


以上で、私の明智光秀「最期の30日」を辿る旅を終わります。
今度は、光秀の孫たちが九州で活躍した話を、いずれまたお伝えしようと思います。
(では私は最終の新幹線で博多へ帰ります)。

全8回読んでいただき、大変ありがとうございました😊。

 

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朝田 辰兵衛

司馬遼太郎『峠』文学碑(新潟県小千谷市) (2022/06/04 訪問)

古戦場レポート,河井継之助が長岡城奪還に意地と知恵を発揮した「八丁沖の戦い」に移る前に,ちょいと寄り道。
ここまでレポートしてきた,榎峠,朝日山を,信濃川対岸(西側・左岸)から見つめている碑があります。それが,「司馬遼太郎『峠』文学碑」です。妙見堰,越の大橋西詰に建っています。R17沿いです。東京方面から新潟に向かってくると,信濃川横断の手前右側になります。通り過ごして渡ってしまうと長岡市に入ります。
「武士の世の終焉にあたって,長岡藩ほどその最後を見事に表現しきった集団はいない」という,司馬遼太郎の言葉が刻まれています。

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小城小次郎

この石垣のもとを築いたのは誰だったのか (2022/01/09 訪問)

崩れる寸前で絶妙なバランスを保つ高石垣が有名なお城だがそのほとんどが後世の積み直しとの評価。一部「本物」が混じっているが、この「本物」が誰によって積まれたのかという正解の見つからない謎解きが実に楽しいのだ。

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零汰

よく掘りましたね:1 (2022/02/12 訪問)

南九州はワイルドな堀切が多いです。シラス台地がそうさているようです。但し整備をいている所は稀な上、削りっぱなしで雑なので見栄えは非常に悪いです。前に進むのに難儀しますが毎回驚きが有り、飽きることはありません。

こちらは城域自体は大きくありません。遺構は曲輪、土塁、堀切、空堀程度です、詳細は特に記す事も思いつかないので堀切・空堀中心に写真を選択しました。南九州のワイルドで雑な雰囲気だけ味わって頂きたく投稿します。

滞在時間35分:0.8km:累計高低差78m

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ランフランコ

#17 金亀城 (2022/06/04 訪問)

歩きづらい石の階段が流石でございます。

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おぢさん

城と桜 (2014/03/28 訪問)

桜が満開で、天守閣を引き立てました

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おぢさん

岩盤の上の天守閣 (2012/04/28 訪問)

岩盤の上に石垣を積み、天守閣が美しかった建てられてました。

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おぢさん

堀と天守閣 (2012/04/28 訪問)

堀の水面に写った、天守閣が美しかったです

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おぢさん

好きなアングル (2012/04/04 訪問)

黒い色がキレイでした。

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とっくん

和歌山城 (2020/01/25 訪問)

和歌山城

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カズサン

牛久沼に突出し土塁空壕が良好残存 (2022/05/29 訪問)

 常陸小坂城を終えてまだ陽も高く、今回の企画に入れて無かった近くの未踏の城、東林寺城を目指す事にしスマホで情報確認、城びと、古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの情報を参考にし、東林寺の住所にナビを合わせる、小坂城から西に約6~7km程、三日月橋を渡って北上すると東林寺が有り門前の駐車場を利用する。

 東林寺の参道を行ったり来たり、案内板も無く登城口が良く分からない、丁度地元の方が通ったのでお聞きし、お寺の坂を登り、墓所を抜けると畑の右手に城、左手に城が在ると教えて頂く。(地元の方の城とは残存の土塁と空壕の事のようです。)

 東林寺に参拝し、左手の坂を上ると墓地、東林寺城跡五輪塔が標柱、案内板と2基の五輪塔が桜の木の下に安置されてる、元は一ノ郭に在ったものを、牛久沼農地整備開拓に東林寺城一ノ郭の土砂を削り取り活用、その際にそこに在った五輪塔を東林寺に移したと記載有り、墓地を過ぎアコーディオン門扉(開けて有りました)を越えて右手北側へ。
 三ノ郭で今は畑に成ってる、作業されてる地元の方にお聞きし北側に城が在る、南の竹藪の先にも城が在ると教えて頂く、北に200~300m歩きと三ノ郭虎口と土塁、空壕が有り壕は深く広い、余湖図コレクションさんの俯瞰図では東西に舌状台地を掘り込んでいる、北奥の四ノ郭を眺めて引き返す。
 南に戻って東林寺西裏に二ノ郭空壕が広く深く標柱と共に残存してる枡形虎口の様子、ここも東西に掘り込んでる様子、東林寺敷地は四角い枡形郭の様に成って居る、東に抜けて、西、北、南は堀の切込で囲まれている。
 一ノ郭は二ノ郭空壕を抜けて南に畑と民家が立って居る、畑の畦道を南へロードバイク自転車に載ってる方に様子を伺うと、南の先に土塁、案内板が有ると情報を聞く、南端に一ノ郭土塁、埋まった空堀跡、城名標柱、手ずくり感のある案内板令和3年2月新地の台地で活きる会作成、地元の方の活動で城探訪が出来る幸せを感謝です。
 民家の私道なのか砂利道ですが三日月橋方向へ続いてる様に見受けられます。
 
 東林寺に引き返すとき雉が飛んでいました、上手く撮影出来ず、約1時間探訪を堪能しました、良い城です。
 東林寺の駐車場を使わせて頂き参拝し北の三ノ郭、南の二ノ郭、一ノ郭土塁を探訪するのが良いのではと思いました、四ノ郭に入らなかったのが残念ですが、舌状台地に一ノ郭、二ノ郭、三ノ郭、四ノ郭が連郭式に良く残って居り、一ノ郭は削られてしまいましたが牛久沼が南方に良く眺められます。

 歴史的には、牛久城の岡見氏の築城で新地の地名は牛久城の新旧を窺わせると、秀吉方との攻防で北条方が牛久番を近隣の国人領主に交替で天正15年から18年(1590年)に掛け駐屯地的役割をしていたのかと、土塁空壕は北条方の牛久番が大いに関わった様です、廃城は豊臣秀吉の小田原征伐の後の様です。(案内板一部抜粋)

 

 

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宗春

若狭・越前攻略戦⑨越前大野城 (2022/05/06 訪問)

ゴールデンウィークに友人と福井県のお城を訪問しました。
福井遠征2日目最後のお城は、越前大野城でした。西登り口の駐車場に車を停めて階段を登ろうとしたのですが、もう疲れ果てていて階段が辛かったので、迂回ルートで登ったのですが、予想した場所に出なくてプチ迷子になってしまいました。階段で登った友人とは天守閣で会えましたが(^^)

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カズサン

整備された空堀・土塁・曲輪に感動です (2022/05/29 訪問)

 前日岩手浮牛城、宮城不動堂城、桑折城、大衡城、大窪城を初探訪終えて古川泊まり、朝食後即古川ICより東北道、東磐越道、常磐道、圏央道を約400km程南下し、圏央道牛久阿見ICを降りて約4~5km程、国道408号線小坂団地入口より50m程の所に小坂城入口階段、案内板解説板が設置されてる。
 駐車場は入口の対面に小型車4台可能の専用駐車場が在る、バスは入口に1台可能、トイレの設置は無し。専用駐車場を利用。

 昨年末に翌年令和4年の城廻り候補城郭を選定し、岩手宮城未踏の城、茨城の小坂城、千葉の利根川南側を一巡のコースに入れ桜の頃、草の伸びる前を狙って居たのですが武漢コロナウイルス新株感染拡大自粛も有り連休と思って居ましたがカーナビがダウンし入手までに時間が掛り5月の末と成り、小坂城は皆さんの投稿と直近の赤い城さんの投稿で私にも登れそうと新たに認知し城廻りに加えました。

 登城階段で案内板、解説板を一通り読み登城開始、階段を登り土塁が目に入り興奮状態全開、三ノ曲輪へ土塁・空堀が西から北へ連なり、東に少し小さい四ノ曲輪、三、四ノ曲輪北側に外の空堀土塁が囲んでいる、北東側に外に抜ける虎口が有りそう、今は住宅街団地に成って居る、北側虎口だとすると現在の団地には小坂城の外郭施設があったかも?、三ノ曲輪から二ノ曲輪へ土橋を通って虎口、二ノ曲輪と一ノ曲輪を囲むように外の空堀土塁が更に囲んでいる、二ノ曲輪はL字型曲輪、一ノ曲輪は二ノ曲輪のL字で抱えられてる、二ノ曲輪から一ノ曲輪へ土橋を通って虎口から入る、北側に櫓台、東続きにも櫓台状の土塁、南側は国道408号線の拡張で三割ほど削られ遺構は消滅している。
 空堀に降りて眺めたり土塁に登って眺めたり、一ノ曲輪櫓台から北を眺めれば空堀、土塁が連なりうねってる様に見える、東側は崖で谷に落ち急峻、西も緩やかですが谷に落ちてる、南は崖で落ち込んでおり南の小野川が自然の堀の様、北は丘陵尾根続き、鎌倉街道が走ってる。
 四ヶ所の曲輪で構成され、一ノ曲輪を二ノ曲輪がL字で囲み守り更に外の空堀・土塁で囲み、北は三、四ノ曲輪が守ってる、南、西、東は崖で谷に落ち込み更に南は小野川の守り、良く地形活用されています。
 1時間半内部と外側西から南、東と眺め東の尾根筋谷も確認昼の暑さを忘れて充分堪能しました。よく整備保全されています、是非トイレを設置して頂きたい。

 

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宗春

若狭・越前攻略戦⑧一乗谷城 (2022/05/06 訪問)

ゴールデンウィークに友人と福井県のお城を訪問しました。
福井遠征2日目の3城目は、越前朝倉氏の居城の一乗谷城でした。居館跡だけのつもりでしたが、一乗谷山城にも登る事になり、大変疲れました。在宅勤務で培った日頃の運動不足により、途中で休みながら、やっと一の丸まで辿り着き、そこで引き返しました。連日の山登りはキツイです。

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零汰

終活2:最後の訪問先 (2022/05/24 訪問)

終活2で最後に訪問した城郭です。投稿が少なく遺構不明とありました。遺構を少々見かけたので投稿します。

古城盛衰記さんの情報で難なく到着し早速攻城、駐車場のある南側より登りました。この一帯は緑化公園の様で整地しただけの砂利の遊歩道となっています。遺構は期待せずに気軽な気持ちで登りました。行き着くと虎口は最高地点の南側主郭に取り付いていました。そこには戦時中の高射砲らしき遺構が残っています。主郭の南側下部に何かがあるのに気が付いて帰るに見ようと後回しにしたら違うルートで降りたので見ていません。気が付いた時にすぐさま確認しないといけませんね。

1段下がり北に向けて細長い曲輪があります。いつもの癖で曲輪の端っこを覗くように眺めていたら東側の低い位置に小屋の屋根が見えます。公園用便所の廃墟です。近くにいってみると石積を伴う虎口らしきものと奥には土塁付きの細い曲輪が見える。降りてみたところ確かに石積を伴う虎口の様だ。それでもその時は半信半疑でした。土塁付き曲輪を南に進んでいくと竪堀がある、数えてみると4本確認できた。中には石積で補強しているものもある。他にもある気配はあるのだが斜面の横移動を落ち葉が邪魔したのでやめた、竪堀を見て十分に満足したからです。

45分:1.3km:累計高低差126m

復習
城郭放浪記さんも古城盛衰記さんも詳しい情報が無かったので「なぽのホームページ」で調べてみた。この方も在野で2000城以上攻城しており、しっかりとした情報を記している強者です。目線が私のようなレベルでも理解できるような語り口なので分かり易く助かっています。(私には城関係の文章は堅苦しく、専門用語の多用などでちょっと頭に入ってこないところがあります。むしろ河後森城にある小学生の研究発表の方が頭に入ってきました。)その点こちらのホームページはお勧めです。そこでは石積虎口の情報があり、大分の調査報告書にも記載があるそうです。

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おっちゃん

墳丘復元図 (2017/09/02 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

私部城要図 (2017/03/25 訪問)

現地案内板より抜粋。

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