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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:土田城 (2023/04/23 訪問)

室原城からの転戦で、大脇公民館城碑案内板前(35.418666、137.007575)に到着。車は大脇公民館の無料駐車場に駐車しました。

諸説ありますが、土田城は織田信長の生母である土田御前が生まれ育った城と云われています。
築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)に土田氏によって築かれたと云われています。 土田氏は近江佐々木源氏の末裔を称して明智氏に従っていました。
土田泰久の次男である土田甚助が生駒家広の養子となり生駒親重を名乗っていましたが、土田源太夫が明智城で討死すると土田家嫡流が断絶したため、親重が小折城とこの城の城主を兼ねました。
生駒氏はその後、美濃へ勢力を伸ばした織田信長に仕えると、1574年(天正2年)にはこの地を去り廃城となりました。

公民館奥の登城口の本郭直行ルートは利用禁止のようです。
その為、ひたすら遊歩道を歩き山に登る案内を捜しましたが、見つかりません。(他の登城口があるのかもわかりません)
途中、金子山出丸への案内がありましたが、不安の為、登るのをやめました。案内表示がほしいです。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=猿啄城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:室原城 (2023/04/23 訪問)

塩河城からの転戦で、登城口(35.387279、137.021956)付近の空スペースに駐車しました。

室原城の城年代は定かではないが可児氏累代の居城であったようで、1565年(永禄8年)頃に可児六郎左衛門秀行によって築かれたと云われているようです。
可児秀行は金山城主森家に仕えて各地を転戦しましたが、1584年(天正12年)森長可に従って小牧長久手の合戦に出陣した際、楽田八幡林の一戦で長可共々討ち死にしたそうです。

登城口から登って行ったら鉄塔に着いてしまいました。
どこかで道を間違えてしまったようです。
方向音痴の自分は案内表示がないと辿りつけません。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=土田城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:塩河城 (2023/04/23 訪問)

根本城からの転戦で、車は、イオさんの口コミを参考に、登城口(35.383249、137.034862)付近の空スペースに駐車しようとしましたが、4台の先客の為、路駐しました。
イオさん、いつも助かっています。今後ともよろしくお願いします。
いろいろ調べましたが、歴史的なことはわかりませんでした。
室原城跡の東側に位置する小規模な城で、集落から離れて位置していることから、臨時的に構築されたものと思われているようです。

主郭まで1.7Kmありそうです。4台の先客(外国の方のようです)はバスケット中。しばらくは引き上げる気配なし。
長時間の路駐はまずいので、登城口のみ確認して攻城は諦めました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=室原城を目指します。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:根本城 (2023/04/23 訪問)

高山城からの転戦で、登城口(35.356443、137.074911)の反対側にある元昌寺霊園の空スペースに駐車しました。

根本城は武田氏の一族でもある若尾氏によって築かれた城です。
武田氏の東濃侵攻に伴い最先端の拠点として築城されました。
武田氏滅亡後も若尾氏はこの地にとどまり、若尾甚正は兼山城主・森長可に従っていたようです。
若尾甚九郎元美は、小牧羽黒の合戦に森長可に従って参戦したが、戦死したそうです。
現在城址には土塁や堀切などの遺構を確認することができ、山頂に標柱が建てられています。また山麓の元昌寺は若尾氏の菩提寺だそうです。

登城口から尾根直登かと思いきや、迂回してからのつづら折れで思った以上に時間かかりますが、15分~20分くらいで山頂行けます。
城址は曲輪、堀切、土橋や竪堀が確認できます。案内は「凸←」表示がしてくれます。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=塩河城を目指します。

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平馬

掛川城 (2023/05/19 訪問)

天守・二の丸御殿がメインになりますが、天守は日本初の木造復元なので中に入った際、急勾配の階段を登る時に脛をぶつけ実感が湧きます。
貴重な御殿が残っているのが嬉しい限りです。
見応えは充分ありますし半分迷路です。
御城印もこちらで販売してます。複数あるのでどれにするか迷います。。。
一番助かるのが駅の北口から出て直進すれば良いことです。こちらは迷いません。

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平馬

駿府城 (2023/05/19 訪問)

二の丸巽櫓・二の丸東御門と水堀は迫力があります。さすが大御所徳川家康が築いた城といった感じです。中は公園になっており、とにかく広いです。紅葉山庭園や坤櫓もあり天守台も発掘調査中ですが見学ができます。
御城印は巽櫓内の奥で販売しており、いま流行りの切り絵(駿府城限定切り絵記念符)もあります。

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シェル

よみがえってきた徳川御三家の居城 (2023/05/14 訪問)

「最強の城」という番組で、取り上げられたということを記念して、久しぶりに水戸城に向かいました。
JR水戸駅北口からまず水戸市立博物館へ
こちらでは、水戸城の全体模型をはじめ水戸城に関する資料も展示され、見応えたっぷりです。常設展は入場無料かつ写真撮影も可能という素晴らしい博物館でした!!
市立博物館から三の丸へ
旧茨城県庁前に、水戸城の巨大な空堀があります。空堀の土橋の端には、奇麗なバラの花が出迎えてくれました。
旧県庁舎の裏手から弘道館公園の北側に移動。
弘道館の北側にも空堀と土塁が残っています。土塁沿いに進み、大手門前へ、大手門は、新築の時に比べだいぶ黒くなってきており、風格が増してきていました!!
大手門をくぐり、二の丸へ。角櫓の通路も以前より綺麗に整備されていました。
角櫓では、水戸城の城門の門扉が展示されており、水戸城のパンフレットが置いてあります。
二の丸の北東側には、杉山門、南東側には、柵町坂下門も景観復元されています。
二の丸から本丸へ。幸運にも水郡線が空堀を通過する様子を見ることができました。列車と比べることで、より堀の深さのヤバさを感じることができました。
本城橋を渡り本丸へ。本丸は現在、水戸第一高校の敷地になっていますが、薬医門の見学の場合は、薬医門周辺の敷地に入ることができます。薬医門は、水戸城で唯一現存している建造物で、かなり重厚な門です。
本丸から本城橋を戻り、柵町坂下門を抜けて、JR水郡線沿いの道を通り、水戸駅に戻る途中に、水戸黄門生誕の地の碑があり、そこには水戸城御三階櫓が銅像化されていました!!

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にのまる

☆*: .。. o(≧▽≦)o .。.:*☆ (2023/04/05 訪問)

18きっぷ(4回目)で行きました。
中央本線長坂駅から北杜市民バスで旧JA大泉支店前下車です。
早朝5時半に家を出てから4時間の長旅。北杜市考古資料館はあいにく休館日でしたが、登城口(大手虎口)で満開の桜と大きな空堀に迎えられ気分上々↑↑です。

園路入口の案内に従って進みました。北斜面から東斜面にかけて帯曲輪と長大な空堀があり、さらに進むと竪堀が出現。搦手にも城外へ続く堀があります。
落ちていた(!?)説明板には「堀…堀…堀…また堀…そして堀……さらに堀」(意訳)とあり、堀造りに特化した城であったようです。これらの堀は防御のためというより兵を隠しながら移動させる通路だったと考えられているそうで、現在はかなり埋まっていますが、搦手の斜面の痕跡を見上げると往時の姿が浮かんできて、城兵の気分になってきます。
搦手から一旦外に出て西の出丸跡へ行きました。「城南」と「町屋」の境界標のあるこの道路も堀跡だったようで六郭、大手口へとつながっています。

搦手から再度戻って西帯郭へ。説明板に、現在二段に見える帯郭の上段がかつては二段構えで下段外側には土塁があったとあります。のちの時代に均されてしまったのは堅城ゆえの不便さからだろうかと考えると、遺構がないのはそれだけスゴイお城だったのかもしれないと想像でき、空想をめぐらすのが楽しくなってきます。

続いても帯郭。北側の四郭には食違い虎口がありますが土塁は低く防御性は感じられません。この四郭と南の五郭は縄張り図で見ると大きさや形状、配置がよく似ています。平時でも戦時でも、その場の状況に応じてフレキシブルに使える空間だったのではないかと想像してみました。
帯郭南側の二郭と三郭は土塁の内側に堀がつくられています。堀は土塁の外側が定石ですが、防御の役割をもつ帯郭が何重にも造成されているので、兵の移動のための通路を内側に掘って土塁を築く方が有効だと考えたのではないかと思いました。虎口付近のみ薬研堀なのは、せめてここぐらい何か仕掛けをつくろうよと誰かが言ったのか、実は箱堀だとバレないようにしたのか……な?

一郭は虎口が二か所。段差のある土塁が特徴です。三郭から一郭にかけての斜面は階段状だったそうですが、三郭の外側は西帯郭。一郭防衛の本気度が伝わってきます。
二郭・三郭の南虎口はスロープ状の堀に食違い虎口が設けられており、まっすぐ入らせないための仕掛けだということは一目瞭然なのですが、それだけではなく虎口から堀への出入りを迅速にするためのくふうでもあるとありました。シミュレーションしてみるとホントにすっと降りられて、辣腕設計者による一貫したテーマをもったデザイナー物件のすごさに最後まで感動させられ、気づけば3時間くらい滞在していました。

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チェブ

白い建物に白い石碑。 (2023/05/06 訪問)

鎌倉時代、宇都宮 泰貞さんが築いた「戸祭城」。

『とちぎテレビ』方面から侵攻すると、見つけにくいかもしれません。
住宅地の細い道に『十九夜堂』がありますが、お堂と言うよりも会館や集会場のような白い建物でした。
その白い建物の右手に、白い「戸祭中城跡」の石碑があります。
近くのお宅に立派な門があり、そちらばかり気にしていたら見逃しました。

戸祭とは、「宇都宮城」の西北の入口を祀ったと、ありました。土地を祭る、から名付けられたともあります。
白い「戸祭城」の石碑、右カーブの手前ですよ。

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赤い城

瞬殺御礼

朝田さん、瞬殺ありがとうございます!
ペリー来航の地ですね。
浦賀城眼下の港に黒船がやってきたとのこと。
また、勝海舟が断食を行った場所でもあります。

戦国時代には北条氏が里見氏に備えた城ですね。
本当に房総半島が目と鼻の先に見えます。

一応V字もあったので写真あげます。
Vと言うよりはUのような気もしますが。

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カズサン

日本城郭協会大賞受賞の幟旗がゆらゆら❣ (2023/05/16 訪問)

 久野城の本丸東面の樹木伐採その後の進捗確認に出かけ、駐車場には自衛隊の車が2台駐っており珍しいので隊員の方と若干会話し埼玉の朝霞?との事、車は輸送隊とか訓練で久野城に登ってるとの事、トイレ横のパンフレットを1枚頂き、即探訪へ、その時は気が付かなかったのですが、北から東、本丸へ、自衛隊の方が図上訓練中、二の丸、遠見、南の丸、西の丸と1巡して西の丸入口で「久野城址保存会・日本城郭協会大賞受賞」の幟旗が他の幟と一緒に風に揺られてる。
 ハッと気付き、城びとの【お城TOPICS】の記事で今年2023年第2回日本城郭協会大賞受賞を久野城址保存会が受けたと4月6日の発表、を思い出しました、駐車場のトイレ横の案内板傍に「久野城址保存会・日本城郭協会大賞受賞」の幟旗が揺れてるではありませんか、目的に向かってると周りが見えて無い時が有るのですね。
 久野城址保存会の皆さんおめでとうございます。お陰で探訪が楽しくさせて頂けます、ありがとうございます。

 【久野城址保存会のあゆみ】は駐車場トイレの側面に掲示されていますが、昭和52年11月発足、昭和54年10月久野城址袋井市指定史跡に認定、以後45周年の歩みです。
 久野城址も史跡に認定されたころは遺構が見やすく景観抜群でしたが長年の経過で樹木が育ち鬱蒼としてる所が多くなりました、昨年と今年で本丸の西と東の樹木伐採景観整備されましたが、まだまだ残っており且つ年数が経過すると樹木が茂りとのおいかっけこ、北側東側の本丸下段の裾野辺りの竹やぶ灌木の景観整備をお願いしたい、保存会発足当時の景観を一度見て見たい❣
 兎に角ありがとうございます。
 

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トク

㊴【関ケ原の26人】(17)本多忠勝 (本多忠勝と桑名城) (2022/12/01 訪問)

(17人目)「本多忠勝」の続きです。
関ケ原当時の居城は「大多喜城」でしたが、今回は関ケ原後の居城「桑名城」を訪れてきました。

本多忠勝は関ケ原の戦効で、従来の大多喜5万石に加え新たに桑名10万石が与えられ、1601年に長男の忠政とともに桑名城に入ります。そこで忠政に家督を譲りここで隠居しました(大多喜5万石は次男の忠朝が継ぎます)。そして4重6階の天守と51基の櫓が立ち、城下町もこの時整備され、桑名は城下町・宿場町として繁栄したそうです。

現在の桑名城跡は九華公園として整備され、市民の憩いの場となっていました(写真③④⑤)。桑名駅から長島温泉方面行のバスに乗り7分、九華公園入口に着くと、本多忠勝の像が出迎えてくれます(写真①②:忠勝様~! 迫力満点です)。天守は1701年に焼失、他の櫓も明治時代に焼き払われたため残っていませんが、唯一城の北側(三の丸)に、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が再現されていました。蟠龍とはすわっている龍の事で、航海の安全を願うという意味があるそうです。ここには、東海道「七里の渡し」があるので、その監視と安全を願って建てられたものと思われます。(写真⑥⑦⑧⑨)

桑名に入って隠居した忠勝は、関ケ原から10年後の1610年に享年63才で没したそうです。家康を守り抜く事に40年間命をかけた忠勝ですが、結局最後は家康より6年早く死んでしまいました。これも何か皮肉なものです。今の「どうする家康」の雰囲気からは想像がつきません🤔。

私はこの蟠龍櫓に立ち、七里の渡し(揖斐川・木曾川)を眺めてみました(写真⑩)。晩年をここ桑名で過ごした忠勝は、桑名城天守から同じようにこの景色を眺め、どのような思いで家康を守り抜いた40年間を振り返っていたのでしょうか? 自分が命をかけて守り抜いた男が天下を取ったのを見届け、きっと自分の人生に満足していたのではないでしょうか?・・・


ここ桑名城は「千姫」ゆかりの地でもあります。
次は話が関ケ原からちょっとそれますが、余談(千姫物語)へ続きます。
 

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美夢

【かるた】武田氏館の読み札

信玄公 武田氏館の 主祭神

味噌曲輪 武田氏館の 食糧庫

三葉の松に 金運 武田氏館


読み札のみの投稿です
一句目
武田神社では神として祀られている信玄公を詠んでみました


二句目
いつも食欲全開で旅をしています
変わった名前の曲輪に、ついつい目がいってしまいました(笑)

三句目
武田神社の珍しい、三葉の松は縁起物でもあり
黄金色に成る事から金運の御守りでもあります

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イオ

【かるた】一乗谷城の読み札

朝倉の 栄華伝える 一乗谷城

朝倉氏の五代にわたる栄華がそのまま地中に遺されていた一乗谷。山城のみで山麓の居館や城下町はまだちゃんと行けずにいますので、読み札のみで。


…ということで、登城済みの30/100城をひと通り投稿してみました。それにしても、かるた投稿のため写真を見返したりしていると、登城時の記憶がよみがえってきて再訪したくなりますね。100名城かるたも、遊んでいて(一人で眺めているだけでも)行ってみたくなるような良き品になりますことを。

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todo94

奥山荘城館遺跡 (2023/04/15 訪問)

既に「行った」をポチってしまっていましたが、山頂にはたどり着けていませんでした。今回、関澤神社から登城して、朝田辰兵衛さん投稿の「、」のない城の字の木板にたどり着くことができたので、本懐を遂げた思いでいっぱいです。

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織田晃司

駐車場は争奪戦 (2023/05/04 訪問)

コンパクトながら見ごたえのある城です。
登城口からの本丸の石垣の反対側にも石垣があります。見落としの無いように…
本丸から富士がきれいに見えます。

尚、登城口脇の駐車場は釣り客との争奪戦となります。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:高山城 (2023/04/23 訪問)

大富館(城びと未登録 岐阜県土岐市)からの転戦です。三の曲輪駐車場(35.355950、137.193664)に駐車し、大手登城口(35.356823、137.193895)に向かいました。

土岐高山城は遠山十八支城のひとつに数えられている城です。
1556年(弘治2年)、高山伊賀守光俊が亡くなると、武田信玄の命を受けた平井光行が高山へ兵を進め城主となりましたが、その子の平井頼母は織田信長に属しました。
そのため、1574年(天正2年)に武田勝頼によって攻められ落城しました。
その後は岩村城主・田丸直昌の支城となりましたが、「関ケ原の合戦」にて西軍方となり、東軍の妻木勢によって攻められ落城しています。
1615年(元和元年)の一国一城令により廃城となったようです。

三の曲輪手前に堀切跡の石碑(堀切は見当たらない)があり、三の曲輪駐車場、その奥が一の曲輪、二の曲輪。説明や展望台等整備されています。
三の曲輪を過ぎた所に、何やら「山の神」という看板が付いた岩がありましたが、謂れはよくわかりません。
一の曲輪手前の城門の横には石碑があります。
遺構らしきものは曲輪以外ありませんが、模擬物見台(桔梗櫓)と城門はそれなりです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=根本城を目指します。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:大富館(城びと未登録 岐阜県土岐市) (2023/04/23 訪問)

荒井城(城びと未登録 長野県松本市)から転戦。石碑前(35.365685、137.190830)路駐しました。

築上年代は定かではないようですが、源頼光の子頼国が大富に住み、後に美濃守護職となる土岐氏の源流となったようです。
南北朝時代に土岐頼貞が美濃守護職に任ぜら、以降約200年に渡って土岐氏が美濃の守護職を継承したそうです。

遺構はありません。小公園の一角に石碑がたっているだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高山城を目指します。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:荒井城(城びと未登録 長野県松本市) (2023/04/23 訪問)

渚城(城びと未登録 長野県松本市)から転戦。説明板付近(36.230916、137.950399)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 1489年(延徳元年)に小笠原氏一族の島立右近太夫貞永が修築して居城としたそうです。
島立右近は永正年間(1504年〜1521年)に小笠原氏の命によって深志城を築いて移りましたが、1523年(大永3年)に右近の孫の島立貞知のとき再びこの荒井城へ移ったそうです。
1550年(天文19年)武田氏の侵攻によって攻め落とされました。

宅地化などによって遺構は失われたようで、現在は土塁と思われる土盛りの上に社が祀られ、そこに説明板が設置されているだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大富館(城びと未登録 岐阜県土岐市)に向かう前に、一旦ホテルに戻り朝食をとりました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:渚城(城びと未登録 長野県松本市) (2023/04/23 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に歩いて、常徳寺説明板付近(36.231237、137.957452)に着きました。

応永年間(1394年~1428年)に小笠原長秀によって築かれました。
長秀は、信濃守護に補されたが国人に対して守護の権力強化を図ったため、国人達の反発を買い、1400年(応永7年)の大塔合戦へと発展、この合戦に大敗した結果、長秀は守護職を解かれ、1405年(応永12年)に家督を弟政康に譲ります。長秀は、合戦の敗北後に渚城(居館)を築いたと伝えられています。

渚城は、現在の常徳寺・内城公民館等の敷地を中心として、約百間四方の規模があったと推定されているそうです。
城の遺構などは何も残っていませんが、常徳寺の山門脇に城跡碑が立てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=荒井城(城びと未登録 長野県松本市)を目指します。

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