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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:江川城(城びと未登録 長崎県五島市) (2022/06/07 訪問)

博多港を前日の23:45出航の野母商船/太古に乗船して、福江港に8:15分に着きました。
船中泊で移動したので、博多港を出航する前に博多埠頭第2ターミナル近くにある「みなと温泉 波葉の湯(9:00~25:00)」で入浴しました。
目標の福江城五島氏庭園が9:00開園なので、その前に城びと未登録ですが、江川城を攻略します。
福江港から徒歩10分ちょっとで、明人堂前(32.698532、128.842740)に着き、そこから徒歩5分圏内に、六角井戸入口(32.697305、128.843287)とホテル入口にある石碑付近(32.697117、128.844779)に着きました。

1521年(大永元年)宇久盛定によって築かれたと云われています。
宇久盛定は宇久氏十七代当主ですが、父の囲は1507年(永正4年)に玉之浦納の反乱によって自刃に追い込まれ、盛定は幼少のときに平戸の松浦氏を頼って落ちていました。
1521年(大永元年)元服した盛定は松浦氏の援軍を得て玉之浦納を討ち宇久氏を再興しました。
宇久氏は盛定より江川城を居城として代々続いていますが、1614年(慶長19年)火災によって焼失、その後は石田陣屋を築いて移っています。

遺構はありませんが、五島第一ホテルの脇の石碑、明人堂や六角井などの史跡がわずかに残っています。
明人堂は福江に来航して通商を求めた明人王直に対して、貿易を許可し居館として与えられた地の一角に祖先を祀る廟を建てたのが始まりと云われ、六角井は飲用水を得るために掘られたものだそうです。
攻城時間は移動時間を含めて20分くらいでした。次の攻城先=福江城へ向かいます。

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小城小次郎

さながらひとつの都市のようだ (2022/01/10 訪問)

赤松氏中興の祖である赤松政則が応仁年間に築いた巨大城郭はあたかもひとつの大きな都市のようだ。言い換えれば主郭への求心力が低い群郭式とも見え、戦国大名化が図れなかった赤松氏の立ち位置を表象しているのかもしれない。

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赤い城

武蔵と上野の境目 (2022/06/04 訪問)

神保原駅から徒歩で25分くらい。
金窪城址公園周辺が城跡です。
公園の前に石碑と説明板が立っています。
これが土塁のようにも見えますが遺構なのかは?
公園の北側に忍保川が流れています。
周辺を歩いてみましたが明確な遺構は分かりませんでした。
築城は新田義貞と云われていますが戦国時代には神流川の戦いで滝川一益が北条氏と戦った城です。
結果大敗し、落城してしまいました。
今はお年寄りがグラウンドゴルフを楽しむ憩いの場となっていました。

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北風の又三郎

最高の石垣 (2022/05/04 訪問)

新宮城に行きました。

新宮城は、新宮市にあるお城で、石垣が主な遺構です。また、山の中を紀勢本線が通っています。

石垣が、とても見事なのですが、崩れかかっていました。もうちょっと整備してほしいです。新宮城で特徴的なのは、水の手です。水の手は、川に面しているところで、当時は、海へつながる港のような物だったそうです。木道からは石垣が見れます。他にも、ケーブルカー跡など、他の城にはないものがたくさんあります。

#は廃止しました。城びとの編集部の方にお願いです。#の機能を追加してください。お願いします🤲

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ぴーかる

柳本城/柳本陣屋 (2022/05/08 訪問)

【柳本城】
<駐車場他>障害者ふれあいセンター・黒塚古墳展示館駐車場<34.559979, 135.844478>6台程度あり。
<交通手段>JR柳本駅から徒歩

<感想>日帰り列車で奈良盆地1周ちょこ城巡りの旅4城目。柳本城は中世に黒塚古墳を改変し楊本氏によって築かれたと云われる古墳城と、現在は柳本小学校になっている織田有楽斎長益の5男尚長が1万石を分地してもらい柳本藩を立藩し築造した柳本陣屋跡があります。
 古墳城のほうの築城者の揚本氏は十市氏に対抗し争ったがやがて没落し城は十市氏のものとなります。黒塚古墳を改変しそれを中心とした城郭構造をしていたようなのですが現在は中世の城跡の表記は少なく前方後円墳の前方部と後円部のくびれ部分を堀切にした発掘調査の説明板があります。現在は埋め戻されています。
 陣屋跡の方は大書院と玄関が橿原神宮に移築されています。現地は小学校正門西側壁に説明板、石垣が一部、家老屋敷(私邸宅)が残されています。JR柳本駅はなまこ壁の長屋門風で素敵。

<満足度>◆◇◇

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零汰

そこに城があるから行ってみた:1.1、雄八重(おばえ)城:2.1、銀鏡(しろみ)城

日本城郭体系を始めて眺めた時からずっと思っていた事がある。「なぜ城郭の歴史や背景ばかりしか書かれていないのだろう」と。城郭自体の情報が欲しかったのできっと縄張りとか絵図とかが載っているはずと思っていた。記載されていない訳では無いが極端に少ないのだ。

後日譚
雄八重城と銀鏡城を満足訪問を終え、何か月か経った頃に久しぶりに投稿してみようと2城の写真を眺めた。眺めるとしっくりこない。
実は2城共訪問した時に小さい疑問があった。訪問時は思いがけない石積を見て感激でさほど気に留めなかった。再度見直すと疑問が大きくなり考える事をほっといて投稿を辞めた。

今年の3月までに、雄八重城より東、国道219号線周辺の20数か所の城訪問が終わった。その結果おかしな事に気が付いた。どの城もまともな石積が全く無い。すると今回の2城を思い出されて釈然としない。が、そのままにしておいた。

終活2を終えてから物足りなさを感じて鹿児島のマイナーの城跡を10数城廻った。するとどうも気になり考え込む城跡が2城あった。
事例は同じではないが、またもや今回の2城を思い出した。先週の話である。

モヤモヤが晴れずに各媒体を調べ、柄にもなく城の背景を調べだした。因みに伊東48城には他にも米良氏の城が幾つかあるが石積は無い。すると「なぽのホームページ」で2城の訪問記録が見つかった。2城の石積にも触れていた「当時の石積だったら凄い」みたいなぼかした表現。それから程なく宮崎城郭報告書を見ると雄八重城の切岸の石積は近世か?との表現。銀鏡城は縄張り図に石積表記があるが文章には石積の表現が無い。城郭体系に至っては背景のみで城についての記述な全くない。

要は調査しても歴史的背景の資料が残っておらず確証が持てずに表に出せられないのが真相ではないか、と自分なりに結論付けた。そう考えると様々な事が整理できる。私はこれまで大きな勘違いをしながら訪問をしていたらしい。

今回の2城についてだが、例えば地元の歴史書などに(16〇〇年~16〇〇年の〇年にかけて石積の改修を行った)などと記録が残っていたらこの2城は表に出てきたのかではないだろうか。今は納得しないままで投稿しなくて良かったと思っている。

話は冒頭に戻る。つまり城の世界では歴史的背景が重要である、そう考えると城郭体系の内容も理解出来る。「何故こんな城跡が表に出ないだろう」は城自体は残っているが歴史的背景がはっきりせず、たとえ遺構らしきものが有っても裏付が無く表に出にくい。「石碑のみ、神社のみで遺構が無い」は遺構は現存しないが歴史的背景がしっかりとしている。つまり歴史的背景がしっかりしている城跡の方が、例え遺構が残っていても歴史的背景が無い城跡よりも上位にくるという事ではないだろうか。

歴史的背景の重要さに気付くのに時間が掛かったが、自分なりに解決出来たので良かったと思う。そう考えると今回の2城は思い出深い城になったと思っている。

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小荷駄

福与城跡 (2022/06/12 訪問)

城跡南側に駐車場と仮設トイレがありました。下草も綺麗に刈っていただいてありました。この季節には非常に有難いです。整備して下さった皆様ありがとうございます。南側の曲輪は畑になっていましたが主郭との間の堀や土橋、北城やニの曲輪なども良く確認でき楽しく散策出来ました。予想以上に遺構があり整備もしっかりしていただいてあり大満足でした。

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カズサン

外濠が四方残存広大な陣屋です (2022/05/30 訪問)

 坂田城址を終えて、地道と初めて圏央道を使い、館山道から木更津南ICを降りて、飯野陣屋跡内に在る飯野神社鳥居前に到着、車は鳥居前の脇駐車エリアに駐める。坂田城址から行程は約80km程有り約1時間半、17時からの探訪と成る。
 情報と案内は古城盛衰記さん余湖図コレクションさんに依る。
 
 飯野陣屋は外濠、土塁が完全に残って居り、外周長方形で約1400mは在るのか?、三大陣屋の一つと言わられる、他は徳山陣屋、敦賀陣屋。訪ねて居ませんが西地域に三条塚古墳、その東前に飯野神社が中心地に鎮座、南東に本丸、二の丸、三の丸の悌郭式、西外に外郭が有った模様、現在古墳と神社以外は住宅と畑に成って居ます、元藩士の方々の住宅かも?
 南側の中間地に折れが有る、又東側の中間地辺りに出隅があり折れを作ってる。

 外濠探訪は南側半分、東側、北側半分の東地区中心、濠の土塁側が垂直に立って居るので石垣、石積の護岸が有るのかと訝るも草が茂り良く分からない、近くを通った方に聞くと石垣と答えてくれたが良く分からない。
 その方と会話してたら浜松ナンバーの車を観て、浜松から来たの、私は磐田市出身と言われ故郷の話で盛り上がる。

 歴史は、保科正忠が慶安元年(1648年)築いた、17000石、分知し15000石に成るが後5000石加増し2万石で明治を迎える。飯野藩は大坂城番、江戸城の門番を務める事が多く、飯野陣屋には代官2名がいて事務処理を行っていた。

 飯野陣屋を終えてアクアライン経由を選択、これがトンネル内の事故2件の渋滞に掛かり、圏央道の事故渋滞情報で分かって居ましたが3時間も経てば空いてるのではと、木更津南ICより18時過ぎ入り、海老名SAまで3時間、やっと夕食、浜松帰宅は深夜過ぎ。

 岩手宮城茨城千葉4県未踏11城チョイ寄り2城、天気に恵まれ昨年11月から6ヶ月振りの良い城廻りでした。

 

 

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うさ

浜田城 (2022/06/12 訪問)

街中にある神社&公園。
冠木門が建てられていました。

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higekam

信長に先んじて天下人と呼ばれた三好長慶の故郷 (2022/06/10 訪問)

城館跡の規模には驚いたが、城跡が思いのほか小規模で驚いた。三好一族を育み、支えたところと言われても相当の想像力が必要。

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higekam

阿波九城のひとつということで登城 (2022/06/10 訪問)

敷地内駐車場に立派な模擬天守が立ちはだかる。
その後ろに堀切跡と思われる車道があり、その向こうがかっての城域の中心。
先端部は岩の鼻と呼ばれ、眼下を吉野川が流れる。そうか、吉野川を使い徳島城へと向かう動きを監視していたと知る。

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カズサン

南突舌状台地に凄い城郭、大手口・三郭・二郭編 (2022/05/30 訪問)

 主郭・見台編からの続きです。

 坂田城址の見所の一つに大手口が有ります、二重空壕、三重土塁、桝形、食違い虎口が案内板縄張図に見られます、是非見たいと目を凝らすが樹木、深い草木が茂り中々確認する事が出来ないが、長い土橋通路で壮大で在り様な事は分かる。
 もう一つは三郭と二郭間の空壕と土塁、縄張り図によると二郭側の土塁に東西一つづつ出隅横矢掛土塁が在るのだが大手口同様樹木、草木が茂り良く分からない、土塁の高さは何となく分かる。
 一ヶ所でもいいですから見学探訪拠点を作って欲しいものです、遊歩道見学探訪では折角の遺構が周知されなく勿体無い気持ちでいっぱいです。
 三郭・二郭とも果樹園(梨、葡萄、桃、など)、畑に成って居ます。

 素晴らしい遺構、城跡を見学させて頂きました、続100名城に次ぐのでしょうか、続々100名城?には入ってもおかしくない城址です。
 民有地の中、路駐と見学させて頂き有難うございました。

 

 

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toco

天下布武の出発点 (2022/06/12 訪問)

信長攻略の出発点。

城内は程よく動画やパネルなどの展示があり楽しく学ぶことができました。

隣接の古城跡公園や清洲公園も楽しく散策できました。

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カズサン

南突舌状台地に凄い城郭、主郭・見台編 (2022/05/30 訪問)

 坂田城はバラエティー番組TOKIOの鉄腕ダッシュの1~2年前の放映を観ていたら、ここは城跡?案内板が映し出されて坂田城跡を認識し、早速調べて何時か行きたいと未踏の城にリストアップし、今回の岩手宮城茨城千葉の未踏の城廻りに入れました。
 車は東側中頃に在る坂道を登り三郭南半分側の農道東側に路駐、勿論作業されてる方に了解は取りました、感謝します。
 情報と案内は余湖図コレクションさん、古城盛衰記さんに依ります。

 坂田城の構造は、南に主郭、東に見台・(馬出)、北に二郭・(登城)、その北に三郭・(於東・道城)、大手口で外郭に成って居る、南北約1400m、東西約250mと長大で各郭は空壕、土塁で囲まれ土橋で繋がってる、大手口は二重空壕と三重土塁、食違い虎口、枡形が厳重に守ってる、その北外郭は現在梅園で早春は観光客で賑わってるとか?、搦手は主郭の西側に急峻な崖をぬって坂田池方向に抜けれる、現在急な階段が付いてる。規模は千葉県でも最大級との事、凄い素晴らしい城郭で、堪能させてもらいました。
 空壕、土塁が見所ですが樹木、草木が茂り中が良く確認できない、遊歩道沿いに見学探訪、二郭、三郭は畑、果樹園に在ってる、見台、主郭は樹木草で茂り遊歩道以外は入り込めない。

 歴史は、千葉氏の築城と伝えられ、坂田城はこの地の領主三谷胤興の居城、一族の内紛で弘治元年(1555年)井田友胤に襲われ三谷氏は滅び、千葉氏に従属し里見氏に属する正木氏の東上総侵攻を防ぐ、秀吉小田和征伐には城主井田氏は小田原城に在って、追討軍にて落城し廃城と成った。(案内板抜粋)

 大手口・二郭・三郭編に続きます。

 

 

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風に立つライオン

200名城攻城達成 (2022/06/01 訪問)

200名城の最後に残った河後森城。東京から鉄道で、丸亀、大洲のスーパーホテルに泊まりながら、3日かけて予土線松丸駅へ。風呂ケ谷登山口から、まず新城へ。一旦分岐に戻り、西第1十曲輪から本郭、古城と回る。200名城達成。通算288城目。特に本郭、古城で蚊の集中攻撃に会い、写真を撮るたび刺された。痒くてたまらず、3時間経過して、駅側に降りるのは止めて、古城から新城に行くルートから分岐に降りて下山。駅で予土線待ち時間に駅舎内の日帰り温泉へ。露天風呂もあり、極楽。

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higekam

阿波九城のひとつということで登城 (2022/06/10 訪問)

完璧な模擬天守.が最上段、一段下に妙見神社、さらに一段下に曲輪跡があり最下段の駐車場も曲輪跡のよう。城跡の雰囲気は十分ある。
妙見神社の裏に石垣が残るも石組みから見て織豊期以降だろう。ここだけ石垣が残っているのも城の遺構?と疑問がある。
模擬天守は閉まっていて、期待していた鳴門海峡の遠望は果たせなかった。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)対馬観光 (2022/06/06 訪問)

6/5から6/11まで「対馬&五島&北部九州(熊本県がメイン)」のお城を巡ってきました。
続100名城の金田城の攻城時に対馬観光をしました。
投稿写真は、対馬攻城時立ち寄った「萬松院」、「対馬歴史民俗資料館」、「万関展望台」、「対馬藩お船江跡」のものです。

①萬松院(34.204332、129.284506)➡開館時間(8:00~17:00)歴代藩主の墓等があります。朝早いので閉まってました。
②対馬歴史民俗資料館前(34.203556、129.288129)➡開館時間(9:30~17:00)。見学しましたが自分には興味がないものでした。すみません。
③万関展望台駐車場(34.301920、129.352919)➡展望台にはロープが張ってあり登れませんでした。
④対馬藩お船江跡:細道入口付近(34.186637、129.282669)に路駐しました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:金田城 (2022/06/06 訪問)

金石城➡レンタカー会社経由で、登山口付近(34.294401、129.278206)に駐車しました。
続100名城スタンプは美津島地区公民館(34.267775、129.316676)で押印しました。
帰路は厳原港(15:25発)から九州郵船/フェリーきずな(227便)で博多港(20:10着)に向かう予定。時間があるので対馬観光も行いました。
時間のある方はこちらも見学してみてください。写真は別途、つぶやきで投稿する予定です。
①万関展望台駐車場(34.301920、129.352919)

667年(天智天皇6年)大和朝廷によって築かれた朝鮮式古代山城です。
663年(天智天皇2年)白村江の戦いで敗れた大和朝廷は朝鮮半島からの侵攻に備えるため、対馬・壱岐・筑紫などに烽を設けて防人を常駐させ、各地に古代山城を築きました。
文献に残るだけでも、665年(天智天皇4年)に大野城、基肄城、長門城、667年(天智天皇6年)高安城、屋島城を築いています。

遊歩道が整備されています。遊歩道は山頂はもちろん、三ノ城戸、ニノ城戸、一ノ城戸を経て周遊できるようになっていますが山頂には行ってません。
金田城は城山山頂から北東側一帯に石塁を築いて城域としており、一ノ木戸、二ノ木戸、三ノ木戸、南門、ビングシ土塁、ビングシ山などの遺構を見ることができます。
水門は一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸にあり、高石垣や門の礎石なども見所です。
ビングシ山の所には土塁があり、ここにも門跡として門礎石が左右両方とも残っています。
石垣や石塁はほぼ一周するように残されています。すばらしい光景です。
攻城時間は130分くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストで、明日の福江城攻略の為、厳原港から九州郵船/フェリーきずな(227便)で一旦、博多港に戻り、その後、博多港➡福江港(今夜も船中泊の移動です)を目指します。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:金石城 (2022/06/06 訪問)

清水山城の登山口から櫓門(34.203513、129.287121)に着きました。
まずは金石城攻城の為、櫓門(34.203513、129.287121)見学と旧金石城庭園(朝早いので閉まってます)の外周を歩きました。
時間のある方はこちらも見学してみてください。写真は別途、つぶやきで投稿する予定です。
①萬松院(34.204332、129.284506)➡開館時間(8:00~17:00)歴代藩主の墓等があります。
②対馬歴史民俗資料館前(34.203556、129.288129)➡開館時間(9:30~17:00)
③対馬藩お船江跡:細道入口付近(34.186637、129.282669)に路駐しました。

1528年(享禄元年)宗将盛によって築かれました。
1526年(大永6年)対馬島主15代宗将盛は、池の屋形を築いて居所としましたが、1528年(享禄元年)豆酘郡主の一族が謀叛を起こし池の屋形は焼失しました。
この乱の後に将盛が新たに築いたのが金石城の前身である金石屋形です。
その後、代々宗氏の居城でしたが、20代宗義智のとき、豊臣秀吉による朝鮮の役が勃発し、金石城の北に聳える清水山に清水山城が築かれ、金石城もまた近世城館として改修されました。
1678年(延宝6年)22代宗義真のとき桟原城を築いて居城を移しましたが、その後も金石城は存続していました。

金石城は東の櫓門跡、西の搦手門跡、旧金石城庭園などがあります。
東の櫓門は大正期まで現存していましたが、今は復元されたものだそうです。庭園は貴重な遺跡として国指定名勝となっていますが、朝早いので閉まってました。
金石城の西側には萬松院があり、その北の山腹に対馬藩宗家墓所がありますが、朝早いので閉まってました。
攻城時間は15分くらいでした。レンタカー会社が開くので、そちらに立ち寄り、それから次の攻城先=金田城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:清水山城 (2022/06/06 訪問)

10Kgの荷物を背負い桟原城から徒歩で、登山口(34.205352、129.287239)に着きました。

清水山城は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役で肥前名護屋から朝鮮半島への重要拠点として、1591年(天正19年)に築かれました。
築城者は対馬に常駐していた秀吉の軍監毛利高政とする説が一般的のようですが、対馬の宗氏を主として相良長毎、高橋直次、筑紫広門が助力したという説もあるそうです。

対馬歴史民俗資料館から登山道への道標があります。
10Kgの荷物を背負って2850mの山道を登るのは、70才近いおじさんにはキツイので登山口で攻城を断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=金石城へ徒歩で向かいます。

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