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木牟礼城訪問

木牟礼城訪問

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朝田 辰兵衛

【再訪】台風による前日の雨,うらめしく… (2023/06/09 訪問)

前日に福岡空港経由で山口県入りしました。計画では「門司城攻城」→「関門海峡を歩いて渡る」→「唐戸市場でふぐを食す」でした。JR門司港駅まで行きましたが,台風による風雨の強さからこのプランニングを断念しました…<泣>。
そしてこの日は,前回突如の腹痛で途中の曲輪までしか行けなかった高嶺城の再訪。にのまるさんが攻城された「山口大神宮ルート」を調べ上げ,このルートで登る気満々でしたが,前日の雨により危険が伴うと判断し断念。結局,前回と同じ「木戸公園ルート」をチョイスしました。
主郭までの登城道で,アオダイショウと思われる大蛇と遭遇しました。頭部は見ていないので何とも言えませんが,独特な動きの鈍さと,あの太い胴体はまさしく…って感じでした。越後では,新発田市を中心とした下越地方で良く見かけます。毒はありませんが,あまり気持ちのいいものではありません。
ま,今回,無事に宿題をクリアしたという感覚です。
そうそう,JR新山口駅~JR山口駅間,IC使用可能となっていました。

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小城小次郎

唯一無二の外観 (2023/01/26 訪問)

福山城天守のド派手なリニューアルの影に隠れたが岡山城天守のリニューアルもなかなかのもの。複雑で非対称な構造を持つ天守外観はまさに唯一無二。24時までのライトアップも夜中でも本丸に入れる点も嬉しい限り。

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明教寺 (2023/07/22 訪問)

 明教寺付近が跡地と伝わっています。訪れた日には山門は開放されていて中に入らせていただくと明教寺縁起が彫られた石版がありました。中川清秀が築いた城との記載がありました。
 阪急千里線下新庄駅から徒歩約5分くらいで行くことができます。

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三宅出羽守国政 (2022/07/22 訪問)

 蔵垣内公園と東罐興業株式会社敷地内の2か所に城址碑と説明板がありました。
沢良宜城から徒歩にて登城しました。帰りはJR千里丘駅まで歩きましたが、約15分でした。

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藤井三位 (2023/07/22 訪問)

 美山公園に石碑と説明板があります。
黒丸城から向かいましたが、鳥飼本町一丁目バス停からバスに乗り沢良宜橋バス停で降りました。バス停から徒歩約3分で美山公園に行くことができます。

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道の片隅に (2023/07/22 訪問)

 大阪府道15号八尾茨木線の道路、歩道に城址碑と説明板があります。遺構はないと思われます。
阪急京都線茨木市駅からバスに乗り鳥飼本町一丁目バス停下車2~3分で城址碑に行くことができます。

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医学博士奥田光記念館 (2023/07/22 訪問)

 医学博士奥田光記念館の北側敷地内に城跡碑があります。ただ草に覆われて全貌が見えません。「旧跡 目垣城跡」と彫られているらしいのですが、「旧跡 目」までしか読めません。
 阪急京都線茨木市駅からバスに乗車し目垣バス停下車。徒歩1~2分で行くことができます。

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足利義栄 (2023/07/22 訪問)

 足利義栄が室町幕府第14代将軍の宣下式を当地で行ったとされています。
阪急京都線富田駅から徒歩約10分で普門寺に行くことができます。金網のフェンス越しに土塁が見えるのですが草で覆われて一部しかわかりませんでした。

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能勢頼則 (2023/07/22 訪問)

JR高槻駅から徒歩約10分と少しで城址碑に行くことができます。遺構はないと思われます。

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bono

大河効果か駐車場が満車でした

昔近くの町で仕事をしていた頃から何度か来ていますが、今まで見たことのない人の多さで驚きました。
最後の画像はお土産です。グッズが出来ていました。

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チェブ

曲輪は畑。 (2023/07/04 訪問)

東名高速道路に平行して側道があり、「松田城→」を見つけ、かなりグネ~っと何度か曲がった所に「松田城」の説明板がありました。運転してる最中、対向車が来ませんようにと、祈るような道。
駐車場には、まさかの先客。NEXCO中日本の道路巡回車でした。出発するようで駐車場を譲っていただきました。
写真②が駐車場です。眼下に東名高速。奥には相模湾が見えました。
北条家の筆頭家老の松田氏の「松田城」です。
すでに目の前が曲輪なのですが、雑草がのびのびしてます。写真③のような道が続き、曲輪はみかん畑や葡萄棚があり、針金の柵が巡ってます。『さわるな。キケン』と書いてあるので違う恐さが、、、。
奥に行くと、土橋(皆さんの投稿で知りました)があり、畑小屋が何件かありました。この土橋も、下からの雑草の高さが土橋まで届きキケンです。
畑小屋から先は、行きませんでした。

「松田城」は北条家家臣 松田 憲秀さんの弟さんのお城です。
秀吉さんの小田原征伐で、松田 憲秀さんは秀吉さんに寝返ろうとしましたが、不忠者として切腹させられてしまいました。
いやいや、私は北条家存続の為に密かに交渉していたと、考えたいのです。
現在、静かな「松田城」は、雑草で遺構の確認が難しいですが、季節ごとに美味しい作物を育てるお城になったようです。

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カズサン

鏡石と巨石散歩 (2023/07/19 訪問)

 暑さと夏草の茂りで城廻に城探訪も儘なりませんが、例年の賀茂真淵記念館主催夏期講座2「堀尾期~江戸時代の浜松城の姿」と題して日本城郭協会理事加藤理文氏の講座を聴講し、その後に3月末以来久しぶりに浜松城を訪ねました。
 
 浜松城の石垣は小田原征伐後の家康公関東転封の後に東海地方が秀吉公の配下の武将に与えられて、浜松城は堀尾吉晴公へ、土の城から石垣の城へ大改修され天守閣も造られました。
 その時代から天守門左右に巨石を使った鏡石が控え威厳を保っています、石材は浜名湖西岸、舘山寺当たりの珪岩が使われており、天守台の東面、付櫓台、天守曲輪下段の野面積石垣などに巨石が散見されます。
 何度も見ており今回の登城の、登り降りに気楽に見学撮影しました、16時過ぎですがまだまだ暑い盛りでした。
 

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トク

56【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と広島城) (2023/07/18 訪問)

(22人目)は「毛利輝元」です。
まずは関ケ原当時の居城「広島城」を訪れてきました。

広島城は、毛利輝元により1589年に築城開始し、関ケ原の前年1599年に完成した城です。1588年に秀吉に京に招かれ、その時に見た聚楽亭を参考にしたようです。

輝元は自ら戦の先頭に立つ意欲は無かったとよく言われていますが、実際はそうではなかったように私は思います。家康が関東の上杉征伐に出陣するやいなや、大坂から広島に戻り出陣の準備を始めています。そして石田三成が挙兵すると、何とわずか2日間で広島城から大坂城へ海路を使い移動しています。また吉川広家・小早川秀秋・安国寺恵瓊と養子の毛利秀元にも先行して出陣し大坂城と伏見城の占拠を命じています。またその間、伊予の東軍諸将(藤堂高虎や加藤嘉明)の諸城を落とし、九州では豊後の旧領復帰を願う大友義統(宗麟の子)を支援しています。本当はかなりやる気満々だったのではないでしょうか? そして秀頼を奉じて出陣する気もあったのかもしれません。

父の隆元が早くに死んだためわずか10才で家督を継いだ輝元、これまで戦のほとんどは叔父の吉川元春・小早川隆景が行っていました。その二人の叔父も関ケ原の前に亡くなります。家康は三成襲撃事件にに対し、三成をかばった輝元に、自分の弟分になるよう起請文を書かせ、秀元の領地問題にも口をはさむなど、輝元にとっては家康へのストレスがかなり溜っていったようです。その輝元も48才になり迎えた関ケ原!

広島城に戻ってからつかの間、石田三成と三奉行から家康が亡き秀吉との約束を反故(ほご)にしているという「内府ちがひの条々」、そしてさらに「西軍総大将」要請の書状が届きます。

私は広島城の天守に立ち考えてみました。これらの書状を読んだ輝元は、いったいどんな気持ちでこの天守から広島の町を眺め考えていたのでしょうか? そしてその後、三成挙兵の報を受けるやいなや、何故わずか2日間という超スピードでまた大坂城へ移動したのでしょうか?

輝元自身は、本当は家康と雌雄を決するというより、今までのくやしさからか、西は毛利・東は徳川と対等に物が言える立場になりたいと思っていたのかもしれません(家康250万石:輝元120万石この差を埋めて対等になりたい)。

しかしその反面、一度は西軍の先頭に立ち、自分がどれほどのの器(うつわ)なのか? 知ってみたいとも思ったのではないでしょうか・・・

次は(大坂城)に続きます。


【余談1】宿泊したホテル
広島城の向かいにある、バスセンターの上にあるホテルに宿泊しました。部屋に入りカーテンを開けると、何とビックリ!😲 広島城の全景が一望でき、とても感動しました(写真⑨)。

【余談2】広島市民球場とカープ
広島城の天守から眺めていると(写真⑩)、眼下にかつて広島市民球場があったのを思い出しました(現在は広島駅横のマツダスタジアムに移転)。その右側は乙斐(こい)という地名で、堀に鯉が泳いでいたせいか、乙斐城がだんだん鯉城と呼ばれるようになり、戦後その埋め立てられた堀に市民球場が建てられて球団ができたので、その球団名が広島カープ(Carp=鯉)になったのかな🤔?(勝手な推測です) 山本浩二とトランペット隊の応援が懐かしい・・・(そういえば街はマツダの車が多い・・・)。
 

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にのまる

④本丸 (2023/05/27 訪問)

本丸下段には大きな井戸がありました。直径3.8m、本丸唯一の井戸で、井戸丸と呼ばれていたそうです。
坂の右側に残る石垣は本丸にいたる最後の門、暗り門の石垣です。
<かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。>
と説明にあります。
現在は見晴らしのよい本丸広場が目前に広がっていますが、かつては石垣で視界が遮られ、曲がり角に覆いかぶさるように渡櫓があった。台所櫓へとつながる石段は今はこの足元、地面の下に……と、写真や絵図の力を借りながらかつての様子を思い描いてみます。目の前の“何もないところ”にその姿を想像再建できた瞬間のうれしさといったら!
来てよかったー!の一言に尽きます。

そしていよいよ本丸へ。
肱川を渡るときから天守はチラチラと見えていたけれど、最後にくるっとまわって対面した時の嬉しさは格別でした。早朝に家を出てからひたすら陸路で10時間。(この長さがまた良いのです。)
台所櫓・復元天守・高欄櫓の揃った壮麗さは唯一無二の宝物。奇跡の復活と言えるのではないかと感じました。
台所櫓から中に入ります。現存の渋さと重みがあります。
天守は後まわしにして高欄櫓へ。こちらは二階へ上がれました。時代を感じる木組みの露わな姿を見ながら、木造建築だから解体修理も移築も可能で、百数十年経た現在でも見ることができるのだと今さらながら気づきました。木造復元は過去を現代によみがえらせるだけではなく、生きた歴史史料を未来へ伝える大切な役割を持っているのだなぁと。
キャッスルステイで一躍有名になった復元天守内は吹き抜けの開放感が印象的で、階段も当然急傾斜。木造天守の醍醐味を十分に堪能しました。

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イオ

とことん江戸城(皇居東御苑) (2023/05/31 訪問)

(続き)

皇居一般参観を終えて、まだ少し時間があったので皇居東御苑へ。桜田巽櫓を左に眺めながら大手門に向かおうとして、交差点に目をやると皇居を退出して東京駅に向かう中国大使の馬車列が見えました。皇居内ならまだしも、街なかで馬車列を見かけるのは何とも非日常的な光景ですね。

大手門から改めて入城して、まずは二の丸庭園に向かいます。昨年は菖蒲田は時季を過ぎていましたが、今回はまさに見ごろで、多くの人々が散策しカメラ(スマホ)を構えていました。その二の丸庭園の北東奥で、二の丸東三重櫓付近のものと思しき石垣に遭遇。立入禁止の柵越しながら見事な石垣が見られました。

二の丸から汐見坂を上って本丸へ。前回見落とした石室は、抜け穴説や御金蔵説もありますが、大奥の貴重品を納めた富士見御宝蔵と考えられているようです。石室から天守台に向かう途中の竹林は上皇さまのお考えにより整備されたもので、13種類の竹や笹の中にヤダケが含まれているのが城らしいな、などと。…たぶんそういった意図ではないんでしょうけど。今回は天守台には上らず、周囲をひとめぐり。西桔橋門は通れないにしても、せめて様子だけでも、とも思いましたが、近付くこともできませんでした。やはり一般参賀しかないか…。昨年は天守台を独り占めの時間があったくらいでしたが、今回は人の姿が絶えることはありません。やはりインバウンドの復活は間違いなさそうです。そして、矢穴跡を探したりしながら天守台を回り込んで、北桔橋門から皇居東御苑を退出しました。

今回は時間の都合もあって前回の取りこぼし中心でしたが、帰宅してから窓明館で買った「皇居東御苑セルフガイドブック」を眺めていると、ガイドブックを片手に皇居東御苑の各所に設置されたガイドポストをたどりながら、またじっくりと時間をかけてめぐりたくなりました。

# todo94さん
江戸城36見附めぐり、楽しいですよね~。明治以降150年を経た東京の街なかに江戸城の痕跡がこんなにも遺ってるんだなぁ、と驚かされます。それにしても、赤坂見附から町田まで献血に行かれるとは…。さすがですね。
 

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todo94

リベンジその1 (2023/06/11 訪問)

雨の日曜なので無理はしません。仙石山森タワー付近を徘徊したことはあるのですが、「仙石山 町会防護団」の石碑を見つけることはできませんでした。今回、無事、発見することができて感慨無量です。

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AJ

うっとり (2017/07/18 訪問)

美しい近世城郭だけを見て満足してたらもったいないーー。そんなことを感じさせてくれるのが鉢形城址(埼玉県寄居町。2017年7月)。荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘に建つ連郭式の平山城で、その縄張の巧緻さは散策しながらため息が出るほど。

遺構景観の整備が素晴らしい。川に削られた断崖の最高所に本丸。そこから西に深い堀切を何重も行った上で複数の曲輪を造成、連結して空堀と土塁で仕切っています。関東の中世城でありながら、石垣も見られます。これは近隣の近世城郭でもあまりない現象だそうです。

山内上杉家の家宰を務めた長尾景春が1476年に築城しますが、太田道灌に敗れて秩父に敗走。その後、河越夜戦(1546)の勢いそのままに北条氏康が上杉勢を追討して奪取すると、四男・氏邦が整備拡張して小田原を支える北の要衝となります。秀吉東征(1590)では前田、上杉、真田らに包囲されながら1ヶ月持ちこたえ、堅固さが証明されたといいます。

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松永氏と筒井氏の攻防 (2023/07/20 訪問)

 近鉄大和西大寺駅より徒歩15分くらいで行くことができます。いい感じの空堀が残っています。北側から登城しようとしました。空堀までは何とか入りましたが、竹藪がひどく倒れた竹も前進を阻んでいました。よい遺構がありそうでしたが、藪蚊の襲撃もあり奥まで行くことなく撤退しました。

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木津城址公園 (2023/07/20 訪問)

 JR木津駅から徒歩約15分、木津城址公園に行くことができます。土塁、土橋、空堀等が残っています。

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