みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:楽田城 (2023/04/23 訪問)

羽黒城からの転戦です。石碑付近(35.328250、136.950542)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1504年(永正元年)頃に織田久長によって築かれたと云われています。 大赤見城主の織田久長が楽田城を築いて居城を移したそうです。
1562年(永禄5年)犬山城主織田下野守信清によって攻め落とされ、犬山城の支城となったが、1562年(永禄5年)信清は織田信長に追われ、楽田城には信長の家臣坂井政尚が守将として入城しました。
1570年(元亀元年)坂井政尚が近江国堅田で討死すると、奥城主梶川高盛が城主となりました。
小牧長久手合戦では秀吉の部将堀秀政が在陣し、さらに秀吉も犬山城から楽田城へ移ったそうです。

楽田小学校北西側の校門付近に石碑と案内板があります。
本日、投票日で楽田小学校は投票会場になっており、すぐ撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=下奈良城を目指します。

+ 続きを読む

昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:羽黒城 (2023/04/23 訪問)

伊木山城からの転戦です。興禅寺駐車場(35.352936、136.949681)に駐車場しました。

築城年代は定かではないようですが、建仁年間(1201年〜1204年)に梶原景親によって築かれたと云われています。 梶原景親は源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣梶原景時の二男景高の子です。
梶原氏は1200年(正治2年)鎌倉を追われ上洛するさなか、駿河国清見関での戦いに敗れて一族の多くが討死しました。
そのうち景高の子豊丸が、乳母に連れられて羽黒へ落ちのび、長じて景親と名乗り現在の興禅寺に館を構えたそうです。
梶原氏は羽黒一帯に勢力を持ち、信長に仕えた梶原義景の頃には羽黒3,000石を領していました。
1582年(天正10年)梶原義景は、本能寺の変で織田信長に殉じて梶原氏は滅亡したそうです。
1584年(天正12年)小牧長久手合戦において羽柴秀吉方の砦として修築され、山内一豊、堀尾茂助が守将となったそうです。


羽黒城は梶原氏の菩提寺である興禅寺の東側一帯に築かれていたそうです。
南端に土塁のような高台があり、その上に石碑が建っています。
北側は堀跡のような窪地があり、北側の道路に面して土塁のようなものが残っています。
興禅寺には梶原氏所縁の案内板があります。お寺の北東側にも土塁があります。
伊木山城から羽黒城に向かう途中の橋の上から犬山城が見えましたので、車の中から写真を撮りました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=楽田城を目指します。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:伊木山城 (2023/04/23 訪問)

猿啄城からの転戦です。伊木の森公園駐車場入口(35.386077、136.922188)から進入し、駐車しました。
そこから、遊歩道入口(35.385959、136.921718)に向かいました。

築城時期や伊木家の経歴については諸説あるようですが、一般に信じられている来歴は以下の通りのようです。
1561年(永禄4年)この地を攻めた織田信長によって、武功を挙げた香川長兵衛忠次が、この地の名にちなんで伊木の苗字を授けられ、伊木忠次と改名したそうです。
そして、この伊木山に伊木山城を築き居城としました。後に信長の家臣である池田恒興に転仕しました。
恒興の死後も池田輝政に仕え、1590年(天正18年)に輝政の三河吉田への転封にともない、田原城に移ったため廃城となりました。

現在城址周辺は「いこいの森伊木の森」として整備されています。
心臓破りの道から山頂に向かいましたが、さほど急坂ではありません。
山頂には無線塔が建っています。山頂からの眺望は殆どありません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=羽黒城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)6日目:猿啄城 (2023/04/23 訪問)

土田城からの転戦です。猿啄城展望台入口(35.425729、136.966118)から、先に進めば駐車場に到着します。

築城時期は不明ですが、応永年間(1400年頃)、西村豊前守善政が築城したようです。
1441年(嘉吉元年)西村豊前守善政が祖母の法要の為城を留守にした際に、田志見の城主修理大夫頼吉が城を略奪します。
1530年(享禄3年)田原左衛門が城主となります。
1547年(天文16年)多治見修理が城を略奪します。
1565年(永禄8年)織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始。丹羽長秀の先鋒であった河尻秀隆が猿啄城を攻略し、落城します。
城主多治見修理は斎藤氏に属する堂洞城の岸信周の下へ落ち延びました(堂洞合戦)。河尻秀隆が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称しました。
1575年(天正2年)河尻秀隆が岩村城に移り、廃城となりました。

駐車場から山頂まで登り25分くらい(下りは17分くらい)ですが、登城道はかなりきついです。手すりなどはありませんので、下りは足元に注意してください。
山頂には櫓を模した展望台がありますが、上には登れません。眺めは絶景です。
日曜でしたので登山客が結構いました。家族連れも多く見ました。たくましい子供です。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=伊木山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

生田緑地 (2023/05/20 訪問)

小田急線向ヶ丘遊園駅より徒歩にて登城しました。生田緑地の中に公園として整備されています。遺構はよくわかりません。枡形山展望台からは富士山やスカイツリーが見えるようですが、曇っていて富士山は見えませんでした。

 若い頃、近くに住んでいて生田緑地は知っていましたが、城址があるとは知りませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

難攻不落 (2023/04/05 訪問)

谷戸城から徒歩 15分くらい。
みなさま方のご投稿を読んで覚悟していたのですが、現地に着いて絶句。
何なんだ、あの橋は!怖すぎる😱
井川城(松本市)の渡し板の比じゃないぞ。

バランスとりながらそろりそろりと歩いてみようか、それともダダダーッと走ろうか。
途中でクラクラッときたらどうしよう。
落っこちたらどうしよう。

人生山あり谷あり、そして橋あり。
勇気があるか試されているみたいだ。

じっと橋を見つめ、考えること15分。

水堀(天然の堀)に架けられた1本の木橋。
もし渡れたとしても平場はなくて折れ曲がった上り坂。
ん?......これは敵陣に攻め込む手前で足止めされているのと同じ状態ではないか!
勢いを削がれ枡形で狙い撃ちされる仕組み、大群で一気に攻めかかっても落とせない理由を実物モデルで示してくれていて、まさに今自分がその陥穽に嵌っているのだと気づいて鳥肌が立ってきました。

敗北です。
一歩も踏み込めずに撤退しました。
“行った”ポチした後ろめたさはありますが、リベンジは多分ないです。

御坂城のほうがまだ行けそうな気がします。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

寺尾若狭守 (2023/05/20 訪問)

 京王稲田堤駅近くの城下バス停より小田急バスに乗り馬場南バス停で下車して登城しました。立ち入りが禁止になっていて草木で見にくい場所ですが、空堀かなと思われる地形がありました。他にもどうかなと思われる地形はありましたが、遺構か否かわかりません。近くに寺尾台廃堂跡の案内板等がありました。帰りは小田急線生田駅まで歩きました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

稲毛三郎重成 (2023/05/20 訪問)

 京王よみうりランド駅より登城口まで徒歩約5分くらいでしょうか。空堀や曲輪等が残り城であった雰囲気は感じられます。道も整備され小雨が降っていましたが問題なく歩けました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

長沼五郎宗政 (2023/05/20 訪問)

京王相模原線稲城駅より徒歩5分弱で石碑に行くことができます。遺構はないと思われます。

+ 続きを読む

南多摩駅から (2023/05/20 訪問)

 JR南多摩駅から徒歩5分くらいで案内板に行くことができます。遺構はないようです。

+ 続きを読む

赤い城

神奈川の城振り返り

神奈川県、相模の城は主に北条氏の城でした。
また、昨年の大河、鎌倉殿の13人縁の城も多く、遺構そのものよりもイメージを膨らませロマンを感じる城が多かったです。
遺構の残る城も公園化され見やすくなっています。
その中でも足柄城や河村城は国境の城で遺構も残っています。
未登録の高麗山城にはV字の堀切を見ることができます。
丸山城、茅ヶ崎城、中和田城(未登録)は住宅地の中の公園ですが遺構も残ります。
その他岡崎城や深見城などでも空堀を見ることができました。
七沢城はリハビリセンターの周辺には遺構が残りませんが見城は見どころ充分。
神奈川でも山城を味わうことができます。
鎌倉殿関係では衣笠城、梶原景時城、大庭城、三崎城など縁の地も多いので散策してみては如何でしょうか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

織田晃司

北条水軍の海城 (2023/05/04 訪問)

良い天気だったので海はきれいに見えて富士も見えて眺望は良好でした。
ただ、日差しが強くて石垣撮影には不向きでした…

段郭の先には海に出る事ができます。そこは安宅船を停泊したと言われてます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

織田晃司

北条氏の城 (2023/05/04 訪問)

コンパクトながら防御を備えた城。
所々立入禁止箇所がありました。

江川邸(韮山代官所)と韮山反射炉も併せて訪ねるといいでしょう。

+ 続きを読む

織田晃司

2つの顔を持つ城 (2023/05/04 訪問)

残念ながら2つの顔を持ってます。
茶臼郭から本城郭・馬出郭までの本来の河村城。
もう1つは蔵郭から先の公園としての河村城。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

有効活用してる土塁。 (2023/05/06 訪問)

平安時代、藤原 秀郷さんか、藤原 宗円さんが築いた「宇都宮城」。
私の住む東京の端っこには、秀郷さんが修復した古社があります。秀郷さんに一票入れたいのですが、宗円さんは、宇都宮氏の祖と言われてます。
そんな時代から活躍してる「宇都宮城」です。

宇都宮氏は戦いの時代、防御に適さない為、山城の「多気城」に拠点を移します。
秀吉さんの小田原討伐後、領土安堵され「宇都宮城」に戻りますが7年後、突然改易。お家取り潰しです。

無料の駐車場があるようですが、写真①の復元櫓が見え、興奮し近くのコインパーキングに車を停めました。
個人的に整備された御城が久しぶりだったので、櫓と水堀にテンションが上がりました。
が、土塁にトンネル(?)。
展示室があり、意外とたくさんの人が見学してました。こんな使い方は、、、と、思ったのですが、防災倉庫としても活躍してるそうです。

時代は変わり、災害から守る土塁によみがえった「宇都宮城」でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

刑部

能登地震発生時に七尾城 (2023/05/05 訪問)

5月5日の能登地震が発生した時に、二の丸と三の丸の間にある堀切に居ました。スマホがいきなり地震警報鳴り出す周りの人もパニックに私はかまわず二の丸へ入るそして本丸へは裏から攻めて大きな城址の石碑へ。その間余震は何度か発生不安なので早めに下城しました。40年ぶりの七尾城なのにもう少し見て歩きたかった残念。お城のボランティアガイドの人達は既に撤収してました危険を感じたのかな?とりあえず無事に訪問出来ました!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

あみりん

雲空の富山城。 (2023/05/20 訪問)

早朝の為、観光客もまばらな富山城。
石垣の石が、かなり巨大な物があったりでした。
平城で駅からのアクセスも良く穴場的なスポットでした。

+ 続きを読む

ぴーかる

長見山城 (2023/04/08 訪問)

【長見山城】
<駐車場他>駐車場はないようです。<34.661175, 132.738506>の退避場所に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>石垣跡・堀切・曲輪
<感想>第2弾安芸高田・北広島の山城攻めの旅3城目。長見山城の築城は南北朝時代で毛利家の重臣渡辺氏の居城でした。1524年毛利元就が宗家を継承することに対して不満を持ち、時の城主渡辺勝は日下津城主の坂氏と共に毛利元就の異母弟の相合元綱を擁して家督相続に介入しますが逆に元就によって誅殺させられます。嫡男の虎市は難を逃れ渡辺通と名乗り毛利家に復帰します。城は毛利氏が防長移封に伴い廃城となったようです。
 長見山城は東西に長い独立した丘陵全体が城だったようです。上記駐車ポイントから西に進んで行くと城跡碑があります。城跡碑の場所に人が通った踏み跡がありますのでそこから適当に直登してもいいし、そのまま奥に進んで主郭と西郭の大堀切から上がってもいいです。城跡は東から説明すると、最東は木が伐採されて北側と東側の眺望がひらけて眺めが良いです。尾根曲輪だった感じがします。東郭は灌木が少ないし、良好に削平地が残されています。中心部に観音堂のある主郭があり、東西に下段の段曲輪があります。南側に帯曲輪、北側は急峻になっていて竪堀があったような地形になっています。主郭主要部の西側は土塁と凹み地があり枡形だったように見受けられました。枡形の西側が西郭と隔てる大堀切があり西郭の切岸が急で堀切は深く竪堀となっていて、この辺りは見応えがあります。西郭も広く主郭と同等の広さ、西側が段曲輪になって最下段に読めない変わった文字の石碑が2つあります。
 西郭の南側法面に僅かですが石垣遺構(添付写真)があります。個人サイトの方々も載せているものが見当たらなかったので、素人初気づきの初出しかと思います。残っている箇所が箇所だけに当時は曲輪壁全体が石積みだったと推察します。石積みだとすると城跡の見方も変わってくるかと思います、ご参考にして下さい。主郭の帯曲輪には転落石が表面観察では無かったのでもしかしたら西郭が主郭だったのかもと思いました。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

㊵ 千姫物語(桑名城と姫路城)

桑名城と姫路城には千姫ゆかりの場所があり、この2城を訪れるとどうしても千姫の事が気になってしまいました。話は関ケ原からそれてすいませんが、大坂の陣以降の、桑名・姫路で千姫がどのような人生をたどったのかを追ってみました。

1615年大坂の陣で豊臣秀頼が亡くなってから数ヵ月後、千姫は京から江戸へ帰る途中、この桑名城の蟠龍櫓のある「七里の渡し」(写真①)からこの川を渡る時に、船団を指揮し家臣に命を下すある若き武将に一目ぼれしたという逸話があります。その武将とは本多忠政の子(忠勝の孫)、「本多忠刻(ただとき)」です。千姫が忠刻に恋文を渡す絵も残っているようです(写真②③:ずいぶん積極的です)。

江戸に帰った千姫は父の徳川秀忠にこの話をし結婚を願います。秀忠の姉で忠政に嫁いでいる熊姫(ゆうひめ)はこれを聞いて喜び、家康に許しを請うため、病気見舞いと称して千姫とともに駿府城を訪れます。千姫の事を心配していた家康もこれを聞いて大喜びし、二人の結婚を許しました。そして翌年(家康が亡くなった年)の1616年、この桑名城の本丸で婚礼が行われたとの事です。千姫20才・忠刻19才でした。(写真④:桑名城本丸跡:現護国神社) [注:余談1]

その翌年1617年、父の忠政は播磨姫路へ加増転封となり姫路城へ入ります。この時、忠刻と千姫もともに姫路城へ移りました。嫁入りの時の化粧料(100億円)で、姫路城の西の丸には「化粧櫓」「長局」「百閒廊下」がこの時に築かれたのは有名です。(写真⑤⑥⑦⑧)[注:余談2]

忠刻と千姫の間には、勝姫・幸千代と二人の子が誕生し、二人にはこの時が最も幸せな時間であったろうと思われます。しかしその幸せもそう長くは続きませんでした。

1621年 幸千代はわずか3才で死去。さらに1626年忠刻はまだ30才の若さで死去します。幸せな結婚生活は、たった10年で終わってしまいました。

その後、千姫は江戸に戻り出家「天樹院」と名乗り勝姫と共に暮らします。その勝姫が岡山藩主「池田光政」に嫁ぎ一人になると(写真⑨)、縁切り寺「東慶寺」を援助するなどして70才で死去するまで女性のために尽くしたそうです。そしてまた、この東慶寺の住職は何と豊臣秀頼の側室の子「天秀尼」で千姫は養女としていたそうです。

千姫には最後まで幸せになってほしかったですね~🤔。
以上、千姫物語でした。


【余談1】坂崎直盛
この時の花嫁行列を陰で妨害しようとした哀れな男がいた事も皆さん心の片隅にでも憶えておいて下さい。詳しくは私の過去の「津和野城」の投稿を再度見て思い出していただけたらうれしいです。

【余談2】千姫天満宮・桑名宗社
姫路城から北西の鬼門の方向にある男山に、千姫は神社を建て羽子板を奉納し、朝夕長局から拝礼していたとの事です。今では忠刻・千姫の仲むつまじかった事にあやかって、恋愛成就のパワースポットになっているとか(写真⑩)。また桑名城の西側にある桑名宗社は、千姫が出会いに感謝し神宝を奉納した事から、今では千姫の忠刻との出会いにあやかって、いい出会いを求め訪れる女性のパワースポットになっているそうです。

次は(18人目)に続きます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

美夢

熊本城

清正の 知の集大成 熊本城

時代越え なお堅固なり 熊本城

解放感?! 空中雪隠 熊本城

熊本城 見学後の ソフト多種



少しですが九州旅行に行くことが出来ましたので
写真と共に投稿させていただきます

一句目&二句目
熊本城は加藤肥後守清正様の築城技術の集大成
その強さは時代を経て
西郷隆盛が落とせなかっただけでなく
世界大戦、複数回の大地震をも乗り越えて
今に伝えてくれています

三句目
個人的に熊本城の見所と思っている空中雪隠
実際に見られて感動したので
是非、詠みたいと思いました

四句目
出入口にある桜の馬場城彩苑では沢山のお店が
其々の特色を凝らしたソフトクリームを販売されていて
どれにしようか、ぐるりと回りながら悩むのが
とても楽しかったです

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ501