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織田晃司

田んぼの中にぽつんと一軒家 (2023/09/03 訪問)

稲穂が実る田んぼに蒲の穂生える横堀と樹木の茂る土塁。

賀陽氏館の主郭にはぽつんと民家が有り、私有地なので入れません。近くまで行って外から眺めるのみ…

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能登守利信

呟き (2023/07/18 訪問)

大湊駅からバスに乗車、合野バス停にて下車。麓の登城口旧蠣崎小学校が西郭で、その横を登城します。主郭までは遺構は特にありませんが、主郭に城址碑や土塁が見受けられます。

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能登守利信

呟き (2017/09/04 訪問)

駅から徒歩で攻城。 やはり高楯城の認識でした。 山の名前が高楯山なのですね

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イオ

続・移築門めぐり (2023/07/15 訪問)

関ケ原の戦いの翌年に、大津城に代わる京都・大坂への備えとして、徳川家康が藤堂高虎の縄張により天下普請で築いた城で、琵琶湖に本丸が突出する梯郭式の水城であり、日本三大湖城のひとつに数えられます。完成すると戸田一西が入って膳所藩を立藩しましたが、戸田氏鉄が尼崎に移封されると本多氏、菅沼氏、石川氏と譜代大名が次々と入れ替わり、本多俊次が再封されると本多氏が13代続いて明治を迎え、最後の藩主・本多康穣の明治政府への廃城願いにより廃城となりました。

膳所城を訪れるのは約5年ぶり。前回は膳所城公園と近隣の移築門をめぐりましたが、離れたところには行けずにいたので、今回はその続きです。また、4年ほど前に泉大津市の移築門を訪れていますので、そちらもあわせて。

御霊神社高麗門(大津市鳥居川町)
社殿左手に膳所城のお倉門(本丸黒門とも)が移築されています。高麗門の説明板あり。

近津尾神社表門(大津市国分)
表門として膳所城の米倉門が移築門されています。本多氏家紋の立葵の瓦が見られる薬医門です。

鞭崎神社表門(草津市矢橋町)
表門として膳所城の南大手門が移築されています。右側に潜戸を設け柱や扉に鉄板を打ち付けた重厚な高麗門で、国重文です。

新宮神社薬医門(草津市野路)
鳥居の左手奥に膳所城の水門(本丸北手水門とも)が移築されています。説明板はありませんが、整備略暦の石碑に水門解体修理の記載があります。

芭蕉会館(滋賀県大津市秋葉台)
茶臼山公園に膳所城の本丸東隅櫓が芭蕉会館として移築されています。大幅に改修されているようですが、破風と鯱瓦を備えたいかにもな外観です(時季的に木々が茂っていて見づらいですが)。

六体地蔵堂(滋賀県大津市昭和町)
膳所城のお椀倉が六体地蔵堂として移築されています。立葵の鬼瓦が往時を感じさせます。

大養寺山門(滋賀県大津市本丸町)
膳所藩武家屋敷の長屋門が移築されています。膳所神社のすぐ近くですが、前回は見落としていました。

旧細見家住宅高麗門(大阪府泉大津市松之浜町)
膳所城の南(瀬田口)総門が移築されていましたが、平成30年の台風21号で倒壊しました。4年前に訪れた時点では倒れたままブルーシートがかけられていましたが、今はどうなっているんでしょうね。再移築されるという噂もあるようですが…。


なお、前回めぐった移築門は下記の通りです。

膳所神社表門・北門・南門(滋賀県大津市膳所)
膳所城の本丸大手門(表門)、本丸土橋の門(北門)、城門(南門)が移築されています。表門は国重文です。

篠津神社表門(滋賀県大津市中庄)
膳所城の北大手門が表門として移築されています。国重文です。

若宮八幡神社表門(滋賀県大津市杉浦町)
膳所城の本丸犬走門が表門として移築されています。両端には鯱瓦も見られます。

和田神社表門(滋賀県大津市木下町)
膳所藩藩校・遵義堂の門が表門として移築されています。

響忍寺表門(滋賀県大津市木下町)
膳所藩家老村松家の長屋門が表門として移築されています。

これらのほか、勢多口総門の番所が近隣の民家に移築されていましたが、解体されてしまったようです。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー70城目 (2023/08/14 訪問)

のぼうの城の舞台であり、「陸王」という人気小説もコンテンツとして持っている行田市ですが、さきたま古墳群が何と、特別史跡に指定されたと知ってさきたま古墳群とさきたま史跡の博物館も見てきてしまいました。行田市郷土博物館のテーマ展「描かれた忍城」も良かったですよ。しっかり行田市を楽しんだ後は、リニューアルオープンした渋沢栄一の生家「中の家(なかんち)」へ向かいました。途中、凄まじい土砂降りに遭ってしまいました。

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にのまる

⑧本丸 (2023/06/24 訪問)

搦手から竹之丸東側の平櫓台、二重櫓台石垣をかっこいいなーっと見上げながら藤門へ向かいました。石垣ばかり何時間も眺めているのに全然飽きないのは、このお城が駆け抜けてきた歴史をいくらかでも知っていることに加えて、波打つような石垣模様が醸し出す温かみの故でもあるかと思います。

竹之丸、前御門を通って本丸へ。
今日もまた三重櫓を拝める幸せと安心感。
この景色が120年ぶりによみがえったということがどういう風に歴史に刻まれていくのか、100年後の人たちは“平成の復元ブーム”をどう評価するのか、そして令和の復元は如何に……などさまざまのことを考えさせてくれます。

三重櫓内を見学したあと、富士見櫓跡、雪見櫓跡へ行きました。
少し前に歩いた帯曲輪、だいぶ前に歩いた蛇頭堀を見下ろし、今日もよく歩いたなぁと思うと同時に、小峰城の魅力をたくさん知れてよかった!と満足度Maxになりました(・∀・)/ 

桜之門から退出し、見学終了。最後に駅向こうの大手門跡をさがしに行きました。
歴史館前に平成5年の発掘調査で発見され位置が特定された大手門の礎石が移設されていたので、ぜひその場所を確かめたいと思ったのです。大体の場所はわかりましたが期待していた「大手門跡」の碑などは見あたりませんでした。しかし、大手町で大手門通りに接していたし、何かを探して歩くこと自体が楽しいのでOKです!

白河駅に戻ったのは午後4時。なんだかんだで6時間の城さんぽでした。

<おわり>

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しんちゃん

秀逸な遺構を残し、手軽に訪問できるパフォーマンスの高い城。 (2023/05/05 訪問)

石神城は城址公園として整備がされていて、主に3つの郭で
構成されています。南側に登城道がついていて、二の丸から
東の本丸(御城)に土橋がかかっていて、本丸の東側に
遠見城が配されています。
本丸と二の丸の間には広大な堀切が存在し、写真で確認する限り
深さの度合いが異なるようです。言われてみればってやつですね。
二の丸は主に西側に土塁が残り、本丸の周囲は高い土塁で囲まれ、
堀切を含めた高低差はかなりの物になります。水戸城のような
別格の城を除けば、北関東でも屈指ではないでしょうか。
群馬、栃木、茨城などの北関東を周った感想ですが、比較的
訪問しやすい台地などに、状態の良い土塁や堀などの遺構を
良く残す城が多いのが印象的でした。いわばパフォーマンスの
高い城が多いのだと思います。これらの城の遺構を残してくださった上に
整備をされている地域の方々に感謝の意を表したいと思います。

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しんちゃん

南大手口の土塁が見事 (2023/05/04 訪問)

大宝城は糸繰川の東側の台地上に築かれていました。
関城の南2~3kmほどの位置にあり、かつては南朝方の拠点として
互いに連携し、舟で行き来出きたそうです。
西側と北側は断崖状になっており、本丸周辺は大宝八幡宮となり
遺構の大半は失われているものの、かつての大手の南側には
立派な土塁が残っており、ほかにも堀などの遺構が残っているようです。
かつての断崖の下には大宝沼が開け、沼を挟んで関城と対峙していたと伝わります。
下妻修理権亮長政が貞永元年に居城したのが始まりとされ、南北朝の争いの頃
下妻政康は南朝側の北畠親房の味方をし、親房が関城に入ると、春日中将顕国が
興良親王を奉じて大宝城に入ったとあります。足利の攻め手、高師冬は大宝城と
関城の連携を絶ち、康永元年(1342)3月、両城は敵の総攻撃を受け、
翌年の11月11日 大宝城と関城は同日に落城し、幼い城主、下妻正泰も
城と運命を共にしたとのことです。

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しんちゃん

古河公方の本拠 (2023/05/04 訪問)

古河城を散策したく、古河歴史博物館と渡良瀬川周辺を
散歩してきましたが、郭跡の石碑以外は特に遺構を見ることは
出来ませんでした‥が、肉球さんや他の方の投稿を見ると
まだ、いろいろ見るべきところは有った様子。
グーグルマップにも門跡や櫓跡などいろいろ出ている。
これ、前からあったっけ?
なんにせよ、古河城もう一度行かねばなりませんな。
何気なしに歩くのと、どこに何があったのか分かっていて
歩くのでは視点が違ってきます。
古河歴史博物館では特別展をやっていて、刀剣乱舞の堀川圀廣との
コラボをやっていました。刀剣の展示もいっぱいあったのですが
堀川圀廣といってもいろいろあるようです。古河城の模型もありました。
博物館自体が出城の諏訪原曲輪跡に建てられています。

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トク

67【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と大垣城)

(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原の前哨戦で陣を敷いた、「大垣城」を訪れてきました。
入口には、関ケ原後に入った戸田氏鉄の銅像が出迎えてくれます(写真①)。

石田三成はここ大垣での決戦を当初考えていました。(大垣城-岐阜城-犬山城)で防衛ラインを構築し、清州城に入るであろう家康をここで迎え撃とうと考えていたようです(説明写真⑥)。しかし、織田秀信が守る岐阜城がわずか1日で陥落し、犬山城の竹中重門などの守備隊もあっけなく城を明け渡し東軍へ寝返ったため、目算がくるってしまいました。さらに翌日、今度は家康は深夜の内に清州から岐阜を迂回して移動、翌朝に大垣城の北方の美濃赤坂に陣を敷きます。朝になり、赤坂に家康の馬印が見えた東軍諸将は驚きます。そしてその動揺を鎮めるべく、島左近が杭瀬川で一矢を報います(写真⑤)(詳細は(5人目)島左近と(21人目)徳川家康を御参照下さい)。

私は、大垣城にいた三成から、家康がいる赤坂の陣や一矢を報いた杭瀬川がどのように見えたのか? それを知りたくて大垣城を訪れ、天守に立って眺めてみました。しかし・・・? ビルなどが立ち並び眺望はあまりよくありませんでした(ん~よく見えん😎:写真⑧)。しかし当時は建物などはないので、ここからならよく見えたと思います。岐阜城も遠くにほんのかすかに見えました(写真⑦)。

その後、家康は今から佐和山城へ向かうとうわさを流し、東軍は赤坂から関ケ原へ移動します。赤坂で十分腹ごしらえをした後、寝返った吉川広家の前を悠々と余裕で行軍します。

それを見た西軍(三成・秀家・行長・義弘ら)は軍議を開き、三成の妹婿の福原直高(大分府内城主)に大垣城の守備は任せ、急ぎ関ケ原へ移動し迎え討つ事に決しました。しかしこの時とるものも取らずに出陣したため(空腹のまま)、また東軍に見つからないようかつ東軍より先回りしようと、遠回りの南宮山南側の伊勢街道を雨の中に深夜駆け足で行軍したので、体力の消耗もかなりあったようです。

三成はなぜそこまでして、急ぎ関ケ原へ移動しようと考えたのでしょうか?(まさに家康の思うツボ!)。 関ケ原の西の大津には立花宗茂ら2万の精鋭の軍勢がおり、あと1日で関ケ原へ到着する所まで来ていました。翌朝ゆっくり出立し、背後から行軍すれば挟み撃ちにもできたはずです。またそのさらに西の背後の大坂城には、毛利輝元本隊の軍勢も控えています。中山道を行く秀忠の軍勢がどこまで迫っているのかも気になったからなのでしょうか?(しかしこの時、秀忠軍はまだ信濃で立ち往生の真最中)。

私は大垣城の天守に立ち、関ケ原の方向を眺め考えてみました(写真⑧)。関ケ原の西の端には秀頼が出陣した時のための陣城として玉城を築いていました。「玉城を家康に奪われれば、秀頼様や輝元殿が出陣できなくなってしまう!🤔」そう思ったからなのでしょうか? 

いやそれだけではないと思いました。この時、その玉城の麓の山中村には大谷吉継がいました。「このままだと吉継が危ない!!!😲」 本当は、この無二の親友を・・・守りたかったのではないでしょうか?・・・

次は、関ケ原(石田三成 陣跡)を訪れます。
 

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ぴーかる

溝口秀勝生誕地 (2023/07/22 訪問)

【西溝口城】
<駐車場他>駐車場はなし。農道の<35.219001, 136.765061>ポイント辺りは停車しやすい。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾13城目。承久の乱で功のあった溝口氏は美濃国大桑に領地を与えられたが、応永年間(1394~ 1428年)にここに移り住んだ時に築城したとされます。築城者が溝口勝政となっており、子孫の初代新発田藩主である溝口秀勝の父も溝口勝政となっていることから150年以上生きてたはずもなく時代がずれています。築城年代や他が間違っているか、または秀勝の父勝政は先祖と同名を名乗ったかと考えます。
 現在は遺構は残っておらず、民家みたいな成願寺の正面入った所の植え込みの中に古い城跡碑があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

遺構はそんなに‥ とりあえず土塁登る。 (2023/05/04 訪問)

石岡城は外城(とじょう)とも呼ばれ、府中城の外城と
されています。札掛神社の背後に土塁が残り、林の中に
その姿を留めています。周囲には堀の跡も残っているようです。
建保2年(1214)常陸大掾を継承し、常陸国衙にて政務をとっていた
大掾資幹は鎌倉幕府から府中の地頭職に任じられ、この地に
居館を構えたのが石岡城の始まりとされています。
大掾詮国の代に府中城に本拠を移したので石岡城は「外城」と
呼ばれるようになり、城主には石岡氏・札掛兵部之助・田島大学などの名が残り、
天正18年(1590)大掾氏滅亡の際に廃城になったということです。
札掛神社はかつての城主、札掛氏を祀っているようです。

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しんちゃん

堀の一部は道路に、郭は神社、公園、学校に (2023/05/04 訪問)

下館城は東の五行川に面する台地に築かれています。
八幡神社が本丸跡とされ、南の下館小学校が二の丸、三の丸のようです。
本丸と二の丸の間は道路が深い堀切のようになっています。
西の下館公園は出丸である西城の跡で、西城の南に位置する
御殿跡は宅地化しています。八幡神社の北にある本丸堀切は
実訪問です。調べが足りなかったですね‥。
かつて藤原秀郷が平将門討伐のため上館・中館・下館を築き、
下館を伊佐氏が領有した後に、結城氏の家臣、水谷伊勢守が下館に
城を築いたとあります。
江戸時代は城主(氏族)がたびたび変わり、享保17年(1732)
石川氏が2万石で入り、明治まで続いたとのことです。

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しんちゃん

常陸一千有余年 (2023/05/04 訪問)

府中城は石岡小学校が三の丸跡とされ、本丸は市街地化
されているようです。かつては常陸国国府が置かれ学校内に
石碑と「常陸のみやこ一千有余年之地」の碑が建っています。
小学校には陣屋の門があり、南側には土塁が残っています。
府中城は大掾詮国によって築かれたとされています。
小田原攻めで豊臣秀吉に従わなかった咎で、天正18年(1590)
佐竹義宣に攻められ大掾清幹は自害し、一族も滅亡したとあります。
江戸時代には陣屋となり、六郷政乗が一万石で入封、その後皆川氏が
入りますが嫡子無く除封、天領となりますが元禄13年(1700)
徳川光圀の弟、松平播磨守頼隆が二万石で入り、明治維新まで続いたと
いうことです。

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しんちゃん

主郭周辺の土塁が良く残る。 (2023/05/05 訪問)

那珂西城は国道123号線の東側の宝幢院が本丸跡とされています。
立地的に那珂川の西岸に位置する台地上に築かれており、西には
西田川が流れています。天然の川に囲まれた台地上に築かれている
この地方では良くみられるタイプの城跡です。
本丸の周囲は高い土塁で囲まれ、南に中城、西に兵庫坪(郭とみられる)
が配置され、国道沿いに兵庫坪の土塁が一部残っているようです。
秀郷流藤原氏の6代の孫、通直の子、通資は那珂郷に居住して那珂氏
を称したとされます。孫通泰は弟能通に戸村を譲り、那珂西に築城し
共に那珂川中流を支配して豪族になったとされています。
しかし南北朝の争いの際には南朝方に属し、北朝方の佐竹氏に敗れ
時の当主、通辰は太田城近くの増井勝楽寺境内で一族とともに自決し
那珂西城には一時、佐竹一族の真崎兵庫介が入ったと伝わります。

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能登守利信

けの汁 (2023/07/18 訪問)

弘前駅下車、観光案内所より自転車をレンタル、約10分。駅西口より、県道260号を北上、和徳稲荷神社の鳥居が左手に見えてきますので、そこから城址に入ります。推定土塁と『けの汁起源』案内板を確認できます。

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じゅんじん

城址碑 (2023/06/03 訪問)

鎌倉殿おなじみの長沼宗政さん一族のお城になります。
城址碑のみでした。

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じゅんじん

住宅街 (2023/06/03 訪問)

片隅に説明板が建っていました。多摩ニュウータウン造成で切り取られました。

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じゅんじん

この辺り? (2023/05/27 訪問)

太田道灌城と西久保城あたりになります。痕跡が見つかりません。

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イオ

延暦寺(滋賀県大津市坂本本町) (2023/07/15 訪問)

延暦寺(城びと未登録)は、平安初期に最澄が比叡山に開いた天台宗総本山の寺院で、平安中期に円仁派と円珍派が対立すると、追放された円珍派が南麓の延暦寺別院の園城寺(三井寺)に入って独立、園城寺と抗争を繰り返す中で武装化し、多数の僧兵を擁する城郭寺院となりました。最盛期には寺領6万石を数え、白河法皇や鎌倉・室町の武家政権も意のままにできない権勢を誇りましたが、戦国末期に織田信長の焼き討ちを受けて全山焼亡し、後に羽柴秀吉から復興が認められるも、武装放棄を条件とされたことにより城郭寺院としての延暦寺は終わりを告げました。江戸期には上野の寛永寺が天台宗の中心地となりましたが、幕末の上野戦争で寛永寺が焼亡すると延暦寺が地位を回復し、現在に至っています。

延暦寺は東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三つの地域に大別され、東塔は延暦寺の総本堂にあたる根本中堂を中心に、大講堂、文殊楼、戒壇院、法華総持院東塔などの主要な堂塔の建つ延暦寺発祥の地です。現在、国宝の根本中堂は改修中(令和8年度まで)のため外観は見られませんが(拝観はできます)、仮設の修学ステージからは根本中堂や廻廊の修理状況を屋根の高さから見学することができます。これはこれで貴重な機会ですね。
西塔は東塔の北約1㎞の釈迦堂(転法輪堂)を中心とする区域で、武蔵坊弁慶が両堂をつなぐ渡り廊下を天秤棒として担ったとの伝承のある常行堂・法華堂(にない堂)のほか、北側に少し離れたところ(徒歩7分)にある瑠璃堂は、信長の焼き討ちを逃れた唯一の建物と云われます。瑠璃堂に向かう道中に山の斜面を見おろすと階段状に削平地が設けられていました。僧坊跡でしょうか?
横川は横川中堂を中心とする区域で、魔除けやおみくじ発祥の地とされる四季講堂(元三大師堂)や恵心堂などがあります。舞台造りの横川中堂は現在の建物は昭和の再興ですが、江戸初期の改築は淀殿によるものと伝わります。
また、比叡山・奥比叡ドライブウェイには多くの展望台が設けられていて、登仙台展望台からは京都方面が、びわ湖展望台から堅田方面がよく見渡せました。琵琶湖水運と琵琶湖から京都に至る峠道を掌握し、京都に睨みを効かせる……城郭としても絶好の位置であることを実感します。

この日に延暦寺を訪れたのは、直接的にはニッポン城めぐりのイベントのためですが、昨年に高野山を訪れた際に、いずれ比叡山にも…と思っていたので、ちょうど良い機会でもありました。比叡山はたぶん2回目(前回は小学生の頃?)なんですが、今回訪れてみて新たな気付きがいくつもあり、中でも大講堂での説明で高野山を仏教の専門大学、比叡山を総合大学と評していたのには、なるほどと得心がいきました。山上に独自の密教世界を現出させた高野山と、仏教各宗派の源流として日本仏教の母山とも呼ばれる比叡山。どちらが優れているとかでなく、いずれも違った意味で日本の仏教にとってかけがえのない存在なんだなぁ、と。大講堂の本尊の両脇には、比叡山で修業した各宗派の宗祖(日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍)の木像が居並び、特に仏教に詳しくない私でも知っている(教科書で見かける)顔ぶればかりなのは凄いことですよね。また、参詣者は本尊を見上げるのが通常ですが、根本中堂ではわざわざ本尊のある内陣を一段低くして本尊と参詣者の視線を等しくしています。これは人はみな仏となり得るのだから仏と人は等しい関係にある、という最澄の教えを形に現したものなんだとか。不滅の法灯や「一隅を照らす」の教えとともに、特に印象的でした。こういう教えがあるからこそ、日本仏教の母山となり得たんでしょうね。この日は4時間あまりをかけてじっくり延暦寺をめぐりましたが、それだけの価値はありました。
 

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