15世紀中頃、本多定忠定助により築城。約150年間伊奈本多氏の居城だった。現在は円弧を描く土塁が残り、石碑・案内板など公園として整備され、模擬櫓や発掘に因み模擬逆茂木のある堀が再現されている。往時は三方を河川と沼地に囲まれた要害堅固な城で、城下まで大舟が入ったそうだ。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2023/12/01 21:56
三葉葵の紋発祥の城
15世紀中頃、本多定忠定助により築城。約150年間伊奈本多氏の居城だった。現在は円弧を描く土塁が残り、石碑・案内板など公園として整備され、模擬櫓や発掘に因み模擬逆茂木のある堀が再現されている。往時は三方を河川と沼地に囲まれた要害堅固な城で、城下まで大舟が入ったそうだ。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2023/12/01 21:25
二の郭の南に石垣と畝状の空堀群(竪堀に変化)がある。 (2023/11/25 訪問)
真篠城は標高260m、比高50mほどの小山に築かれています。小さいですが駐車場もあり、案内板も立っています。「南巨摩郡誌」(昭和11年)によれば「武田信玄の時代の烽火場で原大隅守が警護し、その後真篠勇太夫が居館である」と記してあるそうです。
城郭大系には真篠砦として記載がありますが、実際に訪れてみるとなかなか城としての機能を備えているようです。
案内板から城址方向に歩いてみると段々の平坦地が現れます。最高所が主郭で南下に二郭と見られる郭。二郭の左手に土塁か土橋のようなものが主郭に続いていています。主郭の周囲は土塁で囲まれ虎口は北側についています。主郭西側にも郭があり、尾根上にさらに西に降りていくと堀切が尾根を遮断しています。ふたたび二の郭に戻って南に向い、下側に降りたところに石垣が残っています。
そこからさらに南に向かうと畝状の空堀群が郭の端に並んでいてその様は実に壮観です。空堀群はそのまま斜面に続いていて畝状空堀群に変化しています。普段山の斜面に付いている空堀群をこれほど間近に見ることはなかなか無いので、少し感動しました。守る方も動きづらいんじゃないかと思いますがどのような意図で作ったのでしょうか?この城以外ではなかなかお目にかかれない珍しい遺構です。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2023/12/01 20:42
江戸城1 (2023/08/13 訪問)
夏休みに約5年ぶりに東京に帰郷しました。江戸城は小さい頃行ってましたが、確か公園で遊んでた気がします。
そんななか江戸城に改めて訪問しました。ただこの日は運悪く土砂降り。最初はパラパラだったんですが、富士見櫓を写真撮っている間に急に大雨になってしまいました。
最初は駐車場で車をとめて、平川門から行きました。やっぱり江戸城の門は全部大きいですね。驚きました。
その後はいくつか石垣や虎口を見ながら北桔梗門に辿り着きました。そしたらすごいいい写真が撮れました♪高石垣と水堀がとっても美しかったです。ただ門の前に警備員さんが必ずいてなんか生きづらかったです。その後にはもう天守台に着いていました。行く順番絶対間違ってる。
とりあえず一旦ここで切ります。
続く
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
2023/12/01 19:31
2023/12/01 19:22
2023/12/01 19:13
2023/12/01 18:29
2023/12/01 18:24
2023/12/01 16:56
城名石碑だけでも有難い (2023/11/12 訪問)
常陸吉田城を終えて水戸城方向へ移動し丁度中間に在る武熊城に初登城。水戸城からは南東に1.5km程の水戸市竹隈市民センターの東角に城名碑が側面に由来書きで立っています。
駐車場:水戸市竹隈市民センターの駐車場を利用
参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。
竹隈市民センターに車を駐めて、東角の有る城名石碑を確認、側面の由来書きを確認し、周辺を確認するが住宅地、竹隈市民センター東角の生垣の中に石碑が立っている、ごみの集積地の様で黄色いネットが置かれてる。
石碑の由来によると、かってこの地には東西550m南北400mに渡り武熊城が存在した。吉田の豪族石川望幹が築城したと伝えられる。その後江戸氏の支配を経て、天正18年(1590年)佐竹氏が水戸城を攻略し城主となるに及んで、一族の東義久の居城となった。
佐竹氏移封後は廃城と成った。慶安4年(1651年)柳堤築造の時、採土されて城跡は無くなった。と記されています。
この後近くまで来ましたので水戸城へ、イチョウのモミジを観たさに寄りました。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2023/12/01 12:14
大洲城探訪 (2023/11/22 訪問)
大洲城を訪問しました。河後森城から自動車にてのアクセスで、駐車場は大洲市観光第一駐車場を利用しました。(無料です)
大洲城の歴史は鎌倉時代の宇都宮氏から始まり、現在の天守の姿は慶長年間に築城されたのこと。しかし、明治時代に天守が取り壊されることになり、天守好きには残念なことです。
とはいえ、平成時代に木造復元天守として再建、楽しみにして登城しました。他の見どころは平成時代に再建された木造復元天守と当時からの建物である4つの櫓、下台所です。
また、麓には城下町としての街並みと現存する南隅櫓が残っており、登城後の散策にピッタリです。南隅櫓の内部も見学できますので是非寄ってみてください。
最後には肱川越しの天守を撮影するために肱川橋まで行ってきました。大洲城の守りの固さがわかります。
なお、大洲城は、日本初の城泊「大洲城キャッスルステイ」ができるとのこと。城主気分にて宿泊したいものですね。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2023/12/01 12:05
河後森城探訪 (2023/11/22 訪問)
河後森城を訪問しました。交通の便を考えて、自動車での訪問です。登城は風呂ヶ谷駐車場からとなります。駐車場にはパンフレットが用意されていますので、登城の参考になります。
河後森城は山城ですが登城路は整備されており、軽装でも登城できます。登城日も下草の刈り込みをしており、登城者にはありがたいですね。
また、案内板も岐路等にはありますので、迷うことなく目的地に行くことができると思います。
登城口から登りはじめ、西第十曲輪から順に進み、西第二曲輪を過ぎて本郭にはゆっくり回っても30分程度で到着できます。幸い天気も良く本郭からは松野町の街並みが良く見えました。山城の良いところです。
帰路はそのまま降りて駐車場にも行けましたが、時間もあり古城、新城にも寄って降りました。これらを回ってもさらに30分あれば十分でした。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2023/12/01 11:23
若狭城が城Ⅷ番外編 (2021/07/01 訪問)
若狭町には若狭鉄道が走っています。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2023/12/01 11:16
2023/12/01 11:08
2023/12/01 11:01
2023/12/01 10:53
2023/12/01 10:49
黄門さん所縁の寺、空堀も遺ってる (2023/11/12 訪問)
高田氏館、勝倉城址を終えて水戸城方向へ戻って来ます、近くまで来て道が細く不安になり通りの方に案内いただく。
水戸城から南2km程の吉田城に初登城、水戸黄門・徳川光圀が建てられた佛日山常照寺が城域に建っています。
駐車場:常照寺東側山門の下に2段に分かれて駐車場(36°21'30"N 140°29'28"E)
参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。
駐車場よりよく写真で拝見してる山門を観察確認、山門扁額に水戸黄門の源光圀の名が記されている、右わきに吉田城跡の石碑、側面に由来が記されてる。山門を潜り参道階段を登る、両翼は切り取った土塁、上段に着くと大木の杉林参道で幽玄としている、両側は曲輪で有ったのだろうが今や藪に成っている、中の門があり、その手前には空堀が確認できる、奥の門を潜って本堂へ参拝、常照寺は臨済宗のお寺で当日法要がいとなわれていました。
本堂の西奥裏手に空堀が在るとの情報で本堂と墓場の間を通って奥へ奥ギリギリ生垣の絶えた処から藪越しに空堀が確認、本堂を南、西へと横堀が通って居るようです、生垣が厚くてよく確認できません。
降りて山門から東方向へ東側の切岸、常照寺池(富士池)の観察見学し往時は三方が沼だった古を描いてみた、現在北側西側とも住宅街に成っています。
石碑の側面由来によると、常照寺を中心とするこの半島状台地は昔三方を沼が囲み武士の居館に最適は要害であった。
平安末期から鎌倉初期に大掾盛幹がここに初めて館を立てて、吉田の太郎と称し子孫代々勢力を競ったが応永の末に江戸氏が水戸城を奪取してからは、この城もその一党の手に帰し土塁や濠を強化したと推察される。
佛日山常照寺を建てたのは徳川光圀であった。と記されています。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2023/12/01 10:45
2023/12/01 10:39
✕
人が「いいね」しています。