蛭ヶ小島は平治の乱で敗れた源義朝の嫡子・源頼朝の配流の地とされています。かつては大小の中洲があったと考えられていて、永暦元年(1160)14歳でこの地に流された頼朝は治承4年(1180)34歳で挙兵しやがて武士の世の基礎を築きました。
願成就院(跡)は国の史跡に指定されていて文治5年(1189)北条時政によって創設されたとされています。境内には北条時政の墓があり国宝の仏像は拝観が可能になっています。
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2024/01/12 23:12
蛭ヶ小島 願成就院 伊豆の国市 (2019/05/12 訪問)
蛭ヶ小島は平治の乱で敗れた源義朝の嫡子・源頼朝の配流の地とされています。かつては大小の中洲があったと考えられていて、永暦元年(1160)14歳でこの地に流された頼朝は治承4年(1180)34歳で挙兵しやがて武士の世の基礎を築きました。
願成就院(跡)は国の史跡に指定されていて文治5年(1189)北条時政によって創設されたとされています。境内には北条時政の墓があり国宝の仏像は拝観が可能になっています。
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2024/01/12 22:56
堀越御所 静岡県伊豆の国市四日町御所内 (2019/05/12 訪問)
堀越御所は将軍足利義政の弟・政知によって築かれたとされています。当初は鎌倉に行く予定だったのですが戦乱のため韮山の堀越の地に居館を築き「堀越公方」と呼ばれるようになったそうです。今では一面更地のようになっていますが建物や庭園跡などが発掘されているようです。足利御所も政知の子・茶々丸の時に伊勢新九郎によって滅ぼされてしまったそうです。
今では国の史跡として登録・管理されています。
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2024/01/12 22:33
野間氏の城 (2024/01/11 訪問)
妙見山に続く南嶽山から派生する城山にあり、北へ階段状の曲輪、尾根側(南西側)に堀切と竪堀を設けています。主郭背後の堀切は倒木があるものの迫力があります。その堀切の北側に複数の竪堀があり、もうひとつ堀切がありました。
北の麓には野間館跡があります。
案内標識等が全くなく、登城口を見つけるのに少し彷徨いましたが、ネット情報等を参考に何とか主郭まで行くことができました。登城路を見つけてしまえば道はわかりにくくなっている所もありますが、迷うことはありません。
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2024/01/12 22:22
韮山城付属砦・天ヶ岳砦 (2019/05/12 訪問)
天ヶ岳砦は韮山城から尾根続きで行ける山の頂上部に築かれています。登城時は国土地理院の地形図をスマホにインストールしていなかったので、カンを頼りにひたすら尾根道を登りました。虎ロープでなければ登れない箇所もあり、急な痩せ尾根や崖などヒヤヒヤする箇所もありました。堀切や郭を確認しそれなりに収穫はあったとして引き返しましたが、この山は分岐した細尾根上に幾つもの堀切や小規模な郭が配されているようです。
ただこれらの遺構を全部見ようと思うとかなりの体力と時間が必要になりそうです。
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2024/01/12 22:15
2024/01/12 22:01
2024/01/12 21:56
北条早雲(伊勢新九郎)ゆかりの城 (2019/05/12 訪問)
写真が古くて申し訳ないのですが韮山城の投稿です。天ヶ岳砦のある山の北西の丘陵上に築かれていて、東に城池、西に館跡の韮山高校が有ります。最高所を主郭に北に二の丸・権現曲輪・三の丸と続き権現郭の周辺は深い堀で隔てられています。
南東に尾根沿いに天ヶ岳砦につながっていて、天ヶ岳砦の西側にも土手和田砦・和田島砦が配されています。
韮山城は戦国期北条氏と深い繋がりがあって、延徳3年(1491)伊勢新九郎長氏(宗瑞)が堀越公方足利茶々丸を滅ぼし伊豆を平定した際に築かれ生涯の居城としたとあります。天正18年(1590)の小田原征伐に際には北条氏規が3600の兵でこもり4万4千の豊臣軍相手に頑強に抵抗したそうです。これに手を焼いた豊臣方は朝比奈泰勝を使者として説得にかかり6月24日に開城、氏規は後に河内国内に6900石余を与えられ子の氏盛の時代に1万1千石の大名に復帰したそうです。
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2024/01/12 21:11
東武ワールドスクウェア 日本編 (2019/11/02 訪問)
栃木県日光市・東武ワールドスクウェア 日本の建築物を集めてみました。東大寺や法隆寺などの古代建築を扱ったコーナーはピラミッドやヴェルサイユ宮殿などと比べると少し地味な印象を受けました。そんなに小さい建物でもないのですが、あちらさんが大きすぎるのではないかと思います。スカイツリーやエンパイヤステートビルなど数十メートルの大きさになりますからね。
個人的には別エリアを設けて現存天守や百名城などを1/12スケールくらいで再現してもらえるとうれしいですね。あくまで個人的要望ですけど。
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2024/01/12 20:54
博物館明治村 (2019/12/08 訪問)
博物館明治村は愛知県犬山市にある野外博物館・テーマパークです。敷地面積は約百万平方mでかなりの広さを誇っています。京都市電の車両がテーマパーク内を縦断しており鉄道好きでも楽しめます。
重要文化財の旧西郷従道住宅や旧三重県庁舎など多数の歴史的建造物(明治時代以降の)が移築され、聖ヨハネ教会堂や聖ザビエル天主堂などの宗教的建造物も豊富です。(宗教的な理由からか寺社仏閣は逆に少ない)
最大の目玉は帝国ホテルから部分的に移築されたフランク・ロイド・ライト設計の玄関・ロビー部分です。マリリン・モンロー/ジョー・ディマジオ夫妻やアルバート・アインシュタインなどの著名人も宿泊した帝国ホテルはライト氏の最高傑作だと思います。(個人的感想)できればダンスホール部分まで移築してほしかったのですが‥魚の頭みたいな格好になってしまいましたが、一日では足りないほどのボリュームを持った壮大なテーマパークに仕上がっています。
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2024/01/12 20:01
2024/01/12 19:36
タダモノではない感はある (2023/04/22 訪問)
堂々たる石碑はタダモノではない感が漂っているが現地には何もない。しかし畠山氏有力被官の遊佐氏に始まり椎名氏や佐々氏などの重鎮が守りを固め上杉氏や前田氏によって都度落とされてきたその歴史はやっぱりタダモノではない。
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2024/01/12 13:07
2024/01/12 12:51
2024/01/12 09:38
七尾城被害状況(※写真は被災前) (2019/08/21 訪問)
まずは被災された方々の生活が1日も早く再建されることを切に願います。その上で、またいつかあの絶景を眺められる日が戻ってくるよう、微力ながら応援したいと思います。
被害状況〈北國新聞記事〉→ https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1285926
以下、過去投稿の再掲です(*写真は2019年8月撮影)
【戦国最強決定戦 -序-】
1年に及ぶ包囲戦の末にようやく七尾城(石川県七尾市)を落とした上杉謙信は、本丸のある山頂からの絶景に感動して漢詩を詠んだそうです。軍神と謳われた男の、一風変わった喜びの表現だったのでしょうか。裏を返せば、この城攻めがいかに難しかったかを物語っているのかもしれません。
石動山系に位置する城山の7つの尾根に築かれた能登畠山氏の大要塞。格式高い三管領家の分家にふさわしく、当時は三の丸手前の曲輪で衣服を整えることが求められたとか。各曲輪は大小の堀切で遮断され独立性が高く、至る所に大がかりな石垣が積み上げられています。注目すべきは本丸前面。2mほどの野面積の石垣を階段状に積み上げることで、当時はまだ未発達だった高石垣の代わりとしたようです。本丸最高部は標高300m。謙信が眺めたであろう七尾湾を一望できます。
アクセスには市内循環バスが便利。JR七尾駅から15分ほどで山麓の資料館まで行けます。また、駅構内にはレンタルサイクルもあります。
さて、この城攻めに際し、一度は兵を引くことを余儀なくされた謙信。その後、力攻めは諦め、彼にとっては珍しく、調略で仕留めたそうです。能登を押さえることで、越中から加賀に侵攻していた上杉勢は後顧の憂いなく越前の織田方と対峙。武田信玄はすでにこの世を去っており、ここに戦国最強決定戦の舞台が整ったのです。
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2024/01/12 07:05
2024/01/12 05:18
陣跡めぐり(伝織田信長陣~×伝佐久間信盛陣) (2023/11/04 訪問)
(続き)
伝堀秀政陣から大曲輪を経て伝織田信長陣へ。伝織田信長陣は南北に続く主尾根に設けられた5つの曲輪からなり、最高所が主郭です。主郭の南東部には長桝形虎口が開口し、虎口の先に石碑と説明板が立てられています。長桝形虎口に掲示された推定復元図を参考に南東麓に下りて行くと、帯曲輪があり土塁が遺っていました。
帯曲輪から東にのびる支尾根には伝佐久間信盛陣があったようなので行ってみましたが、藪に沈んでいて下りて行く道が見当たらず、さらに道中に熊か猪か大きな獣のフンを見かけたためやむなく撤退…。
伝織田信長陣の主郭まで引き返して北麓に下りて行くと、西側に大きな竪堀が落ち込んでいました。竪堀の先には信長馬場と呼ばれる細長い曲輪が北にのび、伝木下秀吉陣に至ります(続く)。
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2024/01/11 23:06
2024/01/11 22:59
陸奥の国府が置かれた山岳寺院。奇岩がそびえる堅固な山城でもあった。 (2019/08/12 訪問)
霊山城は玄武岩の奇岩がそびえ立つ霊山山頂部に築かれています。貞観元年(859)に慈覚大師円仁によって築かれた南岳山山王院霊山寺が置かれていましたが堅固な山城でもありました。本城や国司館を中心に周囲に出城を配し、東の最高所には宝寿台と呼ばれる展望所があります。奇岩が造りだす絶景は迫力満点で攻め手の兵士はさぞかし肝が冷えたことと思います。
建武4年、北畠顕家が幼少の義良親王を連れて霊山の山頂寺院に入りこの場所に陸奥国府を移したとあります。顕家は霊山入城後8ヶ月で親王を奉じて西に向かい転戦の末に和泉国石津で一族と共に憤死したとされています。
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2024/01/11 22:58
塩川氏の城 (2024/01/11 訪問)
古城山の山頂部から派生する2本の尾根に曲輪を配置し、背後を2重の堀切で守られた城です。東側の尾根に登城路が設けられています。西側の尾根にも階段状の曲輪が展開していることは主郭近くから見るとわかりました。主郭背後の堀切と竪堀は良好に残っています。自分的には一番の見どころだと思います。さらに尾根を歩いていると浅くなっていますが、堀切とおもわれる地形を見ることができます。
主郭等に設置してある機器から出る獣除けの音は気になりますね。
向山に出城があります。尾根を介して行こうとしたのですが、途中藪になっている所があり、丁寧に道を探せばあったかもしれませんが断念しました。
能勢電鉄山下駅から徒歩10分くらいで登城口に着きます。
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2024/01/11 22:26
梁川城と並ぶ伊達氏の本拠。 (2019/08/12 訪問)
桑折西山城は西方を除く三方を産ヶ沢に囲まれた高館山に築かれています。大手門から本丸に至り、西に二の丸、その先に中館・西館があるようで広大な城域を持っています。
文治5年(1189)源頼朝と藤原泰衡が衝突した奥州合戦にて功のあった中村常陸介朝宗が伊達郡を与えられ伊達氏を名乗ったとされます。その後、官道の要衝たる伊達郡桑折の近くに赤館を築いて移ったとあります。天文元年(1532)に梁川城から西山城に移ったとする記述もあるようで柳川城と桑折西山城は伊達氏の本拠とされているようです。伊達稙宗・晴宗父子における親子の争乱(天文の乱)では戦場となり周囲の豪族の仲介と将軍足利義輝の命により和睦が成り、その条件の一つとして西山城は廃城となり晴宗は家督を継ぎ米沢に移っていったそうです。
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