【守山城】
<駐車場他>城山駐車場20台程可能
<交通手段>車
<見所>石垣跡・眺望
<感想>1泊2日北陸山城攻めの旅2日目ラスト10城目。越中三大山城の1つでこれにて制覇しました。現地説明板によると守山城は築城年・築城主は定かではないが、南北朝時代末期にはその時の越中国守護斯波氏と南党の守護大名桃井氏と城の奪い合いの抗争を繰り返していたそうです。守護職が畠山氏になると守護代の神保氏がこの城を支配します。16世紀後半から神保氏張が城主となり織田家⇒上杉氏⇒織田家と臣従を乗換えますが、佐々成政が越中国に赴任すると一門衆となります。佐々成政の秀吉への反乱時にはそれに従ったために前田利家軍に攻められ守山城は落城します。落城後に秀吉は前田利家の嫡子利長に守山城を与えますが家督を相続し金沢に移ります。城代に前田長種を置きますが城下の寺院や商工業者は急速に富山に引き上げ寂れていったそうです。
現地は公園化して改変されているようですが、主郭や並行する南側下段の曲輪、主郭の南側に2段ある舌状連郭などは曲輪の形状のまま残されているように見受けられました。主郭の帯曲輪から西側に回り込むと主郭西側曲輪壁に僅かに石垣が残っており、帯曲輪に多く転落石があります。主郭南側曲輪壁は草がボウボウでよく分かりませんが所々金網が張ってるのでもしかしたら草の奥に当時の石垣があるのかも。また主郭南側の舌状連郭の法面にも石垣跡があります。高岡市教育委員会の「守山城跡詳細調査概報」によると舌状連郭の2段目の東屋のある曲輪が二の丸、森化していますがその南西側を三の丸としています。二上山万葉ラインの西側はほぼ大手道を拡張改変したようで森化していますが侍屋敷や曲輪群が麓まで広がっていたようで城域は広大だったようです。
前述の行政の調査が平成25年に初めて本格的に行われており、それまでに公園化されてしまっていることから主要部のいい遺構はもはや無くなっているか土中に内包しているか、後者を期待したい城跡でした。
これにてこの旅終了。1日目に予定していた森寺城は道路工事中のため通行止め登城不可などありましたが充実した山城巡りができました。走行距離864㎞無事走破。
<満足度>◆◆◇
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