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くうくう

幕末の異国船の襲来に備えた海防施設

佐渡に60ヶ所の台場が築かれたという。今では姿を留めるものはないが、ここは小規模ながら直線延長約45mその馬蹄型の土塁の形がよく残っている。大筒4挺を据えたらしい。すぐ前には日本海の荒波が見える。平成14年に県史跡に指定された。

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歴史案内活動【11月23日(木祝)10:00~12:30】 (2023/11/23 訪問)

こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

暦は断りもなく11月、ハロウィンが過ぎて街はクリスマスの気配、
甲府の木々も色を染めてゆく今日このごろ。
Eは訳あってただいま沖縄暮らしなので、微妙な季節感は想像で埋めるしかないのですが
長年甲府で活動している経験則で、晩秋の武田神社を思い浮かべてます。

そんな11月、当隊による武田神社歴史案内活動を行います。

日時:11月23日(木祝)10:00頃~12:30頃
場所:武田神社(史跡武田氏館跡・山梨県甲府市)
ガイド:局長・大塚與左衛門、弥三郎景政

❖境内に眠る戦国の史跡を、個性豊かな甲冑ガイドがご案内。
❖時間、コースはご都合・興味にあわせて自由に設定可能。
❖宝物殿、ミュージアムの展示施設も案内可能。
❖ガイドは無料(展示施設の入館料等は別途負担ください)。
❖雨天中止の場合あり(Twitter(現✗:@KoufuSamurais)で告知します)。

11月の武田神社は樹々の葉の赤や黄で彩られ、七五三を祝う親子連れでにぎわいます。
また、境内ばかりでなく、神社の北側では味噌曲輪の発掘が進められ、
稲荷曲輪の周辺では伐採によって曲輪の姿がくっきりと現れ、
図面に描かれる曲輪群の姿を目の当たりにできます。
秋の一日を境内散策でお楽しみください。

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POYO58

三の丸、二の丸、本丸編 (2023/11/03 訪問)

北千畳の後は三の丸へと歩き、写真を撮りまくりました。二の丸まで行くと南千畳がめっちゃくちゃ綺麗に見えます。城自体からもマチュピチュを味わうことができます。ガイドさんの話によると、竹田城というのはご存知の通り、秀吉の家臣の赤松氏によって築かれました。家康に改易された後、廃城となったものの建物は残り、明治維新で破壊されず、昭和時代まで残ったのにも関わらず、老朽が原因で破壊されたそうです。なんとも勿体無い!とにかく戦国時代のお城なのに枡形虎口が多いことにびっくりしました。

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いんげん丸虫

椋実城 (むくのみ)(欒峰城らんぽう)岐阜県恵那市 (2023/11/04 訪問)

標高519mの山城です。
瓢箪型の主郭を中心とした5つの支尾根に堀切、
曲輪があります。細かな遺構のつくりは戦国期に
活用された城郭であると想像できます。
看板があり、その付近に路駐可能です。

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朝田 辰兵衛

どこでもドア? (2023/10/08 訪問)

この日のラスト。日没前に行けそうだったので,JR福光駅にて途中下車。栖霞園の入口は施錠されておりました。しかし,両ワキから楽々入れそう。すると,このドアはいったい何?
「どこでもドア?」
ま,いちおう分別のある大人なので,門の奥への進入は踏みとどまりましたが,興味津々です。

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ダイエティシャン

松江城 (2023/11/05 訪問)

今回は裏門から攻城
搦手に立ち寄りました。

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カズサン

福岡城跡はゴルフ場の中 (2023/10/07 訪問)

 備前福岡城は関ケ原後黒田長政が筑前52万石を拝領し先祖の出身地をあやかり博多の町と武士の町を福岡と名付けた備前福岡の市に当たる城跡です。現在は吉井川の河川敷に長船カントリークラブがゴルフ場として運営してそのど真ん中に城跡が遺っています。

 駐車場:福岡城跡の西河川敷内駐車利用
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップに依る。

 備中備前未踏の城廻5城目の乙子城をスズメバチで早々に撤退し、吉井川沿いを約11~12km程走り、6城目の備前福岡城跡へ、先ずは長船カントリークラブのフロントを訪ね福岡城跡への探訪と入場をお願いする、探訪日は土曜日でゴルフ場はプレーヤーで一杯、進入ルートを教わると、ゴルフ場北の端に在るサッカー場方向から河川敷に降りて吉川沿いの砂利道を走行して城跡地へ、プレーヤーとゴルフボールに注意して行動してくださいとのこと。県道464号線から河川敷に降りる道が逆ターンしてますので切り返しで進入と成ります。
 ゴルフ場西側で吉井川近くの独立した丘が城跡と成り頂上は岩盤、上に稲荷神社が鎮座してる、若干の堀が周囲に存在してる、南側の鳥居傍に福岡城跡の鳥居、またその近くに渋染一揆結集の地の石碑と案内板も有ります。
 
 ゴルファーに注意しての探訪、ありがとうございました、奇麗に遺跡が守られています。

 次は7城目の茶臼山城へ向かいます。
 
 

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にのまる

屏風折れ土塀礎石 (2023/09/08 訪問)

二の丸土塁北東部の肴町向櫓を過ぎ艮櫓に向かって歩いていると「屏風折れ土塀」の説明が目に入りました。
え?どこどこ??と慌てて足元をさがすと鋭角に折れ曲がった礎石が!
すごーい✨感動っ!!

屏風折れ土塀といえば2年前に見に行った西尾城(愛知県西尾市)が思い出されます。西尾城は絵図からの復元でしたが、ここにあるのは「現存遺構として全国で初めて検出された」屏風折れ土塀の礎石。
発掘調査では北門から艮櫓にかけて(北東部)検出されたそうです。ほかのところと同様、2時期の礎石が確認され、古い時期のものは内折れで、新しく構築されたものが外折れとのこと。また、江戸時代後期の秋元氏の時代の城絵図には北側~西側には土塀は描かれていないそうで、再構築しなかった理由など、興味がつきません。(※)

そしてついに二の丸土塁最後の艮櫓に到着しました。大きい上に天端石まで残存していたのだと!発掘された瓦は5.5tと肴町向櫓をさらに上まわっています。
二の丸土塁には全部で6基の櫓。(三重櫓跡は写真⑨、乾天狗櫓跡は⑩)
南門からスタートして2時間たっぷり楽しみながら1周半しました。
3回目の訪問でやっと二の丸(霞城公園)の全体像が掴め、楽しみ方がわかってきた感じです。公園散歩から城跡探索にレベルを上げられて、見える世界ががらりと変わって、行ってよかったなぁと思いました。時間をかけて可能な限り隅々まで歩く。城を理解するにはやはりこれがいちばんです。駅近の公園整備された平城なので味わい深い遺構は多くないと勝手に決めつけていた過去の自分を、見る目がなかっただけじゃないかと叱ってやりたいです。
<つづく>

(※)「史跡山形城 発掘調査現地説明会資料(山形市教育委員会 社会教育青少年課)」を参照しました。

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カズサン

スズメバチ注意‼で麓のみ撤退 (2023/10/07 訪問)

 岡山城のリニューアル天守閣の登り金色に輝く鯱、鬼瓦、丸軒瓦を写真に収め終えて、南東約12~13km程に在る、備中備前未踏の城廻5城目の乙子城を目指す、児島湾、吉井川に面した小島の様な孤立城郭、木々が色付いていました。

 駐車場:特に無し、西麓の大国主命神社鳥居前の広い三角コーナー、交通量少ない。
 参考資料:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップ、城びとによる。

 赤い城さんの投稿でスズメバチの被害に遭われた内容は確認して居ましたので、丁度小学生高学年の児童が二人登城口に当たる鳥居の間に座って居ましたので、スズメバチの飛翔状況を聞いたら「居るみたい飛んでるようですが巣の場所はわからないとの事」対処する薬など持ち合わせ無く、麓あたりと、「宇喜田直家国とりはじまりの地」大きな自然石に刻まれた碑を確認、碑を入れて木々が色付いた乙子城を撮影。

 宇喜田直家の時代には干拓のされて居ないでしょうから、児島湾に突出た先の小島に城郭を構えて児島湾、瀬戸内海、吉井川の海運水運の睨み監視に有効な立地だったのでしょう、岡山城からR2を走行、広い広い田圃の中を走ってる様でしたが昔は湾で海だったのですね。

 他の登城口は、古城盛衰記さん情報によると南東麓の集落乙子神社側からの登城が可能なようです。

 この後は吉井川上流約11km程の福岡城に向かいます。
 
 
 

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天守無しがアツい

金沢城と兼六園 (2014/09/14 訪問)

金沢駅から20分くらい歩いた場所にまずあったのは金沢城 ここは加賀百万石・前田氏の居城だった城です。敷地はとても広く、芝生が多くて「北陸の皇居」と名付けたくなるほどでした。

ここには天守閣は無く、櫓がいくつかあるのみで、無料と有料の施設があり、無料のみ見学しました。そこは近年復元したモノと思われ、造りは新しかったです。城の城壁を造る工程、城壁の地層、戦国期における前田氏に関する説明が展示されてました

この城の道を挟んだ隣が、かの有名な兼六園でした。橋を渡り昼食を摂ったあと、入園。さすが観光名所というだけあって、遠くから来たと思われる方、外国客も少なからず見受けられました

ここは敷地が広く、福井市にある養浩館庭園の何倍もありました 中には小高い丘や屋敷などがあり、都内の庭園(六義園)を思わせる雰囲気がありました。

せっかく来た地方の名所なので、帰りのバスの時間まで時間の許す限り、この中をうろつきました 添付画像は言うまでもなく、ここ兼六園で写したものです。我ながらにキレイに、そして澄んだ景色を撮れたと思います

ここは養浩館庭園と異なり、屋敷の中には入れず、ただ歩くだけでしたが、こういう自然の中を巡るのは、何か心が癒される気がします。和風ならではの雰囲気がそうさせるのでしょうか…

休憩所に「あんころ餅」という金沢の名物を提供する店がありました。せっかくなので注文。一言で言うと、あんこに包まれた白い団子です

それを一緒に出してもらったお茶と一緒にいただき、のんびりしました… あんころ餅のあんこが甘くて、ちょっと口の中でベトベトするくらいでした。お茶を飲んで味のバランスをとりつつ、計5個の餅をゴザの敷いた椅子の上で食しました

ラストとして庭園に話を戻すと、敷地の広さ・景色の壮大さは兼六園の方が養浩館庭園より勝っていました。けれど屋敷の中に入れた・そこから池を間近で見れるそのレアさを意識すると、決して兼六園に劣ってないと思うし、むしろこっち(養浩館庭園)の方が印象に残ってしまったのですよね…。私には

そう、養浩館庭園はまさに「かなりの穴場」だった。だから「養浩館庭園と兼六園、もう一度行けるとすればどっち?」と聞かれたら、前者を選択するでしょう…。

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HKISD

龍野城散策 (2023/11/17 訪問)

どこも整備されていて非常に散策しやすかったです。
城跡も素晴らしいですが城下町の町並みが良かったです。

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天守無しがアツい

あえて復元しない (2016/06/29 訪問)

仙台駅から電車で15分程度の場所に国府多賀城駅があります。そこから少し歩くと見えてくるのが多賀城跡です。

奈良時代あたりに、ここ多賀城は国の重要拠点であり、大宰府と並ぶ日本の中心地でした。塀でぐるりと囲まれた中に本殿があり、そこで公務が行われていたという様子が案内板の想像図に描かれていました。

貴族、城の入口を警備する守衛、そして本殿の前にいる庶民。『羅生門』の世界もこんな感じなのかなと連想しました。

といってもそれはあくまで1000年以上前の様子を誰かがイメージしたもの。今ある多賀城は、柱の跡があるだけの空地。多賀城址とも言えました。

瑞鳳殿、つまり江戸期に建立された建物は関連資料が多いのか復元されることが多いと思います。

しかし多賀城のような奈良時代、1000年以上前のものは資料が少ないのか、復元されず跡地を公開し、想像図を案内板に掲載することが多いようです。下手に復元すると実際あったであろう建物とかなり異なってしまい、その史跡の価値を下げてしまう恐れがあるからかもしれません…。

今回の多賀城を見て、「ここって大宰府に似ているな」と思えました。あそこも柱の跡があるだけの城跡。1000年以上も前の史跡なので。

柱の跡があるだけの空地なので、そんなに面白くありませんでした…。本殿跡まで見てから駅方向に引き返し、駅前で「あやめ祭り」がおこなわれていて、数多くのあやめが植えられていたのでそれも見物して過ごしました

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詠狸庵

針塚古墳から信濃府中の山城群を望む (2020/11/08 訪問)

松本市里山辺(古くは束間郡山辺郷)は松本市街の東郊、美ヶ原高原の西麓に当たります。弥生〜古墳時代には現在の松本市街中心地域は湿地、沼沢地で居住に適さず、その周囲特に北東から南にかけての地域に人々が多く居住していたようです。この内の東部が里山辺地域で一帯は古代から行政の中心地となることが多く、平安時代以降この近辺に信濃国府が置かれ、また室町時代末期には薄川を挟んで信濃守護小笠原氏の拠点となる林城が造営されました。山麓にはいくつかの温泉が散在し、かつて聖武天皇が行宮の造営を計画した記録もあります。
この辺りからは信濃府中(のちの松本)の南から北東に連なる山並に、府中をぐるりと取り囲むいくつもの山城を望むことができます。

⚪︎針塚古墳
幅約2mの周溝をめぐらした円墳で直径約20m、高さは約2mで、高句麗の墓制に近い積石塚古墳。美ヶ原から流下する薄(すすき)川の右岸段丘上にあり、副葬品などから5世紀後半の築造とされています。このほかにもかつてはいくつかの古墳がありました。
奈良時代に松本地域の二人の高句麗系帰化人が、先祖より長らく住み続けて来たことから日本姓を賜るよう朝廷に願い出て、それぞれ田河、須々岐の姓が下賜されたという記録があります。その内の須々岐氏の祖先の墳墓なのではないかと私は思っています。近くには須々岐水(すすきかわ)神社もあります。積石塚は九州から関東までの範囲に見られ、特に香川県から徳島県の一部、長野県から山梨県にかけて多く、日本海側には少ないのが特徴です。

⚪︎林城(林大城・林子城)
信濃守護小笠原清宗が1459年に築城し、曾孫小笠原長棟が井川城(松本駅の南約1キロ)から同氏の本拠をここに移しました。谷を挟んで大城と小城があり、かなり規模の大きい山城で、それぞれ遺構がよく残っています。年代的には小城の方が後に築かれたようで、より山城としての完成度が高いと思います。井川城と共に国の史跡「小笠原氏城跡」に指定され、域内はよく整備されています。麓には館町が形成され地名に名残を留めています。

⚪︎水番(すいばん)城
林大城から谷を隔てた東にあり、林城の水之手を守るために築かれた支城で、竪堀、土塁、石積が残る。

⚪︎宮原城
諏訪氏系山家氏に対する小笠原氏の砦として築かれたという説があり、要害城とも呼ばれる。主郭と二つの副郭があり、傾斜に沿って四重の竪堀が残る。

⚪︎山家(やまべ)城
鎌倉時代末期に諏訪氏系山家氏によって築かれたとされる。この山家氏は1481年に小笠原長時によって滅ぼされ、その後16世紀初頭に播州姫路より小笠原氏系の折野昌治が移居、山家氏を称し小笠原貞朝に服属した。この時に現在の縄張が整備され、小笠原氏が敗れた後も武田氏によって改修、増補されたとされる。縄張はかなり広く、主郭の土塁、東側石垣や五条の連続堀がよく残る。

⚪︎霜降(しもふり)城
もともと桐原氏の支城として造営されたらしいとのこと。「下振(しもふり)」とも書き、他に上振城もあったという。規模は大きくないが縄張は整っているように見える。

⚪︎桐原城
15世紀に小笠原氏の配下であった桐原氏によって築かれたという。縄張がかなり複雑で竪堀、石積みがよく残っている。

⚪︎犬甘(いぬかい)城
松本北方の丘陵地帯から岬のように突き出した蟻ヶ崎にある。中世以降この地を支配した地頭犬甘氏の城で、南北三百メートルにわたり主郭と三つの副郭が連なる。
一帯は美ヶ原、浅間温泉、松本城下から安曇野、北アルプスをぐるりと見渡せ眺望が素晴らしい。ここに1843年松本藩主戸田光庸(みつつね)が桜や楓を植えさせ、民と共に楽しめるようにと一般に解放した。これが城山公園で、現在も桜の名所となっている。

この他、北東から北にかけて横谷入城、稲倉(しなくら)城、茶臼山城、早落城、伊深城、平瀬城等があります。




⚪︎兎川寺と旧山辺学校
針塚古墳のすぐ近くには飛鳥時代の創建と言われ小笠原氏の祈願寺であった真言宗の兎川(とせん)寺があります。明治維新の激しい廃仏毀釈によって多くが失われましたが、それもまた歴史の流れというものでしょう。
また道を挟んで明治初期の擬洋風建築、旧山辺学校校舎(県宝)があります。国宝旧開智学校の建築にも加わった棟梁佐々木喜十によるもので、意匠は旧開智学校によく似ていますが屋根は寄棟ではなく入母屋、車寄は唐破風ではなく千鳥破風、窓はガラスではなく障子と、異なる所も多くあります。華やかな開智学校に比べると少し地味な印象ですが、教育熱心な土地柄を感じます。内部は資料館として公開されています。

⚪︎信濃国府推定地域
ここと松本市街地の中間南北1kmほどの範囲に信濃国府が所在(平安初期以降)したと推定されます。地名等にその名残が見られるとされています。

この他、近くには多くの民芸品を蔵する松本民藝館、室町時代の本殿を持つ筑摩神社(重文)、大正時代の建築で現存する数少ない旧制高校校舎である旧制松本高校校舎(重文)があります。少し離れていますが東日本最古級とされる前方後方墳、弘法山古墳(国史跡)もあります。

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天守無しがアツい

大事なのは天守閣ではなく、それを支える人 (2016/03/31 訪問)

東京 大手町駅のすぐ近くに皇居、天皇家のお住まいがあります。そして皇居東御苑として存在するのが江戸城跡。江戸時代初期、ここには本丸ならびに多くの屋敷があったそうです。

徳川家康によって造られた江戸城ですが、本丸が存在していたのは1657年まで。明歴の大火という、江戸を襲った大火事で本丸および城内の屋敷の多くが焼けてしまいました。それ以降、本丸は再建されることなく、石垣だけ残して現在に至るわけです…。

本丸が何故再建されなかったのか、不思議に思い私は知恵袋で調べてみました。すると4代将軍家綱の家臣、保科正之の英断だそうで、つまり「日光東照宮の建設などで出費がかさみ、本丸(天守閣)を再建する余裕が無い。」「大事なのは天守閣ではなく、それを支える人。屋敷さえあれば本丸は無くても問題ない!」という理由のようです。

本丸が再建されなかったものの、周辺の屋敷で無事だった場所は、その後も使用され続けたようです。1702年に浅野匠頭が吉良上野介を斬りつけてしまった、刃傷松の廊下事件は、ここで発生しており、現場にはそれを示す立札がありました。

春休みに入場したのですが、入場料は何と無料です。しかし代わりに入口で札をもらうのですが、何故か今回はそれがありませんでした…。完全なるタダ見物と言えるでしょう。

上記のとおり、本丸跡と松の廊下跡を見学した後、芝生で1人キャッチボールをしました。自分で上に投げたボールを自分で捕るというものですw

現在は一部の建物を除き当時の屋敷は無く、だだっ広い芝生の公園となっています。なのでランニングしたり、寝そべったり、キャッチボールするのに最適な環境というわけです(画像1枚目)…。

イベント開催時にしか、ここの御城印販売は無いとネット情報で伺っており、そのイベントがいつあるか全く分からなかったため諦めていたのですが、飛鳥山おみやげ館という場所にて扱ってることを知った私は、とうとうそれを2枚買い(画像2枚目)我がコレクションに収めることができました🪭😄

(画像3枚目)楠木正成像。二重橋駅近くにあります。後醍醐天皇…南朝側として殉じた正成の銅像を皇居付近に建てて、崇めるということは、現在の皇室は南朝を正統と見なしているということでしょうか?

(画像4枚目)日本100名城スタンプ(江戸城の)。公式スタンプ帳付きの本を最近(令和六年三月)買ったので、スタンプ直押し第一号として押印

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T-Shionoya

岩津城と岡崎城の共通点 (2023/08/18 訪問)

「議会だより」で存在を知った愛知県岡崎市の岩津城。
調べると、広くはないものの立派な遺構が残っているとの情報で8月に訪問。

三河山地が岡崎平野に落ちる縁、岩津山に築かれた城。
矢作川に船着場があったとされるポイントで、陸路も南北に足助街道が通っていたでしょうか。

1400年代初めに山間部から進出してきた松平3代目信光の築城で、安祥城に移るまでの松平氏の本拠。
岡崎平野の覇権争いで度々標的となった要衝で、周囲には複数の砦が築かれたとのこと。
また小牧長久手の戦いの際に、家康が大改修したと考えられています。

現在は南端部が住宅地となっているものの主要部は健在。
数年前から竹藪の間伐が始まり、只今整備進行中。

実際に訪ねると、南郭と主郭間の深い堀と土橋は魅力的。
しかし個人的に最も楽しんだのは南郭の南西側。
南郭の土塁の切れ目部は堀幅が狭く、木橋が架かっていたと予想。
すると南郭櫓台、木橋、南郭(馬出)への土橋状通路が、岡崎城清海堀周りの天守、廊下橋、本丸への通路と類似。
素人の勝手な想像ですが、岡崎城との共通性を感じた岩津城が、私の城郭巡りの158城目でした。

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くうくう

三重天守と3基の三重櫓と5棟の櫓門が現存

桜で有名な弘前公園ではあるが、弘前藩津軽氏4万7千石の居城で多くの建造物が残る梯郭式平山城である。現在、石垣の修理で天守は曳屋を行い仮天守台に移動中。これはこれで珍しい光景になっている。また外郭南西には出城の役割を担う、津軽家霊屋のある長勝寺を中心とした長勝寺構があり、堀、土塁、枡形などが残る。

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じゅんじん

日吉神社 (2023/10/28 訪問)

遺構はありません。七五三の時期でした。

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くうくう

井伊家14代の堅城

標高50mほどの金亀山に築かれた平山城。望楼型三重三層で数多くの破風に飾られた現存天守がある。旧国宝法では第1号に指定された。重文の天秤櫓、西の丸三重櫓など見所は多い。また現存例の少ない登り石垣や馬屋も見られる。徳川四天王の井伊直政から始まる彦根井伊家は、多くの大老を輩出し譜代最高の30万石を誇った。

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刑部

ノブくんの城 (2023/10/08 訪問)

北海道では珍しく標高が高い所にある城。
かなり整備されていてとても快適に探索できました!

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じゅんじん

本行寺 (2023/10/28 訪問)

日蓮上人入滅の地になります。

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