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チェブ

船着き場もあった お城。 (2023/05/13 訪問)

以前 投稿した「関城」の後に「大宝城」に転戦しました。

1232年、下妻 長政さんが築城しました。
その後、南北朝時代には「関城」と共に南朝方の拠点になった「大宝城」ですが、北朝方に攻め込まれ落城しました。
その時の城主、下妻 政泰さんは討死します。

「大宝城」の入口に着くと奥が高くなっているのが見えます。遊歩道が続き、行けるようですが、雨と雑草で眺めるのみです。
回りは田んぼがあり、南北朝の頃は湿地か沼が広がっていた事が想像できます。
Googleで確認すると、『大宝城船着き場跡』とありました。
確かに、南朝方の拠点になるだけあって水路も確保されている「大宝城」です。

6月~7月初旬は、紫陽花が綺麗な「大宝城」らしいですよ。

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赤い城

烟田城 茨城県鉾田市 (2023/07/02 訪問)

ここの城主烟田氏兄弟も佐竹氏に太田城へ呼び出され殺害されました。
西光院というお寺の駐車場に車を置かせてもらいました。
ちょうど地元の方がいらっしゃって案内いただくことに。
廃校になった小学校の敷地内を進むと氷川神社があります。
この辺りが主郭だそうでしっかりと土塁が残っています。
その外側に説明板があり、内堀も残ります。
この時季は藪、案内頂いていたこともあり、降りるのは自重しました。
西光院周辺にも土塁が残っています。
この西光院も千手観音など見どころのある由緒あるお寺だそうです。
このあと鉾田市名物のメロンを目指し農産物直売所へ。
訳ありメロンを安お手頃価格でゲットしました!
甘くて美味しい〜!

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豊明市(沓掛城)

あいちスキ旅キャンペーンに参画中です。 (2023/07/07 訪問)

現在、豊明市役所産業支援課窓口にて沓掛城址の御城印を販売中です。【限定】御城印と通常販売の御城印の2種類があります。
今回、あいちスキ旅キャンペンーに参画により、御城印1枚ごとに1セットのプレゼントを用意しました。
ぜひ、この機会に御訪城して、帰りにお立ち寄りいただければと思います。

【プレゼント内容】桶狭間古戦場まつりクリアファイルと「桶狭間の戦い」ゆかりの地のポストカード(国指定史跡:桶狭間古戦場伝説地・国指定史跡:戦人塚・沓掛城址公園)
※1000セットを用意しましたので、数量に達した時点で終了とさせていたたきます。

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カズサン

【信濃・伊豆木陣屋】長野県飯田市 懸造り小笠原家書院が有名 (2023/06/19 訪問)

 住所:長野県飯田市伊豆木3942
 専用駐車場:県道491号線沿いに在り、案内図あり徒歩で集落100m程で大手橋到着。

 高須藩松平家陣屋跡の竹佐陣屋移築山門がある、光明寺を終えて、帰り道の国道151号線への県道491号線を南下約3km程、県道491号線沿いに専用駐車場が準備してある、道路には案内標識も有り、駐車場には陣屋への案内図がある、案内図、案内指示板に従って集落を約100m歩くと陣屋大手橋へ到着。
 大手橋を渡り、正面に旧小笠原家書院の解説板、登城坂を進み、クランクして太鼓門跡、クランクして物見櫓台石垣、書院前門、杮葺きの小笠原家書院、訪問当日月曜日で休館、ここに三回訪ねましたが如何した事か休館日で博物館、書院に入って居ません。
 陣屋内をサラッと見て大手橋を降りて堀・水路沿いの石垣を探訪して懸造り書院を南下樹幹の間から探訪見学する。

 歴史は、伊豆木小笠原家は中世松尾に居城していた松尾小笠原家の後裔。慶長5年(1600年)徳川家康より初代小笠原長巨が伊豆木において秣料1000石を賜り、この地に居館を構えて以後代々ここに居住しました。
 明治の初めに大半の建物が取り壊されましたが書院だけは残った、築年は解体修理の際に寛永初年(1624)ごろに初代長巨が建立したことが確認された。(旧小笠原家書院解説板抜粋)

 旧の建物として太鼓門が移築山門として専照寺(飯田市江戸町1丁目21)に残って居ます、私はまだ訪ねていません。

 書院の懸造り、大手筋の横矢、ダブルクランク虎口と小規模ながら城郭の構え風情を残しています、車でないと訪ねる事が不便ですが南信州の城廻に入れたい陣屋です。

 この後は491号線を約2km程南下して国道151号線へ、道の駅ソバの城信濃路下條に寄って休憩と栄養補給。
 県道491号線、国道151号線は6月2日の台風2号による線状降水帯の被害で土砂崩れが道の山手側、谷側に散見されて居ましたが、相互交通にて難なく通行可能でした、地道約100km程、3時間の走行で浜松に到着、2泊3日の城旅でした。
 

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トク

南四国(高知城→宇和島城)城鉄グルメ旅 (2023/06/10 訪問)

高知城と宇和島城を訪れる傍ら、難関の南四国を突破する旅をしてきたので、その様子をお伝えします。私も若い時はもっぱら車やバイクでしたが、今ではすっかり城鉄男になってしまいました(だんだん呑鉄の六角精児に似てきたような・・?🤔)。という事で興味ある方は御参考に読まれて下さい。

博多から山陽新幹線「みずほ」に乗り岡山で下車。岡山名物の駅弁「ままかりの押し寿司」と瀬戸田レモンチューハイを買って(写真③)、そこから特急「南国号」(写真①②)に乗車し2時間30分、途中で瀬戸大橋や大歩危小歩危などの景勝地を車窓から眺めながら高知に到着。まず浦戸城を見学し翌日は高知城を見学しました。夜は前回お伝えした「二十四万石御膳」です。

高知からは特急「あしずり」に乗り、車内で名物「かつおめし」弁当(写真④)を食べ、窪川で乗り換えます。そこからは究極のローカル鉄道「予土線」に乗りました。何とここは1日4本しかありません! 1両のディーゼル車が、カタンコトンカタンコトンと四万十川に沿って、蛇行しながら、の~んびりと走ります(写真⑤⑥⑦)。何と窪川から宇和島まで2時間50分もかかります。車内にトイレはありませんので要注意です、ですが心配御無用! 途中で中間の「江川崎」駅で運転手休憩のため20分停車するので(写真⑧)、その間に下車して駅のトイレに行き済ませて下さい。また大雨の時はすぐに止まりますので運行情報を確認して乗車して下さい。私の乗った前日は大雨で終日運行見合わせでした、またこの日も雨でヒヤヒヤでした。

宇和島では、宇和島城を見学後に前回お話した鯛めしとじゃこ天のついた「伊達御前」を食し、その後夜には居酒屋に行きさらなる郷土料理と地酒を堪能。地鶏の焼き鳥がうまかったです😊御主人と奥さんの掛け合いも最高でした!

宇和島からは特急「宇和海」(写真⑨)に乗り30分で八幡浜(やわたはま)へ、八幡浜駅から大洲駅方面行バスで30分大洲城に行き見学(バスなら大洲城のすぐ前に停まります(三の丸バス停)、JR大洲駅から徒歩なら20分)。大洲城から同じバスで折り返して八幡浜港へ行き、フェリーで別府港まで2時間30分かけ豊後水道をゆっくり船旅(写真⑩)、別府から博多へ特急「ソニック」で2時間かけ一気に帰り博多に到着しました。

車やバイクで行くか交通機関を使うかは、自分の好きな方で行くのが一番いいと思うので、まあこんなルートもありますよという事で、南四国の移動の参考にされて下さい。また四国のバス鉄道では全国共通の交通系ICカードは使えない所がほとんどなので御注意下さい(地元のICカードのみしか使えない)。
 

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Maho

彦根城/ひこにゃん (2023/06/29 訪問)

久しぶりに城活しました‼︎
お堀や庭園が素敵で、もちろん天守閣も良かったです☺️

ひこにゃんにも会えました🐱

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー66城目 (2023/05/05 訪問)

5月4日、雨の中、八代市立博物館未来の森ミュージアムに向かいましたが、スタンプ置き場は警備室になったようですね。せっかくなのでミュージアムの特別展も拝見してまいりました。翌日、朝駆けにて攻城。立派な石垣は黒ずんでいますが、石灰石でできていて、磨くと真っ白な石垣になるのだとか。北の丸は今回初めてチェックしました。松江城という別名も今回初めて知りました。次回は、古麓城をメインターゲットにしたいと思います。

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しんちゃん

実際に住んだら周囲は土塁しか見えない。居心地はどうなのか。 (2023/06/26 訪問)

新宮支城は甲賀郡中惣遺跡群の一つとして国の史跡に登録されています。
東側の道路からアクセスでき、木のクイに新宮支城の標識があります。
登り口はいささか急で、小雨の天候もあり黄ロープが無ければ足を
滑らせてしまうかもしれません。
このあたりの土は黄色く、粘土質なのか雨の日はとくに滑りやすいようです。
本郭は周囲を高い土塁で囲い、東側の虎口から西側の奥手にかけて
土塁の高まりがより高くなっているようです。
主郭の周囲を高い土塁で囲うのはこの地域の城郭の特徴ですが
新宮支城の土塁はその中でもかなり高い方です。
主郭の北側に小さい丘のような郭があり、その間に堀切があるのですが
もともと主郭と一つの地形で堀切を削り取った土で土塁を盛ったのではないかと
考えました。そうだとすれば、地形を変えてしまうほどの
当時の地侍の執念には頭が下がります。
補足‥甲賀・伊賀の地層は古琵琶湖層群といい、良質な粘土の産地で
   古来から信楽焼や伊賀焼など焼き物の産地でもあります。
   雨の日にこの周辺を訪問して足元が危ないなと感じたのはそのせいかもしれません。
   関東ローム層や九州のシラス台地など土の城は自然の影響を受けやすい
   ので訪問時は注意を払いたいと思います。

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しんちゃん

甲賀郡中惣遺跡群の一つ。六角氏が潜伏の可能性は? (2023/06/26 訪問)

村雨城は甲賀郡中惣遺跡群として国に史跡に認定されています。
寺前城とセットで扱われており左手の道路からアクセスすることができます。
二の郭らしき扁平地を経て本郭に入ることが出来、
虎口は西側に設けてあり、周囲を高さ4mの土塁で囲ってあります。
寺前城より防御力が強く造られているようで、ひょっとしたら
近江守護六角氏がこの地に避難してきたときに、この城で
御厄介になっていたのかもしれません。
主郭の南西側にも郭があり両側に土塁がそびえたちます。
二重掘切を経て寺前城とつながっているようですが、この時期は
藪がひどく、この日はここで退散しました。
また秋冬あたりに、ここを訪問したら二重堀切を通じて両城を堪能したいと
思います。

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くるなつ

武田神社 (2023/05/19 訪問)

コロナ前は年に2回位のペースで行ってました。今回は現着と同時に本降りの雨でゆっくり回る事が出来ず、武田神社のみとなってしまいました。10月に又行く予定です😌

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しんちゃん

小雨の中、訪問。しかも藪曲輪‥これはキツい。 (2023/06/26 訪問)

寺前城は甲賀郡中惣遺跡群として国の史跡に指定されています。
元亀元年(1570)甲賀武士団は織田信長との野須川の戦いに敗れ、軍門に下り、
その後の羽柴秀吉の兵農分離によって終焉を迎えます。
正式なルートは村雨城から入り込むようですが
このたびは直接入り込んでいます。(あまり行儀が良くありませんが)
主郭の周囲を土塁で囲まれていますが、
主郭そのものは酷い草ボウボウでヤブ曲輪と化しています。
なんとか散策はしましたが、村雨城へのルートも藪に覆われ通過できそうも
ありません。国の史跡なのに‥とにかく甲賀は藪がキツすぎる。
からくも北西の虎口から脱出し、堀切を確認しながら
北東に回り込むと東郭につながる道があるようです。
そのまま元来た道から退散しますが、小雨がふっていたこともあり
靴もズボンも濡れてしまいました。
甲賀の城攻めは季節を選んだほうが良さそうです。


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歴史案内活動【7月8日(土)10:00~12:00】 (2023/07/08 訪問)

こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

暦は7月、2023年も気がつくと折返しを過ぎました。

躑躅ヶ崎館こと史跡・武田氏館跡は現代では武田神社として信玄公を祀ってますが、
毎年6月30日は半年分の祓いをする神事「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」で
その前後に境内に「茅(ち)の輪」が設けられてます。
作法に従って3回くぐると半年分の穢れを祓い
これから来る夏を乗り切っていこうというものです。
神事の日でなくても効果はあるのかどうかですが
信じたものの勝利、です!
神事だけあって。はい。

前置きはこのへんにしておいて、
7月の週末8日の土曜日に
武田神社境内の歴史案内活動を行いますのでお知らせします。

夏を迎える境内つまり武田氏館跡は
青い空の下きらめく陽光に木々の緑が照り返る
目に鮮やかな彩りの季節です。
暑さは我々甲冑武者にとって大敵ですが
余りに暑いと胴鎧と兜を外し、
三具と呼ばれる籠手(こて)、佩楯(はいだて)、臑当(すねあて)の軽装で
皆様をお迎えします。

また、5月からのCOVID-19の5類移行に伴い、
感染防止対策を一部緩和し、
甲冑ガイドとの記念撮影を再開しています。
ガイドともども無料ですので
気軽に声をかけてください。

日時:令和5年7月8日(土) 10:00頃~12:00頃
参加ガイド:局長・大塚與左衛門

◆武田神社境内に今日も残る数々の城郭の痕跡を、個性豊かな甲冑ガイドがわかりやすく楽しく案内します。
◆案内時間は10分~30分、ご都合に応じて調整できます。
◆ガイドは無料です。
◆バスツアーなどの自由時間にあわせた案内も可能です。
◆雨天、COVID-19感染拡大状況等により中止の場合があります。
◆案内活動は武田神社様の承認のもとに行ってますが、当隊そのものは武田神社様とは無関係の有志団体なので
 活動に関する武田神社へのお問い合わせはご遠慮ください。
 問い合わせ、連絡は当隊公式ツイッター(https://twitter.com/KoufuSamurais)へお願いします。(E)

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朝田 辰兵衛

にのまるさんクイズ,正解で安堵です。 (2023/05/05 訪問)

にのまるさんクイズ,正解できて安堵しました。
あんなに自信満々で外したら,👀も当てられないです。

さて,裾花川を挟み,葛山城と睨み合う旭山城ですが,こちらは公共交通とは無縁です…<泣>。
葛山城を下山し,「たたら」バス停から長野駅前へ向かう途中,GWイベントでバスは迂回中。
停車予定ではない「山王小学校前」で降車しました。(駅から歩くより)300mほど距離を得しました。
しかし,ここから相生橋で裾花川を渡り,徒歩約60分で登城口到着。
気温は,連日の30℃超え。展望台曲輪ではハチが周回中。
本丸西側は土砂崩れが発生したらしく,進入禁止措置が取られていました。

そうそう,7/7~7/11で遠征に行ってきます。
投稿は休みますが,みなさんの投稿は閲覧させていただきます。
ご容赦くださいませ。

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渡辺基綱 (2023/07/06 訪問)

 JR信太山駅からだらだらとした坂道を15分くらい歩くと石碑に行くことができます。近くに旧伯太藩武家屋敷の石碑もありました。

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久米田古墳群 (2023/07/06 訪問)

 JR久米田駅から徒歩約15分で城址とされる貝吹山古墳へ行くことができます。無名塚古墳の近くに久米田古墳群の説明板があり、その中で「戦国時代には、三好実休がこの古墳に砦を築き久米田合戦を戦いました」の記述があります。白い板で字も薄くなっていて日も当たって読みにくかった。
 久米田寺には行きましたが、三好実休戦没碑には行っていません。

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安楽寺 (2023/07/06 訪問)

 千石堀城跡より徒歩15分くらいで、安楽寺を経由して近木川福永橋近くにある説明板へ行きました。

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せんごくの杜 (2023/07/06 訪問)

 水間鉄道名越駅より徒歩にて約10分でせんごくの杜の駐車場に行くことができます。
そこから登城しましたが、歩いて行くと「千石堀城跡」の朽ちかけている木の標識がありました。こちらではないのでは?と思いましたが入って行くと展望台の標識があり登って行くと薄くなって読むのに難渋する説明板がありました。さらに進んでいくと空堀と思われる地形があります。戻って北側の山へ入って行くと所々縄張り図が木に取り付けてありありがたかったです。根来八幡宮の跡らしき場所を見つけると位置関係もより把握できて散策できました。空堀跡等残っていますが、夏季で草が多く倒木もあり難渋しました。さらに昨日降った雨の影響で足元が悪く、暑さに加え藪蚊の攻撃にあい早々に撤退しました。

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一年半の歳月 (2023/06/25 訪問)

城びと先人お二人に倣って最短&きつい、畑コースで登城。山体はこのあたりに多い、柔らかい流紋岩質凝灰岩。城域の山頂部及び南東のピーク(三草山城の説明板がたっているところ)は、硬めの流紋岩溶岩が残り、高みとなっています。
木が茂り気味ですが、本丸の石垣を認識。ぴーかるさんが指摘するように、本丸下の道に転がる石は、石垣からの転落石と思われます。本丸から東に二段の郭があり、切り岸がしっかり残ります。雑木林に突入していく私をハイカーたちは怪訝に見てます。
本丸西切り岸には土塁もあり、「土塁保存のためここから絶対に登らないでください」と掲示があります。ぴーかるさんが2021年12月に登城された際の写真には木にくくりつけられてましたが、現在は落下。
本丸西側には先に行くほど広がる郭群が続きます。郭の南側に切り岸がよく見られます。
畑登山口あたりに、新しく大きな寺ができており、畑登山口への道(=寺への道)も広く付け替え られたようです。古い標識につられて進むと行き止まりになってます。インパクトある建築物に気をとられていると、登山口を過ぎて、関係者以外立ち入り禁止ゾーンに至ってしまうのでそこも注意です。

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カズサン

【信濃・竹佐陣屋】長野県飯田市 高須藩松平家陣屋 (2023/06/19 訪問)

 住所:長野県飯田市竹佐1006
 駐車場:飯田市竹佐1015の田府髙屋集会場を利用させて頂きました。(35°28'29"N 137°45'54" h=600m)
 移築門:長野市飯田市久米311の光明寺山門、山門下に参拝者駐車場あり、同利用。(35°28'60"N 137°46'49"E h=590m)

 城びと会員の肉球さんが5月3日に投稿されて初認識、調べると肉球さん紹介の山本陣屋からすぐ近く、中央道を東に越え約600m程の国道153号線沿いから山本郵便局を北に約150m程の所に在る、グーグルマップに依る。
 今回の上越市直峰城主体の城廻の行きか帰りに寄ろうと企画しました。もう少し投稿が早ければ5月2日の日帰り南信濃城廻に加えたのですが致し方ありません。

 史跡マークの跡地には案内板、標柱も無く、ネットでヒットした「甲信越のお城・信濃竹佐陣屋」の内容をお借りして歴史を記載します。
 竹佐陣屋は尾張徳川家の分家、高須藩松平家の陣屋です、竹佐陣屋は天和2年(1682年)に松平義行により築かれた、義行は尾張徳川光友の次男で、天和元年(1681年)に信濃伊那・高井・水内郡内で3万石を与えられ、竹佐に陣屋を構えた。
 元禄13年(1700年)、信濃高井・水内郡内の所領15,000石を美濃高須に移され居所も高須へと移したが、伊那郡内の所領は変動なく、采地陣屋として明治まで存続した。

 上越市の帰り、飯山城、中野陣屋、高梨氏館(中野小館)に寄って、上信越道、長野道、中央道経由走行、途中の松本城、松代城に寄りたい衝動を抑えて、駒ヶ根SAで遅い昼食。
 駒ヶ根SAで道路情報を確認、6月2日の台風2号の影響で愛知、静岡の山間地は線状降水帯の被害で土砂崩れが多発しており、国道151号線の道路通行状況をスタッフの方にお聞きし、相互交通は有るものの鳳来寺の三遠南信道まではOKを確かめた。

 中央道飯田山本ICを降りて国道153号線へ、飯田市市街方向に進み、山本郵便局を過ぎて北に入る集落道狭い、約150m程で田府髙屋集会場に着く、集会所前のエリアに駐させて頂きました、同時間集会なしで無人。

 集会所からやや南東に集落道を約100m弱で畑と成り、「高須藩松平家陣屋跡」の横長看板が令和2年12月海津市有志と記され建ってる、看板の頭に家紋が描かれており「24花弁菊輪三つ葉葵」、敷地は畑に成っており、南側と東側に石垣が確認できる、しかし6月中旬過ぎで草も茂り石垣も覆われて良くは見えない。
 南東角は肉球さん投稿写真で確認済みでこの場所と分かる、草も茂りこのあたりで終わり、次の移築門の有る光明寺へ。

 光明寺は竹佐陣屋跡から東へ直線約1.5km程、道なりで約4km程の山中にある、ナビに従い山本小学校北側を通り久米川沿いを通り久米集落へ道が狭く離合は困難、分岐に光明寺の案内指示板あり、山門下の整地された参拝者駐車場を利用。

 光明寺に入るが人の気配は無い、山門を表と裏から拝見、本堂に参拝、移築山門の瓦の紋を確認すると「六つ葉葵輪内に六つ花弁」を抱き込んだ紋に成って居ました、ネットで紋を調べて見ましたが良く分からず、徳川氏松平氏の紋のようですが、高須藩は24菊輪三つ葉葵の様です、水戸徳川家の分家筋に6葵葉の紋があるようですが良く調べきれませんでした。
 
 情報ガイドは、甲信越のお城・信濃竹佐陣屋、グーグルマップが大変役に立ちました。

 再び、城びと会員肉球さんの新情報に触発されて登城する事が出来ました、ありがとうございます。

 この後は国道151号線に出て浜松へ、151号線に出る前に途中の伊豆木陣屋に寄って帰ります。
 

 

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トク

52【関ケ原の26人】 (20) 山内一豊 (山内一豊の妻「千代」の物語) (2023/06/10 訪問)

(20人目)「山内一豊」の続きです。
山内一豊と言えば、本人より妻「千代」の事を思い浮かべる人の方が多いのではないでしょうか? 大河ドラマ「功名が辻」でも有名になりましたよね! 私個人としてはゴクセンより千代役の仲間由紀恵さんの方が好きです(そんな事はどうでもよい!😩)。

高知城の追手門を入ると右手に千代の銅像があります(写真①②)。また本丸御殿には、実際に仲間由紀恵さんがドラマで着用したという着物も展示されていました(写真④)。

千代は郡上八幡城主「遠藤盛数」の娘と伝わっています。そう言えば岐阜城を訪れた時、一豊と千代が婚礼をしたという場所がロープーウェイの下にあった事を思い出しました(岐阜の写真⑤⑥)。

一豊がまだ信長の一家臣であった頃、馬揃え(出陣前の馬の検分)があるも一豊はいい馬を持っていませんでした。馬売りが連れてきた見事な馬を見て欲しいと思うもお金がありません。それを見た千代は父の盛数からもらった大切な10両(=250万円)を一豊に渡したとのことです。その見事な馬が信長の目を引き、一豊は信長から一目置かれるようになったそうです。また小山評定の時には、大坂の様子を一豊の元へいち早く知らせ、大坂に人質となっている自分の事は構わず家康様に忠義を尽くすようにとの手紙を書き、それが小山評定の最中に家康の目にとまったようです。これで妻子の事を心配していた他の諸将たちも家康につく事を決断できたとか・・・ 掛川城を差し出した件とこの二つの内助の功で一豊は出世できたようです。

一豊は当時としては珍しく側室を持ちませんでした(それだけ千代の事を思っていたという事ですね🤔)。しかし千代との間に男子には恵まれませんでした。一豊が1605年に没した後、一豊の弟康豊の子である忠義が家督を継ぎます。千代は見性院と名乗りしばらくは後見人となり、忠義の成長を見届けた後、京都妙心寺の近くに身を寄せ1617年に没したそうです(享年61)。

次は(21人目)に続きます。

【余談】二十四万石御膳
夜に「はりまや橋」にある店に入り、名物「二十四万石御膳」なるものを食べてみました。高知名物「かつおのたたき」「まぐろの刺身」「まぐろ丼」「土佐地鶏」などがセットになったボリューム満点の定食で大満足(大満腹)でした!😊(写真⑦)。
 

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