奥州合戦(鎌倉政権と奥州藤原氏との戦い)の恩賞として葛西重清が牡鹿郡等の所領を得て石巻日和山に居城を築いたという伝承があり、また昭和58年の発掘調査で大規模な中世城館の存在がここに確認された。それが石巻城だという。立派な石碑が建っていた。遺構はないが、一段高いところには鹿島御児神社があり、城との関係はわからないものの削平地(曲輪跡)や切岸があるようにも思えた。海への眺望が素晴らしい。
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2023/11/24 20:57
源頼朝家人葛西清重(奥州総奉行)の居城
奥州合戦(鎌倉政権と奥州藤原氏との戦い)の恩賞として葛西重清が牡鹿郡等の所領を得て石巻日和山に居城を築いたという伝承があり、また昭和58年の発掘調査で大規模な中世城館の存在がここに確認された。それが石巻城だという。立派な石碑が建っていた。遺構はないが、一段高いところには鹿島御児神社があり、城との関係はわからないものの削平地(曲輪跡)や切岸があるようにも思えた。海への眺望が素晴らしい。
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2023/11/24 20:21
天守石垣 (2023/11/23 訪問)
講師の方がこの黄色い石は平城京の礎石と言われていました
歴史を感じます。
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2023/11/24 19:29
2023/11/24 13:34
令和5年霜月紅葉の頃 (2023/11/23 訪問)
二俣城を終えて、鳥羽山城の紅葉も確認と車で鳥羽山城南の丸Ⅰ駐車場へ、既に車は14、15台位の混みよう、11時過ぎでお昼のピクニックお弁当での家族ずれも多く見受けられました、旗日勤労感謝の日です。
南の丸Ⅰから見上げる本丸方向には楓が赤く紅葉し少し東のイチョウは黄色く色付いて見頃です。
大手道から入り幅広の大手道には楓が植わってトンネルの様に成っていますが、まだ紅葉前12月に入ってからでしょうか?、大手門跡は紅葉初めの様子、大手門跡、東側の虎口方向も一部紅葉の木も有り、本丸は西の土塁側に楓が真っ赤に紅葉、東門辺りはまだまだ紅葉前、陽当たりの違いでしょうか?、搦手跡、旧笹の丸西の丸Ⅰは紅葉無し、天竜川の見通しは樹木が茂り今一、西の丸Ⅱは紅葉の楓多し、長い滑り台で子供たちが遊んでいます。
本丸西側外の鉢巻石垣辺りは紅葉の木が少なく、紅葉の木と鉢巻石垣を狙って撮影、また下り腰巻石垣も遠くの紅葉をれらって撮影、本格的な紅葉は12月に成ってからでしょうか?
1時間弱散策し紅葉前を楽しみました、チョット早かった。
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2023/11/24 11:42
81【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と松尾城(栗野城)) (2023/10/17 訪問)
(24人目)島津義弘の続き⑩です。
根白坂の戦いに敗れ豊臣秀吉に降伏した義弘は、1590年日向の飯野城からここ大隅の松尾城(栗野城)に居を移します。そして秀吉に臣下の礼をとり、ここから秀吉の命により朝鮮へ出兵します(文禄の役)。
前々回の「えびの駅」からJR吉都線・肥薩線直通の隼人行に乗り「栗野駅」(くりの)で下車しました。駅から徒歩で20分の所に松尾城(栗野城)はあります。川内川を天然の要害とする標高249mに築かれた山城です(写真①)。町の名前は湧水町。歩いていると名の如く、あちこちからきれいな地下水が湧き出ていて、町民の方々は当たり前のように水を汲みに来ていました。ここに住みこの水を毎日飲めば何だか長生きできそうな・・・🤔
復元された大手門(写真②)をくぐると、城壁には朝鮮出兵の様子が描かれていました(写真③)。義弘は初めて海外へ行く事に不安がっている兵士たちを鼓舞するためのお祭り(出陣式)を開き、その様子を描いたもののようです。
そこから階段を登った所が本丸です(写真⑤)。城跡碑と説明板があり当時の様子を伝えていました(写真④⑥)。ここは江戸期以前の島津の城にしては珍しく、本丸には石垣がありました(写真⑦)。本丸以外はシラスの土造りなので、石垣とシラスを併用した島津の城は、おそらくここだけかもしれません。
秀吉に臣下の礼を尽し朝鮮へ出兵する義弘に対し、兄の義久はこの出兵に非協力的で、名護屋で再三要望するも、船を用意しようとしません。これで義弘は朝鮮に渡海できず遅参するという大失態を演じ、義弘は露骨に兄義久への不満をぶちまけ、兄弟の間に一時溝ができてしまいます。義久はなぜ船を送れなかったのでしょうか? 薩摩ではこの時いったい何が起きていたのでしょうか? (この理由は25人目で)
そして義弘は、朝鮮から帰国後、ここから南の帖佐に館を建て移り住みます。そして秀吉から信頼され薩摩17代当主に任ぜられます。しかし表向きは受けるも、実際は義久が当主のままだったようです(でも義久もこれには怒ったはず)。そしていよいよこの兄弟の溝が埋まらぬまま関ケ原を迎えてしまいます。この先の関ケ原でも、義久はやはり軍勢を送りません。義弘はこのまま兄から見捨てられてしまうのでしょうか?
私は、本丸から城下や川内川を眺め考えてみました(写真⑧)。兄の援護がないままわずかな手勢で朝鮮へ出兵し、それなりの戦果を上げる事はできました(文禄の役)。しかし最愛の長男久保(ひさやす)が朝鮮にて病死してしまいます。兄との溝ができ、長男も失い、孤立してしまった義弘はどんな思いでこの城下や川を眺め、そして帖佐へ移る決断をしたのでしょうか? しかしその帖佐から再び義弘は朝鮮へ渡る事になります(慶長の役)。
次は、関ケ原当時の居城(帖佐館)を訪れます。
【余談】西郷隆盛と栗野
この栗野駅からほど近い所にある栗野岳温泉は、西郷隆盛が西南戦争が始まる一年前に過ごしていた場所だそうです。毎日野山を駆けまわったりして、とてもよい場所だと友人に語るほど、大変気に入っていたとか。しかし明治9年、廃藩置県と廃刀令により不平不満の士族があふれ、これを何とか静めるため、ここから鹿児島城へ向かう事になります。ここ栗野は西郷隆盛が人生を最後に楽しんだ場所だったのかもしれません(写真⑩)。
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2023/11/24 08:10
出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 2023 (2023/11/19 訪問)
出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 2023に行きました。朝一番で小堤城山城に登城し、岩倉城まで足を延ばしたりして山城シーズン到来を満喫するうちに開城時間を30分ほど過ぎてしまい、会場近くの駐車場は満車になっていたため市役所駐車場から歩いて登城しました。
会場はシライシアター野洲、野洲文化小劇場、コミュニティセンターやすの3箇所(同じ敷地内)。野洲文化小劇場のお城EXPOゾーンは、ニッポン城めぐりの「限定異名ガラポン抽選会」の列が建物外まで続いていたので後回しにして、コミュニティセンターやすで開催されていた併設企画「近江の城と観光」から。
まず3階の「近江ゆかりの武将カードパネル展」で、ニッポン城めぐりのイベント「元亀争乱」完全制覇の副賞「近江の城」を受領。大きな滋賀県全図に1300を超える城の位置が記されていて、一口に1300と云っても図示されると改めてその膨大な数に圧倒されます。城だけでなく、ゆかりの武将も多士済々で、六角氏や浅井氏など地元勢はもとより三英傑とその家臣団、足利将軍に加えて、源義経や源義仲、平宗盛の武将カードとゆかりの地のパネルが展示されていました。やっぱ滋賀県すげえ…。はす向かいの部屋では「どうする家康」出演者全身パネル展が、「彦根城を世界遺産に!」の部屋には背広姿の人がやけに出入りしているなぁ…と思っていたら、滋賀県の三日月知事が視察中でした。観光情報コーナーで滋賀県内のお城や観光地のパンフレットをもらって2階へ。
2階の「史跡永原御殿跡パネル展」で発掘調査現地説明会の資料をもらいパネルを見学していると、ちょうど紙芝居が始まるところだったので見ていきました。令和2年に国史跡指定を受けたのを機に、地域住民にも地元の史跡を知ってもらいたいという思いで地元自治会が手作りしたものだそうで、小学生にも伝わるようにと分かりやすく作られていて、小学校を40年ほど前に卒業した私も永原御殿への理解を深められました。同じく2階でのミニ講座は、安土城の回は整理券配布終了、永原御殿や彦根城は時間が合わなかったのでパスして、野洲文化小劇場へ。
さすがにニッポン城めぐりの行列はほぼ消えていたので、ガラポンに挑戦し「へいくわい者」を獲得。「甲賀者」か「伊賀者」狙いでしたが、滋賀県のイベントでもあり石田三成にちなんだ異名はこれはこれで良し。物販では、前から欲しいと思っていた「城攻めに向かってます」カーサインと職場で使う珪藻土コースター石垣(意外に重たい)、厳選24城スタンプラリー帳を入れるための半透明ブックカバーを購入。現物を目にして、城郭用語湯呑みや天守台クッションにも心惹かれましたが……きりがないのでここは自重。
続いて城びとブースでは、話のタネ(投稿のネタ)になるかな、と思って黒猫かんべー「煎七味」と超激辛「血祭じゃ」を購入。賞味期限が迫っているとして百円均一での販売でしたが、「血祭じゃ」の賞味期限を見てみると11月20日……って明日までやん!(笑) いえ、七味やタバスコ(じゃないけど)の賞味期限なんてこれまで気にしたこともないので、全然OKなんですけどね。
テーマ展示は「近世初期の近江国の交通と永原御殿」。この後は永原御殿に行くつもりなので、紙芝居に続いて予習に勤しみます。お城EXPO恒例の日本100名城パネル展をざっと見て回り、各地のパンフレットやチラシをもらったら、いったん会場を離れて永原御殿に向かいました。
永原御殿から野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)と桜生城を経て、シライシアター野洲に再入城。お目当ては墨絵師 御歌頭氏による「墨絵ライブ」です。これまでに完成品は目にしていますが、制作過程を観るのは初めてで、17分間で描き出される「安土城と織田信長」は圧巻でした。
…ということで、やはり横浜には行けそうにないので、今年のお城イベントはこれが最後になりそうです。かるたの進捗状況も気になるところですが、皆さまのレポートを楽しみにしております。
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2023/11/24 07:32
2023/11/23 23:36
松本城が見えるオープンキッチンより (2023/11/19 訪問)
松本城の北、国宝・開智学校へ行く途中に出店やオープンキッチンがあるスペースがあります。残念ながら開智学校は耐震化工事のため来年11月まで休館のようですが写真だけ取ってきてオープンキッチンに戻ってきました。ちょうど10時・開店の時間のようです。キッチンカーでホットドッグとカフェラテを購入。ちょうど野口さん一人分です。日本で唯一松本城が見えるオープンキッチンと表示があります。たまにはこういうのもいいかな‥と、思わずホットドッグに松本城を重ねてトッピングみたくしてみます。いい歳したオッサンが何をやっとんじゃとツッコミが入りそうですが松本城を見て童心に帰ったことにしておきます。ちなみに写真はピンボケでした。
よくあなたが一番だと思う城はなんですか?なんて質問をしたがる輩がいますが、こんないい城が各地にいっぱいあるのになかなか決めれるものではないと思います。そりゃ姫路城が総合力では断トツですが自分にとっては目の前にある城が、今その時の一番なんですよ。目の前の城を見るのに夢中になっているのに、他の城のことを考えてる余裕はないですからね。できるだけ自分をそういう状態にしておきたくて、休日は各地を転々と回っているわけでして。
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2023/11/23 22:52
姫路城と双璧をなす美しい天守。 (2023/11/23 訪問)
松本市の井川城を訪問したので、近くにあった松本城にも寄ってきました‥なんていうと怒られそうですが、もう一度行きたいとはかねがね思っていたのです。日中はすごい込むので萎えるし、ちょうど早朝で天気も良いし行くしかない。アルプスも先日の雪で化粧は済ましているだろうし条件が整っています。今季大河でおなじみの石川数正が深志城を改修し始め、息子の康長の代に今の松本城になったとされています。縄張り自体は可もなく不可もなくで、石垣もそんなには高くは無いのですが、とにかく天守が美しい。四重天守ぐらいのサイズの天守台に四層目と同じくらいのサイズの五層目を乗っけているので見る角度によっては少し頼りなく見えますが、角度を変えてみるとまるで違って見えてきます。付櫓や小天守をセットにすると、さらにがっしりして見える上に天守五層目がすらっと上に張り出しているので他の天守にはない極上の美しさがあります。天守だけは他の誰にも負けないぞという気迫がじわじわ伝わってきます。あまりに良い天守を造ってしまったので、やっかみを買ってそれが改易につながったという話が出るのもうなずけますね。
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2023/11/23 22:51
五部浦湾横浦港を望む丘陵に
県道41号女川牡鹿線の脇(38.40717,141.46707)に標柱がある。城主は木村上総と言われるが詳細不明。標柱のあるところは凹んでいて竪堀と思われる。その左手奥には舌状尾根突端らしき地形でそこに城館があったのだろう。若干の段差があり先には祠が祀られていた。
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2023/11/23 22:27
六連続の堀切 (2023/11/23 訪問)
村上氏の支城であったと考えられています。
主郭背後にある6連続の堀切が見どころです。狐落城から尾根を登って来ると堀切があり主郭に到達します。主郭の面積は狭く周囲にも平坦地はないように思われますので多くの人数は籠れなかったのではないでしょうか。主郭から水の平経由室賀峠と書かれた標識に従って尾根を降りて行くと6連続の堀切があります。浅くなっているものもありますが、ある程度の深さを保っている堀切もあり楽しませてくれます。そのまま尾根を歩いているとまた堀切がありました。そこで退き返し主郭に戻り東尾根に下りて行くと2連続の堀切がありました。堀切が魅力的な城址です。
狐落城からは30分くらいかかりました。急峻でロープを伝って上り下りしますが、落ち葉が堆積して歩きにくかった。昌官忠さんも転倒したと投稿されていましたが、自分も特に下りるときは滑って一度尻もちをつきました。ロープにつかまっていたので大事にはいたりませんでしたが、登城路も尾根の両側も急峻で落ち葉の堆積で足場が不安定なため少し緊張感がありました。
主郭からの眺望はすばらしく葛尾城、出浦城、和合城などを観ることができます。
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2023/11/23 22:20
春日山城から関東へ抜ける要衡の地
南北朝期に築城、南朝方風間信昭の居城として知られる。時代が下って上杉支配下の城となり、春日山城支城として機能した。
標高344mの山城。100m下には駐車場があり遊歩道もあって見学しやすい。尾根に段郭や堀切があり、比高感のある縄張は堅城を思わせる。西尾根の連続した堀切などはよかった。主郭は90m×40mの羽子板形で切岸がよく効いていた。眺望もまた良かった。
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2023/11/23 22:11
城は小振りだが様々な堀切があって楽しませてくれる。 (2023/11/19 訪問)
武居城は三村氏によって築かれた城で標高871m、比高65mの尾根の先端部に築かれており武居城公園として整備されています。すばらしい遺構を残す城で、麓に駐車場があり、冠木門の奥の害獣除けのゲートを開けて登城道に入ります。いわば二重のゲートになっているわけですが、山頂部に残る二重の三日月(V字型か?)といい、二重というワードに縁のある城です。少し急ですが登城道はとても登りやすい。上まで登ると本丸西側の帯郭に畝状竪堀が取りついています。明知城ほどではないですが、これがなかなか「ごん太い」。その先は三日月状の二重堀切がお出迎えです。北東の郭を見た後、本丸に向かうと先ほどの二重堀切と別の大きな堀切が出迎えてくれます。なかなか堀切豪華な城で実に楽しませてくれます。主郭の南側には謎の石群が残り一段下がって二の郭に続きます。二の郭の南は大堀切で遮断し、尾根の先に重ね城があるらしいのですが、もう十分楽しませていただいたのでパスさせていただきます。
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2023/11/23 22:05
狐落としの城 (2023/11/23 訪問)
葛尾城に本拠を置いた村上義清の支城の一つで、三水城の出城といわれています。別名「狐落としの城」といわれています。狐が落ちるほど急峻な山ということで、この名がついたといわれています。実際、急峻です。
登城口には標柱がありわかりやすくなっています。登って行くと十六夜観月殿があり遊歩道が整備されています。尾根を登って行くだけで迷うことはありません。途中までは傾斜もそれほどはないのですが、「山之神」の標識がある石を過ぎた頃より急峻になります。ありがたいことにロープがあり、それを利用して登って行くと浅くなった堀切のような地形に辿り着きました。その上が二の郭で説明板があります。すぐ上に主郭があります。二の郭と主郭の周囲には石積みが少し残っていました。平坦地は狭く多くの人数の滞在は難しいと思われます。主郭から三水城へ向かう尾根には複数の堀切があり楽しませてくれました。
晩秋ということもあるでしょうが、かなり落ち葉の堆積があり足を取られて難渋しました。登城路も急峻ですが尾根の両側も急峻です。といっても山城あるあるですが、落ち葉で足元が不安定で少し怖かったですね。
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2023/11/23 21:24
上杉家米沢30万石の中心地。 (2021/05/02 訪問)
米沢城は最上川の西岸に築かれた平城で上杉家米沢30万石の居城になります。かつては本丸の周囲に二重の堀が巡らされ、二の丸もあったようですが、現在は本丸跡に上杉神社が鎮座し、水堀と土塁が残っています。天守は築かれませんでしたが、江戸時代コツコツと馬場や御座の間、寺院、南門を増築し明暦二年(1656)に城中の並居土手に植林をして上杉家の本城としての面目を保ったそうです。やはり江戸のご機嫌をとりながらコツコツと工事を進めていったのでしょうか。
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2023/11/23 21:18
蜂須賀党は野盗ではない (2023/04/15 訪問)
弘法大師開基とされる古刹で蜂須賀正勝・家政父子の菩提寺でもある蓮華寺付近が故地と言われ土塁・堀状の遺構も残るがこれは蓮華寺自体の遺構かも。野盗上がりと揶揄される蜂須賀家は鎌倉以来の立派な武士なので念のため。
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2023/11/23 21:04
最上家の御家騒動&断絶で廃城。陣屋となる。 (2021/05/02 訪問)
山野辺城は慶長六年、山野辺右衛門大夫義忠によって築かれたとされています。丘陵地に築かれた平山城で本丸の周囲に二の丸が配され、かつては四の丸まであったらしく、周囲に二重の堀が配され、さらに西側にも堀が配されていたそうです。最大四重の堀と出丸まで備えた強固な城だったそうですが元和7年の最上家の断絶と共に領地を没収され城も完全に破壊されたそうです。その後、1812~1863年にかけて棚倉藩主阿部氏の陣屋が二の丸あたりに設置されたようですが今は小学校跡に石碑が残るのみです。
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2023/11/23 20:58
お散歩しながら天守に到着 (2023/11/23 訪問)
大垣駅から水門川沿いを歩きながら、大垣八幡宮の自噴水大垣の湧水を見させてもらい、南下しながら天守目指します。
天守が見えるだろうという想定で歩くのですがそこそこに建物やなにかでなかなか見えないの。
大通りに向かい、「史蹟大垣城跡」の石碑を見つけ見た先には東門と天守がお出迎でした。
東門の石垣観察。石垣は石灰岩が多く用いられているというのも珍しいのでかなり近くでゆっくりと見ながら刻印も見つけながら
楽しみました。
天守の中は子供たちも楽しめるクイズもあり、大垣城にゆかりのある史実の紹介パネルなんかも充実していると思います。
鉄門の跡、明治29年の大洪水点、おあむの松、水之手御門、広場からの戸田氏鉄公銅像と天守のフォトスポットと歩く。
コンパクトなのですが、石垣も立派だし天守が戦災で焼失しなかったらなんて思いながらみるといいですね。
お昼前に大垣に着き食事済ませてから登城しようと考えていたのですが、先に登城したくさん歩いてお腹が空いて。
大垣は「枡」の生産日本一。その枡を食器で利用しお料理も楽しめるランチで心身満たされました。
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2023/11/23 20:39
西の丸発掘石垣の現状確認出来ました (2023/11/23 訪問)
平成27年10月に発掘調査されて発見された西の丸Ⅰ下段の南側の石垣が大注目されましたが、8年経って見学は出来るのか?確認のために二の丸と南の丸Ⅰの間の堀切から下へ西の丸のエリアに成ります、上から竪堀、上段の曲輪、中段の曲輪、下段の曲輪と続き昔の名称で井戸曲輪、西へ続くと天竜川の大堤防へ出ます、大堤防からは歩いて鳥羽山城へ続く道が有ります。
発掘発見された西の丸の南側の高石垣は、中段の遊戯施設のある曲輪の東切岸側から降りる道が有るようです、が草が少し茂りパス、下段の東屋の有る段、西石垣裾を通りモルタル護岸の裾を落ち葉と狭く慎重に降りて護岸格子状コンクリ上お歩き、目的の高石垣へ、踏み込むエリアが狭く写真を全景撮れません、草も刈られてよく観察する事が出来ました、引き返しも慎重に一歩一歩確認しながらの歩行。
西の丸への遊歩道は経年変化なのか傷んできています、また西の丸の曲輪は竹林で見ずらく案内板無し、石垣へは案内指示板案内板は有りませんので最新の二俣城・鳥羽山城探訪マップでご確認ください。(天竜区役所、浜松市役所文化財課で入手は可能かと)
草が枯れて草刈手入れされて居れば降りる事は大変ですが見る事は出来ます、が慎重に探訪してください。
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2023/11/23 20:38
小高い崖の上の町全体が城址。 (2021/05/02 訪問)
小漆川城は左沢(あてらざわ)小漆川城とも呼ばれる台地上に築かれた城です。城域一帯が宅地となっている面白い城跡で北と東を小漆川が流れ西には百閒堀が縦断しています。南にはうるし川(月布川)とその支流が流れ百閒堀とつながっているようです。本丸のあたりに城址碑と案内板(新)が立ち、北側は険しい断崖になっていてコンクリートで補強してあります。西の巨海院には移築した大手門があります。小漆川端を渡って北側からみると町全体が丘陵の上にあり、それが城跡であることが良くわかります。最近訪問した城だと飯田城がそれに近いですね。最上氏の改易に伴い鶴岡藩主酒井忠勝の弟直次ぎが一万二千石でこの地に入り左沢藩を興し、城を築きましたが寛永8年(1631)に嫡子の無いまま早逝したため改易となり城も慶安元年(1648)に取り壊しになったそうです。
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