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しんちゃん

南信濃のトムとジェリー。仲良くケンカできなかったのか。 (2023/11/11 訪問)

松尾城は信濃守護小笠原氏の分家・松尾小笠原氏の城で鈴岡小笠原氏の鈴岡城とは川を挟んで隣接しています。両氏は当初は共闘していましたが後に対立し、結果鈴岡小笠原氏は途絶えてしまいました。鈴岡城もなかなか立派な城なのですが松尾城も負けないくらいの城域を誇ります。こんな近いところに城を作ったら後々、良くないことになるとお互い考えなかったのでしょうか。現在、鈴岡城とは橋でつながっていて、大きな堀切を眺めながら主郭に向かいます。主郭の西に二郭があり、さらに西に堀切を挟んで三郭があります。主郭の東にサカヤシキと呼ばれる郭があるのですが竪堀群をあまり確認することはできませんでした。地形の改編もあってそれらしいものはほとんど見当たりません。適度にきりをつけて鈴岡城に引き返しました。

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いんげん丸虫

国見要害 茨城県常陸太田市 (2023/11/11 訪問)

標高291m国見山の山頂にあります。
麓の尾根にはそれぞれ北大門城、南大門城があり、詰めの城
避難所的な場所でしょうか。
小さな山頂に4本の堀切が薄くあります。
北尾根に出城群があるとされてますが、ほぼ自然地形ですね。
遺構と断定するには無理がありそうです。

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火ノ島豊後守正宗

本佐倉城 (2023/11/27 訪問)

続72城目。
京成大佐倉駅より徒歩で10分程度で到着。
土で構成されたなかなか見どころのあるお城でした。
尚、スタンプは大佐倉駅内に置いてありました。

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火ノ島豊後守正宗

佐倉城 (2023/11/27 訪問)

正71城目。
JR佐倉駅に隣接している観光情報センターで自転車をレンタルしようと思いましたが
月曜日は定休日でした。仕方ないので徒歩で30分かけて城址公園に行きました。
佐倉城を攻略したい方は月曜日を避けることをお勧めします。
佐倉城内の紅葉と銀杏が大変綺麗でした。

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AJ

オモチャ天守と呼ばないで (2015/11/22 訪問)

全体的に“官兵衛推し”な雰囲気は大河の影響でしょうか。中津城(大分県中津市)は秀吉の軍師・黒田孝高(官兵衛)の縄張りですが、本格的な築城は細川。また藩政は長年、徳川と血縁にある奥平が担いました。一面だけを切り取るのは勿体無い、歴史の深い町です。

もちろん、縄張は名人の域。周防灘に近い河口付近の水城(海城)は後堅固そのもの。華奢ながら梯郭式と連郭式の融合も新鮮。外堀も深い。天守は築かれなかったという見方がほぼ定着しています。今あるのは萩ベースの模擬とのこと。賛否あるかと思いますが、意匠は飽きさせません。

九州平定後も地元豪族の抵抗は続いたようで、黒田による築城は二の丸まで。比較的簡素で小規模だったのではないでしょうか。朝鮮出兵の影響もあり、天守を築く余裕がなかったということなのだと思います。無いには無いなりの理由があって、そこに当地の権力を規定した要因が感じ取れれば個人的には満足です。そうこうしているうちに関ヶ原。そして同家は加増されて福岡に赴きます。

城域で目を引くのはやはり神籠石でしょうか。5キロほど川上にある7世紀(?)の山城(唐原山城)跡の列石の転用が見られます。四角く加工された石を使った石垣は、細川時代の丸みを帯びた自然石との違いが明らか。リユースでエコ、、、というわけではなく、土着勢力の反発に直面し、築城を急いだ黒田の危機感の表れなのかもしれません。

さて、中津といえば唐揚げ、、、そして、福沢諭吉(ですよね?)。加えて、忘れられがちですが、前野良沢(解体新書の)も。当時、西洋科学(蘭学)の理解促進に影響のあった人々を輩出したのが中津藩。外様の多かった九州の地に送り込まれた奥平氏の祖は家康の外孫(長女亀姫の子)として厚遇された御連枝の家柄でした。後に150年以上にわたって安定した藩政を担った同氏は近代科学にも貢献したと言えそうです。

そして模擬天守ですが、御子孫(養子縁組をされた当主)が中心となり昭和に建造(二重櫓は復興)されました。内部は同家の資料館。史実に反したシンボルは不要との見方もあるでしょうが、そうした過去の歩みを紹介するための“ハコ”を後世の関係者がせっせと用意したという事象だけ捉えると、そこも含めて歴史の流れのような気もします。

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トク

82【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と帖佐館) (2023/10/08 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑪です。
関ケ原当時の居城「帖佐館」を訪れてきました。

JR日豊本線「帖佐駅」からバスに乗り10分、運転手さんに聞いた一番近いバス停「イオンタウン姶良(あいら)」で下車。しかしここから館跡までまだ2km程あるようです。ちょっと遠いなとは思いましたが、またがんばって歩く事にします。

帖佐館は、背後の山と別府川の間の平地に築かれた居館だったようです。館跡は現在は「帖佐稲荷神社」になっていました。館の横には義弘が写経をしたと伝わっている花園寺跡があり現在は小さな歴史公園になっていました。

義弘は(文禄の役)後の1595年に松尾城(栗野)からここに移り住み、ここから1597年に朝鮮へ再び出兵します(慶長の役)。そしてその後1600年ここから関ケ原へと向かいます。

朝鮮では圧倒的に不利な状況を二匹の狐が助けてくれたという逸話があるようで、白狐と赤狐が現れて10倍以上の敵に向かって行くと何と火薬庫が爆発。敵が混乱した所を義弘は攻め込み勝利したという言い伝えがあります(実際は勇猛な家臣だったのではないでしょうか?)。現在ある神社は義弘亡き後に建てられ、その時の二匹の狐を祀った神社だそうです(写真⑤)。

関ケ原で敗走し退き口を突破した義弘は、大坂にいる妻子を助け出し、堺から船に乗ります(この船内で同じく敗走する立花宗茂と何と偶然バッタリ😯!)。そして日向に上陸し、ここ帖佐の館へ無事帰還する事ができました。

しかしほっとしたのもつかの間、この後にさらに苦難の連続が待ち受けているとは、思ってもみなかった事でしょう。そして義弘はこの後に、翌1601年桜島に蟄居したあと、晩年は加治木へ居を移し最期を迎えます。

その桜島や加治木での話はまた後にお伝えする事にして、次は話の舞台をいよいよ関ケ原の「島津義弘陣跡」へ移します。


【余談】南国白くまモナカ
暑い中歩き疲れた時に途中コンビニがあったので休憩がてら寄りました。「南国白くまモナカ」なるものがありました。福岡のあまおうを使っていると書いていますが、福岡では見たことがないので、鹿児島限定販売のアイスかもしれません。食べてみるとミルクのすっぱさとフルーツの香りがもう絶妙でめちゃおいしいかったです(歩き疲れた体にしみる~😊 2個も食べてしまった)(写真⑩)
 

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イオ

大阪城公園の紅葉 (2023/11/23 訪問)

子どもと大阪城公園の紅葉見物に行きました。森ノ宮駅から園内に入ると、穏やかな晴天とあって多くの人で賑わっています。公園の木々の紅葉はサクラはほぼ終わりでしたが、モミジやイチョウは見ごろで、もみじ園のイロハモミジを堪能すると、東外堀沿いに北へ。東外堀沿いの桜並木の紅葉も遠景で見ればまだまだ綺麗です。東外堀越しには巽櫓台から青屋門まで高石垣が続き、木々の上からはところどころ天守が覗いています。青屋門を過ぎると北外堀が広がり、桃園とおもいでの森の間のイチョウ並木も見ごろでした。そして伏見櫓台を横目に大阪城公園を退出。外堀外周をほぼ半周、約1時間の紅葉見物でした。

…実は、この日の真の目的はオリックス・バファローズの優勝パレードで(近鉄時代からのバファローズファンです)、パレードの後、せっかく大阪に来ているんだから…と、大阪城公園の紅葉見物に来た次第です。近くから選手の姿も見られましたし、天気も気候も良く、子どもと穏やかな秋の一日を過ごすことができました。
 

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ろっし

お城探訪 (2023/11/25 訪問)

保育所横から登城しました。
20分前後ぐらいで本丸まで行けました。 

石垣は崩落が進んでいますが土塁、堀切などは良く残っていて見応えありな山城ですね。

軽装備でも登れますが、所々が落ち葉などで滑る箇所があったので注意が必要

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宗春

丹波・但馬・播磨の名城を攻めてきました その③龍野城【播磨】 (2023/11/24 訪問)

11/24(金)に休暇を取って4連休にし、友人と名古屋から車で攻城しました。

百名城でも続百名城でもありませんが、名前に【龍】が入っているので行こうと言う事になりました。2年連続最下位のチームを想っての願掛けみたいなモンです。あぁ悲しい。

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T-Shionoya

安祥城 三河の城に障子堀? (2023/08/26 訪問)

8月末に訪れた愛知県安城市の安祥城。

岡崎平野の中央部、矢作川西岸の碧海台地の縁の小さな舌状部に築かれた城。
三方の沼が天然の要害となった模様。

一説では1400年代前半に和田氏が築城したと伝わり、1400年代後半の松平信光の奪取後は、岡崎移転までの松平総領家の居城。
1500年代中期には織田と松平の争奪戦があり、小牧長久手の戦いで徳川方が改修したと考えられています。

現在は本丸跡が大乗寺、二の丸跡が八幡社、その周囲は歴史博物館などを備えた安祥城址公園に。

実際に訪問すると、遺構は少ないものの、2つの櫓跡や公園の小川と池が城郭の名残を残す城跡。
説明板によると、城郭北側虎口が桝形構造(曲輪D)である点が興味深いところ。
更に本丸南の堀が障子堀であったことに驚愕。
関東周辺のイメージが強い障子堀ですが、北は米沢城、西は大坂城や福岡県の小倉城で発見されていることを後日学習。
障子堀の知識が深まった私の城郭巡りの159城目でした。

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にのまる

最上義光歴史館/三の丸土塁 (2023/09/08 訪問)

霞城公園をじっくり楽しんだあとは二の丸東大手門から退場し、最上義光歴史館へ向かいました。
三度目なので100名城スタンプは押しませんが、つい習性で、入口にあった「城下町山形七福神」や「霞城公園来園記念」のスタンプをペタペタと。これも現地訪問のよき思い出です。
瀟洒な外観の歴史館は入館無料。最上義光・駒姫像に迎えられ、常設展示を見て第2展示室へ。古文書コーナーには若き頃の伊達政宗の書状。そして中央に鎮座する「三八間総覆輪筋兜」。義光が織田信長より拝領したと伝わる、弾痕も生々しい兜です。実物を見ることで慶長出羽合戦もよりリアルなものとして迫ってきます。

ここから駅に向かいながら(といっても通り道ではないのですが)、最後に築城当初から残っているという三の丸土塁に行ってみました。城内(三の丸)を歩いていると思えば、そしてこの先にお楽しみが待っていると思えば、町なかの移動も楽しいものです。
徐々に見えてきた緑の小山。最初に外側(町人地側)にまわってみました。長大な土塁を想像するに十分な高さがあります。周辺は寺社地でもあったようで、現在も稲荷神社に隣接しています。取り壊されなかった要因はそのあたりにあったのかなぁなど思いながら見上げました。
内側(武家地側)にまわってみるとより見やすく整備されており、解説板などを読みつつ暫しの間眺め、満たされた思いで探訪の締めとしました。

当初の見積もりを1時間オーバーする3時間の滞在となりましたが、今回で見尽くしたわけではなく、三の丸土塁は見学可能な場所がまだあるようですし、ほかにも駒姫の菩提寺の専称寺ほか、光禅寺、光明寺、宝光院など訪れてみたいところがあります。三の丸の外郭をレンタサイクルでまわって東北随一の広いお城を実感するのもやりがいがありそうです。今回歩いたところをもう一度なぞってみたいという気持ちもあります。

新幹線の駅に近いということで、これまではほかのお城に行った帰りに寄っていたのですが、そういう見方はもったいなかったと気づきました。
<おわり>

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火ノ島豊後守正宗

大多喜城 (2023/11/26 訪問)

続71城目
大多喜駅より徒歩20分程度で大多喜城に到着。
大多喜駅に行くまでは電車を乗り継ぎたいへん苦労しましたが、ここまで来ればこれ以上の苦労はありません。スタンプは駅前の観光施設でゲットできます。
時間があればゆっくりと城下町を散策してもよいと思います。

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火ノ島豊後守正宗

品川台場 (2023/11/25 訪問)

続70城目。
新橋よりゆりかもめに乗って20分程度でお台場海浜公園に到着。
公園内にマリンハウスという施設があるのでここでスタンプをゲットできます。
但し、インクがとても薄かったです。もう少し施設の管理者は責任を持っていただきたいと切に思いました。海浜公園をぐるっと回って砲台跡を見てきました。なかなかの歴史を感じました。

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火ノ島豊後守正宗

江戸城 (2023/11/25 訪問)

正70城目。
徳川家康の居城「江戸城」にやってきました。
はっきり言ってデカすぎました。一通り見ていったら足がパンパンになります。
スタンプは日本武道館近くの第三駐車場の受付でゲットしました。
他にいくらでも施設があるのに何故にこんなところに・・・っと思いました。
アクセスについては問題ないでしょうがスタンプ場所を探すのがちょっときつかったかなっと思いました。

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姫街道

秋の鳥羽山城 (2023/11/26 訪問)

春は桜の名所。秋は紅葉の名所。織豊時代の迎賓館の雰囲気が今も残る名城だ。小字が「本城山」。展望台から社山城が本当によく見える。古くから重要拠点であったと考えている。
さて、久しぶりに「鉢巻石垣」と「腰巻石垣」を堪能した。
天竜川から眺めたら、それはそれは壮大な景色だったと思う。

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いんげん丸虫

北大門城 茨城県常陸太田市 (2023/11/11 訪問)

南大門城の北の尾根にあります。400m位しか離れていないかな。
非常に良く遺構が残っています。大きな堀切や角度のある切岸など
見応えあります。
専用の駐車場もあり、南大門城から国見山山頂そして北大門城と巡れる
コースが整備されてます。
看板が適度に設置されていて、草も刈られていて、地元の方に大切に
されている城郭だと感じました。見学会も開催されてるようですね。
尾根先にある大門城はキツイ登りも無く整備されているので、山城が
苦手な方にもお薦めできます。

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姫街道

二俣城の秋 (2023/11/26 訪問)

紅葉と銀杏の木が城内に点在し、石垣に紅葉が良く似合って綺麗だ。
今日は、西の丸IIの一号竪堀と二号竪堀を中心に観てまわった。戦国期の山城の遺構だろう。特に、一号竪堀は竹藪になってはいるが、壮大な竪堀。何としても後世に残したい。
西の丸や南の丸は、一部石垣もあるが、織豊時代色が薄く戦国期の雰囲気が強く残っている。

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小城小次郎

一向一揆を睨みながら、一向一揆に飲み込まれた (2023/04/13 訪問)

城跡にある神社境内には土盛りがあるけれどもこれを土塁と言う人がいないので遺構ではないのだろう。長島一向一揆衆を睨んだお城だったが信長包囲網で信長が動けない中一揆勢に囲まれ信長の実弟・信興は城と運命を共にした。

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シェル

備前堀を散策し、吉田城へ (2023/09/29 訪問)

水戸駅南口から徒歩約40分です。
城跡は、常照寺というお寺になっています。
お寺の東側が入口になっていて、そこに駐車場があります。
駐車場からすぐの山門の脇に城址碑があります。
山門を潜ったさきの参道は、門の方から日が照って、とても良い雰囲気でした!!
遺構としては、境内の本堂奥の南西側に空堀が残っています。(かなり藪っていました。)
水戸駅からの道中には、江戸時代に水戸藩初代藩主 徳川頼房が伊奈備前守忠次に命じて築かせた用水堀の備前堀があります。
備前堀にかかる銷魂橋のたもとには、江戸街道(水戸街道)の起点の石碑、その東にある道明橋には、伊奈忠次の像があります。

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ヒロケン

守護・土岐氏の拠点 (2023/11/18 訪問)

小島城は標高450m程の小島山の麓に築かれ、西は急斜面、東は岩壁、南は崖で天然の要害となっており、80以上の曲輪を配し、城の最も高い地点に物見櫓、その下三段の平地に本丸があったとされています。遺構は曲輪、石垣、竪堀が残っています。

小島城の築城年代、創築者等不明となっているそうですが、一時は守護土岐氏の拠点として美濃国の中心的な城として隆盛を誇っていたと云われています。
1390年の土岐康行の乱で、京極高秀ら室町幕府軍に攻められ落城。その後、廃城となっています。

小島城には、「ぴーかるさん」と「とある煩悩の登城目録さん」の投稿を拝見し、いつか行こうと「行ってみたい」城としていました。
現在の小島城は、東山公園として城跡に観世音菩薩像などもあります。4~5台程停められる駐車場もあります。また、城跡を少し車で登ったところに、「岐阜のマチュピチュ・天空の茶畑」という茶畑が一面に広がっている集落があり、合わせて行かれることをお勧めします。

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