真田(さ・な・だ)ーー。その響きだけでご飯三杯はイケるという方、少なくないのでは。武田を支えた骨太な家柄、「表裏比興」な父、「日本一の兵」な息子、そして史実を飛び越えてくる忍術使い。規格外の要素が絡み合って、そのネームバリューを押し上げているように思います。
一方、その歴史を紐解いてみると、一族の中には必ずしもキラキラしてない真田さんもいらっしゃったようで、、。
沼田城(群馬県沼田市)。続100名城のひとつですが、城域はかなり改変されていて、堀や土塁の跡は限られています。上田城(長野県上田市)と並んで、同家生き残りの礎となった城ですが、同時にその影響力を削ぐきっかけともなった土地であります。
利根川流域にお手本のような河岸段丘。中心街は駅から70メートルほど持ち上がった高さに広がっています。城域が最大規模になるのは、真田昌幸の孫で、信繁(幸村)の甥にあたる信吉の城主時代。本丸北東隅に四重天守、南東に三重櫓が建てられ、各郭はそれぞれ幅20m以上の空堀で区切られたほか、計6棟もの櫓門が築かれたといいます。実高3万石(諸説あり)の領主でありながら、その格式の高さは10万石級だと指摘する向きもあります。
1622年、真田氏が上田から松代(長野市)に国替えとなった後も沼田は飛地として存続しますが、信吉の次男・信利が本家の相続問題を機に独立。このあたりから雲行きが怪しくなります。
正式に沼田藩を立藩した信利はその後、松代への対抗心と財政難から拡大検地に手を染め、所領を過大申告。重税で領民を苦しめた挙句、江戸における幕命工事の負担を果たせなかったとして改易され、廃藩。城は取り壊されたといいます。
これにより沼田は天領(幕府直轄地)として扱われますが、下総から入った本多氏が藩を再興。ただ、天守や櫓は再建されず、石垣や土塁の整備にとどまります。今日、遺構に物足りなさが残る背景にはこういった事情があるようです。とはいえ、そこはあくまで真田の地。彼らのちょっと残念な部分さえも抱きしめたい、、、そんなマニアックなあなたにおすすめの攻城先かもしれません。
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