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しんちゃん

主郭の周辺にも遺構が残っている。帰り道の方向に注意。 (2023/11/04 訪問)

小鷹利城は姉小路一族の小鷹利氏の城とされています。飛騨市河合町の湯峰峠から分岐する林道を通っていくしかないのですが、グーグルマップやカーナビには載っていないようです。国土地理院の地図には記載はありますが林道の南側から回り込むルートは道がひどすぎて使えません。北側の林道から東へ進んでいくのですが途中から舗装路でなくなる上に、段差がきつくて普通車では底をすってしまいますので駐車可能な場所に車を停めて、あとは歩いていくのが良いでしょう。登城道の入り口などは「まとめ」を参照していただければと思います。城域に入ってすぐに馬場があり南西の郭から南腰郭に到達すれば、すぐに主郭に入れます。南腰郭と北腰郭は主郭の西側でつながっていますが、主郭を経由して北腰郭から北西に降りていきます。長大な竪堀が通路の役割をしているのでそこを下りていけば畝状竪堀群があり、さらに尾根を絶つ空堀があります。空堀を越えて北西の尾根を登れば出丸のような郭にたどり着き、その北側は空堀で断ち切られ土橋がかかっています。そこから元来た方向へ戻っていくのですが、南腰郭から南郭に抜け虎口を進むと尾根を東側に進んでいきます。空堀など遺構は残っているのですが、登城道と反対方向に進んでしまうので南郭の南側を西に回り込んで馬場を抜けて戻りました。

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ぴーかる

余部城 (2023/10/21 訪問)

【余部城】
<駐車場他>西岸寺の駐車場を利用(御城印購入したので)しました。
<交通手段>車

<感想>余部城の築城時期は定かではありませんが、応仁の乱の頃東軍方の野田泰忠という武士の軍忠状に「余部之城」という記述が残されています。戦国時代には波多野氏の傘下である福井貞政が城主となります。天正年間の初めころ明智光秀の丹波攻略によって落城しました。光秀は亀山城築城までの期間はこの余部を拠点としていたようです。
 城跡は西側の台地状から東方向へ一部が長く突き出た、西側以外からは東西に長い丘陵地のようになっています。最東の西岸寺辺りが本丸跡で西岸寺さんで御城印を購入した際に非常に丁寧にご説明いただきました。パンフレットも頂けます。説明によると、本丸跡の東側は数メートルの切岸の名残が見られます。二の丸と三の丸の堀切跡が僅かではありますが宅地の下に残っているそうで、地図と照し合せながらこれかと思うポイントを見つけました。三の丸跡の北側の畑が弓場跡だそうです。西岸寺さんの庭から丹波富士、その奥に愛宕山を望むことができます。たぶん説明を受けなかったら、ちゃちゃっと流し見終わっていたと思います。説明後散策して残る遺構は少ないですが城跡の地形を認識して楽しむことができました。

<満足度>◆◇◇

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いんげん丸虫

柿畑城 岐阜県恵那市 (2023/11/04 訪問)

標高593mの山城です。
千畳敷と呼ばれる単郭の城で、東西に
明確な虎口があり、東は大きな堀切で
断ち切ってます。
遺構の残り状態は良いですね。
搦手である南の林道に登城口があり、
看板もあります。路駐も可能です。

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カズサン

【備中千足古墳】岡山市北区 造山古墳陪塚第5古墳石室公開 (2023/10/06 訪問)

 千足古墳は造山古墳群の陪塚で造山古墳第5古墳で唯一石室が公開されています。

 住所:岡山県岡山市北区新庄下1271
 駐車場:岡山県岡山市北区新庄下789、造山古墳ビジターセンター
 参考資料:グーグルマップ、ビジターセンター入手造山古墳ガイドマップに依る。

 盗掘に依る穴から石室を公開できるようになっています、閉館時間が16時と言うことで、ビジターセンターの係りの方から見学を薦めらられました、ビジターセンターから望む事が出来、訪ねる事しました、直線では約400m程南側です、復元されて居り良く見分けがつきました、造山古墳麓沿いに南に歩くのですが集落の道を1本東にとり、遠回りとなり少し時間は掛かりましたが目的地は見えて居り到着。
 全体復元されて居り後円部、前方部は土盛りされて奇麗、周辺部には埴輪の列で飾ってあります、後円部南上段に公開の入口が有り、盗掘穴上部から石室を覗く事が出来ます、前面より石室が見えるものと思っていたのですが、上から覗く見学でした。
 前方後円墳ですが前方部が台形でなく四角く、ホタテ型古墳の様です。
 この後に造山古墳/造山城を探訪しました。
 

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カズサン

【備中造山古墳】岡山市北区 全国4位規模の古墳 (2023/10/06 訪問)

 造山古墳は吉備国一番の古墳で全国では仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中天皇陵に次ぐ全国4位の巨大古墳です、また唯一古墳に登れる古墳では1番の大きさです。規模は全長350m、後円部の高さ32m。

 住所:岡山県岡山市北区新庄下
 駐車場:岡山県岡山市北区新庄下789、造山古墳ビジターセンター、トイレ完備
 参考資料:グーグルマップに依る。

 12年前の平成23年7月に吉備路を訪ねた時には訪ねて居なかった古墳でしたので今回是非にと組み込みました、この古墳群はじめ吉備路の古墳群を眺めると、古代吉備の国の大きさが分かります、宮内庁が天皇陵と指定して居ないので、古墳に登り探訪散策する事が出来ます、やっと願いが叶ったことに感激でした。
 まだ祀られてる石室の発掘調査はされて居なく、今後の期待が大きい古墳です、埋葬者は誰なのか、歴史が変わるかもしれない巨大古墳です。ロマンが広がりますね!
 
 千足古墳の石室公開時間に間に合い、その後南東の登り口より進入、三段の段丘を登り荒神社の鎮座する前方部高台、境内には石棺が露出展示されてる、前方部と後円部の間には桜が植栽されて春はさぞ華やかでしょう!平地に成っています、後円部は備中高松城水攻め攻防戦で毛利方の陣城に利用されています、後円部南下に造山古墳の整備計画パエルが展示解説されて居り、発掘調査の継続と、表面の葺石と埴輪列の復元計画が載っていました、復元後は、また訪ねたい造山古墳でした。
 

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カズサン

【備中造山城】岡山市北区 備中高松城水攻め毛利方陣城 (2023/10/06 訪問)

 造山城は備中高松城水攻めで有名な毛利方の陣城で、全国4番目の規模である造山古墳の後円部を利用した城郭です。

 住所:岡山県岡山市北区新庄下
 駐車場:岡山県岡山市北区新庄下789、造山古墳ビジターセンター
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップに依る。

 60年目の中学卒業合同同級会後、3泊4日で因幡、出雲、備後、安芸と廻り3日目の五龍城、鈴尾城を終えて、中国道、尾道道、山陽道経由し倉敷ICを降りて、吉備路備中国分寺を見ながら、造山古墳ビジターセンターへ、駐車場、トイレ完備、造山古墳の東麓に在ります。
 ビジターセンターを見学し造山城に関する資料は?と探すが無し、展示パネルに発掘調査写真が有り下段の二枚が城跡発掘調査写真、土塁跡と建物柱跡の写真のみ、古墳のパンフレットを入手した。
 係りの方には陪塚である千足古墳の石室公開時間が16時に終わるのでと先に千足古墳を薦められた。(千足古墳は後程投稿します)

 造山城には千足古墳見学後、千足古墳の後円部より眺めて、南東角の登り口より進入、前方部は荒神社鎮座、城跡は後円部に残って居ます、土塁跡、建物跡は発掘後埋め戻されて平地のみ、後円部南の段丘は3段曲輪跡の様ですが草に覆われて良く分からず、竪堀も東側に有るようですが草に覆われて良く分からず、土塁は後円部の東側、南北続きに残って居ます。
 高松城水攻めの布陣図に毛利方の城として造山古墳/造山城、この後訪ねる冠山城とも記載があります。
 見晴らしは良好なのですが高松城方向は良く分からず。

 以前から訪ねたいと思っていた城跡です、また全国4番目の規模を誇る古墳でもあり、訪ねる事が出来て大変ありがたい。
 
 

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イオ

とことん駿府城(天守台発掘調査現場) (2023/08/06 訪問)

(続き)

開場ほどなくして天守台発掘調査現場に入場。発掘調査現場では徳川家康が大御所として改修した慶長期天守台だけでなく、天正期に築かれた天守台のほか、今川期の薬研堀や中国製の磁器などが発掘されており、カラーコーンで各時期の遺構を色分けして表示されています(慶長期は緑、天正期は赤、今川期は黄)。

入場してまず発掘調査現場の広さに驚きましたが、慶長期天守台の巨大さは開いた口が塞がらないレベルで、一辺60m超と知識では知っていても、実際に目の当たりにすると両端が視界に収まりきらず、唖然とさせられました。さすがにこの天守台に直接天守が建っていたわけではなく、多聞櫓で囲んだ中に建てられていたようですが、いずれにせよ大御所の比類なき権勢を実感させられました。天守台を取り巻く本丸堀も深く幅広く、天守台北東部には天守台下御門跡の木橋の痕跡や枡形虎口も確認されています。天守台南部には小天守台が接続し、絵図によれば天守台に続く階段が設けられていたようです。

慶長期天守台の南東部では天正期天守台が重なり合うように確認されています。一辺30m超と慶長期の4分の1の規模ながら、普通に考えれば充分すぎるほどの大きさで、慶長期が規格外すぎるんですよね。慶長期の打込接に対して天正期の石垣は野面積みで積まれており、天守台付近で金箔瓦が多数出土しています。

発掘調査の成果は場内の発掘情報館きゃっしるで紹介されていて、写真や説明パネル、出土した金箔瓦などが展示されています。また、天守台跡を野外展示施設として整備・活用する計画が進められているようなので、完成したらぜひまた訪れたいものです。

…ということで、遠征2日目の予定を変更してまで訪れた天守台発掘調査現場でしたが、この世に二つとない規模の天守台が見られましたので、その甲斐は充分すぎるほどにありました。満足満足。

(最後にもう一回続く)
 

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todo94

淡路国の山城 (2023/10/29 訪問)

炬口城からの転戦です。炬口城もコンパクトな山城でしたが、港に隣接しているので海賊の根城といったテイストでした。ここは本格的な山城です。しかし車であれば、延々と林道を運転しなくてはならないとはいえ、駐車場に乗り付けて簡単に攻城することができます。道路の案内表示もあるので迷うことはないでしょう。土塁、郭、堀切といった土の城のパーツをきっちりと確認することができました。東の丸からの眺望も素晴らしかったです。洲本城に次ぐ淡路のお薦めの城といえそうです。

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小城小次郎

前田利家の生誕地には諸説あるが (2023/04/15 訪問)

前田利家の父・利昌が入って以来、利家系前田家の本拠地であったお城。肝心の利家がどこで生まれたのかには諸説あるものの、利家の嫡男・前田利長が荒子城で生まれたのはほぼ間違いない。それだけでもすごい歴史ではないか。

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しんちゃん

200年間、断層の上にあったプチ陣屋。 (2023/11/12 訪問)

飯島陣屋は天領を治めるために江戸幕府によって作られた出張陣屋で、通常3人程度の人数で運営されていたようです。目の前に断崖が迫っており、その上に住宅地があります。河岸段丘と思われていた時期もあったようですが、今では断層であることがはっきりしており(田切断層というらしい)寛文12年(1672)の創設から江戸時代の終了まで200年ほど断層上にあったようです。江戸末期には天狗党の残党がこの周辺を通過しており、飯島陣屋は門をかたく閉ざして貝殻のようにじっとして天狗党が通過するのをやり過ごしたようです。実質三人では戦闘力は無いに等しいので、それ以外に方法は無かったようです。こんな小さな陣屋ですが明治初期には伊奈県32万石相当を管轄していたようです。

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しんちゃん

主郭西の五連続堀切が見事 (2023/11/11 訪問)

駒場城は阿智公園として整備が進んでいます。今でも多くの工事関係者の方が来ていて木々を伐採しているようです。主郭に立つ大きな松の木も、いずれ伐採されるようで、少し勿体ないようですが痛みが進んでいるようでやむを得ないみたいです。城址まで林道が続いていますが轍の跡がすこし深いので、通常の車であれば底をすってしまいます。四駆車であれば、何の問題も無いと思いますが、できればこちらの方も整備してくれると有り難いです。駐車場から西に向かって進むと東屋のある郭があって、その西に主郭があります。見所はさらに西にあって大小5つの堀切が続いていて、見るものを楽しませてくれます。駐車場の東にも城域があり東の郭には社が奉ってあり、東には堀切が残っています。

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しんちゃん

長岳寺 武田信玄公供養塔(灰塚) (2023/11/11 訪問)

長岳寺は長野県阿知村駒場馬場にある寺で武田信玄公の灰塚供養塔が建ち、武田信玄の最期の地とされています。当時は信玄公は輿に乗って移動していたので体調を崩し(負傷して)死亡が確認されたのがこの周辺とされているようです。長岳寺に秘かに運び込まれ、近くの山中で火葬され、遺灰を納めた供養塔が建立されたとされています。遺灰が収められているのであれば立派な墓とも言えるのではないでしょうか。拝観料を納めれば貴重な仏像や高名な画家の描いた襖絵を拝観することが出来ます。

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しんちゃん

伝説の蛤石が鎮座。目立った遺構は無いが容姿の美しい城。 (2023/11/05 訪問)

古川城は古川氏によって築かれたとされ、一時期三木氏の手にあったようです。三木自綱を討った金森長近によって養子の可重が入りますが、長近が蛤模様の奇妙な石を見て、かつての古川城から名を蛤城(古川城の別名)に改めたとされています。県道471号線を北上して吉城コンボという採石場らしき施設のある道を左折して西側へ登っていくと古川城の登城道の標柱が見えてきます。登城道を進んでいくと出丸らしき郭があり、そこから東側の郭に続く道があるので進むと蛤石のある郭にたどり着きます。かつては野ざらしだったようですが、今では大切に祠のような建物に囲まれています。郭の南東側には内枡形虎口という虎口が残り、かつては石垣で補強されていたようです。主郭へ通じる道の周辺にも石垣の跡があり、主郭周辺の側面全体に石垣の跡らしき石が散らばっています。主郭には土塁が残り、浅いですが周囲には竪堀が残っているようですが、全体的に遺構はあまり残っていません。土塁や堀切は少ないのですが郭や山容が山城らしい美しさを持った城だと感じました。

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刑部

福山城 (2023/10/08 訪問)

やっと来ました福山城、旧幕府軍に数時間でおとされたとは思えない縄張り。しっかり整備された城址です桜の時期に来れたら良かったのですがここまで来るのになかなか時間が取れずやっとここに!感動。
探索の後はやはりグルメ、マグロを食べに!

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いんげん丸虫

大平城 (おおだいら) 岐阜県恵那市 (2023/11/04 訪問)

標高525mの山城です。
岩場を伴った32m x 13mの主郭を中心に
東に2段、西に大きな2段の曲輪があります。
曲輪の段差が10m位ありますね。
しっかりした遺構で見応えがあります。
東の曲輪は杉の丸太で柵のように囲って整備
されてます。戦国当時の状況が想像できて
とても良い整備の方法だと思います。
登城口には看板があり、その付近に路駐も
可能です。

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かつじ

桜の名所 (2019/04/30 訪問)

多くのお城は桜が植えられていますが、ここ五稜郭も桜の名所として知られています。
写真は4年前の4月30日。今年は5月に入る頃には散ってしまったようで、年々、見ごろが早くなっているのかもしれません。
車で行く場合は観光駐車場が便利ですが、桜の時期は早朝に行かないと渋滞します。

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シェル

東京文化財ウィーク2023の一般公開 (2023/11/03 訪問)

西武池袋線 石神井公園駅南口から徒歩20分
(石神井公園内の西側のエリアが石神井城跡のため、公園の中の移動でけっこう時間がかかりました)
三宝寺池にかかる橋を渡ると、正面の階段手前に石神井城の案内板、左手に石神井城址碑があります。
橋の正面の階段を登ると、左側のフェンスの奥に主郭跡があります。
普段は、主郭内は立ち入り禁止ですが、東京文化財ウィーク2023という企画で、期間限定で主郭内に入ることができました。
入口を入ると、すぐ空堀と土塁を見ることができます。
主郭内でも立ち入れるのは一部でしたが、あちこちに遺構の説明や発掘調査の内容が書かれたパネルが展示されていました。また一部ではありましたが、土塁の上を歩くこともできました。

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駿府城

「駿府おさんぽスマホdeスタンプラリー」を開催しています!

スマホ片手に静岡市の家康公ゆかりの場所やお店を巡る「駿府おさんぽスマホdeスタンプラリー」を開催しています。開催期間は2024年1月28日(日)までです。

まずは下記QRコードからエントリー!登録完了するとスタンプラリーに参加できます。

GPSを利用してラリーポイントを訪れると、名所や名店を紹介する音声ガイドが自動で流れます。音声ガイドを最後まで聴くとスタンプが貯まります。集めたスタンプは賞品に応募できます。
詳細は下記チラシをご覧ください。

発掘調査現場内に併設されている「発掘情報館きゃっしる」もラリーポイントになっています。

発掘調査現場の音声ガイドは、きゃっしるに駐在している文化財サポーターが担当しています!
発掘調査の成果や発掘調査現場の見どころなどを紹介していますので、ぜひ発掘調査現場で聴いてみてください!

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トク

79【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (根白坂(1/2) 島津VS豊臣:決戦の地) (2023/11/05 訪問)

高城から念願の根白坂まで歩きます(いざ出陣!)。

高城川(現:小丸川)を渡り坂の入口に着きました。このあたりが高城川合戦の地で、島津の釣り野伏せにあった大友軍の将兵が多く討死した場所です。その供養でしょうか? 無名の塚や神社がありました(写真①②③)。

ここから坂を登ります。意外とトラックが突然来るので、注意して登ります。坂というよりここははっきり言って山ですね。標高差は麓から200m以上はありそうです(写真④)。傾斜も急で結構きついです。当時は今のような舗装された道などないので、昔の人は獣道や崖を鎧を着て槍や鉄砲をかついだまま、よくまあ登ったものだと感心します。

途中で急に開けた場所がありました。ここからさっきまでいた高城が見えました(写真⑤)。わかりにくいと思うので拡大した望遠写真です(写真⑥)。畝状竪堀や温泉館や秀長陣跡も見えました。左には小早川隆景の陣もあり、写真には映っていませんが右側手前には黒田官兵衛や藤堂高虎の陣もありました。総勢8万の軍勢が高城を取り囲んでいる姿は、いったいどんな光景だったのでしょうか? そして義弘には、助けに行こうとしている山田有信が守るあの高城がここから見えたのでしょうか?

そしていよいよ根白坂の頂上へ着きました。ここまで高城から2時間もかかりました(ああ汗が止まらない、登り坂はきつくだんだんと足にくる)。ここには根白坂に関する看板が立っていました(フムフム・・なるほど🤔)。なぜ島津は豊臣に敗れてしまったのでしょうか? ここでヒントが少し見えてきました(写真⑦⑧)。

実際に合戦が行われたのは、ここから反対側の南へ下った場所です。では今から、その理由を探りに、今度は南へ下ります。( (2/2)へ続く)
 

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イオ

とことん駿府城(二ノ丸堀) (2023/08/06 訪問)

(続き)

四足御門を抜けて北に進むと、水堀越しに端正な坤櫓が目に飛び込んできます。いつか再訪するぞ…。中堀にあたる二ノ丸堀はごく一部に改変はあるものの完存していますので、南西隅に設けられた駿府古絵図の石碑を起点として時計回りに堀めぐりスタートです。

病院、税務署、裁判所が建ち並ぶ三ノ丸を堀沿いに北に向かい、西門橋を渡ると清水御門です。往時の木橋や門、枡形石垣は失われていますが、発掘調査地のフェンスに設けられた窓から発掘された石垣を見ることができました。二ノ丸堀北西隅で東に折れると北御門に至ります。門や門内部の枡形は失われているものの、高麗門跡の石垣は遺っています。北東隅で南に折れてしばらく進むと、対岸に二ノ丸水門が見えました。ここから本丸堀まで二ノ丸水路が続いているんですね。

東御門を過ぎ、巽櫓で西に折れたところには府中 弥次喜多像が建てられています。弥次さん喜多さんでお馴染みの「東海道中膝栗毛」の名前くらいは知っていましたが、作者の十返舎一九が駿府の出身(喜多さんは江尻出身の設定)だったとは知りませんでした。二ノ丸堀南辺を西に進み、二之丸橋を過ぎたところに二ノ丸御門跡の説明板があり、対岸の石垣を見てみると、なるほど確かにかつての門をふさいだ痕跡が見られます。そのつもりで見なければ見落としたかもしれませんが、明らかに積まれた石の大きさが違いますね。往時はここに木橋が架かり、昨日見学した枡形へと続いていた、と。

そして坤櫓で二ノ丸堀をひとめぐり。三ノ丸堀に比べて走行距離は3分の2くらいでしょうか。さて、いったん宿に戻ってチェックアウトすると、いよいよ念願の天守台発掘調査現場に向かいます(続く)。

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