会津戦争で会津藩の兵士や住民が立て籠り、新政府軍の砲撃を受けてボコボコになった城…
会津戦争の後、建物は1874年に解体。それからしばらくは天守閣が無い状態が続いたものの、戦後になって地域住民の働きにより再建され、現在に至る。建物は5層から成っています
1・2層は撮影禁止。それもあって今回の添付画像は外からの撮影になってます。会津は歴史上数々の大名の支配下におかれた場所で(伊達政宗が治めた時もあったが、秀吉に恭順の際、没収された)幕末では松平氏の統治下にあった
会津戦争に関する展示が多めで、「火中の栗を拾う」京都守護職の任務を買って出た会津藩。鳥羽伏見の戦い後、薩長が掲げた錦の御旗により朝敵と見なされた幕府軍
江戸無血開城により幕府は降伏したものの、会津藩を始めとする諸藩は新政府に抵抗
新政府軍は旧幕府軍勢力を各個撃破していき、1868年9月には会津に進軍。兵力と弾薬量の差により会津軍は徐々に後退。最後は城に立て籠るも、1か月の奮戦の後に降伏…
当時、鍋島直正による近代軍備化により、佐賀藩は日本一の最新兵器を所有していて、それがこの会津戦争にも使用されたそう。アームストロング砲による砲撃により、城がボコボコになり、城内の人間が殺傷された(つまり当時、佐賀藩を敵に回すことは圧倒的不利を意味した)
現在の様子からは想像も出来ませんが、当時はそこに地獄絵図が見られたと思われます。白虎隊が飯盛山にて自決する絵が2枚ありました。どうやら片方(歴史の資料集に使われる)は1869年、もう片方は1930年頃に描かれたもの…とありました
当時、写真は一応存在していたとはいえ、撮影に時間がかかり持ち運びもしにくい。スマホ撮影のように気軽にできるものではなかったため、「ボコボコになった会津城(動かない撮影に時間かけられる被写体)はモノクロ写真」「白虎隊の自決(カメラを持ち合わせるような状況にない)は想像図」となっている
ここはエレベータがなく、移動手段は階段オンリー。しかも城内にトイレなく、記念のメダル販売機もありません。こういう「展示のみに特化した城」は珍しく思えました
城の1層の出口側が土産店になっており、そこで本陣という菓子を買いました。会津と言うと「あかべこクッキー」のほうが有名のようですが、前に訪れた時にそれを買ったのです。なので今回は違う土産を買いたい・クッキーとかありきたりな商品は避けたい…と考え、店内にある品を一通りみて熟孝した結果、本陣に
天守閣に麟閣(城内にある庭園)の入場券付きだったので、ついでという感じでそこにも立ち寄りました。中に入って和風庭園を一通りみたものの、「ここの饅頭付き抹茶は600円」「今は腹減っているが、ここで軽食とは言え、何か食べてしまうと、昼食の邪魔になりかねない」「ここで600円費やすくらいなら、カレー焼きそばに回すべきだ」と考えて、見るだけ。抹茶体験はしませんでした
というか、規模の小さな庭園。都内の庭園を数々巡って「もう十分」な感じもあったので、ここ自体カット・天守閣見物だけでよかった気もしますね…
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