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ぴーかる

辰市城 (2023/06/17 訪問)

【辰市城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅5城目。辰市城は1571年に松永久秀攻略のために筒井順慶が家臣の井戸良弘に命じて築城しました。8月には辰市城の戦いが始まり、松永久秀・久通父子と三好義継連合軍が攻め寄せます。当初松永軍が優勢でしたが、筒井軍各城から後詰めが次々に到着してついに松永軍は崩れます。この戦いで筒井順慶は筒井城を奪還します。廃城年は不明になっていますが1580年信長の破城令によって廃城となったのかもしれません。
 現地には遺構も説明板も石碑もないとのことで、さらに駐車できそうな場所もなさそうでしたがとりあえず車で現地にいってみました。やっぱり、ストリートビューで確認した通り停車すら出来なかったので車から1枚撮影したのみとなりました。

<満足度>◆◇◇

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赤い城

47都道府県の最後は。 (2023/07/09 訪問)

城びと登録後はまだ行っていないところも多いですが相方と結婚後、秋田だけ未訪でした。
竿燈や大曲の花火にも行きたかったですが関東を離れる前にとりあえずコンプリートしようと遠征しました。
がラストスパートこれが結構遠い。
東北地方の広さを実感しました。
初日は男鹿周辺、脇本城に登城しました。
梅雨空で天候はいまいちでしたが駐車場から登って行きます。
菅原神社を経て案内所でスタンプとパンフをゲットし、まずは生鼻崎へ。
いくつかの曲輪が区切られていて北側には土塁が続きます。
晴れていたら日本海の眺望が素敵かと。
この日は霞んでました。内館と呼ばれる主郭部に戻ります。
ここには大土塁や4箇所の井戸、空堀も見ることができます。
下草は伸びてましたが見学路は草刈りされていて歩きやすかったです。
が、この日はスニーカー登城。
足下に違和感が、なんと靴底部分がパッくりと、初日なのに南樽市場試練。
引きずりながら馬乗り場も見学し、本明寺に降りました。
広大な城域で晴れていたらもっと楽しめたかな、とも思いましたが充分満喫できました。
この後なまはげ館を見学、秋田名物のババヘラアイスをおいしく頂きました。
それにしても売り子の方、85歳だとか。
話好きのイカしたおばあちゃんでした。

イオさん、メッセージありがとうございます。
高槻も迷ったのですが高松に決めました。
四国でも関西でも良いのでご一緒できる日を楽しみにしています。

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イオ

転用石垣石めぐり (2023/05/21 訪問)

(続き)

前回に城下はひとめぐりしていますが、見落としや遠方で行けずにいたところもあるので、市内にある(転用)石垣石をめぐってみました。

しろあと歴史館(高槻市城内町)
入口脇に二の丸跡での発掘調査で発見された高山期の石垣石が展示されています。前回、歴史館前の思案石(外堀沿いの石垣石)は確認しているんですが……むしろどうして見落としたんだろう?

高槻城公園(高槻市城内町)
北西口を出たところにも高槻城の石垣石が移設されています。こちらは見落としではありませんが、前回は道路工事の器材が置かれていてよく見られなかったので再訪です。

上宮天満宮(高槻市天神町)
参道の石垣に高槻城の石垣石が転用されている…らしいんですが、現地には案内等は何もなく、矢穴などのわかりやすい痕跡も見当たらず、結局どれがそうなのかはよくわかりませんでした。

JR京都線(高槻市川西町)
清水池公園の北側からJRの線路の下をくぐるレンガアーチ橋には高槻城の石垣石が転用されており、矢穴のある石垣石も多く見られます(高槻まちかど遺産番号H29-3)。また、芥川に架かる橋脚にも高槻城の石垣石が転用されているそうですが……よくわかりませんでした。

…で、ひと通り行けたかな、と思いつつ帰宅して城びとを覗いてみると、ちょうど赤い城さんの高槻城の投稿があり、槻の木高校内の石垣石を見落としていたことに気付きました。すぐ目の前まで行っていたのに……やれやれ。


# 赤い城さん
高槻でなく高松に決まったんですね。私は四国はほぼ未踏の地なので、四国の城の投稿も楽しみにしております。
 

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シャンシャン

木造復元天守 (2023/07/06 訪問)

宇和島城とセットで訪問。
木造復元天守なので、中はほとんど現存天守と変わらない雰囲気。
吹き抜けがあり広々した空間で、心柱が天守を支えている構造がよく分かる。
少し離れたところにある2つの現存櫓も見所。
周辺を歩くと、東京ラブストーリーの撮影があったという昔ながらの街並みも残っており、タイムスリップしたような感覚を味わえる。

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シャンシャン

現存12天守5城目!! (2023/07/06 訪問)

少し険しい山道を登っていくと天守が現れる。
天守はそんなに高さはないけど、破風が立派で凛々しい姿。
石同士の隙間がピッタリした切込接の石垣も見事。
木造天守は、木の匂いや歩いたときの木の軋みなどが感じられてやっぱりいい!

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todo94

黒渕河川自然公園 (2023/05/05 訪問)

レンタカーを借り受けてまず向かったのが黒渕城。黒渕河川自然公園としてきれいに整備されていて眺望もなかなかのものです。山城跡展望広場が主郭に当たるようですが、説明板によると削平の度合いが荒く、堀切も観察されず、顕著な遺構は山頂周囲斜面の削り落しのみで、黒渕の集落に関連した砦跡の感が濃いとのことです。

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しんちゃん

中生と近世の郭が階層的に重なる。ミルフィーユのようなおいしい城。 (2023/01/08 訪問)

高山城は伊東氏四十八城の一つで、江戸時代には高鍋藩の藩庁になっています。
現在は舞鶴公園となっており、
麓には三の丸、その南の資料館が二の丸跡、その上に本丸と奥御殿が築かれ
現在、舞鶴神社となっている三の丸跡は近代的な石積みの上に築かれています。
面白いのは本丸の上にかつての詰めの城が階層的に重なっていて
詰めの丸跡の上に、かつて三重櫓のあった郭があり、野面積の高石垣の上に築かれています。
さらに高台に太鼓櫓跡があって東手にも郭が築かれ
一部に土塁も残ります。
近世の平山城の上に中世の平山城が築かれたようなミルフィーユ的な
構造になっており、まるで郭の天守閣のようです。
一度の訪問で近世の城と中世の城を両方味わえたようで、ちょっと
得したような気分になりました。

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にのまる

久松山山頂から。 (2023/04/23 訪問)

鳥取城本丸から二の丸、三の丸を経て向かいました。

歩きはじめて数分で写真①の東坂の上城門に到着。出立のゲートのような感じでちょっとドキドキします。
崩れたものと思しき石が散在する道を少し進むと②の建物。かつて運行されていたロープウェイの駅舎(山頂駅)跡だそうです。ちょっとした休憩ならできそうです。

そのまま進むと初めての分岐。右が本ルートですが、左の「十神砦」(外神砦)が気になったのでちょっと寄り道してみました。突端まで行くと巨岩がどんっ!これだけでも寄り道した甲斐があったなという感じでした(写真③)。

コースに戻って先へ進みます。写真④のような安心して歩ける道(中国自然歩道)が続きます。
しかし、念のため起動したままにしていたGooglemapさんは、
「そっちに行かないで!戻って樗谿(おうちだに)公園の道から登りなさい!!」
としつこく何度も何度も忠告してきます。どうやらこのルートはGoogleさんの守備範囲ではないようです。
ーここまで来てそんなめんどくさいことできません。ごめんなさい、無視します。

十神砦から10分ほど進んだところに⑤の道標がありました。
分岐ごとに道標があるのはたいへんありがたいです。
道標をよく見ると、⇔(矢印)があります。これは『山陰海岸ジオパークトレイル』のコース案内で、ジオパークトレイルの[コース4・鳥取駅~久松山~摩尼寺]に久松山(鳥取城山頂)から太閤ケ平の手前「本陣山」の分岐までが含まれているようです。
 ※『山陰海岸ジオパークトレイル』
 ※[コース4・鳥取駅~久松山~摩尼寺]
を検索すると、⚠️分岐注意!も載っているコース地図をダウンロードすることもでき、安心です。
また、オープンストリートマップも心強い味方です。

そこから約3分で⑥の[太閤ケ平 5.0km]の道標。
あさんが腰が抜けそうになったと書いておられたところです。私は膝から崩れ落ちそうになりました。
―太閤さん、そんな遠くに陣張りますか!?
これは何かの間違いでしょうということで進んでいくと5分ほどで[太閤ケ平 1.0km]と書かれた⑦の道標に出ました。ホッ。

続いて⑧の分岐です。ここに[本陣山]の文字があり、いよいよ近づいてきたぞっという感じがしてきました。右の坂を登ります。
⑨の倒木の横を通りました。この倒木、ずり落ちないように必死で両手で踏んばっているように見えます。「お前もがんばれよー!」と励まされているみたいです。

倒木から約3分で⑩の道標。
[太閤ケ平0.6km][展望所 50m]とあります。
展望所、寄らずにはいられません。
写真⑩です。
ずっと山の中だったので、ひらけた空や海や町の景色がとても新鮮でした。
この展望所<35.5142446,134.2547727>は、Googlemapの航空写真をびよーんとすると四阿の屋根が写っています。
50m引き返してルートに戻りましたが、引き返さなくても通り抜けて合流できるようでした。

ラスト600m!

<つづく>

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しんちゃん

堀切もすごいが、山の斜面はものすごく滑る。防御力最強かも。 (2023/01/09 訪問)

栂牟礼城は佐伯氏の山城で、かつて主家の大友義鑑が謀反の疑いで
臼杵長景に命じ、2万の軍勢で囲み攻めるも落城させることはできなかった
と伝わります。
小田山城から続く道があって、幾重にもめぐらされた堀を渡って
二郭から北上し主郭にたどり着きます。
主郭北端から東に道が続き、その先も二重堀切などで防御してあります。
二郭南端からやや東寄りに南に通じる道があって、そこも堀切で防御してあります。
比較的小規模な城ですが三方の尾根筋を多重堀切でしっかりと防御してありますが
それだけではありません。
帰る際に元来た道を通り過ぎ、南側への通路に入ったのに気づき
ショートカットして元来た道へ移動しようとしたのですが
足元がひどく滑って止まりません。
登山用の靴とストックがまったく役に立たないので木の枝を伝って
猿のように引き返します。

大分にもいくつか活火山がありますが西に阿蘇山があります。
かつて高千穂峰に登った際に御鉢の斜面が滑るので閉口しましたが
この山も同じように火山灰や噴石で山の表層が形成されているのかもしれません。
たしかに、これでは山の側面から攻めるのは不可能です。
難攻不落の堅城の正体を身を以て知るはめになりました。
九州の山城は登山道のある城を選んで登りたいものです。


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小城小次郎

不器用で頑固な生き方もある (2023/01/09 訪問)

福城の主と伝わる江見帯刀は、江見本家が赤松から尼子、更には浦上ー後藤へとその主を変えていく中で福城を離れて浪人し、後に宇喜多氏に仕えたのだという。ちょっと頑固で不器用そうな帯刀の生き様は、とてもひとごととは思えない。

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しんちゃん

400年の歴史って徳川時代より長い。大友氏すごい。 (2023/01/09 訪問)

大友館は府内と呼ばれた都市の中心に位置し、400年の歴史を持つ名門大友氏の領国支配の
拠点として、14世紀後半に10代当主 大友親世によって整備されました。(現地案内板)

かつてはこの地に広大な館があって、大友氏が権勢をふるったわけですが
いまは広大な更地になっています。いや‥悪い意味ではないです。
立派な庭園もありますし。不勉強なせいで、トクさんの言われる
萬寿寺には訪問していませんが、次の機会にはぜひ訪れてみたいと
思っております。

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しんちゃん

駐車場 入って左手 廊下橋 (2023/01/09 訪問)

府内城は福原氏と竹中重利により今の形となり、かつては四重の天守が築かれましたが
現在、残っている建造物は西丸の宗門櫓と本丸の人質櫓のみで、廊下橋や
その他の櫓は復元されたものだということです。
この日は2度目の訪問で、二冊目のスタンプ帳(予備)にスタンプを押すために
立ち寄っただけで廊下橋などは確認しませんでした。
掲載した写真は2014年1月の一回目の訪問の際のものです。
9年たつと、いろいろと忘れてしまうものですね。うっすらと覚えてはいるのですが。
グーグルマップの地球儀モードで俯瞰で見ると良くわかります。
なかなか便利ですね。これ。


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しんちゃん

元旦から縄張り地形図忘れ、さらにスマホは圏外。でも石垣遺構は最高。 (2023/01/01 訪問)

勝尾城は標高501.3mの城山山頂に位置する筑紫氏の居城です。
筑紫城は天正14年(1586)島津氏に攻められ落城し城主の筑紫広門は
筑後の大善寺に一時的に幽閉されるのですが、後に挙兵して奪還しています。
居館跡から比高350mはあり、なかなかきつい山城なのですが頑張って登っていくと
大手曲輪にたどり着きます。石積みが残り、かつては櫓が建っていたそうです。
いきなり見せ場ですが、さらに北上すると主郭にたどり着き
主郭にも石垣が見られます。
南側には物見岩があり、さらにその先にも石垣遺構が残ります。
北西にも曲輪が続いています。
本丸から東側に向かうと、堀切を経て二の丸にたどり着きます。
そこから東南の方向に曲輪が続き、東側の側面には石垣が残ります。
そこから帰路につくのですが舗装された道路から分け入るようにして
元来た道へ帰っていきます。
その時、たまたま縄張りと地形図を忘れてきてしまって、スマホを頼りに
登ってきたのですがいきなり圏外になってしまって
あやうく車道沿いにとんでもない方向へ行くところでした。
元旦からピンチでしたが、これも城バカらしいな、と一人自嘲しました。



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ぴーかる

超昇寺城 (2023/06/17 訪問)

【超昇寺城】
<駐車場他>佐紀神社参拝者駐車場を利用
<交通手段>車

<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅4城目。超昇寺城の築城年は定かではないが室町時代に一乗院方の国人であった超昇寺氏に築城されます。戦国時代には筒井順慶と松永久秀とで城を奪い合いますが筒井順慶の時、1580年織田信長の大和一国破城の時に廃城となったようです。
 上記駐車場に駐車し、佐紀神社(西畑)に参拝⇒イオさんの投稿に習い隆光大僧正墓石に参りまして、城跡の大竹藪は北側から進入できるとのことでしたので、とりあえず城跡北側に回って北西隅の堀跡から進入しました。堀底から青竹を掴みつつ土塁を登って曲輪に入り込みましたが足の踏み場があまりなくて動き回れない。結局北西の曲輪?一つ進入して終了しました。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

車道登口に天守形城名碑が設置 (2023/07/11 訪問)

 天竜区鹿島に用事があり、梅雨晴れの暑い日でしたが草履で二俣城を訪ねました。
 何と!車道登坂の入口に、今年の大河ドラマ「どうする家康」にあやかったのか、令和5年1月の設置で天守閣を模った、二股城址碑が地元企業の方々により設置されていました、小型の案内板が傍に有ります。
 車道登坂の山沿いには山ユリが咲いています、車は北曲輪東麓の駐車場を利用、今日は満車状態で入り代わりでやっと駐める事が出来ました。

 草履履きでしたので夏でも歩ける北曲輪下の登城口から、本丸北大堀切、本丸北門、本丸、天守台、本丸中仕切り門、二の丸大手門、二の丸と南曲輪Ⅰとの間の堀切、二の丸本丸東下を通て駐車場へ。サラッと草履で歩ける範囲を回りました。
 当日は本丸に人が5、6人が集まって居ましたので、尋ねると静大の学生と史学会?の方々で天守台の石垣調査をするそうで準備前でした、暑い中ご苦労様です。
 
 今年は桜の時期に鳥羽山城でしたので、今年は今日が初登城でした。
 

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トク

53【関ケ原の26人】(21)徳川家康 (美濃赤坂岡山陣跡) (2022/11/29 訪問)

(21人目)は「徳川家康」です。
これから、家康が関ケ原の最中に敷いた三つの陣跡を訪れます。まずは美濃赤坂にある最初の陣跡です。

JR大垣駅から2駅、終点の美濃赤坂駅で降ります(注:無人駅です)。そこから南へ徒歩20分程行くと安楽寺があります(写真①②)。その寺の階段を上り、本堂の横から不気味な墓地の中を進んで丘の頂上まで登って行くと、そこが最初の家康陣跡(岡山)です(写真③④⑤)。

実は、ここから三成の籠る大垣城や島左近が一矢を報いた杭瀬川が、家康にはいったいどのように見えたのか? それを確かめたくてやって来たのですが・・・、事前に得た情報(2016年当時)では展望台があり見渡せるという事だったので・・・ しかし実際に行ってみると今はそんなものは無く、回りは木や草が生い茂り荒れ放題! 全く眺望する事はできませんでした(写真⑤)(ガ~ン😱!せっかくここまではるばる来たのに大ショック!!)。何とか木を伐採してくれないかな~。お寺の敷地なので無理でしょうか? 結局、安楽寺の門まで戻り階段横の柵(写真①のいちばん右の角)にしがみついて見ると少しだけ大垣方向が見えました(たぶん写真⑥の方向)。しかし説明板もなく住宅が多かったので、どこが杭瀬川でどこが大垣城だろうか? 20分くらい意地で地図とにらめっこして眺めたのですが、土地勘もないので結局よくわからず・・・

1600年9月13日夜、家康は突然清州城を出立し、岐阜城を迂回して美濃赤坂のここ岡山に陣を敷きます(説明⑦)。14日朝方、大垣城に籠る三成率いる西軍は、清州城にいたはずの東軍が赤坂に陣を敷いている事に驚き、またそこに家康の馬印がある事にさらに驚きます(家康本人が来た~!)。家康としては大垣城の強固な守りを見て、(清州城VS大垣城)で攻めるは不利と判断、得意の野戦に持ち込もうとしたものと思われます。(説明⑧)

そんな動揺する西軍の中で、島左近が動揺を鎮めるべく、500の兵をもって杭瀬川にいる中村一栄隊に一矢を報います。そして逃げるふりをして誘い出した所を明石全登の鉄砲隊が一斉射撃! 見事初戦に勝利を収めました。(説明⑨)(詳細は私の「(5人目)島左近」も再度参照していただけたらうれしいです)。

家康はこの時、この陣から弁当を食べて眺めていたそうです。「おやー?何事じゃろか?」(写真⑤の場所から⑥の方を見ていた)。しかし島左近の隊が一矢を報い、自軍が負けたと知ると激怒! そしてここでも戦をするは不利と判断。今から三成の居城(佐和山城)を攻めるとうわさを流し、夜の内にここから関ケ原へ移動する事を決意し、全軍に命令を出します。(説明⑩)

次は、家康二番目の陣(桃配山)へ続きます。
 

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イタさん

小島氏館・埼玉県本庄市 (2023/07/07 訪問)

館跡は長松寺境内になっている。武蔵七党の丹党一族、小島(おじま)氏の居館跡と伝わる。本堂の北側、境内の西側には土塁と堀が良好に残っている。

長松寺の北、台地の縁に唐鈴神社が祀られており、伝承では遣唐使だった大伴宿禰古麿(おおとも
のすくねこまろ)が後に武蔵国に移り住み、子孫・良麿(よしまろ)が天平勝宝(749年〜757年)に創建とある。この時、館を構えた場所が長松寺の境内と伝わる。伝承を信じれば、小島氏以前から何らかの館があっただろうし、一帯は古墳が多く暮らしやすい地だったのかも知れない。

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イタさん

岡部城・埼玉県深谷市岡 (2023/07/05 訪問)

 ボートレースの場外発売場であるボートピアの南に位置する。台地の北端で上は平らで墓地・畑が多くを占めている。東側にやや高くなった古墳があり、最高部に浅間神社が建ち、物見には適している。遺構は見当たらない。ボートピア側の崖状から台地上に上れる所が如何にも土橋を思わせるが、単に自然地形かも知れない。
 北西1キロメートルに五十子陣があり、小山川を挟んで対峙する。何方かのHPに山内上杉氏に対する古河公方がたの陣城だった可能性がある、と記されている。

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イタさん

碑・説明板が位置を示すのみ (2023/07/05 訪問)

 説明板には、岡部藩は天正18年家康の関東入国後、家臣の阿部信勝が榛沢郡岡部などを拝領した5,250石を基に発展した。嫡男・信盛は上杉討伐や大坂の陣で功を挙げ、大番役などの役職を務めた。江戸幕府初期の寛永13年(1636)、三河国内に4,000石加増、慶安4年(1649)に摂津国内に10,000石を加増され大名になる。その後20,250石となった岡部藩は、岡部を本拠地にしながら摂津・三河の領地を分割統治し、移封・転封もなく幕末まで続く・・・。
 高橋秋帆幽囚の地との案内もある。蘭学者で高島流砲術の創始者。天保13年(1842)に中傷により獄に投ぜられ、弘化3年(1846)から嘉永6年(1853)まで岡部藩の預かりとなった。碑がある場所辺りに幽囚されていた・・・。と説明板に載る。
周囲は民家・畑地になり陣屋を想像させる遺構が見当たらない。

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赤い城

手賀城 茨城県行方市 (2023/07/02 訪問)

大掾氏一族手賀氏の居城です。
手賀氏も佐竹氏により太田城で誅殺、滅亡しました。
事前に激ヤブであることは承知していましたが夏は特に厳しい。
ところどころ入れそうな部分はあるのですが自重しました。
かなりの深さの堀が見られるそうなのですが。
いつかチャレンジしたい城です。

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