(25人目)島津豊久の続き⑩です。烏頭坂(うとうざか)を訪れました。関ケ原の徳川家康陣跡から前の道を牧田に向かってまっすぐ、チャリで15分程こいで行った所にありました。
義弘を逃がすべく、豊久は何と殿(しんがり)を務めます。そしてここで壮絶な捨て奸(すてがまり)を敢行しました(写真①)。
私も烏頭坂に立ってみました。手前から来ると坂の向こうは全く見えません(写真②)。まさかこの坂の向こう(写真①の場所)で豊久軍が座して鉄砲を構えているとは、井伊直政・松平忠吉・本多忠勝らは予想だにしていなかったでしょう。忠勝はここで愛馬が撃たれ、追うのを止めてしまいます。しかし豊久にとって相手は多勢、善戦するもやはりかなりの深手を負ってしまったようです。
ここには豊久の墓がありました。しかし、豊久の死については三つの説があります。
(説1)家康の陣の前ですでに討ち取られていた。
(説2)ここ烏頭坂で討死した。
(説3)勝地峠を越え白拍子谷で自刃した。
この墓(写真③④)は(説2)を示すものだと思います。(説1)は、家康の家臣山口直友が首実検をしたとあります。しかし私は(説3)を信じ、もう少しこのまま追っていこうと思います。しかし(説3)であるとしても、もはやこの烏頭坂でかなりの深手を負っていたのは間違えないようです。自力では歩く事もできず、長寿院盛淳が琳光寺にて次の捨て奸を行って敵を食い止めている隙に、家臣達にかつがれて牧田から伊勢西街道の方向へ逃げ、勝地峠を越えて白拍子谷へ向かったようです。
では私も、烏頭坂から琳光寺を経て、その勝地峠をも越え、直政軍に追い付かれないよう、必死にチャリをこぎ続け、白拍子谷まで向かおうと思います!(さあいざ、ちぇすと~!😯)
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