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とばつびしゃもん

切込み接ぎの石垣が目に留まる (2020/12/13 訪問)

丹鶴城公園の小さな駐車場に駐車し、二の丸側の登城口から冠木門を通って登城開始。
松の丸から熊野川に面した水ノ手曲輪へ。船着場や炭納屋があったそうで、水運を活用していた城であることがわかる。もどって鐘ノ丸、本丸へ。一部崩壊している天守台を含め城内のほとんどは切込み接ぎの石垣で構成されていて、整然とした雰囲気が感じられる。80分ほどで退城。
新宮市立歴史民俗資料館で続日本100名城スタンプポン。資料館には新宮城の発掘調査資料が展示されていました。

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しんちゃん

また出てきちゃった。 (2023/12/03 訪問)

坂本城の本丸石垣は琵琶湖が渇水の時に姿を見せるそうです。2年前、27年ぶりに姿を現したと記事になったと思いますが、ここの所、毎年姿を現しているような気がします。気候変動の影響もあるようですが日本は大丈夫なのでしょうか?
でもせっかくなので見に来ました。朝からの曇天もいいかんじに晴れてきています。この日は久々に虹も見れました。(しかも特大)石垣は‥ありました。本丸はある企業の敷地になるのですが石垣見学コースが設置されているようです。
しかし、このままだと琵琶湖の水が本当に制限されてしまいそうです。巷では映画「翔んで埼玉」の呪いではないかと言われていますが近畿の皆さんの貴重な水がめがこのままでは困りますね。世の中が良い方向に向かっていくことを願います。

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しんちゃん

城址にかかる大きな虹。ちょっとラッキー (2023/12/03 訪問)

坂本城は織田信長の命で元亀2年(1571)明智光秀によって築かれた水城で、かつては壮麗な天守を構えていたそうです。本丸周辺は企業の敷地内になるので現在城址公園がある場所は本丸より南の琵琶湖を埋め立てた場所に造られていて明智光秀の像や歌碑などが建っています。二の丸跡にも城址碑がたっていて近くの聖衆来迎寺には坂本城の表門が移築されているとされ、織田信長の武将・森可成の墓もあります。駐車場はそれなりの広さですが、訪れる人が後を絶たず交通整理の人までいるようです。
周囲を散策していたら本丸周辺から琵琶湖にかけて見事な虹がかかっていました。これだけ形のはっきりした虹は久しぶりなので、なんか得した気になりました。
この日、坂本城を訪れた目的は他にもあります。次に続きます。

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しんちゃん

福田寺に城址碑が建つ。 (2023/12/03 訪問)

北比良城は福田寺のあたりが城址とされ城址碑が立っています。田中氏の城らしいのですが天正10年田中左衛門尉定光の時に織田信長に叛いて落城したとされています。遺構は全くと言い程残っていませんが、少し小高い台地上に築かれているので戦国期は琵琶湖がよく望めたのではないでしょうか。

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しんちゃん

水田の中に城址である願船寺が建つ (2023/12/03 訪問)

船木城は高島七頭の一人、佐々木能登守師綱により築かれたとされ願船寺周辺が城跡とされています。周囲の水田が堀の名残とされ浮島ように寺が建っています。織田信長の湖西征服の際に破城の憂き目にあっているようで遺構はほとんど残っていないようです。

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くうくう

島津義弘ゆかりのシラス台地を利用した南九州型城郭

永暦元年(1160年)日下部重貞が築城。日下部氏、北原氏のあと、永禄7年(1564)島津氏が入城。島津義弘の居城として有名。30~56歳まで在城し数々の合戦に出陣。なかでもこの近くの木崎原合戦で大勝し武名を揚げた。
川内川北岸の河岸段丘上に築かれた。射場が駐車場になっており本丸物見曲輪など公園化されている。物見からは飯野の町が見下ろせる。しかし二の丸三の丸など薮で一部しか見学できない。

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くうくう

シラスを刻む山城と山と川に抱かれた麓

在地豪族の入来院氏の居城。築城年代は不明ながら、入来文書には「清色殿」の記載があり永和年間(1375-79)頃を推定している。シラス丘陵を利用した山城で、断崖のように切り立った堀切には驚かされる。16の曲輪があり、本丸・西之城・松尾城・中之城・求聞持城・物見之段などがわかっているが、実際に立ち入れるのは本丸・中之城くらいで、あとは薮に埋もれている。麓である城下には重伝建にも選ばれた武家屋敷が点在する。屋敷の石垣など風情がある。

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しんちゃん

なんとなく気になる謎の土盛り。 (2023/12/03 訪問)

山内義重が文暦元年(1234)の粟津の合戦で功を立て、衣川を領して城を築いたのが始まりとされています。城の遺構は残っていないようですが城址碑と謎の土盛りが残っています。案内板はフェンスの所にあるようですが見落としました。土盛りと衣川城の関係は不明です。
駐車する場所も無いし、じっくり見るほどでもないので路駐でそそくさと公園周辺と謎の土盛りを見渡して退散しました。

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赤い城

讃岐東照宮と四国村ミウゼアム (2023/11/16 訪問)

城ではないけど結構よかったので投稿します。
屋嶋城の麓にあります。
讃岐東照宮の屋島神社にお参りしたあと散策しました。
入場料は1600円でこの辺りとしてはちょっと高め。
各種割引はあるようです。
四国の古民家などを移築し展示してあります。
入園し、まずはかずら橋。
本物では無いもののスリリング!
渡って少し進むと小豆島農村歌舞伎舞台、さらに進むと丸亀藩御用蔵のインフォメーションセンターがあります。
そこから登っていくと石畳広場があり、砂糖しめ小屋などが展示されていました。
その先のギャラリーは安藤忠雄氏の建築です。
詳しくはないですが惹かれるものはあります。
外の水景庭園を見たあとは大久野島灯台ヘ。
大久野島は今はうさぎの島になっていますが戦時中は毒ガスの島で日本軍の拠点にもなっていました。
降りていき、染が滝などを見学しながら戻って行きます。
入場前にはわら家で釜あげもいただきました。
観光スポットなので少し高めですが美味しかったです。
他にも神戸からの移築、異人館カフェもあります。
高松城や屋嶋城を攻めた際には立ち寄って欲しいスポットです。

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いんげん丸虫

根羽城ケ峯 (根羽男城) 長野県根羽村 (2023/11/25 訪問)

標高865mの山城です。愛宕山の山頂にあります。
それほどマイナーな城郭ではないと思うのですが、城跡を
示す看板は無いですね。
宗源寺の裏手から登りました。わかりにくいですが尾根筋を
目指して登って行きます。
20分位心臓バクバクさせて登ると城郭の雰囲気になり、切岸
がみえてきます。この瞬間が堪らないですよね。
山頂の主郭から3方向の尾根に遺構があります。
特に北尾根には3つの堀切がしっかりとあり、カッコいいです。

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トク

晩秋の岡城 (2023/12/04 訪問)

そろそろ紅葉が見頃を迎えただろうと岡城に登城してきましたが、すでに散っていました(ガ~ン😱先週が見頃だったらしい)。

しかし天気もよく、月曜の午前中ということもあり誰もいなかったので、瀧廉太郎の荒城の月を口ずさみながら九重連山の眺めを一人占めできたのは爽快でした。

そして御三階櫓跡に立ち、20才の若き志賀親次(ちかよし)は目の前の片ケ瀬に陣を張っていた島津義弘軍15,000をどんな思いでここから見ていたのだろうか? また今度は麓の滑瀬橋に立ち、島津義弘はなかなか落ちぬ岡城をどんな思いでここから見上げたのだろうか? とまた思いをはせてきました。
 


(写真①)登城口
(写真②)階段にある「かまぼこ石」
(写真③)大手門
(写真④)中川秀成が築いた高石垣
(写真⑤)瀧廉太郎の銅像と九重連山
(写真⑥)月見櫓跡
     (瀧廉太郎はここから見た月を思い出し作曲した)
(写真⑦)本丸から滑瀬(ぬめりせ)を見下ろす
     (高い! 足が震える! 転落注意!)
(写真⑧)御三階櫓跡
     (志賀親次はここから島津の大軍を見ていた)
(写真⑨)滑瀬橋より岡城を見上げる
     (島津義弘はこの川を渡れず敗北する)
(写真⑩)おまけ写真
     (朝焼けの久住高原から阿蘇山を眺める)
 

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WEST

能島城探訪 (2023/11/23 訪問)

村上海賊のお城である能島城を訪問しました。お城のある能島へのアクセスは、船による上陸ツアー参加となります。ツアーは祝土日の開催なので、その日に合わせての訪問です。
宮窪漁港から乗船して約10分で能島上陸です。三の丸、二の丸、本丸の散策と瀬戸内海と島々の景色、45分程度の上陸でしたが満足できた経験でした。ガイドさんの説明も分かりやすかったと思います。
上陸ツアーには同時に潮流クルージングがあり、能島付近の潮流の様子も分かります。ここを通過する船はこの潮流をよく知らないといけないでしょうね。
宮窪漁港近くの村上海賊ミュージアムがありますので、村上海賊の歴史等にふれることができます。

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イタさん

西上州の要、広大な城域 (2023/11/29 訪問)

長野業尚が1500年頃に築城し、4代にわたり長野氏の本拠となる。武田氏に落とされ、その後、武田氏・織田氏・北条氏・徳川氏と変わる。最後は井伊直政が12万石で入り、現在の縄張になる。8年後の1598年(慶長3)に高崎城へ移り箕輪城は廃城となる。

幾つもの散策コースがある。東にある搦手口の駐車場に駐車。東の外堀は埋められ、僅かな段差が残る。反時計回りに進むと、稲荷曲輪東の堀が見え出し、先で新曲輪、稲荷曲輪の虎口、奥に丸馬出がある。御前曲輪・本丸の西の堀底を行くと、本丸西虎口に架かる木橋が頭上に見え出す。先で三の丸に上がり戻れば、蔵屋敷の一角で木橋は工事中で通行止め。三の丸には一番残りが良い定番石垣がある。三の丸から二の丸へ、まず郭馬出を通り木俣と呼ばれる曲輪へ。多くの道が集まるために付いた名前らしい。郭馬出から二の丸へ、小馬出を通り本丸に。周囲は土塁が巡り広い。北側には堀を隔てて御前曲輪がある。大手虎韜門口駐車場から鍛冶曲輪などを見学する。

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カズサン

城門それぞれ (2023/11/12 訪問)

 三の丸の銀杏、欅の紅葉を楽しんで、三の丸跡図書館、県庁の間を通り弘道館へ結構なお客さん、弘道館駐車場も満車状態、周囲を眺めて復元された大手門、二の丸土塀、二の丸白土塀通り、日曜日で学校はお休み静かな佇まい、何時もながらうっとりする通りです、二の丸展示館によって資料収集、情報収集、人が多い、角櫓探訪、本丸の薬医門まで散策し、帰り三の丸駐車場周りでの帰路、復元土塁、復元北柵御門を初めて探訪しました。
 その間、諸々の城門写真を撮りましたので、復元城門、現存城門、城門の様な校門と門に絞って投稿させて頂きます。
 

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イタさん

親子連れが多く遊ぶ公園 (2023/11/29 訪問)

公園説明板には、長野氏発祥の地であり、地域に分散する環濠遺跡群は、14世紀後半から16世紀中頃の長野氏成長期の遺産である。12世紀初め、浅間山の噴火により壊滅的打撃を受けるが、長野氏が主導的立場となって・・・。やがて長野氏は15世紀中頃に箕輪城を築き、16世紀中頃に武田氏に攻め落とされるまで、西上州の盟主として君臨していた、とある。

約75メートル四方の郭で、砦と言うより館跡の方が似合う。周囲の堀は埋まり、僅かに段差がある程度。南虎口部には突出部があり、土橋に横矢が掛かる。公園としてはよく整備されており、南東には長屋門を模したトイレが建つ。

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イタさん

規模が大きく、遺構も良く整備されている (2023/11/30 訪問)

諸先人方の内容を参考にさせて戴くと、武蔵七党・猪俣党の猪俣政行は榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称し、花園城を築いたといわれる。小田原征伐まで武蔵国北部の国衆として400年余り続く。小田原・北条氏康は武蔵国北部支配を固めるため、藤田氏15代目・藤田康邦に四男・氏邦を入婿させる。氏邦は1564年に鉢形城に入り、1582年まで藤田姓を名乗る。寄居町には藤田氏の菩提寺、藤田善導寺が創建され、町内には少林寺、正龍寺、連光寺など藤田氏により建立された寺院が多い。

善導寺さんに許可を戴いて駐車させて貰う。諏訪神社・花園城跡の入口に標示とA3版の二つ折りパンフレットが置かれている。畑を山に向かって行けば、石段の上に諏訪神社、社殿の右手に小振りな稲荷社があり、横を通り山道に入る。呼称は案内板等に従う。途中から竪堀6に出て直登になる。この竪堀は二重竪堀となり主要郭手前で合流する。突き当たりを右に折れて先で、二の郭と三の郭間の堀切3となる。三の郭から堀切を超え東郭へ、東側は堀切1で竪堀1となる。二の郭に入り堀切4の最北側に土橋?が残り、渡って本郭へ。本郭は東西に細長く段差があり、西奥に城址碑が建つ。西下には堀切5があり、先には幾段かの小郭が見られる。堀切5には「花園城跡・下り」と標示もされている。これに従えば堀切5から本郭・二の郭下の小郭を通り、登りの突き当たり場所に出て、往路を引き返す。

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カズサン

三の丸堀と黄金色前のイチョウ (2023/11/12 訪問)

 三の丸堀の銀杏の紅葉を見たいなぁ~と、常陸武田氏館と水戸城周辺未踏の城廻り、吉田城、武熊城を終えて河和田城へ行く途中に、近くまで来ており銀杏の紅葉もそろそろかな?と水戸城に寄りました。

 駐車場:有料 I.N.パーキング水戸大町駐車場、裁判所の裏手で一番近い、よく利用してるPです。
 
 何時もながら素晴らしい大空堀に大土塁で圧倒されますが、銀杏は色付き始めで黄金色にはまだまだでした、三の丸内側の欅は紅葉見ごろでした。
 帰って水戸城の投稿を見直しましたら、2年前の2021年11月12日に復元大手門、復元二の丸角櫓探訪に来ており銀杏の投稿写真が載っていました、孫の運動会でタイミングが合ったのでしょう。
 色付き前ですが写真投稿させて頂きます。7番目の写真は2021年11月12日の写真です。
 

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イタさん

ハイキングコースの一部になっている (2023/11/30 訪問)

寄居町のHPには、「花園城の背面を守るために設けられた砦。堀・土橋・土塁の一部が残存しています。文献資料は存在しません。」と載るのみ。

藤田氏に関係深い少林寺から出発。ここは五百羅漢像と千体荒神石碑が有名で、円良田湖などを絡めてハイキングコースになっている。本堂の左から九十九折りの坂が始まる。最初から羅漢様が並びだす。途中で千体荒神板碑の道を分ける。帰路は板碑の道を下る。峠に出るとやや広い場所に、説明板と釈迦三尊像・十六羅漢像が祀られている。案内には天保3年(1832)に安置し、信仰の道場として現在まで続いている、と載る。

西に円良田湖へ下る道があるが、そのまま尾根を直進する。緩やかな登りが続き、主郭の東郭から城塁感が出てくる。上った先に鳥居が見えだし、鳥居先が土橋、左右に空堀、石段で上れば主郭。主郭は御岳神社が祀られているが社殿らしき建屋はなく、何々大明神などと刻まれた石碑が多く立ち並ぶ。主郭の南・西下には小郭が確認でき、鳥居から西へ行くと郭・横堀・竪堀が眺められる。

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イタさん

城山稲荷神社の背後にひっそりと。 (2023/11/29 訪問)

説明板には、新田義重の子、義俊が里見郷に築城し、その後、里見氏を称する。里見氏十代、義基が結城合戦で戦死、子の義実が房総に移る290年間あまり、この城に依拠した。本郭の東・南・西には高さ2.5メートルの土塁が巡らされ・・・、南西方向には腰郭、東方向には堀切が・・・。南北朝時代に南朝方で活躍した新田義貞は、幼少期にこの地で育ち、新田宗家の養子に入った・・・、と記載がある。

城山稲荷の一の鳥居脇に駐車。社殿脇の参集殿前に2台停められる。参道には小振りな鳥居が幾つも連なる。社殿裏が一段高く平地になるが、墓地が占めている。墓地の西側も幾段かの平地となり畑もある。平地の北側に民家・作業場が建ち、南は道路を挟み、城山団地が展開する。先人の情報では、道路は堀跡、団地は郭ではとある。本郭方向と思われる民家のある道は、私有地で作業中の方がおり、通る許可と情報を聞いた。快く許可されたが、「城跡は整備されず、草が生い茂り行けない」と言われたが、民家脇を進むと、虎口らしき高まりがあり、郭内は確かに草がすごい。周囲には枯れ草の高くなった場所があるので、そこが土塁跡では。草地を歩き回る気がせず、数枚の写真を撮り戻る。

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イタさん

畑・竹林に僅かに残る堀・土塁 (2023/11/28 訪問)

案内によれば、武蔵七党の猪俣党に属する、川匂政経がこの地に移り人見氏を称する。鎌倉時代には活躍するが、室町時代の初め丹波国に移る。室町時代中頃には深谷上杉氏の一族、上杉憲武が館を改修し居住する。東西に三つの郭が並ぶが、現在は西の郭の北側と西側に二重の土塁と堀跡が残る、と記されている。

史跡の北東にある仙元山公園の駐車場を利用する。南を東西に流れる小川沿いを西へ向かう。案内が建つ辺りから西に土塁・堀跡が確認できる。案内板を南に行くと、右手は畑だが、奥に土塁跡と思われる高さが見えるが、畑とは言え民家もあり入れず。更に西へ回り込むと道路近くの竹林に二重の堀などが僅かに確認出来る。

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