二式大艇を見学の後は東九州道、国道10号線、宮崎道経由えびの市のホテルへ、1泊して飯野城に近いホテルでしたので朝食後探訪開始、国道268号線信号交差点飯野中学校入口を北上し川内川を渡り直ぐに堤防沿いを降りて北へ亀橋を渡ると民家前に飯野城案内板、道なりに進むと大手冠木門を潜り駐車場に着く。
駐車場:飯野城専用駐車場広くはない、トイレ無
参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さん古城盛衰記さんグーグルマップに依る。
大手冠木門から駐車場、本丸登城路はアスファルト舗装道、幟旗がそこかしこに立っている「義弘公を大河ドラマに!」とアッピールして居る。登城路を歩き本丸へ食違い虎口の様な本丸大手、本丸は広く北側に城名碑(亀城)、飯野城と島津義弘説明板、飯野城復元図付き本丸説明板が有り南に東屋、南西に物見曲輪への虎口があり枡形との看板が有るが良く分からない、虎口から南へ物見下郭と物見台郭、眺望は素晴らしいはずですが霧島連山の雲か霧か霞か懸かりやっと韓国岳が分かる程度、物見台にも「義弘公を大河ドラマに!」の幟旗、以前訪ねた栗野城にも同じ幟旗がありました。
本丸、物見曲輪以外にも北側に三の丸、東側に二の丸、駐車場の近くに射場が縄張図、余湖図コレクションさんの俯瞰図に在りますが指示看板の先は草が茂り進入を躊躇い、本丸と物見曲輪までとしました。
歴史は、島津義弘は父貴久の命を受け、伊東氏の勢力から飯野城を守るため、永禄7年(1564年)精兵60人を率いて加世田をたち、11月飯野城に入った。
義弘は飯野城に30歳から56歳までの26年間居城し、数々の合戦に出陣した。元亀3年の木崎原合戦で伊東氏に大勝、天正6年の高城合戦で大友氏を破り、肥後の相良氏、肥前の龍造寺氏を次々と破り九州をほぼ制覇したが、秀吉の九州征伐で島津氏は薩摩、大隅、日向の三国体制に縮小。天正18年(1590年)6月栗野城に移った。島津義弘は享年85歳で生涯を閉じた。
地元の方々は島津義弘のNHK大河ドラマ化を待ち望んでいます、希望が叶うといいですね!
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