永暦元年(1160年)日下部重貞が築城。日下部氏、北原氏のあと、永禄7年(1564)島津氏が入城。島津義弘の居城として有名。30~56歳まで在城し数々の合戦に出陣。なかでもこの近くの木崎原合戦で大勝し武名を揚げた。
川内川北岸の河岸段丘上に築かれた。射場が駐車場になっており本丸物見曲輪など公園化されている。物見からは飯野の町が見下ろせる。しかし二の丸三の丸など薮で一部しか見学できない。
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2023/12/04 22:25
島津義弘ゆかりのシラス台地を利用した南九州型城郭
永暦元年(1160年)日下部重貞が築城。日下部氏、北原氏のあと、永禄7年(1564)島津氏が入城。島津義弘の居城として有名。30~56歳まで在城し数々の合戦に出陣。なかでもこの近くの木崎原合戦で大勝し武名を揚げた。
川内川北岸の河岸段丘上に築かれた。射場が駐車場になっており本丸物見曲輪など公園化されている。物見からは飯野の町が見下ろせる。しかし二の丸三の丸など薮で一部しか見学できない。
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2023/11/07 10:27
77【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (木崎原古戦場) (2023/10/17 訪問)
(24人目)島津義弘の続き⑧です。
木崎原古戦場へは、飯野から再び同じバスで前回の「えびの文化センター前」まで戻りそこから南へ川を渡り徒歩で20分です。古戦場見学後は、次の目的地へ行くため西へ徒歩30分かけJR吉都線「えびの駅」まで歩きました。
1571年に父の島津貴久が死去すると、日向の伊東義祐は薩摩へ進攻を開始、加久藤城を攻撃します。すると義弘は飯野城から出陣、木崎原(きざきばる)にて迎え撃ちます。しかしこの時、伊東軍3000人、対する義弘軍はわずか200人しかいません。圧倒的に不利な状況です。伊東軍は余裕なのか、暑さをしのぐため川で水浴びを始めます。これはチャンスと義弘は攻撃! しかし一撃するも多勢に無勢で反撃され、もはや絶体絶命! この状況で義弘が採った起死回生の策は・・・何とここで初めて島津家の秘策「釣り野伏せ」を使いました。 逃げるふりをして木崎原へ誘い込み、10倍以上の敵をここで取り囲んで大勝利し、島津義弘の名を全国に轟かせたたのでした!😯 そして伊東氏はこの敗戦をきっかけに没落の一途をたどっていきます。
その木崎原古戦場に行ってきました(写真①-⑥)。古戦場跡には記念碑が建てられ、義弘が立てたという伊東・島津両軍の戦死者を供養する六地蔵塔もありました。義弘は戦に勝っても死んだ者達への供養を敵味方分け隔てなく行っていたようです(写真⑦⑧)。
そこから「えびの駅」(写真⑨無人駅)まで歩き列車を待っていると、ホームの向こうには霧島連山が見え、噴煙がもくもくと上がっているのが見えました(写真⑩:活火山のようです)。
伊東氏に大勝利してから26年後、今度は一転して義弘は根白坂で豊臣軍に大敗を喫し、命かながらこの飯野城へ逃げ戻ります。その時、どんな思いで飯野城からこの霧島連山や木崎原を眺めていたのでしょうか? 島津家はこれから一体どうなっていくのだろうか? 自分も兄とともに降伏すべきかそれとも一戦交えるべきか、もし降伏すれば秀吉からどう処罰されるのであろうか? そんな不安な気持ちで・・・いっぱいだったのではないでしょうか?
次は、JRで松尾城に向かいましたが、その前に念願の根白坂にも行ってきましたので、その様子から先にお伝えします。
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2023/11/02 22:38
76【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と飯野城) (2023/10/17 訪問)
(24人目)島津義弘の続き⑦です。
義弘が最も長い26年間(30~56才頃)を過ごした「飯野城」と義弘が天下にその名をとどろかせた「木崎原古戦場」を訪れてきました。飯野城へはえびの文化センター前から再度同じバス小林駅行バスに乗り10分「飯野」で下車しそこから徒歩20分の所にあります(写真①)。
人吉城の相良氏の抑えと日向の伊東氏の薩摩進攻に備えるため、義弘は1564年に平松城からここ飯野城へ居を移します。そしてここから出陣した、木崎原の戦い(1572年:対伊東氏)、耳川の戦いと豊後攻め(1578年:対大友氏)、根白坂の戦い(1590年:対豊臣)と数々の義弘伝説をここ飯野城から出陣して作っていきました。
ここもシラス台地を利用し三方を川内川と急峻な崖に囲まれ、本丸・二の丸・三の丸・物見曲輪から構成された強固な作りの城でした(いかにも島津らしい城だ🤔)。物見曲輪からは木崎原古戦場も見えました(写真⑩)。
1590年「根白坂」で豊臣秀長軍に大敗した義弘は、再びここ飯野城へ逃げ戻り籠城します。しかし義久が秀吉に泰平寺で降伏したため、徹底抗戦を叫ぶも結局は兄には逆らえず、また義久には薩摩を義弘には大隅の安堵の条件を秀吉から提示されたため、自らも剃髪しここから秀吉の元へ行き降伏しました。
そしてその直後、この日向の飯野城を離れ、自領大隅の松尾城(栗野城)へ移り、さらに秀吉の命により朝鮮へ出兵します(文禄の役)。帰国後1594年そこから南の海に近い帖佐に館を構えそこに移り住み、また再び朝鮮へ出兵します(慶長の役)。そしてその帖佐から1600年の関ケ原へと出陣して行ったのでした。
次は、木崎原古戦場に続きます。
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分類・構造 | 山城 |
---|---|
築城主 | 日下部重貞 |
築城年 | 永暦元年(1160) |
主な改修者 | 北原氏 |
主な城主 | 日下部氏、北原氏、島津義弘、島津久保 |
廃城年 | 元和元年(1615) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
指定文化財 | 市史跡(飯野城跡) |
再建造物 | 説明板 |
住所 | 宮崎県えびの市大字原田 |
問い合わせ先 | えびの市社会教育課 |
問い合わせ先電話番号 | 0984-35-2268 |