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にのまる

LRT初乗車で。 (2023/09/01 訪問)

今年8月26日に75年ぶりの路面電車として宇都宮に開業したライトライン。(「宇都宮ライトレール」「芳賀宇都宮LRT」など複数の呼称がありますが“ライトライン”と呼んでいいようです。)
開業7日目に行ってきました。
完乗目的……ではなくて「飛山城跡」駅下車です。
飛山城へは2019年春に宇都宮駅から路線バスで行って以来になります。

“次世代型路面電車”のイメージ通りの黄色と黒の車体にすっきりとしたシャープな顔つきのライトラインは、SuicaもOKで座席はクロスシートメイン。遊園地のアトラクションに乗り込むような気分での初乗車でした。

駅前の繁華街を過ぎ、町なかを抜けてゆっくり進みます。
左側の窓にへばりついていると、見えてきました!平山城オーラ全開の飛山城。惚れ惚れするようなシルエットです。
鬼怒川橋梁を渡って飛山城跡駅に到着。宇都宮駅から8駅約20分の電車旅でした。

飛山城跡駅は高架上。周辺には特に何もない、のどかなところです。飛山城までは歩いて20分くらいでした。

まずはとびやま歴史体験館へ。ミニ企画展「真岡の城 芳賀氏の城」開催中でした。
飛山城のジオラマや解説も充実しており、特に復元の根拠が写真付きで丁寧に説明されているのがたいへん勉強になりました。「飛山城ものがたり」のビデオもお願いして上映していただきました。「飛山城Q&A」「のろしQ&A」にもチャレンジ。いい大人のくせに全問正解になるまでやりました。資料や書籍も充実。企画展資料の販売もあって、館内だけでかなり楽しめました。地元の子供たちの学習・体験の場としても最適。地元愛が深まること間違いなし!で羨ましいくらいです。

史跡公園は櫓台からの横矢に枡形、ビジュアル抜群の5号堀と入口から楽しいです。各所の説明も親切で「この土橋はニセモノです(意訳)」ということも書いてくださっています。
9月と言えど、城夏にして草木深し。歩けそうなところは一巡りしましたが堀跡もはっきりとは認識できず、土塁のぼりも無理だったのが心残りです。
しかしライトラインは時刻表を気にしなくてもいいくらいの本数が出ているのでこれからは気軽に行けそうです。富士山が見える冬がいいかな。

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トク

72【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と一宇治城) (2023/09/24 訪問)

(24人目)島津義弘の続き③です。
義弘が少年期を過ごした「一宇治城」を訪れてきました。
JR鹿児島本線「伊集院駅」から徒歩で30分程登った所にあります。

駅前では義弘の銅像が出迎えてくれました。何とも勇ましいというか、関ケ原の敵中突破をイメージして作った銅像だそうです。「義弘様!かっこいい~!」(写真①②)。

ここ一宇治城は、義弘の父「島津貴久」の居城です(写真③④⑦)。貴久は1537年頃に伊作城より拠点をここ伊集院へ移し薩摩を統一します。そして1550年に鹿児島市の内城へ移るまでの約13年間、ここを居城としました。義久・義弘はその時の少年期をここで過ごしたと言われています(義弘3~15才頃)。城は日置市街を眺める高台にありました。ここで兄の義久は当主としての心構えを、弟の義弘は兄を守る軍師としての教えを、祖父の忠良(日新公)から徹底的に叩き込まれたそうです。得意の「釣り野伏せ」戦法も、ここで忠良から教え込まれたのかもしれません(なるほど🤔そうだったのか~!)。

1549年日本に上陸したザビエルが、日本で最初に謁見したのが島津貴久でした。その会見の地碑がありました(写真⑤⑥)。貴久はザビエルの平和と愛を説くキリストの教えに感銘し、日本で最初に布教を許可した人物で、島津の丸に十字架の家紋はこの時に生まれたようです。

義弘は関ケ原後の晩年に、自分の菩提寺を忠良と少年期に学んだ麓の「妙円寺」(写真⑨)と決めたようです。妙円寺には義弘の位牌があります(墓は別の場所です)。今でも敵中突破を果たし帰還した義弘公をしのび、毎年10月に鹿児島市から伊集院のここ妙円寺までの20kmを歩く「妙円寺詣り」が行われているそうです(今年は10/22)。幕末には西郷隆盛や大久保利通も詣でたとか。麓には他にも、義弘を祀る「徳重神社」(写真⑧)もありました。

この日は天気がよく、一宇治城から日置市街や遠くの桜島までがきれいに見えました(写真⑩:中央に見えるのが桜島、左下が伊集院駅、その左には妙円寺と徳重神社があります)。

まだ少年であった義久と義弘は、この一宇治城から遠くの桜島を眺めながら、いったいどんな将来の夢を語り合っていたのでしょうかね?😊

次は、島津本城(内城)を訪れます。
 

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WEST

白井城探訪 (2023/10/04 訪問)

群馬県渋川市にある白井城を訪問しました。
築城主、築城年は諸説あるそうですが、現在の姿は、徳川家康の関東入り後に整備されたとのことです。
北郭、三の丸、二の丸は農地となっていますが、本丸は綺麗に整備され登城し易かったです。本丸周囲の土塁は立派であり、是非これからのお城訪問先のリストに入れてみてください。
アクセスは自動車がおすすめですが、少々狭い道路ですので注意をお願いいたします。

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WEST

岩櫃城探訪 (2023/10/03 訪問)

真田氏上州の拠点、岩櫃城を訪問しました。平沢登山口観光案内所にてパンフレット、縄張図を入手して登城しました。
山城ですので、登城は少々きついですが、中城跡、三の丸跡、二の丸跡と進み、その先の本丸址まで約20分で行けます。
途中には大きな堀が数多くあり、山城らしさを感じました。(「熊出没注意」の看板がありましたが、熊がでることがあるのでしょうか・・)
登城後は、不動堂、不動の滝や反対側の古谷登山口付近にある密岩神社(岩櫃山が綺麗に見えます)、潜龍院跡に行くのも良いかと思います。
なお、名胡桃城、沼田城、岩櫃城の三つのスタンプで平沢登山口観光案内所にて特製のクリアファイルを貰いました。ラッキーでした。

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WEST

沼田城探訪 (2023/10/03 訪問)

沼田城を訪問しました。
名胡桃城から自動車でも約15分と近く、戦国時代での真田氏と北条氏の両城の間での緊張感が感じさせられます。
その後の真田信幸の沼田城主時代は、五層の天守閣等があったとのことですが、今は残念ながら、当時の建物はなく、一部の石垣や土塁がわずかに残っています。
なお、沼田市観光案内所には天守の推定模型がありますので是非寄ってみましょう。

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AJ

よっ大棟梁!

江戸城天守復元を、、。随分前から一部で声は上がっているようですが、なかなか現実味を帯びないところを見ると、やはりハードル(立地も財政も情緒も?)は高いのでしょうね。

17世紀半ばの大火で焼失した寛永度天守(3代目。現存していれば姫路を抜いて最も高い)を再建せず、町の復興を優先したことは保科正之(3代家光の異母弟。会津から将軍を補佐)の英断だったと分かっていても、やはり実物が見たいという気持ちは強いのかもしれません。

実際、資料の面では木造復元は十分可能なのだとか。幕府の作事奉行輩下で「大棟梁」を務めた甲良家の図面がしっかり残っていると聞きます。また、着手しませんでしたが、幻の4代目天守(正徳度天守。新井白石が計画)の絵図もあるそうです。

甲良家は日光東照宮の造営・改修も担った家系で、初代・宗広は寛永天守の造営開始から2年後の1639年には上野寛永寺五重塔を手掛けています(こちらは現存)。天守屋根も銅板葺の緑青だったようですから、少なくとも色味はお揃いだったのではないでしょうか。とりあえず、この塔(の屋根)をジッと眺めつつ、往時の大天守の姿を想像してみるのも一興かもしれません。

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モハベ

大山出城から中尾城跡 (2023/09/11 訪問)

かなり急峻な山城。しかし登山道は整備され踏分跡もシッカリついている。

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にのまる

歴史民俗資料館の開館日に注意です。(お休みでした🥹) (2023/08/18 訪問)

助川城(日立市)の次のターゲットは今年の5月に販売開始された水戸城の城カードです。弘道館でしか購入できないと思いこんでいたので1年半ぶり5度目の水戸城登城になる予定だったのですが、販売箇所を確認すると水戸駅の改札横の観光案内所でも扱っているとのこと。だったらそこで買っちゃえ!と、水戸城はパスしました。

宍戸城最寄りの宍戸駅は水戸から電車で約30分。
「土塁」と「歴史民俗資料館」のふたつあれば訪城理由として充分です。
宍戸駅から南へ直進3分で旧陣屋コミュニティセンターに到着しました。
土塁の上に末廣稲荷神社が祀られています。
「宍戸の歴史」の説明板には1万年以上前の先土器時代から明治22年の水戸鉄道開通まで記されており、端から端まで読み終えると“宍戸通(ツウ)”になった気分でした。

旧宍戸城表門の移築先は徒歩1時間の距離だったので諦め、歴史民俗資料館へ!と思ったら、月・水・金は休館日でした。いつか笠間城再訪の折にでも行きたいです。
♯月・水・金ははずすこと。
♯筑波海軍航空隊記念館も近い。( ..)φメモメモ


水戸線は本数が多くないので帰りが大変だーとドキドキでしたが、都内へは、友部→土浦→日暮里と向かうことも、小山→大宮→新宿と向かうこともできたので心が落ち着きました。

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しんちゃん

小ぶりだが土塁・堀切などの遺構が残る。 (2023/09/23 訪問)

山田野城は北畠氏の臣下の長野左京進が築いたとされています。主郭の南の郭は
北と西側に虎口を有し主郭にはこの郭を通らないと入ることが出来ず、枡形の
ような役割を果たしているとも考えられます。主郭は周囲に比較的土塁が
残っています。西側にも郭が広がり周囲に土塁が残り、主郭の西側には堀切が
走っています。

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しんちゃん

主郭の南北を堀切で遮断している。 (2023/10/15 訪問)

家城城は北畠氏に仕えた家城主水頭之清の居城で、之清は槍の名手として名を
はせたと伝わります。大河内城を織田勢が攻めた際には日置大膳・長野左京亮らと
共に敵を迎え撃ったとされています。主家の北畠具教が三瀬の変で殺されると
天正5年(1577)北畠具親の挙兵に応じて参上しますが、日置大膳らに攻められ
川俣の戦いで討ち死にしたそうです。登城道は民家の近くのフェンスに扉があり
害獣除けの針金を解いて入っていきます。車はT字路の近くに一台留めることの
できるスペースがあるので利用させていただきます。谷間の左手に道があり
ここから登ると楽らしいですが、前日の雨で足元がすべるので、登れそうなところを
登って上方に上がっていきます。尾根が左右に見えますが左手の尾根から回り込む
ように右手の城域に北側から侵入します。2段の堀切を越えて主郭に入ると土塁や
櫓台らしい高まりがあります。一度主郭から降りて南側に回るとそちらにも堀切
や郭があります。この日はもう暗くなってきたのでここで探索は終了にしました。
帰途で確認したのですが西の尾根にも堀切が縦断しており、西側からの敵の侵入
に対応しているようです。明確な登城道が無く、雨の日やその翌日には足元が
すべるので、ある程度の注意が必要です。

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しんちゃん

榊原城 徳川四天王・榊原康政のルーツ 三重県津市榊原字赤部谷 (2023/10/15 訪問)

榊原城は三重県津市の私立榊原中学校の南の丘陵地に築かれています。榊原氏
代々の居城で榊原信濃守氏経の弟右衛門太夫長政は三河に移り、その子
康政は徳川四天王として有名になりました。榊原城は小学校の南に道があり
簡単に登ることが出来ます。最高部の主郭はかつてグラウンドとして使われて
いたらしくなかなかの広さがありますが大部分は藪に覆われています。主郭の
南側には土塁が残り主郭の北側下段には郭があり、堀と土塁が良好に残ります。
遺構が比較的残っている上、城主のネームバリューもあるので、整備が
進めば良い城址になるのではと思います。

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しんちゃん

本山専修寺太鼓門  三重県津市 (2023/10/15 訪問)

三重県津市の本山専修寺の東側の入り口に太鼓門があります。この太鼓門
長屋門の上に櫓が建っているんですね。先週専修寺を訪れた際にこの太鼓門
を見逃したのが気がかりで、また訪問してきたのですが、小ぶりですが
たしかに櫓の形状をしています。櫓が三層になったのは文久元年(1861)
のことらしいです。内部はどうなっているんでしょうね。

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カズサン

中の御門渡櫓門復元工事中 (2023/10/01 訪問)

 鳥取城は現在中の御門渡櫓門の復元工事中です、2022年8月より復元工事に着手し、枡形石垣の復元から始まり、今年の4月28日は渡櫓門の起工、更に7月9日は上棟式、現在は素屋根に覆われて仮設足場も付き、屋根の瓦葺き、土壁の左官工事、続き土塀、枡形囲い土塀の工事中です。
 令和7年3月には竣工予定との事、渡櫓門の工事の進捗は如何かと鳥取へ用事が重なり帰省しました折に見て回れる範囲内を見学してきました、フェンス越しの見学ですが、完成が待たれます、後1年6ヶ月です。
 ビューポイントの三階櫓台・重層石垣群と久松山、三階櫓台石垣群、二の丸・菱櫓台・天球丸を太鼓門石垣を入れての3枚も投稿します、結構いい眺めだなぁ~と思っております。
 中の御門渡櫓門工事の進捗は鳥取市のHPで都度都度情報発信されています。
  
 

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朝田 辰兵衛

碑だけではショボいと思ったので… (2023/09/17 訪問)

以前,芥川山城を攻城時にスルーしてしまったので,観音寺城からの復路に途中下車しました。碑だけではショボいと思ったので,芥川一里塚,芥川仇討の辻を。どちらも,JR高槻駅から向かう途中にあります。

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chiroru

貸し切りで (2020/09/15 訪問)

土佐街道でランチ、「夢創館」にて100名城のスタンプ押印。高取城の案内映像を見て登城。
搦手からの登城でした。くねくねして足元も力をいれてゆっくりと歩かないと危ないです。

石垣の宝庫みたいなところで縄張りもしっかりとしたものでした。

秋晴れの気持ちの良い天気で、貸し切りで城内回らせてもらって(^^♪

高取城の石垣は高くて山の中でそびえ立つ素晴らしいものです。平地に立つ石垣とは趣が違って見え、景色も風も素敵。

帰りは石舞台古墳に立ち寄り、石ずくめの日でした。

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カズサン

移築太鼓櫓探訪 (2023/09/19 訪問)

 宮沢遺跡と東北道沿い未踏の城探訪の3日目、国神城と中畑陣屋を終えて、西方向の大里城を目指すが夕立と雷雨で、急ぎ「道の駅季の里天栄」に入り雨宿り時間もお昼時、昼食と産物を眺め時間待ち、小降りに成ったので大里城の登城口の一つ、天栄村ふるさと文化伝承館へ、道の駅からの道に閉館の看板、ふるさと館の近くに坂道には閉館で車止め、月曜日は休館日、道の駅に来る前に、大里城の南東登り口は確認済み、雨も完全に止まずふるさと館からの侵入登城路も閉館で入れないと、諦め撤収。
 
 雨でも探訪出来る処は近くの白河小峰城と目的地を変更して小峰城へ向かう、駐車場は二の丸南の無料駐車場を利用。
 今回まで、移築太鼓櫓を探訪して居なかったので、二の丸から本丸石垣、三重櫓を眺めて、二の丸東門から約300m東方向に在る、旧小峰城太鼓櫓の移築先を探訪。
 少し迷いましたが福島地方裁判所白河支部の東隣奥に専用駐車場と共に奇麗に整備されて移築されています、案内受付にパンフレット有り、1枚頂きました。
 前回探訪の令和3年11月にはまだ完成して居なく見学はしていませんでしたので今回初見学です。
 
 この後の予定で栃木県那須塩原市の未踏の城探訪を計画して居ましたが西、北方向から雷雨が押し寄せ豪雨状態で帰路に着きました。
 

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城好きのメガネ

「尼崎城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
尼崎城は、1617年に戸田氏鉄が5万石で入封し、築城したとされる。戸田氏が美濃・大垣へ移ると徳川譜代の家臣・青山氏4代、桜井松平氏の松平忠喬が4万6千石で入る。幕末まで桜井松平氏が治める。戊辰戦争では新政府軍に恭順し、所領を安堵される。復興天守は地元の篤志家によって約10億円以上の私財を投じて再建される。

<アクセス>
阪神電気鉄道 尼崎駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「三木城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
三木城は、室町時代に三木別所氏の初代当主別所則治によって築かれたとされる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。戦国時代には、別所長治と羽柴秀吉との間で起こった三木合戦では、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われた。三木合戦後も、京都や大阪をつなぐ交通の要衝として秀吉・子飼いの家臣が城代として入る。関ヶ原の戦い後は、池田輝政の姫路入封に伴い、姫路城の支城となる。家老の伊木忠次が入城したが、一国一城令によって廃城となった。現在、曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸、天守台が遺されている。

<アクセス>
神戸電鉄 粟生線 三木上の丸駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「明石藩舞子台場」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
明石藩舞子台場は、1863年に幕府の命を受け、勝海舟の指揮のもと明石藩が築造した砲台跡である。対岸にある徳島藩松帆台場と連携して外国船を挟み撃ちにする構想であった。現在、「天端の石敷き」などが遺されている。

<アクセス>
JR舞子駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「楼ノ岸砦」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
楼ノ岸砦は、石山合戦の際に織田信長が築いたとされる。当初は本願寺勢の攻撃により落城した。本願寺勢力の防衛拠点となり、石山合戦の終結とともに廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
大坂メトロ谷町線 天満橋駅 徒歩10分

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