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イオ

とことん江戸城(日比谷) (2022/06/23 訪問)

(続き)

日比谷門は日比谷交差点の少し西に位置し、現在では晴海通りになっていますが、日比谷公園の北東隅に枡形の石垣が一部遺っています。日比谷公園の心字池は、日比谷門から山下門へ続く水堀を公園造成時に池としたもので、心字池沿いにのびる石垣が往時の姿を伝えています。石垣は心字池の南端近くまでとなっていますが、これは水堀自体がここで東に折れていることによるもののようです。日比谷門の北側では日比谷濠が満々と水をたたえて北と西に広がっています。

日比谷公園のあたりは日比谷入り江の埋め立て地のために住環境が悪く、毛利氏や上杉氏など外様の有力大名に(嫌がらせ的に)割り当てられましたが、伊達氏の上屋敷も公園北東部にあり、心字池の北側には参勤交代時にこの地で亡くなった伊達政宗の終焉の地の説明板が建てられています。公園内には堀の石垣と思しき矢穴のある石や上水の石枡があちこちに置かれており、南東隅には烏帽子石と呼ばれる市ヶ谷門に用いられていた巨石が移設されています。

また、日比谷公園の南にある日比谷セントラルビルは虎ノ門と幸橋門の間の外堀跡にあたり、ビルの南西隅に付近で発掘された外堀石垣が展示されています。ここでまた外堀に戻って、幸橋門に向かいます(続く)。
 

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カズサン

木造復元四重天守閣甦る (2005/08/07 訪問)

 平成に入って木造での天守閣の復元、再建が賑わい、白河小峰城平成3年、掛川城平成6年、白石城平成7年と続き胸弾ませました、大洲城は木組み模型、幕末の古写真、天守台発掘調査データーと復元資料が多く有り、木造復元となり、在りし日の四層四階天守閣が完成しました、現存の台所櫓、高欄櫓に続多聞も再建し、二階櫓を構えた二重連結式天守の姿を平成16年9月1日一般公開として甦りました。
 早速是非観たいと17年前復元の翌年平成17年8月初旬、夏期休暇に故郷鳥取帰省を利用して四国に二泊三日足を延ばして、大洲城木造復元天守閣探訪を主に出掛けました。

 夏の太陽、上天からの照り、にわかの黒雲で撮影は余り良くありませんでしたが、本丸、高欄櫓、台所櫓、天守閣登閣、北の丸、内堀下の公園、現存内堀、北側堤防にぐるっと回って撮影、暑い中約2時間半、国内唯一の木造復元四重天守閣を充分胸熱で堪能しました。
 写真はサブのコンパクトデジカメで撮った数少ない写真の中から投稿します。

 最近のニュースでは天守閣に宿泊できるとの事、泊まってみたいものですが高価な宿泊料で実現は困難でしょう、夢見るのも良いかも?
 
 

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おっちゃん

臼杵城跡(臼杵公園)案内図 (2017/04/22 訪問)

現地案内板より抜粋

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ぴーかる

橋津台場 (2022/08/11 訪問)

【橋津台場】
<駐車場他>長瀬公園駐車場無料20台程度
<見所>土塁

<感想>橋津台場は国史跡に指定されている6つの鳥取藩台場跡の1つです。現地説明板によると1863年から1864年にかけて鳥取藩が9箇所築造した台場の1つで、年貢米を納める藩倉があった重要湾港「橋津湊」を防衛するために藩命を受けた地元の大庄屋や農民によって造られたそうです。由良台場のように六角形をしていたようですが、現在は浸食され海に面して後方部分の土塁が残るのみですが、由良台場跡のように高い土塁が残っています。
 鳥取藩の藩倉「橋津藩倉」は3棟現存しており台場跡を見た後立ち寄ったのでこの次に投稿致します。

<満足度>◆◇◇

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赤い城

藪の向こうに (2022/07/30 訪問)

道路沿いに説明板が立っていますが周囲は畑。
路駐し説明板周辺を歩いてみました。
説明板の後ろはかなりの藪。
なんとなく堀っぽいのですがさすがにここを突入する勇気はありませんでした。
冬ならば少しは遺構も見れるのでしょうか。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:矢野城 (2022/07/26 訪問)

一宮城からの転戦です。徳島市立考古資料館駐車場(34.060189、134.470023)に駐車しました。
駐車場所から徒歩4~5分で矢野城入口(34.059310、134.468668)に着きます。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558~70年)に矢野駿河守国村が築いたとされます。
天正年間(1573年〜1592年)の城主は矢野駿河守国村で、1577年(天正5年)三好長治と細川真之が対立して長治が自刃すると、当時讃岐国虎丸城主であった矢野国村は長治を攻めた伊沢頼俊を討ちとり、十河家を継いでいた長治の弟十河存保を勝瑞城に迎えました。
1579年(天正7年)三好康長の嫡男で岩倉城となっていた三好徳太郎康俊は長宗我部元親に降伏しました。
このとき、徳太郎は三好方の武将に土佐へ攻め入る為に軍勢を率いて参陣するように命じ、これに従った矢野国村をはじめ、森飛騨守、三好越後守などが急遽軍勢を整えて岩倉城へ向かいました。
しかし、これは謀略で脇城などから打って出た土佐方の軍勢に襲われ矢野国村は討死しました。

矢野城は市立考古資料館の南側にある南東へ張り出した尾根の先端頂部に築かれており、現在頂上には城山神社があります。
主郭はちいさな段がある程度で、城山神社の境内に「史蹟 矢野城址」をはじめ「日本最初のクリスマス」、「室町幕府十四代将軍擁立」、「農兵活躍史」などの石碑が建っています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=芝原城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:一宮城 (2022/07/26 訪問)

夷山城からの転戦です。一宮神社入口(34.037867、134.4633)から進入して、その先の駐車場に駐車しました。
登城口(34.037577、134.4632)で続100名城スタンプを押印して攻城しました。

1338年(暦応元年・延元3年)小笠原宮内大輔長宗によって築かれたと云われています。
小笠原長宗(一宮長宗)は阿波国守護職小笠原長房の子長久の四男で、一宮国造の一宮宗成を滅ぼして一宮城を築き、一宮氏を称しました。
南北朝時代に一宮氏は南朝方として活躍しましたが、1362年(貞治元年・正平17年)一宮長宗は北朝方に下り隠棲しました。
その後、阿波国守護職となった細川氏の被官となり、細川氏に代わって三好氏が実権を握ると三好氏に従いました。
一宮成助は三好長慶の妹を妻に迎えて、三好義賢の重臣でした。三好義賢が没して三好長治が家督を継ぐと、1577年(天正5年)細川真之と三好長治が争うこととなりました。
成助は伊沢城主伊沢頼俊とともに細川真之に応じて挙兵し、三好長治を今切城に攻め長治を自刃させました。
讃岐国虎丸城に居た長治方の武将矢崎駿河守はこの知らせを受けて伊沢頼俊を討ちとりました。その後、成助は長宗我部元親と通じて勝瑞城を巡って十河存保と争います。
1582年(天正10年)中富川の戦いで長宗我部氏が十河氏を敗って阿波を平定すると、成助は三好康長に通じたとの理由で夷山城にて謀殺されました。
その後、元親は北城に谷忠澄、南城に江村親俊を置いて一宮城を守らせましたが、1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で豊臣秀長率いる四万余りの軍勢によって攻められ開城しました。
1585年(天正13年)阿波に入部した蜂須賀家政は当初一宮城を居城としましたが、徳島城を築いて居城としたため、益田宮内を城番として阿波九城と呼ばれる重要な支城の一つとしました。
1638年(寛永15年)一国一城令により廃城となりました。

一宮神社の駐車場から遊歩道を登って行きます。米倉跡手前に竪堀があります。
米倉跡の先の登城道を上がって行くと、登城道側面から石垣が積まれているのがよく見えます。
財蔵丸と明神丸との間の堀切は深く、左側は財蔵丸への虎口となっています。
明神丸の反対側にある本丸の虎口は、よく写真などで紹介されている立派な石垣です。
本丸には若宮神社が祀られています。
続100名城ですが、阿波9城のひとつです。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=矢野城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:夷山城 (2022/07/26 訪問)

津田城からの転戦です。圓福寺公園入口空スペース(34.048247、134.534064)に駐車しました。
駐車した場所から100m先のカーブミラー(34.048749、134.534580)の下に小さな夷山城址碑があります。

1552年(天文21年)細川真之によって築かれました。
1562年(永禄5年)城主篠原佐吉兵衛は、三好義賢とともに和泉国久米田で畠山高政の戦いで戦死しました。
篠原佐吉兵衛の息子である篠原右京は幼少のため、篠原長房や伊沢頼俊に保護されていましたが、1576年(天正4年)に、家臣庄野兼時を伴って夷山城に入りました。
翌年、一宮城主の一宮成助(成祐)が三好康長と争って長宗我部元親に援軍を求めた際、庄野兼時も長宗我部方に降りました。
篠原右京は19歳になった1580年(天正8年)讃岐国の十河存保の元へ去りました。
1582年(天正10年)織田信長による四国攻めの先陣として三好康長が夷山城を攻めると、兼時や長宗我部方武将は城郭を破壊して去りました。
康長は夷山を根拠地として三好氏の旧臣を招き、麻植氏や一宮成助らがこれに応じたが、同年六月、本能寺の変により康長は急遽上洛します。
三好康長の上洛を知った長宗我部元親は再び阿波に侵攻し、中富川の戦いで長宗我部元親により攻められ落城しました。
阿波を平定した元親は、一宮成助の変心を許せず、成助を夷山城に招き誅殺しました。
庄野兼時には新たに加増されが、1585年(天正13年)羽柴秀吉による四国征伐で、土佐に敗走しました。

公園入口には夷山城址の石碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=一宮城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:津田城 (2022/07/26 訪問)

徳島城からの転戦です。津田寺駐車場(34.051839、134.575644)に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。
城主は桑村隼人亮で井戸城主薬師寺阿波守政村の子孫だそうです。三好実休のために堺で武器を買って帰る途中、淡路国生石崎で海賊のために討死したそうです。

津田寺駐車場から山頂に登る道を入ってみたが、遺構は消滅とのことなので入口から少し入ったところで引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=夷山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:徳島城 (2022/07/26 訪問)

蔵本城からの転戦です。徳島城東駐車場(34.076188、134.557312)に駐車しました。
2回目の攻城です。1回目は次男と二人で2017/2/19にクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」で攻城しました。

今回は、前回攻城した際に押印を忘れた100名城スタンプの押印が目的なので、東駐車場付近の見学のみで、本丸などがある山頂には行っていません。
100名城スタンプは、徳島城博物館受付カウンターに行かなくても徳島城東駐車場で押印できます。
駐車場のおじさんと暫く話し込んでしまいました。たくさんのパンフレットをいただきました。
攻城時間は25分(駐車場のおじさんと話し込んだ10分を含みます)くらいでした。次の攻城先=津田城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:蔵本城 (2022/07/26 訪問)

今切城からの転戦です。石宮と説明板石宮/説明前板(34.079328、134.517107)に路駐しました。

城主は小倉美作守、小倉佐介(小倉美濃守重信)などが伝えられています。
1553年(天文22年)小倉重信は芝原城主久米義広とともに槍場の合戦で三好実休と戦いましたが敗れて討死したそうです。

マンションの一角に城主を祀った祠があり、蔵本城の説明板が設置されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=徳島城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:今切城 (2022/07/26 訪問)

勝瑞城からの転戦です。真観寺駐車場(34.091935、134.529414)に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。城主は木津城主・篠原自遁の先妻の子で三好長治の近習として寵愛された篠原長秀です。
1576年(天正4年)三好長治は家臣・伊沢長俊と一宮成助に謀叛され、長秀の今切城に逃げ込みます。
1577年(天正5年)3月に攻められ、脱出を試みたが失敗し、長秀もこの時に戦死しました。

今切城は篠原神社と真観寺一帯に築かれていたそうです。
篠原神社が本丸のようですが、真観寺の門に「旧今切城地」の記載がありました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=蔵本城に向かいます。

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朝田 辰兵衛

白河の関(福島県白河市) (2017/09/18 訪問)

夏の全国高校野球でベスト4が出そろい,必ず東北のチームが決勝に勝ち進むことが確定しました。そこで,トレンド入りしたワードが「白河の関越え」。すでに津軽海峡を越えてるわけだから,白河の関に固執することはないのでは…と思いますが,東北人の感情からすると違う思いがあるんでしょうねぇ…。
ちなみに,しりとりでは,やすやすと白河の関を越えました…<笑>。
そうそう,白河の関の空堀は必見です。白河ラーメンもおいしかったです。個人的には,喜多方ラーメンを超えてます。

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カズサン

麓は飛騨の里 (2005/10/30 訪問)

 松倉城跡の北側麓に合掌造建屋が有る有料施設「飛騨の里」が有ります。
 住所:岐阜県高山市上岡本町1丁目590 専用駐車場、観光バス駐車場有。

 17年前の平成17年10月下旬、町内のシニアークラブ仲間と観光バスを貸切高山に日帰り旅行、合掌造りの建物も有る、観光施設「飛騨の里」を訪ねました。
 丁度紅葉シーズンで綺麗な飛騨の里も堪能しました。秋の飛騨の里撮影写真を投稿します。
 松倉城登城の後に飛騨の里を訪ねられたら如何でしょうか?

 松倉城跡には飛騨の里の西側の山道を登りつづら折りですが舗装道、約1~2km程で峠に駐車場有、松倉シンボル広場と成ってます。登りの途中に二股に成ってる所が有りますが左に曲がります。
 峠駐車場から左側東側の緩やかな登城路を約200~300m程登って行くと石垣の有る松倉城に到着します。
 平成23年11月中旬初登城しました、熊注意の看板も有った様な記憶も有りますがその時は登って仕舞いました、現在なら引き返すかも?
 最近投稿のヒロケンさんの登城路案内の通りです。
 

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イタさん

城域の中心部が残っていないのが惜しい (2022/08/17 訪問)

 案内の縄張図を見ると城域の1/3が遺っている程度。本丸・二の丸・三の丸などは、中学校・高校の敷地になっている。本丸東の土塁らしいものは一部残るが、西側は中学校の建物が迫っている。高校の北側には女堀川が流れ、内側に馬出が記載されているが、私有地となり詳細は確認できない。
 説明板には八幡山城とも呼ばれ、14世紀の頃には居館があったと推測され、15世紀に山内上杉氏により築城され、その後、後北条氏の支配に替わる。豊臣秀吉の関東攻めから徳川家康の関東入りを経て、松平氏の転封後、慶長6年(1601)に廃城とある。遺構の堀幅は広く、深さもあり、土塁も高く、他の名高い城に劣らない。
 城跡から徒歩5分の場所に国学者・塙保己一記念館が建っている。大きくはない展示室だが見応えはある。入館時に記名はするが、無料で入れる。また離れているが、塙保己一が江戸へ出るまで過ごした旧宅が残っているが、現在も住んでいるため敷地内に入れません。

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トク

【鹿児島城と西南戦争の遺跡巡り③】城山と西郷洞窟(西郷隆盛の最期) (2022/08/11 訪問)

「② 御楼門と私学校(弾痕跡)」からの続きです。

9月20日、西郷は鹿児島城の背後にある城山に登り、その洞窟に身を隠します。しかし4日後の24日早朝、ついに官軍の総攻撃が始まり、西郷は洞窟から出て戦います(写真②③④⑤)。しかし洞窟を出てすぐ300m下った岩崎谷で腰と大腿部に銃弾を受け倒れてしまいました。動けなくなった西郷は、

「晋どん、晋どん、もうここでよか・・・」

別府晋介に介錯を頼み、そして自刃し果てたそうです(写真⑦⑧⑨)。別府晋介は「ごめんなったもんし」と言い残し介錯したあと自刃。桐野利秋・村田新八らはそれを見届けた後、敵陣へ突撃し銃弾に倒れ亡くなりました。

彼らの死は、平安時代の源平以来700年続いた武士という者が、この日本から完全に消えて無くなった瞬間でもありました。

私は、城山の頂上に立ってみました。ここからは錦江湾と桜島が一望できました(写真①)。最期の決戦を迎えた西郷隆盛は、どんな思いでこの景色に別れを告げ、そして果てて行ったのでしょうか?

次回、「④南洲公園と周辺観光」へ続きます。
 

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イオ

とことん江戸城(日枝神社~虎ノ門) (2022/06/23 訪問)

(続き)

出張2日目の朝は4時半に起き、5時にホテルを出て外郭めぐり続行です。夏至の頃でもあり、5時には充分明るいのはありがたいですね。赤坂門より南の外堀は埋め立てられて外堀通りになっていますが、あちこちに見られる痕跡をたどってみるとしましょう。

赤坂門から南に徒歩8分の日枝神社は、太田道灌が川越山王社を勧請し、徳川家康が江戸城の鎮守として城内の紅葉山に祀ったもので、明暦の大火の後に現在地に遷座しています。時間が早過ぎて神門はまだ閉ざされていましたが、神門越しに道中の無事を祈願しました。

日枝神社から外堀通りを南東に進み、溜池山王駅を過ぎて首都高速の高架をくぐったところに溜池発祥の碑があります。溜池は汐留川をせき止めて築かれた外堀兼上水源で、現在は完全に埋め立てられていますが、にのまるさんの投稿にある通り、特許庁前交差点の北側(溜池が一番広くなっていたあたり)は大きく窪んでおり、溜池の痕跡が窺えます。

外堀通りをさらに東に進むと、虎の門三井ビルの前に溜池櫓台の石垣が現存しています。溜池櫓は外堀沿いに設けられた隅櫓のひとつで、小田原街道と溜池上水の防備を担ったと考えられます。溜池櫓台から外堀通りを渡ったアネックス(旧 国立教育会館)の前にも積み直された外堀石垣があり、この下に本来の石垣が埋もれているようです。虎ノ門駅11番出口には江戸城外堀跡地下展示室が設けられていて、水面からの高さに復元された外堀石垣と説明パネルが見られます。文科省旧庁舎中庭には庁舎整備に伴う発掘調査で発見された外堀石垣が保存されており、半地下状の階段を下りると石垣の反対側は一面に説明パネルが設けられていました。この一帯の外堀遺構は、充実した説明パネルで外堀の理解を深め、敷石で外堀のラインを示し、エスカレーター脇に外堀の水位を示して外堀の存在を体感してもらう、理想的な史跡保護のあり方だなぁ、とひたすら感心させられました。さすがは文科省のお膝元だけのことはありますね。

…と、虎ノ門近くの外堀石垣はよく遺っていますが、霞が関三丁目交差点付近にあった虎ノ門は桜田通りになってしまっていて痕跡もなく、虎ノ門交差点の北東部に虎ノ門記念碑が設けられているくらいです。虎ノ門っていうか……猫ノ門?(サイズ的に)。

さて、ここで外堀から少し外れて、日比谷公園を抜けて日比谷門に向かいます(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:勝瑞城 (2022/07/26 訪問)

板西城からの転戦です。ローソン藍住勝端店(34.131433、134.522954)に駐車しました。
勝瑞発掘現場事務所で続100名城スタンプ押印後、県道14号を挟んで反対側にある勝瑞城跡(34.131505、134.523510)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に三好氏によって築かれたと云われています。
勝瑞の地は古く、秋月城にあった細川頼之の弟詮春が阿波守護として勝瑞に移り住んだのが始まりといいます。
以前はこの細川氏の守護所が勝瑞城と見られていたが、現在では三好氏が天正年間(1573年〜1592年)に長宗我部との争いの中で詰城として築き、長宗我部氏に敗れて廃城になったものと考えられているそうです。

勝瑞城は現在の見性寺の境内一帯に築かれていました。 見性寺は三好氏の菩提寺で、江戸時代にここに移され三好氏の墓も集められたそうです。
見性寺の周囲には現在も濠が巡り、一部土塁も残っています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=今切城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:板西城 (2022/07/26 訪問)

引田城からの転戦です。説明板前(34.132675、134.450770)に路駐しました。狭い場所なので速攻で撤退です。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代初期に近藤六親家によって築かれたと云われています。 親家は藤原師光の六男で、屋島合戦に向かう源義経の道案内をした人物だそうです。
親家には子がなく、赤沢兵庫頭宗定を養子に迎えて城を譲り新居見城へ移りますが、宗定にも子がなく小笠原氏の一族が赤沢家を継いだといいます。
1582年(天正10年)三好氏と長宗我部氏による中富川の合戦では、赤沢信濃守宗伝が三好方の先陣を務めたが、多勢に無勢で奮戦むなしく敗れました。
赤沢信濃守宗伝は始め小笠原宗伝と名乗り、三好義賢の姪婿といいます。

現在は宅地や田畑に埋もれ遺構はなく、説明板と石碑の写真を撮ったら速攻で撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=勝瑞城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:引田城 (2022/07/26 訪問)

虎丸城からの転戦です。讃州井筒屋敷がまだ開いていない時間なので、先に引田城登城口(34.2320140、134.4061891)に向かい攻城しました。駐車場は登城口の先にあります。
その後、讃州井筒屋敷(34.227649、134.403413)で続100名城スタンプを押印しました。30分早く着いたのですが、お店の方のご厚意でスタンプを押印させて頂きました。

667年(天智天皇6年)屋嶋城築城のとき、安倍比羅夫率いる引田氏によって築城されたと伝わり、又、屋嶋城との連絡のための「狼煙台」として造られたのが始まりとも云われています。
永正年間(1504年〜1521年)頃に昼寝城主寒川元政の家臣四宮右近が城主でした。
1572年(元亀3年)寒川氏は阿波国の三好長治によって大内郡を奪われ、長治の家臣矢野駿河守が引田城主となりました。
1582年(天正10年)中富川合戦で長宗我部氏に敗れ、虎丸城に籠城した十河存保を救援するため、秀吉は仙石権兵衛秀久を引田城に派遣して守らせた。
羽柴秀吉の四国征伐によって讃岐国は仙石秀久に与えられ引田城主となったが、九州征伐での戸次川合戦での失態により秀久は改易、替わった尾藤知宣も九州征伐の失態によって改易となっています。
1587年(天正15年)生駒親正が讃岐国17万6千石を得て入城するが、同年引田城が讃岐国の東に偏っていたので、聖通寺城に移りました。
1515年(慶長20年)一国一城令で廃城と決まるが、その後、城がいつ取り壊されたかは不明で、長らく忘れられた存在でした。

引田城は「本丸」、「南二の丸」、「東の丸(道を間違えていけなかった)」、「北二の丸」、「北曲輪」などからなります。
登城口から岩場につけられた道を登って行くと「狼煙台跡」に着きます。ここから引田港はじめ瀬戸内海が眺望できます。
さらに進んでいくと「本丸」の手前で、よく写真などで紹介されている石垣と櫓台が見えてきます。
さらに北に遊歩道をゆくと「北二の丸」があり、立派な石垣を見ることができます。上段の石垣は修復中?でブルーシートがかけてありました。
「北二の丸」から「東の丸」方面に向かうつもりが誤って「北曲輪」に進んでしまい「田の浦野営場」まで降りてしまいました。方向音痴の自分が情けない。
道を間違えたので「東の丸」、「引田鼻灯台」、「化粧池」には行けませんでした。
攻城時間は80分(道を間違えた為、ずいぶんかかったので参考になりません)くらいでした。次の攻城先=板西城に向かいます。

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