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イタさん

畑内に大きな土塁 (2024/01/16 訪問)

案内板に、粕川と鏑木川に挟まれた地形で秀郷流藤原氏の流れをくむ赤堀氏の居城で、南北350メートル、東西170メートルの規模をもつ。本丸は80メートル四方あり、南北に虎口を設ける。虎口は喰違いとなっている。周囲は高さ4メートル程の土塁があったとされ、北から東にかけてよく残る・・・と載る。

道路から狭い道を入れば奥に畑が見え、その先に高い土塁が見える。畑と民家の境には堀跡と思える窪みが見られる。北の喰違虎口先は土橋だったのか、左右の堀は浅くなっている。更に先は畑と民家になっている。土塁は北から東だけでなく西にも一辺分の土塁が見えるが、北虎口の土塁とは繋がらず、主郭の外、粕川沿いのものらしい。

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イタさん

雪景色の堀など (2024/01/16 訪問)

 桐生市のHPに、山上城は藤原秀郷の流れをくむ、山上五郎高綱によって築城され、子孫も代々この地域を領し、関東管領・上杉氏の頃は東上州で重きをなしたと伝えられる。しかし、北条・武田・上杉などの群雄割拠時代のなかで、16世紀終末ころに廃城になる。
 城の構造は、並郭構造で北から笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と南に並ぶ。南郭には物見台の跡が残っている。南北650メートル、東西220メートルと細長く、平坦な郭構造ではなく、丘城ともいわれています。周囲は自然の要害である蕨沢川と谷によって守られていた・・・と載っている。

櫓風建屋にも駐車場があるが、先に常光寺手前に広い駐車場がある。思いがけない雪となり、雪と寒さで端まで見学ができなかった。曲輪内の土塁は確認出来ないが、曲輪を隔てる空堀・土塁はよく残る。南の公園(三の丸)・二の丸・本丸には遊具が設けられているが、多くは壊れた物が多い。晴れの日と違い墨絵のような景色も美しい。

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小城小次郎

駐車場完備 (2023/04/23 訪問)

飯久保城の1kmほど西にあって、飯久保城とワンセットで飯久保の田園地帯を守るような立地になっている。登城口には駐車場もあってハイキングコースになっていて、むしろ飯久保城よりも歩きやすいかも(遺構は薄いけど)。

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todo94

まずは下館 (2023/12/10 訪問)

筑西市下館に泊をとっての朝駆けです。藤原秀郷が平将門の乱平定に向けて築城した下館、中館、上館の3点セット。この後、中館の伊佐城、上館の久下田城もめぐりました。城山八幡神社に城址碑と説明板があります。神社前の道路の表示も見えやすくてgoodです。

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さえこ

お墓参り (1980/03/23 訪問)

姫路の奥のお墓参り帰りに、姫路城は寄った

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キンヤ

大野城の出城とされる西ノ城 (2024/01/07 訪問)

東ノ城に続きまして、西ノ城を投稿させて頂きます。
西ノ城は大野城の出城ともされ、別名 藤白城と呼ばれます。

東ノ城から向かうと岩盤を利用したような片堀切・土橋状を通ります。

山頂の主郭から南西に曲輪が連なっていますが木で見辛いです。

北側に堀切があり、土橋が付いてますが、後世の改変の可能性があるかもしれません。

南西側にクランクした横堀があり、西ノ城での見所でした。その更に南下に堀切があります。

東ノ城よりインパクトは弱いですが、東ノ城にはないクランクした横堀が見られ興味深いです。

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キンヤ

畝状竪堀が見所の紀伊守護本拠の山城 (2024/01/07 訪問)

南北朝時代に紀伊守護山名氏が築城したとされ、南北朝合一後は紀伊守護畠山氏の本拠になったとされます。
1460〜1466年頃に畠山政長が守護本拠を広城へ移したと伝えられますが、その後も畠山氏が1568年まで使用したともされます。

東ノ城と西ノ城から成る一城別郭の大規模な山城で、東西に長い尾根上に築かれています。

まずは東ノ城を投稿させて頂きます。

東側の本城は、3段の曲輪で整備されており、1番上の主郭に城址碑が建てられています。
ここは発掘調査がされており、礎石・石列等が検出され、出土遺物は土師器の皿等が出土したそうです。
北西下に堀切があります。

その西側下の曲輪群は、中ノ曲輪とも呼ばれ、東側と中央の二つの堀切で区切られています。
堀切の間の曲輪の北側には土塁があり、南下の厩の段では石積が見られました。

中ノ曲輪の中央の堀切は大野城の中で最も大きく、南下へ竪堀が長く続き圧巻です。
その竪堀から西へ向けた中ノ曲輪の南斜面で、大小8条程の竪堀が連続しています。
和歌山県北部では珍しい畝状竪堀群で1番の見所と思います。
この南斜面で石積を4箇所で見つけることができました。
中には自然や後世のように見える箇所もありますが、事前リサーチより多くの石積があり驚きました。
中ノ曲輪は、本城よりも堅固な造りで、思っていた以上に見応えありました。

最後に本城の東側下の曲輪に行き、竪堀が1条、尾根に長い土塁がありました。

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しんちゃん

年末滑り込み訪問 (2023/12/31 訪問)

広島城は九か国112万石の大名となった毛利輝元によって天正17年に普請がなされました。中州に城を築く工事は大変な苦労を伴うものだったらしく川を堰き止め、島を普請するところから始めなければならなかったようです。
関ヶ原の合戦の後、福島正則が入り城下の整備に尽力しますが幕府から石垣の無断修理を咎められ(いいがかりに近い)信濃国高井郡および越後国魚沼郡4万5000石に減封されたうえ正則の死後、遺体を勝手に火葬にしたとして改易されてしまいます。(酷すぎる)

大晦日の夕暮れ滑り込みに近いかたちで訪問してきました。天守が閉まっているのは知っていますが山口に行く前に寄っておきたかったのです。大晦日で護国神社の前は屋台の準備で忙しそう。屋台のオッサンの顔が恐いです。さすがは本場ですね(何の?)
二の丸周辺を散策し表御門を拝見。この日はこれで退散しました。この後、大晦日の夜と元日はすごい人だかりになるのでしょうね。

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波多野義景 (2024/01/18 訪問)

 秦野駅からバスに乗り東農協前バス停下車、徒歩約5分で城址碑のある場所へ行くことができます。

神奈川中世城郭図鑑には発掘調査から城址碑の建っている台地を城跡と見なすことは困難になっていると書いてありました。

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小城小次郎

在地勢力狩野氏とともに (2023/04/23 訪問)

一向一揆に追われて加賀を逃れた狩野氏が越中で構えた拠点らしい。神保氏や上杉氏に仕えた狩野氏はいつの頃にか飯久保を離れ、飯久保城もそのまま歴史の闇に消えた。今は地元の方が草刈りや遊歩道整備を行ってくれている。

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松田康隆 (2024/01/18 訪問)

 説明板まで行きましたが、時間もなくそこで退却しました。

皆様の投稿を拝見していると富士山が見えたのですね。まったく気づきませんでした。

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松田城の支城 (2024/01/18 訪問)

 松田氏が松田城の支城として築城したとされていますが、よくわかっていないようです。以前は全山耕地化されていたとのことで、どこが遺構なのかわかりません。そう考えると遺構か否かわかりませんが、2本の見事な竪堀状の地形があります。

 大雄山駅からバスに乗り柄沢バス停下車。バス停から徒歩10分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

高山右近ゆかりの城 (2023/12/30 訪問)

豊臣秀吉が織田信長の後継として天下を手中に収めつつあった天正13年(1585)の国替えによって明石与四郎則実に代わって高山右近重友に明石郡が与えられました。重友は明石城(枝吉城)に入城し船上城の築城に取り掛かります。
重友は敬虔なキリシタンだったので秀吉により明石郡を追放され、加賀の前田家に茶道指南役として招かれ、金沢城の修築や富山城・高岡城の築城にも尽力したとのことです。その後、慶長19(1614)キリシタン追放の際マニラに追放され翌年63歳で死去したとのことです。
関ヶ原の合戦後に池田輝政が播磨に入り、輝政の八男で家老職の池田左近利政に船上城があずけられ、慶長13年(1608)からは輝政の甥で筆頭家老の池田出羽守由之に明石4万石とともに預けられました。元和元年(1615)大阪城が落城し支城としての役目を終え、その後の一国一城令で廃城となったようです。
船上城は周囲を宅地に囲まれた畑地らしき場所にありますが、本丸の跡に小さな社が祭られていて住宅の間の細い隙間から道がつづいています。

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しんちゃん

鎌倉地味な所めぐり (2019/01/06 訪問)

鎌倉の鶴岡八幡宮の周辺には「鎌倉殿の十三人」登場人物ゆかりの地がいくつもありますが、基本的に大き目の顕彰碑みたいな石碑が建っているだけで、はっきり言って超地味です。
「武士の鑑」とまで言われた畠山重忠は元久2年(1205)菅谷館を出て130騎ほどで鎌倉に向かう途中で北条義時率いる大軍と戦闘になり討死します。義時はその後重忠追討を命じた父・時政を糾弾します。
若宮大路幕府は嘉禎2年(1236)~元弘3年(1333)に将軍の御所が置かれたところです。
宇都宮辻子幕府は宇都宮小路に置かれた将軍の御所で嘉禄元年(1225)~嘉禎2年(1236)の間使用されました。
鎌倉幕府の御所の履歴は 大蔵幕府⇒宇都宮辻子幕府⇒若宮大路幕府となるようです。
上杉朝宗は足利氏満・満兼に仕え、出家後は禅助と号しました。人々は「犬懸の管領」と言ったそうです。その子の氏憲は足利持氏の執事となり出家して禅秀と号しました。しかし持氏と不仲になり持氏の叔父・満隆と謀って兵を挙げますが敗れて、鶴岡別当坊にて自害したとあります。
畠山重忠邸跡‥神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目2-9
北条執権邸旧跡‥鎌倉市小町3
若宮大路幕府旧跡‥鎌倉市雪ノ下1-11
宇都宮辻子幕府旧跡‥鎌倉市小町2丁目
日蓮上人辻説法の跡‥鎌倉市小町2丁目22−13−7
文覚上人屋敷跡‥神奈川県鎌倉市雪ノ下4
上杉朝宗および氏憲邸跡‥鎌倉市浄明寺1丁目10−3

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しんちゃん

櫓は消失したが今も石垣が津和野の街を見守る。 (2019/05/04 訪問)

津和野城の歴史は古く鎌倉時代の吉見氏の築城に始まり長く吉見氏の時代が続きました。歴史が長い割には長閑であったのですが、陶晴賢が大内義隆を滅ぼした際には義隆の姉が吉見正頼の妻であった関係から、正頼は兵を挙げて長門に攻め込んだそうです。晴賢は大内義長を奉じて津和野城を攻めますが、津和野城は下瀬山城とも連携してこれをよく防いだとのことです。毛利氏が挙兵した際に晴賢と正頼は和睦を結びますが、晴賢が厳島の合戦で滅んだ後、毛利氏と合流して大内義長を自害に追い込んだそうです。
吉見氏は関ヶ原の合戦で城を追われてしまいますが、長く津和野の町を見守ってきた津和野城は健在で明治7年、地元の人に惜しまれながら櫓は入札され解体されたそうです。今だったらクラウドファンディングとやらで何とかなりそうな気がしますが。

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赤い城

整備された城址公園 (2024/01/12 訪問)

阪急池田駅から徒歩で10分ちょっと。
池田城址公園として整備されています。
この日は西門から登城、模擬天守前にはジュウガツザクラが咲いてました。
冬に咲くサクラも趣きがあります。
公園は庭園風に整備され、地元の方の散歩コースになっているようです。
本丸には虎口や土塁が残ります。
南門から下に下りると堀跡が散策路となっています。
なかなか深いです。
本丸に戻り東門から退出、こちらが大手のようですね。
所用前の立ち寄りだったので駆け足での登城となりました。
近くにはカップヌードルミュージアムもあるのでまた来たときには行きたいです。

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しんちゃん

千姫事件のいわくつき。素晴らしき天空の城。 (2019/05/04 訪問)

津和野城は標高367mの山上に築かれ南方に周囲を囲うように流れる津和野川が天然の堀の役目を果たしています。弘安4年(1281)の二度目の元軍の来襲ののち、弘安5年に鎌倉幕府は吉見頼行に対し西石見の海岸防備を命じます。頼行は任務を遂行の途中に当地を本城を築くのに最適と定め永仁3年(1295)築城にとりかかったとのことです。吉見氏14代広行の時代に慶長5年・関ヶ原の合戦に毛利輝元に従い西軍として参戦し、西軍の敗走後に吉見氏は当地を追われたとのことです。関ヶ原の合戦の功績で坂崎出羽守成正が3万石で入りますが、例の千姫事件で滅んでしまいます。
翌元和3年(1617)亀井政矩が4万3千石で入り明治まで続いたそうです。
津和野城には10年前に訪れましたがリフトは休みで登城道は通行禁止になっていたのでやむをえず断念しました。4年前に再度来訪し、ようやく本願を果たすことができました。リフトを使えば城域まですぐに到達でき主要部の石垣を十分堪能することができます。

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しんちゃん

鎌倉市ぶらぶら (2019/01/06 訪問)

鎌倉市周辺を歩いてみると歴史的な遺構がたくさんありました。鶴岡八幡宮より北側は鎌倉五山など宗教的な建物が豊富で江戸時代にも観光地としてにぎわったようです。鎌倉幕府に関する遺構は鶴岡八幡宮の周辺に多く、大蔵幕府跡やその東御門、源頼朝・大江広元の墓や北条義時の墓(お堂)の跡である法華堂跡が存在します。
法華堂跡には宝治合戦(1247)で自害した三浦一族を葬ったやぐら(洞穴)があります。法華堂跡の周辺には大江広元の墓の他、源氏の血筋を自称する島津忠久の墓もあります。法華堂の南側やや西よりに800mほど行った先には建武の新制で一族と共に自害した北条高時の腹切りやぐらがありました。
大蔵幕府は大蔵御所とも言われ治承4年(1180)から承久元年(1219)まで鎌倉将軍の御座所として使われた居館で源頼朝の居館でもありました。1225年まで使われたという見方もあるようです。

大蔵御所‥鎌倉市雪ノ下3丁目6-26
源頼朝墓・法華堂跡‥鎌倉市西御門2丁目5
大蔵幕府東御門旧跡碑‥鎌倉市西御門2丁目8-10

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しんちゃん

英国の報復を恐れ急遽築造した台場。 (2019/05/02 訪問)

橋津台場は鳥取藩によって築かれた台場の一つで国の史跡に指定されています。文久3年(1863)大阪の天保山砲台を警備していた鳥取藩の警備隊が英国船を攻撃するという事件が勃発したそうです。鳥取藩は報復を恐れて急遽、大誠村瀬戸の竹信潤太郎に相談して農民の協力を得て文久3年中に藩内に八か所の台場を築いたとあります。(現地案内板より)
現在は波に浸食を受け一部が失われていますが形状的には由良台場に似ているそうです。訪問した時にはすでに日暮れが近く、夕焼けは綺麗なのですが写真が暗いです。

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しんちゃん

写真が余ったのでもう一稿。 (2019/05/02 訪問)

太閤ヶ平陣の写真が余っていたのでもう一稿。太閤ヶ平陣は鳥取城一城を落とすのにはあまりにも規模が大きいので毛利攻めの本拠地の一つとして転用する目的で築かれたのではないかと現地の案内板には書かれています。規模はだいぶ違いますが秀吉が三木城を攻めるときに築いた本陣にも構造が少し似ていますね。なんにせよ防御より攻めを重視した攻撃の為の城と言った雰囲気が良く出ていると思います。基本的に織田信長も武田信玄も上杉謙信も自分たちの領土で戦をするなんてことは全く考えていないと思うんですね。
戦国を代表する大名たちの本城が未完成だったり守りが甘かったりすることは結構あって、その真逆にいるのが北条氏だと思います。

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