現地案内板より抜粋
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2022/08/01 22:19
城山園地案内図 (2018/01/04 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/08/01 21:05
郡上八幡城 (2020/08/12 訪問)
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2022/08/01 21:01
2022/08/01 20:59
2022/08/01 20:07
【熊本城と西南戦争の遺跡を巡る④】薩軍と西郷隆盛(後編) (2022/06/22 訪問)
「③薩軍と西郷隆盛(前編)」からの続きです。
熊本城包囲戦に切り替えた西郷は、13,000の軍勢で城を包囲します(籠城する官軍は3,300)。そして、北と東と南からの突入は扇勾配の高石垣や連続桝形、49の櫓、18の櫓門、それらを囲む堀や白川・坪井川など、完璧な縄張りで城にたどり着くことすらできませんでした。そこで西郷は熊本城で最も手薄(縄張りの弱点)とされている城の西側からの攻撃に勢力を集中する事にします(天守最上階から見た西側の写真④を再度掲載します。確かに西側はなだらかな丘陵地帯です)。
清正も、実は築城中にこの西側が唯一手薄であることに気がつき、二の丸との間に西出丸を築き、その両側には大きな堀を築き、堀の上には高石垣、さらにその上に無数の鉄砲狭間を備えた長塀、その背後には最も大きな櫓(宇土櫓)を築きました
明治初期の写真⑤を再度掲載しますので見て頂きたいと思います。 確かに西出丸の横には当時は水を湛えた大きな堀があります。そしてその堀から上には高さ20mの石垣、さらのその石垣の上には、現在はありませんが当時は無数の鉄砲狭間を備えた長塀がありました(確かに写真には長塀が写っています。写っている部分だけでも数えてみたら60以上の狭間がある😲!)。そして、さらにその背後には巨大な宇土櫓がにらみをきかせているのが見ておわかりになると思います。清正は、唯一の弱点と言われている西側でさえも当時このように鉄壁な防御を施し「ここ(西側)を攻め落とすだけでも100日はかかるであろう。その間にわしは大坂から戻ることができる!」と豪語していたそうです。
薩軍は何度も西側から突入を試みます。しかし官軍も必死に抵抗しなかなか城は落ちません。それどころか今度は薩軍がひるんだすきに城より討って出ます。激戦地となった藤崎台のくすの木には弾痕の跡が残り(写真②③)その下の段山には「激戦地の碑」(写真①)が建っていて、ここで激戦があった事を物語っていました。
そして52日間に及ぶ戦闘で、ついに西郷(薩軍)はこの唯一の弱点と言われていた西側さえも落とす事はできませんでした。築城から270年を経て清正が豪語した言葉が本当であった事がこれで実証されたわけです😲!
熊本鎮台が包囲されたとの報告を受けた「大久保利通」などの明治政府は、「有栖川宮総督」を筆頭に「大山巌」「乃木希典」などの最新の大砲や銃を備えた精鋭の部隊を熊本鎮台の救援に向ける事を決意します。その部隊が博多へ上陸し北部九州を南下中との報告を受けた西郷は、この部隊が到着すると大変な事になると熊本城の城攻めはあきらめ、その部隊を迎え撃つべく主力を最も街道が狭く曲がりくねった城から北西部の「田原坂(たばるざか)」へ向かわせる事にしました。この時、西郷は最後にこうつぶやきました。
「おいどんは官軍に負けたとじゃなか、清正公に負けたとでごわす!」
次は、田原坂を歩きます(⑤田原坂へ続く)。
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2022/08/01 11:40
復元本丸御殿を観たいと登城 (2007/03/25 訪問)
平戸城初登城の翌日、体調は風邪気味のまま、佐世保の九十九島展望所を訪ね、九十九島の景観を堪能しましたが天気は薄曇り見通しは余り良くありませんでした。
昼過ぎに佐賀城に到着、有明海に面してる所は昨日と打って変わって天気は晴れ、城廻り日和でした。
登城の3年前の平成16年に復元本丸御殿が完成して居ましたので今回是非観たいとの登城で、城郭誌の写真で見て居ましたが、木の香りもまだまだ残り、木の肌艶も美しい、素晴らしいの一言です、元藩主の御座間が移築されて元の位置に戻されて居ました。
現存の本丸御門鯱の門、大天守台の大きさに驚愕、本丸御殿西横に南西隅櫓石垣台とそこより続く西面石垣が復元されても居ました。
壕も広く周辺四角く残って居りますが登城二度目、いまだ壕を一周して居りませんし、壕内も本丸二の丸止まり全部は見切れていません。
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2022/08/01 11:05
2022/08/01 10:57
初登城は雨模様風邪気味で大変でした (2007/03/24 訪問)
九州営業所の同僚に車を出してもらい一泊旅行で唐津、松浦、平戸、佐世保、佐賀と廻り、当日は小雨模様の日と成り薄暗く肌寒い日で、私が風邪気味のくしゃみ連発、同僚に大変なご迷惑を掛けました、後日風邪がうつったと報告が有りました。
初登城は15年前の平成19年3月下旬、傘を差しながらの登城です、遠くから天守閣が見通せますが暗く雨模様で撮影条件は最悪、現存の北虎口門、脇の現存狸櫓を通って現存土塀に石垣の先に復興二重櫓地蔵坂櫓を見て、本丸門を潜り本丸に在る模擬三重櫓天守閣を望む、復興乾三重櫓を終えて、平戸御館松浦史料博物館見学、異国情緒あふれる有名な写真スポット寺院と教会の見える道を見たかったのですがいけませんでした。
あれから15年経ちますが体調、天気が良いタイミングに行って見たいものです。
写真写りが良くありませんが投稿致します。
最近の情報では平戸城に宿泊が出来るとか?一泊60万円?、チョット手が出ません、せいぜい和歌山の湯浅城どまりかな?
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2022/08/01 10:26
とりあえず (2022/07/29 訪問)
国宝制覇出来ました
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2022/08/01 00:04
2022/07/31 17:45
お城探訪 (2022/07/31 訪問)
曲輪があるみたいですが、夏場は茂みに入れない残念です
頂上付近の木をもう少し切ってもらえれば景色は良さそう!
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2022/07/31 17:36
お城探訪 (2022/07/31 訪問)
景色は良いです
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2022/07/31 17:28
立派な石垣 (2022/07/18 訪問)
天守はないけど立派な石垣です。
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2022/07/31 17:13
2022/07/31 17:09
2022/07/31 16:21
一宮城址案内図 (2018/01/16 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/07/31 16:13
明智城跡散策路マップ (2020/01/26 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/07/31 16:07
明知城縄張図、落合砦縄張図、明知陣屋絵図 (2020/01/26 訪問)
現地案内板より抜粋
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2022/07/31 12:46
吉田郡山城跡 攻城の陣所に (2022/07/28 訪問)
吉田郡山城跡から約4キロ、国道54号線沿いに、【道の駅 三矢の里 あきたかた】が、オープンしていーました。
吉田郡山城の御城印や毛利関係のグッズなど、豊富な種類がありました。
【ノーバッグ パーキング】なる物があり、出庫しやすい駐車場設計です。
休日は、武者さんも参陣するそうです。
びっくりするような設備もあります。
安芸高田市には、【吉田郡山城跡】を始め、【桂城跡】等、毛利関係の山城が多数。ここ、【道の駅 三矢の里 あきたかた】は、山城攻めの、陣所として、大いに楽しめます。
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2022/07/31 10:48
水の手門復元続土塀と詰の城探訪 (2007/03/22 訪問)
人吉城は遠州相良から鎌倉期に相良氏が人吉荘地頭として赴き、鎌倉、南北朝、室町、戦国期を乗り越えて江戸期も2万2千石として守り明治を迎えている、遠江浜松在住者としては思入れも有ります。
わが社の子会社が一山越えた鹿児島県に有りましたので、出張の空き時間に何回となく訪ねて居ましたが、15年前の3月下旬に水の手門続土塀が完成したとの情報も有り訪ねました、併せてあまり登って無かった詰の丸山手の曲輪も探訪。
探訪ルート:水の手門周り復元続土塀、武者返し石垣、水の手門から東上流側曲輪、高石垣が見所の御下門、登って、三の丸、二の丸中の御門跡、二の丸、本丸登城路を巡り、戻って重臣屋敷跡のガイダンス施設、桜が咲きはじめでした。
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