(お恥ずかしいところをお見せしましたが、切り替えて平常運転で…)
青春18きっぷの利用期限が迫っていることもあり、この日は電車でニッポン城めぐりのイベント「元亀争乱」のスポットをめぐりました。まずは近江高島駅構内のQRコードを読み込んで打下城をポチ制覇。打下城にはいずれ登城するつもりですが、30度を超える暑さの中、山城に登る根性はありません。とはいえ、ポチだけで帰るのもつまらないので、イベントとは無関係ながら駅を出て大溝城へ。
大溝城は、織田信長が琵琶湖水運を掌握する城郭ネットワークを形成するために甥の織田信澄に築かせた城で、信澄の義父にあたる明智光秀の縄張と伝わります。本能寺の変で信長が討たれると、光秀に従って蜂起することを恐れた織田信孝らに攻められて信澄は大坂城千貫櫓で自刃。その後、丹羽長秀、加藤光泰、生駒親正、京極高次と次々に城主が替わった末に廃城となり、部材は水口岡山城に運ばれました。
駅から二の丸推定地の病院駐車場を抜けると本丸の天守台に至る…はずが、出口を間違えて乙女ヶ池畔の遊歩道に出てしまいました。大溝城は琵琶湖の内湖である洞海(乙女ヶ池)を堀として取り込んだ水城であり、遊歩道からの眺めには往時の雰囲気が感じられました。それにしても、遊歩道は手すりなどがずいぶん老朽化しているなぁ…と思っていたら、先日のしんちゃんさんの投稿で通行止めになっていることを知りびっくり。歩いている時に崩落しなくて良かった…。
湖畔の遊歩道から北西に進むと天守台が見えてきます。野面積みの石垣を見ていると神戸(織田)信孝の神戸城天守台が思い出されました。織田氏一門で天守台の特徴が似ているんでしょうか。天守台の南西部には大溝城跡の石碑と大溝城本丸跡の説明板が2つ建てられています。説明板脇の石段から天守台に上ると、社なり祠なりがあったんでしょうか石材や手水鉢が放置されていました。天守台の北側に下りて行くと、草木や竹が茂ってはいるものの、北西隅~北辺~北東隅~東辺にかけてもしっかり石垣が確認できました。
天守台を離れて介護施設脇の小道を北に進み、車道に出たところに大溝城三の丸跡の石碑があります。三の丸跡石碑の北西すぐ、近江高島駅口交差点前の広場には「織田・京極・浅井家にまつわる大溝城」のパネルが展示されていました。また、広場から北北西に徒歩5分の勝安寺の本堂は大溝城の書院が移築されたものと伝わります。
ほとんど天守台くらいしか見どころのない城ですが、その天守台は竹木に覆われつつもなかなか見応えがありました。続いては、大溝城の三の丸跡に設けられた大溝陣屋と城下町をめぐります。
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