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カズサン

【伯耆・斎尾廃寺跡】鳥取県琴浦町 伯耆未踏の城廻り番外 (2022/06/21 訪問)

 槻下豪族館に向かう途中にやけに大きく看板が「山陰唯一の国指定特別史跡・斎尾廃寺跡」と出て居り、気に成ったので槻下豪族館、槻下神社を探訪した後、見学に立ち寄りました。
 
 槻下豪族館から南南西に約800m程、芝生畑の広い中に遺跡礎石、立て看板、案内解説板、斎尾廃寺想像図・平面図が在り、芝畑の四方に境界線を示す石柱がポツンポツンとと立って往時の広さを示し、あり日の姿を偲ばせていました。
 想像図を観てその時代の荘厳な寺院を想像夢想します、芝畑の中で大変良い景観です。
 駐車場は砂利芝状態で3台位可能、グーグルマップに史跡マークが載っています。隣の水辺公園:鳥取県東伯郡琴浦町槻下1026、100m位の東。

 案内板に由ると
 白鳳時代の古寺跡で金堂・塔・講堂の跡が比較的明瞭に残り、金堂・塔跡の基壇と礎石及び講堂跡の礎石が多数残っています。伽藍配置は南面して東に金堂、西に塔を置く法隆寺式になっています。
 出土遺物瓦には奈良県法隆寺のものと同系統である事が注目されます、仏像は塑像の仏頭・顔面・手足・螺髪などはじめ、多くの破片が出土しています。
 この様に遺構や出土遺物について文化的価値の高い事が認められ、山陰で唯一の特別史跡に指定されてる。
 国指定特別史跡「斎尾廃寺跡」昭和27年3月29日特別史跡指定。

 今まで郷里鳥取県に特別史跡斎尾廃寺跡が在る事を知りませんでした良い体験でした。

 

 

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅤ (2022/06/21 訪問)

 伯耆未踏の城廻り石井垣城を終えて山陰道を東進、東琴浦ICを降りて、駐車場が在る事を信じて槻下神社を目指す、水路の東に駐車場5台位可能。住所:鳥取県琴浦町槻下926(35°29’13"N 133°42'54"E)

 槻下豪族館は神社駐車場から北に100m弱で竹藪が見える所、国重さんが投稿されてる様に竹藪、孟宗竹が茂り倒れ内部には立ち入れない状態、案内板と案内板の横から少し内部が見えるがちょこっと覗くだけ、周囲の竹藪と、周囲の芝畑で芝じゅうたん状の畑が取り囲んでいる、槻下神社を参拝して、西の通りに立ってる標柱を写して終了。

 案内板に由ると
 鎌倉時代の豪族(武士)の館跡で、二つの方形の屋敷が残ってる。東側は、南北約40m、東西約30m、西側は四方約40mで周囲に高さ、約3mの土塁が築いてある。
 「琴浦町指定史跡、昭和49年5月1日指定」

 竹藪が伐採され景観整備されたら是非再度探訪観察したいものです。

 槻下神社社叢は琴浦町指定の天然記念物に成って居ます。

 この後は800m南西の斎尾廃寺跡を見学探訪、番外編で投稿します。

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モト

森林公園となってます (2022/06/15 訪問)

小高い山の上に本郭があり見張り台のような物がありました。
少々駐車場に困りました。
裏の畑側と逆側に入り口がありますが道は両方共狭いです。
山の下に案内板もありましたが、後続車がいた為に停車できず。
後々ネットにて内容えお確認いたしました。
曲輪跡なども残っております。

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅣ (2022/06/21 訪問)

 富長城初登城を終えて9号線、山陰道で東進、鳥取県も高速が出来て便利に成りました、中山ICを降りて、西のなかやま温泉、図書館、保育園側に向かい、大手側からの登城を試みるが、登り山道は有るが案内板指示板も無く、草も茂って居り諦めて東側の春日神社側に廻る、中山IC出口へ廻り西へ直ぐ北の林道へ杉林の薄暗く細い道、500m程進むと林道の3,4倍の広さアスファルト舗装、駐車に最適、春日神社参道第一鳥居のすぐ横です。駐車場(35°30'50"N 133°35'01"N)
 石井垣城と先に投稿した小波城は城びと未投稿でしたので最初の投稿と成ります。

 駐車場周辺は草が刈られ、春日神社境内も綺麗に清掃されて居る、案内板は神社参道鳥居の南側に在り真新しい、狛犬、鳥居を潜って石階段を登ると土塁を切った様な参道、奥に本殿、境内以外は城域なのですが杉林、草シダ類が深く茂り足を踏み入れるのに躊躇します、今回参考にした古城盛衰記さん余湖図コレクションさん俯瞰図に依ると春日神社の北側に本丸、各曲輪、堀に土塁が良く残ってる様ですが草深で良く見通せない、藪漕ぎは不安もあるし、神社境内の土塁と堀道を観て終わる事にした、秋以降春先の草が枯れて頃の登城投稿者に探訪報告はお願いしたい。
 高速ICも近く駐車場も有るので寄りやすいとは思います。

 歴史は案内板に由ると
 石井垣城は14世紀中頃の国人領主層の一人で箆津豊後守敦忠の居城であったと伝わる。石井垣城周辺は、中山と伯耆国絵図に記されてる。元弘3年(1333年)の船上山合戦に勝利した名和氏の軍勢は、幕府方で中山城に居た伯耆守護代の糟谷氏を攻めて敗走させた。石井垣城は、この中山城を箆津氏が後に城館として整備したものと推定される。
 構造は案内板に由ると
 城館規模は南北450m、東西250m、東に甲川が北流し、比高15mの断崖、西は谷と湿地、南と北は複数の堀切で区画された複郭式の城で、郭、空堀、土塁、石塁、土橋などの遺構が良好に残ってる。
 主郭部は堀と郭によって守られた北東部で、虎口が南側に在り、土橋で南側の郭群とつながっている、西側の南北に伸びる平坦面は字名を御墓ノ峯といい、その中央付近で空堀や土塁で区画された中世墓地が確認され、現在でも地表面に五輪塔や宝篋印塔が見られる。
 (以上平成30年大山町の案内板)

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todo94

県内の城めぐり2022㉜ (2022/05/28 訪問)

中野県庁の建物のちょっと前方にかなりの広さの駐車場がきれいに整備されていたので此処に車を駐め、高梨氏館跡に向かう前に、入館いたしました。説明板に井戸遺構のことが記されていたので周辺を暫く散策してみましたが見つけることは出来ませんでした。残念。

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朝田 辰兵衛

ポチと書き込みが追いついていませんが… (2022/06/13 訪問)

ポチと書き込みが追いついていませんが,大洲城で日本100名城コンプリートです。苧綿櫓と南隅櫓は少し離れているので,事前に下調べをしておくと宜しいかと思います。

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小城小次郎

絶妙なバランスと言えなくもないが (2022/01/24 訪問)

本丸の櫓台に無理やりねじ込まれた天守は、移築先とも伝わる丹波亀山城の古写真を基にしつつもかなり独特な風貌を有する。縦に長くて撮り方次第では不格好にもなるこの天守を美しく撮るのは至難だとも思う。

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にのまる

広々。 (2022/05/29 訪問)

新井城から移動しました。
地図に従い歩いたつもりが行き止まりっぽいコンクリートの壁にぶつかり、「なんでぇ~?」となったのですが、階段があったのでおそるおそる上がってみるとそこがゴールでした(‘ω’)ノ
市役所第2分館(旧三崎中学校)前の説明図を見ると、どうやら搦手口から上がったようでした。
本丸と大手の位置も示してあったのでぐるりと見渡しながらかつての姿をイメージしました。といってもいつの時代のどんなお城だったのかよくわからないままです。

大手から坂を下って光念寺へ行ってみました。光念寺は和田義盛による開基・創建とされるお寺で、石橋山の戦いの後に義盛が奉じた筌龍弁財天がありました。
三崎小学校との間の道などは堀跡の名残のような雰囲気があります。光念寺とお隣の本瑞寺も城域だったようです。

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赤い城

模擬天守は郷土資料館 (2022/06/12 訪問)

目立つ模擬天守は郷土資料館になっていますが入れる日は限られています。
ちょうど紫陽花が周りに咲いていました。
文化学習センターが建っている辺りが天神曲輪、駐車場が二の丸になります。
それぞれ石碑が立てられています。
本丸は農耕地となっていました。
遺構は道路を挟んだ反対側に土塁が残っています。
碑が立っているところが遺構で少し低くなっている部分は復元されたものらしいです。
古河公方や上杉謙信が所有した後北条氏家臣の成田氏が居城としました。
江戸時代にも残り、騎西藩の居城となりました。
遺構も少なく模擬天守は残念な感じですが地元の誇りとなっているのは感じられました。

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅢ (2022/06/21 訪問)

 小波城を終えて9号線を東進、大山町富長(富長神社)を目指す、ガイドは余湖図コレクションさん、グーグルマップ、神社入口の東に航空写真で駐車エリアを確認して目指し駐める。(35°29'59"N 133°28'36"E)

 第一鳥居横に富長城の標柱、案内板説明板は無い、第一鳥居を下がって石橋、下は自然水堀深い水路に成って居る大堀切の様です、参道石段を登り、両脇は高土塁、山門を潜って富長神社本殿、広い本曲輪と成って居る、杉林など樹木で鬱蒼としてる、土塁が南、東、西を囲ってる様子、北は日本海に崖で落ち込んで居る、鬱蒼としていて日本海側は確認して無い、開口部は東の参道虎口、西の虎口で本曲輪と西の曲輪の大堀切に続いてる、大堀切は現在通路で日本海側の漁港に通ってる、大堀切を北に降りて日本海を確認したが急崖である。
 南の通路土塁側から西を見ると畑と樹木の在る高台、西曲輪の物見台曲輪と3曲輪の様である。(余湖図コレクションさん俯瞰図に依る)

 大山町富長城跡の概説
 海岸を見下ろす標高26mの断崖に築かれた富長城は五角形状の主郭、西の2郭、堀が良好に残る単郭式の山城です。
 指定面積は14,227㎡と広大で、主郭には現在、富長神社が鎮座して居ます。元弘頃には名和氏家臣の荒松兵庫が居て、戦国時代には福頼周辺(米子市淀江町)を拠点とする、福頼左衛門尉が居城し、大永4年(1524年)に尼子の伯耆攻めで落とされたと伝えれれています。大山町史跡指定昭和57年11月19日
 大山町文化財室による。

 

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ぴーかる

升方城 (2022/05/22 訪問)

【升形山城】
<駐車場他>登城口前<36.764387, 137.417961>に2台程度駐車可能
<交通手段>車

<見所>土塁・曲輪
<感想>1泊2日富山城の旅7城目。初投稿いただきます。今シーズンは山城は終了したつもりでしたが、富山県の北東部の松倉城を中心とした城びと山城集中地帯のこの一帯がどうしても気になり攻めちゃいました(*^^)v
 現地表記の升方城は升形山城ともいい、築城年は定かではないが応永年間(1394〜1427年)に松倉城主の椎名氏によって築城され、家臣小幡九助が守った。松倉城支城群のひとつで松倉城から最北西部の山の突端に位置します。松倉城と共に城主は椎名氏家臣→上杉氏→佐々氏→前田氏と移っていったようです。
 上記ポイントに展望台、トイレ、城跡碑等があり登城口も案内がありますので簡単に登れます。登城路を登ると朽ちた冠木門らしき門の手前に曲輪と竪堀があります。朽ちた冠木門から城跡に入ります。城跡は楕円形の主郭を中心にその下段に帯曲輪、帯曲輪は北側と西側を広く削平地にしています。主郭に東屋があり南側に説明板、石積みが僅かに残る土塁上に城跡碑があります。現地説明板の縄張り図に畝状竪堀や帯曲輪に石積みの遺構がありますが、あまり手入れされていないようでかなり鬱蒼としていて全然わかりませんでした。いい遺構が
残っているようなので残念です。南の尾根道伝いに城びと未登録の南升方城に行けるようです。
 攻め終わって登城口に戻った時に地元の方々が大規模に草刈りを始められたので現在は手入れされているとは思います。

<満足度>◆◆◇

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トク

熊本城の復興状況(2022夏) (2022/06/27 訪問)

(1月2022冬)に、見事に復興した天守と、そしてまだ手付かずだった「宇土櫓」、奇跡の一本足から解体中だった「飯田丸五階櫓」についてレポートしました。あれから5カ月が経ち、今どうなっているのか? また前日(6/26)にも熊本市で震度5弱の地震があり、気になったので訪れてきました。


「宇土櫓」は、まだ全く手付かずのようで前回と同じ悲しい姿をさらしたままでした(写真①)。よく見ると、櫓の下の石垣内部深くとその横の堀の下の地質調査を行っているようでした(写真②)。どのような地質かをまず解明し、それから解体して土を補強し、石垣を積みなおしてから櫓の修理となるのでしょうか? となるとまだ相当な時間がかかりそうな・・・(今はどうなるのかよくわかりません)。これからも注視していきたいと思います。

「飯田丸五階櫓」も前回と同じ解体中のままです。詳しい事はわかりませんでしたが、全く進展は見られませんでした。(写真③)

今回ちょっと気になったのは、「扇の勾配石垣」です。細川時代の下方の隅石の部分にわずかなはらみと一部ずれと崩落が見られました(写真④⑤)。そしてその右側の部分にもはらみとずれと崩落の跡が(写真⑥)。加藤時代の部分にも若干ですがわずかなはらみとずれがありました(写真④左)。 細川時代の部分は上部が地震前より15cmほど下に沈んでいるとの事です。という事は地震により石垣に微妙なずれが起こり、そして浸み込んだ雨水やその後の数度の地震などでできたのかもしれないと思いました。 本丸御殿下の石垣にも同様に見られました。もし石垣や内部の土をこれから調査し、解体して土を補強してから石垣を積みなおして、それから上に載っている本丸御殿や櫓の再建となると・・・ とてつもなく長い時間がかかってしまうので、他に簡単ないい修復方法があればいいですが・・・ 他にもまだまだ手付かずの箇所は多数あります。(私は専門家ではないのでよくわかりませんが、これ以上にならぬ事を今は祈るだけです)。ここもこれから注視していこうと思います。

大天守・小天守はすでに再建が終わって公開されており、勇壮で華麗な姿を見せてくれているので、それだけが唯一うれしいです。(写真⑦) しかし、それ以外の部分は、まだまだこれからです。大地震からすでに5年が経ちましたが、完全復興への道のりは、とてつもなく長くなりそうだなというのが今回訪れた私の実感でした。半年後にまた見にきます。そしてこれからも応援していきたいと思います。


帰りに、お城のすぐ近くにある「くまモンスクエア」に寄り、くまモンに会ってきました。相変わらず元気なやつでした(笑)。(写真⑨)

最後に熊本駅で名物「熊本ラーメン」食べて帰りました (にんにくたっぷりの濃厚とんこつおいしかったです😊)(写真⑩)。
 

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おっちゃん

池田城跡公園案内図 (2016/03/21 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

沢良宜城跡図 (2017/09/18 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

滝川氏城跡縄張り図 (2017/12/30 訪問)

現地案内板より抜粋。

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅡ (2022/06/21 訪問)

 鳥取県西部伯耆の国に城びと登録未踏の城が5城有りましたので今回の郷里鹿野慶讃法要の後に廻る事に、前日法勝寺城は草の茂りが深く登城口まで、小波城は古城盛衰記さんのガイド案内でグーグルマップを良く確認して、カーナビに鳥取県米子市淀江町小波161-2に合わせ走行、9号線中間交差点信号を南下1km程中間集落に入り東進、山陰道ガード下手前の池の前辺りが目的地。
 車は目的地入口から手前に約200m程の三角コーナーに路駐(35°26'17"N 133°24'45"E)

 案内板、道路指示板は有りません、古城盛衰記さんの写真でここかな?と分かるくらい、東に向かった丘陵先端に築かれて居る、現在虎口は軽四轍が有り進んで行くと開けた平作地、中へは鎖が掛かり進入禁止、そこで内部の写真を撮り撤収、周りは竹ササで覆われ茂っている、東は池を挟んで山陰道が走ってる、西は丘陵続きで畑と成って居る、城域に境に樹木が茂り堀切らしさを感じるが良く分からない。

 歴史は古城盛衰記さんに依ると。
 元弘3年(1333年)名和長年は後醍醐天皇の隠岐島脱出を助け、船上山に立てこもった、隠岐国守護の佐々木清高は追撃の為小波城(小浪城)に入り、出雲国、伯耆国、因幡国の軍勢をまとめ、天皇方のこもる船上山を攻めた。
 しかし、船上山を落すことはできず、清高は再び小波城に入った。天皇方は小波城を攻め、夜半になり名和長年らは、小波城の四方八方から松明を投げ入れ、佐々木清高らを追い落とした。
 清高父子は、航路、隠岐国に逃れ、出雲国から若狭国、越前国へ落ち伸びたという。

 

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅠ (2022/06/20 訪問)

 郷里鹿野慶讃法要を1日半終了の後、山陰道(無料区間)浜村鹿野ICから米子西ICを降り国道180号線を南下、鳥取県も高速が出来東西の交通が大変便利に成りました、南部町に在る法勝寺城へはスムーズに進行しましたが、180号線1本西の町中道から法勝寺川を渡る手前の道が軽四がやっとの広さ、困り果てて近くの方に聞き小型車だとキズつけるかも?と言われ代わりの法勝寺川土手の道を教わる、ここも離合不能、対向車が来たらアウト、目的の橋を渡って山沿い麓に砂利舗装の専用駐車場が在る、拾数台は可能。

 法勝寺城は初訪問、草の茂りが深く、マダニの新聞報道を聞くと藪漕ぎもしづらく登城は断念、近くに居た方に他の登城道を聞くがここの道との事で、林業関係の方が草刈りするのですがまだの様ですねと。

 麓の案内板、城名石碑、山中鹿之助に攻められ自刃したと言われる毛利本紹と主従の墓がある。案内板石碑の裏が大堀切の様である。
 歴史は投稿写真の案内板、案内石碑をお読みください。

 登城は草が刈られた時期、晩秋、桜の頃が宜しいのではと思います。

 案内ガイドは古城盛衰記さん余湖図コレクションさんを参考にしました。

 

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にのまる

三浦一族終焉の地 (2022/05/29 訪問)

「道寸祭り」に合わせて午前10時~正午の2時間限定で実施された東京大学臨海実験所内の城址一般公開に行ってきました。
先に海岸に向かい、途中、外からロープ越しに堀跡を確認。道寸祭りの会場で「鎌倉殿」のパンフレットなどを大量にいただきました。
その後一般公開会場に向かうと既に長蛇の列。主催者の予想も超えていたようです。石神井城(東京都)の一般公開のように城址を自由に見られるのかと思っていたのですがそうではなくて、10人ずつのグループで10分程度、解説付きの見学でした。外から見た空堀を内側から見せていただき、立ち入り禁止の理由やそのメリット、今後の展望などのお話を伺いました。そのほかの遺構についてはギリギリのラインから覗き込むにとどまりましたが研究会の方のお話を実際に聞きつつ質問させていただく機会を得られ、貴重な体験となりました。秘蔵の肖像画も見せていただけました。
その後、マリンパーク駐車場奥の城址碑、三浦義意公、道寸公の供養墓に行き、天然の要害感のある海岸におりてみました。
日差しの強い日ではありましたが、久々の青い海に青い空、気持ちよかったです。

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モト

祠と城址の碑 (2022/06/20 訪問)

全国にいくつかある小谷城ですが、ココは「こや」と読みます。
城跡には祠と碑が建ってました。
案内板もあります。
案内板だけでもあると大まかな概要もわかるのと城跡に来たんだなと思えて幸せです。
特別な遺構は残っていないようです。

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赤い城

天神曲輪に天満宮が建つ (2022/06/12 訪問)

羽生駅から徒歩で20分。
古城天満宮に石碑と説明板が立っています。
この日は車だったのですが天満宮前に短時間ならば駐車は問題ありません。
この天満宮は古城天満宮と呼ばれ、天神曲輪があった跡地です。
主郭部などはここから西に広がりますが住宅地や企業の敷地で遺構はありません。
この辺り、もともとは沼沢に囲まれた要害だったようです。
古河公方家臣の広田氏が築いたとのこと。
上杉氏と北条氏の間で争奪戦が繰り返された城です。
雰囲気を感じるのも難しいですね。

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