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朝田 辰兵衛

安居城(富山県南砺市) (2023/10/08 訪問)

【やすい じょう】ちょうど1年前に,福井県の安居(あご)城を登城しました。福井と富山のW安居城で,「しりとり」では赤穂城アプローチ手札。ようやく攻城することができました…。提案はにのまるさんで,攻城は雨の中をtodo94さんが…。ほぼ命がけだったように思えました。あらためて感謝申し上げます(富山弁では感謝の言葉を「きのどくな」と言います)。
JR福野駅から,約4km。平日だと,1日2往復しかないバスに片道をまかせることも可能。その際,安居南口バス停が有効です。
todo94さんは,パネルのワキから攻城されたのでしょうか…?
私は,JR福野駅から往復徒歩で攻めました。登城口はパネルから約100m先あたりに登れそうなところを見つけたので,そこから攻めました。粘土質の土壌がところどころむき出しになっており,とくに下山時には注意かな…と思いました。が,約15分くらいで城域に入りました。
とにかくヤブで,写真を撮ってもさっぱりわからないくらいです。おそらく主郭単郭と思われます。切岸と堀切はかろうじてわかるものと期待します。

時系列では飛んでおりますが,久々の「しりとり攻城」ということで速報いたします。

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しんちゃん

伊達政宗陣跡 九鬼嘉隆陣跡   佐賀県唐津市  (2020/10/03 訪問)

伊達政宗陣跡 佐賀県唐津市呼子町殿ノ浦
 伊達政宗陣跡は文禄の役の際に築かれ国道204号線沿いの北側に築かれ土塁が残っています。
 石垣も見受けられますが後世の遺構かどうかは不明です。
九鬼嘉隆陣跡 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
 九鬼嘉隆陣跡は波戸岬地区の標高33.4mの丘陵上に築かれ曲輪や切岸が残ります。文禄・慶長の役
 では水軍の中心として15000人で参陣したと案内板に書かれています。大安宅舟「日本丸」以下50船
 あまりの船団で朝鮮に渡海し、安骨浦(アンコルポ)海鮮や熊川(ウンチョン)沖で李舜臣の水軍と
 戦ったとあります。嘉隆は慶長2年(1597)家督を守孝に譲り慶長の役には参陣しなかった
 とのことです。

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じゅんじん

お犬様登場 (2023/09/23 訪問)

城址碑の前に飼い犬がいますが人懐こかった。

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じゅんじん

甲府城 (2023/09/23 訪問)

城門や櫓が復元されています。信玄公や信虎公もごあいさつ。

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AJ

有事の門 (2023/10/05 訪問)

箕輪や館林、大多喜などに徳川四天王が配されたという事実は今日関東で暮らしている人たちにとっても、さほど強く印象付けられてはいないかもしれません。一方、城持ちにはなれなかったにもかかわらず、数百年経ってなお、東京のど真ん中でその名を轟かす御仁がいます。

写真は江戸城・半蔵門。定説によれば、服部家当主の世襲名を冠しています。そして有事の際、将軍はここから甲府城へ避難する段取りだったといいます。そう考えると、甲州道中の真の起点は日本橋ではなく、この江戸城西門ということになるでしょうか。

もちろん、そもそも五街道の旅の初日を日本橋で迎えようとしたのはよほどの物好きだけだったらしく、多くの人は品川、内藤新宿、千住あたりで盛大に飲み明かしてから送り送られしたとの指摘もあるでしょう。

甲州道中の防衛体制はトップシークレット。参勤交代での使用も譜代三藩に限るという徹底ぶりだったそうです。さらに、現在の東京都新宿区周辺の旧道中沿いには甲賀、伊賀、根来などの鉄砲精鋭部隊が配置されました。

このうちJR新大久保駅を含む「百人町」は伊賀百人組の屋敷があったことに由来。甲府城を目指す将軍は彼ら“特殊部隊”の護衛で西へ向かう計画だったわけですね。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/30 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/30 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/29 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/29 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/28 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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トベシュン

近江城巡り (2023/09/28 訪問)

近江城巡り 小谷城址、彦根城、安土城址、観音寺城址、長浜城址、佐和山城址、龍胆寺を巡りました。

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駿府城

駿府城跡清水御門北側地点の発掘調査が始まりました!

駿府城跡天守台の野外展示の設計を進めるにあたり、未調査エリアの発掘調査を実施しています。実施調査期間は、3ヶ月程度を予定しています。
発掘調査が始まった当日の様子を少しですがお届けします!
 
まず発掘作業を行うエリアは重機が入れないため、ツルハシやスコップなどを使い人力で掘削していきます。重労働ですが丁寧に協力しながら作業を進めています。

今後の発掘調査の様子や最新情報はこちらの発掘情報館きゃっしる【別館】(http://www.shizuoka-bunkazai.jp/castle-info/)で随時更新しますので、ぜひチェックしてください!

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周辺の展示施設①立場上呼び捨てしづらい「信玄ミュージアム」 (2023/10/28 訪問)

こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

当隊は、躑躅ヶ崎館跡こと史跡武田氏館跡のボランティアガイドを行う甲冑ガイド集団です。
現在は武田神社がみそなわす当地において活動をしていますが、
この「城びと」を借りて活動案内、史跡の解説を行ってます。

今回は、躑躅ヶ崎館跡内外に建ち、武田家への理解をいっそう深めてくれる展示施設
「信玄公ミュージアム」こと「信玄ミュージアム」こと「甲府市武田氏館跡歴史館」を紹介します。

甲府駅から武田通りを北へ進んだつきあたり、武田神社を目の前にした角地、
もとは穴山梅雪の館跡といわれる跡地に建っている、
建物の正式名称は、甲府市武田氏館跡歴史館。
正しい略称は、信玄ミュージアム。
信玄公を敬う立場上、間違ってるのを百も承知で呼んでいるのが、信玄公ミュージアム。
この3つの呼名をその場その場で使い分けてます。

甲府市のサイトでは「国史跡武田氏館跡に関わる歴史や史跡の見どころを紹介する施設」と紹介されるとおり
信玄公を中心とする武田氏の歴史にまつわる展示をしています。

場内は無料スペースと有料スペースに区分されています。
エントランスを入った先の常設展示室(無料スペース)では、
こだわりで作り込まれたパネル展示などによって、武田の歴史を知ることができます。
奥の別棟の特別展示室(有料スペース)は出土品の展示や映像上映のほか、さまざまな企画展が行われ、
よりディープな学びやマニアックな品々を目にすることができます。
また、うどん・そばなどの軽食スペースや和の趣き豊かな木造家屋群が併設されています。

当隊では武田神社歴史案内活動の際に、ご要望あればミュージアムの案内を承ってますので
ご希望があれば声をおかけください。

ミュージアムの詳細や開催中の企画展情報は、甲府市サイトの紹介ページを御覧ください。
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/kofu-takedashirekishikan.html

また、スタッフブログも好評運営中です。
https://blog.goo.ne.jp/rekishibk

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三浦の晃ちゃん

朝市 (2023/10/08 訪問)

門前が、日本3大朝市の会場に、なっています。始まる前に行きました。

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三浦の晃ちゃん

金森長近 (2023/10/08 訪問)

高山陣屋のすぐ近くに、あります。織田信長や豊臣秀吉に、使えた、金森長近の居城です。江戸時代の半ばに、破却されたようです。二の丸には、銅像があります。本丸の石垣は、推定復元を、されたもののようです。紅葉が、始まっていました。

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三浦の晃ちゃん

藤橋城 (2023/10/09 訪問)

徳山ダムへの道を走っていると、突然、現れました。内部は、プラネタリウムに、なっているようです。模擬天守だと、思います。

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にのまる

その5 (2023/09/20 訪問)

①三之丸干潟門
テニスコート(品川リフラ赤穂市民総合体育館及び赤穂城南緑地運動施設内)の横の狭い通路のところでした。通っていいのか少し不安でしたが、新しい標柱もあり大丈夫でした。工事中のため閉鎖されていましたが、完成すると二之丸庭園の西中門へアクセスできそうな感じです。

②西中門
干潟門の外から二之丸庭園の西中門を遠目に見たところです。

③花見広場と二之丸庭園の間の土塀
干潟門の近くから見えた謎の土塀の断片の正体を確認。

④↑を二之丸庭園側から。二之丸庭園は本丸方面の土塀にはさすがに狭間はなかったです。

⑤西南櫓台
眼鏡橋になっているところが干潟門です。水堀がここで消えてしまいました。

⑥やっと本丸門に来ました。
⑦突然の大雨です。
⑧小降りになった隙に天守台に上がりました。
⑨本丸庭園、刎橋門、南横矢枡形を天守台から。
⑩厩口門を天守台から。


本丸に入ったところで想定外の雨のため最後は満足に見られずに終わってしまいました。
2時間半くらい歩いてざっくり縄張りは掴めたかなぁという感じです。
じっくりと味わいにまた行きたいです。
<おわり>

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しんちゃん

太閤の 野望潰えし 破城跡 (2020/01/03 訪問)

名護屋城は東松浦半島の北端に豊臣秀吉が築き、文禄・慶長の役の拠点となった城です。
玄界灘に面して大量の船が入港できることからこの地が選ばれたようです。ちょうど今、
大河ドラマで朝鮮出兵のあたりをやっていて、現地を訪れる人も増えているのではないでしょうか。
本丸の北西部に天守台が築かれ玄界灘を見渡すことができます。本丸の東に三の丸が配され
大手がそこに続いています。二の丸は本丸の西にあり、その南に弾正丸が配され南西に搦め手口が
付いています。他にもいくつか入口はありますが本丸までの通路は複雑に折れ曲がり容易には
侵入できないようになっているようです。秀吉の明への進出は諸説あるようですが、アジア各地に
植民地を広げ始めたスペインなどに対抗する意図があったという説もあります。明治時代以降の
大日本帝国の陸軍もほぼ同じことをしていますが、西洋に侵略される前に先に勢力下に
置いてしまおうと考えたのでしょうか? なんにせよ日本の国力では無理があるのでは‥
と思います。

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赤い城

金森御坊 (2023/09/30 訪問)

金森御坊が建つ場所の周辺が城趾です。
生活道路沿いにあり狭い道を入って行きます。
訪問したのが早朝だったこともあり門は閉まっていました。
境内には重要文化財でもある懸所宝塔があり、外から見上げることができます。
周辺を歩いてみましたが遺構らしいものは無いようです。
裏側に水路はありましたが堀跡かどうかは?
少し離れたところに石碑と説明板があります。
この辺りが主郭だったのでしょうかね。
この日はあの城アプリのイベントで日帰り琵琶湖一周、ほぼ駆け足での訪問でした。

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ぴーかる

伊自良氏館 (2023/08/19 訪問)

【伊自良氏館】
<駐車場他>周辺のどこでも駐車できます。
<交通手段>車

<感想>越前ちょこ城巡りの旅10城目。詳細はよくわかりません。南北朝時代に南朝方の伊自良氏の館があったそうです。先達方の投稿にあるように現在も資料館は閉鎖されています。奥の復元館は現在は食堂になっています。一乗谷の復元武家屋敷や街並みを造った建設会社が平成にこの復元館を造ったそうです。外観はよくできています。資料館の向かって右奥に土塁がありますがこれがその遺構でしょうか。

<満足度>◆◇◇

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