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ぴーかる

竹中城 (2024/12/23 訪問)

【竹中城】
<駐車場他>駐車場はなし。新治運動場前の道路脇<34.924742, 136.161676>に停めました。
<交通手段>車

<見所>土塁・横堀
<感想>現地説明板によると竹中城は文献資料に登場せず、築城者や築城時期がわかっていません。国史跡である甲賀郡中惣遺跡群の1つです。2019年に新宮城・新宮支城を訪城する際にプランに入れようかと調べましたが当時は竹藪で入れる状態にないとの先達の方の投稿で断念し、近年整備がなされている事なので訪れました。
 城跡へは十字路<34.925772, 136.159968>に案内があります。十字路の西に民家に入る道を進んで行くと南側から入る通路と城跡説明板があります。城跡は典型的な甲賀郡中惣城郭群の特徴である単郭方形の四方高土塁の城で南側に虎口を設けています。北側と西側に横堀を設けています。主郭内部の竹林は綺麗に整備され伐採した竹で竹細工が所々に置いてあり可愛いかったですが、伐採した竹を大量に横堀に落としてあって少し惜しかったです。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

朝霧が出て幻想的な光景が広がっている。 (2013/09/21 訪問)

ちょっぴり写真が古いですが竹田城の投稿です。‥すみません10年以上前です。このころから竹田城はかなりの人気でした。なにせ朝5時から登り始めて到着が6時くらいなのにこの人だかりです。今はもっと人が多いのでしょうね。
まだ比較的おおらかな時代で高石垣のへりに人がいっぱい立っています。もちろんロープなんか無いし、通行の規制も全くないです。
今では考えられないですね。この日は曇りでしたが朝霧がいい感じに出てくれて、実に幻想的な気分でした。本当に素晴らしい城です。

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POYO58

スカーレットのロケ地のようです… (2024/02/10 訪問)

三雲城紹介の前に、坂本城すごいことになってますね!僕も今朝WEBニュースで見ました。愛知県に住んでるので遠くてなかなか行けないのですがマジで早く行きたいです!特に本丸石垣が水に沈む前に行きたいのですが…。大津に行く目処も立っていないのでたぶん見れませんな😭いつまで出ていてくれるのでしょうか?
ってかそれより三の丸の現地説明会マジで行きたかったです!明智光秀大ファンなのでほんとに行きたかった😱しんちゃんさん、キンヤさんの投稿を見てるとやっぱり明智光秀の築城技術の素晴らしさに心打たれますね〜。坂本城も国指定史跡になれんじゃね?って思っちゃいました。三の丸遺構はこれからも見れるのでしょうか?おそらく大津にはしばらく行けないので、これからの三の丸遺構の公開について最新情報を寄せていただけるとありがたいです。マジで坂本城行きたい!

まあということで三雲城の続きです。主郭の探訪後さらに上へと進み、城郭IIを目指します。でも思うのが主郭が山頂ではなく山中にあって、なんで山頂に郭があるのかちょっと不思議です。
郭Ⅱに着くと比較的狭い広場となっており、眺めが最高です♪(写真②)2019年の朝ドラ「スカーレット」で戸田恵梨香さんがここにロケしに来たそうです。山城がロケ地って珍しい気がする🤔
郭Ⅱの東隅に石垣が残っています。(写真①②)これも結構大きいです。
郭Ⅱを終えて、郭Ⅲにいく途中土橋らしきものがありましたが、パンフレットにないので多分違うと思って普通に通り過ぎました。郭Ⅲも小さい曲輪になっていて南側の景色を見ることができます。(写真⑤)
郭Ⅲを終えて最後郭Ⅳに向かいますが、郭Ⅱと郭Ⅳ間に堀切があります。(写真⑥)横から撮ったのですが、堀切とはわかりづらかったので城郭IIから真上から撮りました。でもこっちもわかりづらかったです。
堀切に沿って歩くと郭Ⅳに到達します。(写真⑦)曲輪が広がっているだけで目立った遺構はなかったです。
その後は元来た道を下って、大手道を通っていくと、近代の石積みがたくさんありましたが、近世前期のものではないので今回は投稿しません。大手道を通ると郭Ⅴが見えます。(写真⑧)もともと兵站地だったそうです。兵站地は馬の背道にもあり、合計で 2ヶ所存在します。大手道はおそらく当時敵が通る道だったと考えられるので戦の際は馬の背道の兵站地に兵糧を貯蓄していたっぽいですね。

城址の説明は終了ですが、猿飛佐助の修行場である巨石群の紹介もさせてください! 続く

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う~ちゃんママ

江戸城行きました。 (2024/02/12 訪問)

晴天で2月なのに暑いくらいでした。

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キンヤ

三ノ丸の石垣や堀が発見された発掘調査現地説明会 (2024/02/11 訪問)

明智光秀が築いた「幻の城」とも呼ばれる坂本城で、三ノ丸の堀と推定される石垣などが発見され、発掘調査現地説明会2日目に行って来ました。
予想以上の多くの方が来られており整理券配布所は凄い行列でしたが、何とか整理券を獲得できました。

全長約30m・高さ約1mの石垣などが検出されており、近くで見ることができ興奮しました。
思っていたより綺麗な状態で、地中に埋まっていたとは驚きました。
その他、井戸、礎石、オール状木製品、瓦、土器類など見ることもできました。
坂本城の姿形の記録はほぼなく、市街化され、これまで遺構としては琵琶湖中に本丸石垣が僅かに残るだけですし、今回の発掘調査結果は凄い発見で大変貴重な遺構だと思います。
今回は宅地造成工事に伴う調査のため埋め戻される予定のようですが、発掘調査された方々の希望としては保存して残したいようですし、私も埋め戻さず何とか残して頂きたいと思います。

ご参考までに以下、大津市文化財保護課の岡田さんの説明の覚え書きに配布資料から補い私なりに纏めたものです。
「宅地造成の道路部分を発掘調査したら奇跡的に一直線の石垣と堀が見つかった。
石材は花崗岩が使われていて比叡山の産出と考えられ、殆ど加工していない野面積みで、一部は五輪塔などの転用石も使われている。石垣の下に地盤沈下を防ぐ胴木はない。裏込石の幅は狭いため、それ程高い石垣ではなかったと思われる。今の石垣の高さは約1mだが堀の中に石が落ちており、本来はあと数段の石が積んであった可能性がある。
堀の中は泥の土であったため、当時は水堀であったと考えられる。堀は幅8mが出土しているが、発掘調査をしていない西側の水路まで堀があった可能性があり幅12m位あったのではないか。
北側の石積み遺構は、東西方向に石積みがあり入りくんだ船入だった可能性がある。こちらには一部に胴木がある。
北側には礎石を持つ建物跡が見つかった。
土器などの遺物は16世紀後半のものであり、織豊期の城の特長の石垣・礎石建物・瓦が出土しているため、今回の遺構は坂本城と考えている。
今回の調査地西側の過去の調査では、城跡ではなく職人の町屋跡が見つかっており、今回の調査地が城の西の外側であるため、三ノ丸と考えている。」

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チェブ

正法寺町と大仏町。 (2024/01/03 訪問)

「長森城」を後にし、「川手城」へ転戦しました。
美濃国守護の土岐氏も、「長森城」が手狭になった為に「川手城」を築城し移りました。

『正法寺町33』と「川手城」の所在地を入力した時は、御寺さんが城跡だと思いましたが、済美高校の敷地内に到着しました。
道路がアスファルトと違っていて石畳(?)。躊躇しましたが、他の車も通行していたので「川手城」の石碑がある小さな公園の前に路駐して写真をパチッ。退陣です。
近くに「加納城」があります。
徳川さんの世になると「川手城」の土塁を「加納城」に使ったんだとか。
遺構はありません。

住所の『正法寺』が気になり、どこにあるか調べてみたら、「岐阜城」のお膝元、大仏町にありました。
『正法寺』には大仏様がいらっしゃいます。で、大仏町かー。

土岐氏の足取りと同じように、大仏様の足取りも気になる「川手城」攻めでした。

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イオ

堀の森 (2023/12/16 訪問)

築城時期は諸説ありますが戦国期に細川氏が築いた城で、江口の戦いの前哨戦では細川晴賢が籠る堀城を三好長慶方が攻め落として榎並城攻略の拠点としています。三好長慶の没後には細川藤賢が入って改修し、野田城・福島城の戦いでは織田信長方の拠点として足利義昭が布陣しました。信長と義昭が対立すると義昭方につき、義昭が追放されるとやがて開城して廃城となったと考えられます。

阪急・十三駅から登城開始。市街化と河川改修により遺構が消滅しているばかりか推定地も明らかではありませんが、武田薬品工業大阪工場から十三公園にかけてにあったものとされ、武田薬品大阪体育館脇の門に堀城跡伝承地の説明パネルが掲示されています。廃城後も城周辺の樹木は「堀の森」と呼ばれ、十三公園の巨木はその名残だそうですが、どれがその巨木なのかはよくわかりませんでした。また、堀の森にあったという鏡ヶ池ゆかりの平和地蔵尊が東横INN大阪阪急十三駅西口1の前に祀られています。城とは直接関係ありませんが、堀城の名が窺える数少ない史跡なので、ついでに訪れてみました。
 

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前ちゃん

大分遠征① (2024/02/11 訪問)

3連休だできたので、何処かに行きたい!ということで、3日前に大分に決定。新大阪始発だったので、春節ということもあって、小倉ー佐伯間(8時34分発、にちりんシーガイア5号)の特急(自由席)に座れるか心配だったが無事着席(就寝)。


佐伯到着後、白壁の道経由を散策しながら歴史資料館を目指す。荷物を資料館のロッカーに預け、登城。行きは比較的緩やかな独歩の道で、下山は登城の道。

日曜祝日ということもあって、昼食処の散策に困難。佐伯駅近くの番匠亭で海鮮丼を食べ、宿泊先の大分へ

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トク

92【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (佐土原城②-天昌寺(家久豊久墓所)) (2023/11/04 訪問)

(25人目)島津豊久の続き⑤です。鶴松館・いろは館から南へ300m程行った佐土原中学校の横から奥に入った場所に、島津家久・豊久の墓所があるので先にちょっと見てきました。

ここには佐土原島津家の菩提寺である天昌寺がありました。しかし、明治政府に反旗を翻した島津家に関わりのある寺は、全て政府により破壊されたためここも例外ではなく、今では墓石のみがひっそりと残っている状態でした。

入口には説明板がありました(写真①)。その入口にはなぜか?山羊がいました(写真②)。そこから細い道を100m程行くと墓地があります(写真④⑤)。関ケ原で豊久とともに壮絶な討死をした家臣たちの墓もありました。豊久も家臣からずいぶんと慕われていたようです。でも全く人目につかないような、このような奥まった場所にひっそりとあったので、なぜか少し悲しい感じがしました。

次は、豊久の居城(佐土原城)に、鶴松館の横から登ります。
 

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しんちゃん

やべぇぜ (2024/02/10 訪問)

行ってきました。坂本城三の丸説明会‥大変でした。10日の説明会、地元の方は午前10時30分よりで一般の人は午後からでした。
11時から整理券を配布なのですが10時にはもうかなりの行列が。やばいもう300人くらいいるんじゃないか?と思ったら案内の人が今160人くらいですよと教えてくれたので、じゃあ二巡目かなと思ったらなんと一巡目に入りました。あと一時間、移動で30分として食事の時間が30分くらいあるかな‥と思ったのが間違いの元。地元定食屋の調理場が吹いて結局5分ほど遅刻しました。(ごめんなさい)
TVで見覚えのある人が説明をしてくれています。職員さんにあの人は「やべーさん」ですか?と聞いたら笑いながら「そうですよ」と言ってました。ちなみに「やべーさん」には大津市文化財保護課の岡田さんという名前がちゃんとあります。(あたりまえ)
実に解りやすい説明で非常に好感がもてます。皆さんの質問にもすごく的確に答えてくれてます。しかしどこを写しても入ってしまうんですね‥岡田さんが。岡田さんにSNSに写っても大丈夫ですか?と聞いたら「自分は公共ツールみたいなものなので大丈夫です」とお答えを頂きました。公共ツール‥人の顔でそれは初めて聞きました。では遠慮なく!
石材は花崗岩で全体的に色は白いですが延暦寺の花崗岩にも同じようなものがあるようです。産地の特性もあるのですね。井戸跡も発見されていて、見学者から見て向かって左手の端(北側)が船着き場のようです。石垣はそれほど高くありませんが本能寺の変の後、合戦に供えて石垣を改修した可能性もあるようですね。石垣のこちら側は外堀になりますが幅は約12m程度とみられ外部の畑地との境界線の側溝あたりまでが堀の幅に当たるようです。我々はかつての堀跡で説明を受けていたわけですね。
おそらく城びとの方も説明会に参加されていたのではないかと思います。皆様の投稿も楽しみにしております。

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T-Shionoya

山城シンポジウム「江濃境目の城」 (2024/02/11 訪問)

本日は関ヶ原で山城シンポジウム「江濃境目の城」を聴講。

冒頭に中井先生から坂本城で三ノ丸石垣が発見された話を聞きビックリ。
本題も大変勉強になりました。

<印象に残った内容>
・竹中半兵衛の?菩提山城
・越前由来と考えられる土塁の苅安城(上平寺城)&弥高寺跡
・根太を用いた陣城の作事
・ただの陣城ではない松尾山城
・土の城のイメージの小谷城が、実は石垣の城

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POYO58

令和6年初登城! (2024/02/10 訪問)

新年初登城が 2月となってしまいました。全然お城行けませんでした。まあでも行けてよかったです。テストがもう近いので…
三雲城に行ってきました!三雲城は佐々木六角氏のお城だそうです。織田信長との戦いで負けたあとこの城に逃れたそうですが、その 2年後に落城しました。またアニメにもなった猿飛佐助がここで修行をしていたそうです。
三雲城は見るところが主に二つあり一つはもちろん城址なのですが、もう一つが落ちそうで落ちない岩です。まあいわゆるパワースポット。ここにはよく受験生が来てお参りをするそうです。
僕は今回三雲城を巨石群→城址の順に行きました。巨石群(落ちそうで落ちない岩)の投稿は後ほど
巨石群から馬の背道という道を通って城址に向かいました。馬の背道には土塁が残っています。(写真⑧)
馬の背道を通ると主郭北の石垣が高ーいところに見えます。(写真⑥)結構石が大きいですね。またこの城は採石場があったようで、今も石が転がっています。おそらく石垣の石は本城のものを使っているのでしょう。
階段を登っていくとこの城1番の見どころである枡形虎口が見えてきます。(写真①)虎口の石垣には石切矢穴列跡が残っています。(写真③④)近世前期の矢穴跡が見れるのはこの辺の城だそうです。
枡形虎口を通ると城郭Iに入ります。そこには井戸があり、穴太積の石垣でできています、山城で石垣造りの井戸を見たのは初めてです。(写真⑦)
また土塁も残っており(写真⑨)、その裏には竪堀群が見えるのですが、草だらけで全然見えませんでした泣。おそらく冬でも見られないのでこれは誰も見れないんじゃないんでしょうか?

さて次は城郭IIに行きます。 続く

評価★★★☆☆
100名城じゃないが、遺構の保存状態は素晴らしい。しかし、遺構の見ずらいところや道がはっきりしない場所もちらほらある。

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カズサン

【遠江・小国神社】静岡県周智郡森町 家康公の立ち上がり石周辺整備なる (2024/02/11 訪問)

 小国神社の二の鳥居手前の左側に家康公の立ち上がり石が在ります、以前は葉の厚い常緑樹に覆われて案内板、立ち上がっり石も見えにくい状態でしたが、【どうする家康】大河ドラマ効果なのか常緑樹前に立看板2枚が整い【家康公の立ち上がり石】と大変目に付くようになっていました。
 訪問当日は建国記念の日で建国祭が執り行われていました、皇紀2684年に当たる紀元節、また陰暦では正月2日の初詣と建国祭参拝を駐車場までの渋滞が発生する前に致しました、新暦の大渋滞程では有りませんが帰る頃は500m程の渋滞が発生して居ました。

 住所:静岡県周智郡森町一宮3956-1
 駐車場:小国神社周辺に無料駐車場が有ります。

 家康公の立ち上がり石の前にはスマホの撮影ポイントスタンドが設置されて便利になって居ました、説明板も写真投稿しますので拡大してお読みください。2年前の2022年12月10日に家康の立ち上がり石で投稿しています。
 小国神社は祭神大国主命で遠江一宮であります。
 
 

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石垣で見るお城写真展 (2024/02/11 訪問)

 昨年6月に登城したのですが、小牧山歴史館(天守閣)で「石垣で見るお城写真展」が開催されているとのことで近くへ来たので寄ってきました。公園として整備されていて連休の日曜日ということもあり多く方が散策を楽しんでみえました。
 主郭付近では石垣復元を主とした史跡整備工事を令和3年度より実施されています。工事は令和7年度末完了を予定しているとのことです。
 縄張り図を見ていると南から西側にかけて曲輪が展開しています。実際に歩いてみると曲輪跡と思われる削平地が複数あり土塁と思われる地形もありました。

 前と同じように小牧市巡回バス「こまくる」を利用しました。名鉄小牧駅から乗り小牧山前バス停下車。1日200円(2024年2月11日現在)です。

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いのさん

特別公開 西小天守 (2024/02/09 訪問)

毎年恒例の冬期閑散期の特別公開。今回は西小天守初公開ということで、姫路城に行ってきました。まずは、毎回恒例のイーグレ姫路の屋上へ。屋上の展望台から城全体を眺め、その広大さを実感しました。城内は閑散期とはいえ、さすがに世界遺産。外国語が飛び交い、相変わらずの結構な人出。天候晴れで外はまあまあ、暖かかったですが、天守内は吹きさらしのため、防寒対策、特に足下の防寒対策は必須でした。西小天守3階は手狭の感があり、10人も入るとほぼ一杯の感じで、人が入らないように室内を撮影するのはなかなか難しいです。今後も腹切丸やその他非公開部分の公開をお願いしたいです。

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くんちゃん

和歌山城 (2024/02/09 訪問)

梅の花がほのかに咲いていました

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にのまる

8郭探索 (2023/12/01 訪問)

はじめに「史跡根城の広場」に隣接する八戸市博物館へ。古代から近代にいたる八戸の歴史がさまざまな資料展示によって紹介されており、たくさんの生きた史料に触れることができました。根城の歴史も学んで探索スタートです。

八戸城東門の移築と伝わる門が「根城の広場」への入口になります。訪問時はピカピカの銅板葺きと新しい板塀にお色直し中でした。雪国は工事可能な期間も限られているでしょうし、見えない苦労も多いことだろうと思います。門を通れなかったことは残念なことではなく、歴史遺産を未来へつなぐ大切な場面にめぐり合わせたことを記憶しておきたいと思いました。

2回目の訪問となる今回は8つの郭をすべて歩きます。東構を少し歩いたあと三番堀へ向かいました。
三番堀は国道の向こう側の大きな堀で、住宅地となっている岡前館をぐるりと囲んでいます。堀に沿って歩いてみると見通しはいいのですが幅の広さが住宅地への侵攻を心理的にも阻み、このまま外周を歩き続けるしかないな、という気持ちにさせられました。

続いて沢里館に上がってみました。
こんなにかっこいい堀が隠れていたなんて!と思わず感嘆の声をあげてしまう曲線美。
幸い埋もれるほどの雪ではなかったので、地面を足で踏みしめ景色を目に焼きつけ思いっきり空気を吸い込んできました。岡前館へ抜ける堀底道から見上げる壁も、これは引き下がるしかないなぁという高さでした。
郭内に見える建物は「奥州南部糠部三十三番観音十二番札所」。利用しませんでしたが北側に石段があります。

「根城の広場」に向かいつつ通った岡前館は堀跡の一部が道路として利用されているように見え、国道側に「岡前阯」の碑も見つけました。

南側を一周して戻ってきた「根城の広場」。
東善寺館、中館は何気なく歩いているところも大発見による通路遺構だと思うと感慨深く、“裏側”から見上げる郭も惚れ惚れする高さで、自然と人間のコラボレーションによる屋外展示の傑作を鑑賞しているような気持ちになってきました。

そしてやっと本丸です。
はるばるここまでやってきたので、入れる建物内は片っ端から入ります。いろいろな仕掛けや興味をひかれるものがあって楽しかったです。建造物だけでなく、西門あたりから見下ろす土塁や堀跡もすてきでした。

このあたりでそろそろ終了かなとバス停に向かったのですが、本丸西側の堀や西の沢を素通りすることができずに寄り道を。するとそこにはまるで城旅の最後の贈り物のようなすてきな景観が広がっていました。その中を歩けることがまた楽しくて。西門があんなところに見える!とか、ここはあそこに繋がっているんだ!とか、最後までワクワクしっぱなしの楽しい時間が過ごせました。

15時過ぎに八戸駅でやっとせんべい汁ランチをいただくことができました。
(写真を撮ったはずなのですが消してしまったみたいで見あたらないです🥲)
おみやげにと何気なく買った“せんべいの耳”もドストライク。レンチンしてカリカリにしてもおいしかったです。

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カズサン

千貫櫓台・南御多門東脇櫓台修復なる (2024/02/10 訪問)

 令和3年5月の大雨で以前より孕んでいた千貫櫓台の石垣が崩れて、また以前より孕んでいた南御多門東脇櫓台も合わせて、発掘調査の上、修復復元されました。
 昨年の11月5日に発掘調査現地説明会が有ったのですが都合で伺えず、早く訪ねたいと思いながら本日天気も穏やかでスギ花粉の飛翔も少なく日帰りで往復90km程の吉田城へ山道国道362号線経由で探訪観察へ出かけました。

 駐車場:三の丸美術博物館南東駐車場利用(有料500円/回)

 駐車場より三の丸、二の丸を通り本丸南から冠木門跡、本丸南土橋より千貫櫓台、南御多門・東脇櫓台を南側より、門枡形より、本丸内の裏側からと見学観察させて頂きました、本日は大勢の方で賑わっていました、如何も吉田城を廻るウオーキングが有った様で夫婦連れの方々が多いように見受けられました。
 奇麗に修復なった石垣を堪能しました。修復は北御門、腰曲輪東角に修復箇所の縄張されて居り令和7年まで続くようです。

 この後は鉄櫓登閣、本丸内部、北御門、裏御門、金柑丸、二の丸、三の丸各土塁、豊川側に降りて、川手櫓台、腰曲輪、本丸堀西と東、二の丸堀豊川側の確認、水門確認、総堀の大手門跡確認、大手門跡傍の五月寿司店で握り寿司を頂く、三の丸大手門・18連隊正門の鏡石の確認、二の丸口門跡確認、二の丸御殿跡確認、、金柑丸に立つ神武天皇像参拝、二の丸土塁・虎口、三の丸東の川毛口門跡、豊橋刑務支所東面残滓の総堀土塁探訪観察、豊川北側のグラウンドゴルフ場側で鉄櫓を観察撮影で約3時間超廻りました、写真は各篇に分けて以降投稿させて頂きます。
 

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10Q-Nobu

備前掘を深堀り (2024/02/10 訪問)

熊本城で城内の水堀、備前掘が水を抜いて修復工事前に一般公開が行われました。この機を逃すと水堀の底に降りる機会は無いと思い参加しました。
担当の方の話では、某池の水を抜いてみる番組からオファーがあったらしいが、予定が合わず見送られたらしいです。

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イオ

河川改修の影響 (2023/12/16 訪問)

戦国後期までに十河一存が築いたと伝わりますが、詳細は不明です。江口の戦いの前哨戦では、細川晴賢が籠る柴島城を三好長慶軍が攻め落とし、江戸初期には摂津中島藩に封ぜられた稲葉紀通が居城としましたが、丹波福知山藩への移封にともない廃城となったと思われます。

阪急千里線・柴島駅から登城開始。現在の柴島中学校周辺が主郭に比定されるようですが、市街化と河川改修により遺構は消滅しています。柴島城址の石碑は中学校から北東に徒歩4分の位置に立てられていますが、河川改修により北に移転した柴島神社との位置関係に基づいて立てられたことから、城跡から北に150mほどずれているようです。
 

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