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橋吉

龍福寺 (2022/07/16 訪問)

南北朝時代の1360(正平15/延文5)年、大内弘世はに本拠を山口へ移転しました。
このときの居館跡が大内氏館で、「西の京」とよばれた山口の街に似つかわしく、城ではなく館として建てられたそうです。

毛利隆元は、山口進行後、大内氏の菩提を弔うために、館跡に龍福寺を移しました。
現在も龍福寺の境内でありますが、復元された池や建物跡が見られます。

また、龍福寺資料館もありますが、内容的に大したことことなく、200円は高いかな?
一番すばらしいのが、入り口に置かれた大内義興像だったりします。

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橋吉

糸米川砂防園の駐車場から歩きました (2022/07/16 訪問)

高嶺城は、1556(弘治2)年、戦国大名大内氏最後の当主、大内義長によって築城がはじまりました。
しかし、1557(弘治3)年、毛利氏が山口に侵攻しはじめ、義長は未完成の高嶺城を放棄して長門国の且山城へと逃れ、その地で自害することとなりました。
大内氏滅亡後、高嶺城の築城は毛利氏によって再開され、完成することができました。

木戸神社西から山道を740kmクルマで2分、糸米川砂防園の駐車場にとめました。
三段あり20台くらいとめられそうでした。
ここから1500mは、緩い登りの舗装路を歩きました。
クルマで行けなくもなさそうでしたが、待避場所はなく、すれ違いができないので歩くべきです。
案内板にも「歩くこと」と手書きされていました。

ようやく電波塔まで23分かかりました。
ここはすでに、城内です。

霧雨の中、曲輪を一通りまわって所要時間約1時間30分でした。

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小荷駄

勝沼氏館 (2022/07/17 訪問)

駐車場は館跡北側旧甲州街道沿い古屋ぶどう園さんのとなりでした。トイレは館跡入口に休憩所て併設されており中にパンフレットが有りました。下草は綺麗に刈りとられていてしっかりと維持管理してありました有難いです。遺構は東側北側の土塁と堀は見応えがありました。館内も建物跡や工房跡水路跡など分かりやすくなっていて説明板や発掘調査で出土した品の写真パネルなどもあり充実した内容で一時間半ほど行ったり来たり暑さも忘れて散策して来ました。

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しだみゅう

松本城 (2022/01/01 訪問)

絶妙なバランス

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しだみゅう

高取城址 (2022/02/12 訪問)

最大級の山城

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しだみゅう

和歌山城 (2022/07/16 訪問)

あいにくの天気でした。

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織田晃司

♪ほっほっ法勝寺 法勝寺の城は (2022/07/10 訪問)

くく草だよ 夏草ぼーぼーぼー

登城口から夏草が茂り足元の視界が悪い。
主郭まで行ってみたかったのだが草むらに蛇や蜂、マダニなど潜んでそうなので途中で断念。

登城は晩秋から早春にかけてするのがベスト。

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朝田 辰兵衛

中平古戦場(大分県玖珠郡) (2022/07/09 訪問)

角牟礼城を目指し,峯山登城口からしばらく歩いていたら偶然に発見しました。どうやら,玖珠群衆がこの大きな石を楯に防戦を続けた結果,島津軍を退却させることができたという内容のようです。パネルはかなり読みづらく朽ちてますが…。
角牟礼城三の丸と峯山登城口のほぼ中間点となります。車で登城だと見つけるのが難しい気がします。

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345

新城七名城 野田城 (2022/07/04 訪問)

信玄公を狙撃したお城になります。
路駐になりますが車の往来は少ないため2台ほどお城沿いに駐められます。
木がうっそうとしているので土塁や堀などはっきりとは分かりませんが20分もあれば本丸から三の丸まで歩いてみて廻れます。

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赤い城

幸ヶ谷公園だが古戦場でもある (2022/07/03 訪問)

東神奈川駅から徒歩で10分ちょっと。
幸ヶ谷公園が城跡となります。
遺構はありませんがかつてここで戦があったことが記された説明板が立ちます。
山内、扇谷上杉氏と北条早雲が戦った権現山合戦の舞台です。
今は平和な公園で、朝早くの訪問でしたが散歩されてる市民の方も少なくはなかったです

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小城小次郎

石垣を見る城だ (2022/01/29 訪問)

緑泥片岩を使った近世城郭として和歌山城と並び称されるが、途中で他の石材に切り替えたらしい和歌山城とは異なり、積み方を進化させながら一貫して緑泥片岩を使い続けている。徳島城は、石垣を見るお城だ。

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higekam

皆さんの投稿を見て行く気になって (2022/07/12 訪問)

登城した。花尾公園城址看板前に駐車して中登山道で登り、下りは東登山道を選んだ。
石垣構造がぽつりぽつりとあり、他にも分かりづらいが竪堀、堀切などもそれなりに楽しめた。しかし、ぽつりぽつりと突然現れる石垣にはなにやら不自然さも感じた。いずれにせよ、この城の圧巻は本丸下の段から一気に石段で下っていく石組み井戸だろう。他には見たことのない構造だ。

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higekam

対島津の防衛拠点として総石垣で作られた城 (2022/07/13 訪問)

一時島津に奪われただけに加藤清正も石垣、桝形など改良を重ねたと思われる。山上のシンプルな縄張とはいえ破却を免れた石垣にも見応えがある。

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新ろくべえ

新井城に行ってきました (2020/03/09 訪問)

《新井城の戦いまでの背景》
 三浦親子(道寸、義意)最後の地である、新井城に行ってきました。
この城は、北条早雲の相模平定における最後の戦いがあった城です。
  

北条早雲は小田原城を落とした後、三浦半島一帯に勢力を持ち、
関東管領家とのかかわりの深い三浦氏を攻めるべく三浦半島へ向かいました。
 まず最初に1512年の永正の乱に乗じて、相模岡崎城を落城させ、
次に鎌倉と逗子の市境にある住吉城、そして最後にこの新井城を攻めました。
この戦いがいわゆる新井城の戦いです。
 
《三浦道寸と扇ガ谷上杉氏の関係》
 三浦道寸は、元々扇ガ谷上杉氏の出で、三浦氏に養子として、
三浦時高の新井城に行きました。
しかし時高に実子・高教が産まれると不和となってしまいます。
なので、一度 小田原城主である大森氏頼をたより、
その時元々の名前である義同(よしあつ)から、出家したあと道寸と名乗りました。
そして大森氏の力を借り、時高・高教父子を滅ぼして、
無理やり三浦家当主となりました。

《新井城の戦い》
 1512年、三浦氏の城を落城させながら三浦半島に侵攻した伊勢宗瑞(北条早雲)は、
ついに1513年(永正10年)道寸の本城である、新井城を攻めました。
宗瑞は、力攻めではなく兵糧攻めをしました。
 その時に上杉氏の侵攻を防ぐべく築かれたのが玉縄城です。
(玉縄城の投稿もしているので、ぜひ見て下さい!)
 北条軍は1513年9月29日、扇ガ谷上杉氏の援軍である、太田資康
(太田道灌の息子で、道寸の娘婿)をうち、ますます三浦軍を孤立させました。
しかし、さすがの北条軍も新井城には難攻し、1516年(永正13年)、兵糧がなくなり、
 息子の義意は潔く城外にでて討ち死に。道寸ほか一族も自害しました。
道寸の辞世の句は、
討つ者も 討たるるものも 土器(かわらけ)よ くだけた後は もとの土くれ
という、討つ者、討たれる者も砕け散るかわらけのようだ という意味の句です

《その後》
 落城後は、北条家の城となりました。
しかし豊臣家の北条討伐のより廃城となりました。




【城情報】
・形式       ❙平山城
・築城年      ❙鎌倉時代ごろ
・廃城年      ❙1590年(天正18年)
・築城者      ❙三浦氏
・最後の城主    ❙北条家
・廃城理由     ❙豊臣家が北条家を滅ぼし、使われなくなったため
・主な城主     ❙三浦氏→北条氏
・遺構       ❙ 曲輪、土塁、堀など
・主な建築物    ❙なし
・説明看板、石碑  ❙両方有
・駐車場、トイレ  ❙なし
・天守       ❙なし
・保存状態(自身判断)❙歴史的な意味では重要で、遺構もあるため良
          ❙普通
・備考       ❙・遺構は少ない
          ❙・遺構は東京大学の研究施設にある。
          ❙道寸祭りには見れる 

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higekam

島津義久が内城を離れ隠居した城 (2022/07/14 訪問)

一辺が250mほどわの方形状の城というよりは城館。ぐるりと石垣でかこまれていたようだが、今は東側が一番よく残っている。敷地内には築山?、物見台のような小山がある。

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higekam

島津氏が三州制覇の起点とした城 (2022/07/14 訪問)

ということで訪問したが、山上公園と化しておりかろうじて山城の遺構を感じ取る程度だった。

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higekam

空前絶後 (2022/07/14 訪問)

垂直の切岸で間口の狭い入口に実際に立って見れば圧倒される。
西ノ城、求聞寺城、物見ノ段は入口近くの案内板には記載されているが、現地では立入禁止の表示。まったくもって残念⤵

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higekam

復興された御楼門を見に (2022/07/14 訪問)

前回は復興城門もない冬枯れの時に訪れた。今回は御楼門もあり堀の蓮も咲いていてまったく異なる印象。それにしても島津氏が歴史に残した存在感からみてやはり小さな城だと今回も感じた。

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higekam

千四百年の時空を超えた石垣 (2022/07/12 訪問)

神々しさすら感じた。

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カズサン

平成20年淀城景観 (2008/07/19 訪問)

 京阪電車を使って大阪出張の空き時間に寄りました、当時京阪淀駅は天守台東側の近くまで張り付き、持参のデジカメでは天守台全体が撮れず部分部分に成って居ます。現在は京阪電車の高架事業で約300m程北東に移動され高架駅と綺麗に整備再開発されて居ますので撮影はし易く成って来たのでしょうか?
 
 現在の淀城跡は南東に天守台、本丸の南面と西面の高石垣が残り、石垣に沿って内濠が西面、南面が残って居ます、本丸の北に接して二の丸が本丸と同じくらいの広さであり公園化されて居ます、二の丸側に輿杼神社(ヨド)、本丸側に稲葉神社稲葉正成(春日局の夫)が祀られて居ます。本丸西枡形門跡は石垣が残り本丸の天守台東北側にも櫓台などの石垣が残って居ます、二の丸北側には低い石垣が残っている、三の丸、東馬出曲輪、西の丸は内堀、外堀共に市街化され残って居ません。

 淀城跡は淀姫とは関係ありません、淀姫の淀城は淀古城跡に成ります。
 淀城の築城は伏見城の廃城後幕府が総石垣の回式縄張で元和9年(1623年)築く、城主は久松松平氏、永井氏、石川氏、戸田松平氏、大給松平氏と続き、享保8年(1723年)稲葉正知が入り以後12代10万2千石の居城として明治を迎える。

 淀城へは前々から訪ねたいと思って居り、ネットのCGでよみがえる日本の城、デジィタル大工制作の淀城復元図を良く眺めて居ましたので何時か何時かが14年前の平成20年7月中旬に叶い登城しました。
 天守台穴蔵の公開はしていないようでした、デジタル画、古絵図の天守閣の様に連立式天守閣で二層櫓が四隅に多聞櫓か土塀で繋がってる姿を穴蔵後で想像してみたいものです。
 また、公園内に淀城跡公園整備パネルが在り、「公園整備と市民のロマンである天守閣の復元を市民とともに推進します」京都市建設局緑政課、と記載されて居ました。 是非淀城の天守閣及び周辺建物群の復元整備を待ちたいものです。

 コンパクトデジカメの性能で広角写真が撮れず部分部分の写真ですが投稿致します。
 

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