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おっちゃん

大椎城案内図 (2017/10/07 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

小谷城跡縄張り図 (2017/02/12 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

出石城跡周辺案内図 (2017/05/14 訪問)

現地案内板より抜粋。

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前ちゃん

3連休みが取れたので (2022/06/21 訪問)

最終日、千葉城(亥鼻)で鎌倉殿を堪能、前日に上総一ノ宮もセットで

遠征の打ち上げは、西船橋で、小松菜ハイボール

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にのまる

古城址 (2022/05/21 訪問)

小径に入り見えてきたのはお社の建つ小さな土壇ですが、説明板の「市指定史跡」の文字に居住まいを正し読んでみると、平安・鎌倉・室町時代にかけていくつもの説や歴史をもつお城とあり、大切に守られている場所だということを知りました。安城古城の名称にも得心です。
側面から見ると、城目線で見てしまうこともあり土塁跡だろうかと思ってしまうのですが、そうであってもなくても、大事なのは土地の歴史を後世に伝えることなのだと思いました。

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赤い城

公開日もあるようだが (2022/06/12 訪問)

近くに駐車場はありません。
水田の中に建っている感じです。
北側の入口付近に説明板がありますがロープが張ってあり入れませんでした。
中を覗くと右側に水堀があるのがわかります。
南側の水田越しに屋敷の屋根が見えました。
中世の土豪、和井田氏の館跡で江戸時代には名主を努めています。
公開日もあるようですので興味があれば事前の確認が必要ですね。

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零汰

よく掘りましたね 3 (2022/01/04 訪問)

東側に天然の崖と川があり、西側は空堀を配置して、大手が南側にある城跡です。滞在時間30分強、歩行距離720m、累計高低差100m足らずの城跡です。その時は整備も行き届いていて散策が楽でした。毎度の如く場所だけの確認で現地での一発勝負の訪問です。勿論城跡の歴史的背景は今でも把握していません。

道路面に面している大手から階段を上がると左前方に大きな空堀が見えてきます。右側に折れると城内に続きます。早速空堀をチェック、西側を遮断しています。小さな曲輪や土塁、切岸に囲まれた城内を進んで行くと三郭の虎口に辿り着きました。そこは随分広い曲輪です。二郭に登り高さ10m程の切岸に施された九十九折の虎口を登ると主郭に辿り着きます。北側に祠らしい物を設置している20畳ほどの土壇が有りました。そこで土壇裏の北側を意識して確認するのを忘れて折り返しました。自然地形の斜面かも知れませんが何か遺構が有ったかも知れません。




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藩主 掛川鷲之助

彦根城下のローストビーフ丼 (2022/03/29 訪問)

彦根城を攻城した後に時計を見ると12時ぐらいだったので城下町でお店を探すことにしました。彦根城近くのお店に看板で「近江や蔵」と
書いてあるのを見つけてそのお店に行く事に決めました。ずいぶんとお店を探した後やっと近江や蔵を見つけれました!すごく疲れたので水をいっぱい飲みました。頼んだメニューは、食べないと後悔するローストビーフ丼を頼みました。中にはお客さんがいっぱい‼
              
            是非一度 食べないと後悔するローストビーフ丼を食べてみてください。
                 本当に食べないと後悔しますよ!

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ぴーかる

安田城 (2022/05/21 訪問)

【安田城】
<駐車場他>安田城跡前に無料数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>水堀・土塁
<感想>1泊2日富山城の旅3城目。安田城は1585年、秀吉が越中の佐々成政を攻めた際に秀吉本陣の白鳥城の支城として築城され、前田家家臣の岡嶋一吉が入城しました。佐々成政が降伏したのちは前田家の前線拠点として使用され、成政転封後も白鳥城の支城として使用されたが慶長年間に廃城されたと思われます。かなり当時の遺構がそのまま残る城として国史跡に指定されています。
 まず資料館に入りました。じゅんじんさんの投稿通り富山県の山城の縄張り図資料が無料で頂けて明日攻める城々の参考になりました。館内は安田城の歴史と発掘調査、出土品などが展示されています。2Fのテラスから城跡が一望できます。
 城跡は全体を水堀で囲み、主郭を含む大きい土塁囲みの曲輪が3つあります。主郭の土塁はひときわ高くなっており、土塁断面の展示室があります。水堀には白蓮が沢山咲いていました。なかなかいい、美しい土の平城でした。

<満足度>◆◆◇

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):岩屋城 (2022/06/11 訪問)

太宰府からの転戦です。路側帯(33.525720、130.519903)に路駐し、登城口(33.526079、130.519909)に向かいました。
登城口と道路を挟んで南に100mくらい降りると「高橋紹運公の墓」があります。

築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)に高橋鑑種によって築かれたと云われています。
高橋鑑種は豊後の大友氏の庶流一萬田氏より、筑前国高橋氏の家督を継いだ武将で、筑前国守護代として宝満山城と岩屋城の城督を務めました。
高橋鑑種は武勇に優れた武将でしたが、永禄年間(1558年〜1570年)に大友氏を離反して毛利氏に付きました。
しかし、1569年(永禄12年)毛利氏は山陰で尼子残党が挙兵したこともあって九州から撤退しまする。
これにより、後ろ盾を失った高橋鑑種は大友氏に降り、鑑種は高橋家の家督を剥奪されました。替わって吉弘鑑理の子の高橋鎮種(のちの高橋紹運)が家督を継ぎましだ。
1586年(天正14年)薩摩の島津氏が北上してくると、岩屋城には高橋紹運、宝満山城には紹運の次男で筑紫広門の娘婿である高橋統増が筑紫氏の家臣とともに籠城しました。
岩屋城では壮絶な戦いの末に、高橋紹運以下籠城兵数百がことごとく討死しました。
その後、秀吉の援軍が九州に来襲した報を受けた島津氏は城を秋月氏に預けましたが、立花山城の立花統虎によって奪いかえされ、1587年(天正15年)破却された。

本丸には「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑があり、北背後に土塁と堀切が残っています。
本丸からの眺めはいいですが、当日は強風の為、写真はブレまくり何枚も写真を撮りました。
高橋紹運公の墓に行きましたが、綺麗に整備され地元の方に愛されているのが、よくわかります。
信長の野望での高橋紹運は戦闘能力が非常に高く、島津軍5万の軍勢を居城にて7百の兵で遊撃、敵兵多数を道連れ玉砕した話は有名です。
高橋紹運の息子である立花宗茂も知勇兼備の武将です。息子の方がちょっと有名ですね。
攻城時間は20分くらいでした。次に高鳥居城&稲居塚城を攻城する予定でしたが、遠征疲れもあり、ここで遠征を終了することにしました。
よって、今回の遠征(対馬/五島/福岡/佐賀/熊本)は、ここがラストになります。
レンタカー返却時間まで、かなり時間がありますが、レンタカー返却の為、西鉄久留米駅に向かいます。
その後、博多に向かい、お土産を購入(遠征を許可してくれた妻へ)&食事をして、福岡空港から千葉の自宅に戻ります。

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こず

桜と福知山城

仕事の途中で寄った時に
桜が散りはじめてましたが
天気も良く綺麗でした

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):太宰府 (2022/06/11 訪問)

乙隈城からの転戦です。太宰府政庁跡駐車場入口(33.513425、130.514148)から進入して駐車しました。

7世紀後半に天智天皇により築かれました。
百済と結んで朝鮮半島で新羅と唐の連合軍と戦ったが破れ、百済は滅ぼされ日本水軍は白村江の海戦で大敗しました。
これにより日本は新羅・唐からの侵攻に備え各地に城を築くことなり九州の統括などを行うため政庁が置かれました。

大宰府は「都府楼跡」の名でも親しまれ、7世紀後半から12世紀後半にかけて、九州を統括する行政機関として機能し、西の都としての役割も果たしました。
地理的に日本の外交と防衛の最前線、アジア大陸の窓口としても機能したことから、重要な政治の中核として大宰府の中心地に政庁が建設されました。
政庁の建物は失われていますが、古い建築基礎は今も遺されており、現在は史跡公園として整備されています。
公園の入り口近くにある「大宰府展示館」(入館料は200円)では、考古資料の展示をはじめ、西の都・大宰府を紹介しています。

攻城時間は20分(強雨の為、早めに切り上げました)くらいでした。次の攻城先=岩屋城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):乙隈城 (2022/06/11 訪問)

秋月城からの転戦です。石碑と説明板付近(33.432690、130.580773)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、 1300年(正安2年)北条光時が鎮西探題に任ぜられ、九州へ下向した際に乙隈村に居城を構えたのが乙隈城だと云われています。
戦国時代には肥前国の龍造寺氏の支城でした。

現在は田畑や住宅地となっており遺構は残っておらず、石碑と説明板があるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=阿志岐山城に向かう予定でしたが、雨の為、攻城を断念して太宰府に向かいました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):秋月城 (2022/06/11 訪問)

永山城からの転戦です。秋月博物館付近の有料駐車場(33.468479、130.6935)に駐車しました。
駐車場から、瓦坂(33.466520、130.694538)➡移築黒門(大手門)(33.465410、130.695160)➡長屋門(裏門)(33.465731、130.695005)➡秋月博物館(33.468699、130.693778)の順番に廻りました。

1624年(寛永元年)黒田長興によって築かれました。
長興は福岡藩初代藩主黒田長政の三男で、1623年(元和9年)父長政が没したとき、その遺言により50,000石を分知され秋月藩を興しました。
秋月藩黒田家は代々50,000石を領して明治に至っています。

秋月城は現在の秋月中学校、垂裕神社一帯(今回は行っていません)に築かれており、観光地として賑わっています。
秋月城は南北に伸びた水堀に二ヶ所の橋が架かり虎口となっていました。
北の虎口は瓦坂と呼ばれ、瓦を敷き詰めた橋で、その先に枡形の大手門がありました。
この枡形は現在埋められていて残っていませんが、ここには垂裕神社参道にある黒門があったようです。
南の虎口は長屋門のある所で、長屋門は元の位置に現存する唯一の建物だそうです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=乙隈城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):永山城 (2022/06/11 訪問)

玖珠城からの転戦です。豆田北駐車場(33.332661、130.937016)に駐車し、月隈神社参道入口(33.331504、130.935822)に廻り登城しました。

1601年(慶長6年)小川光氏によって築かれました。 関ヶ原合戦後、光氏が入封し古城を改修して丸山城と改め居城としました。
1616年(元和2年)美濃国大垣より石川忠総が60,000石で入封すると永山城と改称しました。
しかし、1633年(寛永10年)に下総国佐倉に転封となり、豊前国中津藩小笠原長次と豊後国杵築藩小笠原忠俊に分割して預けられ、1639年(寛永16年)再び天領となりました。
1682年(天和2年)播磨国姫路から(越前家)松平直矩が70,000石で入封、このとき山上は破棄され麓に館を築きましたが、完成を待たず出羽国山形に移封となります。
その後は、再び天領となり小川氏が代官となりました。

現在は月隈公園となっています。
麓に三の丸の石垣と横堀(水堀)があり模擬土塀が築かれていますが、写真を撮るのを失念しました。わざわざ月隈神社参道入口に廻ったのに悔しいです。
古代の横穴を見ながら登ると二の丸に着き、本丸の櫓台が見えてきます。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=秋月城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):玖珠城 (2022/06/11 訪問)

久留島陣屋(城びと未登録 大分県玖珠町)からの転戦です。伐株山園地駐車場(33.264582、131.138300)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に築かれたと云われています。
1336年(建武3年・延元元年)に南朝方の小田氏、魚返氏、高勝寺の僧兵などが立て籠もっていました。
これに対して北朝方の一色頼行が玖珠城を攻め、数か月に及ぶ激戦の末にこれを落としたそうです。
1586年(天正14年)島津軍が北上すると、玖珠城には中嶋氏、魚返氏などが立て籠もって対抗しました。
島津軍は攻めあぐねますが、山田伝九郎が内応して城に火を放ったため落城しました。

玖珠城は標高685.5mの伐株山に築かれていました。
玖珠城はこのなだらかな地形が拡がる山頂部に、第1土塁から第7土塁と呼ばれる土塁囲みの方形曲輪を設けていました。
ちなみに各土塁のGPS座標の目安は以下になりますが、雨&強風の影響で早めに切上げた為、第1/第2土塁しか見ていません。。
現地に土塁の説明板がない為、投稿写真の位置が誤っていたならゴメンなさい。➡第3土塁は通り過ぎていたようです。
①:第1/第2土塁(33.266298、131.138479)駐車場の北側
②:第3土塁(33.264974、131.137702)駐車場の北側
③:第4土塁(33.264397、131.138657)駐車場の東側
④:第5土塁(33.264407、131.139605)駐車場の東側
⑤:第6土塁(33.263608、131.139046)駐車場の南側
⑥:第7土塁(33.262639、131.139465)駐車場の南側

攻城時間は雨&強風の影響で早めに切上げた為、20分くらいでした。次の攻城先=永山城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):久留島陣屋(城びと未登録 大分県玖珠町) (2022/06/11 訪問)

宿泊ホテルから、末廣神社駐車場(33.302841、131.158121)に着きました。
旧久留島庭園の北に角牟礼城があります。
以前(2019年10月14日)角牟礼城を攻城した際、わらべ館で続100名城スタンプを押印し、三島公園を散策しました。
その時は時間がなく、久留島陣屋を攻城できませんでしたので、今回はリベンジになります。

1601年(慶長6年)来島長親(康親)によって築かれました。
関ヶ原合戦の後、長親は伊予国来島城から豊後国森に転封となり、2代通春の時、久留島と改めました。
森藩は14,000石で城主格ではなかった為、角牟礼城を廃し南麓に陣屋を築きました。
1837年(天保8年)通嘉の時、三島神社の改築として陣屋を城郭風に改修し、天守の代用とも云われる茶亭の栖鳳楼を建て現在の状態になったそうです。

久留島陣屋は末廣神社、三島公園一帯に築かれていました。
旧久留島氏庭園のある所が陣屋の御殿があった所で、その背後に末廣神社があります。
北側から御長坂と呼ばれる登石垣(雨の中、滑って転んでしまいました)のような参道があり、それを登ると石垣造りの神社境内に出ます。
神社境内には栖鳳楼(せいほうろう)と呼ばれる二階建ての茶亭があり、これが天守代用の象徴として建てられたそうです。
西側には丸木御門、清水御門があり石垣や白壁があるようですが、時間なし&強雨の為、今回は行っていません。
ちなみに、GPS座標は以下になります。
①:旧久留島庭園(33.303473、131.157628)24H
②:栖鳳楼(33.303442、131.157117)24H
③:清水御門(33.303169、131.155575)末廣神社➡今回は行っていないのでGPSの確認はできていません。

攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=玖珠城に向かいます。

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todo94

県内の城めぐり2022㉚ (2022/05/28 訪問)

国道117号からセブンイレブンの手前で脇道に入りアプローチしました。平成の大合併で現在は長野市となっていますが、ここまで北上すると善光寺平という感じはもうありません。千曲川河畔に立地していて、古城の佇まいを感じることが出来ました。説明板と標柱が建っているだけでもありがたいものです。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)7日目(最終日):日隈城 (2022/06/11 訪問)

朝早く起きて、ホテルの朝食前に散歩がてら日隈城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩15分ちょとで、亀山公園入口(33.315489、130.928105)に着き、日隈神社への階段に向かいます。

1594年(文禄3年)宮城豊盛(宮木長次郎)によって築かれたと云われています。
豊後の大友義統が改易となった後、豊臣秀吉の蔵入地となった豊後の日田郡と玖珠郡の管理を宮城豊盛が支配し、5,000石を賜り、築いたのが日隈城です。
1596年(慶長元年)毛利高政が20,000石の所領を賜って日隈城に入り、五重の天守を備えるなど城を改修しました。
関ヶ原合戦後、毛利高政は20,000石で佐伯に移りますが、引き続き蔵入地の管理を任され毛利隼人佐が代官として在地しました。
1639年(寛永16年)天領となった日田地区の代官所は月隈城へと移り廃城となりました。

日隈城は比高30m程の日隈山に築かれた、天然の三隈川を堀とした城で、山頂の主郭には日隈神社が鎮座しています。
かつては五重の天守があったと云われる日隈城ですが、現状では公園となっています。
遺構として確認できるのは大手枡形虎口の石垣くらいでしょうか。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=久留島陣屋(城びと未登録 大分県玖珠町)を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取ります。

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赤い城

公園ではあるが (2022/06/12 訪問)

この日は車で訪問。
近くに駐車場はありません。
早朝でしかも見学に時間はかからないので公園前に路駐。
柵に囲まれた堀跡と土塁っぽい部分の写真をササッと撮って退却しました。
興津氏陣屋とも呼ばれていて、興津氏は家康が関東に入ったあとに配下となりここに陣屋を築いたそうです。
時期的なこともあり、公園は草が伸びていて子供が遊ぶ場所とは思えませんでした。
せっかくの憩いの場何でしょうけど。

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