みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

天守は冬季閉館中。でも石垣は健在です。 (2023/12/08 訪問)

大野城は標高249~250mの亀山の上に築かれている平山城です。織田信長の越前平定の後、金森長近が戌山城に入った後に亀山に城を築き入ったとされています。石垣などの遺構が残り、天守台に模擬天守が建っています。天空の城として有名になりましたが、城下町を含め野面積の石垣など見所も多く、天守も正面から見るとなかなかの男前です。
代々の城主により幾度かの改変がなされたとありますが基本的には金森長近の築いた城が踏襲されているようです。かつては高山城もこのような立派な石垣に囲まれていたのでしょうか。大野城は10年ぶりになりますが、これで戌山城・大野城・鍋山城・高山城・そして隠居城の小倉山城と長近公ゆかりの城を一通り散策したことになります。大野荘は周囲を山に囲まれていて朝霧が立ち込めやすくこの日もけっこう霧が出ていたのですが、城山の周囲には霧はほぼありませんでした。年に数度集落全体が朝霧に覆われる日があるようで、その日ならTVで見るような天空の城の姿を拝見できるそうですが地元でないかぎりなかなかハードルが高いです。
ちなみに天守は冬季閉館で3月いっぱいまで入れないみたいです。その日はまだ暑いくらいでしたが入れません。
10年前に入ったからいいけど久しぶりに見たかったという気持ちがちょっぴりあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

現存坤三重櫓 (2023/11/27 訪問)

 比翼の三重櫓の続きです。 

 現存坤櫓三重櫓は船上城の遺構と伝わり、本丸南西角で睨みを効かせています、現存する巽三重櫓とで明石城の目玉ポイントです。南西下から、稲荷曲輪から、天守台から、直近から、三の丸、武蔵の庭園からと眺めて楽しみました、生憎の空模様が雨の降りそうな曇り日だけが残念でした、入場出来ませんでしたが、坤三重櫓は特別公開として9月から11月の土日祝日10時から16時の公開が太鼓門跡に看板が出ていました、当日は月曜日残念、また、試しませんでしたがスマホでQRコードを読み取り明石城廻り3DCGで明石城再現の画像が楽しめるようです。
 各ポイントから撮った写真を投稿します。

 次は現存巽三重櫓に続きます。
    

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

貝吹山城 (2023/11/19 訪問)

【貝吹山城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.463349, 135.780264>地点の道路脇に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>主郭・眺望
<感想>貝吹山城の築城年は定かではありませんが、西にある越智氏本城の支城でありました。現地説明板には天文年間(1532~1555年)頃までは越智本城を守る矢倉台として、他の支城と連携して危急の際に法螺貝を吹く任務を帯びていたそうです。天文頃から防御施設を強化して越智本城の詰城としたそうです。越智氏は戦国時代は織田信長に仕えますが、本能寺の変後は羽柴秀吉に通じて存続を試みますが、筒井順慶に通じた家臣に暗殺され滅亡します。
 登城口はカンジョ古墳の東側にあり古墳から案内がありますのですぐ分かります。登り始めてすぐぐらいに右手に古墳の丘陵があります。堡塁のような役割をしていたと思われます。登山途中には堀切等の遮断遺構は見受けられませんでしたが、侍所のような小さな削平地や土橋がありました。山頂主郭は東西に長く中心部分が高くなっています。現地説明板(手書きの説明板で素敵)には「四方の尾根上に諸郭を設け」とありますが藪化と尾根上にもあまり目立った遺構は見受けられませんでした。西側と南西側の木々が開けていて眺望が良かったです。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

大野斯波氏の拠点で天空の城スポット。 (2023/12/08 訪問)

戌山城は標高324.6mの犬山の尾根上に築かれています。斯波高経の三男、義種が入り大野斯波氏の始まりとされています。南北に渡って郭や堀切が連続して続き主郭周辺には畝掘や空堀が多数配されています。主郭の東尾根にも遺構が続きますが大野城を早く見たいので主郭を経由して南を目指します。城址の南端が郭になっていますが、その手前に天空の城鑑賞スポットがあり、この周囲だけ木が切り倒されていて眺望が開けています。朝、大野を目指して車で走っている途中、周囲はすごい霧だったのでひょっとしたらと期待していたのですが、大野城の周辺だけ霧が少ないですね。どうやら街全体が完全に霧で埋まらないと天空の城にならないようです。
確か大野市の市長が自分で売り込んできたはずですが、なかなかハードルの高い天空の城です。南側の遺構を散策して戻ってくるとさっきよりガスが増えている気がする。ちょっとだけ天空の城の感じが出てきました。とりあえず、今はこれが精いっぱいです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

林道ジャバミ線はやめといたほうが良いです。(四駆除く) (2023/12/10 訪問)

鷹巣城は標高438mの高須山の山頂部に築かれています。林道ジャバミ線を使えば山頂まで比高90m程度の所まで行けますが、酷い荒れ道で車が傷ついてしまいます。車が大事な方は白山神社から歩いて登りましょう。四駆の車高が高い車なら大丈夫です。
駐車場には熊出没注意の看板がありますが猪のフンが落ちています。猪の縄張りなら熊は出ないでしょう、たぶん。熊スズを鳴らしながら山頂にたどり着くと広い郭が広がります。立派な城址碑も立ち基本的に単郭の城のようですが遺構も残っているようです。北東には土塁と堀切らしき跡が残り、北西には段々の平地が幾つかありました。戦国期の改修は見られないようですが登城道の途中に竪堀らしきものがありました。
鷹巣城は南北朝時代に新田義貞四天王の一人、畑六郎左衛門時能がわずか300人で籠り、7000人もの北朝の軍を相手に一年以上籠城したとされています。暦応4年10月時能はわずか16騎を率いて城を脱出し伊自地山を目指すも奮戦の末に同地で討死し鷹巣城も落城したと現地案内板に記されています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

斯波氏によって築かれた戌山城の支城。なかなか見ごたえがあり散策しやすい。 (2023/12/08 訪問)

小山城は有力守護大名であり管領職を兼務する斯波氏の全盛期に斯波義兼によって築かれたとされています。戌山城の支城とされ城山の上ほぼ全域に築かれています。尾根は南端の最高所を主郭(たぶん)とし、北東と北西にV字状に展開し、それぞれに複数の郭を配しています。北東の郭には土塁を良く残し、北西には堀を挟んで二郭があり、その先に複数の郭と堀切が存在します。
西北端の遺構より先は土取りで消滅していますが遺構の損壊は数十年進んでいないようで、そのことは幸いです。案外城域は広いですが尾根上に遺構がすべて繋がっていて散策は比較的容易です。
城址にある案内板には朝倉孝景の謀反により戌山城、小山城は落とされ斯波義兼は自害したとあります。戦いに勝利した朝倉氏は越前守護に就いたと書かれていますが、そうだったっけかなあ?斯波氏に謀反を起こした千福中務大輔が朝倉孝景に討たれたという説もあったのですが、どっちなんだっけ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

くうくう

特異な水ノ手がある大給松平氏の居城

長坂新左衛門が館城として築いたものを松平信光が奪い、忠親の次男乗元に与えた。乗元とその子乗正が永正7年(1510)頃までに大改修した。乗元は大給松平の祖として祀られ城の東に墓がある。天正18年(1590)家康関東移封に伴い廃城した。
天然の巨石を利用した主郭を中心とした素朴な山城の縄張りを持ちながら、大規模な城域、東西北にそれぞれ大きな堀切、谷筋には石積でつくられた堤防のある水ノ手曲輪、主郭副郭を区切る石塁など目を見張る遺構もある。とても永正時につくられたものとは思われず、また松平氏の城郭では突出した石積みがあるなど、謎が多い。また大給松平氏そのものも不明点がある。松平3代信光4代忠親と整理され、後に大給松平氏が4家の大名家を排出したことなどで、ゆがめられた歴史もあるのかな、と思う。今後の遺構の評価、詳細な歴史の解明が期待される。

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

♬この一瞬をずっと待っていたんだぜ♬ (2023/11/03 訪問)

石神井城は「東京文化財ウィーク」に合わせなきゃダメだろ…と思い,満を持しての登城となりました。公園が隣接しているからなのか,待ちわびておられる方が大勢いたのかは知り得ない範囲ですが,他人が入り込まないように撮影するのに苦労しました。
今年は内郭の奥までは入れなかったです…<泣>。

開いたゲートを見た時の脳内BGMは,『I'm Jumping/A.R.B.』です。俳優としての認知度が高い,石橋凌がボーカル。福岡から片道切符で上京。ソレを唄った『魂こがして』が代表曲。
♬この一瞬をずっと待っていたんだぜ♬

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

比翼の三重櫓 (2023/11/27 訪問)

 天守台の続きです。

 明石城は本丸南面高石垣上に東に巽三重櫓、西に坤三重櫓その間に白土塀が控えた構図が青空と一体と成った景観が明石城のビューポイントでシンボルマークてき存在です。
 令和元年5月にJR明石駅駅頭が整備されて同ホームより明石城の両翼三重櫓と白土塀、高石垣を眺めて以来のビューポイント景観探訪です。
 明石城を散策して巽三重櫓と坤三重櫓が入った構図でどこが最適ビューポイントかと撮った写真を投稿させて頂きます、同じ構図が繰り返しますがご容赦ください、舞子台場で雨に降られて以降雨の降りそうな天気で青空の借景が無いのが残念ですが?楽しい時間でした。
 
 次は坤三重櫓に続きます。
   

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

天守台 (2023/11/27 訪問)

 西不明門跡と太鼓門跡の続きです。

 明石城の天守台は本丸西側の坤櫓の北奥に平面約24m×20m規模で西の稲荷曲輪に突出てる、築城時から天守閣は造られなかった、完成した元和6年(1620年)であれば幕府に遠慮し建造を控えた所が多くなり、三重櫓を天守の代わりとしたようです。?
 これが関ケ原直後であれば、天守台を南に出し坤櫓辺りに5層5階の大天守閣が聳えていたのでしょう⁈ 元和6年頃だと層塔型かな?見たかったなぁ~と想像し天守台周辺を廻る、坤櫓西下から稲荷曲輪から眺めて本丸に登り、天守台上部に入る広い天守台内部です、坤櫓が南に直ぐ見えて、西の稲荷曲輪の南西角の二重櫓台周辺石垣塁、本丸西側の北に伸びる多門櫓台?城塁も良く観える。

 次は比翼の櫓に続きます。
  

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

城カードゲット・雲海は残念 (2023/11/23 訪問)

城カード入手目的の攻城です。販売場所は駅近くの情報館天空の城なのですが、山城の郷と間違えてしまって、徒歩で下って行って何とか手に入れることができました。せっかく麓まで下りたので法樹寺の赤松広秀墓に立ち寄ってみました。赤松広秀墓から竹田城北千畳まで18分で到達。なかなかの健脚だと思います。味気ないルートに沿っての攻城でしたが、これも時代の流れで仕方ありません。この後、夕食を済ませ、日帰り温泉施設で汗を流してから、立雲峡の駐車場へと向かいました。車中泊して朝目覚めてみると駐車場は満車状態。平日でこの状態、土日祝日の朝はどんな状況なのでしょうか。雲海予報は「期待できる」だったのですが、天気予報よりも最低気温が5℃も高く、残念ながら雲海を拝むことはできませんでした。立雲峡からの遠望は初めてだったので良いのですが、捲土重来を期したいと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

85【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (藤崎屋敷=島津義弘蟄居の地(桜島)) (2023/10/09 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑭です。義弘が関ケ原から戻り2カ月の間蟄居したという、桜島にある藤崎正兵衛の屋敷を訪れてきました。

鹿児島フェリーターミナル(写真①)から桜島まで15分の船旅です。 いや~感動です😯!  船がでっかい桜島にどんどん近づいていく光景を、海の上から眺めるのは、何か醍醐味を感じました(写真②)。そしていよいよ桜島に上陸です(写真③)。このフェリーは約20分間隔で運行されていて、料金もたったの200円です。何度でも乗りたくなる船でした。桜島フェリーターミナルを下りると、そこからは市営バス東向浜行で10分「藤野」で下車し、すぐの所に藤崎氏の屋敷がありました(写真④⑤⑥)。

関ケ原の戦いに敗れ、義弘は多くの犠牲を払い命かながら帖佐の館へ帰還します。1500人いた兵も薩摩へ帰還できたのはわずか80人でした。義弘はその全員に感状を与えねぎらい、亡くなった兵の家族にも詫びたそうです。しかし問題はここからです!

徳川家康は自分の命を狙ったあげく薩摩に逃げ帰った義弘を絶対に許す気はありません。当主の島津義久に義弘を江戸に引き渡すよう命じます。それを聞いた義弘は、帖佐から海を渡ったここ桜島にある藤崎氏の屋敷に蟄居し家康に恭順の意を示したと伝わっています。

しかしそんな事で家康が納得するわけがありません。再三にわたり義弘を引き渡すよう義久に命じます。義久は引き渡せば必ず殺されるとわかっているので絶対に渡しません。義弘の子の忠恒を使者に送りますが拉致が空きません。もはや交渉決裂か!!

徳川と一戦辞さずと義久は戦の準備を始めます。内城の西方の城山に土塁で固めた詰城を築き、そして100ある外城に防備を固めるよう命じます。家康も最悪を覚悟し戦の準備を命じます。先鋒として加藤清正、鍋島直茂、黒田官兵衛の総勢4万の軍勢を国境の水俣まで進軍させます。ここで船上で懇意となった立花宗茂が説得に行きますが、やはり拉致が空きません。このまま戦がまた起きてしまうのでしょうか? さあどうする家康?どうする義久? はたして二人の選択は!(この続きは最後の(26人目)の中でまた)

私は藤崎氏の屋敷の前から、錦江湾の海を眺め考えてみました(写真⑦⑧⑨)。義弘はどんな思いでここで過ごしていたのでしょうか。この後自分は一体どうなるのだろうか? いや自分だけでなく薩摩や兄もどうなるのだろうか? そんな不安な気持ちで、夜も眠れずに、毎日ここからこの海を、眺めていたのではないでしょうか・・・


【余談】島津桜島うどん
帰りにフェリーの中にうどん屋があり、見ると名物「島津桜島うどん」というメニューがあったので気になり注文して食べてみました。注文して何とわずか30秒で出てきました(すごく早い!)でもすごくおいしい。どうやらたまごを噴火口に、黄身とゴボウの天婦羅を溶岩に見立てているようです。さつま揚げもちょこっと入っていました(写真⑩)。15分で着岸なので急いで食べました😊(アチチ!)

次は、義弘晩年の居城(加治木城)を訪れます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

石垣遺構は大城より充実している。まだ未完の城か? (2023/11/19 訪問)

林小城は別名・福山城とも呼ばれ小笠原氏城館として林大城・井川城とともに国の史跡に指定されています。林大城とセットで考えられているようで麓の大嵩崎集落と合わせて小笠原氏の本拠とされているようです。登り口はいくつかあるようですが自分は大嵩崎集落の登り口から登りました。麓には水の手である「地獄の釜」があってかつては底なし沼のような様相だったらしいです。登っていくと北側に回り込むようにして北の郭を経由して主郭に向かっていきます。道中で下を見渡せば幾つもの扁平地が見渡せます。
思ったより複雑な構造をしているようで主要な郭以外にも無数の平場群や未整地のエリアが存在します。北上を続けていくと二郭を経て主郭にたどり着きます。主郭は四方に石垣を残し、特に北側には見事な石垣が残ります。主郭の内部にも石垣が存在し南側には高土塁がそびえます。どうやら主郭の中でも南側は特に格式が高いようです。そのさき南方には未整地の空間が広がりますが幾つかの堀切が存在します。どうもこの城はまだ未完成な感じがしますね。
大城に対する位置づけは不明ですが石垣遺構に関しては大城より充実しています。個人的には大城より好きな城で、山城の魅力を十分に伝えてくれています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

垣屋氏の城 (2023/12/14 訪問)

 但馬守護山名氏の守護代垣屋氏の城と伝わっています。北城と南城がありますが、曲輪の比較的明瞭に残っていて、木もあまりなく遺構は見やすい状況でした。畝状竪堀が見たくて登城しましたが、思ったより上の方にありました。迫力のある大きな畝と竪堀が残っていました。城域は思っていたより広く堀切、土橋、土塁や竪堀があり、主郭近くには石積みもあり楽しめる城址です。ただ畝状竪堀のある所だけはロープがありましたが、整備された登城路があるわけではなく案内板もありません。縄張り図とにらめっこしながらの散策となりました。遺構も比較的残っていていい城址だと思います。

 北側の墓地より登城しました。踏み跡がありましたが、概ね直登です。落ち葉が堆積していることに加え土が湿気を含んだ粘土質で、滑って歩きにくかったですね。足を滑らせながらもなんとか尾根に到達して登って行きました。尾根には道がある所もありますが、わかりにくい所もありました。楽々前には行けなかったですね。ただ尾根を只管登って行くだけなので迷うことはありません。主郭の南東部にある堀切へ降りて行くと、その下に誘導するようにピンクリボンが付いている木を見つけました。帰りは来た道を戻りたくないという気持ちもあり、こちらからも登城した人がいたと記憶していたのでピンクリボンを追って降りて行きました。道もなく倒木やぬかるんだ地面に難渋しながら下山すると、城の西側にある民家の近くに出てしまい帰りは遠回りとなってしまいました。素直に来た道を戻ればよかったと反省しています。
楽々前城を「ささのくまじょう」とは読めませんね。「らくらくまえじょう」と読んでいました。

江原駅より登城口近くまでバスで行く予定でしたが本数が少なく徒歩にて行きました。30分くらいかかりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

主郭には鉄筋の展望台がある。 (2023/12/10 訪問)

朝倉山城は標高173mの朝倉山の山頂に築かれています。麓に駐車場があり林道は徒歩で登っていきます。途中に地元の子供たちが書いた旧登山口の案内板があるのでそこから山に入っていきます。道はつづら折りで山頂に向かっていくのですが、だいぶ藪に埋もれてきていて、いささか見づらいです。地元の子供たちの案内板がある所が登山道なのでそれに沿って進みます。
山頂につくと展望台がありそこが主郭になります。虎口の周囲には石積みが残り破城のあとを示しているようです。展望台の上には鐘があるので周囲の獣たちに人間がいることを知らせてやります。ちなみに主郭の下の郭には猪のウンこが落ちていました。
猪のウンこは一見熊のモノに似ていますが時間が経つとバラバラになって鹿のウンこのように散らばるそうです。
主郭の東側にはテレビ塔のある郭があり、ここが二郭になるようです。南側にもいくつか郭があって先に道があるようですが自分は来た時と同じ旧道を通って戻りました。
城主は朝倉玄蕃助景連とも言われ、「朝倉始末記」には信長の越前侵攻に備えて一揆勢が立てこもったとされる記載があるようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

村岡山城 一向一揆の城。遺構が良く残り眺望も良い。 福井県勝山市村岡町郡。 (2023/12/08 訪問)

村岡山城は標高301m比高約150mの御立山の山頂に築かれています。大野南袋一向一揆によって築かれ、敵対する白山平泉寺とは5kmの距離にあります。平泉寺は朝倉式部大輔景鏡を差し向けましたが一揆勢は裏手より平泉寺に放火、景鏡は敗れ四方に落ちますが、50~60人余りでなおも戦おうとして多勢相手に皆討死したそうです。この合戦での勝利が地元の勝山の語源になっています。
一揆衆の築いた城ですが非常に良く出来ていて、遺構も良好に残っています。主郭や二の丸からの眺望は良好で、主郭の周囲に土塁や堀が良く残り、南に虎口が付き土橋がかかっています。本丸の周囲を二の丸が囲っていて、この城で最大の面積を持っています。東側には畝状竪堀を良く残し、南東側にも幾筋かの竪堀が残っています。西側の郭には幾つかの堀切を越えるとたどり着き、ここからの眺望はかなり良いです。なかなか見どころの多い良い城で、白山平泉寺に行かれる方はぜひ、この城も訪れていただければと思います。
村岡神社境内から道が続いていて途中道が分かれますが南の尾根に登る道を選択していただくとスムーズに登れます。道中ずっと並んでいる石仏が目印になってくれるので迷うことは無いと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

蜻蛉切

蟹江合戦 (2023/12/14 訪問)

蟹江城跡に行ってきました。
近くの蟹江町歴史民俗資料館では、小牧・長久手の戦いにおける蟹江合戦を取り上げた展覧会が開催されていた。12月17日まで。

+ 続きを読む

しんちゃん

国の史跡。なかなかの絶景です。白山見ゆ。 (2023/12/09 訪問)

国の史跡・丸岡藩砲台跡は嘉永5年(1852)に幕府の命によって丸岡藩によって築かれました。砲眼は五つで内側に石積みで、外側は土盛りをもって固めています。設計は丸岡藩砲術家の栗原源左衛門、築造は砲台築造奉行・原貞煕とあります。(by現地案内板)
海岸の道沿いに駐車場がありそこから海岸に降りていきます。なかなか風光明媚で日本海を広く見渡せ、内陸側には山々を見渡すことが出来ます。遠くに雪をかぶった一際美しい山が見えますが名前がわかりません。ひょっとして白山でしょうか。
※調べてみたら白山で合ってました。これはテンションが上がりますね。白山にもいつか行ってみたいです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

三つの堀江館が存在。 (2023/12/09 訪問)

堀江館は番田・中番・下番の三つが存在するようで、下番と中番の二つは隣接しています。最も古いのが番田の堀江館で城びとの地図で示されているのがそうです。館の主の堀江氏が加賀一向一揆との戦いの後、一揆勢に備えて番田から下番に本拠を移したようです。中番の館は春日神社の境内と見られ、下番の館は本荘小学校一帯に築かれていて堀と土塁を備えていたようです。本荘小学校と春日神社の間には堀跡とおぼしき跡が見られ、西側の土塁があった場所にはそれらしい土盛りがあるようです。小学校の北側には堀江館と関係ありそうな石碑と石塔が立っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

いんげん丸虫

鍬塚城 愛知県設楽町 (2023/11/25 訪問)

標高790mの山城です。名倉奥平氏の城郭。
主郭の半周に低い土塁がまわり、下の帯曲輪にも少し
土塁がみられます。西面に虎口があります。堅固な地に
あるためか、大きな堀切はありません。
街道沿いに小さな看板があり、そこから細く荒れた林道を
300m位行くと登り口の看板があります。
キツイ登りはないですが、20分位は歩きますね。
車は林道に入ってすぐの広いところに停めておいたほうが
いいですね。

+ 続きを読む

ページ455