(25人目)は島津豊久です。
関ケ原にて義弘の身代わりとなり、まだわずか31才という若さで亡くなった豊久。彼はなぜそのような状況に至ったのでしょうか? これから彼のその短くも壮絶な人生を追って行こうと思います。まずは豊久生誕の地「串木野城」を訪れてきました。
豊久は島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の末弟「家久」の嫡男です。伊作城で生まれた家久は、祖父の日新公から教えを受けた後、23才の時の1570年、父の貴久より串木野の地頭職を与えられてここに移り、この串木野城を居城としました。そして同年に豊久はここで生まれます。
JR鹿児島本線「串木野駅」から徒歩で20分、串木野城は標高30mの小高い丘の上にありました(写真①)。入口には串木野城跡の標識と説明板がありました(写真②③)。ここから入って行きます。途中に地頭仮屋跡がありここが政治の中心だったようです。武家屋敷門も残っていました(写真④⑤)。
登城口(写真⑥)を過ぎ城跡に入ると、大部分が竹藪におおわれていてうっそうとしていました。当時は竹藪などないので、当時の様子がちょっとつかめにくいです。でも逆に竹の香りに包まれて何かいい感じです。六つの曲輪があり空堀で仕切られていたようです(写真⑦)。所々に少し広い空間があり、ここが曲輪の跡だと思います(写真⑧)。この空堀の掘り方、いかにも島津らしいと感じました。
登城口前には、兄の義久が義弘の朝鮮出兵を見送ったとされる南方神社(写真⑨)や、5分程北へ歩いた所には、家久が父貴久亡き後にその御霊を祀り、朝夕に拝んだという大中公の廟もありました(写真⑩)。
まだ若き29才の家久は、父貴久が薩摩大隅を統一できた事への神仏へのお礼と見分を広めるため、ここ串木野から5カ月かけてお伊勢参りや京都や大坂を旅してきたようです(あの時代によくまあ行けたものだ🤔)。その時、京で本願寺攻めから戻る信長の軍勢を見るも信長は馬上で眠っていたとか、また坂本城に本名(島津の子である事)を隠して訪れ明智光秀にも会ったとか・・・ そして無事帰還した際には、この串木野城の沿道で地元の人々が盛大に出迎えてくれたとか・・・ 四男坊は結構自由気ままに生きていたのですね~。
しかし自由気ままな生活もそこまで。1584年36才になった家久は、兄義久の命により南下し薩摩を脅かすようになった佐賀の龍造寺隆信と決戦するため、ここ串木野から出陣します。そして13才になった豊久も同行し初陣を飾ったようです。
次は、その豊久初陣の地「森岳城(島原城)」と「沖田畷合戦の地」を訪れます。
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