くしきのじょう

串木野城

鹿児島県いちき串木野市

別名 : 亀ヶ城、城山
旧国名 : 薩摩

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①	串木野城全景
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トク

88【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (串木野城-豊久生誕の地) (2024/01/08 訪問)

(25人目)は島津豊久です。
関ケ原にて義弘の身代わりとなり、まだわずか31才という若さで亡くなった豊久。彼はなぜそのような状況に至ったのでしょうか? これから彼のその短くも壮絶な人生を追って行こうと思います。まずは豊久生誕の地「串木野城」を訪れてきました。

豊久は島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の末弟「家久」の嫡男です。伊作城で生まれた家久は、祖父の日新公から教えを受けた後、23才の時の1570年、父の貴久より串木野の地頭職を与えられてここに移り、この串木野城を居城としました。そして同年に豊久はここで生まれます。

JR鹿児島本線「串木野駅」から徒歩で20分、串木野城は標高30mの小高い丘の上にありました(写真①)。入口には串木野城跡の標識と説明板がありました(写真②③)。ここから入って行きます。途中に地頭仮屋跡がありここが政治の中心だったようです。武家屋敷門も残っていました(写真④⑤)。

登城口(写真⑥)を過ぎ城跡に入ると、大部分が竹藪におおわれていてうっそうとしていました。当時は竹藪などないので、当時の様子がちょっとつかめにくいです。でも逆に竹の香りに包まれて何かいい感じです。六つの曲輪があり空堀で仕切られていたようです(写真⑦)。所々に少し広い空間があり、ここが曲輪の跡だと思います(写真⑧)。この空堀の掘り方、いかにも島津らしいと感じました。

登城口前には、兄の義久が義弘の朝鮮出兵を見送ったとされる南方神社(写真⑨)や、5分程北へ歩いた所には、家久が父貴久亡き後にその御霊を祀り、朝夕に拝んだという大中公の廟もありました(写真⑩)。

まだ若き29才の家久は、父貴久が薩摩大隅を統一できた事への神仏へのお礼と見分を広めるため、ここ串木野から5カ月かけてお伊勢参りや京都や大坂を旅してきたようです(あの時代によくまあ行けたものだ🤔)。その時、京で本願寺攻めから戻る信長の軍勢を見るも信長は馬上で眠っていたとか、また坂本城に本名(島津の子である事)を隠して訪れ明智光秀にも会ったとか・・・ そして無事帰還した際には、この串木野城の沿道で地元の人々が盛大に出迎えてくれたとか・・・ 四男坊は結構自由気ままに生きていたのですね~。

しかし自由気ままな生活もそこまで。1584年36才になった家久は、兄義久の命により南下し薩摩を脅かすようになった佐賀の龍造寺隆信と決戦するため、ここ串木野から出陣します。そして13才になった豊久も同行し初陣を飾ったようです。

次は、その豊久初陣の地「森岳城(島原城)」と「沖田畷合戦の地」を訪れます。
 

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零汰

ドリフターズ、島津豊久の生誕地 (2019/09/29 訪問)

梅雨に任せてアニメ・ドリフターズを視聴、かれこれ4回目だったと思います。古今東西歴史上の人物が死に間際に異世界に飛ばされてドリフターズ(漂流者)とエンズ(廃棄物)に分かれて戦うストーリー。日本からは魔王信長や安倍晴明・那須与一・源義経など豪華絢爛なキャスト、それがエルフやドアーフやらの異種族と絡み合う滅茶苦茶でダークな内容。が、何故か主人公は島津豊久。そこにコアな人物をチョイスした作者は目の付け所が違う、普通に考えたら主人公はもっと認知度の高い人物なんだけど。

当時は島津豊久を知らなかった。戦国期の島津四兄弟の事も知らずにいたが、アニメを見てから調べて知った。割とこの様な媒体からだとすんなり頭に入ってくる。中には歴史上の人物を愚弄して不謹慎だと思われる人々もいるかもしれない。

串木野城は3年前に一度訪問した。島津豊久の生誕地を知ってか知らずか覚えていない。1年目のせいもあり、的外れな訪問をしていた事を後に気が付き、去年整備されたとの事だったので最近再訪問しました。3年前は主郭などの存在さえ知らずに訪問しましたが、今回はメインの堀切道や各曲輪を見る事が出来ました。

今までで、的外れな訪問が残り4城有ります、機会を見て再訪問したいです。

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koji0803

串木野城 (2019/12/31 訪問)

現状では土塁と空堀の遺構が竹林の中に見えるくらい。整備の意向はあるらしいです。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 串木野(薩摩)氏
築城年 鎌倉時代
主な城主 串木野氏、川上氏、山田氏(島津氏家臣)
遺構 曲輪、石塁、土塁、堀切、横堀(空堀)
住所 鹿児島県いちき串木野市上名字城之元