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橋吉

今回は (2022/08/09 訪問)

続日本100名城ツーリング、脇本城の後に秋田城を訪問する予定でした。
ただ、この日の天気予報は雨。しかも、日本海より次々と雨雲が同じ場所に流れ込む線状降水帯が発生し、災害が発生してもおかしくない大雨になるというものです。

奇跡的に脇本城では降られずに済みましたが、このままでは雨雲にとらわれるのは時間の問題だと思われ、早めに県境を越えて山形に逃げ込むのが賢明であると判断しました。

秋田城は、6年前に日本100名城スタンプラリーツーリングのついでに一度訪れたことがあるので、今回は城跡の見学はパスして、続日本100名城スタンプだけ押すことにしました。

けっきょく、展示とVTRも見ちゃいましたけどね。

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カズサン

宇和島真珠が目的の二度目登城 (2005/08/07 訪問)

 木造復元天守閣大洲城登城目当ての四国旅、今回はしまなみ海道を使い四国入り、家内の要望で生口島の平山郁夫美術館、西の日光耕三寺に寄り、大三島の大山祗神社、同宝物館で義経の鎧を参拝見学、今治城を横目に高速に入り、宿泊先の宇和島へ、宿泊ホテルで情報を聞き込み、鯛めしとじゃこ天の晩酌夕食、夕食後家内の目的である宇和島真珠宝飾店を探し購入、宇和島は養殖真珠の産地で伊勢をしのぐとか?

 登城は翌日朝食後から、初登城は20代の初めで50数年前です、今回二度目は17年前の平成17年8月上旬、宇和島城天守閣にも登り、伊達博物館も見学し約3時間の探訪。
 大洲に向かう途中、その当時高速は宇和島には未開通でしたので地道沿いに吉田陣屋が在ったので寄り探訪。

 サブのコンパクトデジカメに残っていた数少ない写真を投稿します。
 天守閣、本丸石垣と天守閣、眺望、移築長屋門(旧藩老桑折氏武家長屋門)です。
  

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刑部

三密を避けながら城址巡り (2022/08/16 訪問)

城址は正慧寺の境内となっています、「小篠塚城址園」

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イオ

とことん江戸城(幸橋門~芝口門~八重洲) (2022/06/23 訪問)

(続き)

幸橋門は第一ホテル東京の北東部の交差点あたりにあったようですが、遺構はもとより痕跡すら窺えません。説明板もなく、かろうじて幸橋門の前の外堀に架かっていた幸橋の名がJRの高架下に見られるくらいです。

外堀は幸橋門で北に折れますが、土橋を隔てて東側に流れる汐留川に架かる新橋の北詰には芝口門が設けられていました。朝鮮通信使に国威を示すために江戸中期に築かれた門で、二重隅櫓を備えた豪壮な枡形門だったようですが、建造からわずか14年で焼失した後は再建されず、石垣も撤去されて、今では説明板と石碑が建てられているだけです。

芝口門の南東部(たぶん芝口門の隅櫓があったあたり)からは、北東に三十間堀と呼ばれる舟入堀が続いていました。汐留川と三十間堀の分岐点(高速出口近くのトイレの横)に三十間堀跡から発掘された石垣と説明板が設置されています。

このまま海岸通りを進んで浜離宮(浜御殿跡)にも行きたいところですが、開園前のため外堀に戻って山下門へ。山下門は帝国ホテルタワーの北東、JRの高架と丸の内線が交差するあたりにあったようですが、今では高架下に説明板があるくらい……かと思いきや、にのまるさんの投稿にあるとおり幸橋門側のJR高架沿いの道は深く沈み込んでいて、外堀の痕跡を感じます。

山下門から小学校の前を通って数寄屋橋門へ。数寄屋橋公園の東端に数寄屋橋の石碑が建ち、外堀に架かる数寄屋橋を渡ったところに数寄屋橋門がありました。現在の有楽町マリオン前あたりが門跡で、遺構も痕跡も見られませんが、数寄屋橋は数寄屋頭の屋敷が、有楽町は織田有楽斎の屋敷があったことに由来し、地名に往時の名残が見られます。

南町奉行所跡(別途投稿します)を訪れた後、鍛治橋門へ。鍛治橋交差点あたりが門跡で、交差点の南西部に説明板が設けられています。門そのものの遺構は見られないものの、鍛治橋門の近くで発掘された外堀石垣が外堀周辺の何箇所かに移設されています。

鍛治橋門から外堀通りを北に進むと東京駅八重洲口に至ります。八重洲という地名が、徳川家康の信任のもと朱印船貿易を担ったオランダ人、ヤン・ヨーステンに由来することは承知していましたが、八重洲地下街にはヤン・ヨーステン記念像が、日本橋三丁目交差点の西側中央分離帯にはヤン・ヨーステンのモニュメントが設けられ、丸の内側には丸ビルの南東隅にヤン・ヨーステンやウイリアム・アダムスらが豊後の臼杵湾に漂着した時の乗船・リーフデ号の彫刻があります。思えば、鎖国とされる江戸期にあって唯一の西洋との窓口であり続けたオランダとの交流はこの漂着から始まっているわけで、その後の日本に大きな影響を与えた出来事だったんですね。

…と、このあたりで時間切れ。ホテルに戻って出張2日目の仕事に向かいます(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:土佐泊城 (2022/07/26 訪問)

撫養城からの転戦です。岡崎公園付近(34.181922、134.622886)に駐車しました。

天文年間(1532年〜1555年)森元村によって築かれました。
森氏ははじめ名東郡黒田村いたが板野郡土佐泊に移住しました。 森氏は土佐泊を要害として船団を構え細川氏が伊予国に攻め入ったおり戦功をたてています。
1585年(天正13年)二代目城主である森志摩守村春のときに、蜂須賀家政が阿波国の領主となると、蜂須賀氏家臣となりました。
森村春は九州征伐や小田原征伐にも参戦し、主君の武功を支えたが、1592年(天正20年)文禄の役で戦死しました。
村春の弟は村吉、子は忠村である。村吉の長子・森村重は森甚五兵衛家を興し、強大な水軍を持ち、大阪の役で戦功を挙げ、全国に知れ渡りました。
蜂須賀氏は水軍を持たなかったため、森氏は17代にわたって阿波水軍の地位を世襲し、1868年(明治元年)の明治維新まで蜂須賀氏に仕えました。

現在、城址は南海病院の敷地となっているようです。
攻城には南海病院の許可が必要とのことなので、岡崎公園付近より海越えの土佐泊城方面を眺め、写真撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。
四国一周の城巡りは、ここがラストです。レンタカーを返却する為、一旦、西明石駅に戻ります。
その後、明日の攻城先=三津寺砦を目指す為、電車で本日の宿泊先がある大阪の長堀橋駅に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:撫養城 (2022/07/26 訪問)

木津城からの転戦です。妙見山公園駐車場(34.178559、134.619001)に駐車しました。

築城年代は不明のようです。 古くは小笠原氏の居城であったが、1582年(天正10年)長宗我部元親によって攻略され真下飛騨守が城番として置かれたそうです。
しかし、1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国平定で阿波一国は蜂須賀家政の領するところとなり、阿波9城の一つとして益田正忠を撫養城の城番としました。
徳川幕府の一国一城令により、1638年(寛永15年)廃城となりました。

模擬天守の「トリーデなると」がありましたが現在は閉館されているようです。
本丸には妙見神社があり、その本殿の裏には布積みの石垣が残っているそうですが、見落としました。
阿波9城のひとつです。模擬天守の写真を撮ったら速攻で撤退です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=土佐泊城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:木津城 (2022/07/26 訪問)

原田城からの転戦です。登り口(34.171542、134.578792)付近に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に篠原肥前守自遁によって築かれたと云われています。 篠原自遁は三好氏の家臣で篠原長房の弟です。
1577年(天正5年)三好長治は荒田野で細川真之と戦って敗死すると、長治の実弟で讃岐国十河城主となっていた十河存保が勝瑞城に入ることとなりました。
自遁はこれを歓迎せず抵抗したが敗れ、勝瑞城入城の先導役を務めました。
1582年(天正10年)中富川合戦で三好氏は長宗我部氏に敗れ勝瑞城は落城、十河存保は讃岐国虎丸へ退きます。
自遁はこの戦いには参加せず城に籠もっていたが、本能寺の変により織田信長が倒れると城を捨てて淡路へ逃れたそうです。 長宗我部元親は木津城に桑野城主東条関之兵衛を置いて守らせました。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による四国征伐では、羽柴秀長・秀次を大将とする大軍が押し寄せました。籠城方も奮戦して良く防いだが、水の手を切られ落城したそうです。

しばらく登城口を捜しましたが、草に隠れて見えず登城を断念しました。
「木津城山公園」には行っていません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=撫養城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:原田城 (2022/07/26 訪問)

秋月城からの転戦です。お米販売店横の空スペース付近(34.118104、134.353718)に路駐しました。
そこから、石碑と説明板のある民家の入口(34.118203、134.354215)は近いです。

築城年代は定かではないようです。城主の原田氏は奥州原田庄発祥で、初代原田右亮義実が鎌倉時代末期に阿波へきて守護職小笠原氏に仕えたといいます。
戦国時代の城主は原田久左衛門で、1582年(天正10年)中富川の合戦に嫡男小内膳とともに参戦して討死し、原田城も落城したとされます。

現在は宅地などとなり遺構はなく、宅地の一角に石碑と説明碑が建てられています。
石碑と説明碑の写真を撮ったら速攻で撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=木津城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7目:秋月城 (2022/07/26 訪問)

西条城からの転戦です。墓地前の空スペース(34.101027、134.312350)に駐車しました。

古代、秋月郷と呼ばれ、土豪秋月氏が居館を構えていました。
文永年間(1265年~75年)守護小笠原氏から世継ぎを迎えたと伝えられています。
1336年(建武3年・延元元年)小笠原氏(後の三好氏)に代って阿波国守護となって入国した細川和氏・頼春兄弟が、当地の土豪の秋月氏に迎えられて、秋月城を築き居館としたといいます。
秋月城は和氏のあと、弟細川頼春、子の細川頼之と三代にわたり居城となりましが、頼之が管領として上洛すると弟詮春は勝瑞城に移りました。 その後は秋月氏の居城となり戦国時代まで続いたといいます。
1579年(天正7年)長宗我部元親に攻められ落城、廃城となりました。

墓地となっており、的場跡の碑、城址碑が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=原田城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:西条城 (2022/07/26 訪問)

芝原城からの転戦です。富士建(34.099328、134.3827)さんの駐車場をお借りし、道路向かい路地入口(34.099320、134.382789)を進んで行きます。

1346年(貞和2年・正平元年)森左近将監備前守春之によって築かれたと云われるが定かではないようです。 森春之が秋月城の支城として築いたのが始まりだといいます。
天文年間(1532年〜1555年)の城主は岡本美作守清宗で百貫を領し細川持隆に仕えていました。
この清宗の娘が小少将局で、細川持隆の側室となって細川真之を産ました。持隆が三好義賢によって討たれると義賢の正室となり、三好長治・十河存保を産んでいます。
1582年(天正10年)長宗我部元親によって滅ぼされた勝瑞城と運命を共に落城したそうです。
1588年(天正14年)蜂須賀家政は阿波九城の一つとして改修し、家臣森監物を置いて守らせました。
1638年(寛永15年)一国一城令によって廃城となりました。

阿波9城のひとつです。
廃車は放置されていますが、城碑と森監物を祀る小さな祠は草などで見えません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=秋月城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:芝原城 (2022/07/26 訪問)

矢野城からの転戦です。蔵珠院横(34.092443、134、463429)から蔵珠院に進入して駐車しました。

城主は久米安芸守義広と伝えられています。
久米義広は主君細川持隆が三好実休によって見性寺で自害に追い込まれると、これに反発して1553年(天文22年)挙兵します。
義広方は野田山城主野田内蔵助、花房城主仁木日向守、佐野須賀城主佐野丹波守、蔵本城主小倉佐助らであったが、槍場の合戦で敗れ、ことごとく討死したそうです。

芝原城の位置ははっきりしないようで、現在の八幡神社と隣接する蔵珠院のあたりを城跡としています。
蔵珠院にはいつの頃に作られたものかわからないが、全国で唯一という、螺旋状の通路をつけたすり鉢状の井戸があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=西条城に向かいます。

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にのまる

中濠と門跡めぐり (2022/06/10 訪問)

姫路駅から大手前通りを直進。聳え立つ天守へと逸る気持ちを抑え、中の門跡から時計回りに市橋門跡まで中曲輪の門跡めぐりをしました。ずいぶん歩いたような気がしますが確認したのは11の門のうちの5つで、歩いた距離も中曲輪全周の1/5 程度だったのではないかと思います。

中の門は大手門に至る堂々とした構えの面影を今も残し、交通量の多い商業地の中にあっても目を見張る存在感があります。そしてそこから西へと延びる石垣と土塁。北へ曲がる次のコーナー(南西隅櫓跡)は一体どのくらい先にあるのか、全く見えず、見当もつきません。
ここを生活道路としている人たちが羨ましすぎる!と思いながら石垣沿いに歩いていると『昭和7年に国道2号線改修のため東西450メートルの濠を埋めました』と記された大きな石碑がありました。2号線に面している濠跡は現在は1kmくらいありそうです。
ちなみに姫路城の濠は螺旋状に約10km。限られた時間で外周をまわるには西松屋のミミちゃんのレンタサイクルがよき相棒となってくれそうです。駅の近くにありました。

つぎに現れたのは鵰(くまたか)門。教習所のS字クランクを彷彿とさせるカギ型の道路です。(現在は自家用車も手放し全く乗っていませんが以前はハンディキャブの運転などもしていました。)これぞ城門というカーブが堪りません。めちゃくちゃ見通し悪いし、スピード出して突撃!なんて到底できません。

南西隅の埋門まで来ました。堀には土橋がかかり、二重の櫓とともに南に向く二つの門が多門で繋がっていたそうです。と、文字で読んでもイメージしがたいのですが、現地案内板のイラストを参照しながら残されている石垣を見るとその状況が手に取るようにわかり感激です。門も櫓も土塀もありませんが、「なくなった」ではなくてあえて「今、石垣を組み終わって(普請)、これから櫓とかつくるところ(作事)」なんだと想像しながら見るとすっごくわくわくしてきます。

埋門を入っていくと合坂のある石垣が現れました。石垣を巻いて反対側に行くといくつかの門の重なりのような石垣があります。ここ(車門)は西国街道に直結する主要な出入口のため4つの門で構成されていたのだそうです。外門から入り中門通って内門へ。戻って今度は車道門から出て……という入退城ごっこ遊びの楽しいことといったら!

車門から船堀川沿いのすてきな小径を石垣を眺めながら歩いて市橋門に到着しました。

<つづく>

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赤い城

さかさいじょう (2022/07/30 訪問)

さかいじょうでは無くさかさいじょうです。
逆井城址公園になっています。
櫓や土塀、物見櫓などが復元されています。
本丸の堀なども良く残っていてなかなかの見応えでした。
二郭はグラウンドゴルフ場になっていますが周りを囲む堀には横矢がかかる部分も見られます。
二重櫓のそばには関宿城の薬医門も移築されています。
早朝の登城でしたがすでにグラウンドゴルフを楽しむ高齢者の憩いの場になっていました。
申し訳無さそうに土塁上を歩き退散しました。

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朝田 辰兵衛

津和野から門を移築しただけでなく… (2021/10/09 訪問)

津和野から門を移築しただけでなく,三段櫓石垣をパクってんじゃね…と思ってしまいました。津和野城と日をあけずに登城すると,たぶんそう感じると思います。

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刑部

住宅地の中にある城址 (2022/08/16 訪問)

住宅地にポツンとある普通の公園が城址です。でも、城址の石碑は大きく立派でした。

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小城小次郎

ここ数年が見ごろ (2022/02/23 訪問)

ここ半年ほど勝間田城の案内役やら講演会やらで大変お世話になった。植生改良のための伐採作業でものすごく見やすくなっているがいずれまた森に還るので、ここ数年がとにかく見ごろのはず。ぜひぜひみてみて。

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かいのすけ

苗木城

苗木城は岐阜県の中津川市にあります。城の跡がある木曽川のほとりの岩山に登ると恵那山や中津川市街を一望できる絶景を見ることができます。迫力ある岩やその間に築かれた石垣、建物の跡が魅力ですね。
で、当時の苗木城はこんな様子だったというものがあるのですが、これを見て皆さんどのように思いますか?私は初めてこれを見たとき「変な城だな~」と思ってしまいました。だって、普通思い浮かべる城とあれこれ違いすぎませんか?
破風でばっちり決めた天守や櫓はなく、なんだか蔵のような形をした建物がごちゃごちゃに並んでいます。計画的に築かれた様子というより、増築を繰り返してこうなりましたみたいな感じを受けるのは私だけでしょうか・・。それにあちこちに見える自然のままの岩。カッコよく石垣にしてしまえばスッキリしそうですよね。そもそもこんな岩だらけの山に、無理に城を建てなくてもよかったのではないかと思ってしまいます。
苗木城の城主は遠山氏。戦国時代にこの苗木城を築いてから江戸時代そして明治まで、ずっと遠山氏が治めていました。こんなに長い期間に渡って城主が変わらない城ってほとんど無いのではないでしょうか。珍しいと思います。そして遠山氏は、その長い間にこの苗木城にあれこれ手を入れ、あの絵のような城が完成していったようなのです。
遠山氏は江戸時代1万石ほどの小さな大名で、大金を苗木城に投じることはできなかったようですが、資金をやりくりしながら長い年月をかけて少しづつこの城に手を加えていったのでしょう。

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三瀬氏の居城 (2022/08/20 訪問)

  北畠氏の家臣三瀬氏の居城と伝わっています。大谷川が宮川本流と合流する嘴状の突端にあり、南、西、北の三方は断崖となっています。土塁と井戸が残っています。
 松阪駅から三重交通バスに乗り下三瀬バス停下車(約70分)、徒歩5分くらいで行くことができます。バスの本数はかなり少ないので要注意です。

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北畠具教終焉の地 (2022/08/20 訪問)

 北畠具教終焉の地として知られる三瀬館跡へ行ってきました。階段状の削平地があり、案内板には「館跡は鎌止山の麓斜面を改修してほぼ三段にしつらえられている、、」と記載がありますが、現状はもう少しあると思います。石垣がありましたが、当時のものか否かはわかりません。近くに北畠具教の胴塚があります。見張り台の茶臼山には堀切を見ることができます。館跡は整備され紅葉スポットだそうです。夏でも支障なく散策することができました。徒歩5分くらいの所に北畠具教を主神とする北畠神社があります。

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チェブ

北条 氏規さんの3ヶ月。 (2022/08/14 訪問)

伊勢 宗瑞さん=北条 早雲さんの最初のお城「韮山城」です。
今川家の客将だった宗瑞さんが、堀越公方 (正式に継いでないので、なんちゃって公方様)足利 茶々丸さんを討ち、伊豆進出。自らの本城である「韮山城」を築城しました。
北条 氏綱さんの時代に拠点を「小田原城」に 移します。
秀吉さんの北条討伐の時は、3ヶ月も籠城した堅固な「韮山城」です。

まずは、皆さんの情報により『韮山代官屋敷・江川邸』の無料駐車場を利用して出陣しました。近くに高校があり、写真②のような案内板があります。
写真③から登り、切通が見えてきました。奥に神社があり、土塁が守ってます。
整備された道があり本丸まで、行けます。
本丸からは、秀吉軍が築いた陣城の位置が分かります。

北条家の最後の「韮山城」城主は、北条 氏規さんです。3ヶ月、籠城し徳川 家康さんの説得により開城しました。
氏規さんと家康さんは、今川家で同時期に人質でした。
、、、ドラマチック。
ところで、「韮山城」は3ヶ月の籠城に対して 「八王子城」は1日、「山中城」は半日で落城してます。
各お城の事情があるにせよ、正直「韮山城」が一番、こじんまりとしていて早く落とせそうです。
「八王子城」「山中城」の方が、たくさん歩いたしな、、、。歩数の多さで勝敗が決まる訳じゃないけど、、、。と、戦無知の幼稚な考え方です。

伊勢 宗瑞さんの念願と、北条 氏規さんの執念が「韮山城」を堅固にしたのかもしれません。

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