みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

関東管領の居城跡 (2023/05/01 訪問)

平井城は関東管領上杉氏のかつての居城で城址公園として整備が進められていますが
とにかく石碑やパネルがたくさんあります。本丸部分が整備が進められていて
県道を挟んで西側の二の丸とその南の笹廓は宅地になっています。かつての
本丸は県道沿いに底辺を合わせた五角形の形状をしていて東西北側に土塁が囲み
その外側と南西側に堀を巡らせていたようです。南東側は鮎川に面し崖が切岸の役割をする
天然の要害でもあったようです。パネルにある主郭保存計画の俯瞰図もそれにそった内容に
なっていますが川沿いの部分はまだ整備が進んでいない様子。
平井城は永享10年(1483)に勃発した永享の乱に際し、関東管領上杉憲実が総社(蒼海)の長尾忠房
に命じて築城したとする説と、応仁元年(1467)に上杉顕貞が築城したとする説があるようです。
いずれにせよ天文21(1552)北条氏に攻められ落城するまで、関東管領上杉氏の居城として
機能したとされています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

移築陣屋門あります。 (2023/05/01 訪問)

伊勢崎陣屋は譜代大名稲垣長茂によって慶長6年(1601)に築かれました。
二代重綱の代に転封となり、酒井忠世が封じられましたが、忠世が本家の
前橋藩を継いだので一時廃止になりましたが、60年余りして酒井忠寛が2万石で入り、
本家の転封により姫路藩の分家として陣屋が再建され、9代忠影の時に明治維新を迎えました。
陣屋跡は現在は市立北小学校になっています。すでに遺構は消失していますが広瀬川にかかる
栄橋を渡り対岸から見やると、往時の雰囲気を幾分か感じることが出来ます。
小学校の目の前に市の重要文化財の旧時報鐘楼があり、なかなか良い味を出しています。
北に300~400mほどの所にある同聚院に武家門(陣屋門)が移築されています。

同聚院の武家門
群馬県伊勢崎市曲輪町
36°19'30.6"N 139°11'33.5"E
36.325156, 139.192638

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

92

館山城(草刈り中) (2023/08/28 訪問)

草刈り中でした。天守前に軽トラ

+ 続きを読む

ノボル

皆川城跡 (2023/08/27 訪問)

次は涼しくなったら再訪問します

+ 続きを読む

とっち

残暑厳しい中、越後の名城へ (2023/08/26 訪問)

麓の埋蔵文化センターや、ものづくり館で情報収集してから登城しました。
上杉謙信公立像まで車で行く事ができ、売店もあるので飲み物を補給してから登るのが良いと思います。
登城路も整備されていて、想像以上に登りやすかったです。
巨大な土塁や堀はありませんが、各郭に景虎屋敷や柿崎屋敷、景勝屋敷が配されています。
本丸から直江津方面の眺めは最高です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

65【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と名護屋城②) (2023/08/20 訪問)

(23人目)石田三成(名護屋城①)の続きです。
名護屋城から3km南にある「石田三成陣跡」を訪れてきました。

石田三成陣跡は標高103mの山上にありました。県道23号線に標識があり(写真①)、そこから三成の陣跡の近くまで入れますが、現在は私有地(果樹園)になっていて、猪など害獣よけの電線なども張り巡らされていたため中には入れず、外から眺めてきました(写真②)。すぐ近くには結城秀康の陣跡や立花宗茂の陣跡がありましたがいずれも柵があり立ち入りはできませんでした(写真⑤)。

名護屋城の本丸から呼子町の方向を見下ろすと、徳川家康の陣跡が見えました(写真③)。いつかは150以上あるといわれるこれらの陣跡を全て巡ってみたいな~と思いました(MAP写真④)。


【余談1】トークライブショー
私の「石田三成と名護屋城」の投稿が功を奏しNHKを動かしたのか? それともたまたま偶然か?(たぶん偶然だろう🤔)、なな何と! 9月23日この名護屋城博物館で、どうする家康で石田三成を演じる中村七之助さんと平山優先生によるトークライブショーの開催が決定しました!(入場券は抽選なので当たればいいな~😊詳細はNHK佐賀のHPで)。

【余談2】夕陽の見えるキャンプ場(島津義弘陣跡)
この名護屋城から3km北の波戸岬海岸には島津義弘の陣跡があり、そこは今ではキャンプ場になっていて、私は毎年訪れています(写真⑦⑧)。今年も名護屋城を見学した後、そこでテントを張りキャンプをしてきました。夕陽がとてもきれいな所で、陽が沈むと今度は呼子のイカ釣り船の漁火がとてもきれいで幻想的です。名護屋城の前には桃山天下市があり、唐津行バス停や食事処やおみやげ屋もココです!(写真⑥)。私はここで海の幸(さざえなど)を買い、横にある町唯一のスーパーに酒や肉も売っているので、夕陽や漁火を眺めながら海鮮バーベキューをして楽しみました(写真⑩)。夕陽のいい写真が逆光でうまく撮れずHPに同じ場所から撮った写真があったのでそれを掲載させていただきました(すいません)。でも本当にこんな感じです(写真⑨)。当時の武将たちも、この夕陽を眺め、そしてここから決死の覚悟で朝鮮へ渡ったのかと思うと感慨深かったです。三成や義弘にもこの海鮮バーベキュー・・・食べさせてあげたかったな~😊

次は、関ケ原当時の居城(佐和山城)を訪れます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

洲本城 おまけの巻 (2023/08/12 訪問)

洲本城はとにかく広くて、その分郭もたくさんあります。
いくつか名前のわからない郭もあって、東の丸も
三段くらいの階層構造になっていて、総じて東の丸というようです。
洲本城はカップルや家族連れも多く、けっこう幅広い階層の訪問客が
いるのですが、日月池より東側、東の丸から武者溜にかけては
訪れる者もいなくて、ほぼ貸切状態です。
東二の門や一の門や石段などを、のんびり見物していたら
女性が一人やってきました。油断してましたね‥
年代は不詳ですが、いらぬ警戒心を与えないようにさりげなく
立ち去ります。次に来たときには登り石垣をゆっくり確認してみたい。
なかなか奥の深い城跡です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

洲本城 下の城 (2023/08/12 訪問)

洲本城山上の城は戦国期に安宅氏によって築かれ、羽柴秀吉によって落城し
天正13年(1585)~慶長14年(1609)に洲本城主の脇坂安治によって
総石垣の城に改修されています。
山下の洲本城は阿波藩主蜂須賀氏が由良城を配して寛永8年(1631)~同12年(1635)
までに築いた平城です。資料館の向かいには蜂須賀氏家老の洲本城代稲田氏の屋敷がありました。
東から郷土資料館、検察庁、裁判所と続き、手前には水堀を備え
かつての洲本城の石材を積み直して使用しているそうです。
西にある洲本八幡神社にはかつての城の遺構の金天閣が移築されています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒカミ

はしご登城 (2023/08/26 訪問)

清洲城・小牧山城・犬山城 
3城、御城印GET

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

本州と四国を繋ぐ要の城。 また来ます。 (2023/08/12 訪問)

洲本城は三熊山の山頂部全体に総石垣を用いて築かれた、かなりの城域を持つ
すごい城です。麓にも江戸時代に使用された、総石垣の城がありますが
ここでの洲本城はやはり山上の城でしょう。
馬場が駐車場になっており、そこから下にも駐車場があります。
私は今回、馬場のほうに留めさせていただきました。
大手と言いながらも途中狭くなっている箇所があり、大軍の移動を
妨げています。いくつか虎口を経て大階段を登って本丸を目指します。
本丸には南と西に虎口があり、南側の虎口は完全な桝形になってはいませんが
2回は直角に曲がらねばならず、実戦では、ここまでたどり着くまでに何度も
討ち取られていること必須です。
本丸北側に天守台があり例の天守閣が鎮座しています。
一度本丸から降りて、南の丸付近から本丸の石垣を眺めますが、かなりの高さです。
そこから西登り石垣の方向に行けるのですが立ち入り禁止になっています。
方向を変え東の丸を経由して東の端の武者溜へ移動。東一の門を見学し帰途につきます。
いずれ東の登り石垣にもトライしてみたいと思いますが、危険と判断したら
引き返す予定です。何度でも訪問してみたくなるすごい城です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

T-Shionoya

溶岩石積みの本栖城 (2023/03/04 訪問)

樹海の溶岩石塁に興味があり、3月は山梨県南都留郡富士河口湖町の本栖城へ。

精進湖と本栖湖の間、烏帽子岳から東の青木ヶ原樹海に突き出た比高約120mの尾根に築かれた城。
甲斐と駿河を繋ぐルートの1つ、中道往還が麓を通る、戦国期の国境警備ポイント。
1500年代中期には武田が、後期には徳川が支配していた記録があるとのこと。

現在はハイキングコースの一部でしょうか。
当日は南麓部、山城部、北麓部そして139号線東側の石塁の順で訪問。

樹海で道を見失いそうな南麓部は、初めて見る溶岩を積んだ関所らしい遺構が散在。
先端から登る山城の尾根は急勾配で、2か所ほどが滑りやすくスリリング。案内図の「竪堀」から連続堀切となり、ここからが城内でしょうか。
連続堀切を突破すると、積んであるのか転がっているのか黒い溶岩が見られるようになり、主郭の向こう側に写真の7枚目。

北麓の信玄築石も中道往還に設けられた関所の様。
そして東の長い石塁は奥に進むほど状態が良く、高い部分は2mぐらい。

滞在時間は約3時間半。
珍しい溶岩石積みの城が私の城郭巡りの152城目でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

岐阜城おまけ 織田信長居館 (2021/12/26 訪問)

岐阜城の麓にある織田信長居館も近年、どんどん発掘が進み
かなり立派なものであったことが明らかになってきました。
CGの技術も進み、往年の姿がわかりやすくなってきたことも
その宣伝に大いに役にたっているようです。
かつての政庁と呼ばれるもので、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは
「入口に劇場のような家」があり長い石段を登ると「宮殿の広場」に入る、と
記しているそうです。
居館中枢の背後には巨大なチャートの岩壁があります。
まさに天下の奇景ですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

岐阜城おまけ。めい想の小径 (2021/12/26 訪問)

今回 岐阜城登城にあたって、めい想の小径のルートを使いました。
いつもはロープウェーで登城道をはしょっていたのですが、
一度下から登城道を使って登ってみようかと思いトライしました。
比高50m~で良ければ私もこれまで500ほどの山城を登ってきてます。
ただ私は土造りの城が好きなわけで、山登りが好きなわけじゃないんですよ。
そんなに膝が丈夫じゃないし、できればはしょりたいというのが本音だったりしますが‥
涼しくなってきたら、これまで暑さで敬遠してた山城を攻めていきたいと思います。
体力と時間がもっとあると良いのですがね。
ただやはり、登城道から登ると達成感が違います。ひょっとしたら昔の兵達(つわものたち)も
同じような景色を見ていたのかもしれません。
ちなみにこのルートは裏門に抜けるルート、いわば裏道です。
気分は関ヶ原の前哨戦で岐阜城の織田秀信を攻めた福島隊ですね。
だから御手洗池にある案内板を見ると心がチクっとしますね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

生駒屋敷跡 (2023/07/22 訪問)

【小折城】
<駐車場他>久昌寺公園駐車場10台程度に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾5城目。現地説明板によると生駒氏は大和国の藤原忠仁の子孫で生駒山麓谷口村に居住していましたが、応仁の乱の時に難を逃れてここの小折村に移り住みます。生駒氏は灰と油を商う馬借で財をなし三代目の生駒家宗の娘、吉乃の方は織田信長の側室となり信忠・信雄・五徳姫の2男1女を産みます。この頃に小折城が築城されたようです。その後生駒氏は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原後は徳川家に仕えて尾張藩主徳川義直の守役として仕えます。一国一城令の時に小折城は廃城になりますが規模を縮小して生駒氏屋敷として明治まで存続します。一説には生駒家宗と蜂須賀正勝は同郷で秀吉は吉乃の方の推挙で信長に仕えたとされます。
 先に生駒家典医であった廣間家に現存移築された中門を見に行きました。下部が六角形のなまこ壁になっていて、かなり可愛い長屋門です。その後久昌寺公園の生駒家石造群⇒保育園南の一角に設けられた屋敷跡碑に行きました。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

天下への 望み開けし 景色かな (2021/12/26 訪問)

岐阜城は稲葉山城の二つ名と合わせて、城好きで、その名を知らない者は
ほぼいないと思います。(できれば日本で、と言いたいが)
今回 岐阜城登城にあたって、めい想の小径のルートを使いました。
大手ではなく、いわば裏道で関ヶ原の合戦の前哨戦で福島正則が岐阜城の織田秀信を
攻めるときに使った道です。彼らは元々、織田信長の陪臣であったから岐阜城の
弱点はよくご存じだったわけですね。難攻不落とうたわれた岐阜城はわずか一日で落ちます。
戦力を分散していたのが裏目に出たわけですが、相手のメンツが悪すぎました。

岐阜城は天守台が城域の最高部にあり、明治42年までは原型をとどめていたのですが
天守閣復興のために改修され、入り口の両側に原型を残すのみになっています。
麓の居館跡を含め、岐阜城の石垣はチャートと呼ばれるプランクトンの殻が堆積してできた岩を使用しています。
ブラタモリでやっていたので、ご存じの方も多いと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

中世では西美濃三人衆安藤氏の城、近世以降は戸田氏の陣屋。 (2021/12/26 訪問)

北方城跡には江戸時代に陣屋がおかれました。
陣屋の主は加納藩主戸田光重の三男光直です。
大井神社の門前を北限とし、小川と天王川に挟まれた神社から南にのびる
締め切りの道路の東西両側に分かれる、とあります。
その内容は添付の縄張りを参照にいただきたく。
今では宅地化が進んでいますが、基本的な配置は変わっていません。
縄張りで城址と示されている箇所に城址碑と案内板があります。

中世では美濃国二代守護、土岐頼遠の四男、頼興が本巣郡北方に住み
北方五郎と称し、城を築いたのが始まりとされています。
その後伊賀伊賀守定重の長男、安藤伊賀守守就が大野郡より移り住みます。
守就は西美濃三人衆の一人で斉藤竜興を見限り、織田信長に仕えますが
謀反を疑われ所領を没収されます。その後武儀郡谷口村に隠棲しますが
本能寺の変で信長が斃れると、北方に帰ってきます。
しかし稲葉一鉄に攻められ敗死、外山の龍峯寺に葬られます。
これらの戦いを北方合戦と言います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

心霊スポット (2023/08/14 訪問)

紫波洲崎城は、宮崎の景勝地、日南海岸の青島と鬼の洗濯岩とのちょうど中間地点の標高40m程の丘陵に築かれています。本丸の左右に曲輪を配し、空堀で区切った縄張りの城です。

伊東氏・島津氏攻防の城で、争奪戦が繰り広げられましたが、豊臣秀吉公の九州平定後は、伊東氏の持ち城となりましたが、その後、一国一城令により廃城となったとのことです。

8月14日早朝5時前に紫波洲崎城を朝駆けしようと、ホテルの部屋を出てロビーに向かったところ、フロントの係の方が準備をされていたので、「おはようございます」窓から見える「あの城山に行きたのですが、登り口を教えてもらえませんか」と尋ねたところ、怪訝そうな顔をされ、「この先を道なりに真っすぐ行って、キャンプ場を左に曲がると登り口がありますよ」と…「ありがとうございます」と返事をし、出かけようと振り返ったときに「あまりいい噂を聞きませんよ」と「なんでも、あそこに行って除霊を受けた方がいるとか」「景色は良いみたいですが、お勧めはできません」「この辺りでは有名な心霊スポットです」とキッパリ。
正直、城巡りをやっていると、いわく付のお城は幾つもあり、いちいちビビっていては城巡りはできないとの思いがあり、ホテルを出ましたが、そういえば城びとのマップを紫波洲崎城に合わせアップしていき、人型を展望台に合わせると左足だけにょきって写っている。

結局、登リ口付近をうろうろしましたが胸騒ぎがして結局、ホテルに帰ってきてしまいました。全然平気だよって方は、行かれてみては如何でしょうか。勿論、城びとの「行った」には「ぽちっ」としていません。

+ 続きを読む

初芽

清水宗治公を偲びつつ蓮を眺める (2023/08/26 訪問)

滞在時間:1時間

一面蓮の葉がとても綺麗でした。
開花の時期はもっと綺麗なんだろうなあ。
資料館で水攻めの資料や映像を拝見して
豊臣軍と毛利軍の駆け引きと
清水宗治公の想いを感じました。 

首塚や自刃の地、ごうやぶも拝み、
石井山や日差山を見て「あそこに秀吉公(隆景公)が
布陣していたんだなあ」と当時の状況を妄想。
水攻の図を見て、沈んでいく城や散っていった宗治公を
秀吉公達はどのように見てたのかな。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

初芽

これが版築土塁か! (2023/08/26 訪問)

滞在時間:1時間

ずっと近くで見つめてしまった版築土塁さん。
見た目の色からサラサラしてるのかな?と思ってたら
結構固そうで、そりゃ壁だもんなと1人で納得していました。
人の足で踏んで固めたと知ってびっくり。

行き帰りの道は運転ドキドキしましたが、
景色も最高で来た甲斐がありました。

後の予定があったため今回は西門コース。
次回は屏風折れの石垣や礎石群をぐるっと見て回りたいなあ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

400年、形原を見守り続けるお妙さん (2023/01/28 訪問)

古図で見ると今の姿からは想像もできない大きなお城だがよくよく見れば航空写真からかつての城域が浮かび上がってくる。若殿の命を身を挺して守ったとされる乳母を祀る「お妙塚」は今も形原の街並みを見守っている。

+ 続きを読む

ページ435