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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:高尾城 (2022/07/24 訪問)

荏原城からの転戦です。登山口前の空スペース(33.881076、133.123830)に駐車しました。
「高尾城跡 登山口」の石碑の横より橋を渡って用水路の土手に出て攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、享禄年間(1528年〜1532年)に高峠城の支城として、高峠城主石川通清によって築かれたと云われています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で、小早川隆景が伊予に侵攻します。
高峠城主石川若竹丸はまだ幼く、重臣達によって協議した結果、金子城主金子元宅の意見が通り高峠城に籠って小早川隆景と対することとなりました。
元宅は金子城を弟金子元春に守らせ自身は総大将として高峠城に入り、宇高城主高橋美濃守を高尾城に籠らせました。
小早川隆景率いる2万とも3万ともいわれる軍勢が怒涛の攻撃を仕掛け、美濃守らは良く防戦したが、遂に落城し城に火を放って自刃したそうです。

主郭は山頂にあり南に高土塁、北西に低土塁が残っています。主郭の南背後に堀切があります。
防虫ネットが蜘蛛の巣だらけで蜘蛛までついていました。
下山中、右ひざを木の株にぶつけてしまい出血負傷。足をひきづりながら下山しました。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=土居構に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:荏原城 (2022/07/24 訪問)

松山城からの転戦です。城址内空スペース(33.766319、132.812751)に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。 1335年(建武2年)には北朝方の大森氏が南朝方の忽那氏と戦っており、この頃には築かれていたと考えられているようです。
室町時代後期には河野氏の重臣平岡氏の居城で、四国統一に向けて勢力を伸ばす長宗我部氏に対する押さえを担ったようです。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐では平岡通倚も湯築城に籠もったが、河野氏は降伏し荏原城も落城となったようです。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では松前城主加藤嘉明が徳川家康に従って留守となっていた隙に、安芸毛利氏の家臣が伊予に上陸して松前城を攻めました。
このとき、平岡通倚の弟平岡直房が毛利氏に味方して荏原城に立て籠もり戦っています。

周囲に高土塁と水堀がよく残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=高尾城に向かいます。

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猪狩筑後守隆清

岩城家重臣猪狩家 (2006/06/07 訪問)

猪狩家は小野妹子の兄弟 小野良人が祖先であり 11歳の時に初陣を果たし 11力の家紋を与えられ 源の義家 頼義に襲いい かかる大猪を弓矢で射止めたころより猪狩の名を授かる。岩城家家臣となり 木戸城を落城 楢葉太郎を破る。その後 相馬 伊達の最前基地として木戸城の強化。高倉城に 数キロにわたる要害の砦を気づいた。木戸川の合戦や度々の相馬の戦に置いて 防衛戦や奪還作戦に成功した。岩城家が佐竹の傘下に入り、小田原の合戦 人取り橋の合戦などに参戦。2代目佐竹城主が関ヶ原の戦いで西軍の味方と判断され、佐竹岩城家は秋田に貼付、猪狩家もバラバラになり高倉城はは廃城となる。城は現在整備され 館跡 曲輪 土塁 河石を使った石垣などが見られる

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ぴーかる

浦富台場 (2022/08/11 訪問)

【浦富台場】
<駐車場他>浦富海水浴場駐車場 海水浴シーズンは駐車料金1000円、シーズン以外は無料かと思われます。
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>浦富台場は国史跡に指定されている6つの鳥取藩台場跡の1つです。現地説明板によると1863年には台場の構築をして大砲の配備を行っているとあります。藩の大砲の鋳造は現在の大栄町(今はすいかで有名)で行い、鵜殿長道が持ち場となったそうです。
 現在は土塁が2段になって残っており、台座部分はどの辺だったかはわからない。夏場は無料で駐車できる場所がなく、5分以内の路上停車でちゃちゃっと見ました。

<満足度>◆◇◇

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赤い城

貴船神社か戸越公園か (2022/07/24 訪問)

大崎駅から徒歩で10分。
貴船神社が推定地とされています。
遺構はありません。
戸越公園も推定地の一つとのことなので足を伸ばして見ました。
こちらにも遺構はありませんが細川藩の下屋敷跡でもあり、薬医門が残っています。
池のある趣きのある公園でした。
さらには西光寺も推定地らしいのですが今回は行かず。
又の機会に行ってみますかね。

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マダム卑弥呼 

意外なお城跡 (2021/11/21 訪問)

お勧めです。まさかあんなに感動するとは思っていませんでした。土日しか開いてないので気を付けて

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マダム卑弥呼 

村重が大好き (2021/11/21 訪問)

やっと行けた。原田城(豊中市)にも一緒に行きました
村重の城。川との関係性も重要です。逃げて生き延びた男の城。

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カズサン

堀底から天を貫く宇土櫓圧巻の美しさ (2005/10/21 訪問)

 宇土櫓は熊本城唯一の現存多層櫓です、平佐衛門丸北西角、反りの有る高石垣台に建ち、連結式の天守構造を持ち第三の天守とも呼ばれて居ます、また宇土城の天守を持って来たとの伝えも有る様です。
 反りのある高石垣が約20m程、その上に三層五階の宇土櫓、続多聞櫓、二階櫓と続き、黒下見板張りで建てられ、荘厳圧巻の高石垣に黒基調の第三の天守と言われる建屋がまた美しい、ビューポイントです、西出丸外の二の丸から宇土櫓、大天守、小天守が並んだ姿は西出丸黒下見板張土塀とマッチして美しい景観でビューポイントでもあります。

 熊本地震の前に、飯田丸五階櫓が木造復元した平成17年の10月に飯田丸五階櫓見学した折グルーと探訪、見学散策しましたので、宇土櫓を中心に投稿致します、美しい宇土櫓をご覧下さい。

 平成28年の熊本地震で宇土櫓も被害を受けて居ります、倒壊は免れましたが傾き今は登閣出来ません、続多聞櫓と二階櫓は倒壊して、倒壊部材を復旧の為保存し次の復旧工事の順番を待って居ります。
 先の長い復旧工事ですが、期待をしながら、支援もしながら復旧完成を待って居ります。
 
 熊本城の「復元直後の飯田丸五階櫓をご覧下さい」「清々しい長塀の景観」「天守閣の雄姿をご覧下さい」「堀底から天を貫く宇土櫓圧巻の美」と続けさまに投稿しまして目障りの感はお許しください、熊本城の美しさに只々感激です。
 頑張れ熊本城、熊本市民、熊本県民、復旧に携わってる皆さん❕ 応援は惜しみません。
 

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higekam

本年2月以来の再訪 (2022/08/12 訪問)

前回は伐採作業中で立ち入れなかった二の丸の一部、本丸南の急傾斜に連なる曲輪群を実見するために登城。

今回は降り続く雨のなか二の丸奥の巨石群で雨宿り。巨石の横にある本丸への登城路を支える石垣を今回は発見。止まない小雨のなかさらに本丸へと進み南曲輪群へ踏み入った。自然の岩石を巧みに活用しながら一部を石垣で固めていて見応え十分。ただ、降り続く雨に途中で引き返す。曲輪群の半分を今回踏破しただけでまだまだ見どころはありそう。改めて訪れ存分に楽しみたい。

時間があまったのでGoogle Map にあった楯岩城居館跡にも足を運んだが石垣が点在。本丸山頂から南方向直下の麓(黒岡神社奥)にあり、南曲輪から見下ろすと急傾斜ではあったが居館跡から直登の登城ルートがあるのかもしれない。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:松山城 (2022/07/24 訪問)

湯築城からの転戦です。フラワーパーキングお城下(33.8435557、132.7713395)に駐車しました。
2回目の攻城です。1回目は次男と二人で2017/2/17にクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」で攻城しました。

本丸は山頂にあって南北に長く、周囲の石垣は横矢を掛ける隅落や屏風折れを用いています。
ロープウェイ・リフト乗場及び本丸の手前でコロナ感染チェックやってました。
前回攻城時は雨模様だった為、往復ロープウェイでしたが、今回をリフトを使って登りましたが、さすがに暑くて下りはロープウェイにしました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=荏原城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:湯築城 (2022/07/24 訪問)

花見山城からの転戦です。城址前にある駐車場(33.848018、132.785291)に駐車しました。
2回目の攻城です。1回目は次男と二人で2017/2/17にクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」で攻城しました。

現在は道後公園となり、一部に復元された武家屋敷や展示施設があります。
今回は、西側の外堀と内堀の間にある湯築資料館のみ覗いてみました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=松山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:花見山城 (2022/07/24 訪問)

港山城からの転戦です。堀江新池公園駐車場(33.900199、132.752065)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1368年(正平23年)伊予を脱して九州へ落ちていた河野通直が伊予に帰国して勢力の回復を計り、細川氏に降ってた花見山城の久枝四郎左衛門与利を降しました。
河野通直はここに陣を構えて大空城を攻めています。
その後、河野通孝(西通孝と同一人物?)が城主となり、西氏の末裔は西山氏に改姓して代々城主と続いたそうですう。

駐車場向い説明板が建てられ、祇園神社への登り口があり、途中に西山肥後守通倫の墓があるはずなのですが見落としました。
現在主郭は祇園神社、南側二段(2郭、3郭)は畑のようです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=湯築城に向かいます。

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イオ

とことん江戸城(竹橋門~半蔵門) (2022/06/22 訪問)

(続き)

平川門の山里門からは細長い帯曲輪(立入不可)が西北西にのび、竹橋門まで続いています。竹橋門は北の丸への枡形門で、櫓門部分は道路になっていますが、わずかに高麗門の石垣が遺っています。

竹橋門を過ぎて平川濠沿いに西に進むと本丸北端の高石垣が目に飛び込んできました。中之門も天守台も圧倒的なスケールの石垣でしたが、ここまで高石垣に出会えなかったのが少々物足りなくもあったところに、大坂城の南外堀沿いにも劣らぬ折れのある高石垣が見られて大満足。それでこそ天下一の城ってもんですよね。

平川濠西端の土橋の先には北桔橋門があり、往時は木橋を跳ね上げる仕組みだったようで、現存の高麗門に吊るし金具が見られます。天守台裏手に直結する重要な門ですが、この高石垣に架かる橋を跳ね上げられたらどうにも攻めようがないよなぁ、と。北桔橋門の西側、乾濠沿いにも折れのある高石垣が続いています。

北桔橋門の西にある乾門は、往時は門は無く上覧所と呼ばれる施設があった場所で、明治に皇居への出入口として西の丸の紅葉山下門が移築されています。普段は閉鎖され通れませんが、一般参賀や乾通り一般公開では退出門になっているようです。

さて、乾門から信号を渡って北の丸に向かう……つもりでしたが、仕事の時間が迫っているため、北の丸は明日にして千鳥ヶ淵から半蔵濠沿いに歩いて半蔵門へ。半蔵門は江戸城の搦手門にあたり、江戸城の弱点とされる台地続きの内郭西側に設けられた唯一の門です。現在は半蔵門の奥には皇居御所があるだけに厳重に閉ざされており、土橋の手前から和田倉門から移築されたという高麗門が見られるだけですが、半蔵濠と桜田濠を隔てる巨大な土橋は圧巻で、桜田濠側から見ると想像を絶する土木量に圧倒されてしまいました。桜田濠は自然地形を活かしつつ鉢巻腰巻石垣で固めた、都心とは思えない雄大な景色が外桜田門まで続き、石の城としても土の城としても超一級品で、ブラタモリのお題の「江戸城は日本の城の集大成!」を実感しました(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:港山城 (2022/07/24 訪問)

松前城からの転戦です。海岸沿い空スペース(33.868081、132.712546)に中止し、登り口(33.868533、132.712945)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、建武年間(1334年〜1338年)に河野通盛によって築かれたと云われています。
湯築城を居城とした通盛が海辺を防御するために築いたと城だそうです。
河野本家と予州家による内紛では、予州家の河野通春が拠点としていましたが、通春が病没すると攻め落とされました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で落城し廃城となりました。

港山集会所の向かいに案内板と登山口があり、そこから山へ入る遊歩道があります。
2郭全面に石垣があり、これを上がったところに土塁があります。
主郭は公園として整備されていますが、あとは竹藪と夏草で遺構はよくわかりません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=花見山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:松前城 (2022/07/24 訪問)

曽根城からの転戦です。松前城付近のガソリンスタンド(33.793204、132.701436)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、 南北朝時代には既に存在しており合田弥四郎が城主だったそうです。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐では、河野氏の部将栗上通宗・宗閑が城主でしたが、小早川隆景の攻撃によって開城しました。
その後、粟野秀用が70,000石で入封しますが、豊臣秀次の事件に関係して領地を没収されました。
1595年(文禄4年)加藤嘉明が淡路国志知城より60,000石に加増入封し、この加藤氏の時代に城は大改修されたと云われています。
関ヶ原合戦で東軍に参陣して留守になっていたところを、毛利氏が攻めたが決着がつかず関ヶ原合戦が東軍の勝利に終ったことで毛利勢は撤退しました。
その功によって20万石に加増された加藤嘉明は新たに松山城を築城し、松前城の石垣などは全て運ばれ廃城となりました。

県道22号線に面して公園にあり、付近に駐車場所がありません。
自分はガソリンスタンドで給油している間に石碑と説明板を確認しました。
ガソリンスタンドの女性がお話し好きで暫し、話に付き合いました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=港山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:曽根城 (2022/07/24 訪問)

新谷陣屋からの転戦です。登り口碑付近先空スペース(33.562471、132.658113)に駐車しようとしましたが、チェインが張られ駐車できませんでした。
付近をウロウロしましたが路駐できず「低い登り口碑」(33.562661、132.657573)の写真を撮って撤退しました。

築城年代は定かではないようですが、1544年(天文13年)曾根高昌によって築かれたと云われています。
曽根氏の祖は宇多源氏佐々木高綱と云われ、近江国愛知郡曾根を名字の地とし、戦国時代に周防の大内義隆を頼り、さらにこの地に来て城を築いたとされます。
高昌の子、曾根丹後守宣高は天正年間(1573年~1592年)に、五十崎の龍王城主城戸直宗と争ってこれを滅ぼしました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の武将小早川隆景の軍が迫ると、曽根氏は隆景に降りました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=松前城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:新谷陣屋 (2022/07/24 訪問)

大洲城からの転戦です。麟鳳閣入口付近(33.539315、132.598758)に駐車しました。

1641年(寛永18年)加藤直泰によって築かれました。
新谷藩初代加藤直泰は初代大洲藩主加藤貞泰の次男で、1623年(元和9年)貞泰が没したとき、大洲藩領60,000石のうち10,000石を次男直泰に分知することとなりました。
しかし、兄である大洲藩二代泰興がこれを認めず、しばらくは紛争が続きましたが、1639年(寛永16年)に和解が成立し喜多郡新谷の地に陣屋を構えました。
その後、新谷藩加藤氏は泰觚、泰貫、泰広、泰宦、泰賢、泰儔、泰理、泰令と九代続いて明治に至ります。

新谷陣屋は現在の新谷小学校の地に築かれています。
最大の見所が麟鳳閣です。この建物は1868年(慶応4年)の建築で藩の評議所や謁見所として利用されたようです。
新谷保育所にある「上に時計台がある陣屋風の建物」は見学し忘れました。残念です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=曽根城に向かいます。

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小荷駄

日野城跡 (2022/07/22 訪問)

日野駅から徒歩一時間位でした。駐車場とトイレは有りました。城跡に行く前に日野まちかど感応館でパンフレットを頂いてから城跡に向かいました。遺構はダム建設によりあまり残されていないけど仁正寺陣屋跡と合わせて一時間以上は散策をしてきました。城跡の入口に有る石碑の裏側にこれより西に十歩の所に大手門跡の文字が刻まれているのを見つけた時は今は茶畑ですがそこにはどんな門があったのか?と想像はつきませんでした。日野駅から往復二時間は歩きましたけど日野商人街道をあれこれ想像しながら楽しく散策出来ました。

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デデ

石垣が半端ない (2008/12/05 訪問)

2度程登城しましたが、途中の石垣の見事さは
圧倒されます。山城の醍醐味でしょうね。
天守閣にはお目付け役の猫も出迎えてくれます。
元気なうちにもう一度挑戦してみます。

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デデ

一番好きなお城 (2006/06/29 訪問)

学生時代から攻城中です。大人になってからも8回攻城。
木曽川に佇むこじんまりとしたお城ですが、夕日に浮かぶ風情は秀逸です。
城下町も近年若者が好むような食べ歩きが出来るお店が増え、訪問客が増えています。

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