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トク

66【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と佐和山城) (2023/07/02 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原当時の居城、「佐和山城」を訪れてきました。

龍潭寺の入口(写真③④)にチャリを止めここから登城します。入口には三成の銅像がありましました(写真①②)。

この三成はとても知的な顔ですね~! しかもかなりリアルです。今にも動き出し、私に何かを語りかけてきそうな・・・ 墓から発掘された三成の頭蓋骨から再現し作ったそうです(なるほど🤔どうりで)。登る前から何やら緊張してしまいました。さあここから20分程の登山です。(写真⑤:猿に注意?)

1591年31才の時に石田三成はこの佐和山城に城代として入ります(この頃、佐吉から三成と改名)。そして1595年、秀吉から近江19万石を与えられ、正式に城主となった三成は、本格的に佐和山城の築城を開始しました。山頂にはかつて三成の築いた五層の天守がありました。しかし、関ケ原の翌日に小早川秀秋軍などに攻められて焼き払われたようで、そのためかあまり記録が残ってないようです。いったいどんな天守だったのでしょうか?

わずかな資料を元に地元の方々が再現した、こんな天守だったという模型が登山口近くにありました。でもこれ何か変では? なぜか豊臣系でない層塔型のような? 彦根城にちょっと似ているような?・・・私はこの城を背景に佐和山を眺めてみました(写真⑧)。やっぱり何か違和感があるような・・・ 本当はどんな天守があの山の頂上に建っていたのでしょうか? ならばこの写真⑧をもとに、こんな城だったのではないかというイラストを自分で作ってみました(写真⑨)。こんな感じの方が近いのではないでしょうか?

1600年3月、伏見での福島ら武断派による三成襲撃事件の後、家康の仲介で奉行職を辞し、三成は佐和山城へ蟄居します。すると家康は三成と対立する武断派の諸将をうまく取り込み、豊臣体制を崩していく事に成功しました。

蟄居した三成は、ここで大谷吉継らが止めるも聞かず、家康が太閤と約束した事を守っていないといった内容「内府ちがひの条々」をせっせと書き、三奉行を通じて全国の諸大名に送り味方を募ります。そして打倒家康の戦術を着々とここで練っていきました。

そして時を同じくして、直江兼続が「直江状」を家康に突きつけると、怒った家康は会津の上杉討伐へ出陣していきます。この隙に、ついに三成も兵を上げ、伏見城を守るの鳥居元忠を攻めた後、大垣城に向かい家康を迎え撃つ事にします(伏見城の詳細は私の(11人目)鳥居元忠を参照下さい)。

次は、関ケ原の前哨戦となった(大垣城)を訪れます。


【余談】彦根レンタサイクル
彦根駅前の井伊直政の銅像から50mくらい彦根城方向に行ったすぐの交差点に、貸自転車屋がありました(写真⑩)。彦根城や佐和山城への移動にオススメです。予約不要で安く借りる事できました(確か3時間500円くらい)。1日で両方回るならチャリが断然便利です(身分証要)。
 

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しんちゃん

ひたちなか海浜公園 ネモフィラが見頃とのことで‥ (2023/05/05 訪問)

ひたちなか海浜公園に行ってきました。花の名所で5月はネモフィラとwikiにも
出ているので、行ってみたのですが‥見頃過ぎてるじゃん。またか‥。
よくネットやTVで見る、一面の青い世界を期待していたのですが、緑が多い。
きれいと言えばきれいですが、違う。なんか違う。それになんか白くない?
警備員の人によると今年は特に見頃が早くて4月には過ぎてしまっているとのこと。
温暖化と異常気象で日本が熱帯雨林化しているのは常日頃から感じてはいるが
ここ6~7年ぐらいでだいぶ進んでいるような気がする。
2017のGWにに五稜郭を訪れた時は、桜が満開ですごいキレイだったが、今だと
若葉になっているんだろうな。情緒もへったくりも無い。
朝方は色が白くて、昼ごろになると元気になって青くなってくるそうだが、昼は
城めぐりで忙しいんだな。‥で、夕方また来てみたのだけど、あまり変わってない。
フラワーパークはライトアップでごまかせるけど、これはどうしようもないな‥。

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ぴーかる

野府城 (2023/07/22 訪問)

【野府城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>名鉄開明駅から徒歩

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾9城目。現地説明板によると野府城の築城時期は不明であるが戦国時代には織田信長の弟織田信治の居城でありました。織田信治は宇佐山城の戦いで討死します。「尾張志」に武藤雄政が江戸時代初期に野府城跡に住み徳川義直に仕えたとあります。武藤家はその後断絶したそうです。
 一宮駅近辺のコインPに駐車し名鉄に乗って来ました。遺構は残っておらず現在は開明小学校の校門入ってすぐ左手に城跡碑と説明板があります。土曜日でしたが運動場で少年野球をやっていたので校門が開いていたので少し入って撮影しました。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

公園と本格遺構がくっついた。 (2023/05/01 訪問)

山上城は南北650m、東西220mの城域を持つ、緩やかな丘陵上に築かれた平山城です。
北から笹郭、北廓、本丸、二の丸、三の丸と続き、三の丸は公園化していますが、それ以外は
遺構が良く残っています。山上城由来碑によると物見台を持つ南郭も残っているようですが、訪れていません。
東の蕨沢川、西の山田川浸食による谷地が堀の役目を果たしていると有ります。
藤原秀郷の子孫である五郎高綱が山上氏を名乗り居城としたとされ、高綱の子、太郎高光は源頼朝に仕え、
関東管領上杉氏の時代に、由良氏、薗田氏、桐生氏と共に東上州四家として重要な役割を果たしていたと有ります。

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しんちゃん

本丸・二の丸周辺と大胡神社北側に遺構が残る。 (2023/05/01 訪問)

大胡城は南北にある丘陵上に築かれた平山城で、本丸周辺に遺構が良く残っています。
本丸を中心に、二の丸を囲部的に配し、北に北城(越中屋敷)、
近戸曲輪、南に三、四の曲輪があるようです。
東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平坦部が附加され、
南北670m、東西310mの規模を持つと有ります。
周辺は市街地化も進んでいますが、本丸周辺以外にも北側の大胡神社周辺、
特に北側に大きな空堀が残っていました。
神社自体周囲より高地にあり、かつての曲輪であることを感じさせます。
上野の豪族、大胡氏が城主であったとされますが、戦国期の混乱の中、上杉、
北条と城代が立て続けに変わりますが上杉方の北条高広が城代を務めていた時代があるようです。
謙信死後の御館の乱の際には入道芳林(高広)は子の景広と共に上杉景虎に味方しますが、
景広は討死し、景虎も自害、天正7年4月、厩橋に戻った芳林は武田勝頼に従います。
本能寺で信長が斃れた後、芳林は服属を迫る北条を退け、真田昌幸と結びます。
芳林は上杉景勝に関東出馬を勧め、大胡常陸介高繁に大胡城を固めさせて、太田三楽斎の援助を得て、
佐竹・宇都宮・結城氏の援軍を動かし小田原勢を撃退します。
真田昌幸も何でもありの人でしたが、北条高広(芳林)も辛酸を舐め尽くし、
できることは何でもやってやろうという強い気概を感じます。

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三好義継 (2023/08/31 訪問)

 三好義継と彼を裏切った若江三人衆(多羅尾綱知、野間康久、池田教正)に少し興味があり、見られる遺構はないとわかっていましたが、一度行ってみたかった城址です。若江公民分館を中心とする地域に築かれていたと伝わっています。説明板、石碑があります。

 近鉄奈良線若江岩田駅より1Kmくらいなので徒歩でも行けると思いますが、この日は若江岩田バス停よりバスに乗り若江バス停で降り登城しました。若江バス停からは徒歩5分くらいで行くことができます。

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江口の戦い (2023/08/31 訪問)

 江口の戦いで有名な城です。正式な場所は特定されていないようですが、皆様と同じように大隅神社の狛犬を目指して行きました。

瑞光四丁目駅より徒歩約10分で行けると思いますが、また道を間違えて15分以上かかってしまいました。

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郡兵太夫正信 (2023/08/31 訪問)

 和田惟政の家臣、郡兵太夫正信の居城と伝わっています。浪速少年院付近が城址とのことで正門前に石碑と説明板、出土した石垣の石がありました。
阪急茨木市駅よりバスが出ていて郡バス停がもよりのバス停です。

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しんちゃん

今は田畑に石碑が残る。 (2023/05/01 訪問)

那波城は昌雲寺の北側、伊勢崎市立第二中学校の西側にあったとされ、石碑が田畑の中に残っています。
さらに西に行った先の名和小学校にも石碑と案内板がありますが、いずれも遺構は残っていません。
城主の那波氏は大江広元の子、政広を祖としています。この那波氏とは別に藤原秀郷系の那波氏が佐波郡玉村町に
いるようです。永禄3年(1560)上杉政虎が那波城を攻め降して、北条高広を置いたとされます。
那波宗元は嫡男次郎を人質として本領を安堵、まもなく亡くなり、次郎顕宗が継ぎ、高広の妹が室になったと言います。
天正6年(1578)顕宗は北条氏(小田原)に従い北条高広の攻撃をうけますが、これを撃退します。
天正15年安芸、原因は不明ですが那波城は小田原北条氏に占拠され、顕宗は上杉景勝を頼り、天正18年奥州九戸で討ち死にしたと
有ります。後に那波城城代、大和晴親は小田原攻めに際し、秀吉軍に降伏しています。後に関東に入封した徳川家康によって
松平家乗が一万石で入りますが、慶長6年(1601)廃城となりました。

※参考資料・日本城郭大系・第四巻

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安威弥四郎 (2023/08/31 訪問)

 天王文庫の前に石碑と説明板がありました。土塁や井戸が残っているとのことですが、確認していません。
阪急茨木駅よりバスがあり安威南バス停がもよりのバス停です。

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国際文化公園都市 (2023/08/31 訪問)

 歴史的には不明なことも多い城址ですが、発掘調査から16世紀半ばの山城と判明しているとのことです。ぴーかるさんの投稿を見て残念な状態になっていることは承知していましたが、石碑が残っているとの情報があり行って来ました。栗栖山砦と彫られた石碑を見つけましたが砦の文字は少し土に埋もれていました。昔は説明板もあったようですが、今はありませんね。
 大阪モノレール彩都西駅からバスがあり馬場バス停がもよりのバス停です。阪急茨木駅かもバスがあるようです。

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しんちゃん

高さ4mの土塁は圧巻。 (2023/05/01 訪問)

赤堀城は西の粕川と東の鏑木川に囲まれた自然地形を利用し、東西約170m、南北約350mの
範囲に築かれた平城で、本丸の周囲を高さ4mの土塁で囲み、その周囲、北東南を二の丸が囲みますが
東側は鏑木川の氾濫で失われています。本丸は一辺80mの方形で北と南の虎口は食い違い虎口になっていて
二の丸は南と北に堀跡と土塁が残っているようです。
南北朝の時代、赤堀氏は足利尊氏のもとで功績をあげて旧領を回復し、戦国期の永禄・天正のころは上杉謙信に
従っていましたが、謙信の死後は北条氏に従っています。赤堀城には小田原から派遣された小菅摂津守が入っていましたが
天正18年に廃城となったようです。

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侍ホリタン

姫路城2023夏の特別公開 (2023/08/21 訪問)

期間2023年8/11(金)〜9/24(日)
時間9時〜17時最終受付まで
入城料1,000円の他に別途特別公開観覧券500円が必要です。

兵庫デスティネーションキャンペーン(自治体と観光業者、JRグループが一体となって行なっている大型観光キャンペーン)の開催を記念した
非公開エリア
「東小天守」、
「イの渡櫓」、
「ロの渡櫓」、
「乾小天守」、
「ハの渡櫓」、
「折廻り櫓」の計6棟の公開です。

6棟のうち「折廻り櫓」以外は2022年の夏季特別公開時に見学済みですので「折廻り櫓」目当てで見学して来ました。

今回の観覧券は昭和9年頃に使用されていた復刻品となって記念になります。

折廻り櫓は、天守台東側の石垣に接した2階構造の櫓です。
1階は倉庫、2階西側には居室としての3室があり、東側は備前門に繋がる防衛拠点としての役割を担っていました。
令和4年度に改修工事を終えたばかりなので外観、内部共に綺麗でした。

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カズサンさんからの宿題を果たしに (2023/08/28 訪問)

鳥取西部の城をものいろしていると、2020年12月のカズサンさん投稿「公園広場が有る、ここが城跡かと思い打ち切りましたが、案内板と今回ガイドの古城盛衰記さんをよく理解すると更に200m程下に城跡、石垣、曲輪、櫓台が有るそうです。雨の中注意散漫で重要遺跡を見落としました。次投稿の方に宜しくお願いいたします」を発見。二番槍をつけるべく、行って参りました。
進入経路はカズサンさんと同じく城域南の山の中腹を走る農免道路から。河口城の説明板脇から、散策道を下って行きます。散策道は、いのししが掘り返した痕がたくさん😥鬱蒼とした中を進むと、河口城の標柱がありました。階段を登ると、本丸に。南端に、整った石垣の櫓台がありました。本丸の周りを囲むように小さめの曲輪を配置し、その外側は、南以外は切り立っています。特に北側は断崖。南側は、背後の山に続いていくので、広い堀切で遮断しています。
上述の農免道路は、分かりにくいのと、あまり使われて無さそうで、木が道路に覆い被さってきてます。泊駅に駐車して、国道9号線から攻めるのが良いかも。

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カズサン

【遠江天王山砦】静岡県掛川市 家康掛川城包囲戦本陣 (2023/08/28 訪問)

 『歴史群像』4月号、戦国の城連載で【遠江】掛川城攻め付城群が文・監修=加藤理文氏、イラストレーション=香川元太郎氏で寄稿されて居り、訪ねてみたいと思っていた城郭です。

 住所:静岡県掛川市下西郷84(龍尾神社)、掛川城から北東に約900m程の独立小山
 駐車場:龍尾神社西麓に参拝者駐車場が広くとって在ります。

 駐車場から倉真川に注ぐ麓川(水堀の様)を渡り、石段の参道は控えて、一般車禁止の坂道を褶曲するように登る、砦の法面は切岸の様な崖ですが草木に覆われてる、龍尾神社が鎮座す境内が天王山(龍尾山)砦跡、グーグルマップを拡大すると史跡マークが出て来ます。
 境内は樹木に覆われて掛川城方向を望む事は出来ません、龍尾神社に先ず参拝、龍尾神社の祭神は素盞鳴尊で家紋は織田木瓜でした、境内曲輪は広くその当時の本陣としては十分機能したのでしょう、掛川城に対して北池が南に控え、砦の山麓には川が周囲を流れて堀の役目、掛川城に対して約900mとは今川氏真に威圧を掛けた事でしょう。

 歴史的には、永禄11年(1568年)12月、武田信玄と徳川家康との密約で今川領の2処分化で駿河は信玄の侵攻、遠江は家康の侵攻で始まり、信玄に今川館を追われた今川氏真は家臣の朝比奈氏の守る掛川城に逃げ込む、家康は包囲戦付城砦を築き翌年の永禄12年1月より掛川城攻めを開始、天王山砦付近でも今川軍徳川軍の攻防が繰り返されて居るようです、膠着状態が5ヶ月ほど続き、遠江も不安定な状態であり、和睦を図り今川氏真は義父の北条氏康のもとへ退去を永禄12年5月して掛川城包囲戦は終わる。
 ほぼ遠江を治めた家康と駿河を治めた信玄との国境の戦いが始まる。
 
 龍尾神社は地元の方々の崇敬及び歴代の城主の方にも敬われて居ました、境内には近世掛川城に改修した山内氏二代忠義公奉納の蘇鉄と土佐石が社殿脇に在り、また掛川城主太田備中守奉納石灯籠が二の鳥居脇に在ります。(社務所にてパンフレットを頂きました)

 参考資料は、歴史群像4月号遠江掛川城攻め付城群、文監修=加藤理文氏、イラスト=香川元太郎氏。
       2023年2月25日掛川市生涯学習センターホール講演、徳川家康の掛川城攻め、加藤理文氏講演レジメ(掛川市HP公開)
       龍尾神社パンフレット
       グーグルマップ
       に依ります。
 

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にのまる

⑤清水門・帯曲輪門 (2023/06/24 訪問)

歴史館、二の丸茶屋に寄ったあと清水門へ足を進めました。
清水門は「白河城御櫓絵図」により外観だけでなく内部構造までもわかっているそうで、復元へのプロジェクトが進んでいます。
今でもここを通るといよいよ本丸だ!とワクワクしてきますが、櫓門が甦ったらどんなに素晴らしいことでしょう❣️
復元の日を楽しみに待ちたいと思います……と、いつでもどこでも待っているだけなので、このたびはふるさと納税で一石城主に申し込みました。

今まではここから右手の竹の丸→前御門→三重櫓へと進んでいましたが、今回は帯曲輪へ行けるようになったので、左手へ進みます。右側の桜之門を過ぎると帯曲輪門。この門には杮葺きの櫓門があったそうです。石垣のみとなった今でも、“ちょっとここどうなってるの?”というおもしろさがありました。
美しくよみがえった石垣は近くに寄って見ると補修の跡がわかるところがあり、以前訪れた際の石工さん方の姿や一つ一つに番号が振られていた石を思い出しました。

これまでの石垣復元工事の流れを知りたくてみなさま方の投稿写真をじっくりと見させていただきました。この頃はこのあたりはこういう状態だったんだ……ということがわかって、改めて城びとの投稿欄に集まったみなさま方の訪問記録や現地情報、写真は財産だなと思いました。感謝m(__)m
〈つづく〉

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー69城目 (2023/08/09 訪問)

予定していなかったゴールデンカムイ展に時間をかけてしまったため、予定していた四稜郭はパスしました。るろうに剣心北海道編の聖地のひとつなんですけれどもね。碧血碑には脚を伸ばしておきました。2003年11月以来、20年ぶりです。ここもるろうに剣心北海道編の聖地なんです。函館空港のレンタカー営業所に返却する前に志苔館に立ち寄ってスタンプをゲットしました。空港で夕食をとるため早めに城めぐりを切り上げたのですが、飛行機が1時間以上遅れたので、余裕で四稜郭には行けたと思います。それでも台風の影響で大混乱だった中、無事、北海道に行程通り行ってこれた幸いに感謝しなくてはなりませんね。

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しんちゃん

本丸は利根川の反乱で崩壊。 (2023/05/01 訪問)

石倉城は二の丸跡が公園になっているようで、城址碑があります。
城址碑の右の板が縄張り図のようです。裏側に回ると良いみたいですが確認し損ねました。
遺構はほぼ残っていないようで本丸部分は崩落しているようです。
河岸側へ降りて下から見上げてみると、切岸のようにも見えますが
昔とは形状が異なっているようですので、参考にはなりません。
城郭大系には武田信玄が築いたとされていますが、今の解釈では
信玄公が城を改築し、厩橋城を抑えて、永禄9年9月に箕輪城を攻略したと有ります。
厩橋城攻略のための重要な拠点で、かつては武田と上杉で争奪戦が行われ、
後に北条氏政(氏直)が厩橋城の北条高広に帰属を命じたが高広はこれに応じず、天正11年(1583)正月
氏政(氏直)は石倉城を対城として厩橋城を攻めたとあります。天正11年(1583)9月に
厩橋城は氏直の手に渡ったとあります。

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ぴーかる

一宮城 (2023/07/22 訪問)

【一宮城】
<駐車場他>近くのコインPに駐車しました。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾8城目。一宮城の築城時期は定かではありませんが、織田信長の家臣である関成重によって築城されたとされます。関成重の父、関綱長は美濃関城城主であり成重も近くの佐野城主でしたが、時期不明だが斎藤氏から鞍替えして織田信長に仕えたようです。また美濃関氏は尾張一宮の真清田神社の神主の家系であったことから信長から一宮の地を賜った時期に真清田神社と領地を守るために築城または規模の拡張を行ったと考えます。関成重の子である関共成は小牧長久手の戦いで戦死します。その後城は織田信雄家臣の不破広綱が入城しますが1590年織田信雄が改易された後に廃城となったようです。
現在は銀行入口横に城跡碑があるのみなので撮影し終了した。

<満足度>◆◇◇

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todo94

デジタル一眼レフデビューの年 (2003/11/23 訪問)

古い写真をあさっていたら懐かしい写真が出てきたので投稿させていただきます。2003年11月、三連休パスと青森-函館往復切符で函館に行った時の写真です。秋田から青森に向かう列車に先行する貨物列車の車輪とレールの間にぬれ落ち葉が挟まって空転してしまい、時速3kmしか出せない状況で大幅に列車が遅れ、予定していた特急白鳥に乗れず、今は亡き寝台特急北斗星1号に乗って函館に行くことができたのは懐かしい思い出です。旧五稜郭タワーからは五稜星の形を一望という感じにはなりませんでした。

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