(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原当時の居城、「佐和山城」を訪れてきました。
龍潭寺の入口(写真③④)にチャリを止めここから登城します。入口には三成の銅像がありましました(写真①②)。
この三成はとても知的な顔ですね~! しかもかなりリアルです。今にも動き出し、私に何かを語りかけてきそうな・・・ 墓から発掘された三成の頭蓋骨から再現し作ったそうです(なるほど🤔どうりで)。登る前から何やら緊張してしまいました。さあここから20分程の登山です。(写真⑤:猿に注意?)
1591年31才の時に石田三成はこの佐和山城に城代として入ります(この頃、佐吉から三成と改名)。そして1595年、秀吉から近江19万石を与えられ、正式に城主となった三成は、本格的に佐和山城の築城を開始しました。山頂にはかつて三成の築いた五層の天守がありました。しかし、関ケ原の翌日に小早川秀秋軍などに攻められて焼き払われたようで、そのためかあまり記録が残ってないようです。いったいどんな天守だったのでしょうか?
わずかな資料を元に地元の方々が再現した、こんな天守だったという模型が登山口近くにありました。でもこれ何か変では? なぜか豊臣系でない層塔型のような? 彦根城にちょっと似ているような?・・・私はこの城を背景に佐和山を眺めてみました(写真⑧)。やっぱり何か違和感があるような・・・ 本当はどんな天守があの山の頂上に建っていたのでしょうか? ならばこの写真⑧をもとに、こんな城だったのではないかというイラストを自分で作ってみました(写真⑨)。こんな感じの方が近いのではないでしょうか?
1600年3月、伏見での福島ら武断派による三成襲撃事件の後、家康の仲介で奉行職を辞し、三成は佐和山城へ蟄居します。すると家康は三成と対立する武断派の諸将をうまく取り込み、豊臣体制を崩していく事に成功しました。
蟄居した三成は、ここで大谷吉継らが止めるも聞かず、家康が太閤と約束した事を守っていないといった内容「内府ちがひの条々」をせっせと書き、三奉行を通じて全国の諸大名に送り味方を募ります。そして打倒家康の戦術を着々とここで練っていきました。
そして時を同じくして、直江兼続が「直江状」を家康に突きつけると、怒った家康は会津の上杉討伐へ出陣していきます。この隙に、ついに三成も兵を上げ、伏見城を守るの鳥居元忠を攻めた後、大垣城に向かい家康を迎え撃つ事にします(伏見城の詳細は私の(11人目)鳥居元忠を参照下さい)。
次は、関ケ原の前哨戦となった(大垣城)を訪れます。
【余談】彦根レンタサイクル
彦根駅前の井伊直政の銅像から50mくらい彦根城方向に行ったすぐの交差点に、貸自転車屋がありました(写真⑩)。彦根城や佐和山城への移動にオススメです。予約不要で安く借りる事できました(確か3時間500円くらい)。1日で両方回るならチャリが断然便利です(身分証要)。
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