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HARU

八王子城本丸 (2020/11/29 訪問)

八王子城の本丸に初めて登りました。北条氏康の三男北条氏照によって築城された八王子城ですが、北条氏の支城では最大規模を誇ります。本丸までの登り道は覚悟を持って登るようです。途中に見える景色も素晴らしく、本丸近くには「八王子」の名の由来となった「八王子神社」があります。

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HARU

滝山城跡桜まつり (2019/04/06 訪問)

この日は「滝山城跡桜まつり」が開催されていました。サクラの名所としても知られ、お祭りは地元の各町会の人たちの憩いの場です。

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HARU

川越城 (2018/11/08 訪問)

川越城は江戸の背後を守る拠点城郭として、徳川家康は江戸入府後、譜代の家臣を入城させました。

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HARU

信州名城巡り (2018/09/08 訪問)

諏訪の「高島城」、伊那の「高遠城」を見た翌日、「松本城」を訪れました。国宝5城、現存12天守の一つとして有名ですが、場所柄一番身近に感じる城で、お気に入りです。この日は人出が多く、有料区域には入りませんでした。

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しんちゃん

仁義なき戦国時代。 (2018/01/04 訪問)

今切城は篠原神社と真観寺のあたりに築かれていたようです。城主は篠原玄蕃頭長秀で三好長治が一宮成助や伊沢頼俊に攻められ危機の際に自らの居城に長治を招いています。しかし籠城が困難となり大岡の家臣・郡勘助を頼ったところ敵方に密告され井戸から引きずり出されて殺されてしまったとあります。三好長治は板東郡の別宮浦(吉野川の川口付近)で自害したそうです。
写真が少ないので来る途中で通った沈下橋も載っけてしまいます。地元の人もたまに落ちたりするようです。赤いバーが建てられていますね。

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HARU

信州名城巡り (2018/09/07 訪問)

諏訪の「高島城」のあと、伊那の「高遠城」を訪れました。高遠城は高遠頼継を攻略した武田信玄が改修した城です。現在、建造物はほとんど残っていませんが、石垣や堀・土塁が戦国期の雰囲気を伝えています。サクラの名所として有名です。

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しんちゃん

南北朝・戦国期と戦乱に明け暮れる。 (2018/01/04 訪問)

一宮城は鮎喰川の南側、標高144mの山上に築かれ背後には山々がそびえます。南北朝の時代に小笠原長宗が築き南朝の城として在ったとされています。北朝方の細川氏とはたびたび衝突し、正平17年(1362)細川頼之の軍と戦って敗れると一宮成宗は息子の成行に城主を譲って重清城に隠居したとあります。
戦国期の城主一宮成助は三好氏と対立しますが、頼みとしていた長宗我部元親に夷山城で殺されてしまったそうです。天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の際に蜂須賀家政が一宮城に入りますが、翌年に徳島に移り寛永15年(1638)に一国一城令によって廃城になったとのことです。
この日は麓から米蔵や周辺の郭を散策しながら尾根上に登り、財蔵丸・明神丸と巡回したあとに本丸に到達しました。その後は花畑や櫓台・陰滝などこの地方最大の山城を満期し下山となりました。

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蜻蛉切

関ケ原合戦徳川家康陣跡 (2024/02/04 訪問)

関ケ原合戦の際に徳川家康が最初に陣を置いた桃配山に行きました。整備が進んでキレイになってます。
これから関ケ原古戦場記念館で、講演会「於大の方の血をひくものたち」です。

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HARU

信州名城巡り (2018/09/07 訪問)

元勤務地だった諏訪の名城、久しぶりに訪れました。諏訪湖と湖に流れ込む川を巧みに防備に用いて、「浮城」とも呼ばれ、復元された天守や櫓門、隅櫓が建っています。

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HARU

岩櫃城 (2018/05/19 訪問)

「甲陽軍艦」に甲斐岩殿城や駿河久能山城とともに、関東三名城と称えられている城、岩櫃山を背にした天然の要害。本丸址までは登り甲斐があります。

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あんしょー

江戸城 (2017/10/07 訪問)

皇居一般参観を利用して、貴重な江戸城の遺構を間近に感じる事ができました。

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BUGTI

今川・武田との戦いの城 (2024/02/03 訪問)

まわりを川や断崖に囲まれた防御性の高い城で、国境にあるので何度も攻められています。城主の菅沼氏は、野田城が戦いにより破壊されたので、近くの大野田城へ移っているときに攻められてしまったなど、生々しい逸話は実際に戦った城ならでは。地元の方の整備により、以前より中に入りやすく見易くなったようです。案内看板も新しくなってました。近くの法性寺には野田城の城門が移築されて残ってますし、信玄公が撃たれた場所?もあるので一緒に訪れると良いです。また、近くの大野田城も最近整備がされたようで、非常に見やすくなっており、あまり期待してなかっただけにいい意味で裏切られました。野田城だけでなく近辺の遺構も併せて楽しめました。

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しんちゃん

「九戸政実の乱」 (2017/05/03 訪問)

九戸城は南部氏の一族である九戸氏の城でした。九戸氏は南部氏族内の総領家争いに敗れ、田子(石川)信直が三戸南部氏を継ぎ豊臣秀吉の朱印状によって南部氏の他の一族は三戸南部氏の「家臣」もしくは「家中」として組み込まれてしまいました。
九戸氏は不満を募らせ、秀吉の小田原征伐により南部信直が奥州を留守にした隙を突いて挙兵し、これが「九戸政実の乱」の始まりとなりました。
九戸政実の乱は奥州仕置軍の到着により政実の一族の死を以て終結します。その後九戸城は蒲生氏郷により改修され南部宗家の本城となったそうです。慶長2年に森岡城が完成すると南部氏は森岡城に移り、寛永13年(1636)に九戸城は廃城となったそうです。
こんな縁起の悪い城に南部氏が本拠を移した理由はわかりませんが、広い城域を持つ立派な城であることは間違いありません。この日は二の丸、本丸を周遊して若狭館跡まで足を延ばしております。

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HARU

箕輪城 (2018/05/18 訪問)

当初は堅固な土造の城でしたが、最後に入った徳川家康の譜代井伊直政によって石を用いた近世城郭に大改修されています。2016年には「郭馬出西虎口門」が復元されました。

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しんちゃん

都城島津邸 (2014/01/11 訪問)

都城島津邸は宮崎県都城市早鈴町にある都城島津家の邸宅です。都城はかつての島津荘の中心の地であり「島津発祥」の地とも呼ばれています。鎌倉時代に源頼朝に任命された惟宗忠久が「島津氏」を名乗ったのが島津氏の始まりとされています。
都城島津邸は明治12年(1879)以降に都城島津氏が住んだ邸宅で5000坪の敷地を持ち、都城島津伝承館や国の有形文化財に登録されている御門や本宅などが有りました。昭和10年に本宅の大改築が行われ、昭和27~28年にかけて2Fが増築されています。昭和48年昭和天皇皇后の両陛下が宿泊する際にも改築が行われ今の形になったとのことです。

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HARU

新田金山城 (2018/05/18 訪問)

石造の巨大な山城で、大手虎口や日の池などが復元整備されています。

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HARU

足利氏館 (2017/11/11 訪問)

平安時代から鎌倉時代はじめに足利義兼によって築かれたと言われています。館内に持仏堂を建立したのが現在も残る「鑁阿寺(ばんなじ)」の始まりです。

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HARU

菅谷館 (2017/05/20 訪問)

鎌倉幕府初期の有力御家人であった畠山重居館居館と伝えられ、執権の北条氏に謀反の嫌疑をかけられて討たれてしまい大規模な大規模なその後山内上杉氏が再興しました。大規模な土塁や空堀を見ることができます。

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左近くん (2024/02/03 訪問)

 登城口には奈良県平群村のマスコットキャラクター左近くんが城を守るように立っています。島左近の居城であったという説もありますが、確認できていないようです。椿井井戸登城口から登城し椿井春日神社へ下りてきました。登城路は整備されていてそれなりの山道ですが、まあまあ歩きやすくなっています。「北郭部分は平成25年4月1日より当面、見学を制限します」と書かれた案内板あり、まだ北郭へは行くことができません。北郭への道も藪になっていてわからなくなっていました。南郭の堀切、土橋、石積等を観ながら散策しました。椿井城案内板の縄張り図に描かれていた石積下の竪堀は藪になっていてわかりませんでした。

 近鉄生駒線竜田川駅から徒歩15分くらいで登城口に行くことができます。

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HARU

武蔵松山城 (2017/05/20 訪問)

別名「武州松山城」「武蔵松山城」とも呼ばれる吉見町にある「松山城」、室町時代に上田友直によって築城され、その後北条方の城として豊臣秀吉による小田原征伐の時、前田・上杉軍主力の大軍に包囲され落城しました。

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