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仁正寺陣屋 (2023/09/02 訪問)

 日野中野城に(仁正寺陣屋)と書かれていたので、ここで投稿します。
元和6年(1620年)、市橋長政が2万石を与えられ、かつての日野城跡に仁正寺陣屋を設置しました。日野中野城の東側に石碑と説明板があります。その近くに米蔵があり、街の中には移築門などがありました。

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蒲生氏郷 (2023/09/02 訪問)

 蒲生氏郷生誕の城としてしられています。土塁や堀の一部が残っています。石垣もありますが、説明板を読むと江戸時代のものと書かれていました。近くに蒲生氏郷公産湯の井戸があります。
近くの馬見岡錦向神社の参道に「伝若松の森址」という説明板があります。そこには「天正18年、蒲生氏郷が会津黒川城主に封じられた時黒川の名を故郷日野城の近くにあった若松の森の名にちなんで、会津黒川を会津若松の名称に改めたと伝えられる。その若松の森とは、ここ綿向神社の参道を覆っていた森であったという。、、、」とありました。江戸時代には枯れてしまい民家が建っています。

近江八幡駅よりバスに乗り日野川ダム口バス停下車。バス停から徒歩5分くらいで登城口に行くことができます。

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道西坊善従 (2023/09/02 訪問)

 善立寺付近が城址です。JR守山駅より徒歩約15分で石碑と説明板に行くことができます。

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tp.etsu

公園の中に… (2023/09/02 訪問)

看板があって、昔お城があったらしい…。
公園はとてもきれいでした。

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トク

名護屋城トークライブ抽選結果

これも運命か?
「8/30 NHK歴史探偵-どうする家康コラボスペシャル」で、名護屋城が取り上げられ、私の撮影した徳川家康陣跡で、秀吉の黄金の茶会に対抗し、家康独自の茶会が質素に行われていたとは知りませんでした。家康は実はここで茶会を利用し諸将を取り込んで着々と関ケ原への布石を打っていたとは・・・。何と自分が投稿した話題とタイムリーな内容ですごい偶然(すごいぞNHK!)と感動していた矢先、トークライブショーの抽選結果通知が・・・ 

「大変応募者が多く、貴殿は落選されました・・・」大ショック~😱😱😱!(佐賀にそんなに人が来るとは・・あなどっていた~・・) 行きたかったな~ ・・・ また秋に義弘陣跡に行き、夕陽と漁火を眺めながら、ヒロシのように「ぼっちキャンプ」でもしてこようかな~・・・・😭
 

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ぴーかる

苅安賀城 (2023/07/22 訪問)

【苅安賀城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡碑前の道路は広いので僅かなら停車できます。
<交通手段>名鉄苅安賀駅から徒歩

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾10城目。苅安賀城は1561年に浅井氏庶流の浅井政貞によって築城したとされます。浅井政貞は織田信長に仕え赤母衣衆となります。後に織田信忠付の武将となりますが本能寺の前に亡くなったようで子の長時が継いでいたようです。本能寺の変ののちは織田信雄に仕えますが秀吉との内通を疑われ殺害されます。信雄は殺害を命じた森久三郎に苅安賀城を与えます。現在城跡は石碑があるのみで説明板も遺構も残っていません。

<満足度>◆◇◇

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きよまさ

長島一向一揆

長島一向一揆450回忌法要

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カズサン

【遠江仁藤山(笠町)砦】静岡県掛川市 家康掛川城包囲戦東直の砦 (2023/08/28 訪問)

 家康の掛川城包囲戦の本陣跡である龍尾神社の参拝見学を終えて、掛川古城からは真東に約300~400m程の仁藤山砦を訪ねました、地元、神明宮略記では笠町砦と記載されて居ました。

 住所:静岡県掛川市仁藤71(仁藤神明宮)
 駐車場:西麓の総合福祉センター体育館側の広い駐車場利用

 駐車場から堀底道のような通路を北へ、南に神明宮の坂道車道、中段からは車道と歩道階段が並列、境内に入ると神明宮と社務所が東側に在る、境内は広い、グーグルマップの史跡マークは境内に仁藤山(笠町)砦と記載されている。神明宮の略記には「この境内は徳川家康の遠江攻めの掛川城の包囲戦で笠町砦が築かれた処」と記されている。南側には正式の参道階段があり立派な石灯籠と石鳥居が控えています、が南側には駐車場なく狭い通路で車は不可。
 香川画伯の掛川城攻め付城群イラストには笠町(仁藤)砦も記載されて、北側に掘割を挟んで曲輪が在り現在は不動院が鎮座しています、二つの曲輪で機能していたのでしょう、加藤理文氏の解説ではこの砦には岡崎衆番手を入れたと有りました。
 当時は掛川古城の三の丸も有り東に出っ張り、距離感は比較的近かったことで目と鼻の先、結構な威圧感を与えていたことでしょう。

 歴史的、参考資料は先に投稿した【遠江天王山砦】家康掛川城包囲戦本陣の内容として同じです。(龍尾神社パンフレットを除いて)

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しんちゃん

ほしいも神社  ひたちなか市阿字ケ浦町178 (2023/05/05 訪問)

堀出神社はひたちなか市に鎮座する神社です。
八幡神社と同じ神様をまつっており、徳川光圀公より奉納された
神鏡を、ご神体として祭っています。
当地は明治28(1895)照沼勘太郎が干し芋の製造に成功した地として
知られており、令和1(2019)境内にほしいも神社が創設されました。
宮崎利七翁、湯浅藤七翁、小池吉兵衛翁、大和田熊太郎翁、白土松吉翁の
5柱を「ほしいもの神様」として功績をたたえています。

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しんちゃん

遺構の保存も整備も良く行き届いている。 (2023/05/02 訪問)

松井田城は南に中山道、北に東山道と碓氷峠が通っており、交通の要衝、
碓氷峠を押える城でもありました。北の九十九川と南の碓氷川に挟まれた東西に延びる
丘陵上に築かれています。城域は広いですが、国道18号から左に逸れる脇道から
城址近くの駐車場まで車で行くことが出来、非常に便利です。駐
車場から南方向へ、いくつかの堀切を渡って進んでいくと本丸周辺にたどり着きます。
本丸以外にも見所は多い城で、北側に三方に伸びた尾根の、真ん中の尾根を行くと
右手に畝状竪堀を備えた郭があります。見所1です。
本丸は城域の中心部にありますが、西側に二の丸、さらにその先に
畝状空堀群があります。見所2です。ほかにも見所はいろいろあって
本丸の東にはS字状にうねったS状空堀があるようですが、確認は出来ていません。
城内いたるところに案内板が立ち、よほど道に迷うことは無いと思います。
非常に回りやすく、遺構も満足できる優等生の山城です。
かつて戦国期に武田信玄が松井田城・安中城を攻めた時、安中忠政は松井田城に籠り、
嫡子忠成は安中城に入りましたが、忠成は信玄に降り、忠政は奮闘するも、力尽きて
信玄に降り、成敗されたと「甲陽軍鑑」に有ります。ただ、この場合の成敗というのは
出家・隠居を指しているらしく、忠政はこの時はまだ存命だったようです。
武田信玄、上杉謙信、織田信長の死去したあとは、城は北条氏の物となり、城代が入りますが、
豊臣秀吉の小田原攻めの際に、前田利家、真田昌幸らに攻められ、城代の大道寺駿河守政繁は
降伏し開場しますが、江戸高輪で自決させられたと言います。



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しんちゃん

膳城素肌攻め 武田ドラゴンズ (2023/05/01 訪問)

膳城は周囲を川で囲まれた丘に築かれていますが、高低差はさほどなく
ほぼ平城といって良いでしょう。東の道路沿いからすぐにアクセス可能で
北の歴史民俗資料館からもアクセスは可能なようです。周囲は宅地や畑地
となっていますが、本丸や二の丸を中心とした範囲は遺構が良く残っており
特に本丸の周囲には堀切が良く残っており、各郭の間を行き来するための通路が
整備されています。城域は南北500m、当時阿300mほどで東の平坦部は
帯曲輪となって今は畑地になっているようです。東曲輪から虎口を経て本丸にたどり着き
周囲の堀を眺めながら、北曲輪、袋曲輪、二の丸を散策しました。
享徳4年(1455)2月、ここを住居としていた善信濃入道を赤堀時綱が襲った記録が
残っています。後に上杉謙信の手に降り、武州羽生の木戸忠朝、菅原為繁ら千余りの将士を
膳城と山上城に配しています。謙信死後は北条の手に降り、金山から河田備前守が
城代を命じられています。天正8年10月、武田勝頼によって膳城は落とされ、河田備前守は
討ち取られます。後に「膳城素肌攻め」として伝えられています。
素肌攻め‥とは甲冑を身に着けずに城を攻めることで、土地の住民を怖がらせないように
平服で視察を行っていた武田軍に膳城の内輪もめが飛び火して即座に城攻めに
かかったらしいです。なかなか血の気が多いですね。

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しんちゃん

誰が言ったか「関東の華」 (2023/05/01 訪問)

前橋城はかつて厩橋城と呼ばれ関東七名城の一つに数えられています。
かつては武田、上杉、北条の間で激しい争奪戦が繰り広げられ、
徳川家康の時代に前橋城を酒井重忠に与える際に、
「関東の華を汝に与える」と言ったそうなのですが、出自は不明です。
群馬県庁の北側に土塁が残り、一部石垣も残ります。本丸北の前橋公園にも
土塁が残っているようです。今回、大手町二丁目の「前橋城車橋門跡」は未訪問です。
調べが足りていませんでした。次回の訪問にてリベンジする予定です。
戦国期の城主で印象深いのは北条高広ですね。主人を次々とかえ
勝利のためには、何でもするという姿勢が真田昌幸に通じるものがあります。
実力が拮抗している怪物大名たちの狭間にいる地元豪族たちは、常に
死地に立たされているようなもので、その環境が、したたかで力強い豪族たちを
育てていったのだと思います。

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しんちゃん

安中藩奉行所宅と安中藩武家長屋が公開中 (2023/05/02 訪問)

安中城は現在は安中小学校に石碑が立ち、周囲は宅地化が進んでいますが
安中藩奉行所宅と安中藩武家長屋が残っており、有料で公開しております。
北の九十九川と南の碓井川に挟まれた台地に築かれ、南側には旧宿場町が中山道を
挟んで東西に続いています。
永禄2年に安中忠政が窪庭図書を退けて築城したとあります。弘治2年(1556)、武田信玄と
上杉方の長野業政・安中忠政ら上杉勢との瓶尻合戦は上杉方の敗北に終わり、忠政は新たに
安中に築城して嫡子忠成を入れ、自身は松井田城を強化して信玄に備えたとあります。
信玄の攻撃を受け、忠成は降伏、忠政は松井田城で奮戦するも力尽き降伏、自害を命じられます。
江戸時代は井伊氏、堀田氏、板倉氏と譜代が入り、そのころの安中城は陣屋造りとなっていたようです。

補足‥忠政さん自害していなかったようですね。甲陽軍鑑で「成敗」されたと記されていたのは
隠居・出家に追い込まれたことを指しているようです。元ネタは城郭大系だったのですが
解釈は変わっていくものですね。

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ノボル

関東の名城 (2020/12/26 訪問)

白亜の外壁が映えます

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ノボル

上田城と共に (2021/05/04 訪問)

近くに宿泊したので散策しました

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ノボル

念願の上田城 (2021/05/04 訪問)

善光寺の帰りに寄りました

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ノボル

寄ってみました (2020/04/19 訪問)

静かな城跡です

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ノボル

子供の頃から訪れてます (2019/03/26 訪問)

石垣がけた違い

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TMN97

七尾城址 (2023/09/01 訪問)

七尾城址

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山焼きしてるのかあ。当時は? (2023/08/28 訪問)

何かの本で船上山城のそそりたつ崖の写真を見て以来、行きたかったところです。草原の斜面の上に柱状節理の崖がそそりたってる写真です。
実際に来てみると、想像以上の規模でした。玄武洞や東尋坊の柱状節理よりもとても太い柱です。
駐車スペースに車を置いて、東坂を登っていくと、探勝道(横手道)の標識があり、「途中山頂に通じる道がありますが、急峻なため健脚向けです」と書いてありました。恐いもの見たさに、こちらに行ってみます。幅30〜40cmの踏み痕みたいな道が続きます。崖の下近くを通り、迫力があります。急斜面を横移動する細い道であり、笹をかき分け、足元を確認しないと進めないところも。標識の「途中山頂に通じる道」がなかなか現れません。だいぶん来てしまった、獣道みたいな道を戻りたくないし、一方、この先は、ずいぶん先の雄滝、雌滝まで行ってしまうのではないかと不安に。ままよと、進むと、正面登山口の標識が現れました。二つ並んだ崖(屏風岩)の間の崖が崩れたところを登って行くのですなあ。大石ゴロゴロの上をほぼ直登します。行宮碑の広場に出ました。
広場に休憩所・トイレがあり、パンフも置いてあります。パンフに、船上山斜面は、3年毎に、山焼きしているとありました。それで、この景観なんですね!後醍醐天皇が来られたときはどんなだったのでしょう。崖の上から崖下の幕府軍に矢をいかけるのでしょうから、当時も草原だったのでしょうか。(続く)

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