八田家御朱印屋敷の最終入場時刻(16:30)に間に合わせるため,御坂西小学校前からバスに乗り,鵜飼山にて下車。余裕で間に合いましたが,閉門しておりました…😱
気を取り直し,周囲を散策して,にのまるさんから紹介していただいた“勝頼グランパ館”へと向かう途中,にのまるさんが散策しておられた「ホテル石風」の前を通りがかり,「武田勝頼夫人遺愛の松」を発見しました。
八田家御朱印屋敷が開門しており,ゆっくりしていたなら,「武田勝頼夫人遺愛の松」をスルーしていたかもしれません。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2024/02/04 19:01
小山城からは,バスを利用…🚌 (2024/01/07 訪問)
八田家御朱印屋敷の最終入場時刻(16:30)に間に合わせるため,御坂西小学校前からバスに乗り,鵜飼山にて下車。余裕で間に合いましたが,閉門しておりました…😱
気を取り直し,周囲を散策して,にのまるさんから紹介していただいた“勝頼グランパ館”へと向かう途中,にのまるさんが散策しておられた「ホテル石風」の前を通りがかり,「武田勝頼夫人遺愛の松」を発見しました。
八田家御朱印屋敷が開門しており,ゆっくりしていたなら,「武田勝頼夫人遺愛の松」をスルーしていたかもしれません。
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
2024/02/04 18:50
斎藤別当実盛館跡実盛塚 (2019/08/10 訪問)
埼玉県熊谷市西野には斎藤別当実盛館跡と見られる地に「実盛塚」と呼ばれる板石塔婆が建っています。実盛公が平治の乱の後、長井荘の荘官を務めた時の住居と見られます。大正15年に埼玉県指定史跡「斎藤別当実盛館跡実盛塚」として登録されましたが、どういう経緯か昭和38年に県の史跡を解除されたようです。今では熊谷市指定文化物「史跡実盛碑」として史跡保存会の方々によって管理されているようです。写真の銅像は妻沼にある聖天歓喜院の境内にあるものです。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2024/02/04 18:48
2024/02/04 18:30
2024/02/04 18:20
子孫は「のぼう」の人 (2019/08/10 訪問)
現地に建っている標柱を読むと藤原鎌足の子孫、道宗の子である助高(資隆)が天喜元年(1053)に成田の地に館を構え成田氏を名乗ったと有ります。ふむふむ‥古いですね。その後成田氏は「関東八家」と呼ばれるまでに勢力を拡大し成田親泰が忍城主になるまで、この地に住み居続けたと有ります。ああ‥「のぼうの城」に繋がるんですね。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2024/02/04 18:08
浜松城 (2023/06/07 訪問)
岡崎・静岡(駿府)に続き、徳川家康公ゆかりの地巡りの第3弾として浜松を訪れました。「浜松城」は徳川家康が岡崎城から拠点を移し、引間城から浜松城と名を改め、大改修を施しました。歴代城主は要職に就く者が多く「出世城」の異名があります。ここでもNHK大河ドラマ「どうする家康」のドラマ館を訪れ、その後と翌日には市内のゆかりの地巡りをしました。泊まったホテルの部屋からも浜松城が間近にみられました。
+ 続きを読む
♥ いいね
8人が「いいね」しています。
2024/02/04 17:56
やはり木造天守(櫓)は良い。 (2019/08/11 訪問)
白石城は標高76mの丘陵上に築かれている平山城で戦国期から存在していたようです。慶長5年(1600)会津征伐と関ヶ原の合戦の後、伊達氏の持ち城となり慶長7年(1602)片倉景綱が入り1万8千石を領しました。一国一城令の後も特例として城の存続が認められ明治まで片倉氏の居城として存続したそうです。
事実上の天守といえる三階櫓は木造で復元され見ごたえも満足感も高めです。やはり木造の城は良いですね。度重なる地震で天守にもダメージが残り令和3年と4年の地震でも壁に亀裂が生じるなどの被害が出ているそうです。被害と修復の追いかけっこになっていますがメゲることなく頑張って修復を続けていただきたいと思います。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2024/02/04 17:56
万を超える軍が収容できる広大な敷地 (2023/05/04 訪問)
いわゆる方八丁の広大な敷地に、門や塀だけでなく兵員宿舎と考えられている竪穴住居が復元されている。なるほど。有事の際にはこうした竪穴住居が無数に作られ、万を超える舞台をまるごと収容していたわけだ。
+ 続きを読む
♥ いいね
9人が「いいね」しています。
2024/02/04 17:52
久能山東照宮 (2023/03/01 訪問)
駿府城を訪ねた翌日、徳川家康公が眠る「久能山東照宮」を訪れました。ここには昔「久能寺」があり、武田信玄が城砦を設け「久能(山)城」と称し、その後徳川のものとなりましたが、家康公の遺骸を埋葬した際に久能城を廃城にし、今の東照宮が創建されたとあります。今回は日本平ロープウェイを利用しましたが、東照宮を少し下ると眼下には石垣とともに素晴らしい景色が望めます。ロープウェイ乗り場近くの展望台からは富士山が綺麗に見えました。
+ 続きを読む
♥ いいね
9人が「いいね」しています。
2024/02/04 17:31
2024/02/04 17:14
シンプルな城跡 (2024/01/05 訪問)
津城は、岩田川と安濃川の三角州に二重の水堀を設けた縄張りで、本丸の東西に東の丸と西の丸を直列に配し、その周囲を内堀で囲み、その周りを二の丸、更に二の丸を外堀で囲んだ、輪郭式の平城でした。内堀に至っては、最大幅100mにも及ぶ広大なもので、さながら、湖上に浮かぶ島の様であったと云われています。
また、本丸には三重の櫓が2基、二重の櫓が3基が建てられ、それらを多聞櫓で接続した厳重な造りであったとされています。現在は、本丸の石垣と内堀の一部が残っており、現在の姿から当時の姿を想像できないくらいシンプルになっています。
築城主は長野氏の一族、細野氏が小規模な城を築いたのが始まりとされ、織田信長公の伊勢侵攻で長野氏の養子となった、織田信包公が改修、その後、関ヶ原の合戦を経て築城の名手と知られた藤堂高虎公が22万石を拝領し、津城に入城しています。上記で挙げた津城の縄張りは、この藤堂高虎公によるもので、藤堂流の築城術の粋を凝らして築城されています。
現在の津城跡は本丸と西の丸が公園として整備され、鉄筋コンクリート製の模擬復興された三重櫓、かつての内堀の殆どは埋め立てられ一部が残るのみとなっていますが、天守台の石垣や、本丸を囲む石垣が残り、かつての面影を残しています。
続100名城のスタンプはかつては、水堀であった高山神社に設置され、駐車場も三重櫓のすぐ傍に設けられています。
+ 続きを読む
♥ いいね
20人が「いいね」しています。
2024/02/04 17:13
2024/02/04 17:11
琵琶湖の眺望が素晴らしい。 (2019/12/01 訪問)
賤ヶ岳砦は賤ヶ岳の山頂に築かれており主郭の東西にも郭が配されているようです。それほど大規模な城郭ではありませんが賤ヶ岳の合戦で超が付くほど有名でリフトで山頂まで登ることができます。リフト‥いいですね。有り難いですよリフトは。
下から登った方が情緒が有るのはわかるのですが楽して山城に登れるのは助かります。営業は4月上旬~11月下旬のようですが、この日は12月1日ですが営業してくれていたようですね。山頂からの琵琶湖の眺望は素晴らしく余呉湖を眺望することも出来ます。主郭のはしっこに、どこの誰だかわからない武将の銅像があります。秀吉さんですかね?良い首が取れなかったモブの武将さんでしょうか?
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2024/02/04 16:56
【遠江大鐘屋敷】静岡県牧之原市 賤ケ岳戦も出陣した大鐘氏屋敷 (2024/01/30 訪問)
住所:静岡県牧之原市片浜1033
駐車場:大鐘屋敷専用駐車場、トイレ完備。
大鐘屋敷は長屋門と母屋が重要文化財に成ってる大庄屋屋敷が現存し現在も子孫の方がお住まいです。
歴史は案内板、パンフレットによると。
尾張高針(名古屋市)出身で柴田勝家の家臣・山田蔵麟が信長より自身の大鐘幟旗にちなみ、大鐘の名を賜ったので大鐘藤八郎貞綱を名乗った。柴田勝豊の丸岡城家老・大鐘藤八郎貞綱は、慶長2年(1597年)当地大磯村に移り住んだと伝わる、江戸初期は旗本3千石の格式を持ち、18世紀初め大庄屋と成り大鐘屋敷を築いた。
十数年前に町内のシニアー会のメンバーとバスツアーで訪ねて以来の2度目ですが前回は有名な紫陽花が見頃の時期でしたが、今回は白梅の時期、母屋には内裏雛飾り、当地名物の吊るし雛飾りで部屋中満載、当代の弟さんに案内いただきました。
裏手に米蔵土蔵が2棟、一つは資料館に成っています、母屋の裏に小堀遠州庭園があります。
時期的には紫陽花の時期と紅葉の時期がお勧めだそうです。入場料は500円。
相良城から駿河湾沿いに北へ3、4km程、所々で駿河湾に浮かう白雪の富士山を見る事が出来ました。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2024/02/04 16:50
まあ‥とにかく広い。 (2021/05/06 訪問)
浪岡城は1460年代に浪岡北畠氏によって築かれたとされています。16世紀前半に最盛期を迎え京都とも盛んに交流を深めたと有りますが永禄5年(1562)の内輪揉め(河原御所の乱)により勢力が衰えて天正6年(1578)に津軽為信に攻められ落城したとパネルに記載がありました。城域はウンザリするほど広く‥もとい、素晴らしく広い城域を持ち内館の北東西に広大な大きさを持つ曲輪を配し南側を浪岡川が流れます。この日は案内所から猿楽館を訪れ、東館→北館→西館→内館の順に散策しました。内館は城主が居住した本丸に相当する場所で、北館には区画された箇所に武家館が幾つも建てられていたようです。大きな郭の中に幾つも郭がある感じですね。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2024/02/04 16:29
2024/02/04 16:12
清洲城 (2022/11/02 訪問)
清洲城は織田信長とその父信秀の居城として知られ、信長亡きあと織田家の継嗣問題などを会議した「清洲会議」が行われた場所としても有名です。当時の城は現在ある天守とは別の場所の「清洲古城跡公園」にあり、現在ある天守は平成元年に建設された模擬天守です。
+ 続きを読む
♥ いいね
6人が「いいね」しています。
2024/02/04 15:51
2024/02/04 15:32
✕
人が「いいね」しています。