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もふもっふ

学校とタコのあるお城でした (2022/08/19 訪問)

岸和田で仕事を終えて帰るまでに散策しました。
岸和田駅からは商店街を通って15分くらいだと思います。
有名なだんじり祭りの経路もありました。
お城はお濠で囲まれておりお濠の周りも綺麗に整備されています。
またお城の前には学校があり学生が部活動に励んでいました。
お城入口には綺麗なカフェが併設された休憩所があり、トイレもあります。
八陣の庭は下からも良いですが個人的には、お城の上から見るのが好きでした。
この城のお話にタコに守られた話がありとても珍しく面白いと思いました。
閉館時間ギリギリに行きましたが快く入れてくださった係の方にも感謝です。
駅前でうどん屋の「鶴八」さんに行きました。昔ながらの店ですがうどんはもちろんですが、定食もあり
お酒のつまみがかなり充実しました。もちろんお酒の種類もたくさんあり電車までの時間をゆっくり楽しめました。

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もふもっふ

上諏訪散策と一緒に (2022/08/14 訪問)

上諏訪駅に行く事があり、散策しながら高島城を目指しました。
駅の中にも無料の足湯や温泉卵(有料)が作れたりしていました。
駅からゆっくり歩いて20分くらいだったと思います。道も複雑でなくお濠まで行く事ができます。
城内にはいると直ぐに天守閣がありました。
とても気持ち良い風も吹いていて最高でした。
帰りすがりに道にも温泉が出ている場所や足湯などありゆっくりとできる散策でした。

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イオ

とことん江戸城(雉子橋門~鎌倉河岸) (2022/06/23 訪問)

(続き)

出張2日目の夕方、北の丸をめぐった後、清水門を出て内堀通りを雉子橋門へ。日本橋川(外堀)に架かる雉子橋の北詰に雉子橋門跡の説明板が建てられていますが、往時の雉子橋はもう少し西にあり、雉子橋門は日本橋川と清水濠の間に設けられていたようです。雉子橋南詰のビルの間には矢穴のある石材が積まれており、Googleマップでは雉子橋門石垣跡とされていますが、枡形の位置からは外れているように思います。

雉子橋門と一橋門の間の日本橋川沿いには外堀の石垣が延々と続いています。ブラタモリでも紹介されていましたが、石垣の上に首都高速の橋脚を設置した部分には石垣を積み直した跡が窺えます(石材の大きさが全く違うので一目瞭然)。石垣を崩した後、コンクリートで固めて簡単に終わらせるのが楽でしょうに、拙いながらも積み直して元の姿に戻そうとする努力が嬉しいですよね。

日本橋川に架かる一ツ橋の北詰に一橋門跡の説明板があり、南詰に枡形門があったようですが、現在では白山通りとなっていて遺構は見られません。一橋門の東側にも外堀石垣が遺っていますが、内側がぎりぎりまで削られたことで倒壊しそうな石垣をコンクリートで補強して維持しています。撤去するのは簡単でしょうが、失われると二度と戻らないものだけに、何としても遺そうという気概が感じられました。

一橋門の東側には一橋徳川家の屋敷が神田橋門まで広がっており、丸紅本社ビルの西側に一橋徳川家屋敷跡の石碑と説明板が建てられています。

神田橋公園に神田橋門跡の説明板が建てられています。往時の神田橋は現在より少し東に架けられており、橋の南詰に枡形門がありました。首都高速の高架下に神田橋門のものと思しき石垣が遺っているほか、大手町川端緑道には発掘された石垣が展示されている……はずですが、訪問日は緑道が工事中で通行止めだったため未確認です。

鎌倉橋(昭和に新設)を渡った対岸は鎌倉河岸と呼ばれ、江戸城の築城時に鎌倉から運んだ石材を荷揚げしたことに由来します。水上物流の拠点として賑わった日本橋川沿いには、外堀の石垣と荷揚げ場が遺っています。

日本橋川をさらに下って常盤橋門に向かいます(続く)。
 

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カズサン

模擬隅櫓続土塀の景観が美しい (2005/06/06 訪問)

 龍野城は昭和54年絵図を参考に本丸西隅に模擬二階隅櫓、本丸模擬御殿、模擬櫓埋門が再建されて居ます。
 17年前の平成17年6月上旬、ふるさと鳥取の帰路寄りました、車は車、人の流が少ないので隅櫓下裁判所土塀西横に路駐。

 本丸西隅の二階隅櫓と続く土塀石垣、南下の裁判所西側の土塀辺りからの隅櫓景観が見所の様に思って居ります、また龍野古城である鶏籠山城の山頂もその辺りから見上げる事も出来ます。
 隅櫓下から本丸石垣下の土塀に囲まれた搦手道を登ると西門、本丸大手道、渡櫓式の埋門、内枡形に成って居り本丸へ登り坂道、模擬御殿が表、裏と二棟再建されて居る、桜の頃はさぞ綺麗であろうと思う葉桜。

 龍野城の歴史は、中世赤松氏から始まり、秀吉中国攻めで秀吉側の武将が城主を務め、関ヶ原後姫路池田輝政家老荒尾氏が城代、本多氏、小笠原氏、京極氏と続き、脇坂氏が寛文12年(1672年)入封し麓の本丸居館部を再建した、脇坂氏は以後10代治政し明治を迎える。
 脇坂氏入城後、赤穂事件の赤穂城受取りは二代目安照、受取の使者、在番を務める、忠臣蔵で良く出て来る場面でもあります。

 路駐でもあり本丸中心の探訪、龍野市街は車窓見学、揖保素麵、龍野薄口醤油は歴史も有り有名です。
 ※トップ掲載写真がクリックミスで最後になって仕舞いました、この景観を愛でて居たのですが?
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:天筒山城 (2022/07/28 訪問)

金ヶ崎城の一の木戸から登山道を尾根づたいに徒歩20分くらいで、天筒山の展望台に着きました。

展望公園の北側に展望台(丸い形)が建てられ、その北に見張り台説明板があり、見張り台があります。
天筒山公園として整備されいます。頂上から金ヶ崎城や敦賀湾、遠く敦賀半島が望めます。

天筒山城は金ヶ崎城の支城として、朝倉氏が支配していたようです。
元亀元年(1570年)織田信長による越前侵攻の際、寺田采女丞が守将でした。
信長軍は手筒山城を攻略し、ついで金ヶ崎城を攻めたが、浅井長政の離反により退却を迫られ、有名な「金ヶ崎の退き口」につながります。

細長い展望公園の北側に展望台、その北の鞍部に見張り台説明板と見張り台があります。
どこからが天筒山城址なのか金ヶ崎城址との境がわかりませんが、天筒山城址に向かう途中、見事な竪堀がありました。(少しピンボケしていますが、投稿します)
展望台から下る途中に山の神神社がありますが、遊歩道から500mくらい離れているようなので行きませんでした。
攻城時間は45分くらいでした。その後、明日の攻城先=金剛院城(城びと未登録 福井県越前市)を目指す為、敦賀駅に戻り電車で本日の宿泊先がある武生駅に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:金ヶ崎城 (2022/07/28 訪問)

敦賀城から徒歩20分ちょっとで、金崎宮参道入口付近(35.663561、136.075552)に着きました。
そこから参道を歩き、途中の愛宕神社、金崎宮奥(35.664480、136.074302)で金ヶ崎城趾の石碑を確認。
さらに北に登って行き、本丸(月見御殿)➡三の木戸跡➡堀切➡二の木戸跡➡堀切➡一の木戸跡➡堀切と確認し、手筒山城へ向かいました。
月見御殿付近(本丸)から、敦賀港埠頭や遠く敦賀湾や敦賀原発のある半島が望めます。

治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曽義仲との戦いに備えここに城を築いたのが最初と伝えられているようです。
1570年(元亀元年)の織田信長による朝倉義景討伐時、天筒城と共に落城、開城しました。

自分的な見所は各木戸付近にある堀切(堀切好きなので)と月見御殿付近からの眺望です。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=天筒山城に徒歩で向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:敦賀城 (2022/07/28 訪問)

疋壇城からの転戦です。敦賀駅より徒歩25分くらいで、移築敦賀城中門(35.651404、136.060233)に着き、移築門を確認しました
その後、敦賀市立敦賀西小学校の由来碑前(35.653977、136.066636)に向かいました。

敦賀城は1583年(天正11年)に蜂屋頼隆が築城し、その後、1589年(天正17年)に大谷吉継が入城して整備拡張したようです。
大谷吉継は有名ですが、自分は蜂屋頼隆をよく知らないので、ウィキペディアで調べてみました。
織田信長の家臣で近江肥田城➡岸和田城➡敦賀城主になっており、1589年(天正17年)死去するまで結構活躍した武将でした。

遺構は敦賀城中門が来迎寺の東の表門に移築されています。
敦賀市立敦賀西小学校に城跡や奉行所跡、県庁跡の由来碑があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=金ヶ崎城に徒歩で向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:疋壇城 (2022/07/28 訪問)

北比良城からの転戦です。新疋田駅より徒歩10分弱で、疋壇城跡標柱前(35.599606、136.101010)に着きました。

室町時代に朝倉氏の武将・疋壇対馬守久保によって築かれたようです。
1570年(元亀元年)の織田信長による越前攻めで、天筒山城・金ヶ崎城と共に疋壇上も落城しました。
浅井長政の裏切りで、信長軍が撤収したのち、修復され、朝倉氏の栂野三郎右衛門尉景仍らが布陣しましたが、再び信長が越前に進撃すると、刀根坂の戦いで朝倉方は大敗、城主疋壇次郎三郎は討死、落城しました。

石段を登ると四郭(西愛発小学校跡)に着きます。そこから小高い丘方向に向かうと天守台下に説明板と城址碑があります。
空堀や石垣が残っており、土塁や天守台も確認できます。
もう少し、空堀を見学したかったのですが、電車の時間が迫っており、逃すと1時間待ちになるので、慌てて撤収しました。駅に着くと電車が6分遅れでした。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=敦賀城を目指す為、電車で新疋田駅から敦賀駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:北比良城 (2022/07/28 訪問)

衣川城からの転戦です。比良駅から徒歩10分弱で、福田寺入口(35.220736、135.948451)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1582年(天正10年)田中左衛門尉定光が在城し、織田信長に背き攻められ落城しました。

福田寺山門を入った左に城址の石碑があります。
山門横ある石垣は遺構ではないようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=疋壇城(北陸地方の攻城開始です)を目指す為、電車で比良駅から新疋田駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:衣川城 (2022/07/28 訪問)

瀬田城からの転戦です。堅田駅から徒歩20分弱で、公園入口(35.112756、135.906979)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、山内義重によって築かれたと云われています。
1234年(文暦元年)正月の粟津の合戦で功を挙げた義重が、衣川を領して築城したのが始まりと云われています。
11代の山内駿河守宗綱は1508年(永正5年)〜1511年(永正8年)にかけて浅井公政・京極高清とともに朝倉貞景・村上山城守・細川高国・河野通直・大内義興らと戦い勝利をおさめました。
1526年(大永6年)に細川高国の奇襲によって衣川城は落城、重清らは辛うじて城を脱し伊予国宇摩郡近井郷鏑先村に逃れて土着したそうです。

現在は衣川台の団地内にある児童遊園地に石碑はありましたが、説明板は見つけられませんでした(捜し方がわるいかも)
遺構はありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=北比良城を目指す為、電車で堅田駅から比良駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:瀬田城 (2022/07/28 訪問)

山科本願寺からの転戦です。山科駅から電車を乗り継ぎ唐橋前駅に着きました。
そこから徒歩10分くらいで瀬戸唐橋説明板前(34.972457、135.907656)を経由して石碑説明板前(34.970824、135.906849)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永享年間(1429年〜1441年)に山岡氏の一族で田上城主であった山岡資広によって築かれたと云われています。
山岡氏の出自は詳らかではないようですが、甲賀の伴氏の後裔といわれ、甲賀郡山岡発祥とされます。
山岡氏ははじめ佐々木六角氏に仕えており、山岡景隆の時代には「江南の旗頭」と呼ばれる程の実力を持っていたそうです。
1568年(永禄11年)織田信長の上洛軍が攻め寄せ佐々木六角が観音寺城を捨てて逃れる頃になると、信長に降ったそうです。
その後は信長に仕えて伊勢国大河内城攻めや雑賀攻め、伊賀攻めなどに従軍しています。
1582年(天正10年)信長が本能寺の変に倒れると、明智光秀の誘いを断って勢多橋を焼き落として山中へ逃れたそうです。
その後は織田信雄に味方して伊勢峰城攻めに参加したが、賎ヶ岳合戦の折りに柴田勝家に通じたと疑われ、瀬田城を捨てて出奔し山岡城に蟄居したそうです。

瀬田城は瀬田川の東岸、瀬田唐橋(GPS参照:説明板があります)の南側付近に築かれていたそうです。
現在は宅地などとなり遺構はありませんが、県道29号線沿いに石碑と説明板があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=衣川城を目指す為、電車で唐橋前駅から堅田駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:山科本願寺 (2022/07/28 訪問)

山科駅から徒歩10分ちょっとで、山科本願寺土塁跡付近(34.984569、135.812382)に着きました。

1478年(文明10年)蓮如兼寿によって築かれました。
本願寺の総本山として「山科寺内町」と呼ばれる自治都市を形成していたそうです。
1532年(天文元年)細川晴元と対立し破れ、以後本拠を石山に移したそうです。

説明板によると山科中央公園一帯が寺内町跡だそうです。
現在は公園内に土塁の一部が残っているのみです。土塁の上に遊歩道が付けられていました。立入禁止のテープは解除されていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=瀬田城を目指す為、電車で山科駅から唐橋前駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:東山霊山城 (2022/07/28 訪問)

朝早く起きて、ホテルの朝食前に東山霊山城を攻城しました。
宿泊先のアパホテル京都祇園EXCELLENTから徒歩15分ちょっとで、正法寺(元・霊山寺)階段前(34.998687、135.783041)に着きました。

室町幕府13代将軍足利義輝によって1552年(天文21年)に築城が開始され、翌1553年(天文22年)には陥落し、廃城となったと考えられるそうです。

正法寺の門(倒木の為、立入禁止になっていました)が閉まっていて中に入れません。
京都霊山護国神社は朝9時からなので、こちらのルートからも入れません。
別ルートとして将軍塚ルートがありますが、時間の都合で今回は行けませんでした。残念です。
攻城予定時間として60分を見込んでいましたが、時間が余ったので付近を観光しました。そちらの写真も併せて投稿します。
観光箇所は法観寺(八坂の塔)、高台寺(ねね)、八坂神社などです。
攻城時間は15分(観光した時間は含みません)くらいでした。次の攻城先=山科本願寺を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取ります。

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おっちゃん

島原城跡案内図 (2014/05/31 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

義統期の大友館の様子 (2017/04/22 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

大野城跡全体図 (2017/12/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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赤い城

市街地一帯が城域 (2022/07/30 訪問)

下妻市役所に車を置かせてもらい、道路を渡ると城址公園があります。
城址公園には石碑と説明板が立っていました。
この辺りに遺構はありません。
現在の市街地一帯が城域で当時は沼沢地に造られたようです。
常陸の平城は湿地に造られたところがいくつかありますね。
特徴の一つでしょうか。
周辺も少し歩いてみましたが明確な遺構にたどり着くことはできませんでした。
探せば土塁が残っているとの話もあるようです。

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橋吉

遺構はわずかだが見所は多い (2022/08/09 訪問)

鶴岡公園西駐車場に駐輪しましたが他にも無料駐車場がいくつか用意されています。
現在本丸は鶴岡公園となっており、大寶館,藤沢周平記念館,荘内神社および護国神社が置かれています。
遺構は堀,石垣,土塁,櫓跡がわずかに残る程度であまりありません。

ただ、藩校である致道館は建物がかなり残されていますし、致道博物館でも貴重な建物や資料が見ることができます。

見所は多く、所要時間は3時間かかりました。

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まっぴー

石垣を最大限に使った日本三大山城 岩村城🏯 (2022/03/20 訪問)

遺構度 ★★★★☆ 復元度 ★★☆☆☆
施設充実度 ★★★★★ お勧め度 ★★★★★

日本三大山城でもあり、女城主の里としても知られる岩村城に行ってきました!
標高がある山城なのにも関わらず、石垣をふんだんに使用しており、本丸はもちろん、門の石垣や櫓台が途中にも多く見られました。
苗木城、美濃金山城とともに訪れることをおすすめします。

【歴史】
鎌倉幕府時代に遠山氏によって築かれ、戦国時代まで統治し続けた。戦国時代になると織田、徳川、武田によって争奪戦が繰り広げられた。
遠山氏の養子として織田信長は5男の勝長を送り、その叔母であるおつやの方がおんな城主として采配を振るった。その後武田信玄の猛攻により、おつやの方が武田の家臣と結婚するという条件で降伏するも、信長は長篠の戦いで弱った武田軍から岩村城を奪還した。
以後、城主はコロコロと変わったものの、明治時代に廃城令が出されるまで存続した。

【遺構】
やはり一番の見所は本丸の六段壁などの石垣です。六段壁は石垣を補強するために作った石垣が積まれたものだそうで補強のためにここまでの石垣を作ってしまうのだからすごいなと思いました。一段だけでも圧巻ですが、六段もあると言葉が出ないです笑六段壁以外の場所にも石垣が用いられている他、空堀や土塁なども見ることが出来ます。

また藩主邸跡には正門、太鼓櫓などが復元されています。

城下町も残っており、江戸の町並みを楽しむことが出来ます。NHK朝ドラ「半分、青い。」のロケ地にもなっています。

【施設】
岩村城の登山道の入り口に岩村歴史資料館、民俗資料館があり、岩村城や岩村の町について知ることが出来ます。岩村城の絵図なども見ることが出来、勉強になりました。

2022.3.20現在 登山道の途中で石垣崩落の影響?により、足場の悪い不安定な階段を登る場所があるため、小さい子供連れの方や足が不自由な方は厳しいかもしれないです。

【インフォメーション】
●24時間営業(山城のみ)

100名城スタンプ:岩村歴史資料館受付窓口
[開館時間]
(4月~11月)9:00~17:00
(12月~3月)9:30~16:00
[入場料]
(民俗資料館と共通)
一般:300円
シルバー(65歳以上):200円
高校生以下:無料
[休館日]
月曜日(祭日と重なった場合は翌日)
年末年始

御城印販売場所:まち並みふれあいの舘(岩村城下町内)
[開館時間]
9:00~16:00

駐車場:あり
所要時間:1時間30分
トイレ:あり

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新ろくべえ

難攻不落 天下の名城 (2022/08/16 訪問)

難攻不落の名城である、小田原城に行ってきました
この城は、大森氏によって築かれた城です。
しかし、二代目の大森藤頼の時に、伊勢宗瑞(北条早雲)によって落とされました。
そして大改修され、山を利用した城となりました。
それが八幡山を主郭とした小田原古城です。
 ここからは細かく説明していきます。
《大森氏と勢子の計》
 この城は大森頼春によって築城された城です。
大森氏は、大森頼春の代に台頭しました。
一時期は伊豆、相模西部を支配し、この小田原城を本城にしました。
しかし、三代目となる藤頼の代に伊勢宗瑞の策略である
勢子の計という、鹿が小田原城の裏山に入ったと嘘の文を送り
小田原城の裏から奇襲を掛ける作戦にはまり、小田原城を奪われ
小田原城は大森氏から伊勢氏(ここからは北条氏とします)にわたりました

次の文は、少し後に書くので、ご了承下さい

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