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todo94

お城EXPO城登城前の朝駆け (2023/12/17 訪問)

お城EXPO参陣前、朝駆けにて攻城してまいりました。攻城といっても横浜市立太田小学校前に行っただけです。にのまるさんに倣って太田小学校向かいの三春台第二公園からの眺望は楽しんでまいりました。ここからパシフィコ横浜まで徒歩にて一気にアプローチしました。

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しんちゃん

結果的にラーメンを食べに来たような‥ (2019/08/04 訪問)

長岡城は簡略して言うと元和3年(1618)に堀直寄により着工され、牧野忠成が6万4千石で入り工事を完成させたとあります。西を大手、東を搦手とし本丸は中央東寄りに築かれていたようです。東西に二の丸と詰の丸、北側に堀を介して東西に伸びる三の丸が配されていたそうです。かつての本丸は市街地に埋まれ、本丸の東側に長岡駅が建てられています。本丸の遺構は全く残っていませんが、駅の近くを歩いていると美味しそうなラーメンの看板が出ていたのでそれに釣られてご入店と相成りました。結果的にラーメンを食べに来たような形になりましたが美味しかったので良しとします。

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ぴーかる

マイベストなら

今回、城びとの奈良県をコンプリートしまして、奈良県の百・続百名城以外の城びと城マイベスト10を作成してみました。私的好みで上位が山城ばかりになってしまいました。

1位[龍王山城]
ぶっちぎりの1位、南城と北城の2城分楽しめ、全て巡るのに半日以上はかかります。特に北城は様々な遺構と残る石積み、広大な城域、なんといっても高低差のある城跡散策の楽しさがたまらない。駐車場もトイレも完備しているので兵糧を持参して攻めよう!
同率2位[椿尾上城]
竪堀・堀切・横堀と所々に残る石積みを探す楽しさ、城内は整備されてくっきり残る曲輪の形、私好みの山城石積みも多く残っています。
同率2位[佐味城]
2024/3/9に完全コンプリート。緩斜地に方形区画された曲輪群と深い堀切が大見応え。皆様の助けにより攻め城できました。
3位[信貴山城]
松永屋敷跡・立入屋敷跡の広大な曲輪群は圧巻です。朝護孫子寺からの登り口からずっと歩いて高安城跡まで城感を楽しめます。登山・散策が楽しい。
同率4位
[小川城]
オーソドックスな連郭の山城跡ですが、曲輪・堀・堀切がくっきり残っているのがとてもいい。
[豊田城]
山城ながら堀に特化した城跡。深い横堀で横堀の端から竪堀として谷に落とし込む技巧的な城跡です。
6位[石打城]
甲賀・伊賀地方特有の主郭高土塁が見所です。奈良県の城びと登録のある城でこの特徴が見られる城跡は石打城だけかもしれません。しかも単郭ではなく広い複数の曲輪を備えています。
7位[笠間城]
主要部が高い切岸で囲み下から見上げると圧巻です。主郭部分に櫓台とスロープ状の遺構が明瞭に残っています。主郭を取り巻く横堀は通路だったか堀だったか当時の様子の想像が膨らみます。
同率8位3城
[赤埴上城]
主郭と主郭虎口、水堀が明瞭に残っています。主郭以外の平坦地が当時どんなだったかを考察しながら散策する楽しさがある。
[今井環濠]
遺構がよく残っているので当時の寺内町がこういう風になっていたかが分かって、勉強になった場所。伝建地区で重要文化財の住宅があり、まちなみ散策が楽しい。
[稗田環濠]
幅のある堀が多く残り現在でも周囲の田んぼから独立した自治集落だった様子がよく分かります。稗田阿礼出身地でさすが古都奈良歴史が半端ない。

訂正:わたくしのマイベストおおさかで高安城10位にしていましたが、今回再確認すると城びとでは奈良県生駒郡になっていました。結果に大きな変動はないのでこのままにします。

つぶやき①:城びとの城跡巡りをしていて、後勉強にはなっていましたが、中世城跡の多くが城主・築城者が興福寺の衆徒というの多かった。加賀国が「百姓の持ちたる国」ならば大和国は「興福寺の持ちたる国」だった。興福寺の権力が衰えると、その衆徒である有力豪族の古市氏・十市氏、筒井氏、豊田氏・箸尾氏が権力を争い、大和平野の南の越智氏も加わって、戦国時代、一国の中でかなり争乱している国でしょう。この争乱の国で三好長慶の後ろ盾はあるが松永久秀が台頭してくるというのは本当にすごい事で、まさに下剋上で上がってきた大人物(善行、悪行は別として)と思う。

つぶやき②:何十年も前から古寺に自家用車で観光に行くたびに、大通り以外の道が狭く、対向車とのすれ違いが来たらこわい県(地元の方がすごいスピードで来る)でした。また大通りや国道はいつも渋滞しています。城びとの城巡りをするようになって、奈良によく行くようになっても、あまり状況は変わっていませんでした。十分ご注意を。奈良にうまいものなしとよく言いますが、彩華ラーメン旨いです。

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黒田官兵衛 (2024/02/01 訪問)

 羽柴秀吉に姫路城を譲った黒田官兵衛と父・黒田職隆が入城した城です。
荒神社から登城路が整備されています。概ね歩きやすく頂上周辺を矢印の標識に従ってぐるりと歩くコースができていました。登城口にある「妻鹿 国府山城跡 平面図」を見ると空堀、縦堀、石垣跡などの表記がありますが、よくわかりません。石垣跡らしい場所はありましたが、遺構かどうか判断できません。
 主郭からは姫路城天守閣を観ることができます。

山陽電鉄本線妻鹿駅より徒歩10分くらいで登城口である荒神社に行くことができます。

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高砂神社 (2024/02/01 訪問)

 高砂神社周辺が城址とのことです。遺構はないようです。石碑を見逃しました。

 山陽電鉄本線高砂駅から徒歩にて登城しました。15分くらいで行くことができます。

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西小天守 冬の特別公開 (2024/02/01 訪問)

 1年と少しぶりに登城しました。「西小天守 冬の特別公開」が今日から始まり行って来ました。何回か登城していますが、西小天守に入るのは初めてです。
この城は見どころ満載で、気が付くと半日以上経ってしまったこともあります。今回は主要な所だけを散策してきました。白鷺城といわれているように白壁の美しい城ですが、登城したときは曇り空で写真を撮影してもバックが雲だと今一つ映えませんね。姫路城には青空が似合う気がします。

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カズサン

【遠江撰要寺砦】静岡県掛川市 横須賀城前の陣城・移築山門の撰要寺 (2024/01/30 訪問)

 撰要寺由来と余湖図コレクションさんの撰要寺砦によると大須賀康高が家康の命により武田勢の高天神城を攻略で横須賀城を築城完成するまで撰要寺に布陣して陣城としていた様子、横須賀城は天正6年(1578年)築城開始し天正8年(1580年)に完成し移り初代城主へ、2年程陣城として使用していたのか?。

 住所:静岡県掛川市山崎1302-1
 駐車場:横須賀城西の丸西下駐車場、トイレ完備、徒歩で西行300~400m程北行100程で山門、山門下西の歩道に広い所があり1台路駐可?。

 南西面の2段丸石垣と参道と参道石垣、山門は城構え其の物である、山門下に横須賀城不開門の標柱が在る、山門は横須賀城不開門を移築したもの立派な松材で門扉は透かし扉。
 撰要寺は天正9年(1581年)大須賀康高による創建で菩提寺、歴代城主菩提寺とし厚く敬われていた。
 大須賀康高、忠政の墓は立派な宝篋印塔墓で石柱列と石扉で囲まれて並び立っている。
 由来板には、「観光の寺ではありません、皆さん手を合わせお参り致しましょう」と注意書きされて居ましたので、奥には踏み込みを遠慮して手前と歴代住職の墓、墓場を遠望するのみにしました。西側の墓場は多段曲輪だったかもしれない?

 西側の田圃はその当時入り江に成っており、磐田今之浦から馬伏塚城、岡崎城の兵站基地経由して潟湖の水運を経て撰要寺砦で兵糧の集積し高天神城攻防の要に成っていた。

 撰要寺砦の北に水堀が残って居る、しかし矢竹が茂り、樹木も茂り見学しにくいですが確認する事は出来る、西側の堀は埋められて道路に成っている、入江は宝永の地震(1707年)で隆起し消滅した。
 

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しんちゃん

扇形の美しい台場跡 (2018/01/05 訪問)

須崎台場は土佐藩砲台跡とも呼ばれ、国の史跡に認定されています。文久3年(1863)7月に着工し、わずか一か月半の短期で完成したそうです。石垣を土台に使用した扇形の美しい砲台で7門の砲台を備えています。
黒船の大砲で砲撃されると石垣が四散して将兵を傷つけてしまうと思うのですが、当時の武士階級の石垣への信頼は絶大だったようです。おかげで今でも美しい砲台の跡を鑑賞することが出来るのですが、実戦に使われなくて良かった。
案内板(陶器のパネル)によると慶応3年(1867)8月6日、イギリス水夫殺害事件で公使パークスは土佐藩と交渉するために軍艦バジリスク号で須崎港に入港し、幕府艦回転丸や坂本龍馬も来港して外交交渉の舞台となったそうです。

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しんちゃん

かつての模擬天守の雄姿!(なんだかな) (2018/01/04 訪問)

日和佐城は謎の多い城で室町時代に日和佐肥前守が築いたとされているようです。入館無料の模擬天守が建っていて、地元の方にもいろいろと活用されていたようです。郷土資料館のような展示が有ったり、休憩所に謎の壺があったり展望台からは周囲が良く眺望できたようです。今は長らく休館中のようですが、この写真では絶賛会館中です。なぜなら写真が古いからです。(石つぶてを投げないで下さい)

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しんちゃん

上杉景虎ここに散る。 (2019/08/13 訪問)

鮫ヶ尾城は標高187mの城山に築かれていました。御館の乱で敗れた上杉景虎が自害した城として知られ、城内の井戸の近くで自害したと伝わっています。本丸の西手に二の丸、三の丸が配され東西南の尾根上にも幾つも曲輪が配され堀切も多く見られます。
この日の登城コースは総合案内所のある東側から登城し、東一ノ曲輪や堀切を通過して本丸にたどり着きました。その後は北の米蔵や二の丸、三の丸を散策して下山しました。
御館の乱では当初は景虎側に付く武将も多かったのですが御館に放火されてからは脱走する将兵が相次ぎ、和議に向かおうとした前関東管領・上杉憲政は景虎の長子道満丸ともども四ツ谷砦で殺害されてしまったそうです。景虎は兄・北条氏政の下へ逃亡を試みるも鮫ヶ尾城主・堀江氏の裏切りと上杉景勝の追手の勢いに耐えられず城中で自害して果てたそうです。まだ26歳と若くイケメン武将だったともっぱらの評判ですが残念な話ですね。

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イオ

敗残兵とうめ振興館 (2023/11/25 訪問)

国道424号線から分岐に入って南部川を渡り、梅林の間を進んだ先に平須賀城跡の案内表示があります。その手前の道が広くなったところに路駐して登城開始。川沿いに7分ほど歩くと平須賀城跡登り口の案内表示があり、そこから山に入って行きます。登り始めてすぐに右手に電気柵が現れ、左手は斜面のはずですが、シダが登城道にせり出してきていて地面がよく見えません。それでもなお進むとシダだけでなくトゲトゲの木(タラノキ?)が行く手を阻み、さらにはシダをかきわける腕にイバラが絡みつき、トゲで顔にひっかき傷を付けたところでやむなく撤退。感電もトゲトゲも嫌ですが、左手が斜面だけにシダで足元が見えずに滑落するのが一番困りますので…。

和歌山県内でも一、二を争う規模の山城ということで、この日のメインに据えていただけに残念無念。todo94さんやキンヤさんの登城時には下草は定期的に刈られていたようですが、私のタイミングが悪かっただけなのか、ここ数年は放置されてしまっているのか、いずれにせよ藪に敗れたままでは終われないので、また機会を見て再挑戦したいと思います。

…で、思いがけず時間も余ってしまいましたし、このまま帰るのも癪なので、平須賀城に関する展示があるという道の駅みなべうめ振興館に立ち寄りました。うめ振興館の名の通り、梅に関するさまざまな展示のある2階の梅資料ゾーンがメインですが、1階の歴史ゾーンでは古代から近代にいたるみなべ町の歴史が紹介されていて、平須賀城のジオラマや発掘調査での出土品、周辺の中世山城の説明パネルなどが展示されています。ジオラマを見ていると、いつか必ず現地で見てやる…と敗残兵の闘志がかき立てられました。また、うめ振興館らしく「戦と梅干丸」「武士と梅干」など梅にちなんだコラムもありました。そして、3階の物販コーナーでお土産(もちろん南高梅)を買い、屋上展望所からの南部川を見渡して、うめ振興館を後にしました。
 

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カズサン

櫓門南前面が整地化されスッキリ (2024/01/30 訪問)

 松尾山北、東の大空堀を堪能した後、西の丸下の駐車場に戻り、大空堀投稿の写真に花を添えようと横須賀城の見所である玉石垣の本丸南下櫓門周辺玉石垣を撮影しようと本丸下枡形によると、何か明るいスッキリしたなと感じると、なんと三日月池が見通せて、旧道の両脇に在った建物が取り払われて整地されていた、中土居道である県道41号線まで見通せて南側外堀跡まで整地されている。
 整地後はガイダンス施設か?大型観光バス駐車場か?期待される施設で有ればいいのですが?。

 整地された所より櫓門跡、本丸、西の丸南側の玉石垣を正面より撮影、以前は斜めに撮るしか無かった玉石垣を真正面から撮影する事が出来ました。
 後はサラッと本丸南前面の玉石垣壁、東虎口から本丸、発掘整備された天守台、立体模型、最後の城主西尾子爵による横須賀城址碑、西の丸、本丸石段上部と西の丸石段上部から建物が取り払われて整地に成った所を撮影し見下ろす。

 駐車場からまだ確認して居なかった二の丸北西角の不開門跡、と西側外堀の確認、現在はコンクリートの水路と埋め立て地と成っています。駐車場から西へ約300~400m程の所に標柱が有ります。

 この後は不開門が移築されてる撰要寺・撰要寺砦を探訪見学しました。
 

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todo94

朝田辰兵衛さんの二日前 (2023/12/16 訪問)

お城EXPOナイトプログラムに向かう前の途中下車で立ち寄りました。二日後に朝田辰兵衛さんも攻められたのですね。大磯駅から結構歩かなくてはならないので滞在時間は短く、朝田辰兵衛さんのように富士山の眺望も得られず、近隣施設への入館もできていないので、いつかまた訪れることになるかと思います。駅に戻る途中、島崎藤村邸に立ち寄ってきました。

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にのまる

ぴーかるさん正解です!!

ご返答いただきありがとうございます。
住宅街の公園、正解です笑

『奥の公園』『石碑が写っていない』と、城写真としての違和感も感じとっていただけて嬉しいです。さすが大阪城500枚撮る方だわ…。

実は出題の写真は先月、信越本線の特急「しらゆき」の車窓から撮ったものです。一瞬でしたがなんとか撮れました。
2枚目の写真は5年前に御館公園から撮った「しらゆき」です。春日山城を収めようと線路まで行ったら偶然通りました。まさか5年後にこの列車内から御館公園を撮ってしかもそれをクイズに出すことになるなんて知る由もなく…。人生って不思議だー。

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朝田 辰兵衛

勝山城(甲府)より,徒歩約80分で🐾 (2024/01/07 訪問)

勝山城(甲府)より,徒歩約80分で小山城に到着しました。とくにストレスフルなところもなく,休憩ナシで一気に向かいました。
うれしいことに,普通なら発見しないであろう看板を住宅街で発見しました。小山城の南西約500m付近です。さらに約300m先には,セブンイレブンがあります。こういう発見はホッコリしますネ…。写真の最後に入れておきます。

ぴーかるさんへ。
残念石の刻印ですが,「桐文」は間違いないと思います。「たつ己 き十七」については,積む場所を指しているのかな…と思いますが,「十」が「千」や「チ」に読めなくもないので自信がありません。場所が大坂城内ということもあり,解説板の設置を希望します。

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しんちゃん

本三戸城と呼ばれる南部氏の拠点。 (2017/05/03 訪問)

聖寿寺館は南部氏が三戸城に拠点を移すまで使用されていた城館で本三戸城とも呼ばれています。北側は丘陵に守られ南に馬淵川が流れています。東にはかつては川が流れていたようで幅20mの空堀を隔て平良ヶ崎城が配され、西も川を挟んで小向館や馬場館が配されていたようです。北側も丘陵地との間を堀切で遮断して主要な台地上の城域を堀で区切って東端には佐藤館が配されていたようです。
2016~2018ごろに巡った城郭の写真はデータフォルダの不具合(しかも2回)で3~4割程度が欠損していて、この聖寿寺館の写真もリカバリーソフトで救い上げたものです。南部利康公の霊屋の写真は完全にクラッシュしてしまいましたね。
データがクラッシュしてしまった関係で兵庫のきっつい山城をもう一度巡回する必要が発生してしまいました。「いった」を押した以上できるだけ写真を撮って来て登録を目指したいと思っております。いささか古臭い写真でお目汚しとは思いますがご容赦を。

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ぴーかる

コンプクイズ stage2の答え

にのまるさん祝辞ありがとうございます。
朝田辰兵衛さん、stage1のクイズは本当に分かんなくて、私も一番最初に大阪城と思い、自身の写真を見直しましたが500枚も撮影しているのに無くて、残念石で検索しても誰も掲載していなくて、金沢城⇒名古屋城⇒駿府城⇒福岡城⇒二条城⇒篠山城と迷走して合致せず、背後の石垣から近世城郭の初頭、切込み接上部布積だがちょっと荒い、規模的に天下普請、石垣の感じが第一印象の大阪城に似ていることから大阪城となったのですが、石垣の更に背後の高い山が迫っているのように見えて、大阪平野と違うなあと思い、当てずっぽでした、当たってよかった。残念石の刻印は「たつ己 き十七」と「桐紋」ですか?

にのまるさんウケました‼(笑)答え:住宅街 ではなく、奥にある公園ですね。最初見た時「えっ?街やん!」とつっこんでしまいました。でもこちらは逆にすぐにここかなあと分かって、自身の写真と照合して、ストリートビューで再確認して合致。
答え:新潟県上越市 御館
ここ、行った人でないとわかんないですね。公園角にある石碑が写真左側のギリギリ写っていないところがまた憎い撮り方。大阪府の時は3問ありましたが今回はちょっと甘い?

朝田辰兵衛さん、にのまるさん本当に楽しいひと時をありがとうございました。また城巡りのモチベーションが上がります。次の制覇は滋賀県か福井県か鳥取県になるかんじですが、ちょっと先になりそうです。その時はまたお願いします。

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しんちゃん

実は桜の名所 (2017/05/03 訪問)

三戸城は熊原川の南に位置する河岸丘陵の上に築かれています。北東から南西に城域が伸び中央が膨らんだサツマイモのような形状をしています。やや北寄りの中央の小高い所に本丸が配され、南西の南部政直邸の跡地に天守に似せた温故館の建造物が建てられています。
実は桜の名所で、このいささか能天気な建造物も市民の良い憩いの場になっているようですが国の史跡に登録された関係で将来的な撤去を要求されているようです。たしかにこの模擬天守はどうかと思いますが何も無くなってしまうと地元の人も少し寂しいのではないでしょうか?やはり人は山の上に城を造りたがるんですね。
三戸城は天文8年(1539)に本三戸城(聖寿寺館)が焼失した後にこの地に南部晴政によって築かれたとされています。家臣が増えすぎてしまったためスペースに余裕のある当地に白羽の矢が立ったようですね。森岡城が築かれるまでこの地域の中心的な城郭として機能しましたが、盛岡城に居城が移った後は代官の支配下に置かれたそうです。
※盛岡城に移る前に九戸城に拠ってますね。あんな縁起の悪い城になんで移るのでしょうか?不始末をやらかしたので太閤さんから罰ゲームを喰らったのでしょうかね。

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しんちゃん

特別史跡・弘道館 (2019/01/05 訪問)

弘道館は水戸城の三の丸に存在した藩校で旧弘道館の部分が国の特別史跡に指定されています。創設は天保12年(1841)で水戸藩九代・徳川斉昭によって築かれたとされています。質実剛健・文武両道のイメージが強い水戸藩ですが、弘道館の派手すぎず、それでいて荘厳なたたずまいは特別史跡に相応しいと感じます。薬医門など遺構が少ないのも水戸藩らしいと思っていましたが最近はいろいろと建造物が復元されてきているようです。
やはり隣の芝生は青いというやつでしょうか?またどこかで長期休暇が取れたら東北へ行きながら水戸城にも立ち寄りたいと思います。

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カズサン

大空堀初探訪 (2024/01/30 訪問)

 昨年4月10日登城した折に松尾山より大空堀を見下ろし圧巻のスケールに驚愕し、草も枯れ周辺の草刈もされた冬枯れの時期に大空堀を探訪しようと思っておりました。
 令和6年の初登城は掛川城1月6日、以来寒さと出不精で3週間炬燵とパソコンで皆さんの投稿を拝見しておりましたが、昨日晴天風無く穏やかな日和、以前からの懸案の横須賀城大空堀探訪に出掛けました。

 駐車場:横須賀城西の丸西下の駐車場利用、トイレ完備。

 探訪ルート:駐車場より北側外堀を埋め立てた旧小学校の体育館現多目的センターの前の通りを東に農道を進む、横須賀城の北側畑の中を進む、北東辺りでアスファルト舗装の道を南に進むと大空堀標柱が在る。
 北東角、少し西に戻ってみる、角から東側、南東角と様子を探るが大空堀に降りれる所が無い、無理をすれば降れるようですが、赤穂城本丸横矢台の土塁法面で足を捻挫した記憶が甦り降りられない。
 残念ですが写真は外堀大空堀外からの写真です、しかしさすが城郭放浪記さんの写真館には大空堀の堀底からの写真も載っています。
 大空堀から三の丸への道を探しましたが、墓場よりの降下ルートも道が在るようで途中途切れて坂法面降りれない、三の丸から本丸へと思ったのですが引き返し駐車場へ。

 防御の大空堀ですのでそう簡単には降下は出来ませんが、何とか散策ルート階段を作っていただければ、大空堀のスケールを実体験出来るのにと思ったりしたり、大空堀の南東角から東、南は竹林で覆われて見通しが大変悪い、三の丸への外堀散策ルートと北側の外堀散策ルートの開設をお願い出来たらと思ったりしたり?

 取り敢えずは大空堀の探訪を良しとしました。
 

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