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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:日和佐陣屋(城びと未登録 徳島県美波町) (2022/07/22 訪問)

小仁宇城(城びと未登録 徳島県那賀町)からの転戦です。美波町役場駐車場(33.734308、134.535109)に駐車しました。

1807年(文化4年)徳島藩によって築かれました。 1799年(寛政11年)徳島藩によって海部陣屋が築かれ那賀郡と海部郡の郡代所となったそうです。
以後、明治維新に至るまで、郡の代官所として機能していたそうです。

役場の南側の道路に面して日和佐御陣屋の石碑と案内板があります。
石碑の東側にある小学校の運動場へ続く道沿いに土塀が残されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=日和佐城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:小仁宇城(城びと未登録 徳島県那賀町) (2022/07/22 訪問)

仁宇山城からの転戦です。城址碑前(33.851811、134.479255)に駐車しました。

1585年(天正13年)に発生した仁宇谷一揆を鎮圧した戦功により蜂須賀家政から仁宇城を与えられました。
しかし、その数年後に山田宗重は仁宇山城に移ったため廃城となりました。

現在城址に遺構はなく、空き地に「阿波九城 仁宇城阯」と書かれた城址碑が建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=日和佐陣屋(城びと未登録 徳島県美波町)に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:仁宇城 (2022/07/22 訪問)

西方城からの転戦です。
蛭子神社前県道スペース(33.859254、134.502213)に駐車後、蛭子神社の土塁(33.859905、134.501721)➡鷲敷小学校の石碑(33.8596、134.4993)の順番に回りました。

築城時期など定かでないようですが、天正年間(1573年〜1592年)湯浅対馬守(藤原兼時)の居城でした。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐の後、蜂須賀氏が阿波に入部すると、湯浅氏はこれに反して一揆(仁宇谷一揆)を起こしたが鎮圧されました。
その後、仁宇城は阿波九城のひとつの支城として整備され、一揆を鎮圧した重臣山田宗重を城代とし5,000石を所領としました。
元和の一国一城令にもかかわらず、1638年(寛永15年)まで存続していたそうです。

阿波9城のひとつです。
現在城址は蛭子神社の境内となっており、北東側に土塁が確認できました。また鷲敷小学校に「仁宇山城阯」と書かれた城址碑が建てられています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=小仁宇城(城びと未登録 徳島県那賀町)に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:西方城 (2022/07/22 訪問)

宿泊先のホテルルートイン阿南からです。日亜化学駐車場入口(33.926094、134.620486)から侵入し、車を駐車後、西方山登り口(33.925889、134.616990)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に東条紀伊守によって築かれたと云われています。
東条紀伊守は桑野城主東条関之兵衛の伯父です。
1577年(天正5年)頃に東条氏は長宗我部氏に従い、東条関之兵衛は元親の養女を妻に迎えます。この頃、東条関之兵衛は西方城を守っていました。
1582年(天正10年)長宗我部元親の阿波平定以後、東条関之兵衛は木津城城主となりました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐では、戦わずに東条関之兵衛は土佐へ逃亡しました。その後、阿波公方家の隠居所としても使用されました。
しかし、敗戦の責任を問われ、東条関之兵衛と弟の東条唯右衛門は長宗我部元親に処刑されました。

天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐では東条関之兵衛は木津城を守備していたが、秀吉方であった伯父の東条紀伊守の説得によって開城し、桑野城へ退いた後に土佐へ逃れた。しかし、敗戦の責任を問われ、東条関之兵衛と弟の東条唯右衛門は処刑された。

登山道が整備され、東側の一部に展望台と説明板が設置されています。
登山道は結構な階段(今、何合目付近かを示す標識あり)を登るので、登山口においてある杖は使ったほうがいいです。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=仁宇城に向かいます。

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赤い城

小さな石碑がひっそりと (2022/07/18 訪問)

座間駅から徒歩で10分くらい
城主の白井是房が開基の心岩寺近くに小さな石碑があります。
かなりの確率で見逃すと思います。
心岩寺の背後は高台で城の雰囲気は感じますが遺構はありません。
近くには坂東三十三観音の一つ、星谷寺もあります。
星谷寺の背後には山があり、陣屋も築かれたそうですが又の機会にしました。

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T-Shionoya

アジサイと下田城 (2022/07/01 訪問)

アジサイが見頃を過ぎた7月に訪問した静岡県下田市の下田城。

伊豆半島南東部、下田湾に突き出た鵜島と呼ばれる標高約70mの半島状の小山を城郭とした城。
駿河湾と相模湾の境界で、海上交通における関東の入口とも言えるポイントでしょうか。

小田原北条氏の水軍拠点の1つで、1588年には秀吉の進軍に備えて大改修を実施。
しかし秀吉の小田原征伐では、清水康英を城将に600余名で1万を超える豊臣方を相手にし、50日あまりで開城となりました。

現在は日本一の15万株のアジサイが植えられた下田公園となっており、山頂部からお茶ヶ崎、馬場ヶ崎、蓮杖台などに向けて伸びる尾根の片側に総延長700mの空堀が残っている模様。
その空堀の大半はアジサイに隠れているものの、天守台曲輪の南西部が畝堀を確認できる1番の見所でしょうか。

またお茶ヶ崎までの尾根には3つの堀切が存在。
各尾根の先端は見張り場だったと推測され、特にお茶ヶ崎の展望台は、風が気持ち良く眺めも良好。
北側の駐車場から入城し、歩き回るうちにアジサイ鑑賞から徐々に要塞の雰囲気が湧いてきた下田城が、私の城巡りの129城目でした。

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POYO58

石垣、重要文化財編 (2022/08/06 訪問)

大坂城は天守もいいですが、歴史の面影を一番感じやすいのは石垣と現存櫓です。大坂城には櫓が4つ現存しています。(間違ってたらすみません)たしか、千貫櫓、六番櫓、一番櫓、多聞櫓だったと思います。櫓は水堀沿いにある高石垣の上に建っています。なかなか敵が櫓に向かって攻撃するには難しい場所でした。特に千貫櫓と多聞櫓はすごく大手門に向かう途中に千貫櫓から銃撃にあい、大手門を突破しても枡形虎口がも受けられているため突破するのには不可能です。また枡形虎口はここだけではなく、門がある場所全てに設けられています。また石垣は殆どが打ち込みはぎなのですが、枡形虎口の石垣は切り込みはぎで特徴の違いをかんじとれます。この城を攻められた人はたぶん武田信玄の倍賢いかもしれません。櫓の中には土日に1200円で入ることができますが、断念。美しさだけでなく守備にも適したお城で面白かったです。

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朝田 辰兵衛

長峰城(新潟県上越市) (2022/08/06 訪問)

【ながみね じょう】長峰城は,新潟県上越市吉川区長峰にある長峰池の丘陵上に築かれた平山城。JR上下浜駅から,徒歩約20分。標高もわずか35mと,森林浴気分で登城できます。
本丸の北側が長峰池。他の三方を空堀が囲みます。空堀は,幅が6~20mで,深さが約10mですが,この季節は整備がされてなく,草木に覆われていました。方形の周囲は3m前後の土塁が囲んでいて,四隅には櫓台を配置していました。
歴史的には,1616(元和2)年7月,上野国大胡城主の牧野右馬允忠成が,大阪夏の陣で軍功を立てたことにより,長峰城主となりました。2万石から5万石。ところが,1618(元和4)年,長岡城6万2千石に移ったため,長峰城は廃城。牧野氏は,廃藩置県まで長岡城主として君臨しました。

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ぎりょう

「小牛田城」乗客を和ませ幾星霜・・・・・ (2022/08/06 訪問)

春先からの地震、豪雨災害、コロナ再燃により趣味の城館調査は中断を余儀なくされています。そこで今日は、隣町宮城県遠田郡美里町の「小牛田城」に登城?しました。
この城は1970年代に小牛田駅に勤務するお城好きの職員さん(故人)が、「列車の乗客を和ませたい」と「築城」したと云います。先ごろ地元紙河北新報にも紹介されました。
石垣の上に千鳥破風を備えた五層天守、櫓や門が連なる見事な縄張り。制作にあたった職員さんが城郭知識豊かな「城びと」であった事が想像できます。
なにぶん城は小牛田駅の構内3・4番線ホーム北端の線路脇にあるため、近づいて見ることはできませんが、駅正面入口内の階段付近から望むことができます。
附近には戦国時代に使用された中世山城の彫堂七館や藩政時代に仙台藩宿老後藤氏(2700石)の居館であった不動堂要害(鶴頭城)もあります。当地にお出での「城びと」の皆さまに「小牛田城」も御覧になっていただきたいです。

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カズサン

【日向・森岡城】宮崎県えびの市 城郭風建物群 (2006/10/13 訪問)

 森岡城は森岡産業㈱の観光展示施設で、「宮崎県えびの市大明司2179-1」に在ります。
 人吉に向かう国道211号線との分岐から東に約1km国道268号線沿いの北側にあり、城郭風の建物群が目に入って来ます。

 16年前の平成18年10月上旬、仕事の関係でえびの市小林市を訪れた居り、チョイ寄りして外観のみ見学撮影しました。
 小さい頃お城を建てるのだと夢見た頃は有りましたが、現実に故郷に帰りお城を造り故郷に貢献されてる方がいらっしゃったとは驚きです、中々出来ませんね。

 森岡産業㈱は大阪で不動産、建築等の仕事で財を成し、故郷えびの市に子会社を設けて不動産、賃貸、建設等の業務をやって居り、森岡氏の志向で城風建物を造り、観光、施設賃貸などを行って居り、今なお完成せず建築は続いて居ります。
 ネットでHPを見ると入場料1000円で内部観覧は出来るようです。春の桜まつり辺り絶好の見学探訪日和でしょうか?
 ちなみに余湖図コレクションさんのページでも紹介されて居ますので念のため。
 駐車場は施設の前にあります。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:牛岐城 (2022/07/21 訪問)

平島館からの転戦です。牛岐城址公園駐車場(33.920965、134.6573)に着きました。

築城年代は定かではない。至徳年間(1384年 - 1386年)に阿波守護細川氏の家臣新開実重が、阿波国に入った際に築城したと云われています。
1582年(天正10年)城主であった新開実綱(新開道善)が長宗我部元親に謀殺され、これにより新開氏は滅亡し、香宗我部親泰が入りました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国征伐に際し、蜂須賀家政が阿波国を領有とし、支城群阿波九城の一つとして家老である賀島主水政慶に10,000万石を与え城代としました。
政慶は入城後、牛岐の地を富岡と改名したため、牛岐城も富岡城と呼ばれるようになったそうです。
その後、1638年(寛永15年)に一国一城令により、徳島城以外の城は破却されました。


遅くなり公園管理事務所は閉まっていたので、石垣は確認できませんでした。阿波9城のひとつです。
しかし、階段を登って行くと階段横から石垣が見えますが、ガラスに反射して写真は撮れませんでした。
模擬城門は確認しました。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:平島館 (2022/07/21 訪問)

上桜城からの転戦です。阿波公方民族資料館駐車場(33.951699、134.655141)に駐車し、標柱場所(33.951994、134.655939)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、藤原清兼によって築かれた平島塁がその前身だそうです。
1534年(天文3年)室町幕府11代将軍足利義澄の二男足利義維(後の義冬)が、阿波国守護職細川持隆に招かれ、3,000貫の所領を与えられて阿波へ移り、平島塁を修築して住んだのが平島館だそうです。
平島館に代々住んだ足利氏は阿波公方あるいは平島公方と呼ばれ、足利義冬の長男が1568年(永禄11年)に三好三人衆に奉じられて第十四代室町幕府将軍となった足利義栄です。
江戸時代になって蜂須賀氏が支配するようになると平島公方の所領は減らされ、わずか100石となりました。
四代義次のときには足利から平島に改めるように命じられ、以後平島氏を称するようになります。
1805年(文化2年)九代義根のとき阿波から脱出して紀州経由で京へ上りました。これにより平島館は廃城となりました。

阿波公方民族資料館(時間的に閉まっていました)の北東に見える小さい丘に土塁が残っているだけです。
信行寺(阿南市那賀川町)と吉祥寺(阿南市長生町西方)に山門、地蔵寺(小松島市松島町)に書院と玄関が移築され現存しているそうですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=牛岐城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:上桜城 (2022/07/21 訪問)

川島城からの転戦です。説明板付近の空スペース(34.052816、134.318652)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代末期に篠原長房によって築かれたと云われています。
篠原長房は三好義賢に仕え、1562年(永禄5年)和泉国久米田の戦いで先鋒を務めたが、大将三好義賢が討死して大敗しました。
義賢亡き後、遺児三好長治と十河存保及び阿波細川氏の細川真之を補佐し、阿波・讃岐の軍勢を率いて各地を転戦し、畿内の三好政権を支えたそうです。
1572年(元亀3年)長房の弟という木津城主篠原自遁の讒言により、三好長治、十河存保、細川真之が上桜城を攻め、長房・大和守父子は討死して落城したそうです。
長房の死後、上桜城は廃され、長房討伐で功績を挙げた川島惟忠が川島城を築城したそうです。

主郭に土塁、土塁の上に祠、祠の前に城址碑があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=平島館に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:川島城 (2022/07/21 訪問)

脇城からの転戦です。天守前駐車場(34.065861、134.3205)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)初期に川島兵衛進惟忠によって築かれたと云われています。
川島氏は三好長慶の甥にあたり200貫を知行していたが、1579年(天正7年)川島惟忠は脇城外の戦いで討死したそうです。
1585年(天正13年)阿波国に蜂須賀家政が入封すると、川島城には林能勝(道感)が城主となりました。
1638年(寛永15年)一国一城令により廃城となり、その跡には徳島藩の奉行所が置かれ、明治になるまで存続したそうです。

模擬天守は休館中ですが、阿波9城のひとつです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=上桜城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:脇城 (2022/07/21 訪問)

岩倉城からの転戦です。秋葉公園横の駐車スペース(34.073061、134.143611)に駐車しました。
脇城址入口付近の空スペース(34.074202、134.143109)に駐車できるようですが、そこに行くまでの道は狭い(軽自動車でギリ)との事前情報より、駐車場所から脇城址入口付近の空スペースまで歩いて(徒歩7~8分で着きます)向かいました。

築城年代は定かではないようですが、 戦国時代の初期に脇権守仲房の館があったといわれ、1533年(天文2年)に三好長慶が城を築いて三河守兼則が守っていたともいわれています。
その後、1557年(弘治2年)大和国より武田信玄の異母弟とも言われ、三好家家臣となっていた武田上野介信顕が脇城に入りました。
1579年(天正7年)信顕は岩倉城主三好康俊とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利しました。
1582年(天正10年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城へ押し寄せ、信顕・信定父子は讃岐へ逃れたが逃亡先で討たれました。
その後、長宗我部親吉が脇城に入った。親吉は元親の甥または叔父といわれる人物で一族の中では最も剛の者であったといいます。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による四国征伐では三万の兵が押し寄せ、親吉は五千の兵でこれを迎え撃ったが、支えきれず開城しました。
1586年(天正14年)蜂須賀家政が阿波に入国すると家老稲田稙元が10,000石を領して脇城主となり、脇城を改修して阿波九城の一つとなりました。
阿波9城も1615年(慶長20年)の一国一城令により、1638年(寛政15年)に破却され、廃城となりました。

阿波9城のひとつです。
主郭と2郭間、2郭と3郭間に堀切が確認できます。
本丸は雑木や竹藪となっていますが、土塁や石積井戸があり、北側に深い横堀が残っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=川島城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:岩倉城 (2022/07/21 訪問)

重清城からの転戦です。城址入口付近(34.073732、134.131645)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1267年(文永4年)三好郡領平右馬頭盛隆が叛乱したとき、阿波国守護小笠原長房はここに城を築いて盛隆を平定したといいます。
永禄年間(1558年〜1570年)には三好康長が岩倉城を築いて嫡子三好徳太郎康俊が城主となりました。
1578年(天正7年)康俊は脇城主武田信顕とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利しました。
1582年(天正10年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城も攻略して岩倉城にも攻め寄せ、康俊は降伏開城して逃れたとも討死したとも云われています。
豊臣秀吉の四国征伐で再び豊臣秀次等によって攻められ落城しました。
1586年(天正14年)蜂須賀家政が阿波国に18万石で入国後は、脇城は阿波9城(一宮城・撫養城・西条城・川島城・大西城・海部城・牛岐城・脇城・仁宇城)の一つとなりました。
阿波9城も1615年(慶長20年)の一国一城令により、1638年(寛政15年)に破却され、廃城となりました。

本丸の北側(本丸と2郭間)に堀切があり、その北側は墓地になっています。
本丸の南側に説明板と城主の墓がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=脇城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:重清城 (2022/07/21 訪問)

叶堂城からの転戦です。説明板入口付近(34.049301、134.013467)に路駐しました。

南北朝時代、1339年(暦応2年・延元4年)阿波国守護の小笠原長房の孫・長親によって築かれたと云われています。
1577年(天正6年)正月に城主小笠原豊後守長政は、白地城主大西覚養の弟で長宗我部氏に人質として送られていた大西上野介頼包と中鳥城主久米刑馬によって謀殺されました。
大西頼包は讃岐へ逃れていた兄覚養を長宗我部氏に降らせ、重清城に迎えます。
重清城を長宗我部方に落とされた三好氏は、十河存保が兵三千余りで押し寄せ城を取り戻したが、1579年(天正7年)長宗我部元親が大軍を率いて重清城に押し寄せ、十河存保は5,000の兵をもってこれに対応したが敗れ、重清城は落城しました。

土塁を巡らせた主郭があり、石積井戸が残され、中央に城主を祀った今にも崩れそうな小笠原神社があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=岩倉城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:叶堂城 (2022/07/21 訪問)

志知城からの転戦です。感応寺駐車場(34.326838、134.736863)に駐車しました。

1595年(文禄4年)志知城主加藤嘉明が伊予国松前に転封になった後、豊臣秀吉の直轄領となり代官として石川紀伊守光之が派遣されました。
その後、1600年(慶長5年)までに志知城は廃城となり、新たに志知城に代わる水軍基地として築城されたそうです。
しかし、間もなく光之は「関ケ原の戦い」で西軍に与して敗れたため、淡路国は阿波国徳島藩主蜂須賀氏の所領となり叶堂城は廃城となっています。
江戸時代には、築城時に北の松原に移されていた感応寺が1621年(元和7年)に再建され、徳島藩主・蜂須賀氏の庇護を受けて、石垣などが改修されました。

石垣と説明石板を確認しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=重清城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:志知城 (2022/07/21 訪問)

養宜館からの転戦です。声明寺付近空スペース(34.299894、134.745411)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代初期に菅和泉守道忠によって築かれたと云われています。
菅氏は淡路国三原郡野口村を拠点としていたといわれ、その後、菅氏あるいは野口氏を称したそうです。
南北朝時代以降、菅実正は足利尊氏に従い、細川師氏が淡路守護となって淡路に入部すると菅氏もそれに従いました。
1581年(天正9年)菅長宗のとき、織田信長の命により淡路に侵攻した羽柴秀吉らの軍勢により、志知城は降伏・開城しました。秀吉は家臣の黒田官兵衛を志知城に置いて守らせました。
1585年(天正13年)加藤嘉明が15,000石を領して志知城に入り、志知城が改修されと考えられている。
1595年(文禄4年)加藤嘉明は60,000石に加増され、伊予国松前に転封となり、その後は秀吉の直轄領となって代官が置かれたが、後に叶堂城に移され廃城となりました。

声明寺付近が城址跡らしいですが、何も見つけられませんでした。事前調査不足です。残念です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=叶堂城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:養宜館 (2022/07/21 訪問)

洲本城からの転戦です。中八木集会所の空スペース(34.305223、134.795103)に駐車しました。

1340年(暦応3年・興国元年)足利尊氏の命により、淡路を平定した細川師氏によって築かれたと云われています。
それ以前に守護所があったとも云われていますが、定かではないようです。
以後、細川氏は7代約180年間にわたって淡路を支配しましたが、1519年(永正16年)7代・細川尚春が三好之長に謀殺されたため、この館も廃されることになりました。

薬師堂横に館跡碑&説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=志知城に向かいます。

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