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おっちゃん

江戸時代の人吉城・城下町を表した模型の写真 (2017/11/05 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

佐敷城跡縄張り図 (2017/11/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

古麓城跡縄張図 (2017/11/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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イオ

とことん江戸城(赤坂門) (2022/06/22 訪問)

(続き)

出張1日目の仕事を終えて赤坂見附のホテルに荷物を置き、着替えたら赤坂門へ。永田町駅9a出口の南西部が赤坂門の枡形で、南半分(櫓門側)は青山通りになっていますが、北半分には高麗門と枡形の石垣が現存しています。また、東京ガーデンテラス紀尾井町の弁慶濠沿いに設けられたテラスの小道からは、赤坂門の弁慶濠に面した高石垣が間近に見られ、刻印や矢穴がはっきりと確認できました。

テラスの小道をたどって紀尾井町通りに出たところに、紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡の石碑と説明板が建てられています。そして、弁慶濠に架かる弁慶橋を渡ってホテルに戻り、この日の城めぐりを終えました。ところで、弁慶橋や弁慶濠の「弁慶」は、江戸城普請を担った大工の棟梁・弁慶小左衛門に由来するものらしいですが、てっきり「武蔵坊」にちなんだものかと思ってました。武蔵坊弁慶ゆかりの史跡は全国各地に伝えられていますので…。

さて、翌朝は早起きして仕事前に赤坂門より南の外堀跡をたどるため、早めに寝ることにします(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:屋島城 (2022/07/25 訪問)

前田城からの転戦です。山頂観光駐車場(34.358943、134.102640)に駐車しました。

663年(天智天皇2年)白村江の戦いで、倭国(日本)・百済復興軍は唐・新羅連合軍に大敗しました。大和朝廷は、唐・新羅の侵攻に備えて、対馬~九州の北部~瀬戸内海~大和に至る要衝に様々な防御施設を築きました。
664年、対馬・壱岐・筑紫などに防人と狼煙台を配備し、後の大宰府の西方に水城を築きました。
665年、長門に城を築き、筑紫に大野城と基肄城を築きました。
667年(天智天皇6年)大和に高安城、対馬に金田城、讃岐に屋嶋城を築きました。

南の城門地区の城門と石垣を確認しました。
右ひざ痛でしたが、本日、最後の攻城なので頑張って歩きました。
攻城時間は60分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:前田城 (2022/07/25 訪問)

向城からの転戦です。JA香川前田支店駐車場(34.300675、134.111238)に駐車し、宝寿寺(34.301723、134.112369)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)前田頼母頭宗存によって築かれたと云われています。前田氏は十河景滋の分家で前田氏を名乗ったそうです。
1582年(天正10年)3代前田宗清のとき長宗我部氏の侵攻により落城しました。

前田城は法寿寺のある古代丘陵を利用した平山城です。
南北に二つの曲輪があり法寿寺があるのが南の曲輪、標柱が建っているのが北の曲輪となっています。
北の曲輪は墓地ですが、北東隅の土塁があり、北背後にはやや低くなった空堀が残っています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=屋島城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:向城 (2022/07/25 訪問)

室山城からの転戦です。向城城址南側入口(34.318655、134.077940)に路駐しました。駐車場所に苦労します。

真鍋氏数代の居城で、1500年(明応9年)頃に築城されたようです。
城名は初め奥城と云われたが、対立する十河方の神内城と白山神社を挟んで向かい合っていたので向城と呼ばれるようになったそうです。

現在は水田にある所に説明板が建っているだけです。入口がわからず、フェンス際から写真を撮りました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=前田城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:室山城 (2022/07/25 訪問)

築城城からの転戦です。登城口付近空スペース(34.322813、134.035091)に駐車しました。
駐車付近の登城口は2か所あり、①南西側登城口(34.322797、134.035308)と②南東側登城口(34.322517、134.039098)です。

築城年代は定かではないようです。
はじめ真鍋権之頭が城主であったともいわれるが、戦国時代には勝賀城主香西氏に属した太田犬養が城主でした。
太田氏は香西元定が三谷景久の籠る三谷城攻めに参加したが、天正年間(1573年〜1592年)に長宗我部氏が香西氏を攻めた時に、長宗我部氏と戦い戦死し、廃城となりました。

城は栗林公園の西にある紫雲山の南の峰の室山に築かれています。
右ひざ痛の為、登城を断念して2か所の登城口を確認して引き返しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=向城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:築城城 (2022/07/25 訪問)

芝山城からの転戦です。説明板付近(34.330702、134.0053)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、築城(つづき)氏によって築かれたと云われています。
築城氏は代々勝賀城主香西氏に属し、初代築城縫殿助は1508年(永正5年)三谷城攻めに加わり、三代清左衛門は1582年(天正10年)長宗我部元親が香西氏を攻めた時、伊勢神宮の馬場で奮戦したといいます。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国征伐で香西氏は滅亡しました。
香西氏滅亡後は、1587年(天正15年)讃岐の大名として赤穂から生駒親正が着任し、清左衛門は200石で召し抱えられました。

遺構はありません。説明板の写真を撮ったら速攻で撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=室山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:芝山城 (2022/07/25 訪問)

藤尾城からの転戦です。石垣下の駐車スペース(34.351354、133.998051)に駐車しましたが駐車禁止場所でしたので、石碑の写真を撮って速攻撤退です。。

築城年代は定かではないようですが、勝賀城主香西氏の出城の1つで、水城であったそうです。
天正年間(1573年〜1592年)頃には香西氏の家臣で円座城主の渡辺市之丞が守将となっていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=築城城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:藤尾城 (2022/07/25 訪問)

勝賀城からの転戦です。宇佐八幡宮参拝者用駐車場(34.345864、133.997324)に駐車しました。

1575年(天正3年)香西佳清によって築かれました。
香西氏は長宗我部氏の讃岐侵攻に備えて、宇佐八幡宮の鎮座する藤尾山に藤尾城の築城を開始し、1577年(天正5年)には佐料城から移ったといいいます。
1581年(天正10年)長宗我部氏の侵攻にさいして開城、その後、1585年(天正13年)羽柴秀吉の四国征伐の後には廃城となりました。
1602年(慶長7年)城跡には再び宇佐八幡宮が遷座されました。

宇佐八幡宮本殿が建つ最高所が本丸跡で、西に一段下がった「八幡宮氏子会館」の敷地が2の丸跡とされています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=芝山城に向かいます。

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にのまる

最初に思ったこと。 (2022/06/10 訪問)

実家から帰京の際、姫路で途中下車しました。
前回訪問から7年の歳月の間に、“見てみたいパーツ”や“撮ってみたいアングル”がどんどん増えていたので、それらをひとつずつ消化することをとても楽しみにしていました。
しかし、駅に降り立ち遠くに聳える天守群を目の当たりにした瞬間、そんな思いは吹き飛んでしまいました。姫路城はその美しさを誇るために存在しているのではないかと思ったのです。
にわか知識で固まった頭でまわってしまうと、本当の美しさに気づかないのではないか、素晴らしい遺構の前を素通りしてしまうのではないか。そもそも文字や写真で得た知識しか持ち合わせていないビギナー中のビギナーなのにマニアックな視点で見ようとすると木を見て森を見ず的な、本末転倒な残念なお城めぐりになってしまうのではないか……。
今日は学ばない!細かいことに拘らない!時間の許す限りとことん姫路城を楽しもう!そんな気持ちで大手前通りを中の門跡へ向かいました。まずは中濠めぐりです。
<つづく>

……置塩城方面行のバスとニアミス?

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朝田 辰兵衛

『皆既「垣」食』??? (2021/10/10 訪問)

最大の見どころと言っていい「人質櫓」のワキで,面白い自然現象に遭遇しました。これって『皆既「垣」食』???(違うと思ったら,笑い飛ばしてください)
ここは,徒歩登城者にとって,スタンプのためだけにリフト乗り場まで行くというのは,とても億劫でした…。

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くらのり

広島城 (2020/09/21 訪問)

戦国時代末期、中国地方の殆どを領有した毛利輝元は、それまで本拠としていた安芸の山間部の吉田では新しい時代に対応できないと感じ、海陸の接点である現在の安芸国佐東郡広島(現在の広島県広島市中区基町)に築いた。
その後は、福島氏・浅野氏の居城となる。明治以降は1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存していたが、太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在の天守閣は1958年以降に再建し、1994年(平成6年)には表御門、太鼓櫓、多門櫓、平櫓などが木造で再建されている。

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POYO58

天守台と本丸編 (2022/08/08 訪問)

さて、柳沢神社の入り口を通り、天守台に向かいます。大和郡山城の天守台はほぼ完全な状態で残っていますが、天守の構造はわかっておらず…。天守台の最大の特徴は75基ものさかさ地蔵。私たちが観れるのはそのうち一つのみですが、さかさ地蔵が観れるのはなかなか珍しい、しかも天守台に組まれているのもここだけです。またさかさ地蔵だけでなく転用石も使われています。この城を築いたのは筒井順慶ですが、明智光秀と仲が良かった気がします。もしかしたら福知山城の技法を取り入れたか?筒井順慶は最終的に光秀を裏切り、秀吉の元に着きますが、この天守台は光秀に対するどのような思いが込められているのでしょうか?疑問です。天守台を登ると東大寺を見ることができます。その後、二の丸隅櫓に行き、御城印を買おうと城内にある柳沢文庫に行ったらなんと月曜日で休館。最悪でしたが、スタンプは市役所でも押せました。その後、天守台と水堀を一緒に写真に収めたかったので行こうとしたその時!小雨の雨が降ってきました。まあ大丈夫かと思いきや雨はどんどん強くなり土砂降りとなりました。地獄😩。仕方なく天守台と水堀を写真に収めて市役所へと走っていきました。いろいろ大変でした。でも、大和郡山城がとても魅力的でした。赤木城もそうですが、続日本100名城よりも評価は高くていい気がしました。

別件
実はこの日、安倍晋三さんがお亡くなりになってから1ヶ月後でした。帰る時大和西大寺駅を通ったので電車から手を合わせておきました。一瞬で日本には存在必須な方が亡くなったことに心が痛みました。安倍晋三さんもう少し生きていて欲しかった…

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トク

【鹿児島城と西南戦争の遺跡巡り①】鹿児島城(鶴丸城) (2022/08/11 訪問)

熊本での西南戦争の遺跡を訪れると、やはり今度はどうしても鹿児島に行きたくなり、「鹿児島城(鶴丸城)」と終焉の地「城山」などを訪れてきました。

鹿児島城(鶴丸城)は、豊臣の九州征伐や関ケ原の時代を乗り切った当主島津義久の弟で、島津の退口など数々の武勇で有名になった義弘、その義弘の子「忠恒(後の「家久」)」が義久から島津の家督を継ぎ1601(慶長6)年に築城しました。徳川を欺くため外城制度を設け、天守が建てられなかったのは、皆さんよく御存知と思います。そして御楼門は、西南戦争の4年前1873(明治6)年に火災で焼失しましたが、2020年に再建されました(写真①②③)。

御楼門をくぐると内桝形になっています(写真④⑤)。その先、本丸御殿があった場所には、資料館「黎明館(れいめいかん)」があります(写真⑥)。ここは、薩摩や島津の歴史が実によくまとめられています。入り口には大河ドラマ「篤姫」で使われた、徳川家定へのお輿入れの籠が展示されていました(写真⑦)。前庭には篤姫の銅像もありました(写真⑧)。

御楼門西側300mの照国神社横には、西郷隆盛のでっかい銅像も立っていました(写真⑨)。

【アクセス情報】
鹿児島を観光するには、シティビューバス(市営)がオススメです(写真⑩)。鹿児島中央駅を発着30分間隔で運行し、主な場所にすべて停まってくれて、1日券(600円)で乗り放題なのでとてもお得でした(おかげで今回はあまり歩かずに済みました😊)。

次回、「②御楼門と私学校(弾痕跡)」へ続きます。
 

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カズサン

【飛騨・荻町城】岐阜県大野郡 城跡は白川郷展望台 (2005/11/12 訪問)

 世界遺産白川郷へ17年前の平成17年11月中旬に1泊2日の社内旅行で白川郷を訪ね、白川郷のビュースポットである北側の丘に展望台が有ると知り、徒歩で展望台へ、そこで荻町城跡で有る事を知るが、白川郷の写真を撮る事に夢中で城跡、標柱、看板などの撮影記録は残って無く、残念な結果。(当時山城に余り関心興味が薄く注力が山城に注がなかった結果か?)

 荻町城跡住所:岐阜県大野郡白川村荻町1116 観光施設が有り駐車場も有ります。
 車の登城ルート:国道156号線と国道360号線分岐を国道360号線を東に登って行く、約800mから1000m登ると逆方向に登る村道細いが舗装道があり周囲は田圃に畑、登った終点に駐車場が在る、そこは城域。
 徒歩の登城ルート:白川郷の有名な合掌造り和田家屋敷が在る、東側の山裾に舗装道で緩やかな山道が約600m程荻町城跡展望台に繋がってる。
 
 荻町城は中世城郭で中世末戦国末は帰雲城主内ヶ島氏の家臣、山下氏勝が城主、天正13年(1585年)の大地震の山津波で帰雲城、内ヶ島一族が壊滅滅亡すると、山下氏勝は白川郷を出て徳川氏に仕える、小田原征伐、関ヶ原戦、大坂の陣と戦功も有り、家康の信頼厚く尾張初代藩主徳川義直の傳守を務めた。
 荻町城域は荻町城跡展望台辺り、展望台より西に遺構が残ってる。尾根が西の庄川に突き出た辺りを堀で切り城を造ってる、土塁、堀が残ってる、櫓跡?に祠が有る。
 (以上、城郭放浪記さん古城盛衰記さんグーグルマップを引用)

 展望台からの撮影、荻町城跡展望台を下りて白川郷村内を探訪撮影、ここは2、3度目、庄川を歩道橋で渡って観光バス駐車場へ。

 また白川郷へ出掛けた時は、荻町城跡の遺構を写真撮影したいと思います。
 投稿写真は白川郷の写真でご勘弁ください。
  

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かさニャ

雨の中の探索 (2022/08/16 訪問)

特に遺構はありません。
跡地は、神社になってます。

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イオ

とことん江戸城(喰違門) (2022/06/08 訪問)

(続き)

四谷門から真田濠沿いの土塁の上を歩いて喰違門へ。江戸城のほとんどの門が枡形門であるのに対し、喰違門はその名の通り土塁を喰違わせた虎口で、多少の改変はあるもののほぼ往時の姿のまま遺っています。喰違門に続く土橋の南側は弁慶濠、北側は真田濠で、真田濠は戦災のがれき処理のために埋め立てられて上智大学のグラウンドになっており、真田濠沿いの土塁を貫通してグラウンドへの隧道が設けられています。

それにしても、どうして喰違門は枡形門にしなかったんでしょうね? 喰違門の北は尾張藩徳川家中屋敷(現 上智大学)、南は彦根藩井伊家屋敷(現 ホテルニューオータニ)、土橋の西詰は紀伊藩徳川家上屋敷(現 迎賓館赤坂離宮)と、周囲を信頼できる藩の屋敷で固めているので必ずしも枡形門でなくても良かったということでしょうか??

日帰り出張のため、この日はここまで。続きは出張1日目の仕事を終えてからの赤坂門です(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:勝賀城 (2022/07/25 訪問)

北岡城からの転戦です。南側登山口付近空スペース(34.336402、133.981813)に駐車し、登山口(34.3365663、133.9817677)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、承久年間(1219年〜1222年)承久の乱で軍功のあった香西資村が築城したとも云われています。
嘉禄年間(1225~27年)初代香西資村は勝賀城を詰城、佐料城を居館としました。
室町時代になると、香西氏は讃岐国領主で室町幕府管領の細川氏の臣下として重きを成し、また瀬戸内海の塩飽水軍や村上水軍と連携し、貿易を行ったため、香西の城下町や港は大いに栄えました。
讃岐国領主が細川氏から三好氏、十河氏に移ると、香西氏はこれに従いました。
18代佳清(よしきよ)の時、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に備えて、1575年(天正3年)藤尾山に築城を初め、1577年(天正5年に完成を待たず佐料城から藤尾城に居館を移したが、詰城の勝賀城は依然機能していたと考えられています。
1582年(天正10年)長宗我部元親によって攻められ、香西氏は降伏して長宗我部氏の家臣となります。
しかし1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で長宗我部氏は敗れ、香西氏もまた野に降り廃城になったそうです。

登山口のすぐ先に防獣フエンス扉があり遊歩道が整備されています。
右ひざ痛の為、登城を断念して登城口付近で引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=藤尾城に向かいます。

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