みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

トク

【鹿児島城と西南戦争の遺跡巡り①】鹿児島城(鶴丸城) (2022/08/11 訪問)

熊本での西南戦争の遺跡を訪れると、やはり今度はどうしても鹿児島に行きたくなり、「鹿児島城(鶴丸城)」と終焉の地「城山」などを訪れてきました。

鹿児島城(鶴丸城)は、豊臣の九州征伐や関ケ原の時代を乗り切った当主島津義久の弟で、島津の退口など数々の武勇で有名になった義弘、その義弘の子「忠恒(後の「家久」)」が義久から島津の家督を継ぎ1601(慶長6)年に築城しました。徳川を欺くため外城制度を設け、天守が建てられなかったのは、皆さんよく御存知と思います。そして御楼門は、西南戦争の4年前1873(明治6)年に火災で焼失しましたが、2020年に再建されました(写真①②③)。

御楼門をくぐると内桝形になっています(写真④⑤)。その先、本丸御殿があった場所には、資料館「黎明館(れいめいかん)」があります(写真⑥)。ここは、薩摩や島津の歴史が実によくまとめられています。入り口には大河ドラマ「篤姫」で使われた、徳川家定へのお輿入れの籠が展示されていました(写真⑦)。前庭には篤姫の銅像もありました(写真⑧)。

御楼門西側300mの照国神社横には、西郷隆盛のでっかい銅像も立っていました(写真⑨)。

【アクセス情報】
鹿児島を観光するには、シティビューバス(市営)がオススメです(写真⑩)。鹿児島中央駅を発着30分間隔で運行し、主な場所にすべて停まってくれて、1日券(600円)で乗り放題なのでとてもお得でした(おかげで今回はあまり歩かずに済みました😊)。

次回、「②御楼門と私学校(弾痕跡)」へ続きます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

【飛騨・荻町城】岐阜県大野郡 城跡は白川郷展望台 (2005/11/12 訪問)

 世界遺産白川郷へ17年前の平成17年11月中旬に1泊2日の社内旅行で白川郷を訪ね、白川郷のビュースポットである北側の丘に展望台が有ると知り、徒歩で展望台へ、そこで荻町城跡で有る事を知るが、白川郷の写真を撮る事に夢中で城跡、標柱、看板などの撮影記録は残って無く、残念な結果。(当時山城に余り関心興味が薄く注力が山城に注がなかった結果か?)

 荻町城跡住所:岐阜県大野郡白川村荻町1116 観光施設が有り駐車場も有ります。
 車の登城ルート:国道156号線と国道360号線分岐を国道360号線を東に登って行く、約800mから1000m登ると逆方向に登る村道細いが舗装道があり周囲は田圃に畑、登った終点に駐車場が在る、そこは城域。
 徒歩の登城ルート:白川郷の有名な合掌造り和田家屋敷が在る、東側の山裾に舗装道で緩やかな山道が約600m程荻町城跡展望台に繋がってる。
 
 荻町城は中世城郭で中世末戦国末は帰雲城主内ヶ島氏の家臣、山下氏勝が城主、天正13年(1585年)の大地震の山津波で帰雲城、内ヶ島一族が壊滅滅亡すると、山下氏勝は白川郷を出て徳川氏に仕える、小田原征伐、関ヶ原戦、大坂の陣と戦功も有り、家康の信頼厚く尾張初代藩主徳川義直の傳守を務めた。
 荻町城域は荻町城跡展望台辺り、展望台より西に遺構が残ってる。尾根が西の庄川に突き出た辺りを堀で切り城を造ってる、土塁、堀が残ってる、櫓跡?に祠が有る。
 (以上、城郭放浪記さん古城盛衰記さんグーグルマップを引用)

 展望台からの撮影、荻町城跡展望台を下りて白川郷村内を探訪撮影、ここは2、3度目、庄川を歩道橋で渡って観光バス駐車場へ。

 また白川郷へ出掛けた時は、荻町城跡の遺構を写真撮影したいと思います。
 投稿写真は白川郷の写真でご勘弁ください。
  

+ 続きを読む

かさニャ

雨の中の探索 (2022/08/16 訪問)

特に遺構はありません。
跡地は、神社になってます。

+ 続きを読む

イオ

とことん江戸城(喰違門) (2022/06/08 訪問)

(続き)

四谷門から真田濠沿いの土塁の上を歩いて喰違門へ。江戸城のほとんどの門が枡形門であるのに対し、喰違門はその名の通り土塁を喰違わせた虎口で、多少の改変はあるもののほぼ往時の姿のまま遺っています。喰違門に続く土橋の南側は弁慶濠、北側は真田濠で、真田濠は戦災のがれき処理のために埋め立てられて上智大学のグラウンドになっており、真田濠沿いの土塁を貫通してグラウンドへの隧道が設けられています。

それにしても、どうして喰違門は枡形門にしなかったんでしょうね? 喰違門の北は尾張藩徳川家中屋敷(現 上智大学)、南は彦根藩井伊家屋敷(現 ホテルニューオータニ)、土橋の西詰は紀伊藩徳川家上屋敷(現 迎賓館赤坂離宮)と、周囲を信頼できる藩の屋敷で固めているので必ずしも枡形門でなくても良かったということでしょうか??

日帰り出張のため、この日はここまで。続きは出張1日目の仕事を終えてからの赤坂門です(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:勝賀城 (2022/07/25 訪問)

北岡城からの転戦です。南側登山口付近空スペース(34.336402、133.981813)に駐車し、登山口(34.3365663、133.9817677)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、承久年間(1219年〜1222年)承久の乱で軍功のあった香西資村が築城したとも云われています。
嘉禄年間(1225~27年)初代香西資村は勝賀城を詰城、佐料城を居館としました。
室町時代になると、香西氏は讃岐国領主で室町幕府管領の細川氏の臣下として重きを成し、また瀬戸内海の塩飽水軍や村上水軍と連携し、貿易を行ったため、香西の城下町や港は大いに栄えました。
讃岐国領主が細川氏から三好氏、十河氏に移ると、香西氏はこれに従いました。
18代佳清(よしきよ)の時、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に備えて、1575年(天正3年)藤尾山に築城を初め、1577年(天正5年に完成を待たず佐料城から藤尾城に居館を移したが、詰城の勝賀城は依然機能していたと考えられています。
1582年(天正10年)長宗我部元親によって攻められ、香西氏は降伏して長宗我部氏の家臣となります。
しかし1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で長宗我部氏は敗れ、香西氏もまた野に降り廃城になったそうです。

登山口のすぐ先に防獣フエンス扉があり遊歩道が整備されています。
右ひざ痛の為、登城を断念して登城口付近で引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=藤尾城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:北岡城 (2022/07/25 訪問)

城山城からの転戦です。階段前(34.281573、133.991716)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、久利長門守によって築かれたと云われています。
菅原道真に仕えた秦久利には子が無く、道真の族子を後継ぎとし、久利長門守を名乗りました。その子孫はこの地方を統治し香西氏に従っています。
1508年(永正5年)には久利三郎四郎が香西氏に従って十河城を攻めています。
1582年(天正10年)長宗我部元親が攻めてきたとき、伊勢の馬場の戦いで先陣をつとめましたが討死しました。

現在は果樹園となっており遺構は良く分かりませんが、説明板と石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=勝賀城に向かいます。

+ 続きを読む

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:城山城 (2022/07/25 訪問)

聖通寺城からの転戦です。城山公園駐車場(34.290211、133.890068)に駐車し、その後、城山山頂展望台(34.289880、133.889867)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、屋嶋城と同様、七世紀後半頃に築かれた朝鮮式山城と考えられています。
『日本書紀』によれば667年(天智天皇6年)に高安城、対馬国金田城とともに屋嶋城が築かれたことが記されていますが、この城山城については記されていないようです。
東麓には古代讃岐国の国府があったとされ、それに関係するものと考えられているみたいです。

説明板に記載された城門や水口石塁は、高松カントリー倶楽部の敷地内にあるようで、時間の都合でパスしました。
結局、城山山頂展望台付近を散策して、説明板と眺望を確認しただけです。
城山山頂展望台は木がじゃまをして眺望がよくありません。(城山山頂展望台前からの眺望がいいです)
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=北岡城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:聖通寺城 (2022/07/25 訪問)

多度津城からの転戦です。常盤公園第1駐車場(34.319556、133.831172)に駐車し、その後、展望台付近(34.316871、133.834763)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、応仁年間(1467年〜1469年)奈良元安によって築かれました。
奈良氏は武蔵国大里郡奈良を本貫としていましたが、元政が1362年(貞治元年・正平17年)の高屋合戦における功により鵜足郡と那珂郡を領しました。
1582年(天正10年)長宗我部氏の侵攻により城を捨て阿波国勝瑞城へと敗走しますが中富川合戦で討死しました。
羽柴秀吉による四国征伐の後、讃岐国を領した仙石秀政が入城しますが戸次川合戦の敗戦により失脚しました。
その後、尾藤知宣、生駒親正と替わり生駒氏の時に高松城を築き廃城となりました。

常盤公園にある古墳が主郭で「平山城」の石碑があります。
南の山頂の展望台付近この位置(34.316913、133.834663)に「聖通寺山城」の石碑があります。
自分は行っていませんが、「聖通寺山城」の石碑の近くに「ゆるぎ岩」もありますので、時間のある方は見学してみてはいかがでしょう。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=城山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:多度津城 (2022/07/25 訪問)

甲山城からの転戦です。桃陵公園駐車場(34.269502、133.747295)に駐車し、メロディ時計(34.269900、133.747966)に向かいました。

1394年(貞治3年・正平19年)頃に香川兵部少輔景房によって築かれたと云われています。
香川氏は相模国高座郡香川邑発祥で、桓武平氏の流れを汲むそうです。
管領細川頼之に従って讃岐に来住し、1362年(貞治元年)高屋の役の功によって多度津を与えられ、この地に築いたそうです。
香川氏の平時の居城で要害としては天霧城を備えていました。

多度津城跡は桃陵公園のメロディ時計のある部分のようです。
メロディ時計の所にあった石垣が遺構なのかな?
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=聖通寺城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:甲山城 (2022/07/25 訪問)

麻城からの転戦です。甲山寺駐車場入口(34.232404、133.767119)から進入して、駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、朝比奈弥太郎によって築かれたと云われています。
朝比奈弥太郎は鎌倉時代の御家人で怪力の持ち主として知られる朝比奈義秀の末裔と云われていますが、詳らかではないようです。
天霧城主香川氏の家臣として出城の一つであったそうです。1558年(永禄元年)善通寺合戦で三好実休が天霧城の香川氏を攻めたとき、甲山城南麓で迎え撃ちますが朝比奈氏は敗れて討死したそうです。

甲山城の主郭は、甲山寺の南にある甲山の山頂にあり、甲山寺の毘沙門天の脇に「かぶと山トリムコース」の入口があります。
右ひざ痛の為、登城口付近で引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=多度津城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:麻城 (2022/07/25 訪問)

丸山城からの転戦です。県道23号沿にある城址道標手前の道①(34.169984、133.792245)を北側に入りそのまま進みます。
この地点②(34.172863、133.789984)にある道標に従い、西側に進むと城址に着きます。
コンクリート舗装されていますが道は細く、落葉が多く雨の日はスリップする危険がありますので車は②地点に置いてきた方が無難です。

築城年代は定かではないようですが、近藤出羽守国久の居城でした。国久は獅子の鼻城主大平伊賀守国祐の弟でする。
大平国祐が雨霧城主香川氏に属していた事から、近藤国久も香川氏に属していたものと推測されています。
1577年(天正5年)阿波国白地城主大西覚養は長宗我部元親に対して一度は帰順しながらも心変わりし、長宗我部氏に攻められ国久を頼って落ち延びています。
その後、天正年間にこの麻城も攻められ落城、戦いに敗れた国久は谷に落ちて横死したといい、この場所は「横死ヶ谷」と呼ばれています。
落城年は定かではないようですが、近くの本篠城が1578年(天正6年)秋に落城していることから、麻城もその頃に落城したと推測されています。

右ひざ痛に痛み止めを飲んで攻城。ムリをせずゆっくり歩きました。
城址入り口に説明と鳥瞰図があります。
土塁、堀切、土橋、ねらい岩(大門石)などが確認できます。
本丸は木が生い茂り、朝日山城の模擬天守は見えなかった。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=甲山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

早朝は斎場の門も閉ざされていた (2022/07/30 訪問)

ウイングホール柏斎場や柏高校が建つ辺りが城跡のようです。
斎場に石碑が立つくらいで遺構もありません。
この日は早朝に訪れたので斎場も門で閉ざされていました。
門の隙間から石碑の写真をパチリ。
周辺を歩いて見ましたがなかなかそれらしさを感じることはできませんでした。
前に広がる水田は当時湿地だったのでしょうか。
わざわざ行くことも無いと思いますが訪れる際にはそそうの内容にしないといけませんね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

おっちゃん

旧桜岡城略図「小城郡誌」昭和9年 (2017/12/02 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

熊本城跡案内図 (2013/05/08 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

近世宇土城跡 地形測量図 (2017/11/05 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

ここの曲線美もイイです。 (2021/10/10 訪問)

詰丸の遺構もそそりますが,石垣の曲線美と堀の景色もイイです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

橋吉

桂城公園 (2022/08/08 訪問)

続日本100名城スタンプラリーにて、浪岡城から脇本城に向かう途中、大館に一泊しました。
時間に余裕があったので、ホテルの直ぐ近くの大館城跡に寄ってみました。

現在は、桂城公園(けいじょうこうえん)および大館市役所になっています。
桂城公園の名は、大館城の別名ある桂城(かつらじょう)に由来しています。
公園駐車場は無料です。

公園北側にある東屋から市街が一望できます。

遺構は公園南側には堀と土塁が残っているくらいです。

所要時間:15分

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

総石垣造りの山城 (2022/08/14 訪問)

松倉城は観光名所高山市街の西南、標高856m、比高360mの松倉山山頂に建てられた山城です。北は越中、南は岐阜に通ずる街道の要衝にあり、本丸、二の丸、三の丸、出丸から成り、本丸は内曲輪の四方と外曲輪の西側、南側に石垣が現存、二の丸は本丸の東側にあり、東側と南側に石垣が現存、また、旗立石と呼ばれる巨岩があります。三の丸は本丸の南側にあり、西側、南側に石垣が現存、また、西南隅に一段高く櫓跡があります。一段低くなっている二の丸と三の丸の間に隅櫓跡があり、東、南、西に石垣が現存しており、文字通り、総石垣造りの山城です。
戦国時代、飛騨の覇者三木自綱公が築城し、桜洞城を冬城、松倉城を夏城と称しました。天正13年、信長公の命により、金森長近公と可重公の父子が飛騨に攻め込み堅城であった松倉城も家臣の裏切りで落城。その後、金森長近公が入り現在する総石垣の城を整備したと考えられています。

松倉城へは9年ぶり二度目の訪問になります。「飛騨の里」から車で七曲り道を通り3分程で搦手に着きます。7~8台ほど駐車できるスペースとトイレが完備されており、そこから、徒歩5分程で城域の竪堀跡に着きます。
本丸からは、高山城と高山市街が一望でき、成る程、街道が交わる要衝の地というのがよくわかります。

現在は、県指定の史跡に指定されていますが、国指定の史跡を目指し発掘調査が進められています。石垣好きには見所満載の堪らない城跡です(*^▽^*)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

北風の又三郎

めっちゃ広い?!本丸御殿 (2022/06/19 訪問)

二条城に行きました。
二条城は、京都にある城です。しかし、江戸時代に作られた城なので、防御施設というよりも江戸時代の平和を象徴するような建物です。本丸御殿など美しい建物が多いです。本丸御殿は思ったよりも広く、家にしてみたいとも思いました。堀は緑色に濁っていて、抹茶かな?と思いました。
実は二条城にも天守閣があったらしくて、今も石垣が残っています。二条城の中には喫茶店みたいなものがあって、かき氷も食べれるので暑い日は救われます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

漆黒の復興三重櫓 (2005/10/10 訪問)

 復興三重櫓は本丸南西隅土塁上に平成5年鉄骨構造黒漆塗り仕上げで再建、本丸大手本城御門の極楽橋(擬宝珠橋)は発掘調査成果で平成14年(2002年)木造復元しています。
 漆黒の復興三重櫓が土塁上木立の中に立ち濠越しに眺めるビューポイントは最高です。
 前日の新発田城復元御三階櫓、辰巳櫓を見学堪能し、越後一宮の弥彦神社参拝、弥彦山登頂で越後平野を見渡し、直江津に宿を取り朝食後家内と高田城初登城、車は本丸極楽橋の南側に城址公園駐車場が各所有り一番近い駐車場を利用。

 高田城は堀氏改易後の慶長15年(1610年)家康の六男松平忠輝が75万石で入封、舅の伊達政宗が普請総奉行で天下普請で外様大名が参加させられ、約4ヶ月で完成した土の城本丸を中心に二の丸三の丸が取囲む輪郭式平城として有名です。しかし忠輝は大坂の陣で大坂城を欲する失言失態で家康、秀忠に疎まれ改易され流罪、ただ長生きし享年92歳で諏訪で没した。
 以後は譜代大名が入れ替わり、榊原氏が7代続いて明治を迎える。

 復元極楽橋を渡って本丸本城御門の枡形の大きさに驚愕、ここも土で作られて居る、復興三重櫓に登閣し一階二階の展示閲覧、三階の展望を楽しむ、本丸、二の丸を散策、濠も広く、城域も広く疲労困憊、ここは三大夜桜で有名です、混雑しますが桜の頃が一番の時期でしょう。

 高田城三重櫓を堪能した後、近くに在る親鸞聖人開山「浄興寺」(新潟県上越市寺町2-6-45)を訪ねて参拝見学、訪ねた2年前に本堂の保存修復工事が完了し屋根の檜皮葺も新しく木組みも新しく綺麗でした。

 同二泊三日の新潟県城廻り旅行を終えて、上信越道、長野道、中央道、東海環状、東名を通り浜松へ。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ441