メガとはイングリッシュな人たちの言葉で百万を意味します。メガビッグ、メガデス、メガ粒子砲、メガバンク‥こっちじゃない。
妻鹿城は薩摩氏長の子孫であるとされる妻鹿孫三郎長宗によって築かれたとされています。妻鹿長宗は元弘の乱の時、元弘3年(1333)一族と共に赤松則村に従い北条方と戦い、その功により妻鹿地方を領有し、城もそのころに築かれたものと思います。
黒田官兵衛孝高の父、職隆は息子孝高に家督を譲って姫路城から妻鹿城(功山城)に移ったとされています。三木城合戦の後、秀吉は三木城を居城としますが、孝高は三木城より姫路城の方が毛利攻めに良いと進言し、秀吉に姫路城を譲って妻鹿城に入ったとされています。(三木城では戦略的に不備であると進言したとも)
妻鹿城はおそらく黒田二代によって改修を受けていると思いますが、縄張りに特に派手なものは有りません。しかし岩肌がむき出しになった登城道はなかなかに険しく攻略時にはかなりてこずったと思います。鉄塔のある郭を越えていくと枡形のような場所に二重の隅櫓跡があります。先には土橋が主郭に向かって続きますが右手に一段下がって郭が連なり郭の間も土塁で仕切ってあります。北端は展望台になっており、西には市川が流れ眺望はすこぶる良く、遠く姫路を見渡せます。黒田家の城と勇んで来ると少し肩透かしを食らいますが、地味に遺構の残る良い城だと思います。
職隆の孫・長政は関ヶ原の合戦で大きな功績を挙げ、筑前国名島に52万3千石で入りました。今でいう1400億円くらいです。百万(メガ)石とまでは言いませんが0.5メガ石まで言ったので十分ではないでしょうか。
いや~うらやましい。どこかの竹藪に1メガ円(百万円)でいいから落ちていないかな~。
※少し怪しげな縄張り図を見ると他にもたくさん郭の様なものがありますが、いくつかしか見れていません。主郭の先にも郭があって磐座があるようです。
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