長野百名城巡り 高遠城址、松本城、松代城址、上田城址、小諸城址の五城を巡ってきました。
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2023/09/17 10:13
2023/09/17 10:09
2023/09/17 10:06
2023/09/17 06:49
駿府城 (2023/09/10 訪問)
青春18切符で行ってきました。
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2023/09/17 05:12
2023/09/17 05:03
2023/09/17 04:55
2023/09/17 04:39
扇谷上杉氏 (2023/09/16 訪問)
産業能率大学正門前に説明板があることを知り撮影してきました。今回は発掘現場等へは行っていません。周辺には他にも興味深い史跡があり時間をとってゆっくり散策したいものです。
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2023/09/17 04:09
AOI七沢リハビリテーション病院 (2023/09/17 訪問)
AOI七沢リハビリテーション病院前の石碑と説明板を撮影してきました。見城台などへも行きたかったのですが、皆様の投稿を見ると夏はヤマビルが出没するとのことで断念しました。
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2023/09/17 01:44
正月から軍艦島 (2020/01/01 訪問)
軍艦島クルーズの続きです。軍艦島の周りを周遊するだけですが、軍艦島と名付けられるだけ
あって、どの角度から見ても軍艦そっくりです。真上から見ると扁平でツチノコみたいな形状を
しているのですが、海上に浮かぶ姿を見ればまさに軍艦そのもの。こちらが動いている
だけなのに巨大な軍艦が海上を突き進んでいるようにも見えました。
艦尾の69号棟は端島病院で、艦後方の大きなビルは鉱員社宅や保育園(65号棟)。中央には16~30棟が
配置され鉱員の住宅になっています。中央の高地にそびえるビルは3号棟で幹部用の住宅だったそうで、
隣に坑長の自宅があったようです。小中学校跡は左舷左側にありますが、今ではだいぶ風化が
進んでいるようです。艦橋に当たる部分は岩塊の上に貯水タンクが乗っており、灯台も立って
いるようです。かつては第二竪坑へ向かうエレベータを動かすための竪坑櫓と呼ばれる鉄塔が建っており、
ますます見た目が軍艦のようだったみたいです。
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2023/09/17 00:54
軍艦島クルーズ 出立編 (2020/01/01 訪問)
ちょっと昔。2020年元旦に軍艦島クルーズを予約して行ってきました。
海上に浮かぶ城‥などとこじつけるつもりは有りません。純粋に軍艦島に行って
見たかったのです。夏季の台風の影響で上陸は出来ず、近くを周遊するだけでしたが
それでも近場で見る軍艦島は素晴らしかったです。正確には端島といい、2015年に
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとしてユネスコの
世界文化遺産に登録されています。もともと南北320m、東西120mの小さな瀬や岩礁を
明治30年(1897)~昭和6年(1931)までの6回の埋め立て工事で南北480m、東西160m
まで拡張し面積は3倍になりました。埋め立て前の岩盤が島の中央に残り、その一種異様な姿を
よりいっそう際立たせています。朝早く長崎港を出発すると、海上自衛隊の護衛艦が見えてきます。
複数いるとよりいっそう迫力が増します。さすが長崎ですね。会場にはマリア様の像が建っています。
航海の無事を祈りつつ(そんな神妙な柄でもないか‥)船はさきに進みます。
しばらく行くと見えてきました。アレです。
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2023/09/17 00:18
新宮堀内氏の屋敷跡 (2023/08/27 訪問)
紀伊の戦国末期における東の旗頭とも言われる堀内氏の屋敷です(西の旗頭は湯川氏とも)。
堀内氏善の代には、熊野で勢力を持っていた七上綱と呼ばれた土豪を屈服させ、羽柴秀吉の紀州征伐の際には従い仕えて熊野統治を認められ、文禄・慶長の役では熊野水軍を率いて参陣したとされます。
しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に付き敗れ、改易されたといわれます。
現在の全龍寺一帯が屋敷跡です。
全龍寺の東側の山門脇に説明板と石碑があります。
かつて屋敷の四方は水堀で囲まれていましたが、今は寺の裏手の西側・北西側に流れる水路が堀の名残りとされます。
市街化されていますが、堀跡を確認できて良かったです。
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2023/09/16 23:26
④ 移築櫓 (2023/06/30 訪問)
最後に向かったのが七日町の阿弥陀寺です。
七日町通りを歩くのは3度目で、すぐ近くの絵ろうそくのお店は行くたびに寄っていたのですが、阿弥陀寺は初めてです。
阿弥陀寺にあるのは
・会津若松城から移築された御三階櫓
・会津東軍墓地
・新選組斎藤一の墓
・黒河内伝五郎の墓
などです。
今回は城友さんに抑えどころを教えてもらってから来たのですが、いちばん心拍数が上がったのはこの御三階櫓です。現存建物が放つオーラとパワーは降りしきる雨にもまったく負けていません。不釣り合いなほど立派な一階の唐破風は本丸御殿の玄関の一部を配したとのこと。葵の御紋が堂々と輝いて見えます。
東軍墓地にも葵の御紋。幕府軍兵士の御遺体1281体が埋葬されているそうです。
戊辰戦争のその後の会津には斗南への移住、開拓という苦難が待ち受けています。
・『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著 中公新書)
・『斗南藩-「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』(星亮一著 中公新書)
・『会津藩落城・流転-会津から斗南に移った二少女の体験記に寄せてー』(葛西富夫 津軽書房)
は出会えてよかった三冊です。
今回行けなかったところ、もう一度行きたいところ、新たに行きたくなったところ(小田山)もあり、会津には通い続けたいと思いました。
雨のため、またすっかり夕方になってしまったため向羽黒山城や神指城には行けませんでしたが、この数日後に熊出没のため向羽黒山城は全面封鎖となり、😱😱😱となりました。
じゅんじんさん、現存天守と現存三重櫓コンプリートおめでとうございます🎊
弘前は遠いですよねー!
<おわり>
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2023/09/16 23:18
③ 本丸東高石垣・天寧寺口門土塁 (2023/06/30 訪問)
本丸から廊下橋を渡ったあたりまでは行ったことがあるのですがそこで引き返してしまっていたので、今回はじっくり見学しました。二の丸広場(以前はテニスコートでした)から見る高石垣は独り占めするのが申しわけないほどの良き眺めでした。
二の丸広場から土塁と虎口石垣につられて歩いていくと南口駐車場に出て、こんなルートがあったんだ!とびっくりでした。
そこから少し離れていますが【天寧寺土塁】に行きました。
県道側から見ると建物と駐車場の奥。側面にまわると建築中のお家の奥でしたが、裏の道路(会津中街道?)からはしっかりと見ることができました。説明板は両側にあります。
感動的な残り方ですが、「お城=天守」と思っていた頃に見ていたらまちなかに突然現れた土盛りに「????」しか浮かばなかっただろうなぁ。
<つづく>
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2023/09/16 23:13
② 北出丸大手門~椿坂~太鼓門を通って城内へ。 (2023/06/30 訪問)
太鼓門の鏡石にある矢穴を見ると、初めて来た時のことを思い出します。
「お城=天守」と思っていただけではなく「天守閣=天守最上階」とも思っていた頃のことで(お仲間もきっといらっしゃる……かしら!?)、石垣の矢穴も誰かがいたずらで彫ったのではないかと思っていました。“何なの!?いちばん目立つところにこんなの彫って!!”っていう感じで^^;
無知なエピソードを白状すればきりがないのですが、「趣味はお城めぐりです。」と言えるようになったきっかけをくれた会津若松城。
雨に打たれながらしみじみと歩き、4月にリニューアルされたばかりの天守内を見学。再建天守シリーズ城カードをゲットして、南走長屋(会津戦争・白虎隊)、武器庫、鉄砲狭間、干飯櫓(デジタルアート)を見学し、土塁の上を歩いて月見櫓へ。荒城の月碑まで行って、大広間越しに美しい天守を存分に堪能しました。
<つづく>
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2023/09/16 23:08
① 戊辰戦役西軍墓地・甲賀町口門跡 (2023/06/30 訪問)
学生時代に合宿や旅行で訪れたのを含めて6回目の会津若松です。
12年前、花巻の次に“みちのくひとり旅~♪”を決行したのも会津若松で(思い出の地めぐりをしました)、その時に100名城スタンプの存在を知りました。
実際にスタンプラリーを始めたのはそのあとの名古屋城からだったので、当時は、“スタンプを押しにまた行かなくては……”と思ったものですが、最近は見逃していたところを中心に100名城の行き直しに勤しんでいるので、再訪が楽しみになっています。
当日は大雨の予報でしたが日程をずらす余裕はないので、7:12東京発のやまびこ123号で郡山へ。磐越西線に乗り換えて10:30に会津若松に到着しました。やっぱり大雨☔です。
最初に向かったのは【戊辰戦役西軍墓地】です。
大町の東明寺墓地にあります。入口に「西軍墳墓」の大きな碑。
新しくされたばかりと思しき墓誌には「戊辰戦役に従軍し此の會津の地に散華した西軍十余藩150柱の精霊が眠る」とあります。
施錠はされていませんでしたが門扉の閂を開けて墓地内へ入っていいのかわからず、また雨で足元が悪かったため外から覗かせていただくにとどめました。「薩藩戦死者墓」「長藩戦死十五人墓」「大垣戦死二十人墓」「敬弔 薩摩 越前 長州 備州 土佐 大垣 肥州 館林 岡山」と刻まれた墓標や小さな墓石が並んでいました。実際に最前線で戦ったのは「軍」でも「藩」でもなく「人」だったということ、そしてその人と人同士は決して恨みあってはいなかったのだということに思いを致しました。
続いて、若松城に向かう途中にある【甲賀町口門跡】へ行きました。郭内・郭外の境界であり、大手門として厳重な構えであったと記されています。遺構は石垣のほんの一部ですが、重要な門だったということが伝わってくる威厳があり、近くの路地にあった外堀跡の清水通りの解説と合わせてイメージを膨らませることができました。
ここから旧會津藩家老内藤邸跡、西郷頼母邸跡、会津戊辰戦争終結の地などのある北出丸大通りを通ってお城へと向かいました。
<つづく>
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2023/09/16 22:20
金沢城 おまけ④ 地味に良いところ (2021/11/20 訪問)
金沢城の二の丸西側には、かつての第六師団司令部庁舎があるのですが、その周辺の
石垣には多くの刻印が残されています。城内全部で200を超える種類の刻印があるのですが
ここの石垣の刻印は特に多く、まるで刻印の見本市です。
数奇屋敷石垣(すきやしき)はかつての藩主の側室の住まいの周辺の石垣で、石の表面を
長方形に仕上げた「切石積み」で築かれています。右側が寛文期、左側が文化5年に改修された
ものとされています。
極楽橋は本丸と二の丸の間の空堀にかかる橋です。
本丸は城内でもっとも手つかずで残っているエリアで、一部は森になっています。
天守台の跡らしきものはありますが、ある意味聖域のような扱いになっている気がします。
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2023/09/16 22:11
天守 (2003/09/13 訪問)
天守の中は博物館のような展示物でした。
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2023/09/16 21:58
金沢城 おまけ③ 玉泉院丸庭園 鼠多聞 三十間長屋 (2021/11/20 訪問)
玉泉院丸は2代藩主利長の正室、玉泉院がこの地に屋敷を構えたことから、そう呼ばれるように
なったそうです。3代前田利常が庭園の造築をし、5代綱紀、13代斉泰が改修をしたと
される記録が残っています。池の中に大小3つの島が浮かび、その間を石橋で行き来することが
できます。いわゆる池泉回遊式庭園というやつらしいですね。
鼠多聞は令和2年7月に復元されたもので、金谷出丸からの出入口として機能していたとの
ことです。屋根は瓦葺き、腰壁には海鼠(なまこ)壁が用いられていますが、海鼠壁の目地が
黒漆喰で仕上げられているそうです。それで外観が黒いのですね。
三十間長屋の写真は2013年12月に撮影したものです。
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2023/09/16 21:04
金沢城 おまけ② 五十間長屋・菱櫓 色紙短冊積石垣 (2021/11/20 訪問)
金沢城の新たなシンボル・五十間長屋は平成13年に菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓とともに
再建され、金沢城址公園から金沢城公園に改称されました。内部は来訪者が訪問しやすいよう
配慮がなされており、バリアフリー化も完備しております。それゆえに、完全な木造復元
とはいえず、若干の違和感も伴うものではありますが、城郭建造物の復元の一つのかたちであり
自治体の判断を尊重したいと思います。再建建築物以外にも重要文化財に指定されている数多くの
建築物が残っており、三十間長屋には再建された建物にはない重厚な存在感があります。
玉泉院丸庭園は明治には廃されていましたが、平成20年から5年をかけて調査がなされ、
平成27年3月に復元が完了しました。色紙短冊積石垣はTVでも紹介され、金沢城の新しい
名所として注目が集まっています。
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