丘を利用した広い城柵になります。門が復元されております。汗だくで城巡り。丘を抜ける風が心地よかったです。
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2023/09/18 08:14
2023/09/18 07:37
「水郷柳川」日帰り散歩③(ひまわり園) (2023/09/16 訪問)
今回の訪問のもう一つの目的は、実はここ柳川城から5kmほど南西の有明干拓地にひまわり園があり、今週がちょうど見頃で、無料シャトルバスが出ているとの情報を得たので、柳川城を見た後に寄ってきました。広大な敷地の中に50万本のひまわりが咲いていてとてもきれいでした(写真①②)。ふと反対側を眺めると有明海と長崎県がかすかに見えました(写真③)。清掃協力金500円を寄付すると、ひまわりの種もらえました(写真④)。
現在も昼はまだ30°を超える残暑が続いていますが、柳川を散策し、ここで夏の終わりを告げるひまわりを眺めていると、何だかとても気持のいい一日になりました。
〆はもちろん、柳川名物「うなぎのせいろ蒸し」です!(写真⑤)😊
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2023/09/18 07:34
「水郷柳川」日帰り散歩②(立花家資料館と御花) (2023/09/16 訪問)
柳川城から5分程歩いた所に「立花家資料館」と立花家別邸「御花(おはな)」があります。
資料館には、立花家の歴史や、宗茂や歴代当主の具足や秘蔵品などが展示されています(写真①②)。柳川城を訪れた際には、ぜひここにも立ち寄られる事オススメします。
また御花には、江戸期からある庭園や、明治期に建てられた洋風建物があります(写真③④)。ここにある立花の金兜は必見です!(写真⑤) 立花家にはまだ200個程の金兜が残っているそうです。これをかぶった軍勢は、さぞかし強そうに見えただろうな~🤔(実際に蔚山の戦いでは強かった)。またここ御花は、地元柳川出身の元大関琴奨菊が大関襲名披露や結婚式を行なった場所でもあります(写真⑥)。
【余談】宗茂の妻「誾千代(ぎんちよ)」物語
立花宗茂の実の父は、岩屋城で壮絶な討死をした高橋紹運ですが、その岩屋城の戦いの前に立花城を守っていた大友宗麟の筆頭家臣であった立花道雪のその一人娘「誾千代」に宗茂は婿養子として入り立花家を継ぎ、誾千代と共に立花城を守ります。ここにも女城主はいたのですね~🤔。道雪は宗麟の命で柳川城に籠る龍造寺氏を攻めますが落とす事ができず、その帰途に病死してしまいます。誾千代にとって柳川城は因縁の城だったというわけです。それから岩屋城が島津から攻められるまでの8年間、父に代わり立花城で女城主として戦いに明け暮れる日々が続きます。鎧に身をまとい、城兵を鼓舞した勇ましい女城主だったとか・・・。島津との戦も終わった誾千代は、秀吉の命により柳川城へ宗茂と共に移り住みます。そして宗茂が朝鮮出兵の留守中には再び女城主となり、家中をまとめ鎧姿で名護屋城の秀吉の元へまで行ったという逸話も。その間に不仲説などもささやかれたようですが、結局夫の宗茂が関ケ原で敗れ、疲れ果ててわずかな兵で帰還する際中、筑後川に陣を敷いて宗茂を待ち構えていた鍋島軍を破って柳川城まで連れ帰り、また城を囲んだ加藤清正とも戦っているので、実際には夫の宗茂を守り抜くほど仲むつまじかったようです。しかし宗茂は改易となり、奥州棚倉に移されると離れ離れになります。それからは神社に願掛けをし、今か今かと帰りを待ちわびたそうです。その後田中家断絶により宗茂が棚倉より再び帰還しますが、その直前に、宗茂に再び会える事なく病で亡くなったそうです。
次は、最後に柳川の近くに行きたい場所があったのでちょっとよって帰ります。
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2023/09/18 06:15
2023/09/18 06:09
2023/09/17 23:03
甘味を頂きながら庭を拝見 (2020/12/01 訪問)
奥殿陣屋は奥殿松平家の陣屋で宝永4年(1707)に完成しました。文久3年(1863)に
龍岡城を築いて藩庁を移すまで、奥殿藩の陣屋として機能しました。書院は岡崎市の龍渓院
に移築されていたものを再度、陣屋の敷地内に移築し公開しています。中で甘味を頂くことも出来、
観光客や地元の方の憩いの場となっています。敷地内には奥殿藩主の廟所や土塁遺構も残りますが
この日は甘味にかまけて見に行っていません。後で写真を見直して、甘味なんか食ってないで
土塁を見に行けよ!と思うのですが、これも陣屋の楽しみ方の一つでもあります。
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2023/09/17 22:02
う〜ん (2023/09/17 訪問)
家からさほど遠くないのに、何故か今まで来る事がありませんでした。今年は(大河ドラマ絡みで)全国の東照宮巡りをしているので、川越の仙波東照宮と併せ技でやっと来る事が出来ました。(最近登場した御城印も目当て)
ところが!百名城スタンプ帳を忘れてしまいました。お城によっては、スタンプのインクを拭う(スタンプ帳を閉じた時に向かい側にインクが付かない)ための紙が置いてあるので、一応係の人に聞いてみました。そしたら「無いですね」と冷たく突き放されてしまいました。ちょっと困っていたら、「ソレの裏でいいんじゃない?」と指差した先には入場券が。入場券やパンフ等も保存したいので、何とか財布の中からレシートを探し出してその裏に押しました。
なんかもー本丸御殿とかどーでもよくなりました。
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2023/09/17 22:00
見境なしに砲撃し下関戦争の発端となる。 (2019/12/31 訪問)
下関前田台場は長州藩下関前田台場跡として国の史跡に指定されています。
文久3年(1863)に低台場が築かれ、元治元年(1864)英・仏・蘭・米の
四国連合艦隊の下関砲撃前に高台場が増設されています。
現在では文久3年の衝突を下関事件、元治元年の衝突を四国艦隊下関砲撃事件(もしくは
下関戦争)と呼称するそうで、2件の武力衝突を合わせて下関戦争と呼ぶ向きもあるそうです。
文久3年(1863)5月26日、オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号が長州藩の砲撃を受けています。
オランダは以前からの友好国であり、長崎奉行の許可証も所持していたのですが、すでに
砲撃サルと化していた長州藩はお構いなしに打ちかかってきたようです。幕府の意向とか
全く関係ないよって感じですね。
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2023/09/17 20:41
古戦場と新施設 (2023/07/01 訪問)
新しくできた歴史観光施設「にほんまつ城報館」を訪れるのがいちばんの目的でしたが、その前にお城とは逆方向に歩いて30分くらいかかりましたが『供中口(ぐちゅうぐち)古戦場跡・三浦権太夫義彰戦死の地』へ行ってみました。東北本線の線路沿いに解説板や供養塔がありました。農兵を率いて供中口の防備についた三浦義彰は東軍戦死者で唯一尊王義士として靖国神社に合祀されたのだそうです。(二本松市HP参照) 戊辰戦争は「旧幕府軍vs新政府軍」「東軍vs西軍」「賊軍vs官軍」など呼称されていますが、必ずしも皆が同じ信念をもって同じ方向を向いていたのではなく、各々が志していたことや胸に秘めていた願いや祈りがあったことを思いました。
「智恵子の生家・智恵子記念館」へも行ってみました。「智恵子抄」の智恵子、高村光太郎夫人です。
ここからにほんまつ城報館へは約2km。ほぼ直進です。昔日を伝える碑が所々に建てられており、旧家や蔵の残る街道歩きを楽しみました。
2時間近く寄り道してしまいましたが無事「にほんまつ城報館」に到着。
昨年4月にオープンしたばかりの新しくて広々とした施設です。休憩できる場所があるというだけでもありがたいです。(歩兵の心身の支え、セブンイレブンも健在です。)
1階に二本松歴史館(常設展示室・企画展示室)があり、入館料一般200円で常設展示室に入りました。二本松の歴史が詰まっています。教科書には載っていない、ここに来ないと知ることのできない心の通った、歴史と対話のできる展示内容でした。(ネタばれはしないでおきます。)きっと訪れるたびに入館すると思います。
1階には二本松城ガイダンス室もあります。迫力満点のとてもきれいな映像が全周囲型スクリーンに映し出され、最新設備や技術の素晴らしさにとにかくびっくりでした。発掘ギャラリーもよかったです。
2階に観光情報ギャラリーがあり、受付で第5弾の城カードを購入できました。
にほんまつ城報館を出て藩校「敬学舘」跡を見学、工事中の道路を通って二本松少年隊群像、箕輪門へ。そこから三の丸経由で本丸へ向かいました。
以前来たときはここからとっくり井戸を通って搦手口へ下りてしまって北端のL字型堀切、空堀、土塁を見ていなかったので行ってみます。本丸石垣の右側から下りていけました。
こんな堀切があったんだ!と驚きの光景。土塁も空堀もはっきりしていて、中世の遺構もまだまだあるのだと知った次第です。かなり高いところまで登ったので眺めもよかったです。
搦手口へ下り、少年隊の丘、紫陽花の道を経て大手道に戻り、駐車場横に抜け出ました。(ここのお手洗いは海鼠壁でも下見板張りでもなく、石垣テイストです。)
最後に【大壇口古戦場】へ向かいました。
二本松城から徒歩30分くらい。ミニストップ向原店の向かいの小さな丘です。
JA側の階段をのぼったところに二勇士(青山助之丞・山岡栄治)の碑、隊長木村銃太郎戦死の地の碑がありました。
「うつ人も うたるる人もあわれなり ともにみくにの民とおもえば」(西軍隊長)
「色かへぬ 松間の桜散りぬとも 香りは千代に残りけるかな」(陸軍中将)
少年たちにも本当は別の夢があっただろうにと切なくなってきます。
東北本線の向こうに二本松城本丸石垣が望めました。
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2023/09/17 20:37
長山城 山口県山口市亀山町 (2019/12/30 訪問)
長山城は山口城のすぐ南の亀山公園が城跡になります。丘の上が広い扁平地に
なっているのですが、完全に公園化しているので城址の遺構は見当たりません。
南側が山口ザビエル記念聖堂になっており、この周辺も元は城域だったものと思われます。
天正16年(1588)仁保氏を継いだ毛利元忠が毛利輝元より城番を命じられたとあります。
慶長元年(1596)毛利秀元が長山城を修築しますが、関ヶ原の合戦が起こり、毛利氏の
防長移封に伴い秀元は長門の長府に移ったとあります。公園には毛利家27代当主で長州藩13代藩主の
毛利敬親公の銅像があり、長府藩13代毛利元周公や最後の清末藩主毛利元純公らの銅像も並んでいた
そうですが戦時中の金属の供出で失われてしまったようです。
南東の山口県立美術館の脇にある池がかつての堀の名残のようです。
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2023/09/17 18:05
壇ノ浦古戦場 壇ノ浦砲台跡 (2019/12/31 訪問)
関門海峡の関門橋のすぐ近くの下関側に壇ノ浦古戦場のモニュメントと
壇ノ浦砲台の跡があり天保製長州砲(80斤加農砲)のレプリカがずらりと並んで
います。近くには下関での連合艦隊の砲撃戦の跡、海外に運び込まれパリ・
アンヴァリッド軍事博物館に展示されていた本物の大砲が展示されています。
レプリカも良くできているのですが、やはり本物の大砲は貫禄が違います。
返還にあたって時の外務大臣・安倍晋太郎氏が尽力されたそうです。そういえば
山口の方でしたね。古戦場跡のモニュメントですが源義経と平知盛の銅像が向いあって
います。知盛公は平氏が滅びる際に錨を担いで入水したとありますが、こうして見ると
錨で義経公と対決しているようにも見えます。なんか巌流島みたいですね。
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2023/09/17 17:38
広島城朝駆け (2023/08/16 訪問)
広島城の縄張りは、本丸・二の丸・三の丸・外郭と三重の堀で構成され本丸の北西部に五重五階の大天守と、三重三階の小天守二基から成る複連結式で築かれています。東西1.3km、南北1.3km、櫓の数は88基あったといわれています。
三重三階二基の小天守と南渡櫓は明治時代の初期に撤去され、大天守と東渡櫓は残されていましたが、原子爆弾によって建物すべてが倒壊・焼失しています。
現在の天守は、コンクリート造りで復元され、二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓はに木造で復元されています。
広島城を築城したのは、豊臣政権の五大老の一人、毛利輝元公で太田川のデルタ地帯に目を付け、1589年から築城を開始させ、1599年10年の歳月をかけ完成させていますが、翌年の関ヶ原の合戦で西軍の総大将であった毛利氏は広島城を出て萩城へと移り、替わりに入封したのが、東軍で活躍した福島正則公で今に残る広島城の遺構は、ほとんどがこの頃のものとされています。
1615年、城の修復に際し武家諸法度に違反したとして、信濃高井野に転封。続いて徳川家康公の娘婿にあたる浅野長晟公が入封し、幕末まで続いています。
8月15日は大分の日出城を朝駆けし、大分より幾つか城を巡りながら広島に移動。広島の平和記念公園、原爆ドームなどを巡り、翌16日、16時には豊橋に野暮用があり、朝8時には広島を出発しないと帰宅するのが難しく仕方なく広島城を城朝駆け(>_<)
三回目の訪問ですが、一度も天守内に入ったことが無く、また、内堀越しに見る天守の姿が格好良く見所だと思っていますが、今回は泣く泣く諦めました。宮崎県に初上陸したく無謀な計画で城巡り&観光をしたことが、まずかったかなと後悔しています。次回は、入念な計画のもと、広島城を訪れたいと思っています。
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2023/09/17 17:08
長崎奉行所 長崎歴史文化博物館 (2020/01/01 訪問)
長崎歴史文化博物館は長崎奉行所(立山役所)跡に建てられています。ほかにも
いくつか長崎奉行所跡と名のつくポイントはあるようです。内部にかつての奉行所を
再現しており、対面所や書院、御白洲を見学することが出来ます。
長崎奉行は初期は竹中重義など徳川秀忠側近の大名が務めますが、やがて旗本が務めるようになり
元禄3年(1690)老中の支配で詰席は江戸城芙蓉の間で従五位下・諸大夫格とされ、将軍に
拝謁できる身分でしたが、長崎奉行は芙蓉の間の末席とされ、正式に諸大夫として
扱われなかったそうです。当時の奉行・牛込重忝から待遇改善の請願が出ましたが、大老酒井忠清に
却下されます。外国人の対応を低い身分の役人にさせることで幕府の格があがるとのことですが、
実にケツの穴の小さい話です。(下品で御面)元禄12年(1699)川口宗恒が従五位下摂津守と
なったころから長崎奉行の格は上がっていきますが、文化5年(1808)
フェートン号事件が起こってしまいます。
イギリス海軍のフリゲート艦がオランダ船を装い無断で入港し、人質を撮ったり水や食料を要求したり
長崎の街を焼き討ちするぞと脅したり、狼藉の限りを尽くします。当時の奉行・松平康英は
己の身上をはるかに上回る出来事に必死で対処しますが平和ボケして人員削減を勝手に行っていた佐賀藩に
足を引っ張られて満足に対応できず、まんまとフェートン号に水と食料を持ち逃げされてしまいます。
結果的に死者が一人も出なかったのですが、幕府も奉行も完全に面子を失い、康英は責任を感じて
自害したとあります。康英は高家旗本の三男で従五位下図書頭と、奉行としては悪くなかった
のですが、時代の変化に幕藩体制がついていけていなかったようです。
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2023/09/17 13:53
長崎県防空本部跡 長崎夜景 (2020/01/01 訪問)
長崎県防空本部跡は防空壕の一つで、長崎県知事らが退避し、指示を出すために使用され
原爆投下時には、ここから被害の大きさを通達しました。長崎原爆投下の前日、1945年
8月8日には広島に大本営から調査団が派遣され、被害の大きさを確認しているので、
立て続けに原爆の脅威が伝わることになったと思います。この防空壕からの報告も終戦の
判断の材料に一つになったのかもしれません。
鍋冠山公園から見る長崎の夜景は札幌、神戸と並び「新日本三大夜景」として認定されたそうです。
なんでも香港・モナコと並び世界新三大夜景としても認定されているそうなのですが、
それほどでも‥ いやいや素晴らしい夜景でした。ただ、私はそれほど夜景を撮るのが
得意ではないので、ご了承願います。
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2023/09/17 13:12
長崎平和記念公園 (2020/01/01 訪問)
2020年の正月、軍艦島クルーズに行ってきてから長崎平和記念公園に行ってきました。
わたしはそこまで積極的な平和主義者ではないのですが、やはり日本人として一度は
訪ねておかねば‥という気持ちはあったわけです。近くに原爆投下中心地があり
平和の泉など、様々な展示があり、世界各国から送られたモニュメントが飾られています。
中心にあるのは平和記念像で、北村西望氏が製作。高く掲げた右手は原爆の投下された
空を指しています。水平に伸ばした左手は平和を指しています。こち亀では原爆の投下された
地上を指していると出ていました。長崎原爆資料館にもよりましたが、心象的に強く訴える映像を
見て正月から気分が悪くなりました。いい歳になると、こういうのは疲れますね。
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2023/09/17 12:35
2023/09/17 11:36
「水郷柳川」日帰り散歩①(柳川城) (2023/09/16 訪問)
柳川を日帰りで訪れ散策してきました。
福岡の中心地天神から西鉄特急に乗り50分、柳川駅でバスに乗り換え10分、柳川高校前で下車すると柳川城跡です(写真①②)。ちょうど乗った電車が柳川観光をモチーフにした特急「水都」で電車内に立花家の刀なども飾られた電車でした(写真⑨⑩)。
ここは私の好きな立花宗茂の居城です。最初に築城したのは1560年頃の蒲池(かまち)氏と伝えられています。しかし肥前の龍造寺氏から攻められ滅ぼされたようです。そして龍造寺氏も滅亡後、秀吉の九州征伐での恩賞として宗茂にこの地が与えられ、立花城よりここに移り住みました。しかし関ケ原で西軍についたため、敗れ帰還するも、家康の命で城を受け取りに来た加藤清正・黒田官兵衛に降伏して城を明け渡し改易となります。
かつて明治時代に火災で焼失するまでは5重5階の層塔型の天守がここに建っていました。焼失前の写真や地元の方が作った模型がありました。現在は柳川高校の敷地になっていて、石碑と説明板があるのみで、かつてここに城があった事を伝えています(写真①②③)。説明を読んでいたら何人もの野球部の生徒から挨拶されました😯オス!
柳川の今ある堀割は関ケ原後に入った田中吉政によるものです(写真⑥⑦)。写真④の天守もこの時に田中吉政が築城したものです。しかし吉政の子の忠政に嫡子なく田中家は2代で断絶、ここで何とまた立花宗茂が秀忠の御伽衆や家光に戦経験の語り部を務めた幕府での功績が認められて復帰し、幕末まで立花家が代々柳川藩主となりました。関ケ原の敗軍の将で旧領に復帰したのは立花宗茂ただ一人だけです。
またもう一方で考えてみると、田中吉政という人物は、近江八幡城→岡崎城→柳川城と、いずれも経済発展を遂げたすばらしい城下町を作ったので、その手腕には感心します。石田三成を丁重に扱ったその紳士的態度にも感心です。吉政はここ柳川で没し、眞勝寺に菩提が弔われています(写真⑧)。
次は立花家資料館に続きます。
【余談】松田聖子
松田聖子は柳川からほど近い久留米の出身で、本名は蒲池法子(かまちのりこ)です。柳川の蒲池氏と関係があるかはわかりません。ただそれだけです・・・🤔?
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2023/09/17 10:27
2023/09/17 10:25
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