みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

おっちゃん

史跡備中松山城案内図 (2013/05/11 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

肥田城跡地図 (2017/12/29 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

飯盛城跡縄張図 (2017/02/04 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

小城小次郎

人質の命と引き換えに (2022/02/23 訪問)

日近には日近奥平氏がいたが日近城の縄張は地方小領主のそれではないようだ。人質おふうの命と引き換えに徳川への忠誠を誓った見返りに、徳川が武田の攻撃にも耐えうるお城を日近奥平氏にプレゼントしたと考えたら考えすぎか。

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

沖縄で路線バス旅が展開されない理由は… (2022/03/19 訪問)

この日は,那覇バスターミナル→勝連城跡前間 路線バス(52番:与勝線)を利用しました。沖縄の路線バス利用は初めてではありませんでしたが,この日は遅延が顕著で約40分遅れの到着。本土では,10分でも遅れれば謝罪アナウンスを入れますが,一切ナシ。この地の路線バスでは「定時運行」というワードすら耳にしません。
さらに,本土の交通系ICが利用できないので「信号で停車している間に両替をしておこう」と両替を試みるも,「降りる時にしてください」と静止されました。どうやら,ドアを開けたタイミングでないと,両替機が作動しない仕様のようです。乗車人数に比例して遅れるのが簡単に推測できます。
また,那覇中心部から北へ向かうルートは,ほぼほぼ嘉手納基地を過ぎるまで同一ルートです。慢性的な渋滞が発生しています。
沖縄で路線バス旅が展開されない理由は,たぶん以上の理由からではないかと思います。
時刻表を確認しながら,キツキツのスケジューリングは泣きを見ます。みなさんは,「これが沖縄時間なんだ」と本土との差異を感じ,笑い飛ばすぐらいの余裕で受け入れてください。

勝連城についてですが,勝連城跡前バス停から,徒歩約3分であまわりパーク到着。
あまわりパークでチケットを購入しないと,勝連城には立ち入れませんのでご注意を。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

スキー小僧

犬山城と木曽川

犬山橋から撮影した犬山城です。

+ 続きを読む

稲葉正則 (2022/09/01 訪問)

 久しぶりに小田原城に行きました。平日でしたが、それなりの見学客の方がみえていましたね。時間の都合でさらりと回りました。石垣や水堀が魅力的で復元された門もすばらしいです。総構の遺構が好きで、昔、小峯御鐘ノ台大堀切東堀等を歩いて回りました。好きな遺構ですが今回は行っていません。時間をとってゆっくり散策したいと思っています。城びとの自分の投稿を見てみると2012年5月5日訪問(投稿は2018年)とありました。何回も来た覚えがありますが、前回からはそんなに経ってしまったのかと時の流れに苦笑しています。最初に来たときは本丸に象のウメ子がいて驚きました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

徳川家康陣地 (2022/09/01 訪問)

 小田原駅よりバスに乗り今井バス停下車、約30秒くらいで石碑と案内板に行くことができます。

+ 続きを読む

県立大磯城山公園 (2022/09/01 訪問)

 大磯駅からバスに乗り城山公園前下車。徒歩1分くらいで城山公園の入り口に行くことができます。三井家別邸があったとのことで城の遺構はよくわかりません。さらりと散策して退却しました。

+ 続きを読む

奇栖庵明昇 (2022/09/01 訪問)

 隠居した大森氏頼が奇栖庵明昇と名乗ってこの城に入ったとされています。大雄山線家原駅より徒歩約15分で案内板に行くことができます。土塁等が残っていると知ったのは帰ってきてにのまるさんや赤い城さんの投稿を見てのことです。予習不足でした。

+ 続きを読む

侍ホリタン

世界遺産を訪ねて (2021/12/28 訪問)

世界遺産、正式名称→元離宮二条城
JR利用の場合、嵯峨野線二条駅から徒歩20分弱です。徳川幕府の京における宿館としての役割、徳川家康と豊臣秀頼の会見、二の丸御殿で大政奉還が行われるなど歴史的な出来事の舞台となった所です。二の丸御殿内部も素晴らしいですがやはり唐門の美しさも見逃せません。平日に訪問される方は火曜日に関しては二の丸御殿が閉館ですのでご注意下さい。更に現在本丸御殿は改修工事の養生で覆われており建物を見学できますせんが、本丸庭園、天守閣跡は見学可能です。
御城印、100名城スタンプは見学順路の最後に立ち寄れる休憩所にあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

POYO58

福井旅行part2 一乗谷城 (2022/08/14 訪問)

越前大野城の後は大雨の中、一乗谷城に行きました。実はこの日南越前町や敦賀で土砂災害が相次いでいました。そんな地獄の雨の中行ってきました。一乗谷城といえばあの朝倉義景。麒麟がくるでもいましたよね。明智光秀が好きな僕にとって一番楽しみにしていた城でした。まずは下城戸の大きな石垣をしっかり見ました。一つ一つ石が大きかったです。一乗谷城は小牧山城よりもずっと前に築かれたのですが、石垣があるのは想定外でした。その後、朝倉居館跡へ行きました。広すぎてびっくり。一乗谷城の広大さを実感しました。居館跡には礎石のほか一部土塁が残っていました。たくさんの石碑があり、通路や礎石建物と書かれていて、「よくこんなことがわかったな」と思いました。一乗谷城はもちろん姉川の戦いの後織田信長によって焼き払われてしまいますが、それらが全て地中に埋まっていたためにこんなに残っていたそうです。

ではここのベストポイントとも言える唐門へと向かいます。(続く)

評価
遺構:4
行きやすさ:2
建物:3(武家屋敷や唐門)

攻城時間
2時間くらい

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

侍ホリタン

明智光秀公ゆかりの地を訪ねて(その1) (2021/12/28 訪問)

JR長岡京駅から徒歩約10分、途中に土塁、空堀跡があります。細川ガラシャ輿入れの城、山崎の戦いで敗れた明智光秀が最後の夜を過ごした城です。私が訪問した時は年末年始のお休みで中に入ることができませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

築城400年祭特別公開伏見櫓 (2022/08/28 訪問)

 福山城の築城400年祭のイベント当日、国重要文化財に指定されてる伏見櫓の特別見学会が有り運よく見学出来ましたので写真投稿致します。
 現存伏見櫓は伏見城からの移築と伝わって居り、本丸南西角に三層三階で筋鉄御門の西を護って居ます、内部は一階二階は同じ平面で重箱型、その上に小振りな三階を載せています、北面が正面で入口がある。
 一階での説明で一階の梁に「松ノ丸ノ東やぐら」と陰刻がると示し解説が有りました、松の丸は元伏見城の郭で伏見城からの移築が証明されたとも解説。
 一階二階三階と登り見学、三階からの眺めも最高、三階北面は窓が全開で見晴らしも良く、撮影も良好、天守閣、鐘櫓、本丸、イベント会場も良く観えました。
 伏見櫓、多聞櫓跡、鐘櫓辺りにあった松の木、樹木が伐採されていて各櫓の撮影が以前に比べて良好です。
 特別見学会参加させて頂き大変感謝です。解説資料も頂きました。
  
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

侍ホリタン

赤穂浪士の故郷を訪ねて (2021/12/21 訪問)

JR利用だと播州赤穂駅の改札を出て南に真っ直ぐ歩いて約20分で大手門に到着します。途中、「息継ぎ井戸」、「からくり時計」等の観光スポットもあります。
訪問時は夕暮れ時でしたのでもう少しゆっくりと見学したかったです。次回訪問は桜の時期が良いと思いました。
御城印は播州赤穂駅構内の「観光情報センター」で購入できます。赤穂市内の山城、尼子山城、坂越浦城、茶臼山城の御城印も販売していました。100名城スタンプは歴史博物館内にあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

侍ホリタン

日本三大水攻めの地を訪ねて (2021/12/21 訪問)

高松城址公園内には本丸跡、清水宗治公首塚、蓮池、資料館等があります。駐車場は公園内にあります。資料館では水攻め時の各武将の配置がジオラマで再現されていて興味深く拝見させていただきました。100名城スタンプ、御城印は資料館内にあります。私が訪問した時には3種類の御城印が販売されていました。公園から少し離れた「高松城水攻め史跡公園」には水攻め時に造られた堤防の東端の跡が残っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

金王八幡宮 (2022/06/24 訪問)

平安末期に河崎基家(または子の渋谷重家)が築いた城で、渋谷氏代々の居城でしたが、戦国前期に北条軍の侵攻を受け落城しました。渋谷川東部の台地の縁に築かれた丘城で、城跡には河崎基家が創建し渋谷氏の氏神となった金王八幡宮が現在まで続いています。

渋谷駅側から坂道を上って行くと、周囲より一段高いところに金王八幡宮があり、周囲の道路は水堀跡とも云われます。社殿の脇には渋谷城の石垣の一部とされる石(と説明板)があり、唯一の遺構とされています。その説明板によれば「数箇所に湧水がある」とのことですが、そういえばブラタモリの渋谷の回で、渋谷は三つの台地からなり、台地の縁に多くの湧水があることから縄文の昔から人が集まる場所だった…という内容だったのを思い出しました。台地と湧水の存在は城を築くにも最適の地ですよね。

金王八幡宮の名の由来とされる渋谷金王丸常光は、渋谷重家夫妻が渋谷城内の八幡宮に祈願して産まれ、源義朝に仕えて保元・平治の乱を戦い、義朝の菩提を弔うため出家して土佐坊昌俊と称したと伝わります。そのため境内には金王丸を祭神とする金王丸御影堂や、源頼朝が金王丸の忠節を偲んで鎌倉から移植させたとされる金王桜など、金王丸ゆかりの史跡が見られます。ただ、社伝では金王丸=土佐坊とされていますが、明確な史料の裏付けはないようです。
また、現在の金王八幡宮の社殿は江戸初期に春日局と青山忠俊が造営したもので、竹千代(後の徳川家光)が跡継ぎとなることを祈願し、叶えられたことから寄進したものとされます。

出張中の仕事で渋谷に来ていたので、昼休みにちょっと立ち寄ってみましたが、江戸城で手いっぱいでほとんど下調べしていなかったため、先人方の投稿にある宝物殿の渋谷城模型や算額を見落としてしまいました。天地明察も読んでいたのに……無念。あ、でも渋谷クロスタワーのテラスには行きました。尾崎豊世代ですので。あれからもう30年かぁ…。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:末森城 (2022/08/01 訪問)

以前、愛知県の末森城と間違えて攻城済としていましたが、今回は間違えずに石川県の末森城を攻城しました。
荒山城からの転戦です。この地点(36.831822、136.769981)を経由して小道へ入り、橋手前の駐車場(36.833271、136.7771082)に駐車しました。
そこから、緩やか遊歩道を600m程登ると若宮丸、北へ進み三の丸➡二の丸➡本丸と続いています。

築城年代は定かではないようですが、畠山義続の家臣で地頭職であった土肥親真によって築城されたとされますが、詳細は不明のようです。
1577年(天正5年)越後国より侵攻してきた上杉謙信に降伏し、斎藤朝信らが末森城に入ったとの記述があり、その後、そのまま親真が城主として配されたようです。
1580年(天正8年)加賀国の一向一揆を鎮圧した織田信長家臣の柴田勝家らが侵攻してくると、再び降伏しました。
前田利家が能登に入封となると、家臣奥村永福が城番となり、土肥但馬の一族が附属したようです。
1584年(天正12年)越中国の佐々成政は能登を急襲して末森城を囲みますが、前田利家軍数千の急援により、成政軍は撤退しました(末森城の戦い)。
この勝利が前田利家の能登・加賀統治の基礎となりましたが、1615年(慶長20年)の一国一城令により廃城となりました。

橋手前の駐車場から国道上に架けられた橋を渡って城山に入って行くと、「末森城合戦の碑」という大きな石碑があります。
緩やかな遊歩道を登って行くと、若宮丸があり、そこより北に登ると三の丸、二の丸、本丸と段々に高くなって曲輪があります。
若宮丸手前と、三の丸と二の丸間に堀切が確認できます。
末森山頂上の本丸跡の中央付近に案内看板があります。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=御舘館に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:荒山城 (2022/08/01 訪問)

森寺城からの転戦です。枡形山登り口駐車場(36.955896、136.941968)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、石動山天平寺によって築かれた砦が始まりとされ、一時阿尾城主の菊池入道の城となっていました。
1582年(天正10年)本能寺の変で織田信長が倒れると、越後の上杉氏を後ろ楯として畑山旧臣の温井氏、三宅氏や石動山天平寺の衆徒が立て籠もりますが、前田利家や佐久間盛政の軍勢が攻め落としました。
その後は佐々成政の軍勢が守っていましたが、1584年(天正12年)の末森城合戦で前田利家の軍勢が攻め落とし、翌1585年(天正13年)の佐々成政討伐でも使用されました。

現在は公園として整備されています。主郭は山頂にあり北へ向かって段曲輪があります。
時期的に草が生い茂っていたので堀切、竪堀、切岸など遺構がよく確認できませんでしたが、眺望は素晴らしいです。
城址内は階段が多く付けられています。主郭西側下にあった建造物を模擬櫓と言っていいものか。。。
ここも藪蚊が多く、夏の攻城は防虫ネットと手袋は必須です。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=末森城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:森寺城 (2022/08/01 訪問)

海老瀬城からの転戦です。見学者用駐車場(36.911789、136.959270)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)に能登国守護畠山氏によって築かれたと云われています。
元亀年間(1570年〜1573年)から天正年間(1573年〜1592年)はじめ頃の城主は長沢(長曾)光国と伝えられ、1577年(天正5年)には上杉謙信に属して能登国穴水城の守将となっていましたが、翌年討死しています。
1577年(天正5年)上杉謙信は有坂備中に湯山城を攻略させたが、このときの城主は湯山左衛門続甚という。
謙信はその後河田主膳を城主としたが、1579年(天正7年)長連龍によって攻められ落城しました。
佐々成政が越中に入部した後は、湯山城主として斎藤氏が城主でしたが、豊臣秀吉に降伏した後は前田利家の所領となり、廃城となったようです。

駐車場より南側の尾根を進むと尾根沿に3本の堀切があります。
堀切群を通り抜けると、腰曲輪状の地形の百間馬場に着き、そこを過ぎると二の丸に上がる虎口(石垣が積まれています)の所に出ます。
二ノ丸は広く、中央に巨大な井戸跡が残っており、南に切岸が確認できます。また、二の丸の東南側にある大手口の脇にも石垣が積まれていました。
本丸は二の丸の南端部一帯の丘陵上にあり、石垣(土塁状の構築物)が残っています。
駐車場より北側の尾根を進むと搦手口があるようですが、時間の都合で行っていません。
藪蚊が多く、夏の攻城は防虫ネットと手袋は必須です。(車の中まで入られました)
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=荒山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ416