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にっぽん城まつり2024 feat.出張!お城EXPO in 愛知 (2024/03/03 訪問)

 名古屋で開催されている「にっぽん城まつり2024 feat.出張!お城EXPO in 愛知」へ行って来ました。主に愛知県、岐阜県、三重県の城が中心でしたが多くのブースがあり情報収集をしてきました。
 日曜日ということもあると思いますが、多くの人が来場されていました。

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しろりん

焼失前と焼失直後、再建中 (2023/08/14 訪問)

首里城は日本の城の中で一番好きな城。沖縄を訪れる度に行ってます。首里城復興寄付が約55億円集まりました。城内では誰でも参加できるボランティアをする観光客の皆さんの姿があります。瓦の漆喰を剥がす作業、粉々になった瓦礫をさらに細かい粉末にすりつぶす作業などで、それらは再利用されたり、別製品に生まれ変わるそうです。2028年の復興を目指して現在復元作業が続けられていますが、令和の復元は名実ともに沖縄の象徴を取り戻すとともに、沖縄の枠を超えて世界遺産となった遺跡保護の意義も加わっています。

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カズサン

未踏だった見張台をやっと探訪 (2024/03/01 訪問)

 昨年5月25日2度目の登城時西の丸高天神社社務所辺りで見張台への道を探したのですが案内板、指示板も無くそのまま下城しましたがずうっと気に成っており冬枯れの時期にと思いやっと初探訪しました。

 駐車場:高天神城南口駐車場(34°41'50"N 138°02'14"E h=80m)小型車10台程可、トイレ有。

 ルートは追手口登城を進行、追手門跡、着到櫓跡、通行止めの本丸と二の丸分岐点、三の丸下、本丸下、的場曲輪下、搦手口登城路合流点踊り場、井戸曲輪の高天神社灯籠階段、井戸跡、西の丸高天神社階段下鳥居下の左手にある道を進んで社務所東下から細い尾根道を約100m程南へ、モチツツジの灌木が伸びてますがかき分けて進み、左右の崖は急峻落ち込んでおり怖い位、狭い平場の見張台、見張り台下は広く深い北堀切、解説書によると幅10m、深さ8mとある、覗き込むと恐怖心を感じる、見張り台南横からの降りる斜め道が有るが虎ロープも設置して無く、怖くて堀底探訪は断念、解説書によると更に南50m程の所に更に規模の大きい南堀切が有るらしい。
 取り敢えず見張台にはたどり着け北堀切も上から覗き良しとします。
 危険な個所で西の丸社務所辺り、高天神社鳥居辺りに案内板、指示板が無いのかなと、一般には危険不可で案内無しに成っているのかなと理解しました。
 約10か月ぶりに気掛かりだった見張台を探訪する事が出来ました。花粉症の私としては杉が多く植栽されてる高天神城は苦難行軍、花粉が舞ってぼんやりとし見張台付近は樹木で覆われています。

 追手口登城路を進行しましたので三の丸跡、追手門跡と着到櫓跡、追手登城路編を続きます。
 

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しろりん

最古の模擬天守 (2023/12/27 訪問)

洲本市の三熊山山頂にある城跡。石垣が国指定史跡ですが、天守はコンクリート製の模擬天守です。模擬天守としては最も古く、昭和3年に昭和天皇の即位を記念して展望台として建てられました。お城に似せた展望台として見れば問題ないのでしょうが(今は入れませんが、二股に空いた石垣の中から登ることができた)、天守台の上にさらに二股に空いた天守台がある形は模擬天守としてもこの姿には違和感があります。
また、城内は石垣も崩れているところが何箇所かあり、ブルーシートで覆われていました。確かにここから洲本市が一望できて見晴らしが素晴らしいです。桜がたくさん植えられているので花見の季節はさぞ綺麗だと思います。馬屋跡(月見台)の駐車場まで車で行けます。10台くらいは駐められます。

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しろりん

彦根城とひこにゃん (2023/06/04 訪問)

中学校3年生の時、遠足で初めて訪れました。皆で写生した時にじっくり見て綺麗なお城だな、と興味を持ちました。
唐破風が美しいです。一つの天守で破風が18個もあるのは全国でも珍しいです。また、天秤櫓の石垣は江戸時代の修復工事で石垣の積み方が半分が谷積み(落積み)になっており、築城当時のごぼう積みとの対比が面白いです。この日は休日ということもあって、ひこにゃんが来てました。

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しんちゃん

隠れ築城名人・明智光秀さん (2024/02/10 訪問)

POYO58さん、坂本城の石垣の保存の件、私もうれしい限りです。キンヤさん、イオさん、枡形ともきさん達 城びとの皆さんのみならず多くの城好きの情熱が伝わったものと思います。なんでも2000人もの人が来城されたとののこと、さすが明智光秀の城。大人気ですね。
大津市文化財保護課の岡田さんに、白くて美しい石垣が気になって尋ねたところ延暦寺でも同じような石が使われているとのことでした。
であれば、やはり白川石を使っているのだと思います。白川石は京都の北白川あたりで採取される黒雲母花崗岩とネットで調べると出てきますが、比叡山は白川石の岩山なんだそうです。比叡山の焼討後、信長が延暦寺の石垣を壊そうとしたところ、地元坂本の穴太衆の積んだ石垣は簡単には崩せず逆に賞賛したそうです。と‥すれば今回見つかった石垣は比叡山の石切り場で採取した石を穴太衆に運ばせ築かせたものかもしれません。(少し積み方が荒い気がするが、そう思いたい)
基本、石垣の石は現地調達で、石垣の採取・運搬・築造に長けた集団が地元にいるわけで、条件は整っていると思います。
安土城や坂本城以前から石垣の城はありますが、高い御術力を持った集団をシステム化して各地に普及させた信長、光秀の功績は大きいと思いますね。明智光秀の城は他にも黒井城、福地山城、周山城、丹波亀山城と続百名城や、それに匹敵する凄い城が幾つもあります。私の中では明智光秀の城と言えば坂本城なのですが、遺構に乏しく、いささか残念な思いではありました。
しかし、このたびの石垣の発見で、他の名城に引けを取らぬ箔がついた気がします。いずれは国の史跡になるかもしれません。
まさしく「やべーな!」という状況です。あえて他の言葉を使うとしたら「ブラボー!」ですよ!

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Tokyobay

大村益次郎と細川ガラシャ終焉の地 (2024/01/14 訪問)

大村益次郎って襲撃された京都で死亡したと思ってたが、大坂の病院まで運ばれてたなんて。しかも、適塾ルーツの病院ってのも何の因果なのか。終焉の地の碑としては物凄く立派なんだが、皇紀2600年事業ということで合点。ただし、像まで造っていたらどうなっていたか。靖国神社の像は無傷だが。
そこから西へ向かい、難波宮越しに大坂城を見るが、一等地での広大な更地に驚く。後から調べると軍の土地だったのが、遺跡発見でそのまま保存になったらしい。ということは明治以前は屋敷が建っていたということになるんだろうか。
そして玉造教会へ。教会内の撮影は個人使用ならOKとのこと。内部はさすがに荘厳な雰囲気。ガラシャと同等の扱いで右近の画と像もあるのが意外な発見。さらに西に進み、玉造神社で秀頼の像と阪神淡路大震災で損傷した鳥居を見学。こんなになってしまうんだということに驚き。
そこから東へ戻る途中で、玉造小学校の下校途中の少年少女たちと遭遇。天気はいいのになぜかみんな傘をさしているので「なんで傘さしてるの?」と尋ねたら、「風よけだよ~!」との返答。う~ん、その発想はなかった。関西人小学生恐るべし。これって関西ではスタンダード?。城下町散策では下校時の学生たちとの交流が結構あって、歴史探訪の面白味のひとつではある。
で、細川ガラシャ終焉の地へ。映画・ドラマでは定番的に描かれるシーンではあるが「ここだったのかあ」と思うと感慨深い。意外と大坂城に近い場所であるのもあらたな発見。

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朝田 辰兵衛

すでに🗻は🌥の中… (2024/02/11 訪問)

ここもひょっこりはん的な🗻を眺望できるスポットですが,すでに晴れのち曇りの天候は曇りにシフトしました。しかし,ここは🗻が見どころなスポットではなく,ステキな障子堀を堪能できる数少ない場所です。
🗻を眺望できる場所は,北郭張出となります。簡単に主郭を中心にY字の城域と考えると,茶臼郭(右上端),北郭張出(左上端),大庭郭張出(下端)とおぼえると宜しいかと思います。
そろそろ本来雨男の私のハレ運も,陰りが見えはじめました。
この後,箱根か湯河原か大雄山か…と目論んでいましたが,山北駅発の富士急湘南バスに20分間に合わず。JR御殿場線を26分待つハメになりました。結局,小田急線沿線を目指すことにしました…。

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ぴーかる

高知城 (2024/01/07 訪問)

【百名城68城目】
<駐車場他>高知公園駐車場(有料)に駐車しました。日・祝日なら高知城すべり山の北東面の道路脇が無料Pになります。左記駐車場、最大料金が無く、半日以上駐車していたら結構な値段(1300円代)になりました。長時間なら他を探された方がよいかと。
<交通手段>車

<見所>石垣・追手門・本丸内の建造物全て
<感想>1泊2日高知城攻めの旅5城目。追手門⇒杉の段から三の丸石垣を眺めつつ反時計に回り、南の県庁前の水堀を確認⇒御台所屋敷跡⇒鉄門跡から上の段へ⇒三の丸⇒三の丸から二の丸石垣を眺めつつ反時計に回り、水ノ手門跡⇒梅の段⇒本丸南東側下段⇒鉄門跡から二の丸跡内部へ⇒二の丸跡を一巡りして⇒詰門2Fを通り本丸・天守へ。
 やはり本丸は土塀を含めて全部の建造物が現存なのがすごい見応えで感動しました。現存の追手門も迫力ある見応えですが、定常は中に入れないのが残念。また石垣も一日中眺めていたい程の見応えでした。
 これにて百・続百名城の土佐国制覇の四国制覇、現存天守も残り弘前城のみとなりました、しかし大阪からだと片道1000㎞以上 (>_<) 遠いなあ。

<満足度>★★★★★

<観光・グルメ>日曜日でしたので高知城下で日曜市を巡り、いも天を食べました。昼食にまた鰹のたたきを食べようと、ひろめ市場に行きましたが大混雑、商店街にある「明神丸」帯屋町店の方が空いていました。

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しゅんいち

赤松氏が築いた巨城 (2024/02/28 訪問)

姫路駅北口から「前之庄」方面のバスに乗り、「宮置」バス停で下車。本数は1時間に1本ほどです。
徒歩15分ほどで登山口に着きます。

その後の登り道が大変です。登山口にストックが置いてあるので、借りていくのをお勧めします。
登山道は九十九折で、一丁~十八丁まであります。城域までは40分ほどかかります。

しかし、大石垣や大小の曲輪群は見応えがあり、疲れを忘れます。
2024年2月現在、本丸下の大石垣は修復中で見られませんのでご注意ください。

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刑部

新しい府中 (2024/02/23 訪問)

勝頼が入城からわずか68日という短さで自ら火を放つこととなった悲運の城。今回は近年発掘整備された大手口の丸馬出しを見に来ました。

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成羽川から400mあまりの崖上 (2023/02/24 訪問)

先に投稿した土居庄屋跡を西に少しいくと、写真①の説明板があり、そこから時々現れる道標に従って進んでいきます。最後のT字路を右に行くと行き止まりで、駐車スペースがあります。紫城一番槍の織田晃司さんは、「登城口1歩目からススキの藪漕ぎ。おまけにイバラまで…それを抜けると笹藪。夏の登城は無理な気がする。」と書いておられたので、ゴム引き手袋と剪定ばさみを持参しました。写真③の登城口の表示がポール下方に落ちていてかつ裏を向いてたので、左側の舗装道を上がって行くとか、だいぶうろうろしました。夏場だと進入したくないほど、すすきが密生しており、イバラも混じってました。この時期なので、20mほどのすすき地帯を踏破して、熊笹地帯へ。
城域では、堀切や虎口などの説明札が朽ちつつも頑張っています。「横矢」がよいですなあ。城域は、下草なく、遺構が明瞭です。方形のⅠ郭の南側に方形のⅢ郭、Ⅳ郭。北側に、これも方形のⅡ郭が並んでいます。Ⅱ郭から西に伸びる尾根に堀切があります。北と東は400mあまりの崖です。写真⑨、⑩をご覧下さい。ダム湖が遥か下に見えます。帰りに、すすきの中のイバラを根本の方から切っておきました。
備前における下克上:赤松氏→浦上氏→宇喜多氏に興味を持って、2019年から、関連の城を巡り始めました。そのうち、宇喜多氏の敵役として、三村氏がちょくちょく登場するようになるのですが、備中の兵乱で滅んだことくらいしか取り上げられてなく、本を漁ってたら、地元作家 井瀬さんの「瀬戸の群狼」を見つけました。三村氏は、備中の覇者とされており、関連の備中、美作の城を巡り、その勢いで、今回の紫城をもって、城びと登録の岡山県の城を巡り終えました。この日のルートは、岡山道から高梁市に抜けて、三村氏が最後の拠点にした、備中松山城を遠望し、成羽川を遡って、備中松山城の前の拠点 鶴首城の下を通りと、これまたよかった。

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カズサン

掛川桜満開と木造復元天守閣30歳 (2024/03/01 訪問)

 今年も掛川桜の咲く時期に掛川城へ出かけました、掛川桜は満開で菜種梅雨の長雨と風で少し散り気味なところも有りましたが問題無く大手橋から瓦橋間の外堀役目の逆川両岸に咲き揃う掛川桜を眺めて天守が見えると写真を撮り楽しんできました。
 
 天守閣には登りませんでしたが本丸、二の丸御殿周辺も足を運び見学写真撮影、現在天守閣東下の腰曲輪屋根付土塀の白漆喰、と劣化した板屋根の修復作業中でした、二の丸御殿の南玄関周りの土塀も修復仮足場が掛って居ました、期間は今年の9月頃までとの事。

 今年は日本初の木造復元天守閣30年目の年と成ります、何かイベントが有るのでしょうか今のところアナウンスを聞き込んでいませんが、何かあるのでしょう!

 沢山の観光客、地元の散歩中の人、お子さんとお母さんのグループなど大勢の方で賑わっていました。

 駐車場:掛川大手門駐車場を利用。

 写真投稿致しますが昨年と同じ様な所からの写真に成りますご容赦ください、ビューポイントは余り変わりませんでした。
 

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しんちゃん

◇◇◇おしらすタイム◇◇◇ (2024/02/24 訪問)

イオ様‥ 正直に申し上げますだ‥ あっしはただ楽をしたかっただけでございますだ。
「余〇くんのお城のホームページ」さんの縄張りを見ると大手道が麓まで続いているから楽して帰れるじゃないか、と思ったんでございます。下まで行けばフェンスが有るんでしょうが‥いや、何ね、入るときにまたぐと不法侵入になっちまいやすが、出るときにまたぐ分にはおとがめなしじゃないんじゃないかって、そんなセコい考えで降って行った次第でございますよ。そのまままたいで出て行っちまうつもりだったんですが「たまたま」ハリガネーゼを見つけてしまった次第でございます。
ですからね‥あっしはこれが正解かどうか、ぶっちゃけなんとも言えねえです。
でもね‥ぴーかるさん、そして城びとの皆さん!佐味城は面白い城ですよ! これは「行かない」って手は無いんじゃないですかね?

ただ万一怒られても、あっしのことは恨まないでおくんなせえ。
「正解はあなたの心の中にあるのです」 ‥天の声もそう言ってますぜ。

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POYO58

残る遺構は少ないが結構な広いお城だったのか? (2023/12/02 訪問)

評価★★☆☆☆
帰りに寄ってみました。挙母城はもともとは桜城址というお城が始まりであり、江戸時代初期に三宅氏の居城となっていましたが、三宅氏の移封により、後は江戸幕府の支配下となり、本多氏が城主となりました。その後は桜城址の改修が進んだようですが、矢作川の相次ぐ氾濫により、今の挙母城に移築したそうです。
三河国、尾張国、美濃国、信濃国、伊賀国、伊勢国、近江国の7つの国が臨めたため、「七州城」と呼ばれました。
とか言ってますけどどこから見えるのかよくわかりませんでした。
最初は挙母城の方から言ってみました。(この時桜城址の存在を知らず…)復元櫓があり、櫓代の石垣もどうやら復元っぽいです。礎石や本丸石垣などが発掘調査で出土しているようですが、おそらく埋め戻されてしまっています。
そんなに見所ないなと思ってネット検索をしたら、桜城址公園に隅櫓台が残されていることを知り、約1.5km先にある桜城址公園へ急ぎました。
行ってみるとただの公園でしたが、ど真ん中に大きな隅櫓台石垣が!夜だったのでライトアップされてました。とりあえずこの城の見どころを見ることができたのでひとまず満足しました。
後に考えてみると昔の挙母城の絵図や歴史背景から残る遺構は少ないものの結構広い平城であったことがわかりました。ただせっかく本丸に櫓を復元しているのなら、本丸石垣と礎石は埋め戻さず、保存して欲しかったです。

そうそうそういえば保存で思い出したのですが、坂本城の石垣の保存が決定されて大変嬉しいです!今月坂本城に行く予定ができたので早速みに行こうと思います。三の丸探訪はもちろんのこと、本丸石垣もしっかり見に行きたいと思っています。ただもう沈んじゃってるかもしれないですけど、城びとの皆様の投稿を見て確認させていただきたいなと思います。
しんちゃんさん、イオさん達皆様、坂本城の情報ご提供に感謝いたします。

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ぴーかる

香宗我部城 (2024/01/07 訪問)

【香宗我部城】
<駐車場他>駐車場はなし。石碑前の道路脇に停車しました。
<交通手段>車

<感想>1泊2日高知城攻めの旅2日目4城目。香宗我部城は1193年に香美郡宗我郷の地頭に任ぜられた中原秋家によって築かれたとされます。中原秋家は甲斐源氏武田信義の嫡男、一条忠頼の家臣で主君の一条忠頼が暗殺されると子の一条秋通を養子として迎え入れます。秋通は地頭職を譲り受け香宗我部氏を名乗ります。戦国時代に香宗我部親秀は長宗我部国親の3男、親泰を養子に迎えます。親泰は長宗我部一門として土佐国の統一、四国の統一に活躍します。
 現地は城跡碑と土塁の一部がほんの少し残っています。土塁上に八幡宮があります。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

嫩桂山久昌寺 生駒市菩提寺・吉乃の方ゆかり (2021/07/25 訪問)

久昌寺は愛知県江南市田代町にあった寺院です。織田信長の側室・吉乃の方の出身である生駒氏の菩提寺で寺名は吉乃の方の法名「久庵桂昌大禅定尼」にちなんで龍徳寺から改称されています。老朽化と維持費の不足により残念ながら2022年に解体されてしまいましたが、天正年間の木材も見つかったりと、思ったより歴史は古かったようです。
元境内には生駒氏歴代の墓が並び、吉乃の方のお墓もあります。近くには信長と吉乃の方が逢瀬を重ねた場所や、吉乃の方が荼毘に付された場所もあります。

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しんちゃん

若桜鬼ヶ城の余った写真 (2019/05/02 訪問)

若桜鬼ヶ城は周囲を総石垣で囲まれた山城です。近世城郭の中では古いタイプの城で、ここから平山城→水堀を備えた平城といった風に城のスタイルも移行していったみたいです。誰でも高い所より低い所に住みたいですよね。
大手は三の丸の東側に繋がっていて枡形のような折れ曲がった虎口が付いています。というか枡形ですよねこれ。そこから上段に二の丸、天守台を備えた本丸へと続きます。本丸の西側には搦手があり、そこから六角石垣に続きます。登城道はこちらに着いているようです。

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しんちゃん

出石そば (2019/05/01 訪問)

出石城の周辺には出石そばの店がたくさんあります。出石城→家老屋敷→辰鼓楼→出石そば(順番は自由です)と回って行けば短時間で出石を満喫することが出来ます。出石そばは上田藩より出石藩に移動してきた仙石政明公が信州のそば職人を連れてきたのが始まりとされています。幕末のころに天塩皿にそばを盛って提供するスタイルが確立され、昭和30年代に「出石皿そば」という今の形になったそうです。通常は5皿程度のようですが、私が訪れた店は皿の数が多いです。でも総量は同じくらい。
地元では積んだ皿が箸と同じくらいの高さになると一人前の男性とみなされるようです。

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天空の郷 平川 土居庄屋跡 (2023/02/24 訪問)

紫城を主な城とした平川氏は、建武年間に、近江野洲郡平川から入部。その後、尼子氏、三村氏、毛利氏に挟まれた中、戦国期を生き残り、関ヶ原の後、毛利氏が減封されると、帰農して、領主的な庄屋となったと。
平川は、天空の郷を称しておられます。高梁川の支流の成羽川沿いから登っていくと、車道に「*合目」の表示が楽しい。登りきると、なだらかな起伏の小盆地に出ます。自動車がない時代では、下界から隔絶された感が。吉備高原は、侵食・堆積により、いったん平坦になった土地が隆起して、再び侵食が始まった準平原です。同じ準平原の大和高原と異なり、大きな川が深く切り立った谷を作っており、比較的平坦な高原上に人家、耕作地が展開されています。
集落の中に、土居庄屋跡があり、紫城訪問前に立ち寄りました。正面アプローチの石垣と敷地石垣が残っています。
庄屋跡から少し進むと、紫城の説明板かあり、そこを3kmほど奥へ行きます。

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