標高約100m笠利湾を望む丘陵地にある山城。発掘調査により、12世紀に築かれ、17世紀まで使用が確認された。国史跡。主郭までの道は確保されていたが、周辺は薮になっていた。案内板によると曲輪堀切が見られ、本土と同じような中世山城であったことがわかる。ハブが怖い。南の主郭周辺を散策し撤退した。
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2023/11/25 09:13
曲輪と堀が展開する本土と同じ土の城
標高約100m笠利湾を望む丘陵地にある山城。発掘調査により、12世紀に築かれ、17世紀まで使用が確認された。国史跡。主郭までの道は確保されていたが、周辺は薮になっていた。案内板によると曲輪堀切が見られ、本土と同じような中世山城であったことがわかる。ハブが怖い。南の主郭周辺を散策し撤退した。
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2023/11/25 09:09
大原の町を見下ろす山城
葛西七騎の一つ大原千葉氏の居城で、高さ80m東西400m南北200m丘陵に築かれた東磐井地方を代表する中世山城。別名大原城。
訪城時はすっかり夏草に覆われていたが、広い主郭2郭など明瞭で、秀吉奥州仕置に落城後、石田三成が整備したという戦国末期の様相が見て取れる。
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2023/11/25 08:29
信長生誕の城なのだ (2023/04/15 訪問)
織田信長の祖父・信定が築いたとされ、信長が生まれた頃に信長の父・信秀がここにいたことがほぼ確定して信長生誕の地としてほぼ認定されたが中心部分は河川掘削で消滅。ただ現地の勝幡城愛はすばらしく至る所に道案内がある。
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2023/11/25 01:10
丹波・但馬・播磨の名城を攻めてきました その②竹田城【但馬】 (2023/11/24 訪問)
11/24(金)に休暇を取って4連休にし、友人と名古屋から車で攻城しました。
初日(11/23)の午後に竹田城近くに到着。まずは立雲峡に登って竹田城の見え方を確認したのですが、これが大変でした。加齢と運動不足により大汗をかき行きも絶え絶えで「立雲峡テラス 光の道天望所」まで辿り着いたのですが、もう翌日も同じ事をする気力が無くなりました。
と言うわけで、11/24(金)は朝5時にホテルを出て竹田城へ。雲海は見られませんでしたが、未明から早朝の城跡は幻想的で良かったです。
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2023/11/25 00:48
2023/11/24 22:27
江戸期文献にある戦国山城杭城が昭和48年発見された
標高256m杭城山山頂を中心とし細長い丘陵尾根に展開している。詳細は不明ながら、文献により須藤刑部を城主としている。
私は東側の川が合流している地点からアタックした。そこから比高は100mほどなのだが、川岸は崖に近く、陽当たりの良い林道は薮に埋もれ予想外に難渋した。全体に荒れており充分な縄張り観察はできなかったが、それでも主郭やその東側の2郭など、土塁・空堀・土橋・切岸が明瞭で感動した。尚付近はクマ出没の危険地帯でもある。登城される方は十分気を付けてほしい。
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2023/11/24 22:19
2023/11/24 22:12
2023/11/24 22:05
2023/11/24 21:59
2023/11/24 21:39
広大な堀切が各郭の間にあり、橋で松尾城とつながっている。 (2023/11/11 訪問)
鈴岡城は信濃守護小笠原氏から分かれた(本家とも)鈴岡小笠原氏の居城で北側に毛賀沢川を挟んで隣接する松尾城の松尾小笠原氏とは対立関係にあったようです。そんな犬猿の仲の鈴岡城と松尾城ですが今ではハイキングコースにかかる橋で繋がっていて、一度に両方見ることも可能ですが、両城ともなかなかの広さで二城いっぺんに見ると中規模以上の山城を攻めたのと同じくらいの疲労感があります。鈴岡城は公園として整備されていて駐車場からすぐに二の郭の堀切にアクセスできます。主郭と二郭の間と、主郭と北の出丸の間にも堀切がありますが、いずれも広大な堀切で、これだけの堀切にはなかなかお目にかかることはできません。出丸の北側には竪堀群があり、そこからさらに降ると毛賀沢川にかかる橋があって松尾城に行くことが出来ます。
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2023/11/24 20:57
源頼朝家人葛西清重(奥州総奉行)の居城
奥州合戦(鎌倉政権と奥州藤原氏との戦い)の恩賞として葛西重清が牡鹿郡等の所領を得て石巻日和山に居城を築いたという伝承があり、また昭和58年の発掘調査で大規模な中世城館の存在がここに確認された。それが石巻城だという。立派な石碑が建っていた。遺構はないが、一段高いところには鹿島御児神社があり、城との関係はわからないものの削平地(曲輪跡)や切岸があるようにも思えた。海への眺望が素晴らしい。
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2023/11/24 20:21
天守石垣 (2023/11/23 訪問)
講師の方がこの黄色い石は平城京の礎石と言われていました
歴史を感じます。
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2023/11/24 19:29
2023/11/24 13:34
令和5年霜月紅葉の頃 (2023/11/23 訪問)
二俣城を終えて、鳥羽山城の紅葉も確認と車で鳥羽山城南の丸Ⅰ駐車場へ、既に車は14、15台位の混みよう、11時過ぎでお昼のピクニックお弁当での家族ずれも多く見受けられました、旗日勤労感謝の日です。
南の丸Ⅰから見上げる本丸方向には楓が赤く紅葉し少し東のイチョウは黄色く色付いて見頃です。
大手道から入り幅広の大手道には楓が植わってトンネルの様に成っていますが、まだ紅葉前12月に入ってからでしょうか?、大手門跡は紅葉初めの様子、大手門跡、東側の虎口方向も一部紅葉の木も有り、本丸は西の土塁側に楓が真っ赤に紅葉、東門辺りはまだまだ紅葉前、陽当たりの違いでしょうか?、搦手跡、旧笹の丸西の丸Ⅰは紅葉無し、天竜川の見通しは樹木が茂り今一、西の丸Ⅱは紅葉の楓多し、長い滑り台で子供たちが遊んでいます。
本丸西側外の鉢巻石垣辺りは紅葉の木が少なく、紅葉の木と鉢巻石垣を狙って撮影、また下り腰巻石垣も遠くの紅葉をれらって撮影、本格的な紅葉は12月に成ってからでしょうか?
1時間弱散策し紅葉前を楽しみました、チョット早かった。
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2023/11/24 11:42
81【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と松尾城(栗野城)) (2023/10/17 訪問)
(24人目)島津義弘の続き⑩です。
根白坂の戦いに敗れ豊臣秀吉に降伏した義弘は、1590年日向の飯野城からここ大隅の松尾城(栗野城)に居を移します。そして秀吉に臣下の礼をとり、ここから秀吉の命により朝鮮へ出兵します(文禄の役)。
前々回の「えびの駅」からJR吉都線・肥薩線直通の隼人行に乗り「栗野駅」(くりの)で下車しました。駅から徒歩で20分の所に松尾城(栗野城)はあります。川内川を天然の要害とする標高249mに築かれた山城です(写真①)。町の名前は湧水町。歩いていると名の如く、あちこちからきれいな地下水が湧き出ていて、町民の方々は当たり前のように水を汲みに来ていました。ここに住みこの水を毎日飲めば何だか長生きできそうな・・・🤔
復元された大手門(写真②)をくぐると、城壁には朝鮮出兵の様子が描かれていました(写真③)。義弘は初めて海外へ行く事に不安がっている兵士たちを鼓舞するためのお祭り(出陣式)を開き、その様子を描いたもののようです。
そこから階段を登った所が本丸です(写真⑤)。城跡碑と説明板があり当時の様子を伝えていました(写真④⑥)。ここは江戸期以前の島津の城にしては珍しく、本丸には石垣がありました(写真⑦)。本丸以外はシラスの土造りなので、石垣とシラスを併用した島津の城は、おそらくここだけかもしれません。
秀吉に臣下の礼を尽し朝鮮へ出兵する義弘に対し、兄の義久はこの出兵に非協力的で、名護屋で再三要望するも、船を用意しようとしません。これで義弘は朝鮮に渡海できず遅参するという大失態を演じ、義弘は露骨に兄義久への不満をぶちまけ、兄弟の間に一時溝ができてしまいます。義久はなぜ船を送れなかったのでしょうか? 薩摩ではこの時いったい何が起きていたのでしょうか? (この理由は25人目で)
そして義弘は、朝鮮から帰国後、ここから南の帖佐に館を建て移り住みます。そして秀吉から信頼され薩摩17代当主に任ぜられます。しかし表向きは受けるも、実際は義久が当主のままだったようです(でも義久もこれには怒ったはず)。そしていよいよこの兄弟の溝が埋まらぬまま関ケ原を迎えてしまいます。この先の関ケ原でも、義久はやはり軍勢を送りません。義弘はこのまま兄から見捨てられてしまうのでしょうか?
私は、本丸から城下や川内川を眺め考えてみました(写真⑧)。兄の援護がないままわずかな手勢で朝鮮へ出兵し、それなりの戦果を上げる事はできました(文禄の役)。しかし最愛の長男久保(ひさやす)が朝鮮にて病死してしまいます。兄との溝ができ、長男も失い、孤立してしまった義弘はどんな思いでこの城下や川を眺め、そして帖佐へ移る決断をしたのでしょうか? しかしその帖佐から再び義弘は朝鮮へ渡る事になります(慶長の役)。
次は、関ケ原当時の居城(帖佐館)を訪れます。
【余談】西郷隆盛と栗野
この栗野駅からほど近い所にある栗野岳温泉は、西郷隆盛が西南戦争が始まる一年前に過ごしていた場所だそうです。毎日野山を駆けまわったりして、とてもよい場所だと友人に語るほど、大変気に入っていたとか。しかし明治9年、廃藩置県と廃刀令により不平不満の士族があふれ、これを何とか静めるため、ここから鹿児島城へ向かう事になります。ここ栗野は西郷隆盛が人生を最後に楽しんだ場所だったのかもしれません(写真⑩)。
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2023/11/24 08:10
出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 2023 (2023/11/19 訪問)
出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 2023に行きました。朝一番で小堤城山城に登城し、岩倉城まで足を延ばしたりして山城シーズン到来を満喫するうちに開城時間を30分ほど過ぎてしまい、会場近くの駐車場は満車になっていたため市役所駐車場から歩いて登城しました。
会場はシライシアター野洲、野洲文化小劇場、コミュニティセンターやすの3箇所(同じ敷地内)。野洲文化小劇場のお城EXPOゾーンは、ニッポン城めぐりの「限定異名ガラポン抽選会」の列が建物外まで続いていたので後回しにして、コミュニティセンターやすで開催されていた併設企画「近江の城と観光」から。
まず3階の「近江ゆかりの武将カードパネル展」で、ニッポン城めぐりのイベント「元亀争乱」完全制覇の副賞「近江の城」を受領。大きな滋賀県全図に1300を超える城の位置が記されていて、一口に1300と云っても図示されると改めてその膨大な数に圧倒されます。城だけでなく、ゆかりの武将も多士済々で、六角氏や浅井氏など地元勢はもとより三英傑とその家臣団、足利将軍に加えて、源義経や源義仲、平宗盛の武将カードとゆかりの地のパネルが展示されていました。やっぱ滋賀県すげえ…。はす向かいの部屋では「どうする家康」出演者全身パネル展が、「彦根城を世界遺産に!」の部屋には背広姿の人がやけに出入りしているなぁ…と思っていたら、滋賀県の三日月知事が視察中でした。観光情報コーナーで滋賀県内のお城や観光地のパンフレットをもらって2階へ。
2階の「史跡永原御殿跡パネル展」で発掘調査現地説明会の資料をもらいパネルを見学していると、ちょうど紙芝居が始まるところだったので見ていきました。令和2年に国史跡指定を受けたのを機に、地域住民にも地元の史跡を知ってもらいたいという思いで地元自治会が手作りしたものだそうで、小学生にも伝わるようにと分かりやすく作られていて、小学校を40年ほど前に卒業した私も永原御殿への理解を深められました。同じく2階でのミニ講座は、安土城の回は整理券配布終了、永原御殿や彦根城は時間が合わなかったのでパスして、野洲文化小劇場へ。
さすがにニッポン城めぐりの行列はほぼ消えていたので、ガラポンに挑戦し「へいくわい者」を獲得。「甲賀者」か「伊賀者」狙いでしたが、滋賀県のイベントでもあり石田三成にちなんだ異名はこれはこれで良し。物販では、前から欲しいと思っていた「城攻めに向かってます」カーサインと職場で使う珪藻土コースター石垣(意外に重たい)、厳選24城スタンプラリー帳を入れるための半透明ブックカバーを購入。現物を目にして、城郭用語湯呑みや天守台クッションにも心惹かれましたが……きりがないのでここは自重。
続いて城びとブースでは、話のタネ(投稿のネタ)になるかな、と思って黒猫かんべー「煎七味」と超激辛「血祭じゃ」を購入。賞味期限が迫っているとして百円均一での販売でしたが、「血祭じゃ」の賞味期限を見てみると11月20日……って明日までやん!(笑) いえ、七味やタバスコ(じゃないけど)の賞味期限なんてこれまで気にしたこともないので、全然OKなんですけどね。
テーマ展示は「近世初期の近江国の交通と永原御殿」。この後は永原御殿に行くつもりなので、紙芝居に続いて予習に勤しみます。お城EXPO恒例の日本100名城パネル展をざっと見て回り、各地のパンフレットやチラシをもらったら、いったん会場を離れて永原御殿に向かいました。
永原御殿から野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)と桜生城を経て、シライシアター野洲に再入城。お目当ては墨絵師 御歌頭氏による「墨絵ライブ」です。これまでに完成品は目にしていますが、制作過程を観るのは初めてで、17分間で描き出される「安土城と織田信長」は圧巻でした。
…ということで、やはり横浜には行けそうにないので、今年のお城イベントはこれが最後になりそうです。かるたの進捗状況も気になるところですが、皆さまのレポートを楽しみにしております。
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2023/11/24 07:32
2023/11/23 23:36
松本城が見えるオープンキッチンより (2023/11/19 訪問)
松本城の北、国宝・開智学校へ行く途中に出店やオープンキッチンがあるスペースがあります。残念ながら開智学校は耐震化工事のため来年11月まで休館のようですが写真だけ取ってきてオープンキッチンに戻ってきました。ちょうど10時・開店の時間のようです。キッチンカーでホットドッグとカフェラテを購入。ちょうど野口さん一人分です。日本で唯一松本城が見えるオープンキッチンと表示があります。たまにはこういうのもいいかな‥と、思わずホットドッグに松本城を重ねてトッピングみたくしてみます。いい歳したオッサンが何をやっとんじゃとツッコミが入りそうですが松本城を見て童心に帰ったことにしておきます。ちなみに写真はピンボケでした。
よくあなたが一番だと思う城はなんですか?なんて質問をしたがる輩がいますが、こんないい城が各地にいっぱいあるのになかなか決めれるものではないと思います。そりゃ姫路城が総合力では断トツですが自分にとっては目の前にある城が、今その時の一番なんですよ。目の前の城を見るのに夢中になっているのに、他の城のことを考えてる余裕はないですからね。できるだけ自分をそういう状態にしておきたくて、休日は各地を転々と回っているわけでして。
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2023/11/23 22:52
姫路城と双璧をなす美しい天守。 (2023/11/23 訪問)
松本市の井川城を訪問したので、近くにあった松本城にも寄ってきました‥なんていうと怒られそうですが、もう一度行きたいとはかねがね思っていたのです。日中はすごい込むので萎えるし、ちょうど早朝で天気も良いし行くしかない。アルプスも先日の雪で化粧は済ましているだろうし条件が整っています。今季大河でおなじみの石川数正が深志城を改修し始め、息子の康長の代に今の松本城になったとされています。縄張り自体は可もなく不可もなくで、石垣もそんなには高くは無いのですが、とにかく天守が美しい。四重天守ぐらいのサイズの天守台に四層目と同じくらいのサイズの五層目を乗っけているので見る角度によっては少し頼りなく見えますが、角度を変えてみるとまるで違って見えてきます。付櫓や小天守をセットにすると、さらにがっしりして見える上に天守五層目がすらっと上に張り出しているので他の天守にはない極上の美しさがあります。天守だけは他の誰にも負けないぞという気迫がじわじわ伝わってきます。あまりに良い天守を造ってしまったので、やっかみを買ってそれが改易につながったという話が出るのもうなずけますね。
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