2022夏の青春18キップ14日目:大聖寺城
(2022/08/02 訪問)
勅使館からの転戦です。錦城山公園駐車場入口(36.307518、136.306465)から進入して駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に狩野氏によって築かれ、その居城となったようです。
1335年(建武2年)中先代の乱に呼応した名越時兼が南下してきた際は、加賀国の国人・狩野一党の各氏が大聖寺城でこれを迎撃したそうです。
1337年(建武4年)新田義貞に荷担した敷地伊豆守、山岸新左衛門らが津葉清文の守る大聖寺城を攻略しました。その後、戦国時代には日谷城などと共に一向一揆の拠点となりました。
1555年(天文24年)越前国の朝倉宗滴(教景)が加賀に侵攻し、南郷城・千束城とともに大聖寺城も一日で陥落させました。
1567年(永禄10年)本庄(現・あわら市)の堀江景忠が一向一揆とともに朝倉義景に反乱した際、足利義昭の斡旋により、一揆方の二城とともに朝倉方の黒谷城、檜屋城(日谷城)、そして大聖寺城の三城を焼払って和議が成立しました。
1575年(天正3年)越前を平定した織田信長の軍勢は加賀にも侵攻し、江沼郡・能美郡を占領しました。
信長は柴田勝家に命じて日谷城と大聖寺城を修復させ、戸次広正や堀江景忠を配置しました。翌年には江沼・能美両郡で一揆が蜂起したが、救援した勝家によって鎮圧されました。この際、佐久間盛政が大聖寺城主となっています。
翌1577年(天正5年)にかけて、勝家は大聖寺城の修復とともに兵力を増強し、上杉氏の南下に備えました。1580年(天正8年)に勝家は本願寺勢力の金沢御堂を攻略し、拝郷家嘉を大聖寺城主にしました。
1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れた後は、北ノ庄(現・福井市)の丹羽長秀の与力として溝口秀勝が大聖寺城に44,000石で置かれました。現在の縄張になったのは、この頃のようです。
1598年(慶長3年)溝口秀勝は越後国新発田に移封となり、替わって小早川秀秋の家臣山口玄蕃が入封しました。
関ヶ原合戦で豊臣方に付いた山口玄蕃は、徳川方の前田利長に攻められ、一日にして落城し、一度修復されたものの、1615年(慶長20年)一国一城令によりで廃城となりました。
1639年(寛永16年)3代加賀藩主前田利常の子利治に70,000石を分地して、大聖寺藩が興されました。 大聖寺藩は大聖寺城を使用せず、東麓に館を構えました。
駐車場から遊歩道を歩き、2段の曲輪を経由して、本丸に着きます。
本丸には「山口玄蕃頭宗永公之碑」の石碑が建ち、西側には土塁から続く櫓台のようなものがあります。
本丸から二の丸に行く途中の左側下方に、馬洗い池があります。二の丸には四阿、木製腰掛、木製遊具がありました。
馬洗い池を取り囲むように本丸、二の丸、西の丸が配置されているようです。
二の丸の北側に三の丸、二の丸の東側に戸次丸があるようですが、時間の都合で行っていません。
本丸の南側の堀切を挟んで鐘ヶ丸があります。鐘ヶ丸の西側に土塁(櫓台)がありました。
鐘ヶ丸から尾根続に東側に数段の郭が配置されており、東端に東丸があります。東丸の下にはパトロン事件の際に、贋金造りに用いられたという洞窟が残っています。
たくさん写真を撮りましたが10枚に絞り込みました。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=吉崎御坊に向かいます。
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