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ぴーかる

山下城 (2024/01/13 訪問)

【山下城】
<駐車場他>田福寺駐車場を利用しました。
<交通手段>車

<見所>曲輪
<感想>現地説明板によると山下城は『地誌「播磨鏡」によると、浦上久松の居城であるとされ、1532年頃築城、1566年頃に別所氏の平坦拠点基地として改修され1578年まで機能していたと考えられる』とあります。
 城跡は田福寺の南、案内があり木が伐採整備された山が見えますので適当に入り込めます。城跡は主郭に帯曲輪が取り巻き、北側下段に2郭、堀切を挟んで田畑となった曲輪があります。2郭の更に北側の曲輪は整備中でしたので立ち入りませんでした。

 城びとフラッグが田福寺の裏山に立ってあり、城跡主郭とずれているので気になり、田福寺墓地の上段まで登りアプローチしましたが、入り込めそうな場所が無く断念しました。非常に気になります。

<満足度>◆◆◇

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todo94

立入禁止 (2024/03/09 訪問)

皆さんの投稿を拝見していて大きな期待を持って昨日、赴きましたが、ゲートには南京錠がかかり「無断入山を禁ず」の表示があっては攻城を断念せざるを得ませんでした。吉川弘文館の「近畿の名城を歩く」にも所収の城なので何とか攻城できることを願っています。

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カズサン

【遠江石津砦】静岡県掛川市 横須賀城築城前の砦の一つ (2024/03/01 訪問)

 住所:静岡県掛川市山崎513(八幡神社)
 駐車場:掛川市山崎221石津公会堂
 参考資料:余湖図コレクション石津砦、グーグルマップに依る。

 高天神城未踏だった見張台を探訪の前に浜松から横須賀城経由の南回りの道を選択したので、横須賀城の西手前に在る石津砦を探訪、此処も余湖図コレクションさんの掛川市を眺めていて県道41号線上に在る事を知り高天神城登城前に初探訪、前々から横須賀城登城に通てる道で「何かあり様な雰囲気だなぁ~」と思っていました。
 横須賀城の松尾山から続く砂州上の西端地で西から登ってS字状に廻って東横須賀城方向へ降りて行く頂点に在ります、石津公会堂の駐車場は北側はゲートに綱が張って有り横の道を南に入る、交通量も少なく神社前に路駐。
 神社は公会堂より4~5m西に高く階段より鳥居を潜り境内へ特に解説板、案内は無い、境内の高い楠は存在感がある、南側の現在田圃からが10m程の高さで往時は遠州灘の入江が迫っていた思われる。

 現地解説板が無いので、余湖図コレクションさんの解説によると、家康から高天神城攻めの横須賀城築城を命ぜられ、砂州西端の微高地に砦を築き横須賀城の完成までの臨時砦としていた様子、先に投稿しました撰要寺砦も横須賀城築城前の臨時砦で入江の内陸横須賀城よりに在った様です。
 

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カズサン

【遠江大石氏屋敷】静岡県掛川市 帰農し御子孫居住 (2024/03/01 訪問)

 住所:静岡県掛川市大坂708
 駐車場:大石家南前の旧軽便鉄道南大坂駅跡広場(34°40'13"N 138°02'30"E)に駐車可。
 参考資料:余湖図コレクション大石氏屋敷、グーグルマップに依ります。

 高天神城未踏の見張台探訪の後時間に近くの何処かを訪ねようと余湖図コレクションさん掛川市内の城跡砦を眺めてると徳川高天神城攻め六砦の中村砦、三井山砦と在りその中間辺り三井山砦の近くに大石氏屋敷の解説が俯瞰図と共にあり、グーグルマップで駐車出来そうな所を確認して探訪に出掛けました。

 場所は住所の通り、旧相良・大須賀線の道路沿い高台にご子孫の方がお住まいで元の屋敷跡より東下に現代の長屋門が南側に控えお屋敷です、庄屋さんを勤めていた様です。元屋敷跡は現在の屋敷より西の高台に在った様で茶畑、ビニールハウスが西、北側山野樹林に囲まれてそのエリアを護ってるように見受けられます。
 旧相良大須賀線道路からは見上げる様な位置関係に在ります。私有地ですから外から見上げて若干坂道から裏の畑辺りまでを眺めて終わりにしました。
 
 特に案内板は無く歴史等は現地で確認できませんが余湖図コレクションさんの解説によると、天正2年(1575年)大石義久・久末父子は徳川方の一員として高天神城に籠っていた。5月の武田勝頼による高天神城攻撃によって大石義久は戦死、高天神城開城後大石久末は馬伏塚城の大須賀康高に属し高天神城奪還に活躍した。天正10年武田氏が滅亡した後は地元に帰農して名主となったという。

 また南前に旧軽便鉄道南大坂駅跡に軽便鉄道の解説板が南大坂駅名板状に成っており写真付きで昔の風情を醸しています、区間は袋井から南を通って藤枝間営業距離64.6kmとの事、昭和42年廃線、一部藤枝側が昭和45年廃線と成った。小さいですが公園広場に成っており昔の縁を偲ぶようでも有りました。
 
 
 

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Tokyobay

昭和感がある佃島とタワマンがある石川島との対照性 (2023/02/26 訪問)

佃島初上陸。まず砲台跡へ。薩英戦争の後に出来たらしいので品川台場よりも10年後になる。元々は家康が大坂の漁民を連れてきたことが始まりだが、幕末は江戸城を守る防衛拠点だったことがわかる。そして「島」部分へ。イッキに昭和にタイムスリップしたような街並みだが、背後にはタワマンがそびえ立つ。「島」部分は堀のように囲まれているので、元々島であった痕跡がよくわかる。
次に橋を渡って「灯台」へ。ここはもう石川島で(住所は佃島なのでややこしい)元々は長谷川平蔵が松平定信に提案し設置された「人足寄場」。要するに刑期満了者の収容施設(その後明治期には監獄に、そして巣鴨→府中へと移転)なわけだが、再開発で様変わり。佃島と石川島の違いが際立つ。佃島のメインスポットは「東京の」住吉神社で、タワマンに囲まれた異空間に鎮守。老舗の佃煮屋前には都外ナンバーが何台か駐車しており、遠方から買い求めにきていることがわかる。最後に佃大橋から佃島を見て、まさに異空間であることを再確認。

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JPN-AZE

Mostly finishes (2024/03/03 訪問)

2024年3月3日、長野県長野市松代町にある、松代城へ登城。この日は、近くにある、象山神社の流し雛を見る為に来たのですが、先に城に寄りました。結構静かで、ウォーキングの方が一人か二人いるだけでした。この雰囲気、好きです。早朝なのもあったのか、天守台から、霞が見えました。橋の架け替えが、もうほぼ終わりの様な感じでした。

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JPN-AZE

With open space (2024/01/08 訪問)

2024年1月8日、埼玉県川越市にある川越市へ登城。玄関前が大きく変化してました。以前は、玄関前は普通に道路があったのですが、いつの間にか、広場が設けられてました。道は、その分曲線になってました。展示内容は、恐らく変わってないかと思います。そして、ちょっと離れた所にある、中ノ門堀も見ました。

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mae

大掘切と石垣 (2024/03/09 訪問)

西側の郭の先端にあります。

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朝田 辰兵衛

東農協前バス停からの案内が充実💡))) (2024/02/11 訪問)

秦野駅前4番のりばから,神奈川病院ループのバスに乗りました。東農協前バス停から約20m戻った交差点からアクセスします。この交差点から案内が充実していて迷うことはありませんでした。受け入れ側からすると,案内を充実させることで,無関係な場所への不用意な立ち入りを防止する観点もあるのでは…とも考えました。
復路もこの神奈川病院ループのバスを利用。同じバス停です。違う系統のバスも存在しており,逆方向へ戻るためのバス停も向かい側にありましたが,本数は少なかったです…。

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ぴーかる

佐味城 早速行ってきました!(^^)! (2024/03/09 訪問)

佐味城、早速本日に行ってきました。墓石の真ん前の柵に針金があって、外して開ければ難なく入れました。よく見ると、踏み跡の大手道が柵の外からでも見えていました。前回行った時は、①車を駐車する所が見つからず、県道30号線の道路脇の私有地みたいなスペースに停めたこと。②思いもよらず、柵が設けられてしまっていたこと。③この日に奈良県をコンプリートする為にプランを詰め込み過ぎたこと。この3つの原因が重なって焦って進入口を見落としていたようです。
 イオさん、しんちゃんさん、とある煩悩の登城目録さんのお三方のおかげで攻城が果たせました。素晴らしい城跡でした、ありがとうございました。城びとの訪城者が約10年ぶり、たて続けに4人も来たら佐味城のほうもビックリしたかも、なんてね。
 投稿の順番待ちのお城が37城も溜まっているので、佐味城の投稿がだいぶ先になりそう、まずはお礼まで。

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橋吉

松平の衰退のはじまり (2024/03/02 訪問)

織田信光(織田信長の叔父)の居城で、徳川家康の祖父・松平清康が亡くなり、松平の衰退に至った森山崩れが起きとところです。。

矢田川の河岸段丘を利用して作られています。
現在は、閑静な住宅地の中になっています。

二階建てアパート(その名も城跡荘)の奥に城跡がありますが、円形古墳のような感じで
出丸の一部だったのではと推察されます。
城跡の西、数軒の住宅を含めた部分および南側の宝勝寺が城域だったんじゃないでしょうか。
北400mほどのところにコインパーキング(名鉄協商パーキング 鳥羽見第2)がありますが、宝勝寺も寄るのであればお寺の駐車場にとめるのもよいかと思います。

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チェブ

狭い道からの 広い本丸ファーム。 (2024/02/10 訪問)

「戸崎城」から「穴倉城」に向かいました。
こちらの「穴倉城」も、佐竹氏の秋田移封後、廃城しました。

県道118号をドライブしていると、ナビは左折を案内しました。すると『穴倉城 本丸入口』の案内板が現れ、左折。(これが、その後 大変な事になりました。)
細い道の先に『道が狭い為 車が進入できません』の立て札があり、そのまま駐車しました。
目の前には土橋が本丸へと続きます。
藪の中に空堀。別れ道の右手は高くなり本丸方面。左手は更に奥に進めます。
先ずは本丸に上ると、「戸崎城」と同様に広い本丸ファームでした。「穴倉城」の説明板があります。
別れ道の左手の奥は、郭が広がります。耕されてはいません。

さて、次は何処に向かおうかと車に戻ると、この場所では方向転換できません!
細い道を、ひたすらバックで退陣しました。150m位だったと思います。小さな軽自動車なのに壁スレスレです。写真②です。

何事もなく「穴倉城」を脱出した時は、2月なのに汗びっしょりでした。

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トク

「水郷柳川」日帰り散歩⑤(天守跡で新発見?) (2024/03/04 訪問)

日帰り散歩④の続きです。北原白秋の歌を口ずさみながら、掘割り沿いを歩き、柳川城の本丸天守跡に着きました。今は何も残っていませんが、ここには天守台の石垣とその上に五重の天守が建っていました(写真①②③④)。

関ケ原当時は、ここは立花宗茂の居城でした(写真⑤)。そして関ケ原後には田中吉政が、石田三成を捕らえた功績で、岡崎10万石から筑後柳川32万石に加増されて1601年に入り、その五重の天守を築きました。明治5年までその天守は残っていましたが、火災で焼失したとの事です。その明治期の写真が説明板にありました(写真⑥)。それをいつものように眺めていると(ん?🤔)ここで新たな発見が・・・ 天守部分を拡大してみます(写真⑦)。この写真、どこかの城にそっくりだと思いませか? そう岡崎城に何となく似ていると思いませんか?

そういえば岡崎城を建てたのも田中吉政(家康時代は土造りの城)、柳川城の天守を建てたのも田中吉政(宗茂時代は土造りの城)です。そう普通に考えると、ここには岡崎城にそっくりな天守が建っていたとしても、何の不思議ではない気がします。

でもよく考えると、吉政は岡崎城の天守台までは造りましたが、実際に建てたかはわかっていません。その後に入った本多康重・康紀父子が、吉政の天守台を拡張して1617年に三重の天守を完成、その天守が明治の廃城令まで残っていたとされています(現在は模擬天守)。

ならば、なぜ先に完成した柳川城が後に完成した岡崎城に似ているのか? あるいは、本多父子が吉政の指南を受けながら柳川城をまねて岡崎城を築城したのか? あるいは、吉政はmini版の岡崎城を築城していて、本多父子は単にそれを拡張して造り変えただけなのか? はたまたこれは単なる偶然なのか? それとも私の目の錯覚なのか? 疑問が尽きなくなりました。

はたして真実は?
お聞かせ下され吉政殿~!(写真⑧⑨⑩)
 

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にのまる

ゼリーフライ (2024/01/07 訪問)

行田市のご当地グルメ“ゼリーフライ”。
何度説明を聞いても、最初に思い浮かんだ揚げパンの中にポイフルが入っている絵面が頭から離れず(>_<)

百聞は一食に如かずということで、忍城の近くの【かねつき堂】さんに行ってきました。
忍城から移設の鐘楼がシンボルで、宛ら『かねつき曲輪』といった感じです。

ゼリーフライとふらい焼きそば(小)を店内でいただきました。素朴で懐かしいほっとするお味で、小腹が空いた時のおやつにも、がっつりお食事にもいけそうでした。お持ち帰りのお客さんも次々といらっしゃっていました。
あっという間に完食しました。ごちそうさまでした😋

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しんちゃん

吉田城 さんぽ (2024/03/08 訪問)

2023年に行われていた吉田城(豊橋)の石垣修復に伴う解体と発掘調査で、新たな石垣刻印が発見されたと今さらながら知りました。何でも13個も見つかったそうですが、多くは元の石垣の修復のために戻されてどこにあるのかよくわかりません。まあ実際、石垣の内側など見えないところに刻まれていたので、すでに確認は出来ない状態だとは思います。
毛利秀就の「二」の刻印も見て見たかったのですが、いかんとも‥。ただ南多聞に使われていた蜂須賀至鎮の「山田」の刻印の入った石はいつでも見ることが出来ます。交換用の石垣とされたので南多聞の片隅に、誰にでも見えるように置かれているんですね。
地元の良い所は仕事帰りに散歩がてらに寄ることが出来るんですね。こういう時、地元は有り難いです。「山田」の刻印石は蒲郡市西浦町で採取されたと見られています。刻印の田の部分にのこっていたゴカイの巣からわかったようで、名古屋に運ばれずしばらく放置されたためと見られています。ということは名古屋城の石のおさがりでなく直接、吉田城に運ばれてきたということですね。
蒲郡の医王神古墳に残されていた矢穴石(しかも割ったあと)も不要になったため現地に残された可能性もあるわけですね。困ったものですね毛利秀就さん。

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ぴーかる

厳しい意見ですが、メガな遺構の見応えはあまりない。 (2024/01/13 訪問)

【妻鹿城】
<駐車場他>駐車可能場所あり。カズサンさんの投稿を頼り<34.796999, 134.694601>砂利敷3台分の場所に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>竈門跡・眺望
<感想>妻鹿城は国府山城・甲山城ともよばれ、現地石板碑には元弘の頃妻鹿孫三郎長宗が築城したと伝えられる。1573年に黒田職隆が新たに築城し、天正13年職隆が没するまでの居城としました。天正8年に子の孝高が羽柴秀吉に姫路城を譲ったあと黒田孝高も居城(実際は三木城攻めに従軍したり、有岡城に幽閉されたりしてほとんど住んではいないが)としています。
 城は市川の東側に沿った甲山という独立した山に築かれています。北東から南西にかけて尾根が走っていて尾根の東側が比較的緩やかなので曲輪が伸びています。尾根の西側は市川が流れて急斜面で曲輪は少ない構造です。南にある荒神社から登山道があります。荒神社にトイレ・城跡碑があります。遺構としては門跡、門跡を少し登ると竈門跡があります。登山道に竈門跡の矢印板が道の左手方向にありますが、逆に右手方向に入って下さい。こちらの方が明瞭な石積みの竈門跡が3基程確認できます。矢印板左手の竈門跡は石が無くなっています。竈門跡から一旦登り上がった段があります。左右に長い馬場跡のような帯曲輪です。左方向に進んで、経塚跡からは市川と西方向の眺望が良いです。山の尾根に取り付いて北東方向に進みます。薄くなった堀切があり、すぐに平坦な感じになります。右手に曲輪跡が続いて主郭に至ります。主郭からも西方向と北西方向の眺望が望め姫路城が見えます。主郭から北東方向に進み庭園跡、巨石のある磐座、尾根曲輪の北東端の北曲輪が広いです。北曲輪からの方が姫路城が近く見えます。表面観察では堀切が1条、横堀・竪堀も見受けられず、強い防御性はあまり感じられませんでした。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

なぜか最近人気の佐味城 城びといらせり (2024/02/24 訪問)

先日、佐味城の投稿で「なんとなく足音が聞こえている気がする」と書いたのですが、すぐ近くまで来ていたとは‥最近佐味城に熱い注目が集まって来ています。元々はぴーかるさんとイオさんのやりとりから始まっているのですが、独特の縄張りをしていることもあって人気の城になりつつあるようですね。この勢いが続けば坂本城に続くムーブメントになるかもしれません。(城びと限定ですが)問題はアクセスなんですね。車で行くかタクシーで行くしかないようです。
主郭周辺の写真を載せてなかったので無印で投稿しちゃいます。主郭は二段構造になっていて西側の方が少し高くなっています。藪化しつつありますが十分歩けます。西側には土塁が残り、その先は堀切が走っています。堀切の先は散策していません。ここに至るまで郭を7つも見て、主郭と東と南の堀切(けっこう大きい)を堪能して来たので、けっこうおなか一杯になりました。主郭東側の堀切は面白かったですね。けっこうな幅があり、堀の間を土塁で仕切ってあるんですね。まるで小さな郭のようでした。
帰りは大手を降って行きます。行きで苦労した分、帰りは楽でしたね。大手の下りは礫石が敷いてあるのでわかりやすいです。麓の方にも郭があって土塁が残っていました。ここで山に登る人間をチェックしていたのかもしれませんね。
あとは突き当りのフェンスの四隅を針金で巻いてある部分の片側を解いてやれば外に出れました。入るときにはここからが推奨になりますね。余呉クンのお城のホームページさんの縄張りを参考にさせていただくと解りやすいですよ。有難うございます。
ちなみに とある煩悩の登城目録さんとはエリアが近いこともあってか最近登城した城がすごくかぶっているんですね。どこかで合っているかも知れません(お城EXPOとか)。投稿もけっこうかぶってしまうかもしれませんが、その際はご容赦くださいませ。

イオさんはすでに登城されていますので、あとはぴーかるさんですね。すでに大手は赤じゅうたん状態ですよ(礫石ですが)。

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カズサン

東の丸下土塁竹藪伐採中 (2024/03/07 訪問)

 昨年本丸の東面崖切岸の樹木を伐採整備して本丸周りがスッキリしたのですがその下側の東の丸下土塁に竹藪密集状態で土塁法面、竪堀などがハッキリ確認できない状態でした、本丸東面が整備されたので竹藪密集の東の丸あ辺りが伐採整備されるのかな?と昨年秋以降気に成っておりましたが昨日先ずは確認へと曇り日でしたので出かけました。(途中から小雨に成りました)
 何と!東の丸下、東の丸下隅櫓台辺りが一部、竹藪、田圃の葦が伐採、草刈されて居ましたので途中状況の写真を投稿致します、また本丸に在った久野城址大看板が無くなっており鉄骨が残るだけでした、今後新しくなるのか?分かりませんが要経過確認です。
 染井吉野桜前の早咲きの桜が咲いていましたので桜景観写真、昨年久野城保存会が受賞した日本城郭協会大賞受賞幟が誇らしくたなびいて居ましたのでその写真も投稿致します。
 染井吉野が咲く頃には東の丸竹藪もスッキリ伐採整備されてる事でしょう!
 
 駐車場:専用駐車場は北の丸下、トイレ完備
 
 

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カズサン

【遠江三井山砦】静岡県掛川市 徳川高天神城攻め六砦の一つ (2024/03/01 訪問)

 三井山砦は高天神城から南に直線で約2.5km程に位置し、小笠山から南に伸びた標高95m程の丘陵先端に在る。中村砦からは西に約2.5km程の位置です。
 住所:静岡県掛川市大坂(大浜公園)
 駐車場:大浜公園展望台、中腹駐車場、堀切緑橋下(34°40'32"N 138°02'03"E)路駐・・大浜公園入口交差点から北約450m程登城口。
 参考資料:余湖図コレクション三井山砦、グーグルマップ、掛川市発行高天神城家康読本。

 余湖図コレクションさんの三井山砦を拝見し車で上がれるとの情報で登城を決意、相良・大須賀線の旧道の大浜公園入口交差点から北に進行して砂防ダム横を通り緑橋を目当て登るが良く分からず4、5回褶曲して大浜公園展望台へ出る、展望台に大浜公園案内図が有り大浜公園三十三観音巡りの案内と三井山砦が小山で描かれ、橋のマークが載ってるが三井山砦への指示板も無く森林の中の山道を歩くのも不安になり、余湖図コレクションの案内をよく確認して登って来た舗装道を徒歩で下り、下り道からは緑橋がよく確認できる。

 緑橋下は大堀切に成っており(当時の物か現代の造成か分かりませんが?)、大浜公園側と三井山砦を橋でつなげてる、緑橋下左手大浜公園側に砂防階段の様な階段が有り登ると緑橋西に着く、橋を渡り数段の階段を登ると三井山砦領域で平場に成っており主郭から南に降りてる段曲輪が見上げられる、主郭の西側に北東に向かう登り路、杭列に綱が張られて谷側防御散策路に成っている、尾根筋に登ると南に向かって主郭へ、主郭内には標柱「三井山砦六砦の一つ」と記されてる、また主郭には小さな五輪塔を集めた基壇に供養塔、平石盤に刻まれた仏様三体の仏塔が祀られている。
 主郭南側には低い土塁が確認されて、南を見下ろすと登りに見た段曲輪を見下ろす事が出来る、主郭何と側に堀、溝のへこみが有るがよぅ分からない。
 主郭には標柱は有るが、中村砦に在った様な縄張図付き解説板は無く少し残念な思いです。

 徳川高天神城攻め六砦の三井山砦、中村砦、獅子ヶ鼻砦(H29.2.4登城)の三つを探訪、最大の小笠山砦は比高が高く今のところ探訪の予定は無い。低くて車でそこそこ行ける辺りが私には丁度良さそうです。
 


 

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todo94

実家から3番目に近い城 (2024/01/02 訪問)

旧榛名町の城ですが、実家からの距離は城びと登録の城の中で高崎城と僅差の3番目に近い城です。(北新波砦が1番、高崎城が2番。)里見氏発祥の城として、先月放映された「英雄たちの選択・選~戦国パイレーツ里見一族の野望」にも登場してうれしくなりました。入口の表示はすぐに見つかりましたが、標柱と説明板にたどり着くのは少し難しかったです。

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