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伊達輝宗 (2023/09/29 訪問)

 大内氏の城で、宮森城を上館、小浜城を下館というようです。
この城が有名なのは伊達輝宗の拉致事件だと思います。大内氏が去った後、伊達政宗の父輝宗がここに在城していましたが、和議の御礼のために訪れた二本松城主畠山義継に拉致され、阿武隈河畔粟の須で最期を遂げました。輝宗の死に関しては自分が読んだ小説などでは、拉致された現場にかけつけた政宗が鉄砲を撃たせ敵方とともに撃ち殺したことになっていましたが、畠山が輝宗を刺殺したなどの説もあるようです。

 主郭周辺に曲輪を思われる曲輪を思わせる削平地がありますが、どこまで当時の地形かわかりません。また藪になっていて散策はしませんでした。

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大内定綱 (2023/09/29 訪問)

  大内氏の居城で主郭は公園として整備されています。吉川弘文館から発売されている「続・東北の名城を歩く」を見ると18の郭があるようですが、主郭からざっと見渡すとそれらしい地形を見ることができます。ただ整備もされていなく私有地のような感じでしたので散策はしていません。
 ここの城主であった大内定綱は紆余曲折あり、最終的には伊達政宗の重臣となるのですが、興味のある武将のひとりです。

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政宗の撫で斬り (2023/09/29 訪問)

 天正13年、伊達政宗がこの城を落とした時に、兵のみならず城にこもっていた老若男女を含め800人(1000人という説も)を撫で斬りにしたと伝わっています。最上義光宛ての書状には人のみならず犬までも撫で斬りにしたとあります。主郭と思われる愛宕神社までは登城口から少し急な坂ですが、一直線の道があり迷うことはありません。説明板には「今なお残る石塁」とありましたが、どこのことでしょうか。神社周囲にそれらしいものはありましたが、当時のものか否かはわかりません。

 二本松駅からバスに乗り宮の平バス停下車。徒歩約10分で登城口に行くことができます。

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本庄繁長 (2023/09/28 訪問)

県庁周辺が城址です。土塁の一部が県庁裏に残っていました。阿武隈川と荒川を天然の堀とする城です。縄張り図を見ていると在りし日の姿を観たかったなと思いますが、遺構はあまり残っていません。

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伊達成実 (2023/09/28 訪問)

 伊達政宗の重臣伊達成実生誕の城と伝わっています。大森城山公園として整備されています。遺構はあまりないと思われますが、空堀が一部残っています。物見櫓がありますが、入口にある看板に「この建物は時代考証により復元したものではありません」と書かれていました。

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伊達氏発祥の地 (2023/09/28 訪問)

 初代、伊達朝宗の居城で、この地は伊達氏発祥の地と伝わっています。登城口から一直線に亀岡八幡宮への道があり、容易に主郭と思われる場所に行くことができます。他にも曲輪を思わせる削平地はありますが、遺構か否かはわかりません。

 ところで、頂上へ行くと「高子二十鏡 丹露盤」の標柱があります。調べてみると伊達市のHPに「『高子二十境』は、江戸時代中ごろの高子村の文人、熊阪覇陵(はりょう)が、高子村を中心に景勝地を選び、漢詩を読んで楽しんだことに始まるといわれており、高子二十境の名称を中国の当時の都『長安』の東にあった『網川二十境(もうかわにじゅっきょう)』にならって名づけたと考えられています。」と記載されていました。確かに頂上からの眺めはいいです。

 阿武隈急行高子駅から徒歩約5分で登城口に行くことができます。

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徳川宗春 (2023/09/28 訪問)

 伊達氏11代持宗から14代稙宗まで伊達氏の本拠地であった城址です。ここは伊達氏に続いて蒲生氏、上杉氏の領地となっています。その後、尾張藩主徳川光友の3男松平義昌が梁川藩3万石を立藩しました。梁川藩は4代通春が尾張本家を継いだため廃藩となりました。この徳川通春は徳川宗春のことです。天領などを経て、幕末には松前藩領となり明治維新を迎えました。かなりおもしろい歴史を持った城だと思います。土塁や復元された本丸の庭園などを見ることができます。

 阿武隈急行のやながわ希望の森公園駅から徒歩5分くらいで行くことができます。梁川駅から歩いても約15分です。

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しんちゃん

国史跡 大内氏の城 (2020/01/05 訪問)

鏡山城は大内氏の安芸支配の拠点として築かれ城代が置かれたと有ります。
戦国期の大永3年(1523)尼子経久によって奪われ、大永5年(1525)に大内氏が
取り返しますが、拠点を杣城に移し鏡山城は廃城になったとされています。
大手は南側に付き、多くのダバ(段場)と竪堀や畝状竪堀群を備えます。
馬のダバの南側あたりに畝状竪堀群が付いているようなので訪れる際に、ご確認
いただければと思います。

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初芽

馬出がすごく綺麗に残っている! (2023/09/30 訪問)

滞在時間:1時間ほど

前回訪問時にできなかった篠山城の
馬出(東、南、大手)を
さんぽしてきました!

中に入って守る側の気持ちになってみたり、
外から攻める側の視点で歩いてみたり。
お城は見方によって違った魅力が見えてくるのが
面白いです。

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しんちゃん

静岡の語源だったりする。 (2021/02/28 訪問)

賤機山城は静岡浅間神社の背後に丘のように長大にそびえる賎機山の尾根上一帯に
築かれた今川氏の詰めの城です。静岡の語源にもなっているらしく静岡市民にとっては
象徴的な山でもあると言えるのではないでしょうか。ハイキングコースになっている
ようで冬場でも結構な人が登っておりました。いくつか扁平地が存在し、本丸には
城址碑があり土塁も一部残っているようです。南西側に張り出した尾根には籠鼻砦が
あり、賎機山城の城域からアクセスが可能です。途中大きな堀切で遮られ難儀しましたが
郭までたどり着くことが出来ました。今川館の詰めの城にしては、いささか洗練されて
いない気がしますが良く考えたら今川方の山城ってあまり手の込んだ造りではないんですね。
武田や北条の山城が凄すぎるので比べるとおよよになるんですね。くわばらくわばら‥

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朝田 辰兵衛

高良山神籠石散策2/2(高良山山道ルートで高良大社を) (2023/07/11 訪問)

大分県の攻城から2日が空きました。攻城当日に福岡天神まで高速バスで移動しましたが,玖珠あたりから鳥栖まではすでに災害級の豪雨となっていました。翌日,福祉関連のミッション終了後,西鉄天神大牟田線で久留米に移動を考えていましたが,雷による設備故障とのことで全線運転見合わせの悲劇。急遽,JRで久留米へ。西鉄が全線運転見合わせなんて,初めての経験でした。この時,イヤなことが頭をよぎりました。『しりとりの年,筑後川が氾濫し,久留米側は水害。そんな中,対岸側の江迎城を攻城したな…』と。
イヤな予感は的中。翌日,久留米の公共交通機関は壊滅状態になっていました。終日ホテルの部屋で,福祉関連の書類を校正(持ってきてて良かった…)。

さて当日朝,JR久大本線は動いておらず。路線バスで久留米大学前まで。片道【210円】です。徒歩約20分で,高良大社の鳥居に到着。ここにパネルが設置されており,神籠石もピックアップされてます。
車での攻城ではタイパ悪いだろうな…というルートで散策を開始。
往路は,参道を使って一旦車道に出て,神籠石が遺っている山道を登って高良大社へ。
復路は,参道ルートを車道に変えて,車道ワキの神籠石を散策。

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しんちゃん

滝山城 愛知県岡崎市宮崎町 (2021/05/29 訪問)

滝山城は愛知県岡崎市の滝山(標高380m)の山頂に築かれている城で奥平氏が
築いた城とされています。比高は240mほどで登城道があるんだか無いんだかよく
わからない城で尾根上を直登になります。麓や周辺には奥平氏ゆかりの館跡が点在し
さながら奥平の郷といったイメージです。洗練された山城といった感じでは全く無く
尾根上に扁平地が点在するといった状態ですが城跡にはしっかり城址碑があります。
下山する際に滝があったのですが周辺は岩場が多くいささか危ないです。かつて
武田方から離反して武田勢に周囲を囲まれた際に徳川方の援軍を得て逆に武田方を
追撃して田原坂で合戦(滝山合戦)に及んだそうです。

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織田晃司

ゴルフ城 (2023/09/16 訪問)

フェアウェイとウォーターハザードのコース。
主郭がグリーンとなりますが実は主郭のみラフです。

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朝田 辰兵衛

高良山神籠石散策1/2(高良山参道ルートを) (2023/07/11 訪問)

大分県の攻城から2日が空きました。攻城当日に福岡天神まで高速バスで移動しましたが,玖珠あたりから鳥栖まではすでに災害級の豪雨となっていました。翌日,福祉関連のミッション終了後,西鉄天神大牟田線で久留米に移動を考えていましたが,雷による設備故障とのことで全線運転見合わせの悲劇。急遽,JRで久留米へ。西鉄が全線運転見合わせなんて,初めての経験でした。この時,イヤなことが頭をよぎりました。『しりとりの年,筑後川が氾濫し,久留米側は水害。そんな中,対岸側の江迎城を攻城したな…』と。
イヤな予感は的中。翌日,久留米の公共交通機関は壊滅状態になっていました。終日ホテルの部屋で,福祉関連の書類を校正(持ってきてて良かった…)。

さて当日朝,JR久大本線は動いておらず。路線バスで久留米大学前まで。片道【210円】です。徒歩約20分で,高良大社の鳥居に到着。ここにパネルが設置されており,神籠石もピックアップされてます。
車での攻城ではタイパ悪いだろうな…というルートで散策を開始。
往路は,参道を使って一旦車道に出て,神籠石が遺っている山道を登って高良大社へ。
復路は,参道ルートを車道に変えて,車道ワキの神籠石を散策。

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しんちゃん

雨山合戦 (2021/05/29 訪問)

雨山城は阿知波氏の城とされ、作手の城主奥平貞勝を後ろ楯にして織田方に属し
今川方と対峙していたと宝篋印塔近くの案内板に書かれています。弘治2年(1556)8月、
今川方の野田城主菅沼織部正定村と弟の宇利城主新左衛門、山吉城主半五郎定満らが
長山より風吹峠を越えて攻め込んで来たとあります。(雨山合戦)今川方の三将は
この戦いで討死し、奥平・阿知波方の勝利となりましたが、最終的に今川方の大軍に
阿知波氏は敗れたとあります。雨山城へは主郭の後ろから回り込むように登城道が
ありましたが(21年5月時点)主郭は物見のような郭くらいしか確認できず全体は
不明のままでした。単郭の城郭というよりは砦のようなイメージです。城跡のすぐ近くに
雨山合戦場跡の石碑と、この戦いで討ち取られたという菅沼定村の宝篋印塔があります。

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しんちゃん

散策道が用意されており堀切と土塁を楽しめる。 (2022/09/03 訪問)

社山城の登城道は北側に付いていて、途中に堀切があります。そのまま簡単に
主郭である一の郭にたどり着き、城名の示すとおり八幡神社が鎮座しています。神社の
背後には土塁が残っており、一の郭の東には堀切を隔てて郭が広がり間を堀切で隔てて
二の郭と三の郭を仕分けているようです。雑草がうっそうとしていますが、散策道が
用意されており比較的遺構も残り、お手軽に山城の良さを味わうことが出来ます。

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しんちゃん

玉城  岐阜県不破郡関ケ原町玉の城山 (2023/04/08 訪問)

玉城は関ヶ原古戦場の西2kmあたりにある城山の山頂に築かれており、最近では
関ヶ原の合戦に際し西軍の大将(毛利氏か豊臣秀頼?)を迎えるため整備されたという新説も
出ているようです。城域は北東から南西側に伸びた瓢箪のような形状をしており北東部の方が
標高が高く東屋のあるあたりが主郭と見られます。山頂部全体が扁平地になっているように
思われますが縄張り図を見ると段差があるようで主郭へは南側がら北西へ時計回りに
回り込んで侵入するようになっているようです。山頂部の南西から北西までの一帯を
広い帯郭のような扁平地が囲っていて城域全体に横堀や竪堀が放射状に配されているようです。
南西部は南北に堀切が縦断しておりその周辺から北西までの一帯では目視で竪堀や堀切を
確認することが出来ます。
大正時代に名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠の敷地となり麓に哨戒所と門が残ります。
注目を集めるのがもう数年早ければ城びとにも登録されていたかもしれない山城で
関ヶ原町を訪れた際には、お時間に余裕があれば訪れてみてはいかがでしょうか。

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カズサン

2度目の多賀城ダイジェスト版 (2023/09/18 訪問)

 7年振りに多賀城探訪、今回は外郭復元南門が主目的の訪問ですが、写真を百枚近く撮りましたので7編に分けて投稿させて頂きましたが、何か訴えるものがぼやけたようで、再投稿の写真を含めて10枚に絞った気に入りの写真を投稿します。
 長々の投稿ご覧いただき感謝申し上げます。ありがとうございました。
 この後は本来の目的、宮沢遺跡探訪と城びと未踏城郭の探訪へ、宮城県福島県栃木県を訪ねます。
 

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カズサン

展示案内解説板諸々(7/7) (2023/09/18 訪問)

 2度目の多賀城訪問、政庁跡南門から1段降りた処に、政庁復元模型、多賀城の変遷、多賀城の概要が解説盤として設置されています、しばし勉強の時間と読み眺めていました、特に東北城柵の配置、変遷時期が目を引きました1300年の歴史が刻まれています。
 目に付いた案内板、解説板を投稿します。
 

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カズサン

政庁東殿跡周辺(6/7) (2023/09/18 訪問)

 7年振りの多賀城再訪、桜の時期の初登城、2度目は秋の彼岸前彼岸花が若干咲いてる時期の残暑厳しい日。
 政庁跡を北殿・後殿・正殿・正殿前石畳、南門・両翼廊跡をサラッと見学し、今回目的の外郭復元南門、工事中の両翼版築塀の現場に向かいましたので、西殿跡、東殿跡は遠目で追うだけ、南門から政庁跡へ上がって、東殿跡、正殿を南から観察撮影しましたので投稿させて頂きます。
 南門が竣工したら政庁正殿の復元が待たれますね?
 

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