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ダイエティシャン

湯村中山城Ⅱ (2021/06/15 訪問)

綺麗に整備されていました。

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ダイエティシャン

湯村中山城Ⅰ (2021/06/15 訪問)

偶然見つけた湯村中山城を攻城。鳥取市吉岡温泉町にあります。鳥取城から南に数分。

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ダイエティシャン

鳥取城Ⅱ (2021/06/15 訪問)

念願の天球丸

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ダイエティシャン

鳥取城Ⅰ (2021/06/15 訪問)

念願の天球丸

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カズサン

城名石碑だけでも有難い (2023/11/12 訪問)

 常陸吉田城を終えて水戸城方向へ移動し丁度中間に在る武熊城に初登城。水戸城からは南東に1.5km程の水戸市竹隈市民センターの東角に城名碑が側面に由来書きで立っています。

 駐車場:水戸市竹隈市民センターの駐車場を利用
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。

 竹隈市民センターに車を駐めて、東角の有る城名石碑を確認、側面の由来書きを確認し、周辺を確認するが住宅地、竹隈市民センター東角の生垣の中に石碑が立っている、ごみの集積地の様で黄色いネットが置かれてる。

 石碑の由来によると、かってこの地には東西550m南北400mに渡り武熊城が存在した。吉田の豪族石川望幹が築城したと伝えられる。その後江戸氏の支配を経て、天正18年(1590年)佐竹氏が水戸城を攻略し城主となるに及んで、一族の東義久の居城となった。
 佐竹氏移封後は廃城と成った。慶安4年(1651年)柳堤築造の時、採土されて城跡は無くなった。と記されています。
 
 この後近くまで来ましたので水戸城へ、イチョウのモミジを観たさに寄りました。
 
 

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WEST

大洲城探訪 (2023/11/22 訪問)

大洲城を訪問しました。河後森城から自動車にてのアクセスで、駐車場は大洲市観光第一駐車場を利用しました。(無料です)
大洲城の歴史は鎌倉時代の宇都宮氏から始まり、現在の天守の姿は慶長年間に築城されたのこと。しかし、明治時代に天守が取り壊されることになり、天守好きには残念なことです。
とはいえ、平成時代に木造復元天守として再建、楽しみにして登城しました。他の見どころは平成時代に再建された木造復元天守と当時からの建物である4つの櫓、下台所です。
また、麓には城下町としての街並みと現存する南隅櫓が残っており、登城後の散策にピッタリです。南隅櫓の内部も見学できますので是非寄ってみてください。
最後には肱川越しの天守を撮影するために肱川橋まで行ってきました。大洲城の守りの固さがわかります。
なお、大洲城は、日本初の城泊「大洲城キャッスルステイ」ができるとのこと。城主気分にて宿泊したいものですね。

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WEST

河後森城探訪 (2023/11/22 訪問)

河後森城を訪問しました。交通の便を考えて、自動車での訪問です。登城は風呂ヶ谷駐車場からとなります。駐車場にはパンフレットが用意されていますので、登城の参考になります。
河後森城は山城ですが登城路は整備されており、軽装でも登城できます。登城日も下草の刈り込みをしており、登城者にはありがたいですね。
また、案内板も岐路等にはありますので、迷うことなく目的地に行くことができると思います。
登城口から登りはじめ、西第十曲輪から順に進み、西第二曲輪を過ぎて本郭にはゆっくり回っても30分程度で到着できます。幸い天気も良く本郭からは松野町の街並みが良く見えました。山城の良いところです。
帰路はそのまま降りて駐車場にも行けましたが、時間もあり古城、新城にも寄って降りました。これらを回ってもさらに30分あれば十分でした。

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ダイエティシャン

若狭城が城Ⅷ番外編 (2021/07/01 訪問)

若狭町には若狭鉄道が走っています。

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ダイエティシャン

若狭鬼が城Ⅶ (2021/07/01 訪問)

続きです。

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ダイエティシャン

若狭鬼が城Ⅵ (2021/07/01 訪問)

続きです。

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ダイエティシャン

若狭が城Ⅴ (2021/07/01 訪問)

続きです。

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ダイエティシャン

若狭鬼が城Ⅳ (2021/07/01 訪問)

続きです。

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カズサン

黄門さん所縁の寺、空堀も遺ってる (2023/11/12 訪問)

 高田氏館、勝倉城址を終えて水戸城方向へ戻って来ます、近くまで来て道が細く不安になり通りの方に案内いただく。
 水戸城から南2km程の吉田城に初登城、水戸黄門・徳川光圀が建てられた佛日山常照寺が城域に建っています。

 駐車場:常照寺東側山門の下に2段に分かれて駐車場(36°21'30"N 140°29'28"E)
 参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。

 駐車場よりよく写真で拝見してる山門を観察確認、山門扁額に水戸黄門の源光圀の名が記されている、右わきに吉田城跡の石碑、側面に由来が記されてる。山門を潜り参道階段を登る、両翼は切り取った土塁、上段に着くと大木の杉林参道で幽玄としている、両側は曲輪で有ったのだろうが今や藪に成っている、中の門があり、その手前には空堀が確認できる、奥の門を潜って本堂へ参拝、常照寺は臨済宗のお寺で当日法要がいとなわれていました。
 本堂の西奥裏手に空堀が在るとの情報で本堂と墓場の間を通って奥へ奥ギリギリ生垣の絶えた処から藪越しに空堀が確認、本堂を南、西へと横堀が通って居るようです、生垣が厚くてよく確認できません。
 降りて山門から東方向へ東側の切岸、常照寺池(富士池)の観察見学し往時は三方が沼だった古を描いてみた、現在北側西側とも住宅街に成っています。

 石碑の側面由来によると、常照寺を中心とするこの半島状台地は昔三方を沼が囲み武士の居館に最適は要害であった。
 平安末期から鎌倉初期に大掾盛幹がここに初めて館を立てて、吉田の太郎と称し子孫代々勢力を競ったが応永の末に江戸氏が水戸城を奪取してからは、この城もその一党の手に帰し土塁や濠を強化したと推察される。
 佛日山常照寺を建てたのは徳川光圀であった。と記されています。
 

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ダイエティシャン

若狭城が城Ⅲ (2021/07/01 訪問)

続きです。

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ダイエティシャン

若狭鬼が城Ⅱ (2021/07/01 訪問)

続きです。

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ダイエティシャン

若狭鬼が城Ⅰ (2021/07/01 訪問)

若狭鬼が城を攻城

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しんちゃん

甲斐源氏の流れを汲む秋山氏の城。崩落個所が多いので足元に注意。 (2023/11/25 訪問)

中野城は標高1020mの城山に築かれていました。甲斐源氏の秋山氏の城で秋山太郎光朝は平重盛の娘を妻にしていたとされます。やがてその存在を疎ましく思った源頼朝の指図で鎌倉勢に攻められ中野城で自刃したとされています。
北側の登城道から入っていきますが、入り口付近に大規模な堀切があり土橋がかかっています。中野城は標高1020m、比高520mとされていますが実際に登城道から登った時の比高は約160m程度で南側の虎口まではさほど苦労せずにたどり着きます。城域は南北に長く全長は200m程度です。南側の虎口から城域に入ると西側には土塁が残っています。そのまま尾根上を北上していきますが、なかなかの絶壁で落ちたら登ってくるのはほぼ不可能でしょう。気を付けて進みます。あちこち崩落していますが崩れっぷりが凄い。あまり近づかない方が身のためです。北側の行き止まり地点までいったら、無理をせずに戻ります。
尾根上に生えた樹木が眺望を妨げていますが一か所展望所になっている箇所があって、なかなかの眺望です。もちろん足元は危ないので足を滑らせないよう注意が必要です。

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くうくう

国史跡になった桶狭間前哨戦があった砦

永禄2年(1559)織田信長が大高城を牽制するため築いた砦。翌永禄3年(1560)には飯尾定宗が立て籠もったが今川方の朝比奈泰能に攻められ全滅した。斜面の頂部に石碑がある。実は砦の位置は明確ではないという。斜面を歩くと堀のようなところ土塁のようなところがあり想像は膨らむが、真実はどうなのだろう。

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くうくう

国史跡になった桶狭間合戦初戦に若き家康が攻めた砦

永禄2年(1559)織田信長が今川の攻撃に備え築いた砦。永禄3年(1560)桶狭間の戦いの前哨戦では佐久間盛重が立て籠もり松平元康(徳川家康)に敗れ全滅したという。丘陵頂部には殉難列士之碑がある。小規模な単郭で堀土塁が全周しているような様子が見て取れる。しかし付近はすっかり住宅地になっていた。

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しんちゃん

秋の八田家書院 (2023/11/26 訪問)

八田家は戦国期武田氏の蔵前奉行を務めていたため天正10年に織田軍に攻められ館などを焼失したと有ります。後に徳川家康の庇護を受け3400坪の屋敷地を御朱印地として安堵されたそうです。現存する書院は慶長6年(1601)に建てられ朱印状や日記など様々な文書が解説付きで保管され閲覧が可能になっています。
表門は石和代官所の表門が移築されており、屋敷北側に土塁が残り、ここにも案内板が立っています。温暖化の影響で紅葉が普段より一週間ほど遅れており、ちょうどこの日が見頃でした。二度目の訪問になりますが来てみて良かったと思います。

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