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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (前書き)つぶやき

またこりずに、おじさんはテーマを決めて、当時の武将の気持ちになって、ひたすら城と合戦場を歩いて回ってきました。すいませんがその投稿をまた数回に分けてさせていただきますので御容赦下さい。初回の「九州の桜2022」、前々回の「明智光秀最期の30日を辿る」、前回の「熊本城(鹿児島城)と西南戦争の遺跡を歩く」に続き、今回のテーマは【島津VS大友:最終決戦の城巡り】です。

1578(天正8)年 大友宗麟が高城川(耳川)の戦いに敗れてから、1585(天正15)年に島津義久が豊臣秀吉に降伏するまでの8年間「島津VS大友の戦い」はまだまだ続きました。私は舞台となったゆかりの地のうち、高城と岩屋城は以前すでにお伝えしましたので、ここからはその続きを追って行きました。(高城は以前の6月17日の2回の投稿を、岩屋城は以前の7月20日の投稿をもしよろしければ参照して下さい)。

【当時の時代背景】

大友宗麟は高城川(耳川)の戦いに敗れてから、家臣の謀反も相次ぎ大友家単独での再起はもはや不可能、このままでは島津に滅ぼされてしまうと悟り、大坂の豊臣秀吉に謁見し助けを求めに行きます。これで秀吉は九州征伐(=島津討伐)の大義名分ができたと喜び出兵を開始しました。

島津四兄弟とは、義久(長男)、義弘(次男)、歳久(三男)、家久(四男)四人です。そしてこの四人の抜群のチームワークにより、高城川の戦いでは「釣り野伏せ」で見事に大友軍に勝利を収めました。岩屋城を攻めた島津忠長は彼らの叔父にあたりますが、忠長は高橋紹運の奮戦で岩屋城の戦いで多くの死傷兵を出し、これで立花宗茂が籠る立花山城の攻撃も断念し撤退しました。これに当主「島津義久」は激怒します!

しかし、逆に秀吉が九州に到着する前に大友宗麟を討ち豊後を制圧すれば、秀吉は大義名分を失い、かつ豊後も島津の領土と認めざるをえない、つまり島津念願の九州制覇も叶うという可能性がまだ残っているのではないかという事にも気づきました(秀吉と対等になるにはもうこれしかない!)。よって、義久は弟三人に、秀吉が九州に到着するまでに大友本領の豊後を制圧し、宿敵「大友宗麟」を討つべく薩摩全軍6万をもって豊後への出陣を命じます。

私はこれからこの【島津VS大友:最終決戦】となったゆかりの6つの地を訪れました。 岡城(片ケ瀬城・鬼ヶ城)→鶴賀城(戸次川)→大友館→高崎山城→臼杵城→津久見(→山口宇部) です。

以前、城人に掲載されていたもので大変分かりやすい図がありましたので拝借させていただきました(すいません一部追記させていただきました)。これと私が作った拡大図の両方を見ていただくと、これから私が訪れる場所とその流れがよく分かると思いますので、参考としていただければと思います(写真①②)。週1ペースくらいでの投稿になるかとは思いますが、御興味が湧かれた方に読んでいただければ幸いです。

では、「(第1回)岡城」から始めます。
 

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侍ホリタン

東海道の要衝、多くの譜代大名が治めた名城を訪ねて (2022/10/10 訪問)

駐車場は二之丸帯曲輪の土塀を見渡せる高台と多聞櫓の近くにあります。多聞櫓は三重県内で唯一現存する城郭建造物で土日祝に限り無料開放されています。多聞櫓の石垣と二之丸帯曲輪の土塀は迫力があります。外堀跡の周囲を囲む様に遊歩道が整備されており気持ち良く散策する事が出来ます。御城印は多聞櫓近くの衣料品店「じぼりや」さんで販売されています。

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イオ

樫原城(岐阜県大垣市上石津町上多良樫原) (2022/09/17 訪問)

※ 西高木家陣屋の前身とも云われる多羅城の候補地(のひとつ)ですので、西高木家陣屋で投稿します。

樫原城(城びと未登録)は、築城者など詳細は不明ながら、令和2年の調査で戦国期後半のものと確認された単郭方形の山城で、明智光秀生誕地と伝わる進士家の居城・多羅城の候補地のひとつとされます。

津島神社手前の樫原公民館の駐車場に車を駐めて登城開始。津島神社社殿の北側に樫原城の説明板があり、その脇の登城口から奥に進んで分岐で脇道に逸れると、神社の背後から続く尾根を断ち切る巨大な堀切がありました。幅も深さもなかなかのものです。分岐に戻って進むと主郭の東側に虎口があり、虎口の脇から主郭南辺にかけて分厚く高い土塁が続いています。土塁に登ってみると堀切の底まではかなりの高さがあり、そう簡単には乗り越えられそうにありませんでした。主郭の西辺は急峻な切岸になっていますが、滑落の危険ありとして注意が呼びかけられています。北辺は斜面中腹の横堀(堀切)によって尾根筋を遮断し、横堀には折れも施されています。また東辺の中腹には帯曲輪がめぐり、北東隅部の横堀を見下ろす位置には土塁が設けられていました。30分かからずにひとめぐりできる小さな城ながら、堀切も土塁も横堀も大いに見応えがありました。

さて、これでこの日の山城はおしまいなので、車に戻ってスニーカーに履き替えようとトレッキングシューズを脱ぐと…靴下が血まみれ!? もしやと思って脱いだ靴をはたくと案の定 中からヤマビルが落ちてきました…。ヤマビルを警戒して肌を露出せず、靴下も厚手のものを履いていたんですが、まさか靴下越しにやられるとは……ヤマビルおそるべし。麻酔成分のため痛みはなく、血液凝固を阻害する成分のため本当に血が止まらないんだなぁ、などと妙な感心をしながらとりあえずの止血をして、次からは靴下にヤマビル除けスプレーをするか登山用スパッツで靴の中に入られないようにしないと…などと対策を考えつつ、樫原城を後にしました。
城ケ平城と樫原城のどちらでやられたかはわかりませんが、注意が呼びかけられているとおり本当に出ますので、暑い頃や雨の後などは特に注意して(この日は蒸し暑く小雨まじりという最悪の条件)、充分に対策した上での登城をおすすめします。それぞれヤマビルを警戒しながらでも訪れる価値のある山城だと思いますので。
 

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三浦の晃ちゃん

森蘭丸 (2022/10/11 訪問)

織田信長の小姓 森蘭丸を、輩出した森家の居城です。車で途中まで、登れます。そこから、本丸まで歩いて15分ぐらいです。

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ぴーかる

枝吉城 (2022/09/11 訪問)

【枝吉城】
<駐車場他>吉田郷土館駐車場(日月曜日休館)
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅7城目。枝吉城は15世紀中頃に赤松氏の被官明石氏が築城されたといわれています。枝吉城最後の城主は黒田孝高の従弟である明石則実で三木合戦で秀吉方に付いて功があり豊岡城主となるが、秀次事件に連座して切腹となります。
 登城口は吉田郷土館正面入り口の左手の奥に添付写真の説明板と登城路があります。現地は土地区画整理事業で本丸の東側1/4程しか残っておらず遺構はよくわからない状態になっています。吉田郷土館も日曜日で休館日でした。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

八代城散策Ⅷ、浜御茶屋「松濱軒」と北の丸 (2004/07/15 訪問)

 先に投稿した「八代城散策Ⅶ、九間櫓跡から埋御門・搦手口・北の丸からの眺め」の続きです、正午を過ぎたので本丸北側の通り出丸側でころあいの良い食事処が有り食事休憩、食事を終えて松井城代が造ったと言わる浜御茶屋松濱軒を訪ね見学、庭園鑑賞をする、夏の昼下がり水面に睡蓮が咲き輝き、夏の暑さの中一服の清涼感が有りました、車を駐めた北の丸東側の駐車場に戻る途中に北の丸の庭園、松井神社等を巡り、北の丸東に連なる石垣を観察し、ふり返って八代城三階櫓跡に建つ大木を中心に石垣城塁、内濠を眺めて今回の登城探訪を終了。 18年前の平成16年7月中旬暑い盛りでした。
 
 松井氏は細川藩筆頭家老で室町幕府では細川氏と幕臣同僚、信長、秀吉時代は細川氏の与力大名として貢献している、細川氏が熊本に入って八代城は細川立孝が城代と入り細川忠興も隠居として二の丸に入る、正保2年(1645年)に相次いで立孝、忠興亡くなり、幕府の許可を得て筆頭家老松井興長を八代城代に任命し以後明治まで松井氏が城代を務める。

 昼食を入れて3時間半大変見応えの有る八代城でした、数年経って八代城の立体模型を見学して無かったので未来の森ミュージアム博物館と八代城を訪ねて居ります、またその当時より八代市役所が建て直して立派な造りの建物に成って居ます、本丸大手の枡形も景観整備で見やすく成って居ます、立体模型の様に本丸に建物、天守閣等復元されるとありがたいのですが⁉

 長々と八代城散策8編、覗いていただき有難うございました。
 
 
 

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ぶーたろー

竹中氏陣屋跡に行ってきました。竹中半兵衛の墓所が近くにあります。 (2022/08/13 訪問)

https://youtu.be/hmW2n_03uFU
↑YouTubeに動画を載せています。

岐阜県垂井町にある竹中氏陣屋跡に行ってきました!陣屋跡には陣屋を囲んだ石垣や水堀、櫓が復元されています。陣屋内は幼稚園と小学校がありました。
観光用の駐車場があり、車でのアクセスをお勧めします。歩いて5分のところに竹中氏の墓所があり、ここに竹中半兵衛をはじめ一族の当主が眠っていました。

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イオ

城ケ平城(岐阜県大垣市上石津町宮城ケ平) (2022/09/17 訪問)

※ 西高木家陣屋の前身とも云われる多羅城の候補地(のひとつ)ですので、西高木家陣屋で投稿します。

城ケ平城(城びと未登録)は、築城者など詳細は不明ながら、平成31年の調査で戦国期後半のものと確認された単郭方形の山城で、明智光秀生誕地と伝わる進士家の居城・多羅城の候補地のひとつとされます。

登城口は羽ヶ原側と馬瀬側の2箇所ありますが、羽ヶ原側のほうが主郭に近いようなので、晴明神社付近の駐車スペースに車を駐めて羽ヶ原側からの登城です。入口にはマムシ、ヤマビル、スズメバチ注意の掲示があり、この日は時おり小雨のパラつく蒸し暑い日でもあったので、顔以外は肌を露出しない完全防備(だと思っていたんですが…)で登城開始。

登城口から整備された登城道を3分ほど進むとのぼり旗と説明板が建てられています。右手の丘陵地が城ケ平城のようです。上石津郷土資料館でもらったリーフレット(縄張図)を片手に麓に向かうと、いきなり南北にのびる横堀に行き当たります。横堀を越えて登城道を上って行くと中腹の南側に竪堀があり、その奥は横堀が南東隅から南辺まで続いていました。まだ主郭にも着かないうちから横堀、竪堀、横堀の連続で嬉しくなってしまいますね。
さらに上って行くと、主郭の東側には浅くなった虎口(枡形虎口?)があり、その南脇には櫓台と思しき土壇がありました。方形をした主郭には井戸跡が3か所ほど見られ、虎口の北部から北辺、西辺にかけて土塁がめぐっています。主郭の北西下は堀切により西側尾根を遮断しています。また北辺の中腹には腰曲輪や帯曲輪が設けられ、切岸の案内表示が建てられていました。

リーフレットの城ケ平城の紹介文では「多羅城との関係性は不明」と慎重な書きぶりですが、現地では桔梗紋に「明智光秀生誕の地 多羅城」と記されたのぼり旗が堂々と翻っていました(笑) ともあれ、光秀生誕地云々をさて置いたとしても、30分ほどで手軽に充実した遺構を見て回れますし、登城道も城内もよく整備されていて、地元の熱意が感じられる良いお城でした。
 

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小城小次郎

割り切った? (2022/05/28 訪問)

豊前に領地を得た黒田親子が入ったのがこのお城。織豊系城郭への積極的な改修が見られないのは中津城築城が決まっていたからなのか、登城路だけ入念に加工すればあとは高さで勝負!と割り切っていたからなのか。

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AJ

狸を迎え撃て (2022/09/15 訪問)

山城としてこれだけの魅力を備えていながら、元祖100名城からは漏れている。そう考えると、隠れた名城は数限りなくあって、私たちが訪れるべき場所は100や200では到底足りないのでは、という気さえしてきます。ひょっとして「続々」があったりするのでしょうか?ちょっとゾクゾク(いや、ワクワク?)しますね。

No. 111 向羽黒山城(福島県会津美里町)。「徳川vs上杉」幻の一戦を夢想させてくれる場所。

もとは戦国時代に会津地方を治めた蘆名氏による築城。同氏断絶後は歴代領主(伊達、蒲生、上杉)が改修を繰り返したようです。上杉に関しては、よく神指城(会津若松市。輪郭式の平城)が家康の会津征伐に備えるためのものだったと聞きますが、双方を見比べてみると、どうも向羽黒の方が防衛拠点としてふさわしく、名実ともに徳川勢を迎え撃つ「詰の城」と位置付けられていたような気がします。

遺構は見事の一言に尽きます。阿賀川を天然の水堀として東は断崖。至る所に竪堀や空堀、虎口、土塁や石塁が設けられた、まさに要害と呼ぶにふさわしい造りです。標高400m超の岩崎山山頂から北の山腹にかけて広がる城域は東西1.4km、南北1.5km。

二曲輪付近まで車で上がれますが、遊歩道を利用した方がそのスケールを体感できます。ニ曲輪から一曲輪まではかなり険しい登り。ふと視線を上げるとそこには数百年前の竪堀群や巨大な堀切があり、防御力の高さは一目瞭然。

さて、その後の上杉家についてはご存知の通り。家康は会津への途上、小山(栃木県)でUターンし、上杉景勝・直江兼続主従に呼応して挙兵した石田三成を関ヶ原に破ります。肩透かしを食らった形の景勝はその後降伏。会津120万石から米沢30万石に減知転封されます。なんとも言えない上滑り感。そんな歴史の微妙な部分も感じさせてくれる名城であります。

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カルビン

比企館(金剛寺) 〒350-0165 埼玉県比企郡川島町中山1198 (2022/10/02 訪問)

内脂、内脂、内脂サ〇~ト~♪


今回は鎌倉殿の13人で佐藤二郎さんが比企能員役をされた比企氏の拠点の1つ・比企館に行ってきました。

コチラは電車だけだと訪問厳しいものの、川越駅からバスで近くまで行けるので、訪問は比較的楽でした。
(朝早かったので降りたバス停・上中山では自分一人でしたしw)

比企館となる金剛寺には鎌倉殿の13人にちなんだ看板や幟があり、コチラ比企館には比企氏の墓所もあります。
墓所の周囲を囲う堀が館の遺構の可能性あり、何も無いお城に比べれば全然行く甲斐はあるかと。

ただ、金剛寺は住宅街に位置するので、訪問される際にはマナーを守って頂きたいと思います。
(そうでないと今後立ち入り禁止になる史跡がもっと増えてしまうかもしれないので)

鎌倉殿の13人のお笑い担当の方が退場相次いでしまったので、笑いの要素が無いのが結構残念で御座います。。。


ここから東武東上線の北側に向かいたい方は上中山バス停から500mくらい歩いた南戸守バス停まで行くと、若葉駅に行くバスがそれなりの本数ある(上中山から東松山に行くバスあるが、本数がかなり少ない)のでご参考まで。
(この後東松山に出て源範頼館に行った次第です)

ちなみに若葉駅行きのバス、乗車から終点下車まで乗客自分以外いませんでした・・・廃線にならない事を祈る(ー人ー;)

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朝田 辰兵衛

千葉市美術館の開館時間までチョイ寄り。 (2022/09/25 訪問)

千葉市美術館で「進化系 UKIYO-Eの美展」を鑑賞する前にチョイ寄りしました。入館無料の千葉市立郷土博物館(模擬天守のこと)には,岡本信人さんのサインが展示されていましたが,撮影OKなのか確認できず,結局スルーしました。
館内には,公園内の説明パネルがあり,城址碑のある神明社と郷土博物館や土塁のあるエリアとの間は,堀切跡だそうです。「だろうな…」と感じていた方は多いと思います。

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城とマスク

福島県のお城巡り (2022/10/10 訪問)

櫓などのはありませんが一部石垣が残っているお城でした、道の駅でソースカツ丼を食べた後に行ったので良い運動になりました。マスクは沖縄城巡りで使用したタイプを被りました。

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POYO58

世界最強の城高取城PART1 これが残っていたら… (2022/08/30 訪問)

長野旅行を終えた後、家でずっと過ごしていました。その後お城にまたお城に行きたくなったので、僕の誕生日の日にずっと行きたかった高取城に車で行きました。
高取城は南北朝時代に築かれたとされ、奈良から吉野へと通じる交通の要衝として越智氏が拠点としていました。その頃の高取城は中世城郭でした。その後、織田信長の城割令(不要な城を破却する命令)を出し、筒井順慶が築いた大和郡山城以外全て取り壊しました。これを機に順慶は郡山城をなんとしてでも敵から守るため、詰城として高取城を改修しました。しかし、順慶は伊賀へと移ってしまったため、本多利久が大改修し、今の高取城ができました。江戸時代でも高取城だけは特別に、申し出がなくても修理できるようにしました。結構大きな城だったのでしょう。しかし、明治時代になると、廃藩置県により、高取城の建物は次々と壊されていきました。明治天皇もこんな城があったら、この城の藩主たちに対抗できないと思ったのでしょうね。

高取城の見どころは三つ。
1.山城で唯一水堀が残っている。
2.猿石がある(重要文化財)
3.総石垣の城になっている。
まあ僕はこのうち2つ見ていません😭
僕は三の丸ら辺の道路に少しスペースがあったので、そこに車を駐めました。大手門まで行こうと思われるものはあまり無く、大手門までも遠くて、蜂だらけで死にそうでした。雨上がりだったので辺に霧がかかっていて、幻想的でした。そのまま歩いていくとやっと大手門跡に、門自体は全て残ってないのですが、当時、高取城にはなんと33個の門があったそうです!大手門の石垣はなかなか立派で、霧と被った幻想的な写真が撮れました。そして歩いていくと石垣が沢山あって、興奮状態ですが、蜂はマジで危険。蜂に警戒しながら石垣を探訪。さらに歩いていくと新櫓台を発見。なかなかすごかったです。これが残っていたらどんなに強かったか。そして、いよいよ本丸の前につきました。
高取城はここまででも攻めるのが大変でしたが、ここからが本番? 続く

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イオ

交代寄合美濃衆 (2022/09/17 訪問)

関ケ原の戦いの後、旧領に復した高木貞利が築いた陣屋で、牧田川の段丘上に位置し、東下に東高木家、北東下に北高木家の陣屋と隣接しています。西高木家は東家、北家とともに交代寄合美濃衆として、明治まで木曽三川の治水行政にあたる水行奉行を務めました。

陣屋跡に建つ上石津郷土資料館の駐車場に車を駐めて登城開始。資料館の奥には下屋敷の長屋門が移築され、説明板が建てられています。東下に下りていくと東辺斜面には高石垣が施され、石垣の下には井戸跡も見られました。高石垣から東に続く見事な石垣は埋門跡で、時季的に草が茂っていたものの状態良く遺っており、一番の見どころです。北側に回り込むと、北辺斜面上部にも石垣が遺っているのが見えました。また、西側には西高木家の墓所が設けられ、歴代領主と一族の墓石群が祀られています。

東下の東高木家陣屋跡にはなまこ壁が施された白壁造りの土蔵が現存しています。土蔵の北側、北高木家陣屋との間の切通道(伊勢街道)には石垣が遺っていますが、北高木家陣屋跡は住宅地や農地になっていて、遺構らしきものは見当たりませんでした。

なお、上石津郷土資料館には上石津地域の考古遺物や民俗資料、動植物の剥製や標本などが展示されているほか、高木三家に関する史料はもとより、明智光秀生誕地と伝わる多羅城の候補地とされる城ケ平城や樫原城についての解説(縄張図付きリーフレットあり)、島津の退き口についての史料など、入館料100円とはとても思えないほどの充実ぶりでした。
 

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おぃしーぃ

荒川沿いの平城 (2022/10/11 訪問)

水堀がとても綺麗なお城です。復元されているのは半分弱で園路の都合で本来無いところに橋があったり、矢倉でなく東屋だったり、少しう~ん、と思うところもあるけれど、この辺りの低湿地にあった平城のイメージが良く理解できると思います。
残念に感じたのが、発掘なのかもしれないけれど、1槨北側土塁が何の表示もなく削られていたこと。誰も行かないかもしれないでしょうが、何で壊すかな。
因みに古民家移築ゾーンは見物です。

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カズサン

八代城散策Ⅶ、九間櫓跡から埋御門・搦手口・北の丸から本丸の眺め (2004/07/15 訪問)

 先に投稿した「八代城散策Ⅵ、月見櫓台から南東面城塁・大手桝形・三階櫓跡まで」の続きで、三階櫓台から続きに北九間櫓台跡、降りると埋御門跡、搦手口、廊下橋を渡り北の丸側に出る、本丸北面を内濠越しに北面城塁、北東角の三階櫓台を眺め、二の丸北御門辺りの俯瞰をする、二の丸北御門は一部駐車場にも成って居る。
 18年前の平成16年7月中旬暑い盛りでした。二の丸北御門辺りから内濠越しに本丸東面、北面、搦手口、北の丸護岸を夏空と共に眺めると壮大さと夏のギラギラが伝わってくる。
 

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カズサン

八代城散策Ⅵ、月見櫓台跡から南東面城塁・大手枡形・三階櫓跡まで (2004/07/15 訪問)

 先に投稿した「八代城散策Ⅴ、小天守台と大天守台・穴蔵内部」の続きで、小天守台の南先から降りて八代宮横を通り夏に咲く紫色の野ぼたんを眺めて日陰で小休止、暑い夏の日中です、南西角に有る月見櫓台に登り周辺俯瞰、月見櫓は本丸南西角の要で二階櫓だったそうです、南面石垣の中程を八代宮の参道、参道橋として開口されてる、櫓台以外の本丸側の内側は土塁仕様と成って居り上部には石落とし付きの漆喰土塀が建てられていた様子、参拝橋を渡り南側に、内濠越しに横櫓・三十間櫓・宝形櫓・磨櫓台を眺めて大手虎口・頬当御門枡形を抜ける、当時は枡形内にメタセコイアの大木が林立し鬱蒼としていました、現在はグーグルマップの航空写真で見ると枡形内は伐採されて整備されて居り見通し、枡形石垣が良く観察できる様になって居ます、本丸内を通って北東角に有る三階櫓跡に至る、三階櫓が北東角、二の丸北御門を睨んで居たのでしょう、周辺を俯瞰する。
 18年前の平成16年7月中旬暑い盛りでした。
 投稿写真に再度の掲載が有りますがご容赦ください。
 
 

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たっかー

初登城 (2022/09/30 訪問)

すぐ隣の商店の親切なご主人がお城の説明していただきました。

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鎌倉たっちさん

白河小峰城石垣 (2022/10/09 訪問)

石垣復旧し本丸下の帯曲輪へ入れるようになった。本丸北側の石垣が見られる。写真は小峰城で最も古いとされる三重櫓北側の石垣。

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