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山岳寺院 (2023/12/02 訪問)

 役行者によって開かれたと伝わる古刹で山岳寺院です。最盛期には寺領7000石、僧兵も数千人いたとされています。それほど険しい山でもなく、自分としては山岳寺院の雰囲気はあまり感じられませんでした。
 紅葉の季節で数人の方が散策してみえました。

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菅原神社 (2023/12/02 訪問)

 菅原神社付近が城址です。稲葉氏の城と伝わっています。石山本願寺に味方して織田信長に落とされたと説明板にありました。イオさんの投稿で知ってはいましたが、神社内での写真撮影はご遠慮下さいと提示がありますね。外からの写真を撮り退却しました。

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朝田 辰兵衛

お城EXPO城が築城されるとは… (2023/10/09 訪問)

チェブさんの書き込みを拝見し,お城EXPO城が築城されたことを知りました。ありがとうございます。ということは,パシフィコ横浜とも良好な関係が築かれたという証でしょうか…?

さて,雨ということで,安田城をチョイスしました。晴れれば近くの山城の予定でした。どちらであっても,富山駅前3番のりばからの路線バスで計画していましたので,動線にムダはありませんでした。
安田城の最寄りバス停は「安田」です。片道【430円】。ここから,徒歩約5分です。
よく,宅地造成されずに遺っていたな…というのが印象です。

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くうくう

三方ヶ原の戦いや長篠設楽原の戦いの頃の家康の城

徳川家康が元亀元年(1570)入城、曳馬から浜松と名を改め、城を拡張し整備。駿府に移るまでの29歳から45歳まで17年間を過ごした。その後堀尾氏時代に五重天守が建てられたが江戸初期に失われた。豪壮な野面積みの天守台が残り、天守台2/3ほどに昭和33年(1958)に復興天守が建てられた。櫓門である天守門は平成26年(2014)に木造で復元した。江戸期は譜代各家が歴任し多くが幕府重鎮に出世したことから出世城と言われた。

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くうくう

松下屋敷、市場城ともいう、頭陀寺の門前の城館

土塁で囲まれた100m四方の、今川氏に仕えた国人領主松下氏の居館。ちょうど頭陀寺第一公園のこのあたりは微高地になっていて、土塁一部の名残りがわかる。少年時代の豊臣秀吉が天文20年(1551)から3年にわたり松下之綱屋敷に奉公していた。また年少の井伊直政を匿ったこともある。永禄6年(1563)今川氏と飯尾氏の争いのなかで焼き討ちにあい炎上したが、江戸期も松下屋敷は松下之綱の子孫が当主となり続いた。

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じゅんじん

(2023/11/04 訪問)

土塁が残っています。

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ぴーかる

顕法寺城 (2023/11/04 訪問)

【顕法寺城】
<駐車場他>登城口手前<37.203731, 138.409577>のポイント先の砂利道に退避スぺースが見えています。電気柵を外す。
<交通手段>車

<見所>堀切・尾根曲輪
<感想>1泊2日上越の城攻め旅2日目ラスト6城目。上越観光Navi のホームページに顕法寺城は「南北朝時代の1355年、越後守護であった上杉憲顕の子、憲将(南朝方)らは、越後北朝方を討つため、ここ顕法寺城で挙兵し戦いを繰り広げました。また戦国時代は春日山城の支城、上杉氏の家臣で、伊崎次郎右衛門、丸田左京が居城したと伝えられています。」とあります。

 現地は①~⑪の順路案内版があります。登城路は2つありますので①からでも⑪からの逆走でもどちらからでもいいです。私は順路通り登城しました。上記砂利道を進むと登城口②があり山に入ります。反時計回りに尾根上をつたって1周する感じです。六地蔵⇒顕法寺⇒自害谷の碑(仇討ちに失敗し無念の自害を伝説の主従への供養塔)のある曲輪⇒尾根曲輪を通り主郭の搦手から主郭に入ります。途中、顕法寺から電線の鉄塔までの間に堀切があるので城の遺構はここら辺からかと感じます。主郭に入る手前に馬寄せ・大手口跡のある広い曲輪があります。主郭にはビリケンさんみたいなお顔の超可愛い毘沙門天石像があります。主郭は私が見るに、上下2段になっていて本丸跡の看板がある山頂は大土塁上の櫓台か物見台のように感じました。奥の下段の削平地も同等の広さがあり、周囲を高い切岸で囲んでいます。順路の下山道の方は後世にできたものでしょうか、堀切等の遺構は見受けられませんでした。
 これにてこの旅終了。少し時間が早かったのですが、長峰温泉ゆったりの郷で温泉に入り、レストラン味彩にて海鮮丼を食べて帰路に着きました。上越を満喫しました。走行距離1070㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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じゅんじん

雑木林 (2023/11/04 訪問)

堀が見れました。

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じゅんじん

中学校 (2023/11/04 訪問)

市川市立第五中学校になっています。中世のお城だそう。付近に平将門創建の天満天神宮があります。

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ばばよ

関東では貴重な現存乾櫓 (2023/12/01 訪問)

移築現存の乾櫓、東門ともに現在は旧追手御門に相当する場所のそばにあります。
周辺の開発が進んでいるので、元々の位置に戻すことは非常に困難です。
三の丸の土塁や外堀はよく残っています。

なお、すぐそばの高崎市役所内に箕輪城の城門復元模型の展示やチラシがありました。

●アクセス JR高崎駅から徒歩15分

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カズサン

報佛寺周辺の土塁と堀 (2023/11/12 訪問)

 武田氏館と水戸城周辺水戸の城廻り4城目河和田城を初登城、水戸城を終えて宇都宮への帰路、暗く成りかけに訪ねました。

 駐車場:報佛寺参拝者駐車場(茨城県水戸市河和田町887)北側より進入。
 参考資料:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップに依る。

 駐車場から先ずはと報佛寺本堂へ参拝、史跡マークの報佛寺枝垂れ桜が葉を落としていますが、4月の桜の頃はさぞ見事な事でしょう、本堂から東の山門方向へ、山門裏手に土塁、その脇には親鸞聖人の旅姿立像、この寺が親鸞聖人ゆかりの寺であるとの証、山門脇に「河和田八景 報佛寺暮雪」として屋根型看板が有り、親鸞聖人ゆかりの寺として紹介されています。
 山門の見学し、脇に河和田城跡の石碑、道路との間に北方向に堀と土塁、交差点に周り東から西に高土塁があり西端は参拝者進入口に成っている。
 報佛寺の河和田城遺構探訪だけでも十分楽しめ、親鸞聖人ゆかりの寺を参拝出来ただけでもありがたい事です。
 
 この後車で史跡マーク河和田城土塁とある所の、水戸市療育センターに行き探訪するが草が茂り土塁かなの所は樹木が茂って良く分かりませんでした。
 暗くもなり、シェルさんが見所示唆されていた河和田小学校、天徳寺周りは残念ですが素通りして宇都宮の孫の所へ帰りました。
 
 

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チェブ

お城EXPO城、いざ投稿! (2017/12/23 訪問)

2017年のお城EXPOで『城びと』と出会い、楽しくお城LIFEを続けてます。
2017年大河ドラマ『女城主 直虎』を一生懸命に観ていたので、ゆるキャラの『直虎ちゃん』ばかり追っかけてました(*´∀`)♪

この日から、私の写真ホルダーは、お城でいっぱいになりました。

お城EXPO城は3回 登城。また、行きたいなぁ。

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シャンシャン

立派な石垣が残る館跡 (2023/11/11 訪問)

ドライブの途中にフラッと立ち寄っただけだけど、立派な石垣や館の基礎石などいろいろ見どころがあってびっくり(*_*;
夕暮れだったので、薄暗くてあまり見て回れず残念。今度ゆっくり再訪したい。

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宗春

丹波・但馬・播磨の名城を攻めてきました その⑤明石城【播磨】 (2023/11/25 訪問)

11/24(金)に休暇を取って4連休にし、友人と名古屋から車で攻城しました。

ふたつの櫓の事は以前から知っていたのですが、それ以外の遺構はよく知りませんでした。
石垣、堀、門跡がよく残されていて良かったです。惜しむらくは、イベントを行っていてテントの売店や人が多かったせいで、あまり良い写真を撮る事が出来ませんでした。残念。

また、石垣に草木が生え放題だった事が残念です。よく手入れしましょうよ。

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しんちゃん

主郭周辺の遺構はしっかりしている。北側の郭の多さは尋常ではない。 (2023/11/19 訪問)

林大城は信濃国守護職の小笠原氏の城で井川城や林小城とともに国の史跡に指定されています。二の郭の下に駐車スペースがあり、車でそこまで行くことが出来ます。私は道が途中から未舗装になっていたので途中から歩いて登りましたが、上まで車で上がっても問題は無さそうでした。その途中で三条の竪堀がありました。なかなか期待できそうです。
駐車スペースから南は主郭方面、北側は下りで三日月状の郭(扁平地が)幾重にも続きます。まずは主郭方面へ向かいます。主郭の下段に二郭らしき郭があり東屋が建っています。さらに南に進むと石垣跡の残る虎口を通過して本丸に入ります。本丸の周辺には土塁が残り、奥手に石垣が残っています。主郭南にも郭があって、さらに南の尾根上には左右に竪堀が配され城域を守っています。主郭の周囲を囲む帯郭から主郭に戻りますが土塁には石がちらほら残っています。主郭周囲の石は誰かにに持ち去られたのでしょうか?
南側の遺構は確認したとして、北側の遺構を見に行きます。ありますあります、アホみたいに郭がいっぱいあります。40~50はあるでしょうか?こんなに郭を造ってどうするんでしょう。家臣を家族ごと住まわしたんでしょうか?(人質?)
純粋に郭として使用したとしても後ろから味方の撃った矢が背中に刺さりそうです。あまり実用的な造りとは思えません。戦闘は周囲の山城に任せて権威の象徴として君臨していたのでしょうか?上に行くほど偉いってやつでしょうかね。火責めにされたらひとたまりも無いと思いますが。

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くうくう

松風清きお台場やと地元中学校歌に唄われる市史跡

安政2年(1855)浜松藩主井上正直が幕府の命により近くの農民に築かせた。砲身約5m、人の頭ほどの口径の大砲3門を備えていたそうだ。東、中、西の3ヶ所のうちの中台場で、およそ高さ6m周囲72mの円丘をなす土塊が残る。上に登ったり周囲を歩いたりしたが、台場的な感じはつかみ辛い。遠州灘の海辺まではおよそ600m。

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くうくう

三葉葵の紋発祥の城

15世紀中頃、本多定忠定助により築城。約150年間伊奈本多氏の居城だった。現在は円弧を描く土塁が残り、石碑・案内板など公園として整備され、模擬櫓や発掘に因み模擬逆茂木のある堀が再現されている。往時は三方を河川と沼地に囲まれた要害堅固な城で、城下まで大舟が入ったそうだ。

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しんちゃん

二の郭の南に石垣と畝状の空堀群(竪堀に変化)がある。 (2023/11/25 訪問)

真篠城は標高260m、比高50mほどの小山に築かれています。小さいですが駐車場もあり、案内板も立っています。「南巨摩郡誌」(昭和11年)によれば「武田信玄の時代の烽火場で原大隅守が警護し、その後真篠勇太夫が居館である」と記してあるそうです。
城郭大系には真篠砦として記載がありますが、実際に訪れてみるとなかなか城としての機能を備えているようです。
案内板から城址方向に歩いてみると段々の平坦地が現れます。最高所が主郭で南下に二郭と見られる郭。二郭の左手に土塁か土橋のようなものが主郭に続いていています。主郭の周囲は土塁で囲まれ虎口は北側についています。主郭西側にも郭があり、尾根上にさらに西に降りていくと堀切が尾根を遮断しています。ふたたび二の郭に戻って南に向い、下側に降りたところに石垣が残っています。
そこからさらに南に向かうと畝状の空堀群が郭の端に並んでいてその様は実に壮観です。空堀群はそのまま斜面に続いていて畝状空堀群に変化しています。普段山の斜面に付いている空堀群をこれほど間近に見ることはなかなか無いので、少し感動しました。守る方も動きづらいんじゃないかと思いますがどのような意図で作ったのでしょうか?この城以外ではなかなかお目にかかれない珍しい遺構です。

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POYO58

江戸城1 (2023/08/13 訪問)

夏休みに約5年ぶりに東京に帰郷しました。江戸城は小さい頃行ってましたが、確か公園で遊んでた気がします。
そんななか江戸城に改めて訪問しました。ただこの日は運悪く土砂降り。最初はパラパラだったんですが、富士見櫓を写真撮っている間に急に大雨になってしまいました。
最初は駐車場で車をとめて、平川門から行きました。やっぱり江戸城の門は全部大きいですね。驚きました。
その後はいくつか石垣や虎口を見ながら北桔梗門に辿り着きました。そしたらすごいいい写真が撮れました♪高石垣と水堀がとっても美しかったです。ただ門の前に警備員さんが必ずいてなんか生きづらかったです。その後にはもう天守台に着いていました。行く順番絶対間違ってる。

とりあえず一旦ここで切ります。
続く

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ダイエティシャン

湯村中山城Ⅲ (2021/06/15 訪問)

吉岡温泉旅館 【湯菜花】家族のリクエストでハート型の目玉焼き(写真10 )

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