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鎌倉たっちさん

白河小峰城石垣 (2022/10/09 訪問)

石垣復旧し本丸下の帯曲輪へ入れるようになった。本丸北側の石垣が見られる。写真は小峰城で最も古いとされる三重櫓北側の石垣。

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ぴーかる

魚住城 (2021/09/11 訪問)

【魚住城】
<駐車場他>駐車場はなし。近隣に停める場所はないのでタイムズ西江井ヶ島駅前に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅6城目。魚住城は14世紀中頃に赤松氏の一族である魚住長範が築きました。三木合戦の際には魚住氏は別所方につきましたが三木城落城後に廃絶となったようです。発掘調査によって堀の一部が発見されたようですが現在は埋め戻されているようです。現地は住宅地の角隅公園にかすれて読みづらい説明板があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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tsuchinari

鉄板張りで生まれ変わった天守 (2022/10/09 訪問)

昭和の高度経済成長期に、全国各地で次々に作られた外観復元の天守達。
そのほとんどが現在老朽化などで、建て替えるかどうかの選択を迫られている。
その一つ広島県の福山城は天守を往時の姿に近づける再建を行うことで、一つの答えを示した。

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三浦の晃ちゃん

朝早くから (2022/10/09 訪問)

朝6時から開館しているとの情報を得たので、早起きして、行ってきました。

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三浦の晃ちゃん

今日は高山祭り (2022/10/09 訪問)

高山祭りの日でしたが、雨で中止になりました。陣屋はたくさんの人手がありました。

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ぎりょう

人取橋古戦場跡 (2022/09/09 訪問)

二本松・三春訪問の際に本宮市にある人取橋古戦場跡を訪問した。人取橋の戦いは、伊達政宗の仙道制覇にあたり、二本松城主畠山義継が宮森城で輝宗を拉致し、阿武隈河畔で両者ともに死去した事件をきっかけに天正13年(1586)11月17日に起きた戦い。
事件後政宗は、父輝宗の弔い合戦として田村氏、相馬氏を加勢にして畠山氏の二本松城攻めを開始するが、畠山氏救援のため佐竹、蘆名、二階堂、岩城、石川、白川の各氏の連合軍が集結し、阿武隈川支流の瀬戸川に架かる人取橋付近で激戦が繰り広げられたという。
合戦は二本松城包囲の兵を残した伊達勢7000と連合軍30000の戦いとなり、伊達勢は壊滅寸前に追い込まれるが、殿を任された鬼庭左月斎や伊達成実の活躍で政宗は本宮城に入り、九死に一生を得る事が出来た。本宮市の国道4号線の道路脇に、敵中に突入して討死した左月斎の墓と古戦場碑が残る。
なお、残念なことに駐車場は無く、道路脇に車1台分程のスペースがあるだけ。


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ぎりょう

政宗の仙道制覇への拠点となった城 (2022/09/10 訪問)

二本松・三春方面の4か所目は小浜城。宮森城から2km程北へ向かうと東安達地方の中心地、旧岩代町小浜に出る。両側に丘陵地が迫る細長い商店街が続き、近世以降は商業の街として栄えた小浜の有様を今に伝える。街の北端から城址に登るが比高70mの最高所に主曲輪(一ノ郭)があり、その周囲を大小の曲輪が囲む。また谷を挟んで南側から東側へも多数の曲輪を配し、その規模は東西1000m、南北1200mに及ぶと云う。現在公園化された主曲輪に切岸、虎口、堀切、会津蒲生氏の支城となった慶長期に構築された石垣の遺構を見ることができる。
この城は文明3年(1471)に大内氏によって築城されたと伝わり、天正13年(1544)に定綱が伊達政宗に攻められ、二本松、さらに会津に敗走するまで大内氏が城主であった。同年9月には政宗が入城し、翌天正14年7月に輝宗拉致事件を起こした二本松畠山氏滅亡まで攻撃の拠点とした。

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まーやん

惣堀とは何か? (2022/10/08 訪問)

光秀が丹波支配の核として築いた城。敷地内は初めて入った。だって今は宗教施設ですから( 〃▽〃)
天正6年の書状で国人衆である長沢氏に亀山の地に惣堀の普請を命じたとあるが、この惣堀が何かとの議論がある。
惣堀=惣(総)構と思いがちだが、惣構は小田原攻めで全国の武将の知るところとなったもので、光秀の時代にはなかったと考えられる。
では、光秀の書状にある惣堀とは何だったのか?
もちろん私に判るはずもないが、古図にある南側の不整形な用地や、西側から南側に広がる町割り部分ではないかと察する。
亀山城は本能寺へ向かう光秀一行が出立した城として知られる。その数1万3千人とか。
なので惣堀とは兵站基地としてのスペースのことだったかも知れない。本能寺の変に向かう軍勢にも恐らく使われたであろうスペースに思いを馳せながら歩いた。

話変わって、明治の廃城令で破却された城跡を大正期、光秀をリスペクトする出口王任三郎が買い取り亀山城の復興を目指し整備したが、全て自費で石垣を掘り起こし積み直したようだ。
出口氏は亀岡にある穴太(読み:あなお)の出身で、当地にある穴太寺は天台宗の寺で、西国三十三所札所の御詠歌にも出てくる関西では有名な名刹。
亀山城の石垣は穴太積みであり、滋賀の坂本で得た技術者集団に因果を感じないでもない。(勝手に妄想中)

そんなこんなで積み直した石垣も大本への二度の大弾圧により破壊され尽くす。戦後、大本に無罪判決が出るが賠償を得ずまたも自費で整備し直したらしい。感謝感謝。

江戸期、亀山城では日本で最初の層塔型天守閣が作られたと言われている。
城地が城下町より低地に作られるなどという大変奇妙で面白い城である。
大本教の施設内で10分間のビデオも見せてくれ、その後回ると現在までの流れが分かりよいかと。
見所は穴太積みの石垣に刻印があったり、天守閣跡(立入禁止)や南郷池(東側の堀跡)だったりか。
亀岡の町中には高札風の説明板が溢れており、町歩きも楽しめる。
JR亀岡駅は保津川下り乗船場の最寄り駅。色々楽しめる町だ。
(この日応援に行った京都サンガは引き分け(;ω;))

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ぎりょう

伊達輝宗拉致事件の舞台となった城 (2022/09/10 訪問)

今回の二本松・三春ツアーの三城目は宮森城。二本松市小浜(旧岩代町)にあり、ここから小浜城までは北に2km程の距離だ。城下を三春街道と本宮街道が通り古くから交通の要衝である。その歴史は古く応永3年(1396)に宇都宮氏が奥州管領に任ぜられこの地に築城し四本松城(しおのまつじょう)と称した。文明3年(1471)に大河内氏が城を修築し宮森城と改め、天正8年(1580)大内定綱がここに移り東安達地方を治めるが同13年9月(1585)伊達政宗に敗れ会津に敗走した。その後政宗の父輝宗がこの城に入るが同年10月8日、和議お礼に訪れた二本松城主畠山義継に輝宗が拉致され、阿武隈河畔で最期をとげる事件が起きるが、その場所がこの宮森城である。(現地案内板より)
城址は比高60m程の尾根上、現在神社が建つ平場が主曲輪、東西北は急斜面、南に一段下がった現在は畑となっている平場が曲輪2と思われる。さらにその下も広いなだらかな斜面となっているが曲輪として利用されていたかは判然としない。主曲輪の社の横と後ろには土塁状の高まりが見られ、社の脇には建物の礎石らしい大石が残されている。中世山城は昭和の頃まで農耕地として利用されている事が多いが、ここも主曲輪の東側や曲輪2から下の部分も大きく改変されているものと思われる。
伊達政宗の仙道制覇の発端ともなった輝宗拉致事件、その舞台となった宮森城だが少しさびしい状態と感じた。

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カズサン

八代城散策Ⅴ、小天守台と大天守台・穴蔵内部 (2004/07/15 訪問)

 先に投稿した「八代城Ⅳ、搦手口から埋御門・天守台下まで」の続きで、小天守台の南側から登り小天守台部、小天守台と大天守台を繋げてる渡り城塁、大天守台内部を観察周辺俯瞰しました、小天守台には望楼二階櫓、渡には左右に土塀で構え、大天守台は南に虎口が在る穴蔵形式に四層の層塔型天守が建っていたそうです、復元俯瞰図に描かれて居ました。
 総石垣造りで四重層塔型連結式天守閣はさぞや立派な造りで圧倒していた事でしょう、復元されたら是非観たいものです、立体模型でも素晴らしさが伝わって来ます。
 18年前の平成16年7月中旬暑い盛りでした。
 

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カズサン

八代城散策Ⅳ、搦手口から埋御門・天守台下まで (2004/07/15 訪問)

 先に投稿した「八代城散策Ⅲ、宝形櫓・月見櫓台から大天守台、南~西面城塁」の続きで、本丸北側の搦手口、搦手に架かる橋は廊下橋で屋根が覆ってた様子、北から見る天守台も素晴らしい、搦手口枡形は西向きに埋御門櫓門が構え南面に唐人櫓、東面に九間櫓、埋御門に相対して西に天守台が構える形でした、高石垣で厳重な護り、埋御門跡を通って唐人櫓台南下、唐人櫓の南内側の相坂石垣を登って櫓台上へ、埋御門跡、九間櫓台、大天守台を眺め搦手口の石垣構えを充分に堪能する。
 18年前の平成16年7月中旬暑い盛りでした。
 
 
 

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侍ホリタン

藤堂高虎公が改築した名城を訪ねて (2022/10/09 訪問)

駐車場は三重隅櫓前のお城東駐車場が安くて便利です。スタンプは城跡に隣接している高山神社玄関前、御城印は津駅にある観光案内所にて販売しています。内堀と石垣が美しい城です。特に高虎によって拡張された石垣は高く積み上げられて迫力があります。

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侍ホリタン

蒲生氏郷公が築いた名城を訪ねて (2022/10/09 訪問)

駐車場は市民病院近くの松阪市駐車場が無料で利用できます。駐車場から表門跡まで徒歩数分です。スタンプと御城印は城内にある歴史民俗資料館内にあります。城内に残る石垣は蒲生時代の野面積み、江戸時代の算木積み、打込みハギが確認でき、いずれも迫力があります。現在、本丸上段、金ノ間櫓跡石垣の修理工事中で通行出来ない箇所があります(平成5年3月15日まで)。

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ろっし

お城探訪 (2022/10/08 訪問)

春日神社横から登城しました。

頂上付近は城主の居館跡、三ノ丸、二の丸、本丸と見れます。

頂上からの見晴らしも良く、40分前後で登れるので晴れていれば最高の城跡です。

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ろっし

お城探訪 (2022/10/08 訪問)

しっかりと土塁に囲まれていてお城です。

中は住んでいる方がいるので見れませんが、外から見れるだけでも良かった。

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POYO58

長野旅行PART4(last) 高島城 諏訪湖の浮城 (2022/08/19 訪問)

小諸城を終えて一泊した後、昼から高島城に訪れました。高島城は諏訪頼忠が家康と江戸に移ったことを機に、豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉が諏訪に移り、高島城を築きました。高吉は安土城や大坂城の築城も担っていたため、城造りは得意だったそうです。7年かけて築いた後、1601年諏訪頼忠が戻ってきて諏訪高島城の城主になりました。明治時代の廃藩置県によって天守は壊され、公園となりましたが、今は櫓と天守が復元されています。

高島城は周りが水堀で囲まれていて、石垣がたっています。石垣の上には復元土塀が置いてあります。高島城はおそらく周り混むのが大変な城だったと思います。冠木門から中に入りますが、そこまで辿り着けない気がしました。櫓や天守は復元なのですが、石垣が一部残っていて、三の丸門も現存しています。おそらく当時は冠木門と三の丸門の二つの門、土戸門の三つしかなかったと思います。中に入るとひろい本丸があり、池がありました。当時もここは庭園だったのかな?天守に入ってみると中は資料館になっていました。御城印を買い、スタンプを押して最上階へ、天守からは本丸全体を観れる他、桑原城など武田信玄が攻め落とした諏訪氏の山城も見えます。さらにうっすらですが形ははっきりと富士山が見えました。

石垣は野面積みが多くてどこへ行っても横矢掛けになりご愁傷様です。復元度は多いものの当時の面影が想像できて面白かったです。

評価
遺構★★
建物★★★
行きやすさ★★★
全体★★★

攻城時間
40分くらい

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bono

八幡山のロープウェーを使って

徒歩30分程の登山道もあるようですが、ロープウェーで行きました。5分弱です。往復で買うと少し安くなります。周辺に駐車場もあります。現在は石垣等が残るだけですが、思ってたよりも切り立ったような形の山で、変わった形をしているように思いました。大きな石を運ぶのは大変だったでしょうね。
近くには日牟禮八幡宮、近江八幡の町並み、ヴォーリズ建築、水郷めぐりや、クラブハリエやたねやでお菓子を買ったり、カフェで一休みもできます。

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ぎりょう

土の城から総石垣の近世城郭へ (2022/09/10 訪問)

歴史好きの仲間たちとの福島方面の旅、二日目は田村郡三春町へ。天然記念物の「三春滝桜」で有名なこの町、春には桜目当ての観光客で大層混み合うらしい。攻城にあたり、先ずは三春城の基礎知識を得るために歴史民俗資料館へ。教育委員会作成の「三春城跡」のパンフレットをいただいた。これには田村氏(戦国・安土桃山時代の城主、伊達政宗の正室愛姫・陽徳院の実家)時代、松下氏時代、そして本丸周辺が総石垣でその上に白壁の城壁が巡る、おそらく秋田氏以降の図が掲載されている。
三春の城は永正元年(1504)に三春田村氏によって築かれ、会津藩の支城・与力大名の居城を経て、正保2年(1645)から秋田氏の居城として維新まで続いた。まさに中世の土の山城に始まり、会津蒲生氏による石垣構築、藩政時代初期の総石垣・瓦葺建物の構築と永く利用された城である。
今回は本丸西下の駐車場まで車で登ったため本丸の周辺だけとなった。次回は街中の追手門跡から二の門、三の門、本丸表門へのコースを歩いて登り、西側の二の丸跡、南東側の三の丸(東館)跡なども確認したいと思う。

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tsuchinari

ジオラマ展☆ (2022/10/08 訪問)

広島城二の丸兼馬出しの復元長屋内にてジオラマ展行ってきました♪♪

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ヒロケン

大松山 (2022/08/18 訪問)

備中松山城の大松山は臥牛山で最初にお城が築かれた場所で、臥牛山の最高峰480mに築かれた中世の城郭です。中世の城郭としては大規模なもので、鎌倉時代から戦国時代にかけて使用されたお城です。松山は、大松山、小松山、天神丸山、前山という4つの峰を持ち、曲輪が7段にわたって築かれており、堀切も見られます。相畑城戸跡は、昭和30年代まで人家があったと言われており、人家に伴う石垣なども見られますが、遺構としては石積みや井戸、土塁などが残っています。大松山で土塁が確認できるのは、この相畑城戸跡だけです。また、大池と呼ばれる周りを石垣で囲った池は、かつて「血の池」とも呼ばれており、敵方の首を洗ったとも血の付いた刀を洗ったとも、言い伝えが残っている池です。池が石垣で囲われた珍しい池で山城で貴重な水場であったと考えられています。

最初この地に城を築いたのは、秋葉重信で現在の高梁市一帯の地頭です。もと相模の国の武士で1221年の後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して兵を挙げた承久の乱の軍功で、この地の地頭になりました。
その後は、高橋氏、秋葉氏、上野氏などと続き、1521年頃から台頭してきた三村氏が、大松山を拠点に備中に覇を唱え、大松山から天神丸山、小松山などに曲輪群を広げ、山麓に居館にあたる御根小屋も置かれました。三村氏は備中兵乱を経て滅亡。その後の城主は前回備中松山城で挙げた通りです。

今回、大松山に訪問し、「朝田辰兵衛さん」の投稿にあった「蚊が執拗に体当たり攻撃」に自分もやられました((+_+))本当に木橋を過ぎた辺りから侵入を拒むかの様に、蚊なのか小蠅なのか分かりませんが体当たり攻撃を受け、たじろき一時水の手門跡まで撤退(>_<)、意を決して再度チャレンジ。再度執拗な攻撃を受けましたが、たじろく事無く突き進み、結局木橋付近侵入から一通りの見学を終え、木橋を出るまでストーカーの如く付きまとわれました。おかげで切通し及び番所跡の見学をすっかり忘れてしまい、次回は冬の時期に行こうと考えています。

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