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じゅんじん

改修後 (2023/09/17 訪問)

改修が終わり登城。まだ土塀は補修中でした。木のお城はいいですね。

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じゅんじん

掛川古城 (2023/09/17 訪問)

今川 徳川攻防の地です。西郷の局(どうする家康 於愛の方 広瀬アリス)の碑がありました。

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しんちゃん

門や土塁・池泉が再現され見ごたえがある。 (2019/12/30 訪問)

大内氏館は現在龍福寺の境内になっております。館は方形をしていますが斜めに45度傾いた
状態で、南西側に復元された西門が備わり石組溝が再現されています。館の周囲に土塁や堀が
再現されていて、東の隅部には池泉庭園が発掘・再現されています。案内板によると、
大内氏24代弘世が正平15年(1360)ごろに大内御堀より当地に館を移したとあります。
かつては京を凌ぐほどの富と文化を誇ったそうですが、天文20年(1551)31代大内義隆が
重臣陶晴賢の反乱によって滅び、その陶氏を討った毛利氏によって、大内氏の菩提を弔うため
かつて館のあった当地に龍福寺が建てられたとされています。

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しんちゃん

瑠璃光寺  山口市香山町 (2019/12/30 訪問)

瑠璃光寺は枕流亭のある香山公園を境内とし、全国でも九基しかない国宝の
五重塔があります。大内義弘が建立した香積寺が前身で、五重塔は義弘の弟の
大内26代盛見が築き始めましたが、盛見も永享3年(1431)に戦死し、五重塔は
嘉吉2年(1442)に完成したとあります。五重塔は日本三名塔にも数えられるほど
美しい形状をしており仏舎利の代わりに大内義弘の柩が収められているとの
言い伝えがあるそうです。

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しんちゃん

山口城ゆかりの史跡・枕流亭ほか (2019/12/30 訪問)

毛利敬親の山口移鎮に合わせて整備された山口城(屋形)の近くには、なかなか興味深い
史跡が多く存在します。枕流亭は旧家安部家の離れ屋敷で薩長同盟を結んだ西郷隆盛や
大久保利通、小松帯刀らが木戸孝允、品川弥二郎、伊藤博文らと密議をした場所と
されています。露山堂は毛利敬親が政事堂の一角に建てた茶室で、密議の場所としても
機能したとされます。廃藩後移築され朽ちるに任せていたのを、かつての敬親の重臣
品川弥二郎が買い取り、明治24年に当地に移したそうです。香山墓所は萩藩主毛利家の
墓所で、墓所の前の石畳みはうぐいす張りの石畳と呼ばれ、どういう仕組か墓所の前で
手をたたくと、すかさずカンカンと音が跳ね返ってきます。

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織田晃司

隈府城跡に建つ (2023/09/16 訪問)

菊池神社。参拝者駐車場から本殿に向かう参道には大きくて深い空堀があり、見ごたえあります。

隈府城最後の城主は菊池氏家老の隈部親永。
信長の野望で二階堂盛義と共にひょえ〜顔で有名な武将です。

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しんちゃん

毛利敬親の山口移鎮後の山口県の中心。 (2019/12/30 訪問)

山口城は幕末、毛利敬親らが維新(攘夷)を達成するための拠点として築き、背後に高嶺を
負い、水堀を要していました。藩内では山口屋形で通していましたが、藩外からは山口城と
呼ばれていたようです。この後、長州藩は下関戦争での敗戦と三条実美らの七卿落ちを経て、
元治元年7月、禁門の変を引き起こし、幕府による第一次長州征伐を受けることになります。
この一連の流れで、敬親父子は萩に退き山口城は一部破却を受けることになったとされます。
第二次長州征伐では長州側の拠点として機能し、明治維新後は山口藩庁と改称され、後に
県庁となり、その際に旧来の建造物はすべて解体され今では表門と堀の一部が残っています。

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織田晃司

前川水源に (2023/09/16 訪問)

車を停め、湧き水を汲んで飲み水確保して登城。
復元ながら備前堀は見事。

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イタさん

武士城(群馬県伊勢崎市境上武士) (2023/09/25 訪問)

 伊勢崎市境町関連のHPを見ると、岩松氏の陣僧・松蔭が残した文献[松蔭私語]の内容に多く拠るらしい。岩松明純(岩松家純の子)が拠った城である。文明9年(1477)長尾景春の乱の際、山内上杉勢の籠もる五十子陣は景春の軍勢に包囲され陣を撤退する。岩松明純は上杉勢として戦うが、金山城に退く時に一時武士城に入る。利根川を挟んだ南5㎞ほどに五十子陣はあり、乱の際に取り立てられた陣城であったものといわれる。北条氏時代は金山城主由良氏の家臣根岸三河守の居城だったが、豊臣秀吉の北条攻めにより、金山城は落城し武士城も廃城となる。保育所の西にある堀は堀跡で、元は北に延びており、水遊びや魚捕りをしたらしい。今も御嶽山の東に[舛形]という小字名が名残りである、と記されている。
 広瀬川と粕川の合流点にある高台。地元では御嶽山(オンタケサン)と呼ばれているらしい。福祉センター・特養ホームの間に、境御嶽山自然の森公園の駐車場が設けられている。公園内は2段程の段差があり、郭として機能していたのだろうか。遺構と分かる明確なものは見当たらない。南の斜面に虎口跡を思わせる地形があるが不明。保育所の西に堀跡・・云々とあったが、訪問時情報が無く確認していない。訪問時園内はほぼ全域に曼珠沙華が咲いており、見学者が多く散策していた。

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しんちゃん

松永氏の勢力に組み込まれた十市氏の城 (2021/04/04 訪問)

龍王山城は大和の五大豪族・十市氏の城で、後に十市氏が松永久秀に降った際には松永方の
戦力として組み込まれ、信貴山城で松永一族が滅んだ際に龍王山城も破却されたとされます。
異なる頂に南城と北城の二つの城が築かれ、南城の方が早く築かれたとされます。
南城、北城と呼ばれますが実際には北城からやや南東側300mあたりに南城が存在し、南城の
郭は最北の郭から南東側に直列に配されていて、最高部に本丸が築かれ北城より眺望に優れています。
周囲にも郭があるようで、西側の馬ヒヤシと呼ばれる場所には柳本龍王社が祀られ、小さな
ため池があります。城郭としての完成度は北城の方が高く、最高部を本丸とし山腹部や尾根上に
多くの郭が配されています。北側は尾根が多く枝分かれしており、南北の城を俯瞰で見ると
南城の南東端を人体の肘に例えるのなら北城は北西に開いた掌に近い形状をしています。
南城を北城の出城として機能させれば、より強固な山城となることは間違いなく、松永氏の
勢力下にて信貴山城に次ぐ重要な城であったとされるのは得心のいくところです。

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イタさん

主郭部の復元石垣が見事 (2023/09/25 訪問)

 太田市のHPには、文明元年(1469)に新田(岩松)家純の命により築城。その後、岩松氏の重臣であった横瀬氏(後の由良氏)が実質上の城主となる。金山城下は10数回もの攻撃を受けるが、一度も中枢にまで攻め込まれずその堅固さを誇る。天正18年(1590)豊臣秀吉の北条氏討伐により廃城となる。
 築城は四期に分けられると考えられ、第一期は実城・二 ノ丸・三ノ丸程度の規模と考えられる。第二期は山城と日常空間とが一体化し、本城として拡張されていく時期、明応4年(1495)に起こった明応の乱では『松陰私語』の記事に[真城](実城)と[中城]の存在が明記されている。[中城]は馬場曲輪、馬場下周辺と考えられている。この頃の縄張りは、南方に御台所曲輪、南曲輪とその帯曲輪、西方が馬場曲輪・馬場下を含め物見台下堀切まで広がったと考えられる。第三期は有力大名の攻撃を頻繁に受け、修築がしばしば行われ、永禄9年(1566)から天正12年(1584)の北条氏に城を明け渡すまでと考えられています。 第四期は北条氏支配時代と考えられ、西城域西端の見附出丸や八王子山ノ砦から尾根伝いに延びる二重土塁と堀切などに北条氏特有の縄張りが顕著に見られる、等々と載る。
 北城・八王子山ノ砦は行けなかったが、一般の散策コースの駐車場から実城までを見学する。

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人取橋古戦場 (2023/09/30 訪問)

 伊達政宗が蘆名、佐竹、相馬等の連合軍と戦った古戦場です。佐竹氏の撤退により命拾いをしたと思っていますが、政宗にとっては厳しい戦いでした。石碑と説明板が立っています。

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丹羽光重 (2023/09/29 訪問)

 石垣が見事な城址ですが、他にも興味深い場所があります。井戸や空堀なども残っていています。
二本松駅へ歩いて行くと途中に大手門跡があります。本格的な櫓門であったと伝わっています。かなり三の丸から離れていますが、両側が丘陵となっていて谷の地域も城域であったということでしょう。

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畠山満泰 (2023/09/29 訪問)

 久しぶりの二本松城です。以前に行ったのが東日本大震災の年でしたので約12年ぶりです。当時は立入禁止区域もあったと記憶しています。今回はのんびりと散策してきました。各所にある石垣は見ごたえがあります。
 帰って来てあらためて資料を見ると、まだまだ見てみたい場所がありました。機会があれば、1日かけてゆっくり二本松城付近を散策してもいいかなと思っています。

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小城小次郎

門がたくさん (2023/02/11 訪問)

大きな大手門がやたらと目立つので現存の薬医門(本丸橋詰門?)のほか、北柵御門、柵町坂下門、杉山門もまとめて紹介してみた。薬医門は佐竹時代に遡るのだそうだがなんでまた国指定重要文化財になってないのだろう?

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安子島祐高 (2023/09/30 訪問)

磐越西線の安子ヶ島駅の近くに石碑があります。遺構はないと思われます。

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人取橋合戦 (2023/09/30 訪問)

瀬戸川氏の館跡です。人取橋合戦の時には伊達成実の陣地となったと伝えられています。小さな公園に石碑と説明板があります。

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畠山高国 (2023/09/29 訪問)

 1340年室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・田地ヶ岡に最初に居を構え、白旗の峰(現在の二本松城)に移るまで居城としました。石碑と説明板は確認しましたが、塩沢小学校の北側の土塁と空堀を確認していません。小心者で平日に小学校周辺をうろつくのはいかがなものかと退散しました。

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大波氏の城 (2023/09/29 訪問)

 「南北朝時代吉野朝廷に仕え北畠顕家に従えた大忠臣代々に拠る所の城」と説明板にありました。主郭部が公園になっていて遊具が置かれています。石碑がありますが、遺構はよくわかりません。東西にそれぞれ道から見えるように大波城址の大きな看板があります。

 福島駅よりバスに乗り水戸内バス停下車。目の前に大波城の案内があり5分くらいで主郭に行くことができます。

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佐藤継信忠信兄弟生誕の地 (2023/09/29 訪問)

 舘ノ山公園として整備されています。源義経に仕えた佐藤継信、忠信兄弟の父、佐藤基治が築いたとされています。西尾根に矢庫の跡という曲輪があり、東尾根に一の砦、二の砦、三の砦がありますが、二の砦は標柱がわかりません。さらに下って行くと四の砦の標柱を見つけました。

福島交通飯坂線花水坂駅から徒歩20分くらいで登城口に着くことができます。

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