みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

洸(あきら)

静かな公園 (2024/03/03 訪問)

本丸周辺は何も無く、新曲輪と鍛治曲輪周辺が公園になっていて、ゆったりできました。
黒門や裏門もよい佇まい。

+ 続きを読む

「加藤理文先生と一緒にお城で学ぼう!」が開催されますよ~!

3月16日(月)と3月17日(日)、加藤先生と一緒に京都の山城でお城自由研究のフィールドワークができますよ~!
その名も、【お城自由研究「加藤理文先生と一緒にお城で学ぼう」】!!

小学3年生以上のお子さんが対象のこのイベント、単なるガイドツアーではありません!
加藤先生の解説を聞いて、先生特製シートを埋めながら進むので、お城のことはもちろん、自由研究のやり方や論の組み立て方まで分かる、お得なツアーなのです。

なのに、参加費はたったの500円。しかも、このお値段で、子ども一人につき保護者の大人一名も追加料金なしで参加可能!
過去には自分が行きたいからお子さんをうまくノセて参加した、または、親戚の子どもに懇願した、というお城好き”保護者”の方もいたとかいないとか。

3月16日(土)11:30~16:00が周山城、3月17日(日)9:00~11:50が中畑城、3月17日(日)13:00~16:20が八木城の3コース。

詳細およびお申込みはこちら⇒https://morinokyoto.jp/siro_week/
ぜひ、お見逃しなく!
最後にツッコまれる前に自ら言います。PRです!!

+ 続きを読む

カズサン

三の丸ビューポイント富士山は霞んで頭だけ (2024/03/01 訪問)

 「未踏だった見張台をやっと探訪」のつづきです。

 追手登城口から西の丸下経由見張台間を往復しましたのでその途中に在る三の丸跡を報告投稿致します。
 三の丸跡は高天神城東峰の南東に落ち込む尾根上に北より本丸・御前曲輪の南東下に在ります、三の丸の南下に着到櫓跡、追手門跡が在り中間に位置する曲輪に当たります。
 三の丸は北側と南側に土塁が残って居ます、現在の虎口は三の丸上段南側、往時は三の丸下段南側?かな。三の丸の東端北側が開けていて絶景です、富士山も望む事が出来ますが当日は裾が雲でまた霞、富士山は山頂のみが薄っすらと見えるだけ、スッキリはしませんでしたが見えるだけでもハッピーです。

 今回も縄張図は掛川城二の丸御殿入館しゲットした「高天神城家康読本」14頁の小冊子、掛川市観光交流課発行を昨年5月25日2度目登城と同じく携帯して3度目登城でも大変役に立ちました。この後登城する徳川方高天神城包囲戦6砦も縄張図付きで解説が有り大変役立ちました。

 続きます。
  

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

りゅう

宇都宮城の土塁 (2024/03/03 訪問)

宇都宮城の一部が復元

+ 続きを読む

イタさん

圧倒される本丸の土塁など (2024/02/28 訪問)

案内板に拠れば、中世に大胡氏が拠ったと言われる。徳川氏の関東入部で牧野氏が入り、二代で転封後、酒井氏の前橋藩領になり城代が置かれるが、江戸中期に酒井氏転封後は廃城になる。

トンネルを抜けると二の丸で、駐車場になっている。本丸の高い法面が見応えがある。南に水の手門、東寄りに枡形虎口があり、石垣が見られる。本丸は高い土塁が残る。本丸の北に北城(北曲輪・越中屋敷)があり、二の丸北東の堀を東に下がれば川に橋が架かるが、保育園の敷地で入れず。北端の近戸曲輪に大胡神社があり、社殿裏に大きな堀が確認出来る。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

主要部はよく整備されている (2024/02/28 訪問)

本丸内の案内板に、築城年代は不明だが鎌倉時代の文書に善氏の名が見え、室町から戦国時代にも善氏は散見される。北条・武田・上杉の戦記物に膳の名が見えるため、今の姿は戦国時代末期と考えられる。武田勝頼の東上州攻めは「膳城の素肌ぜめ」として著名で、この戦の後廃城になったと伝えられる・・・と記されている。

粕川町歴史民俗資料館の北に城址公園があり、駐車場もある。資料館の東に粕川出土文化財管理センターが建ち、南一帯が主要部になっている。各建屋・公園部は縄張図の北曲輪になる。主要部の袋曲輪・西虎口・二の丸・本丸等は整備され歩きやすい。主要部の南にも曲輪が載るが、民家などになっている。東も畑・宅地になるが、本丸東の曲輪の北端に土塁・堀が確認出来る。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ばばよ

登城ルートは工事中 (2024/03/01 訪問)

現在三の丸の石垣修復中につき、ネットでダウンロード可能な盛岡城パンフレットにある藩主登城ルートは通れません。
二の丸には回り道して行くことになります。
多目的広場にはその修復に使うと思われる石垣や裏込石と思われる石が積んでありました。
3月ですが、盛岡にはまだ雪が残っています。
この日は雨も降っており、足場が非常に悪かったです。

この日は「旅せよ平日!JR東日本たびキュン早割パス」を使用しました。
東京-盛岡間は通常往復¥30,000かかるところ、¥10,000ですみました。
えきねっとトクだ値と異なりはやぶさにも乗れます。
もう販売期間は終わってしまいましたが、来年も発売してくれるならまた利用したいところです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

元日の攻城⑨ (2024/01/01 訪問)

この城も2023年の元日、腰越城から杉山城に直行してスルーしてしまっていました。結構な時間がかかる山城だと思っていたので仕方ありません。八高線を渡って城址西側の仙元山登山口から攻城しました。「青山城址・仙元山分岐まで約35分」との表示がありますが、ちょっと大げさな気がします。分岐迄だったら私の足で10分少々でしたから。ただ、分岐から青山城本郭迄も結構歩きますけれどもね。それでも登山口から本郭の説明板まで20分はかかっていません。結構奥行きがあり、山城遺構も随所にみられるとても良い城でした。これが2024年の初山城となりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

Tokyobay

大塩平八郎の乱と終焉の地 (2024/01/15 訪問)

洗心洞跡が造幣局の敷地内にあるというのも歴史の皮肉ではある。見学するには正門で許可をもらう必要があるが、見学する人が殆どいないのか警備員たちも場所がよくわかっておらず、何度かやりとりがあってようやくわかる警備員が出てきて見学可能に。跡地は正門から東へ100m程度にある別の門をくぐった先の官舎内にある。
大塩平八郎は洗心洞近辺で最初に大砲を放ち乱をスタートさせ、大坂城乾櫓向かいにある東町奉行所目指して進軍するが、反撃にあい天満橋近辺の船着場から逃亡。その後、大塩親子は出入り商人の家に潜伏するが、女中の通報により包囲され自爆。現在の自爆地点は細い路地になっており誰も見向きもしないが、実際に現場に立ち入ると何とも言えない気分になる。尚、100m程離れた靱公園に立派な碑と案内板がある。
もはや受験勉強で学ばない限り、歴史から忘れ去られそうな乱なのかもしれないが、いつの時代でも乱の意義を問い直す作業は必要であるように思えてならない。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

女渕城 群馬県前橋市粕川町 (2024/02/28 訪問)

案内を大まかに読むと、築城時期など不明だが、戦国期には散見される。武田・上杉・北条に侵攻され城主は目まぐるしく変わるが、小田原攻めの際に落城している。

城址公園と二の丸に駐車場がある。前には幅広な水堀が目に入いる。本丸北東隅に説明板と城址標柱、女渕城・本丸跡の石碑が建つ。本丸を東に出ると、南北に細い曲輪になり、東は深い小川程度の川で区画している。北曲輪は民家で入口前に北曲輪の石碑が建つ。北に下る堀跡があり先で丁字に、堀底の数カ所に「ホタル生息中・保護区間」の立札があるが、現在水がなく、幼虫や餌のカワニナはいるのだろうか。堀底を西へ行き上に出ると西曲輪境の水堀で、北に魔住田ヶ淵があり水が落ち南に流れ、幅広な水堀になる。堀には橋が架かり西曲輪へ渡る。西曲輪も民家地はあるものの、周囲を堀が巡っている。二の丸の南に御霊神社の建つ三の丸がある。北に土塁が見られ、社殿裏(西)には堀が残っている。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

毒島城(ぶすじま) 群馬県伊勢崎市赤堀今井町 (2024/02/28 訪問)

案内板の概略は、周囲は沼・湿地に囲まれ、主郛は東西150mの楕円形をしており、周囲に腰曲輪を設け、虎口は西南面一カ所になる。毒島城には大蛇にまつわる伝説があり、攻め手は石臼で毒をつくり沼に投げ入れ、大蛇を追い出し落城させた、と。

沼などは水田になっている。南から農道を北に行くと、いかにも虎口風な場所になり、案内板も立っている。主格に入るまでに二段の腰曲輪が見られる。主郛・南側の腰曲輪は畑になっている。東・西・北の腰曲輪は篠竹等が多く確認しなかった。主郛の西寄りにも虎口風なものがあり、こちらが案内板に載る西南面の唯一の虎口跡なのか。南の入口は農道から畑に通うためのものだろうか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

山崎城 埼玉県比企郡滑川町 (2024/02/27 訪問)

山田城の北600m程に花木園(梅林)があり、その一帯が山崎城跡になる。こちらには案内板等は見当たらず。下調べをせず、先人達の記録を参考にさせて戴くと、主郭となる部分があるようだが、梅林ではなく森になり、ロープが張られた先は篠竹が密生し、梅林から先は躊躇してしまった。梅林内には土塁・堀が各所に残り、長いものが多い。トイレ前は虎口を思わせる。公園南口・山田城から続く古鎌倉街道が通り、舗装された散策路の脇にある。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

森林公園の片隅に存在 (2024/02/27 訪問)

郭内の説明板に、伝承だが築城年代は不明、忍の成田氏の被官、小高大和守親子及び贄(にえ)田摂津守等が入り、整えた思えわれる。小田原攻めの際に前田利家により落城したと伝わる、と載る。

広い国営森林公園の南口から見て、右斜め前方の小高い丘が城址になる。台地末端の狭い場所に横堀で囲み、土塁を巡らせただけのようだ。縄張図のように、郭内を土塁・堀で仕切った跡がある。郭内への入口は数ヶ所あるが、南東の丸太階段部は、本来の登城道なのか分からず。東に土橋風な箇所があり、堀外にも土塁らしき高さが見える。

方角が不明なため、画像などの方角は説明板の上が北として書いています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

T-Shionoya

にっぽん城まつり 2024 (2024/03/02 訪問)

昨年から横浜が遠くなり、昨日は名古屋で開催された「にっぽん城まつり」へ。
1枚目写真右上の「田村淳」の御城印(?)は、「鬼滅の刃」の書体とのこと。

初めての「にっぽん城まつり」。
さすがに横浜と比べると東海エリア以外の色が薄く、半分から1/3くらいの規模の印象でしたが、先生方の講演を無料で聴ける点が嬉しいところ。
個人的なメインは、加藤先生の「家康が改修した三河の城」。
訪れたい三河の城の情報整理が進みました。
三浦先生の講演は初。三ノ丸石垣に続いて坂本城御天主の図が新発見?
は三浦先生が「麒麟がくる」用に書いたものでした。

+ 続きを読む

トク

坂本城と明智光秀「最期の30日」プレイバック

坂本城の石垣の話、ずいぶん盛り上っているようですね! 私も見に行きたかったな~。私が2年前に訪れた時は、水中に没していたので、今回見られた方々がうらやましいです。是非いつかまた見に行きたいと思っていますので、完全保存される事を願っています。坂本城から対岸の安土城は見えましたか? またお時間があれば、ぜひ坂本城から北西3kmの所にある西教寺にも足を延ばされて下さい。そこには坂本城から移築された門と、光秀と妻煕子(ひろこ)の墓があります。

2年前に私は、光秀の安土城での接待事件から自刃するまでの、最期の30日間を追って投稿させていただきました。その時の事を今回思い出しました。以下はそのダイジェストです。皆さんもこれを機に、もし坂本城から後の光秀の足跡をたどられたなら、その様子をぜひお聞かせ願えればうれしいです。私も気づかなかった皆様の新たな発見も期待しております😊。


【写真①】安土城での饗応膳(信長の館)
信長はどの魚が臭かったのか?
  ↓
【写真②】坂本城から見た安土城
光秀は毎晩ここから眺め、謀反への葛藤が・・・
  ↓
【写真③】丹波亀山城
我が敵は本能寺にあり!
  ↓
【写真④】本能寺
燃え落ちる本能寺、信長の首を探せ!
  ↓
【写真⑤】勝龍寺城
天下分目の天王山!
秀吉が迫る光秀の決戦前夜の心境は?
  ↓
【写真⑥】山崎古戦場(光秀本陣)
まさかの敗北!細川軍はなぜ来なかったのか
  ↓
【写真⑦】小栗栖の竹藪
落ち武者狩りに竹槍で、無念万事休す。
  ↓
【写真⑧】醍醐の胴塚
光秀自刃の地(もはやこれまで)
  ↓
【写真⑨⑩】西教寺
光秀と煕子の墓
西教寺にある麒麟


私は昨年から、光秀の孫たちが九州で活躍した場所(城)などを訪れている所です。機会があれば、関ケ原の26人の後に、これらもお伝えできればと思っていますので、その時はまたよろしくお願いします。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

お城EXPO の戦利品 (2024/03/02 訪問)

恥ずかしながら、私もお城EXPO in 愛知に行ってまいりました。土曜日のコースに行ってきたのですが、間違ってウインクあいちの方に行ってしまい慌てて会場に向かった次第であります。
加藤先生の講演に少し遅れてしまいましたが(またか‥)、内容はほぼ把握できたと思います。久々に岩略寺城や日近城に行ってみたくなりました。家康公の改修した部分を良く確認してみたいですね。名古屋おもてなし武将隊の皆様、いつもにまして動きがキレッキレでございます。私も槍をクルクル回してみたい。でも自分の後頭部にぶつけるのがオチだと思いますが。
村井さんや三浦先生のお話も楽しく拝聴させていただきました。三浦先生、広島城天守再建応援しています。名古屋城‥(涙)
いい歳して無料でせしめた兜を合体させたりして遊んでいます。両手がふさがっているときは、これをかぶっているのですが気にしたら負けです(?)。あと、無料でいただいたものといえば田村淳さんのご城印ですね。会場内のクイズ5つに正解するといただけるんですが、おそらく非売品ですよね‥コレ? にっぽん城まつり2024来城記念って書いてあるし、やった!来た甲斐があった。
ちなみに会場の駐車場は当日上限なしで料金は2400円でした。会場の料金より高いじゃない!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ろっし

お城探訪 (2024/02/24 訪問)

当時の物かは分かりませんが、石垣が加工しやすい石で作られているのが特徴❗
お城は現在持珠院と言うお寺かな❓️に変わっています。

堀切や曲輪もあるみたいですが確認できませんでした。

+ 続きを読む

しんちゃん

ラブリー石の世界 (2024/02/25 訪問)

先日、蒲郡市の名古屋城の石(採石跡)にかかわる投稿をさせていただきました。天下普請で築かれた巨城ですので、各大名ごとに石切り場の分担がなされていたようで、蒲郡周辺は毛利氏の担当になっていたようです。いずれも幡豆石と呼ばれる花崗閃緑岩やトーナル岩を使っているようです。アルカリ長石の多い順に花崗岩、花崗閃緑岩、トーナル岩となるようですが、日本で産出される花崗岩は、ほぼ花崗閃緑岩だそうでみんなひっくるめて花崗岩と呼ばれることが多いようです。正直見た目じゃ区別はつきづらいですね。誰か見分け方を教えていただけると助かります。
3連休(ほぼ雨でした)で和泉砂岩が使われている城郭を見に行ってきたのですが、和歌山城は面白かったですね。大手門から入っていって本丸下に至る周辺に異なる3種類の石が使用されていました。地元ボランティアの方に教えていただいたんですが、実に良くご存じなんですね。古い石垣、本丸や天守周辺の石垣は緑色片岩(紀州青石)が使われていて、中御門周辺やそこに至るまでの石垣には和泉砂岩が使われているようです。和泉砂岩を使った石垣の到達点の一つともいえる石垣(私見です)で、砂岩の切込接の石垣を見ることができます。花崗斑岩(ボランティアさんいわく)の切込接とうまいぐあいに接合している箇所もありますが、良く見ると砂岩は表面が剥離しているのでわかります。色合いもうまく合わせてあり、石垣積の妙技を堪能することができました。
ちなみに私の好きな岩は和泉砂岩です。正確には石垣として積まれている和泉砂岩が好きなんですね。なぜメジャーな花崗岩でないかというと、砂岩って崩れやすいんですよ。あっちこっち表面が剥離していたりします。元が白亜紀の砂なんだから仕方が無いのですが、正直あまり石垣に向いていないんですね。岩としてはひ弱なのに岸和田城や和歌山城みたいな大きな城をがんばって支えている姿がいじらしく感じます。
ロンブーの淳さんじゃないけど、ついつい労わってあげたくなるんですね。「大丈夫?」とか「無理しなくていいんだよ」とか声をかけたくなるんですが崩れてしまっては困るわけです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しろりん

名城松本城 (2023/10/16 訪問)

松本市のシンボルにしてランドマーク。国宝五城の一つです。松本城は戦うための城だということがよくわかります。天守五階、六階の階段は狭くて急勾配で対面通行なので、上るにしても下りるにしてもどうしても渋滞ができます。平日の月曜日で待ち時間ゼロで入れましたが、観光客も多く(インバウンドもメチャ多い)、天守上階は渋滞でした。それぞれの階にはたくさん火縄銃関連の展示があり、火縄銃の種類や発展の歴史がじっくりと学べます。耐震性の問題から乾小天守と塗替え中の月見櫓は見学不可でした。かなり昔に訪れた時は今の黒門からではなく、埋橋を渡って入城できました。今は埋橋も通行禁止になっています。松本市内にはあちこちに湧水井戸がありますが、お城のお堀の水も湧水です。

+ 続きを読む

ヒロケン

久しぶりの関東 (2024/03/02 訪問)

箕輪城は榛名山東南麓の丘陵上を中心に北東と南西の平坦地を含んだ戦国時代の平山城です。東西約500m、南北約1,100mにも及ぶ西上野の中核的な城郭です。北西から東南方向にのびる尾根上に主要な御前曲輪・本丸・二の丸・三の丸・郭馬出・木俣を配置し、各曲輪を最大幅約40m・深さ10mの堀を巡らせています。この城、最大の見所「これ本当に、人が掘ったの?」と思わせるほどの堀が随所に巡らされています。

築城されたのは、1500年頃に長野氏が築城し、4代にわたって長野氏の本拠としています。長野業政公は武田信玄公西上野侵攻に際し、最後まで抵抗しましたが1566年に敗れ、箕輪城は武田氏の城となり、その後は、織田氏、北条氏、徳川氏と主が変っています。
特に最後の城主徳川氏の井伊直政公は石高12万石で封じられ、8年間在城後に高崎に城を移して、箕輪城は廃城となっています。

10年振り2回目の訪問で、午前2時に豊橋を出発し8時30分頃箕輪城着(途中、高速道路事故渋滞の為、30分位ロス)往復12時間で、久しぶりの関東訪問の滞在時間は5時間"(-""-)"、この5時間で、箕輪城、平井城、平井金山城を攻略し、日帰りで帰宅する計画でした。
投稿日の3月3日、桃の節句で56歳の誕生日を迎えた自分には少々きつい計画でしたが、久しぶりの箕輪城を堪能し十分リフレッシュできました。
100名城のスタンプは高崎市美郷支所受付窓口と高崎市美郷公民館に設置されており、箕輪城のパンフレットもいただけます。一つ残念だったことは、本丸と蔵屋敷を結ぶ木橋を通行することが出来ませんでした。箕輪城環境整備の一環で、令和6年3月中旬まで通行止だそうです。10年前の訪問の際は、この木橋も郭馬出西虎口門も無かったので、楽しみにしていたのですが残念です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ414