みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

三瀬氏の居城 (2022/08/20 訪問)

  北畠氏の家臣三瀬氏の居城と伝わっています。大谷川が宮川本流と合流する嘴状の突端にあり、南、西、北の三方は断崖となっています。土塁と井戸が残っています。
 松阪駅から三重交通バスに乗り下三瀬バス停下車(約70分)、徒歩5分くらいで行くことができます。バスの本数はかなり少ないので要注意です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

北畠具教終焉の地 (2022/08/20 訪問)

 北畠具教終焉の地として知られる三瀬館跡へ行ってきました。階段状の削平地があり、案内板には「館跡は鎌止山の麓斜面を改修してほぼ三段にしつらえられている、、」と記載がありますが、現状はもう少しあると思います。石垣がありましたが、当時のものか否かはわかりません。近くに北畠具教の胴塚があります。見張り台の茶臼山には堀切を見ることができます。館跡は整備され紅葉スポットだそうです。夏でも支障なく散策することができました。徒歩5分くらいの所に北畠具教を主神とする北畠神社があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

北条 氏規さんの3ヶ月。 (2022/08/14 訪問)

伊勢 宗瑞さん=北条 早雲さんの最初のお城「韮山城」です。
今川家の客将だった宗瑞さんが、堀越公方 (正式に継いでないので、なんちゃって公方様)足利 茶々丸さんを討ち、伊豆進出。自らの本城である「韮山城」を築城しました。
北条 氏綱さんの時代に拠点を「小田原城」に 移します。
秀吉さんの北条討伐の時は、3ヶ月も籠城した堅固な「韮山城」です。

まずは、皆さんの情報により『韮山代官屋敷・江川邸』の無料駐車場を利用して出陣しました。近くに高校があり、写真②のような案内板があります。
写真③から登り、切通が見えてきました。奥に神社があり、土塁が守ってます。
整備された道があり本丸まで、行けます。
本丸からは、秀吉軍が築いた陣城の位置が分かります。

北条家の最後の「韮山城」城主は、北条 氏規さんです。3ヶ月、籠城し徳川 家康さんの説得により開城しました。
氏規さんと家康さんは、今川家で同時期に人質でした。
、、、ドラマチック。
ところで、「韮山城」は3ヶ月の籠城に対して 「八王子城」は1日、「山中城」は半日で落城してます。
各お城の事情があるにせよ、正直「韮山城」が一番、こじんまりとしていて早く落とせそうです。
「八王子城」「山中城」の方が、たくさん歩いたしな、、、。歩数の多さで勝敗が決まる訳じゃないけど、、、。と、戦無知の幼稚な考え方です。

伊勢 宗瑞さんの念願と、北条 氏規さんの執念が「韮山城」を堅固にしたのかもしれません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

packy

真田山 (2022/08/20 訪問)

真田幸村の真田丸出城跡

+ 続きを読む

マダム卑弥呼 

鍋島藩 (2022/08/18 訪問)

この新しい再現された弘道館で鎌倉殿の13人に出てくる大江さんの墓が出てきた。

+ 続きを読む

マダム卑弥呼 

忠興の城 (2022/08/17 訪問)

ここも二回目でした。

+ 続きを読む

ヒロケン

世界文化遺産・国宝 姫路城特別公開 (2022/08/19 訪問)

普段は非公開の乾小天守・東小天守・イの渡櫓・ロの渡櫓・ハの渡櫓(いづれも現存で国宝)が2022年7月15日(金)~8月31日(水)まで特別公開されています。入場料1000円に加え、観覧料500円(小人200円)がかかります。
乾小天守
大天守の西北に位置し3重4階地下1階。「ロの渡櫓」と「ハの渡櫓」に接続しています。1重の西面に軒唐破風を設け3重の南面と西面に黒漆塗り・錺金具打ちの火打ち窓を2箇所づつ設けており、西面を中心に意匠を凝らしています。
東小天守
大天守の西南に位置し3重3階地下2階。「二の渡櫓」と「ハの渡櫓」に接続しています。地階東面に「水六門」を備えて出入り口としています。南面中央に軒唐破風を設け、3重に黒漆塗り・錺金具打ちの火打窓を2箇所設け意匠を凝らしています。
イ・ロ・ハの渡櫓
大天守と各小天守を接続する渡櫓で、なかでも「ロの渡櫓」は1・2階とも東西約28.8m、南北約5.9m面積約170㎡で現存する渡櫓で最大級の規模を誇っています。

コロナ感染症新規感染者が26万人を超え過去最多を更新する中、今を逃すと今度何時見れるか分からないため「姫路城 特別公開」を見に行ってきました。マスクを二重・携帯のアルコール持参で臨みました。「気温が高くなっています、水分補給で暑さ対策を行って頂くようお願いします」などと城内放送が入る中、熱中症にも気を付けての特別公開でした。
今回2泊3日で8城を訪問してきましたが、ここ姫路城だけはソーシャルディスタンスがとれそうもないことが予想されたので、最終日の最後にもってきました。一日明けた今でも体の不調はありませんが、少し心配ですが(>_<)、行ったことに後悔はなく、行けて良かったと思っています(*^▽^*)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

マダム卑弥呼 

宗茂さま~ (2022/08/17 訪問)

同じホテルの同じ部屋に泊まることができました(御花宿泊)1泊して二日目朝に柳川城。伏見以上の大きな堀(水路)の幅に驚きました。今回の大きな収穫は資料館の館長さんに柳川古文書館の職員さんを教えてもらったことでした。宗茂の浪人時代のエピソード聴けました。宗茂のお墓参りも済みました。

+ 続きを読む

マダム卑弥呼 

石垣の迷路 (2022/08/19 訪問)

今回は数年前とほぼ同じルートでの(ホテルまで一緒)2泊3日で最終日に福岡。
思った以上の迷路(門が多くて)驚きました

+ 続きを読む

橋吉

細道ですが、距離が短いので大丈夫 (2022/08/09 訪問)

国道101号線北に、脇本城碑と菅原神社の一の鳥居が並んでいます。両者の間の細い坂道を登ればすぐです。
クルマでは心配くらいの細道ですが、距離が短いので大丈夫でしょう。
菅原神社をさらに少し越えると駐車場があります。駐車場脇に脇本城跡案内所のプレハブ小屋があります。
跡案内所内にはパンフレットと立体模型が置かれています。続日本100名城スタンプも押すことができます。

城は三つの部分で構成されています。
内館,馬乗り場,兜ヶ崎です。雨が心配でしたので馬乗り場ははパスしまして。30分でした。

帰り際に案内所の職員と話をしたのですが、この近くに金山があったのでという噂があるそうです。
この城は、その採掘と防御のためにつくられたのではないか?
地元とにはこんな説もあるそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

坂東ゴルフクラブ (2022/07/30 訪問)

坂東ゴルフクラブの中が城跡です。
コース内に二重堀切があるそうですがプレーしないと見れません。
私もゴルフするのですがここは未訪問なのです。
県道沿いに少し空地となっているところがあったので駐車。
徒歩で近くまで行きました。
田んぼのあぜ道を進んでゴルフ場の外側にたどり着きます。
当然藪なのですがなんとなく土塁っぽい部分が見えるような。
心眼なのでしょうか。
いつかここでプレーすることがあれば堀切も見てみたいのですが、多分そんな余裕もなくあたふたしてそうです。

+ 続きを読む

おっちゃん

杵築市城下町散策マップ (2017/04/23 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

おっちゃん

国指定史跡 岡城跡案内図 (2017/04/23 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

イオ

とことん江戸城(日比谷) (2022/06/23 訪問)

(続き)

日比谷門は日比谷交差点の少し西に位置し、現在では晴海通りになっていますが、日比谷公園の北東隅に枡形の石垣が一部遺っています。日比谷公園の心字池は、日比谷門から山下門へ続く水堀を公園造成時に池としたもので、心字池沿いにのびる石垣が往時の姿を伝えています。石垣は心字池の南端近くまでとなっていますが、これは水堀自体がここで東に折れていることによるもののようです。日比谷門の北側では日比谷濠が満々と水をたたえて北と西に広がっています。

日比谷公園のあたりは日比谷入り江の埋め立て地のために住環境が悪く、毛利氏や上杉氏など外様の有力大名に(嫌がらせ的に)割り当てられましたが、伊達氏の上屋敷も公園北東部にあり、心字池の北側には参勤交代時にこの地で亡くなった伊達政宗の終焉の地の説明板が建てられています。公園内には堀の石垣と思しき矢穴のある石や上水の石枡があちこちに置かれており、南東隅には烏帽子石と呼ばれる市ヶ谷門に用いられていた巨石が移設されています。

また、日比谷公園の南にある日比谷セントラルビルは虎ノ門と幸橋門の間の外堀跡にあたり、ビルの南西隅に付近で発掘された外堀石垣が展示されています。ここでまた外堀に戻って、幸橋門に向かいます(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

木造復元四重天守閣甦る (2005/08/07 訪問)

 平成に入って木造での天守閣の復元、再建が賑わい、白河小峰城平成3年、掛川城平成6年、白石城平成7年と続き胸弾ませました、大洲城は木組み模型、幕末の古写真、天守台発掘調査データーと復元資料が多く有り、木造復元となり、在りし日の四層四階天守閣が完成しました、現存の台所櫓、高欄櫓に続多聞も再建し、二階櫓を構えた二重連結式天守の姿を平成16年9月1日一般公開として甦りました。
 早速是非観たいと17年前復元の翌年平成17年8月初旬、夏期休暇に故郷鳥取帰省を利用して四国に二泊三日足を延ばして、大洲城木造復元天守閣探訪を主に出掛けました。

 夏の太陽、上天からの照り、にわかの黒雲で撮影は余り良くありませんでしたが、本丸、高欄櫓、台所櫓、天守閣登閣、北の丸、内堀下の公園、現存内堀、北側堤防にぐるっと回って撮影、暑い中約2時間半、国内唯一の木造復元四重天守閣を充分胸熱で堪能しました。
 写真はサブのコンパクトデジカメで撮った数少ない写真の中から投稿します。

 最近のニュースでは天守閣に宿泊できるとの事、泊まってみたいものですが高価な宿泊料で実現は困難でしょう、夢見るのも良いかも?
 
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

おっちゃん

臼杵城跡(臼杵公園)案内図 (2017/04/22 訪問)

現地案内板より抜粋

+ 続きを読む

ぴーかる

橋津台場 (2022/08/11 訪問)

【橋津台場】
<駐車場他>長瀬公園駐車場無料20台程度
<見所>土塁

<感想>橋津台場は国史跡に指定されている6つの鳥取藩台場跡の1つです。現地説明板によると1863年から1864年にかけて鳥取藩が9箇所築造した台場の1つで、年貢米を納める藩倉があった重要湾港「橋津湊」を防衛するために藩命を受けた地元の大庄屋や農民によって造られたそうです。由良台場のように六角形をしていたようですが、現在は浸食され海に面して後方部分の土塁が残るのみですが、由良台場跡のように高い土塁が残っています。
 鳥取藩の藩倉「橋津藩倉」は3棟現存しており台場跡を見た後立ち寄ったのでこの次に投稿致します。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

藪の向こうに (2022/07/30 訪問)

道路沿いに説明板が立っていますが周囲は畑。
路駐し説明板周辺を歩いてみました。
説明板の後ろはかなりの藪。
なんとなく堀っぽいのですがさすがにここを突入する勇気はありませんでした。
冬ならば少しは遺構も見れるのでしょうか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:矢野城 (2022/07/26 訪問)

一宮城からの転戦です。徳島市立考古資料館駐車場(34.060189、134.470023)に駐車しました。
駐車場所から徒歩4~5分で矢野城入口(34.059310、134.468668)に着きます。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558~70年)に矢野駿河守国村が築いたとされます。
天正年間(1573年〜1592年)の城主は矢野駿河守国村で、1577年(天正5年)三好長治と細川真之が対立して長治が自刃すると、当時讃岐国虎丸城主であった矢野国村は長治を攻めた伊沢頼俊を討ちとり、十河家を継いでいた長治の弟十河存保を勝瑞城に迎えました。
1579年(天正7年)三好康長の嫡男で岩倉城となっていた三好徳太郎康俊は長宗我部元親に降伏しました。
このとき、徳太郎は三好方の武将に土佐へ攻め入る為に軍勢を率いて参陣するように命じ、これに従った矢野国村をはじめ、森飛騨守、三好越後守などが急遽軍勢を整えて岩倉城へ向かいました。
しかし、これは謀略で脇城などから打って出た土佐方の軍勢に襲われ矢野国村は討死しました。

矢野城は市立考古資料館の南側にある南東へ張り出した尾根の先端頂部に築かれており、現在頂上には城山神社があります。
主郭はちいさな段がある程度で、城山神社の境内に「史蹟 矢野城址」をはじめ「日本最初のクリスマス」、「室町幕府十四代将軍擁立」、「農兵活躍史」などの石碑が建っています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=芝原城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征7日目:一宮城 (2022/07/26 訪問)

夷山城からの転戦です。一宮神社入口(34.037867、134.4633)から進入して、その先の駐車場に駐車しました。
登城口(34.037577、134.4632)で続100名城スタンプを押印して攻城しました。

1338年(暦応元年・延元3年)小笠原宮内大輔長宗によって築かれたと云われています。
小笠原長宗(一宮長宗)は阿波国守護職小笠原長房の子長久の四男で、一宮国造の一宮宗成を滅ぼして一宮城を築き、一宮氏を称しました。
南北朝時代に一宮氏は南朝方として活躍しましたが、1362年(貞治元年・正平17年)一宮長宗は北朝方に下り隠棲しました。
その後、阿波国守護職となった細川氏の被官となり、細川氏に代わって三好氏が実権を握ると三好氏に従いました。
一宮成助は三好長慶の妹を妻に迎えて、三好義賢の重臣でした。三好義賢が没して三好長治が家督を継ぐと、1577年(天正5年)細川真之と三好長治が争うこととなりました。
成助は伊沢城主伊沢頼俊とともに細川真之に応じて挙兵し、三好長治を今切城に攻め長治を自刃させました。
讃岐国虎丸城に居た長治方の武将矢崎駿河守はこの知らせを受けて伊沢頼俊を討ちとりました。その後、成助は長宗我部元親と通じて勝瑞城を巡って十河存保と争います。
1582年(天正10年)中富川の戦いで長宗我部氏が十河氏を敗って阿波を平定すると、成助は三好康長に通じたとの理由で夷山城にて謀殺されました。
その後、元親は北城に谷忠澄、南城に江村親俊を置いて一宮城を守らせましたが、1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で豊臣秀長率いる四万余りの軍勢によって攻められ開城しました。
1585年(天正13年)阿波に入部した蜂須賀家政は当初一宮城を居城としましたが、徳島城を築いて居城としたため、益田宮内を城番として阿波九城と呼ばれる重要な支城の一つとしました。
1638年(寛永15年)一国一城令により廃城となりました。

一宮神社の駐車場から遊歩道を登って行きます。米倉跡手前に竪堀があります。
米倉跡の先の登城道を上がって行くと、登城道側面から石垣が積まれているのがよく見えます。
財蔵丸と明神丸との間の堀切は深く、左側は財蔵丸への虎口となっています。
明神丸の反対側にある本丸の虎口は、よく写真などで紹介されている立派な石垣です。
本丸には若宮神社が祀られています。
続100名城ですが、阿波9城のひとつです。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=矢野城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ414